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近代革命の社会力学(連載補遺37)

2022-10-24 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(2)ラナ家専制支配体制と近代ネパール
 1951年立憲革命前、およそ一世紀にわたりネパールを統治したラナ家は元来、インドのラージャスターン地方からの移住者であり、シャハ王朝で代々軍人として奉仕して実力者となり、1846年の政争に端を発した王宮虐殺事件後、実権を掌握した。
 この事件の詳細は省くが、当時弱体な国王に代わって事実上の最高執権者となっていた第二王妃の専制下で起きた熾烈な権力闘争の果てであり、事件を収拾した将軍ジャンガ・バハドゥル・ラナは第二王妃により宰相に任命されるも、返す刀で国王と第二王妃をインド亡命に追い込んで全権を掌握した。
 その後、自ら据えた新国王を傀儡化しつつ、要職を親族で固めて一族独裁体制を確立したジャンガ・バハドゥルは、西欧視察旅行の経験からネパール近代化の必要性を悟り、「国法」(ムルキー・アイン)と称されるネパール初の近代法典を制定するなど、ネパール近代化の先鞭をつけた。
 ジャンガ・バハドゥルは宰相職をラナ家の世襲とすることを国王に認めさせるとともに、19世紀初頭の対英戦争の敗北以来、ネパールの外交を制約していた英国(東インド会社)を体制保証人とすべく同盟関係を強め、1857年の東インド会社支配下インドにおける反英大蜂起でも兵力(通称グルカ兵)を提供し、武力鎮圧に助力した。
 以後、ラナ家支配体制はインドが東インド会社支配から英国統治に移った後も、第一次世界大戦やアフガニスタン戦争で一貫して英国に協力したため、この間のネパールは事実上英国の衛星国家あるいは属国であったとみなすこともできる。
 ラナ家専制支配体制は世襲とはいえ、自動的な親子世襲ではなく兄弟世襲を基本としたため、兄弟家系間の権力闘争が流血の政変につながることもしばしばであり、特に20世紀初頭には立憲君主制を志向した時のラナ家宰相が弟のクーデターで失権するというように、一族間でのイデオロギー対立も見られた。
 その後、英国との関係性に関しては、1923年の条約によってネパールの独立性が明確に承認されたが、その後もラナ家支配体制の親英路線は不変であり、第二次大戦に際しても、ネパールは連合国側に立ってドイツに宣戦布告し、日本ともビルマ戦線で交戦した。
 第二次大戦後にインドが独立すると、1950年にはインドとの間に平和友好条約を締結、両国間でのビザなし渡航や相互に自由な居住・労働・財産取得・通商などを認め、事実上インドとの一体性を強化する親印政策へ赴いた。
 しかし、この条約は一見した対等性の中にインドに有利な要素が含まれており、ネパールでは不評であった。そのことが主因ではなかったにせよ、条約締結の翌年の立憲革命でラナ家支配体制は終焉した。
 こうして、ラナ家支配体制の新たな保証人となるかに思われたインドはネパール立憲革命にも間接的に寄与しており、インド独立という第二次大戦後の南アジアにおける地政学的大変動は、ネパール立憲革命の背景としても、重要な意味を持っていた。

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近代革命の社会力学(連載補遺36)

2022-10-21 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(1)概観
 ヒマラヤ山麓まで含めたインド亜大陸地域は20世半ばまで、ほぼ大英帝国の植民地支配下に置かれたが、ヒマラヤ山麓のネパールは18世紀に成立した統一王朝(シャハ朝)が19世紀初頭の対英戦争に敗れ、領土を縮小されつつも、辛うじて独立状態を保持した。
 この統一ネパール王国は形の上では2006年‐08年の共和革命で廃止されるまで存続していくが、1846年に発生した王宮虐殺事件を契機として、王朝の軍閥的実力者で宰相でもあったジャンガ・バハドゥル・ラナが実権を掌握して以降、シャハ家の王権は形骸化され、宰相を世襲するラナ家が実権を保持し、専制していた。
 このようなラナ家専制体制をおよそ一世紀ぶりに終わらせたのが、1951年の革命であった。この革命によってシャハ王家が再び実権を回復したが、革命は単なる王権奪回にとどまらず、近代的な立憲君主制の樹立に向かったため、1951年革命はネパールにおける立憲革命の性格を帯びた。
 この革命の主体となったのはその後のネパール政治において民主的な王党派政党として台頭していくネパール会議派であったが、これはラナ家専制体制下でインドに亡命していた活動家を中心に結党された反体制政党であった。その主要な党員の多くが先行のインド独立運動にも参加しており、インド独立運動の主体勢力となったインド国民会議派の影響を強く受けていた。
 1947年のインドの独立は革命によることなく、英国自身の自発的なインド領有放棄と交渉を通じて成立したが、その四年後に起きたネパール立憲革命はインド独立に触発された革命事象であったと言える。
 実際、独立インドは1951年立憲革命に際しても直接に介入こそしなかったものの、当時ラナ体制の策動によっていったん廃位に追い込まれたトリブバン国王の復権に尽力し、革命後のネパール会議派政権を支援している。
 もっとも、トリブバン国王を継いだマヘンドラ国王は民主主義の進展を恐れ、1960年に国王による自己クーデターの形で大権を掌握し、専制王制を復活させたため、立憲革命は無効に帰し、民主的な変革は1990年の民主化革命まで30年を待たねばならなかった。
 その点、1990年革命や2006年‐08年革命も革命的成果の後退を契機に勃発しており、ネパールでは王権と民主化運動のせめぎ合いの力動が長期間をかけて先鋭に続いていく点において、革命と無縁なインドとは社会力学に大きな相違が認められることが注目される。

