ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第26回)

2016-05-30 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

①英国王妃たちの内戦〈1〉
 封建制とは、一面では戦士が主導する恒常的または断続的な内戦状態の社会であった。戦士は専ら男性の社会的役割であるから、必然的に戦士社会は男性主導社会である。そういう中にあっても、一部の女性たちは、自ら戦士となることは稀だったとはいえ、内戦に主体的に関与することがあった。
 そのような事例は、中世イングランドでしばしば見られる。ここでは多くの場合、夫である国王が弱体な状況下で、王妃が内戦当事者として前面に出てきていた。その最初の例は、ノルマン朝三代目ヘンリー1世没後の後継問題をめぐって出現する。
 ヘンリー1世にはウィリアム王太子がいたが、彼が船舶事故で急死したため、もう一人の嫡子で、元神聖ローマ皇后である娘マティルダ(以下、愛称でモードという)を後継指名したのであった。彼女がそのまますんなり即位していれば、英国史上初の女王となったはずであるが、そうはならなかった。ヘンリーの甥で、モードの従兄に当たるブロワ伯エティエンヌ(スティーブン)が介入して自ら即位したからである。
 スティーブンは従前、モードの即位に同意していたにもかかわらず、事後に翻意した王位簒奪者であった。モード側はこれを不当として、スティーブン政権に武力抵抗したことで、20年近く続く長期の内戦に突入した。
 スティーブン体制は諸侯や教会の支持に基盤があったため、不安定であった。その隙を突いてマティルダ側は1139年にイングランド上陸を果たし、41年にはいったんスティーブンを捕虜とすることに成功したが、ロンドン市民からは支持されず、ロンドン入城は果たせなかった。これを見て立ち上がったのが、マティルダ王妃である。
 英語名では敵首領のモードと同名の彼女は42年、自ら軍を率いて反攻に出た。王妃は事実上の軍司令官として、モード側のロンドン包囲陣を撃破して、モード軍の司令官だったグロスター伯ロバート(ヘンリー1世の婚外子)を捕虜にし、スティーブンと交換の形で夫を救出してみせた。こうしてスティーブンの復位には成功したものの、モード側の抵抗は続き、内戦そのものはマティルダ王妃没後の1154年まで延々と続くこととなった。
 しかし51年にモードが再婚相手で内戦中の後ろ盾でもあったアンジュー伯ジョフロワを失い、スティーブンも53年に長男ユースタスを失ったことで転機が訪れた。スティーブンとモード側の間で協定が成立し、モードとアンジュー伯の間の息子アンリを後継王に内定することで、内戦は終結したのである。
 こうして1154年、アンリがヘンリー2世として即位し、フランス系のプランタジネット朝が新たに開かれた。血統上はモードの子孫が以後の歴代英国王となっていったという限りでは、元神聖ローマ皇后マティルダvsイングランド王妃マティルダの対決は、前者の勝利に帰したと言えるかもしれない。

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オバマさんの卒業旅行

2016-05-29 | 時評

二期目の残り任期一年を切ったオバマ大統領が、3月のキューバに続き、ヒロシマという米国にとっては歴史的な鬼門とも言うべき場所を立て続けに公式訪問した。

特にヒロシマ訪問は「画期的」と称賛する声もある。たしかに(周到に計算された)決断ではあったろう。しかし、レイムダック化した政権末期の訪問は、卒業旅行に等しいものである。

一期目や二期目でも初年度ならともかく、この時期の訪問を機に大きな政策転換につなげることはもはや無理で、しかも、同じ党でも後継指名のような政治習慣がなく、一から選び直しとなる米国では、次期政権への宿題として引き渡すこともできない。

とはいえ、ほとんど無名から大統領にのし上がっただけあり、オバマは政治的な直感には優れている。どうすれば世の注目をひきつけられるか、心得ているようだ。88年ぶりの米大統領によるキューバ訪問や米大統領として初のヒロシマ訪問は、ビッグニュースとして確実にメディア的注目を引くからだ。

特に日本人は儀礼好きで、丁重な儀礼的行動を称賛する傾向があるという国民性をよく知っていて、周到にヒロシマ訪問の段取りを設定した形跡がある。これはオバマ個人を越えて、政治心理学的知見を外交にも応用する米政府の巧みさかもしれない。

だが、儀礼は儀礼であって、象徴的な意義が強く、内容に乏しい。今般のヒロシマ訪問も原爆投下への謝罪ではなく、自然災害のときと変わらない追悼に近いものであった。「核なき世界」の理想も、二期にわたった任期中に具体化されることはなく、オバマ政権は、冷戦終結後では最も核軍縮に消極的な米政権という汚名を残すことは確定的である。

*実際、27日の広島演説の冒頭、自動詞で語られた「71年前の雲一つない明るい朝、空から死が舞い降り、世界は変わった。」は、まるで自然災害のような口ぶりに聞こえる。むしろ、他動詞で「(アメリカが)空から死を舞い降らせ、世界を変えた」と語られるべきだったろう。

かくして、核ボタン持参でのヒロシマ・スピーチは、全般に「実行大統領」より「演説大統領」としての性格が強かったオバマの、最後の名演説として記録されることになろう。

 

[追記]
オバマ政権は、対テロ戦争を開始したブッシュ前政権と比べても、比較にならないほどのドローン爆弾攻撃を各地の紛争地域で行い、在任中、総計524回の攻撃で3797人を殺害(うち民間人犠牲者324人)したとされる(外部サイト)。自身、「どうやら私は人を殺すのが得意なようだ。それが私の得意分野になるとは知らなかった」と補佐官に述懐していたともいう。私人であればおよそ4000人を殺害した大量殺人犯に相当するこのような殺人愛好者がノーベル平和賞を受賞したのは、ブラックジョークというほかない。

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孤島封鎖サミット

2016-05-26 | 時評

小島を完全封鎖し、警察が総力を上げた最高度の警備を享受する世界首脳らが優雅に遊覧しながらおしゃべり―。伊勢志摩サミットは、今日の主要国サミットなるものの性格をよく物語っている。こうした厳重警備下の隔離会議方式は、過去10年ほどのサミット恒例となっている。

近年のサミットは復興したロシアを加えていたが、ロシアがクリミア併合事件を機に資格停止となって以降、元の7か国体制に戻った。この7か国は世界でも模範的な「民主国」を自負し、それを根拠にサミットのような国連の頭越しの非公式な世界会議を正当化してきた。

しかし、2000年代以降は、テロやデモを警戒し、厳重な警備のもと、隔離的な環境の中で開催するようになっていった。結果として、サミットは民衆から遊離した雲の上の会議と化し、そこでは「民主」の要素は蒸発している。

今般サミットの重要議題には、難民問題や租税回避問題などのホットな国際問題も含まれるべきだが、難民どころか、引退後は租税回避移住者となるかもしれない首脳たちにとっては、所詮他人事である。多くを期待し得ない。

