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近代革命の社会力学(連載第213回)

2021-03-24 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(4)第一次インドシナ戦争から分断国家へ
 八月革命は円滑に成功したとはいえ、新生ベトナム民主共和国(以下、単に「民主共和国」)は順調に滑り出すことはできなかった。敗戦した日本軍が撤退した後、入れ替わりで、勝利した連合国軍が進駐してきたからである。連合国軍の一方的な決定により、北緯16度線を境に、北部に中国の国民党軍、南部に英軍が展開する分割占領となった。
 ことに北部では反共の国民党軍がベトミンの反乱を恐れ、大々的なべトミン狩りを展開したため、民主共和国の存立自体が危うくなった。ホーが共産党の解党を取り急いだ背景には、こうした新たな危機的情勢に対応し、連合政権を死守するという狙いもあった。
 一方、戦後のヴィシー政権崩壊後、反ナチスのレジスタンス指導者ド・ゴール率いるフランス臨時政府はインドシナ半島権益を奪回するべく、民主共和国と時間稼ぎ的な交渉を続けていたが、既成事実として、フランス人プランテーション入植者が多い南部にコーシチナ共和国なる傀儡国家を樹立した。
 このようなフランスの態度は交渉の障害となり、1945年9月にはフランスのフォンテーヌブローでの交渉が決裂、翌1月にはド・ゴールが政府主席を辞任するに至り、戦争は回避できない情勢となった。果たして、同年12月、フランス軍による攻撃をもって戦争が開始される。
 こうして延々と1954年の休戦まで継続されるのが通称第一次インドシナ戦争であるが、その実態は第一次ベトナム戦争であった。革命という観点からみれば、この戦争の本質は革命防衛戦争であり、同時に、植民地奪回を狙う旧宗主国フランスに対するレジスタンスでもあった。
 レジスタンスという限りでは、日本軍支配下にあった第二次大戦中はほぼ休眠状態だったベトミンによる遅れてきたレジスタンスの観もあった。実際、装備で劣勢なベトミンは主として農村地帯に拠点を置いてゲリラ戦を展開したのであるが、これは農村の政治的・軍事的組織化というメリットも伴っていた。
 もっとも、1950年、前年に内戦に勝利した中国共産党が建国した中華人民共和国及びソ連が民主共和国を承認し、軍事援助も開始したことで、べトミン軍の装備が更新され、戦闘能力が強化された。これは以後、べトミンが大攻勢に出ることを可能にした重要な転機である。
 また政治的な面での新たな動向として、51年、解党した共産党の後継としてベトナム労働党が結党され、改めて民主共和国の中核政党となった。労働党は実質上共産党の復刻版と言えるもので(他名称共産党)、共産党の名辞は回避しつつ、戦争が長期化する中で民主共和国の権力機構を強化する狙いもあった。
 軍事的にも政治的にも力を増強した民主共和国に対し、フランスは次第に追い詰められていき、戦争は最終段階を迎える。53年11月、フランス軍はベトナム北西部のラオス国境の町ディエンビエンフーを占領する作戦を開始、翌3月から本格的な戦闘となるが、ベトナム側の巧妙な塹壕戦に対抗できず、5月に敗北、これがインドシナ戦争の終結を決定づけた。
 54年7月にはジュネーブで休戦協定が締結されるが、その合意内容として、北緯17度線を境に、北部を民主共和国が、南部を49年に前出コーシチナ共和国を再編した親仏のベトナム国が統治するという妥協が成立したため、ドイツ、朝鮮半島に続き、戦後三つ目の分断国家が出現することとなった。
 こうして通称北ベトナムとして再出発した民主共和国では、形式上連合体制が維持されながらも、復活した他名称共産党としての労働党を中心とする社会主義体制が強化され、農業集団化などソ連を範とする社会主義の建設が推進されていく。
 ただ、終戦後の1954年から56年にかけ、毛沢東主義に傾斜したチュオン・チンが中国共産党の支援を受けて展開した地主からの土地の強制収用を主とする急進的な土地革命は大量処刑を伴う政治的抑圧となったうえに、享受者たる農民層の反発も受け、失敗に終わり、政府は謝罪と修正に追い込まれた。こうした修正主義的な柔軟さは、ベトナム社会主義の特徴となる。
 ホーは党と国家の主席を兼任し、引き続き最高指導者として率いたが、ベトナム再統一の方法をめぐり、武力統一を主張するレ・ズアンと対立、完全に失権はしないまでも党内の実権はレ・ズアンに移ることになり、ホーは外交を主とする精神的な指導者の立場に後退した。結果として、ホーは終身間最高権力にとどまりながら、独裁化することはなかった稀有の指導者となった。


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