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近代革命の社会力学(連載補遺35)

2022-10-19 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(4)社会主義体制の樹立とソ連衛星国家体制の確立
 1921年モンゴル再独立革命で成立した言わば第二次ボグド・ハーン体制は、先述したとおり、立憲君主制の形態を取ってはいたが、実態として、これは将来の社会主義体制樹立へ向けた過渡期の体制にすぎなかった。
 一方、再独立革命は当初ほぼマイナーな存在にすぎなかった平民青年層が主体となった人民党がソ連の地政学的戦略に基づく軍事的支援によって短期間で実行したものであったため、新たな人民党主導政権ではソ連の影響力が必然的に増大した。実際、政権はソ連の顧問団によって半ば統制されていた。
 この後、1924年のボグド・ハーンの死までの間は、人民党内部での権力闘争が続く。特に党の前身組織である領事の丘グループと東フレーグループの対立が、前者の指導者で臨時政府首相となったドグソミーン・ボドーの推進した衣装や髪型などの習俗近代化キャンペーンをめぐり激化し、最終的に1922年には、東フレーグループによってボドーとその支持者らが粛清・処刑された。
 こうした党内権力闘争は内戦危機に転じることもあり得たところ、体制固めの転機が1924年のボグド・ハーンの死によってもたらされた。チベット仏教の慣習では活仏の死後は新たな活仏を民間から「発見」して推戴するが、人民党政権は新たな活仏の捜索をせず、君主制の廃止を宣言した。
 そのうえで、ソ連に範を取った社会主義憲法を制定し、人民党から改称された人民革命党が他名称共産党として独裁するモンゴル人民共和国の樹立を宣言した。これによって、再独立革命は短期間で社会主義革命に進展したことになる。
 とはいえ、1911年の最初の独立革命からも十数年、モンゴル社会はいまだ近代化の途上にあり、牧畜以外にめぼしい産業も存在しない中での社会主義革命は時期尚早であったが、その分、新体制はソ連に対して徹底的に追随する衛星国家となることで維持されていく。
 とりわけ、ソ連の独裁者として台頭したスターリンの政策に歩調を合わせ、1928年からは農業集団化に相当する牧畜集団化を強行したため、1932年には反発した遊牧民層による大規模な蜂起が発生した。
 半年に及んだこの蜂起は反仏教政策によって抑圧されていたラマ僧が先導したもので、経済的のみならず、宗教的な要素も伴う複合的な反社会主義民衆蜂起であったが、当局はここでもソ連の支援を得て蜂起を武力鎮圧した。
 この大騒乱の後、政策修正が行われる中で1930年代後半以降に最高実力者として台頭してくるのが、軍人出身のホルローギーン・チョイバルサンであった。彼は1952年の死まで、ソ連と緊密に連携して衛星国家体制を確立するとともに、独裁首相としてスターリン主義の恐怖政治を敷いたことから、「モンゴルのスターリン」の異名を取った。
 こうしたモンゴルの衛星国家体制は、第二次大戦後の中・東欧諸国で相次いで樹立された同様の体制の先駆け的なモデルともなった。それゆえに、この人民革命党支配体制もまた、20世紀末の連続脱社会主義革命の潮流の中で体制崩壊を迎えることになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺34)