ところで、今般の孤島封鎖措置では、一島を完全に封鎖するという憲法違反の疑いすらある戒厳令さながらの警備手法もさりながら、日本政府が開催地賢島住民に限ったIDカードの発行に踏み切ったことも注目される。

このような通行証型の個人識別カードは戦後日本では知られる限り、初の試みである。政府当局にとっては、全国民を対象としたIDカード管理制度の導入に関するまたとない予行演習の機会でもある。治安警備に名を借りた管理主義の潮流は日本にも確実に流入してきている。

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戦後ファシズム史(連載第38回)

2016-05-25 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐1:シンガポールの場合
 管理ファシズムの最も洗練された範例を提供しているのは、東南アジアの都市国家シンガポールである。シンガポールは1965年にマレーシアから華人系国家として独立して以来、一貫して人民行動党の支配体制が続いている。
 人民行動党は、独立前、華人系左派政党として弁護士出身のリー・クアン・ユーらによって結党された。リーは日本のシンガポール占領時代には日本の協力者だったこともあるが、戦後は英領復帰後のシンガポールで労組系弁護士として台頭し、政界に転身して30代で自治政府首相となった。
 リーはやがて左派を排除し、人民行動党を反共右派政党に作り変えたうえで、自身の政治マシンとして利用していく。ただし、完全な一党支配ではなく、野党の存在は認めるが、野党活動を統制し、与党有利の選挙制度によって選挙結果を合法的にコントロールしつつ、与党が常時圧倒的多数を占める体制を維持するという巧妙な政治体制を構築した。この点で、シンガポールは「議会制ファシズム」とも呼ぶべき形態の先駆けでもあった。
 リーは自治政府時代の59年から建国をはさみ、90年まで現職の首相であり続けたが、この間のシンガポールは経済開発に重点を置いた開発ファシズムの一形態であった。その点では、同時期に経済成長を遂げ、共に「新興工業経済地域」と称されるようになった台湾や韓国とも共通根を持っていた。
 ただ、シンガポールは政治と労使の協調に基づく官製労働関係、二人っ子政策や優生思想に基づく高学歴女性の出産奨励策などに象徴される人口調節策など、都市国家ならではのきめ細かな管理政策に特徴があり、これが高度な社会統制の秘訣となってきた。
 こうしたソフトな施策ばかりでなく、広範な予防拘束の余地を認める内国治安法や団体の結成を規制する結社法などの強権的治安・言論統制法規、体刑や死刑のような厳罰の多用、些細な迷惑行為も罰則で取り締まる秩序法規などのハードな施策による巧みな社会統制装置が備わっている。
 その意味で、シンガポールには当初から「管理ファシズム」の要素が備わっていたと言えるが、経済開発が一段落し、リーが上級相に退いて一種の院政に入って以降は、開発ファシズムから管理ファシズムに転形したと言える。
 現在のシンガポールは、2004年までのリー院政下でのゴー・チョク・トン首相の中継ぎを経て、リー子息のリー・シェン・ロン首相の世襲体制に入っているが、シェン・ロンは父の施策の踏襲を基本とし、目立った民主化の動きは見せていない。
 2015年に91歳で死去したクアン・ユーは「家父長的」とも評されるカリスマ的権威をもって指導したが、弁護士出身のプラグマティックな一面も持ち合わせており、まさに管理ファシズムの権化的存在であった。
 ファシズム体制はカリスマ的指導者の権威に支えられる面が大きいため、世襲には必ずしも適していないが、プラグマティックな管理ファシズムではそれが可能な場合も考えられる。アフリカのトーゴのケースと並び、今後の展開が注目される。

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戦後ファシズム史(連載第37回)

2016-05-24 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2:管理ファシズム
 前回述べたように、現代型ファシズムはイデオロギー色を薄め、全体主義的な社会管理を志向するプラグマティックな権威ファシズムの性格を持つが、このような型のファシズムをここでは「管理ファシズム」と呼ぶことにする。
 元来、ファシズムは国民統合を高度に実現するための強権的な社会管理体制であるので、すべてのファシズムの本質に管理主義がある。従って、ファシズムの反共イデオロギー色を薄めていくと、後には管理主義が蒸留されて残ることになる。
 他方で、マルクス‐レーニン主義その他の社会主義イデオロギーを脱して、旧一党支配体制を再編するに当たって、変節的に管理ファシズムに到達することがある。このように、管理ファシズムには、ファシズムのイデオロギー的脱色化と脱社会主義イデオロギーの双方からのコンヴァージェンスとしての意義がある。
 このような管理ファシズムは、成立したばかりの新興国家、もしくは大規模な体制変動を経験した直後の再編国家を安定化させるうえで有効な面もあるため、冷戦終結以降の新興国家や再編国家においてかなり広がりを見せている。とりわけ、ロシアを含む旧ソ連構成諸国から独立した新興諸国において管理ファシズムが集中していることには一定の理由があり、これらは旧ソ連の体制教義マルクス‐レーニン主義からの変節化形態の事例でもある。
 管理ファシズムは、政治制度上は必ずしも議会主義を否定せず、むしろ「独裁」批判を回避する狙いからも議会制の形態をまとうことが少なくないが、議会では政権与党が圧倒的な多数を占め、野党は断片化・無力化されているのが通例である。
 また管理ファシズムにおける社会管理は何らかの差別的社会統制を通じて行なわれるが、大虐殺のような非人道的手法は慎重に回避されることが多く、その実態は外部からは見えにくい。ちなみに、近年は管理ファシズムの共通政策として反同性愛政策を執行することが多い。
 またカリスマ的指導者の存在は管理ファシズムに関する一つのメルクマールであるが、それも真正ファシズムに見られるような超越的指導者ではなく、一定以上の実務的な手腕を持つテクノクラート出身者が多い。これは戦後ファシズムではよく見られる現象であり、管理ファシズムにおいてその傾向は一段と増す。
 現時点における管理ファシズムの分布域は、アジア、アフリカが圧倒的な中心であるが、欧米や日本においても、反移民国粋ファシスト勢力が政権を獲得すれば、これらの「先進」地域にも拡散する可能性は十分にあると考えられる。

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戦後ファシズム史(連載第36回)

