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近代革命の社会力学(連載第343回)

2021-12-09 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(7)長期内戦から体制崩壊へ
 ソ連の軍事介入によって成立した新たなカルマル政権を主導した旗派は元来、穏健派であり、ロシア革命当時のメンシェヴィキに似て、そもそも社会主義革命を時期尚早とする立場であったから、軍事介入前の急進的な政策は緩和されることになった。とはいえ、この政権は名実ともにソ連の傀儡であり、政策決定はモスクワの関与の下に行われていた。
 ソ連及びカルマル政権の緊急的課題は、拡大中の地方の反乱を鎮圧して、早期に政権を安定化させ、ソ連軍を引き揚げることであったが、アメリカに拮抗する戦力を擁したソ連をもってしても、山岳ゲリラ戦に長けた武装民兵を相手に長期の苦戦を強いられることになる。
 それに加えて、ソ連軍の侵攻に激しく反発したアメリカが「敵の敵は味方」の論理に従い、本来イデオロギー的に相容れないイスラーム勢力側を支援したため、武装民兵勢力の軍事力が増強されたこと、「聖戦(ジハード)」のプロパガンダ宣伝により、中東からも多数のアラブ人義勇兵らが馳せ参じたことで、地方反乱は本格的な内戦へと進展していった。
 一方、ムジャーヒディーン(ジハード遂行者)と総称された反乱勢力は、アフガニスタンの多民族・多部族社会の現実を反映して、多数の派閥に分裂し、まとまりを欠いていたため、容易に決着がつかず、アフガニスタンは、1979年のソ連軍介入から89年のソ連軍撤退まで、10年に及ぶ長期の内戦に突入した。この間、従前ある程度整備されつつあった近代的社会基盤は破壊され、社会主義計画経済を展開する土台も喪失していく。
 カルマルの指導力に限界を見て取ったソ連は1986年、今度は政治介入してカルマルを引退させ、同じ旗派のモハマド・ナジブッラ―をPDPA書記長に据えた。医師出身のナジブッラーは人民派の独裁期には亡命に追い込まれたが、ソ連軍侵攻後に帰国し、カルマル政権下では秘密警察・国家諜報局(KHAD)長官として政治犯の取締りに当たっていた。
 KHADはソ連のKGBに匹敵する政治保安機関であり、ナジブッラー長官の下で同機関は肥大化し、大量人権侵害が断行されていた。ソ連がこのような恐怖政治を象徴する人物を抜擢したのは、撤退を視野に入れていたソ連側のゴルバチョフ新政権が、軍事介入過程及びその後の政権操作でも重要な役割を果たしていたKGBとも直結する保安畑の人間なら強力な指導性を発揮できると計算したからであった。
 こうした強面の経歴にもかかわらず、ナジブッラ―政権はソ連軍撤退に備え、内戦終結に向けた国民和解を最大課題とした。彼は1987年の憲法改正により、新設された大統領に就任するとともに、PDPAの一党支配制を放棄、90年の憲法再改正により、ソ連解体に先駆けて共産主義も放棄し、イスラームを国教として規定した。
 これは革命勢力による革命の自己放棄とも言える異例の展開であり、ここにアフガニスタン革命はそれを開始したPDPA自身によって幕を引かれたと言える。
 89年のソ連軍撤退に続く91年のソ連崩壊は、PDPA体制そのものの終焉の動因となった。すでに地方の要衝をムジャーヒディーンに押さえられ、首都カブールを中心とする都市国家のような状態にあった政権は92年、内部崩壊する形でナジブッラ―大統領の辞職をもって終焉、代わってムジャーヒディーンの連合政権が全土を制圧した。
 ちなみに、イスラーム連合政権による拘束を恐れたナジブッラ―は辞任後、カブールの国連施設に逃亡して庇護され、事実上の国内亡命の状態にあったが、1996年、連合政権に反対するイスラーム過激勢力・ターリバーンがカブールを落とした際に施設から連行・拘束され、残酷な拷問の末に殺害、市中に晒されるという悲惨な最期を迎えた。


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