ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第66回)

2020-01-28 | 〆近代革命の社会力学

九 日本近代化革命:明治維新

(5)革命政府の展開と権力闘争
 発足したばかりの明治新政府にとって最初の問題は、政体問題であった。幕末の公議政体論議において、一部の進歩派からは西欧的な議会制度の設置を提案する考えが早くも提起されていたが、長い「鎖国」下で西欧政治思想からも切り離されていた当時の日本で、近代的な議会制度というものは容易に理解されなかった。
 さしあたり王政復古の大号令では、古い律令制の枠組みを復活させる便法が採られたが、これとて単純な旧制の復活ではなく、皇族の総裁を頂点に、薩長土などの有力藩主層をある種の閣僚(議定)とする連合政権の形が採択された。しかし、間もなく藩主層はほぼ排除され、青壮年武士及び公家層出身者を中心とした革命政権に改編された。これが太政官制である。
 太政官自体は旧来の律令制における最高執政機関であるが、倒幕派青年武士・公家出自の革命家たちによって構成された明治の太政官制は暫定革命政府の役割を担う全権機関となった。この時点で、権力は幕末倒幕勢力を率いた藩主層から、青年武士・公家出自の革命家たちに移され、旧幕藩体制を乗り超えるある種の下剋上的権力変動が起きたと言える。
 王政復古の頂点にあるのは理論上明治天皇であったが、こちらもまだ10代の青年であり、親政は無理であったから、施政は太政官に委ねられた。結果として、絶対王政のような体制にはならなかったが、議会も憲法も存在しない「王政」は、たとえ天皇が独裁しなくとも、西欧的な文脈では専制君主制の一形態であった。
 明治政府の機構自体は、革命体制にありがちなように、短期間で転変したが、非立憲的な専制支配という枠組み的な政体そのものは、明治中期の憲法発布・議会開設まで継続され、批判的文脈で「有司専制」と指称された。このようなある種の専制的な権力集中体制は、大規模な革命を果敢に遂行する上での移行期集中体制とみなすことができる。
 こうした体制を最初期に主導していたのは、薩摩下級藩士出身の大久保利通であった。彼は初め大蔵卿として財政を掌握、次いで内務卿として内政全般を掌握する事実上の宰相格となり、強力に政権を主導した。
 しかし、革命政権にありがちなように、明治維新政府もまた内部の不協和音と権力闘争に直面する。最初のものは、いわゆる征韓論をめぐる対立であった。これは、直接には、帝国主義的な対外膨張を目指すか、国内の構造変革を優先するかという革命の路線対立に起因するが、大久保派と反大久保派という人事対立の要素も絡み、その決着は征韓派‐反大久保派の大量辞職という形でなされた。
 西郷隆盛という維新功労者の下野にもつながったこの明治六年政変は、始動して間もない維新政府にとっては、内乱の勃発を予想させる不吉な出来事であった。しかし、当面は内務省という強権を持つ総合官庁を創設し、自らそのトップにおさまった大久保の勝利であった。
 この後、名実ともに権力を掌握し、不平士族の反乱である佐賀の乱の鎮圧、明治政府初の海外派兵となった台湾出兵と、内外の軍事問題を処理した大久保が最大の試練に直面したのは、明治六年政変で下野した西郷が九州で起こした大規模な反乱であった。
 西南戦争と呼ばれるこの反乱は、鎮圧に失敗すれば革命政府の瓦解につながりかねない内戦に発展したが、大久保政権は西郷軍を上回る戦力を投入して、短期間でこれを鎮圧することに成功した。この戦勝以後、内戦規模の国内戦乱は発生しておらず、維新政府にとって重要なエポックとなった。
 しかし、大久保政権は長く続かなかった。西南戦争勝利翌年の1878年、大久保は地方士族出自の暗殺集団に襲撃され、あっけなく命を落とすことになったからである。これも変則的な士族反乱とみなすこともできるが、犯行動機として「有司専制」への批判が列挙されていたことは、移行期集中体制の限界を示していた。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 続・持続可能的計画経済論(... »