2016-05-23 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

1:現代型ファシズム
 
第四部で取り上げるのは、現代型ファシズムである。このような用語自体、「ファシズムは過去のものである」とする国際常識的な命題に反しているため、論議を呼ぶ可能性がある。しかし、序説でも述べたとおり、ファシズムは決して過去のものではなく、現在進行形であり、また近未来形の事象でもある。
 となると、「戦後ファシズム史」という表題での歴史的な叙述の中に現代型ファシズムを混ぜ込むことはいささか矛盾しているようにも感じられようが、現代型ファシズムが成立したのも、あるいは近未来のファシズムの芽が生じたのも、現時点から見れば過去の時点のことであるので、現代史・同時代史的な意味で、これらの事象も歴史的な叙述に含めるものである。
 ところで、現代型ファシズムは従来型のファシズム以上に、ファシズムとは認識し難いことが多い。従来のファシズムは例外なく、反共主義をイデオロギー的な核心としており、ファシズムとは最も強度な反共主義の表現と言ってもよかった。しかし、現代型ファシズムにこのような定式は当てはまらず、イデオロギー的な曖昧化が進んでいる。
 イデオロギー的曖昧化は冷戦終結後のあらゆる政党・政治党派に共通する現象であるが、現代型ファシズムにあっては、従来のファシズム体制が共通して反共主義をイデオロギー的核心としていたのとは対照的に、反共主義は解除され、むしろマルクス主義やその他社会主義からの変節化形態が極めて多いことが特徴である。
 こうしたことから、現代型ファシズムは、すべてが綱領上明確にファシズムをイデオロギーとしない政党ないし政治集団を通じた不真正ファシズムの形態を採っており、しかも「独裁」批判を回避する目的から、表面上は議会制形態を維持することがますます多くなっている(議会制ファシズム)。
 総じて、現代型ファシズムはイデオロギー要素が希釈され、全体主義的な社会管理を志向するプラグマティックな権威ファシズムの性格を持つと考えられる。そのため、外観上も、ファシズムの域に達しない反動的権威主義との鑑別が困難になっており、実際、当該体制の為政者自身もファシズムを自覚していない場合や、個別的な政策綱領で本性を隠蔽する偽装ファシズムの形態を採る場合もあり得る。
 従って、ある体制がファシズムに分類できるか否かは、全体主義的社会管理の有無、差別的社会統制の強度やカリスマ的支配の有無・程度を基準にして識別する必要がある。さらに、現時点ではファシズムの域に達していないが、ファシズムへの移行可能性を潜在的に持つという限りで、「ファッショ化要警戒事象」というような概念を導入する必要性もあろう。
 他方、近未来につながる現代型ファシズムの別種として、イスラーム原理主義を核とするイスラーム・ファシズムが見られる。後に詳しく見るが、これは単なるイスラーム原理主義を超え、より過激かつ全体主義的な体制として構築されたイスラーム支配形態である。
 このイスラーム・ファシズムとそれがしばしば手段とする国際テロルに対抗する形で、欧州を中心にイスラーム教徒移民の排斥と社会浄化を呼号する反移民国粋ファシズムの潮流が起きている。また、同様の志向を伴った日本における国粋ファシズムの潮流も見られる。ただし、これらはまだ体制化されておらず、近未来ファシズムの萌芽にとどまっている。

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「女」の世界歴史(連載第25回)

2016-05-17 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

⑤朝鮮王朝の女性権勢家たち
 14世紀末に成立した朝鮮王朝は仏教を排し、儒教を国教・国学に据えたことから、以後の朝鮮では女権は著しく制約され、女性の政治関与は本来タブーであった。しかし、王朝存続を保証するため、前国王の后(通常は現国王の生母)が大妃として年少の国王を後見して実権を握る中国的な垂簾聴政が15世紀後半以降、慣習化された。
 こうした垂簾聴政は臨時的とはいえ、事実上の公式的な制度であったため、垂簾聴政を取る大妃は女傑というより正式の摂政に近い存在であったが、これとは別に、正式の地位を持たずに政治介入を企てた女傑も存在する。しかし、こうしたタブー破りの女傑の政治介入はたいてい悪政を結果したため、これらの女傑は「悪女」視されることが多い。
 その典型例として、15世紀末に出た張緑水がいる。妓生出身の彼女は第10代燕山君の側室として王の寵愛を独占し、宮中で権勢を持つようになり、身内を栄進させる縁故政治を展開したほか、暴君と評された夫の燕山君に勝るとも劣らぬ横暴な振る舞いを見せた。結果として、燕山君が廃された宮廷クーデター(中宗反正)により、処刑された。
 次いで、16世紀中ばには、弱体な歴代王の下で女性が政治を主導した「女人天下」と呼ばれる女性政治の時代が現われるが、その中心人物が鄭蘭貞である。彼女は第11代中宗の外戚尹氏の妻として中宗晩年から夫とともに国政に介入し、中宗没後に垂簾聴政を行なった尹氏出身の文定王后の側近として権勢を誇ったが、王后の没後、親政を試みた第13代明宗の改革策により追放・問責され、自殺に追い込まれた。
 16世紀前半には朝鮮王朝史上燕山君と並び、廟号・諡号を与えられない暴君とみなされてきた第15代光海君の女官となった金介屎(金尚宮)が知られる。詳しい出自や半生も不明だが、金尚宮は光海君の父である第14代宣祖の寵愛を受け、光海君の即位に尽力し、その後も、光海君のライバルだった異母弟永昌大君の処刑にも関与したと言われる。
 しかし、光海君が廃された宮廷クーデター(仁祖反正)により、追放・処刑された。金尚宮も前代の張緑水と同様の運命をたどったわけだが、今日では光海君の治世が再評価されつつあるのに対応し、その治世を後宮から支えた金尚宮についても再評価がなされる可能性はある。
 しばしば通俗的に、張緑水、鄭蘭貞と並ぶ「朝鮮三大悪女」に数えられるのが、第19代粛宗の後宮で、一時は王后でもあった張禧嬪である。彼女は、中人と呼ばれる中産階級の出自から女官となり、やがて最高位の側室たる嬪に昇格する。
 彼女は粛宗時代に激化していた宮中での西人派と南人派の二大党争に絡み、南人派の党首に押し上げられ、世子を産めなかった西人派の仁顕王后を廃位し、自ら継妃に納まる策動を展開した。だが、南人派の増長を懸念した王自身の介入により、廃位され、最終的には仁顕王后の死を呪詛したとする罪で処刑された。
 野心的な策動家ではあるが悲劇的な刑死を遂げた張禧嬪は朝鮮支配階級の両班より低い階層に出自した朝鮮王朝史上唯一の王妃となり、世子で後の第20代景宗を産むという異例の栄進でも注目されてきた人物でもある。
 張禧嬪を最後に、朝鮮史上女傑と目される女性権勢家は輩出されなくなる。おそらく粛宗以降、短命に終わった景宗をはさみ、もう一人の息子(景宗異母弟)である第21代英祖、英祖の孫に当たる第22代正祖と強力な王による長期安定治世が18世紀を通じて続き、女傑の政治介入の余地が封じられたためであろう。

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「女」の世界歴史(連載第24回)

