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近代革命の社会力学(連載補遺13)

2022-09-13 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(5)第一共和政とその破綻
 メキシコ第一帝政を打倒した1823年の共和革命は、独立革命時には妥協によって君主制を支持した共和派が、初代皇帝イトゥルビデの独裁化を契機に本来の主張を掲げ、改めて国造りを開始した、言わば仕切り直しの革命であった。
 さしあたりは、三人の有力者から成る合議制の臨時政府が樹立され、憲法発布までの間の移行統治を実施した。その間、1824年7月には、前皇帝イトゥルビデが亡命先から強行帰国を果たしたが、上陸地で地元当局に逮捕されたうえ、死刑を宣告され、処刑された。
 その後、1824年10月にメキシコ初の近代憲法が公布され、正式に共和制国家・メキシコ合衆国が発足した。この第一共和政は、名称どおり、アメリカ合衆国を範とする連邦制を採択しており、発足当初は19の州及び直轄地(その後の修正により首都の連邦区が付加)から成っていた。
 この憲法は全文171箇条から成る比較的詳細な法典であり、スペインのカディス憲法やアメリカ合衆国憲法、さらに先行する自国のアパチンガン憲法をも広く参照した、この時代における集大成的な先進憲法であった。初代大統領には、共和革命立役者の一人であったグアダルーペ・ビクトリアが就任した。
 しかし、この第一共和政のもとでは、憲法で採択された連邦制を支持する勢力と中央集権制を主張する勢力の対立が激化し、規定上の大統領任期を全うできたのは初代のビクトリアのみで、頻繁な政変による大統領の短期交代が相次ぐ政情不安が常態化した。
 この対立は、連邦派が軍やカトリック教会の権力を抑制する自由主義的社会改革を志向したのに対し、集権派はそれに反対するという形で、リベラル派と保守派の副次的な対立状況をも生み出した。とりわけ、共和革命立役者の一人であったアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが集権‐保守派の実力者として台頭してきたことは、第一共和政の命運を縮める結果となった。
 こうした政体や政治思想をめぐる対立に加え、第一共和政の時代は、帝政時代から持ち越された財政難の解決のための新連邦税の適用が州によって拒絶されたことに加え、農業や流通の担い手であったスペイン植民者の追放・退去による農業生産力の低下、流通の混乱などの財政経済問題にも直面し、1827年には早くもデフォルトに陥っている。
 そうした中、カトリック教会の特権廃止に踏み込むヴァレンティン・ゴメス・ファリアス大統領の自由主義改革に対する反動として、1834年、サンタ・アナはクエルナバカ綱領を発して自由主義改革の廃止を宣言し、議会も解散、翌年には集権制導入を軸とする七箇条から成る実質的な新憲法(七憲令)を発布した。
 こうして、1824年憲法に基づく第一共和政・メキシコ合衆国は廃され、中央集権制に基づく第二共和政・メキシコ共和国が成立するが、当然にも連邦派はこれに抵抗し、第二共和政では一部地域の独立運動/革命に見舞われることになる。


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