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近代革命の社会力学(連載第153回)

2020-10-07 | 〆近代革命の社会力学

二十一 トルコ共和革命

(2)大戦参加と「統一と進歩」政権の瓦解
 オスマン帝国では、1908年の青年トルコ人革命により、「統一と進歩委員会」に結集した進歩派の文武官が政権を掌握したことは以前に見たが、この進歩派革命政権をもってしても、帝政そのものを廃する共和制に進むことはなかった。
 その点、オスマン帝国は、初代オスマン1世が1299年にアナトリアに小国を建てて以来、発展拡大を遂げ、中世・近世を越えて近代に至るまで、実に600年以上も同じ帝政が維持されるという、中世以降の世界歴史上例を見ない持続的な帝政であった。それは岩盤のように固く構築されており、内発的な革命により完全に打倒されることは、ほとんど想定できないほどであった。
 かくも長期にわたり同じ体制を維持し得た秘訣について解明することはここでの論題を外れるが、一つ言えるのは、オスマン帝国が各時代ごとに柔軟に適応してきたことである。元来、封建的なイスラーム国家として出発したが、近代には西欧列強から「瀕死の病人」と揶揄されながらも、上からの近代化を進めて、一定の自己改革を遂げた。
 それも限界に達すると、如上の進歩派文武官が決起して政権を掌握、立憲帝政への道を進めつつ、近代的な帝国として再編しようとした。その意味で、オスマン帝国の岩盤は固いけれども、変化する性質を持っていたと言える。
 おそらく第一次世界大戦に参戦し、敗戦していなければ、あるいは敗戦しても、領土は保全されておれば、その後もさらに帝政が延命された可能性は高い。その点、第一次世界大戦が共和革命の動因となったロシア、ドイツ、オーストリアと比べても、オスマン帝国における大戦という革命契機には決定的なものがあったと言える。
 そもそもオスマン帝国が欧州の戦争である大戦に参戦するに当たっては、連合国・同盟国双方から勧誘があり、国論を二分する論争が生じた。当時の帝国政府は「統一と進歩」の三大指導者であるエンヴェル、ジェマル、タラートの三人のパシャ称号保持者による三頭政治のもとにあったが、親独派のエンヴェル・パシャが反対を押し切る形で、ドイツが実質的な盟主である同盟国側での参戦を決定した。
 この時、エンヴェルの念頭にあった地政学的構想の一つは、ナショナリズムに基づく汎トルコ主義、すなわち帝国領内から中央アジアにまで広く散在するトルコ系諸民族の統一という気宇壮大な計画であった。その点、大戦は、歴史的に南下政策を採り、オスマン帝国を脅かしてきたロシア帝国と決着をつける機会であった。
 もう一つの構想は、トルコ民族主義を越えた汎イスラーム主義である。これは、当時オスマン皇帝がイスラーム世界全体の教主たるカリフであるという前提に立って、イスラーム世界の統一を図るという構想である。時の皇帝メフメト5世が参戦に当たり、異教徒との闘争を意味するジハードを宣言したことには、象徴的な意味があった。
 しかし、どちらの構想も大戦の過程で瓦解した。対ロシア戦は軍人でもあったエンヴェル自身が指揮を執るも、ロシア軍の大規模な反撃により、失敗した。また、汎イスラーム主義の主要な舞台となるアラビア半島では、イギリスの情報将校トーマス・ロレンス(通称アラビアのロレンス)の工作により、かえってオスマン支配からの解放を目指すアラブ民族の反乱が誘発され、これも失敗に終わった。
 結局のところ、オスマン帝国は1918年10月、ムドロス休戦協定を締結して、事実上敗戦した。これは同時に、「統一と進歩」政権の終焉でもあった。「統一と進歩」政権の気宇壮大な地政学的野望は完全に裏目に出て、かえって亡国の危機を招いたと言える。


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