2016-05-16 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

④武家政権の女性権勢家たち
 日本型封建主義が支配した武家政権時代は、女性にとっては男尊女卑社会を生きた暗黒時代とくくることもできるが、全体として600年以上の長きにわたったこの時代の女権のあり方には変遷が見られ、その節目ごとに象徴的な女傑が現われている。
 そもそも武家政権時代を拓いた鎌倉幕府の最初期には、女性も幕府から所領を安堵され、女性地頭が存在していたことが知られている。記録に残る代表例としては、主として下野国寒川を安堵された寒川尼がいる。彼女は下野最大の武士団であった小山氏の妻として、源頼朝が反平氏で挙兵するに際し、小山氏を源氏方に付かせるに当たり重要な役割を果たした功績の恩賞として、夫とは別途地頭としての地位を与えられたものと見られている。
 しかし、鎌倉時代初期における最大級の女傑は、何と言っても頼朝の正室北条政子である。彼女は伊豆で流刑中の頼朝の監視役だった北条時政の息女で、頼朝側近に寝返って鎌倉幕府樹立に貢献した父とともに初期の幕府体制を支えた。
 政子は「尼将軍」の異名を取ったが、これは自身の息子でもある第2代頼家、第3代実朝の両将軍が相次いで暗殺された後、京都から迎えた最初の摂家将軍藤原頼経の後見役として、実権を握ったからである。しかし、政子はあくまでも例外者であり、北条氏執権による幕府の体制が固まると、女傑の政治介入も見られなくなる。
 続く室町時代に入ると、室町将軍家の外戚として有力化していた公家の日野家出身の日野富子が出る。彼女は第8代将軍足利義政正室及び息子の第9代義尚生母として幕府の実権を握り、特に義尚が生前譲位によって将軍に就いてからは、まさにかつての北条政子のように幕府の実権を握るとともに、地位を悪用した蓄財にも執心し、ある種の窃盗政治(クレプトクラシー)の象徴ともなった。
 室町時代後半期に始まる戦国時代になると、武将の正妻は夫の出征中、家中を預かる代行者を務めることが多くなるが、そうした中でも最大級の女傑は、豊臣秀吉の正室高台院(ねね)である。彼女はマイナーながら武家(杉原氏)の子女であり、出自身分の低かった夫の引き立て役でもあった。
 秀吉が関白に昇進すると、北政所の称号を与えられた高台院は、朝廷との交渉役となり、黒印状の発給権も持つなど、政治行政的に相当の実権を夫と分有していたと見られる。前代の政子や富子とは異なり、世子を産めなかったにもかかわらず権勢を保ったのは、実力主義的な秀吉治世にふさわしく、彼女の実質的な能力によるところが大きかったと見られる。
 しかし、こうした女傑も男尊女卑思想が強まった近世には、姿を消す。日本の封建時代最後の女傑と言えるのは、徳川第3代将軍家光の乳母として権勢を持った春日局であると思われる。美濃の大名斎藤氏の出である彼女(本名斎藤福)は家光の将軍就任により、将軍様御局という地位を与えられ、徳川将軍家の言わばハレムである大奥制度の整備を主導した。
 これにより、将軍家の女性たちは大奥にまとめられ、表の政治からは遠ざけられることになった。春日局自身は表の政治にも関わり、家光との個人的なパイプを生かして老中を上回ると言われるほどの権勢を持ったが、以後、彼女のような女傑は見られなくなる。
 とはいえ、大奥は完全に政治的無力化されることはなく、時に集団的な政治力を発揮することがあった。ここでは立ち入らないが、幕府にとって最初の存続危機とも言える第7代将軍家継夭折時や幕末の体制動揺期には大奥も大いに政治的な影響力を行使したのである。

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キューバと朝鮮

2016-05-11 | 時評

日本メディア上では今月の朝鮮労働党大会に比べるとはるかに小さな扱いにとどまったが、先月にはキューバ共産党大会が開催されていた。キューバと朝鮮―。ともに、類似の社会主義一党支配体制を固守している数少ない中規模国である。

その類似性は、家族支配の点にも及ぶ。キューバでは1959年キューバ革命を指導したカストロ兄弟間での「世襲」が一足先に行なわれており、弟のラウルが政権を握っている。とはいえ、彼もすでに80歳を超え、国家指導者としては2018年の退任が予定されている。

キューバと朝鮮はともに民族自決主義的な志向性を持ちつつも、かつては旧ソ連を政治的経済的な後ろ盾として庇護されていたが、ソ連の解体消滅に伴い、90年代以降、政治的な孤立と経済的な苦境に陥った点でも類似の足跡をたどってきた。

しかし、キューバではラウル政権になってから、市場経済原理の導入を試みており、中国的な社会主義市場経済の方向へ慎重な舵を切っているのに対して、朝鮮では表向きは社会主義原則の堅持を謳いつつ、なし崩しに事実上の市場経済化が進行していると言われる。

国際関係上も、キューバは長らく対決してきた米国との和解に動き、今年、オバマ米大統領の歴史的な公式訪問を受け入れた。革命前の対米従属経済に戻るリスクを犯してでも、雪解けの利益を優先しようという実利政策であろう。

一方の朝鮮は正反対に、核開発を強行し、対米関係を緊張させているが、真の目的は対米戦争にあるわけではなく、挑発して米国を交渉の場に引き出そうとすることにあると見られる。しかし、米国も安易にそうした策に乗る気配はない。

半世紀以上、恐怖政治的な抑圧も用いながら世襲によって維持され、現在曲がり角に立たされているキューバと朝鮮の両社会主義体制であるが、その方向性に関してはかなりの相違点が生じている。国民生活の水準を図る尺度の一つである一人当たりGDP(購買力平価)でもキューバの約10000ドルに対し、朝鮮は約1800ドルと差がある。

キューバの党大会は前指導者で現体制の創始者であるフェデル・カストロも登場し、弟ラウルともども高齢化した革命第一世代の「お別れ」大会となったが、朝鮮の党大会は若い三代目指導者金正恩の正式な披露目大会の様相を呈した。

今日では独異な体制を維持する東西両国の歩みがどうなっていくのか、世界の政治経済上は小さな比重しか持たないとはいえ、急激に崩壊すればともに大量の難民を生じかねないだけに、関心をもって注視する必要があると思われる。

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したたかな三代目

2016-05-11 | 時評

メディア上では36年ぶりに開催された朝鮮労働党大会をめぐって、その奇妙なまでの秘密主義や人事、最高指導者の服装などの現象に好奇的な焦点が当てられていたが、粛々と行なわれた大会を見ると、かの国の若い三代目指導者の意外にしたたかな一面が窺える。

彼が支配しているのは、建国70年を過ぎた人口2500万に近い中規模国である。普通、同レベルの歴史と規模を持つ国を30歳そこそこの人物が支配することは難しい。世襲王制であっても、若い王はしばしば王族や外戚、側近に担がれた神輿になりやすい。

事実上の王制に近い「世襲共和制」と呼ぶべき独異な世襲体制を取る朝鮮の三代目も当初は神輿だろうと見られ、事実、世襲直後は外戚に当たる義理の叔父が強い影響力を持ったと見られるが、間もなく彼とその一派は粛清されてしまった。

