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近代革命の社会力学(連載第120回)

2020-06-29 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(7)十月革命:社会主義革命
 革命のプロセスでは、その進行を一定地点で収束させようとする勢力と、さらに進展させようとするいわゆる急進派の対立が起きやすいが、多くの場合、急進派は少数であり、収束派の前に敗退する。その要因として、人間は本質的に現状維持的な生物であり、急激な社会変化を望まないという性向がある。
 ところが、1917年ロシア革命では、当初はマイナーな存在だった急進派が多数派ボリシェヴィキを名乗り、実際にある時点から台頭して、一気呵成に革命を進展させてしまった点で、異例である。これが1917年10月(グレゴリオ暦11月)のいわゆる十月革命である。
 帝政を廃する共和革命に当たる二月革命から一年もしないうちに次なる社会主義革命―レーニンのいう労農民主革命―に進展した要因として、二月革命以来の連立臨時政府の無策に対する民衆の幻滅に加え、ボリシェヴィキ党という新しい政党集団の結束とレーニンが「戦闘術」と呼んだ武略の巧みさがあった。
 ボリシェヴィキはレーニンの少数精鋭論に沿った革命家集団として結束が固く、選出された党指導部への絶対服従―いわゆる民主集中制―という鉄の規律で組織されたある種の軍事集団であった。
 ただし、ボリシェヴィキ単独で革命を遂行できるほどの勢力ではなかったから、かれらはペトログラード・ソヴィエト内に軍事革命委員会という機関を設置して、臨時政府の与党となっていた社会革命党からも有志を引き抜いてメンバーに加えた。
 他方、兵員としては、新たに独自の赤衛隊を結成し、武力革命の実行部隊とした。このような陣容を整備したうえで、10月24日から25日にかけて革命軍事委員会・赤衛隊は次々と首都の重要拠点や公共機関をほぼ無血のうちに制圧、臨時政府を瓦解させたのであった。
 こうして十月革命は、電光石火のごとく成功を収めた。このような過程は、革命というよりも軍事クーデターに近いものであり、事実、二月革命の結果成立した臨時政府を転覆した十月革命は「革命」ではなく、ボリシェヴィキのクーデターであったとする見方が、革命敗者となった臨時政府支持者の間で広がった。
 たしかに十月革命は、前述したようにレーニンの言う「戦闘術」に従ってボリシェヴィキ党が綿密に計画・実行した軍事蜂起ではあったが、それだけにとどまったのではない。失敗に終わった1917年7月のデモ以来、臨時政府が統治能力を喪失し、無秩序が拡大していく中で、底流においては社会革命のうねりが起きていたのである。
 中でも大規模なものは農民革命である。臨時政府が公約していた土地改革が一向に進まない中、農民らは集団で地主貴族の居館を襲撃・焼打ちし―時に地主を殺害し―、地主らが所有する土地や家畜・農具を村落ごとに分配していった。こうした動きが8月から10月にかけてロシア全土に広がりを見せていた。
 レーニン政権が十月革命直後のソヴィエト大会に提案し圧倒的多数で採択された「土地に関する布告」はボリシェヴィキ本来の政策である土地の国有化をいったん棚上げし、さしあたり農民社会主義の社会革命党の農業綱領に沿って、地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を謳っているが、これはすでに進展してきていた農民革命の進行を追認したものにほかならなかった。
 一方、都市労働者の側でも、臨時政府の経済無策により、不況、物不足、物価高騰がおさまらない中、二月革命直後から結成され始めていた労働者自主管理組織としての「工場委員会」が急進化し、労働者自身が工場を占拠して採用・解雇を監督し、在庫や必要物資の管理にも当たる「労働者統制」の動きが広がっていた。
 労働者統制は、レーニンが「四月テーゼ」の中でも「労働者代表ソヴィエトによる統制」という形で提起していたところであったが、改めて11月に公布された「生産と分配に対する労働者統制令」の中で確認されている。
 また、農民・労働者から徴兵されていた兵士らは二月革命直後からソヴィエト内で重要な役割を果たしてきており、とりわけペトログラード・ソヴィエトが3月1日付けで発した「命令第一号」は軍隊内における兵士の自治組織である「兵士委員会」の創設を謳ったものであった。
 この組織は帝政ロシア軍の内部からの解体を招いたが、それはとりもなおさず「兵士の革命」であった。そのおかげで、十月革命蜂起に際して、ボリシェヴィキは自派に忠実な武装部隊を編成し、かつ大きな抵抗もなしに首都を制圧することもできたのである。
 このように、十月革命は決してレーニンとボリシェヴィキ党の力だけで成し遂げられたものではなく、民衆の自発的な革命運動の流れに乗って初めて成功したのであり、何の社会的条件もなしにボリシェヴィキ党が限られた勢力でクーデターを断行したという見方は、レーニンとボリシェヴィキ党の力量を過大評価するものである。
 しかしその一方で、相互交錯しつつ別個独立的に行われていた民衆の革命的行動だけで十月革命が成功したという自然発生的な説明が妥当しないことも事実であり、民衆革命の沸騰点でレーニンとボリシェヴィキ党の計画的な軍事蜂起が革命を収束させ、新たに一定の秩序を作り出したのである。


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