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近代科学の政治経済史(連載第34回)

2022-12-14 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

科学者の受難と海外流出
 ナチス科学は学術という以上にそれ自体が政治そのものであったから、ナチスのイデオロギーや政策に反する科学者は排斥されることになった。そのため、ナチス・ドイツ支配下では、多くの科学者がパージされ、あるいは自主的な海外亡命に追い込まれている。
 結果として、ドイツ科学界は相当規模での頭脳流出をも経験することにもなったわけだが、このことは、ナチス科学の政治的な偏向性と相まって、その質にも影響したであろうことは間違いない。
 こうした科学界パージは、ナチス政権によるユダヤ人の公職追放政策の一環として、前回登場したルスト科学・教育・国民教化大臣が主導した。科学界パージの対象となったカテゴリーは、その他の公職追放の場合に準じて、第一にユダヤ人科学者、次いで、反ナチスのドイツ人科学者であった。
 パージか自主亡命かを問わず、ナチス政権下でドイツを離れた科学者の中には、12人のノーベル賞受賞者が含まれていたが、中でも最も著名な科学者はアルベルト・アインシュタインである。
 彼はドイツ生まれのユダヤ人であるが、ナチス政権成立時はドイツに在住しつつもスイス国籍であったので、ドイツとの関わりはプロイセン科学アカデミー会員としての間接的なものであった。
 アインシュタインはナチス政権成立当時は海外滞在中であったが、迫害を恐れてドイツの自宅には帰還せず、第三国経由でアメリカに亡命・帰化し、プロイセン科学アカデミー会員も辞任した。その後、ナチスからは反逆者と認定され、強制家宅捜索を受ける嫌がらせもされている。
 一方、アインシュタインの友人で、第一次大戦中は毒ガス開発に尽力したフリッツ・ハーバーもユダヤ系ドイツ人で、1918年度ノーベル化学賞受賞者であるが、第一次大戦の功績から直接のパージは免れたものの、所長を務めていたカイザーヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所のユダヤ人研究者の削減要求を拒否して、自主亡命を余儀なくされた。
 ハーバーは、第一次大戦時にイギリスでコルダイト火薬原料の生成法を確立したハイム・ヴァイツマンが当時の英領パレスチナに設立した研究所の所長に招聘され、パレスチナに渡航する途上で急死した。
 また、1925年度ノーベル物理学賞受賞者であるジェームス・フランクはユダヤ人の公職追放に抗議し、当時務めていたゲッティンゲン大学教授職からの解雇を自ら要求し、事実上辞職、アメリカへ亡命した。
 原子のエネルギ―が連続的でなく離散的であることを示した「フランク‐ヘルツの実験」でノーベル賞をフランクと共同受賞したグスタフ・ヘルツは当時務めていたシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)教授職を解雇された後、フランクとは対照的に、ジーメンス研究員を経て、ソヴィエト軍の進駐後、ソヴィエトに「招聘」(半連行)された。
 こうしたパージとは別に、抗菌剤の開発で1939年度ノーベル医学・生理学賞を受賞したドイツ人の病理学者・細菌学者ゲルハルト・ドーマクは、当時ナチス政権が反ナチスのジャーナリスト・平和活動家カール・フォン・オシエツキーに1936年度ノーベル平和賞が授与されたことへの対抗措置としてドイツ人のノーベル賞受賞を禁じていたため、ドーマクも受賞辞退に追い込まれた(戦後に受賞)。
 ちなみに、アインシュタインやフランクといった亡命物理学者はアメリカに渡って原子爆弾の開発に従事し、アメリカがドイツに先立って核開発に成功するきっかけを作っており、ドイツからの頭脳流出は戦後の核兵器科学の素地にもつながっている。


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