この粛清劇を三代目がすべて独力で敢行したとは思えないが、自ら主導的な役割を果たしたことは否定できない。そして、このたび、祖父の時代以来開催されていなかった党大会を開催して、名実共に三代目指導者としての実権を確立した。

といっても、取り沙汰されていた若返り人事はなく、彼の周囲は父親くらいの年配の幹部ばかりである。小さな組織でも、父親世代の部下に取り囲まれて若輩者が指揮を取るのは難しいが、彼はそれを臆さず、堂々とやってのけている。そこには「建国の父」を祖父に持つ「家柄」の威光もあるだろうが、それを割り引いてもなかなかの手際と認めざるを得ない。

先代が長幼の序を無視してでも、上のきょうだいを飛び越えて後継者に見込んだだけのことはあり、おそらくは健康問題を抱え、「万一」を意識していた先代は存命中から息子に政治的な帝王学を施していたとしか思えない堂々たる采配ぶりである。

政策路線的にも、先代の軍拡・軍需優先を柱とする「先軍政治」を軌道修正して、軍拡とともに、国民の生活水準の向上にも目配りする「並進路線」を掲げ直した。国民の娯楽の充実にも熱心な三代目は、ローマ帝国の統治訓「パンとサーカス」もしっかり踏まえているようだ。

自称民主主義諸国のメディア上では、国民から嫌悪されている三代目は早晩倒れるというような安易な“予測”も見られるが、国民の好悪感情を反映した「支持率」なるものを為政者が気にする必要のない世襲国家の特質とともに、三代目のしたたかさを過小評価してはなるまい。もし、彼が早期に「倒れる」としたら、それは政治的でなく、医学的な理由によるものだろう。

しかし、三代目が置かれている内外環境は、前二代に比べてはるかに苦しいこともたしかである。三代目が意識しているとされる初代はほとんどゼロからの経済建設と経済成長に重点を置き、「建国の産婆」でもあったソ連を後ろ盾に一時は韓国をしのぐ成果ももたらした。

ソ連を失って苦境に陥る最中で初代は自力防衛の必要から核開発に走り、米国の軍事介入を招く瀬戸際で中止し、同時に急死した。その後を継いだ先代は核開発を改めて政策の柱にすえつつ、中国を後ろ盾につけて、経済援助の担保とした。

三代目は親中派の叔父を粛清したことで中国の後ろ盾を失い、度重なる核実験や軍事的示威行動で厳しい経済制裁を招く一方、先代の「先軍政治」のツケとしての経済的苦境は遺産として継承している。「並進路線」はそうした苦境の表現でもある。

三代目は党大会を開催することで、祖父の時代のように、党を権力基盤とするソ連型一党支配体制本来の姿に巻き戻して、再生を図ろうとしているように見える。しかし、前二代の頃のような大国の後ろ盾は存在しない。まさに祖父が提唱した国家教義「主体」が問われる状況である。

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戦後ファシズム史(連載第35回)

2016-05-10 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

7:ルワンダ内戦と人種ファシズム
 1990年代の旧ユーゴ内戦と同時並行的な事象として、アフリカの小国ルワンダで発生した内戦がある。この内戦渦中では、最大推計で100万人(国民の約20パーセント)と言われる大虐殺が生じ、世界に衝撃を与えた。
 ルワンダ大虐殺という事変そのものについては、20年以上を経過した現在、まとまった資料も存在しているため、それらに譲るとして、ここではそのような事変の根底にあった人種ファシズムについて取り上げる。ルワンダで極めて悪性の強いファシズム現象が発生したことには歴史的な淵源がある。
 ルワンダにおける民族構成は、他のアフリカ諸国とは異なり、大多数をフトゥと呼ばれる民族が占め、少数派としてトゥツィとトゥワが存在するという比較的単純な構成である。独立王国時代には少数派トゥツィが王権を保持しており、続くベルギー植民地時代にもトゥツィが優遇され、中間層を形成する社会構造が出来上がっていた。
 ベルギーがトゥツィを優遇するに当たっては、「トゥツィ=ハム族仮説」なる人種的優越理論を根拠にしたとも言われるが、それだけではなく、当時の支配層がトゥツィ系であったため、それをそのまま植民統治にも平行利用したとも考えられる。
 このような少数派優位の構造が覆るのは、独立直前の1961年に起きたフトゥ系による共和革命以降であった。この革命は当時トゥツィ支配層と衝突し、フトゥ系支持に転じていた旧宗主国ベルギーの承認のもとに実行されたものだった。
 革命により初代大統領に就いたグレゴワール・カイバンダは反トゥツィ政策を実行し、その政権下では多数のトゥツィが殺害され、あるいは難民として隣国へ逃れた。その際、フトゥ支配層は先の「トゥツィ=ハム族仮説」を逆手に取り、トゥツィを「侵略者」に見立て、仮説上の原郷であるエチオピア方面へ送還すべきことを主張した。言わば、差別者と被差別者が攻守逆転し、旧被差別者であったフトゥが反転的な差別に出た形であり、この力関係の逆転は「フトゥ・パワー」と呼ばれる優越思想を生み出した。
 このフトゥ主導共和体制は、73年の軍事クーデターでカイバンダ政権を転覆したジュベナール・ハビャリマナによって、若干の軌道修正を施された。彼はフトゥ・トゥツィ両族の融和を一定進める一方で、経済開発を重視する政策を採り、開発国民革命運動なる反共右派政党を政治マシンとして、91年に複数政党制に移行するまで一党独裁支配を維持する。この間のハビャリマナ体制は開発独裁的な性格を伴ったが、それは未だファシズムの域には達していなかった。
 しかし、こうしたハビャリマナの融和的姿勢に反発したフトゥ強硬派の間では、より過激な「フトゥ・パワー」の思潮が高まった。その集約が1990年にフトゥ系雑誌に掲載された「フトゥの十戒」なる言説であった。トゥツィをルワンダ社会から系統的に排斥すべきことを主張するこのプロパガンダは、ナチスの反ユダヤ主義をより通俗化して応用したような差別煽動言説としてフトゥの間で急速に普及した。
 一方では、ウガンダに支援されたトゥツィ系反政府武装組織・ルワンダ愛国戦線が87年に結成され、90年以降政府との間で内戦状態となっていたが、92年に和平が成立し、翌年には連立政権が発足する運びとなった。しかし、フトゥ強硬派は反発を強めていた。
 そうした中、94年にハビャリマナ大統領が同様の民族構成を持つ隣国ブルンディのンタリャミラ大統領(フトゥ系)とともに搭乗していた航空機が撃墜され、両大統領が死亡した。この暗殺事件の真相は不明であり、ルワンダ愛国戦線犯行説とフトゥ強硬派軍部犯行説の両説が存在する。
 いずれにせよ、この事件を最大限に利用したのは、フトゥ強硬派であった。近年の調査研究によると、かれらはあたかもナチスのホロコーストのように、極めて計画的・組織的にトゥツィ絶滅政策を立案・実行しており、ルワンダ虐殺が自然発生的な民衆暴動ではなかったことが判明している。
 ただし、ナチスのような絶滅収容所での秘密裏の抹殺ではなく、ルワンダ大衆にとって最も身近なメディアであるラジオを通じたプロパガンダ宣伝を巧妙に展開し、憎悪を煽り、民衆暴動の形でフトゥ民衆がトゥツィを殺戮する―あおりで最小勢力の被差別民族トゥワも30パーセントが殺戮される被害が及んだ―ように仕向けたのであった。
 一方で、虐殺当時は20年以上独裁体制を維持したハビャリマナ大統領の暗殺直後の政治空白期であり、この時期には明確な指導者が存在しなかったことも特徴である。今日では、大統領暗殺後に危機管理委員会を率いたテオネスト・バゴソラ大佐が重要な役割を果たしていたことが知られるが、虐殺は主としてハビャリマナ時代の軍精鋭と与党傘下の民兵組織が主導しており、ナチスのような真正のファシズム体制は樹立されていなかった。
 わずか100日余りで人口の2割近くが殺戮されるという異常な暴虐は、94年7月、攻勢を強めたルワンダ愛国戦線の全土制圧により終止符を打たれた。改めて連立政権が発足した後、2000年以降は愛国戦線指導者でもあるトゥツィ系ポール・カガメ大統領が安定政権を維持し、復興が進められてきた。―カガメ大統領がほぼ無競争で多選を重ねる中、近年はカガメ政権の独裁化も指摘され、新たな現代型ファシズムの兆しがなくはない。
 一方、虐殺の責任追及に関しては、国連ルワンダ国際戦犯法廷が設置され、2015年まで首謀者級の審理が行なわれた。同法廷で、先の「フトゥの十戒」主唱者と目されるジャーナリストのハッサン・ンゲゼやバゴソラは終身刑の判決を受けている(控訴により、ともに禁錮35年に減刑)。
 しかし、民衆暴動の形を取った虐殺への関与者は余りに膨大であるため、末端実行者級については、国民和解もかねて、01年以降、ルワンダの慣習的な民衆司法制度の下で審理されている。