2022-10-18 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(3)人民党の結成から再独立革命へ
 モンゴルにおける1911年の独立革命と1921年の再独立革命は、いずれも独立革命でありながら、その担い手を大きく異にしていることが注目される。すなわち、最初の独立革命は主として伝統的な外モンゴル貴族層が担ったの対して、二度目の独立革命では社会主義革命家が担い手として登場してきた。
 このように、せいぜい10年という時間差で、これほど担い手を大きく替えた革命が継起することは稀である。このような変化が生じたのは、二つの革命を隔てる10年間にモンゴル社会が大きく変貌したことを示している。
 外モンゴルでは長く封建的な遊牧貴族社会が続き、清末の内モンゴルでの強制的近代化政策の影響も限られていたが、1911年の外モンゴル独立革命後は、後ろ盾のロシアを介して近代的な思想や運動の急速な流入が起きた。
 中でも、ロシア革命を担ったボリシェヴィキの影響は明瞭であった。そうした中、1919年から20年にかけて、領事の丘と東フレーという二つの革命的秘密結社が結成された。いずれも結集したのは公務員や兵士、教師など様々な近代職を経験した平民出身の青年たちであった。
 二つのグループのうち、領事の丘グループの方が急進的でボリシェヴィキに近く、東フレーグループは民族主義に傾斜しているという差異があり、当初両者には接点がなかったが、両者をつないだのはソ連であった。
 折しも当時、日本のシベリア出兵に対抗するべくソ連が極東に立てた緩衝国家・極東共和国がモンゴルの革命グループをまとめる仲介役を果たすことになった。その結果、1921年3月、上掲の両グループがキャフタにて合同し、モンゴル人民党が結党された。
 このようにソ連が辺境地モンゴルの革命支援に積極的であったのは、ロシア内戦において白軍最後の砦となっていたウンゲルン軍が外モンゴルを占領しており、これを壊滅させることが内戦終結の最後の課題となっていたこともあったであろう。
 一方、モンゴル人民党にとっても、圧政を敷くウンゲルン軍を排除することが完全な独立獲得の条件であったため、ソ連赤軍の支援を必要としており、両者の利害が一致した。こうして、人民党の軍事部門である人民義勇軍とソ連赤軍の共闘関係により、1921年7月にはウンゲルン軍を破り―ウンゲルンは赤軍に拘束後、即決処刑―、首都を制圧した。
 これによって外モンゴルの再独立が成り、さしあたりボグド・ハーンを戴く君主制が維持されたが、1911年革命とは異なり、新政権の中心は人民党にあり、ボグド・ハーンは名目的な君主とされたので、1921年再独立革命は将来の共和制移行を見込んだある種の立憲革命と見ることができる。

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近代革命の社会力学(連載補遺33)

2022-10-17 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(2)自治の撤廃とロシア白軍の占領
 1915年のキャフタ条約により外モンゴル限定での自治という形で収斂したモンゴル独立革命は、1917年ロシア革命で帝政ロシアが打倒されると、中華民国がモンゴル自治の撤廃と直接統治回復に乗り出したことで、完全に無効化された。
 といっても、時の中華民国は軍閥割拠の分裂状態に陥っていたところ、外モンゴルの支配回復に乗り出したのは、有力軍閥・段祺瑞の配下にあった徐樹錚将軍である。彼は1919年、当時の外モンゴル首都イフ・フレー(現ウランバートル)に進撃し、軍事的圧力によってボグド・ハーンに自治を返上させた。
 これにより、外モンゴルは中華民国にいったん復帰することになるが、この短い中華民国支配の間、当局は仏教徒を抑圧し、独立運動を厳しく弾圧した。しかし、翌年、ロシア十月革命後に勃発した内戦が外モンゴルに接するシベリアにも拡大する中、反革命軍(白軍)の軍閥としてシベリア戦線を指揮していたロマン・フォン・ウンゲルン‐シュテルンベルクが外モンゴルに侵入してきた。
 ロシア内戦の白軍は中央指揮系統を持たず、様々な反ボリシェヴィキ勢力がそれぞれの首領を立てて個別蜂起しており、ウンゲルンもそうした一人であった。彼は帝政ロシア時代の職業軍人としてシベリアに駐留した経験から、モンゴルを含む極東情勢に通じ、関心を持っていたため、極東からボリシェヴィキに反撃する戦略を抱いており、外モンゴル攻略もその一環であった。
 これに対し、軍閥割拠の中、充分な防衛態勢を取れない中華民国軍は効果的に反撃できず、1921年にはウンゲルン軍が外モンゴルを占領した。ウンゲルンは改めてボグド・ハーンを復位させたため、表面上はモンゴルの独立が回復されたかに見えた。
 こうした行動から、ウンゲルンはモンゴルの解放者としていっとき歓迎されたが、ドイツ系ロシア人貴族(男爵)ながら、チンギス・ハーンの孫バトゥ・ハーンの血を一部引くと主張するウンゲルンは帝政ロシアの復活にとどまらず、モンゴル帝国の復活、または「仏教徒十字軍」による西欧支配といった誇大妄想的な夢を抱いていた。
 ウンゲルンは外モンゴルの内政にはさほど干渉しなかったものの、ロシア内戦の帰趨が赤軍の勝利に傾く中、事実上の独立軍閥勢力と化していたウンゲルンの軍事占領下に置かれた外モンゴルでは、その冷酷さから「狂人男爵」の異名も取ったウンゲルンの秘密警察による弾圧や殺戮が横行し、モンゴル人の信を失うのに時間はかからなかった。
 このように、自治を喪失した後の外モンゴルは辛亥革命後の中国内戦と十月革命後のロシア内戦という二つの隣接大国の内戦によって挟撃される状況に置かれたが、そうした地政学的に困難な状況が改めて再独立革命へ向けた力動を作り出すことになる。

