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近代革命の社会力学(連載第121回)

2020-07-01 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(8)ボリシェヴィキ党のクーデター
 十月革命はレーニンとボリシェヴィキ党による単なるクーデターであったという革命敗者側の見方は前回斥けたが、レーニンとボリシェヴィキ党による「本物」のクーデターは、十月革命の翌年、確かに起きたのである。
 レーニンは、十月革命に成功した後、10月26日の第二回ソヴィエト大会で自身を首班とする新政府・人民委員会議を発足させた。人民委員(コミサール)とは政府の閣僚に相当するが、君主の秘書官から派生した「大臣」とは異なり、人民から付託を受けた執政官という意味が込められた新しい制度であった。
 この新政権は臨時とか暫定といった名辞を冠していなかったとはいえ、レーニンは翌27日に旧臨時政府が以前から公約していた制憲会議選挙を11月12日に実施する旨の政令を公布した。レーニンとしても、制憲会議選挙は二月革命以来の民衆の要求事項とみなされていたことを考慮したのであった。この時点でのレーニン政権は制憲会議成立までの暫定政権としての性格を持つにすぎないことを自ら認めていたことになる。
 果たして制憲会議選挙を実施してみると、結果は比例代表制で選出された707議席中、社会革命党(エス・エル)が370議席を占め、ボリシェヴィキ党はわずか四分の一程度の175議席にとどまったのである。この結果は農村部に厚い支持基盤を持つエス・エルの強さと、主として都市労働者層にしか支持されていなかったボリシェヴィキ党の実力差をはっきりと見せつけるものであった。
 レーニン政権は自ら公約し実施した選挙で明らかに敗北した以上、いったん総辞職することもあり得たところ、レーニンはエス・エルが選挙直後に分裂し、左派が新党「左翼社会革命党」を結成した事実を挙げて、ソヴィエトによる議員リコールを主張したうえ、制憲会議議員の過半数に当たる400人が首都に到着してから開会するという口実で、11月28日に予定されていた制憲会議の招集を延期した。
 これに抗議する動きが出ると、わずか17議席しか獲得できなかった旧臨時政府与党の立憲民主党(カデット)を「人民の敵の党」と断じ、同党議員を逮捕した。これがクーデターの最初の一歩となる。次いで、レーニンは選挙後の分裂を問題視したばかりのエス・エル左派と12月8日に連立協定を結んで政権抱き込みを図った。
 そのうえで、彼は「制憲会議に関するテーゼ」を発表し、制憲会議選挙の有効性について、先のエス・エル分裂問題を繰り返すとともに、選挙が十月革命の規模と意義を人民大衆が理解できない時に実施されたこと―しかし、そういう日程で選挙を実施したのはレーニン政権自身であった―を問題視する。
 そして、制憲会議(議会)はブルジョワ共和国にあっては民主主義の最高形態であるが、「ソヴィエト共和国」は、通常のブルジョワ共和国よりも高度な民主主義制度の形態であり、また社会主義への最も苦痛の少ない移行を保障できる唯一の形態であるとの一般論を持ち出し、ソヴィエトのほうが制憲会議に優先すると結論づけるのである。
 レーニンは、この「テーゼ」をまず制憲会議のボリシェヴィキ党議員団に全会一致で採択させた。その後、取り急ぎ「ロシアを労働者‐兵士‐農民代表ソヴィエト共和国と宣言する。中央及び地方のすべての権力はソヴィエトに属する。」という条項で始まる「勤労被搾取人民の権利宣言」を起草し、これをボリシェヴィキで固められたソヴィエト中央執行委員会に全会一致で採択させた。
 この文書は「権利宣言」と銘打たれながら、内容的には政体のあり方にも及ぶ憲法草案と言ってよいものであって、これを制憲会議の招集前に持ち出したのは、制憲会議を無視するクーデター宣言に等しいものであった。
 しかし、用意周到なレーニンはこれで終わらせず、明けて1918年1月5日、公約どおりに制憲会議を招集してみせ、前記「権利宣言」の採択を制憲会議に迫った。この強引なやり方にエス・エルをはじめとする多数派が審議拒否で応じたことは、レーニンに恰好の口実を与えることになった。
 レーニンはボリシェヴィキ党議員団を制憲会議から引き上げさせたうえ、同日深夜にはソヴィエト中央執行委員会に「制憲会議の解散に関する布告」を採択させた。そして翌6日には武装部隊を差し向けて制憲会議を強制解散したのである。
 1月12日、第三回全ロシア・ソヴィエト大会は改めて先の「権利宣言」を圧倒的な賛成多数で採択するとともに、レーニン政権の政策をすべて承認し、従来の布告の中から制憲会議に関わる文言をすべて削除することまで決議した。制憲会議は遡って存在そのものをすら否認されたのである。
 こうして、選挙に基づいて招集された制憲会議を超法規的な手段で転覆したレーニンとボリシェヴィキ党の「本物」のクーデターは、成功裡に完了したのである。またしても、ボリシェヴィキの戦略勝ちであった。


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