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戦後ファシズム史(連載第34回)

2016-05-09 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

6:内戦期のユーゴ・ファシズム
 20世紀末における世界的悲劇として、旧ユーゴスラビア連邦崩壊過程でのユーゴスラビア内戦があるが、この内戦渦中であたかもナチを再現するかのような集団的民族浄化を伴うファシズムが現われた。
 この時期、旧ユーゴを構成した主要民族が多かれ少なかれ、自民族優越主義的なファシズムに傾斜していたため、この現象は包括して「ユーゴ・ファシズム」と呼ぶのが最も公平であろうが、中でもイデオロギーの点ではセルビアまたはセルビア人勢力によるそれが際立っていた。
 そうしたセルビアン・ファシズムが最初に発現したのは、一連のユーゴ内戦中でも凄惨を極めたボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦においてである。ボスニア‐ヘルツェゴヴィナは元来、ユーゴ連邦を構成した八共和国の中でも、ボシュニャク人(イスラーム教)、セルビア人(セルビア正教)、クロアチア人(カトリック)という宗派を異にする三つの主要民族が共存する複雑な構成を持っていた。
 そうした中、ユーゴ連邦の解体過程でボシュニャク人及びクロアチア人はボスニア‐ヘルツェゴヴィナの独立に賛成したが、セルビア人はこれに反対、セルビア民主党を主体にボスニア‐ヘルツェゴヴィナからの独立を宣言し、セルビア系スルプスカ共和国の樹立を宣言した。
 これを契機に始まった内戦では、三民族それぞれが独自の武装勢力を擁して、まさしく三つ巴の戦争となったが、中でもユーゴ連邦の中心にあったセルビア共和国を後ろ盾とするセルビア人勢力が優位にあった。
 その主力は、内戦前に結成されたセルビア民族主義政党セルビア民主党であった。かれらは精神科医出身で、セルビア民族主義のイデオローグでもあったラドヴァン・カラジッチを最高指導者に擁し、優越的な軍事力を背景に、その支配地域内のボシュニャク人やクロアチア人に対する民族浄化作戦を展開した。
 中でも、セルビア人勢力参謀総長ラトコ・ムラディッチが作戦指揮した内戦末期のスレブレニツァ虐殺事件では、最大推計で8000人のボシュニャク人が殺戮されたとされ、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦を象徴する惨劇として記憶されている。
 この時期のスルプスカ共和国の実態は、戦前期にナチスを後ろ盾に成立したクロアチア独立国のセルビア人版と言えるような、限りなく真正ファシズムに接近した体制だったと評し得るだろう。
 こうしたセルビアン・ファシズムの後援者となっていたのが、「本国」セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領であった。彼は旧ユーゴ時代の支配政党だった共産主義者同盟幹部として台頭した人物で、表向きはマルクス主義者とされていた。
 しかし、ミロシェヴィッチは1990年にセルビア共和国大統領に就任すると、セルビア民族主義を主要なイデオロギーとするファシズム体制を作り上げた。その政党マシンは左派的なセルビア社会党を名乗ってはいたが、実態としては極右的民族主義政党であった。
 ミロシェヴィッチはセルビアにあって、他の旧ユーゴ構成共和国内のセルビア人勢力を強力に支援・介入していた。ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦への介入はその代表的な一例である。他方で、セルビア領内のイスラーム系アルバニア人自治地域コソボの独立運動を武力弾圧し、民族浄化作戦を展開した。
 ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦が終結した後、96年から本格化したコソボ紛争は99年、最終的にNATO軍によるユーゴ空爆という軍事介入により終結した。翌2000年に大統領再選を狙ったミロシェヴィッチに対して市民の大規模な抗議デモが発生する中、彼は退陣に追い込まれ、10年余りに及んだミロシェヴィッチ体制は終焉した。
 コソボ紛争を含む一連のユーゴ内戦では多くの戦争犯罪、反人道犯罪が横行し、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ内戦ではクロアチア人勢力やボシュニャク人勢力、コソボ紛争でもアルバニア人武装勢力による犯罪が行なわれた。
 それらについては、国連が設置した旧ユーゴ国際戦犯法廷で現在もなお審理が続いている。ちなみにミロシェヴィッチも同法廷に起訴されたが、審理中の06年に病没した。カラジッチは長年の逃亡の末、08年にセルビア領内で拘束・起訴され、2016年3月に禁錮40年の判決を受けた。ムラディッチも11年に拘束され、現在審理中である。
 その意味で、この旧ユーゴ国際戦犯法廷はユーゴ・ファシズム全体を包括的に審理する法廷として、ナチス犯罪を審理した第二次大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判に匹敵する歴史的意義を持つとも言える。

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「女」の世界歴史(連載第23回)

2016-05-04 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

③オスマン帝国の「女人政治」
 16世紀以降、イスラーム世界の覇者となったオスマン帝国では、女性スルタンこそ輩出されなかったものの、16世紀から17世紀にかけて、スルタンの夫人や生母が権勢を持つ「女人政治」の時代が出現した。
 それは、この時期、後見役を必要とする若年の弱体なスルタンが続いたこともあるが、そればかりでなく、女性たちがその権力基盤としたハレムが、帝国の領域拡大に伴い大規模化していたこともあると考えられる。
 オスマン帝国のハレムは、人身売買によって帝国版図・勢力圏の東欧・カフカース地域から連行されてきた女性奴隷たちが一定の教養を授けられた後、侍女として入職し、やがてその一部がスルタンの寵姫に抜擢される仕組みであった。
 そのため、彼女らの多くは人種的に白人コーカソイドであり、スルタンの寵姫となって子女を産むことで、オスマン家が本来のモンゴロイド系からコーカソイド化され、ひいてはトルコをヨーロッパ化させていく触媒的な役割をも担っていた。
 オスマン帝国の手が届く東欧・カフカース地域の女性たちにとっては、いつ帝国に捕らわれ、奴隷化されるかわからない恐怖と隣り合わせであったと同時に、幸運に恵まれれば、ハレムからスルタンの寵姫に栄進する階級上昇のチャンスもあった。
 とはいえ、スルタンの寵愛を得ても、彼女らは奴隷身分のままで、スルタンの正式な妃となることはできなかった。そうした状況を変えたのは、オスマン帝国全盛期を築いたスレイマン1世の第一夫人ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)である。
 ヒュッレムはポーランド出身のスラブ系出自と言われ、やはり奴隷として売られてきた一人である。彼女は慣例を破って、スルタンの正式な夫人の地位を得ることに成功し、スルタンとの間に五男一女をもうけ、その寵愛を独占した。同時に、これも慣例を破り、スルタンを補佐して政治に介入した。そのため、ヒュッレムをもって「女人政治」の創始者とみなすことが多い。
 また大宰相に嫁いだ彼女の娘ミフリマーも、母とともに政治に関与したと見られる。母娘はスレイマン1世の後継問題でも暗躍し、ヒュッレムの息子たちの中から次期スルタンを出すように画策、別の妃が産んだ最年長の王子を処刑させることにも成功した。その結果、後継者となったのが三男のセリム2世であった。
 しかし、セリムは政務に無関心・無能であったため、政治の実権はセリム2世の寵愛を受けて後継者のムラト3世を産み、ヴァリデ・スルタン(母太后)の称号を得て摂政となったヌールバヌの手に委ねられた。彼女はエーゲ海のパロス島を領したヴェネツィア貴族の出と言われ(異説あり)、やはりオスマン帝国に捕らわれ、ハレムに売られてきた。
 彼女は祖国と目されるヴェネツィアとの友好関係を重視し、一貫して親ヴェネツィアの外交路線を取った。また同時代フランスの女性実権者カトリーヌ・ド・メディシスと通信し合っているのも、同じイタリア出身者の好だったかもしれない。
 ムラト3世時代には、ヌールバーヌと同じヴェネツィア貴族の縁戚と思われるサフィエがヴァリデ・スルタンとして権勢を誇った。サフィエの後も、嫁のハンダン・スルタン、その嫁キョセム・スルタン、さらにその嫁トゥルハン・スルタンと実に四代にわたり、姑嫁関係にあるヴァリデ・スルタンによる女人政治が続いた。
 わけてもオスマン帝国における「女人政治」の頂点を極めたのは、義母のキョセムと権力闘争を繰り広げた末に彼女を暗殺し、メフメト4世の母后として1651年から65年まで摂政として実権を持ったトゥルハンである。
 彼女はウクライナ人またはロシア人と目され、ハレム入りした経緯は先行者たちと大差ない。しかし、彼女は息子のメフメト4世から正式に共同統治者として認められ、事実上はオスマン帝国史上唯一の女王(女性スルタン)とも言うべき権力を持った点で、先行者たちを上回っていた。とはいえ、為政者としての彼女の能力はその権力の大きさには見合っていなかった。
 トゥルハンの時代は、クレタ島の領有をめぐるヴェネツィアとの20年以上に及ぶ戦争に直面していた。最終的にオスマン帝国は勝利するものの、多額の戦費から財政問題も生じていた。そうした中、1656年にアルバニア系キョプリュリュ家のキョプリュリュ・メフメト・パシャが大宰相に就任すると、トゥルハンは事実上の権力移譲と引退を余儀なくされた。
 オスマン帝国における「女人政治」は制度的なものではなく、慣習的なものであるので、それがいつ終焉したか明言することは困難だが、トゥルハン以降、ヴァリデ・スルタンの権勢は低下していく。
 元来、女権忌避的なイスラーム社会では、女性の政治関与は好感されておらず、先のヒュッレム・スルタンなどは「ロシアの魔女」呼ばわりされたことすらあった。また「女人政治」の時代には、ハレムが権力闘争の場と化し、当事者の不審死も相次ぐなど、政情不安のもとともなったのである。
 一方で、オスマン帝国の全盛期にヨーロッパ出身のハレム出身女性たちが巨大化した帝国の政治外交を管理し得たことは、当時の歴代男性スルタンたちの無力さを考え合わせると、帝国の持続性を確保するうえで鍵となっていたとも言えるだろう。

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「女」の世界歴史(連載第22回)

2016-05-03 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

②二人のメディシス女傑
 サリカ法の解釈により女王が輩出せず、かつヨーロッパ封建制の中心地でもあった中世のフランスでは女傑も容易に出現しなかったが、中世末期から近世前期にかけて、王に匹敵する権力を行使した女傑が出た。
 その一人はヴァロワ朝末期のアンリ2世妃カトリーヌ・ド・メディシス、もう一人はヴァロワ朝に続くブルボン朝の初代アンリ4世妃マリー・ド・メディシスである。その名のとおり、共にメディシス、すなわちイタリアのメディチ家出身のイタリア人であった。このようにフランスにおける二大女傑が共にイタリア出身者であったことは、イタリアの比較的な自由な気風を考えると、必ずしも偶然とは言い切れないかもしれない。
 最初のカトリーヌはフィレンツェの統領ロレンツォ2世の娘で、両親を早くに亡くして孤児となった後、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世とフランス王室の間の取り決めにより、14歳でアンリ王子に嫁いだ。名門とはいえ、商人出自のメディチ家の息女が王室に嫁ぐのは、異例の階級上昇であった。
 兄の急死を受けて王太子に昇格し、やがて国王に即位したアンリはしかし、イタリア人の王妃を「出産機械」としか見ておらず、10人もの子女を作るも、その愛情は専ら愛人ディアーヌ・ド・ポワチエに向けられていた。このディアーヌはアンリより20歳も年長のフランス貴族女性で、アンリの家庭教師として王子時代から仕えるうちに愛人関係に発展していたのだった。彼女は知的で、王となったアンリにしばしば政治的な助言をし、公文書に共同署名するほどの実力を持つ女傑的人物でもあった。
 カトリーヌが実権を握るのは、アンリが馬上試合での負傷がもとで死去した後、ディアーヌを宮廷から追放してからのことである。その後は、相次いで王位に就いたフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世という三人の息子たちを後見する形で、カトリーヌの天下となった。
 ただ、カトリーヌの時代は、宗教改革の波が保守的なカトリック国であったフランスにも押し寄せ、新旧両教派の対立が激化する中、その対応に追われる日々であった。そうした状況で起きたのが、多数の新教徒ユグノー派が全土で殺戮された1572年のサン・バルテルミ虐殺事件である。
 新旧融和の観点からカトリーヌがセットしたユグノー派盟主ブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)と自身の娘マルグリットの政略婚を引き金として発生したこの事件に対するカトリーヌの関与については、議論の余地があるが、事件を予期しながら止めなかった責任は免れないと考えられている。
 この事件の結果、カトリーヌは冷酷な女独裁者として後世に悪名を残すこととなったが、一方ではメディチ家出身者らしく、人文主義的な素養を持った芸術の擁護者という一面も備えていた。
 晩年のカトリーヌは、お気に入りの息子ながら、新教に傾斜気味だったアンリ3世の下で勃発したカトリック強硬派とユグノー派を絡めた三つ巴の内乱を制御することができないまま、没した。
 彼女の死から間もなく、継嗣のなかったアンリ3世も暗殺され、ヴァロワ朝は断絶する。新たな王朝を開いたのは、カトリックに改宗した遠縁ブルボン家のアンリ4世である。この時、マルグリットと離婚したアンリの継妃として嫁いだのが、やはりメディチ家出身のマリー・ド・メディシスであった。彼女はメディチ家傍流トスカーナ大公家の出身だったが、成立したばかりのブルボン朝にとっては巨額の持参金が目当ての政略婚であった。
 アンリは女色家で、マリーを放置して浮気に走ったため、彼女は孤独な宮廷生活を送っていたが、アンリが1610年に暗殺され、幼年の息子ルイ13世が即位すると、マリーは摂政として政治の実権を握った。
 しかし、アンリ4世からもその明敏さを認められたカトリーヌとは異なり、マリーは政治的な手腕に欠け、硬直した側近政治に走り、アンリ4世が出した宗教寛容令(ナント勅令)に基づく国内の安定を守り切れなかった。
 1617年、成長した息子ルイ13世の手で排除、幽閉されるが、脱出後、反乱に失敗してからは、ルイの宮廷でマリーに代わって実権を握るようになったリシュリュー枢機卿との政争を繰り広げた。しかし、結局、老獪なリシュリューには勝てず、フランスを追放され、42年にケルンで客死した。
 かくして、メディチ家出身の遠縁関係にあったカトリーヌとマリーは、フランスが国内における新旧両教派の対立であるユグノー戦争を経て、新旧両教派の国際戦争三十年戦争に巻き込まれ、男性王権が揺らいだ困難な時期に輩出された例外的な女傑であったと言えよう。

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「女」の世界歴史(連載第21回)

2016-05-02 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(2)女傑の政治介入

①娼婦マロツィアと聖女オリガ
 女権が体系的に抑圧された女性の暗黒時代にあっても、非公式な立場から政治介入を試みる例外女性権力者―女傑―は存在していた。ヨーロッパでは共に10世紀前半、封建制が弱く、比較的自由なイタリアと独自的な封建制が確立される前のロシア(キエフ大公国)で、そうした事例が見られた。
 
 まず10世紀前半のローマでは、テオドラとマロツィアの母娘が約30年にわたり権勢を張り、教皇の選出まで左右した。この時期のローマ政治は娼婦が政治を支配したという趣意で、しばしば「ポルノクラシー」(娼婦政治)とも呼ばれる。
 しかし、テオドラとマロツィアの母娘は決して本来の意味での娼婦ではなく、共に女元老の称号を持ち、当時のローマで最有力なトゥスクルム伯家の貴族女性であった。母娘は共にその美貌と資産を利用して、男性政治家や教皇をも操り、事実上ローマ政治を壟断し、混乱と腐敗を引き起こしたことから、後世批判を込めて「娼婦政治」と称されたものであろう。
 特に娘のマロツィアは母テオドラの画策により教皇セルギウス3世の愛人におさまり、婚外子として後の教皇ヨハネス11世を産んだとされる。彼女は、最初の夫と死別した後、再婚に異を唱えた時の教皇ヨハネス10世―テオドラと愛人関係にあったとされる―を捕らえ、獄死させたうえ、息子のヨハネス11世を擁立して教皇庁をも支配した。
 しかし、このようなマロツィアの専制は、最初の結婚で産まれたもう一人の息子アルベリーコ2世によって終止符が打たれた。彼は932年、クーデターにより母とその三番目の夫を追放し、息子の手で投獄されたマロツィアは数年後に獄死した。
 こうして「娼婦政治」は終焉するが、アルベリーコ2世は20年近くローマを支配し、その息子でマロツィアの孫に当たるヨハネス12世も後に教皇となるため、テオドラとマロツィアの血統的な流れはヨハネス12世が自ら授冠した初代神聖ローマ皇帝オットー1世によって廃位された963年まで続いたとも言える。
 
 ローマの女傑政治はたしかに悪政であったが、10世紀前半のロシアではキエフ大公妃オリガの善政が現われた。オリガはロシアの母体となるキエフ大公国の2代大公イーゴリ1世の妃であったが、夫が945年に暗殺された後、幼少の息子スヴャトスラフ1世の後見役として実権を握る。そのため、彼女は「摂政」とも称されるが、大公国初期に摂政の制度が公式に存在していたかは疑わしく、大公生母としての非公式な政治関与と思われる。
 いずれにせよ、オリガはまず夫の暗殺に関わったスラブ系ドレヴリャーネ族に民族浄化的な徹底した報復を断行し、これを服属させた。そのうえで税制改革を行い、大公直属の税務機関と徴税人を置き、大公国の集権体制と財政基盤を強化した。さらには自らキリスト教に改宗し、当時東欧のキリスト教大国であったビザンツ帝国からの庇護と援助を獲得することにも成功した。
 一方で、神聖ローマ皇帝に即位する前の東フランク王オットー1世にも接近を図るそぶりを見せ、偽りで司教の派遣を要請したとする西方の記録もあるが、これが事実とすれば、オリガは東西両教会を天秤にかけようとしていた可能性もある。
 オリガは息子のスヴャトスラフ1世を改宗させることには成功しなかったものの、スヴャトスラフの息子でオリガの孫に当たるウラジーミル1世以降、ロシアは東方正教会系のキリスト教国として確定することになった。そのため、オリガはウラジーミルとともに、東方正教会の聖人に当たる「亜使徒」に叙せられているところである。

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