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近代革命の社会力学(連載補遺32)

2022-10-14 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(1)概観
 モンゴルでは、辛亥革命を契機とする最初の独立革命が中華民国に配慮したロシアの介入もあり、領域的に外モンゴルに限局され、かつ中華民国宗主下での自治という中途半端な結果に終わったが、この外モンゴル自治国はロシアを後ろ盾としたため、ロシアの影響を直接に受けることとなった。
 その過程で、帝政ロシア末期に急速に台頭したマルクス‐レーニン主義のボリシェヴィキ革命運動の影響も受け、モンゴルにも同主義を奉じる秘密結社が結成され、これがソ連の支援も受けて、モンゴル再独立運動の中核に成長していく。
 一方、ロシア革命によって帝政ロシアが打倒されると、中華民国はモンゴル支配の回復を目指して攻勢をかけ、いったんは自治の撤廃とボグド・ハーン政権の廃止を実現した。これに対して、1921年、モンゴル社会主義者が前年に結成していた人民党を中心に決起、ソ連赤軍の支援も受けて、ボグド・ハーン政権を復旧させた。
 この再独立革命は活仏を戴くボグド・ハーン政権の復旧という限りでは王政復古に近い事象であったけれども、その担い手は親ソ連派の社会主義者たちであり、究極的にはソ連に範を取った社会主義体制の樹立を目指していた。
 そのため、1924年にボグド・ハーンが死去すると、後継のハーンを立てることなく、無血のうちに社会主義のモンゴル人民共和国の樹立が宣言された。この再独立から人民共和国樹立に至るプロセスはほぼ一連のものであり、包括して再独立‐社会主義革命ととらえることができる。
 この革命はしばしばアジア地域初の社会主義革命とも規定されるが、基本的にロシア革命の余波であるとともに、その背後には、ソ連を中心とする国際共産主義団体コミンテルンを通じたソ連による革命輸出策の結実という側面があった。
 そのため、新生モンゴル人民共和国は、外モンゴルを領土とした限りではボグド‐ハーン政権を継承しつつ、法的には中華民国宗主下を脱し、独立を確保したとはいえ、以後、一貫してソ連に忠実な衛星国の地位を維持した。
 ちなみに、ユーラシア大陸をソ連をはさんで東西に眺めると、西でソ連に隣接するフィンランドの社会主義革命は内戦の末に未遂で終わったのに対し、東で隣接するモンゴルでは再独立‐社会主義革命が円滑に成功した点で好対照を示したことも、ソ連赤軍の支援の有無が決定因となっている。

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近代革命の社会力学(連載補遺31)

2022-10-12 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(5)チベット独立革命と近代チベット国
 チベット地方は清朝第5代雍正帝の時に分割されて以来、その西南部のみがダライ・ラマ政府(ガンデンポタン)の支配領域とされた。これも基本的には清朝の藩部であるが、ダライ・ラマというある種の君主を擁するチベットと清朝の関係は特殊なものであり、他の藩部よりも自治の程度は高かった。
 そうした微妙な辺境支配の空隙は、19世紀末以降、西アジアへの進出を狙う英国の射程内に入った。それを象徴する事変が、清末の1903年から翌年にかけて、英国によるチベット侵攻・占領である。
 これは英国がライバルであった帝政ロシアを牽制するべく、当時の英領インドの軍隊を動員して断行したもので、インドに隣接するチベットへ侵出することで、英領インドを防衛する狙いがあった。
 この作戦は武力で圧倒的な英国側の勝利に終わり、時のダライ・ラマ13世は北京亡命に追い込まれ、首都ラサには英軍が駐留した。その際、ダライ・ラマ政府は清朝に諮ることなく、英国との間で保護条約を締結した。
 こうしてチベットは英国の保護国に置かれ、1908年には13世がいったん帰国するが、これに対抗するべく、1905年以降、清朝が四川省の地方軍を動員してチベットに進軍し、1910年にはラサに進駐したため、13世はインド亡命を余儀なくされた。
 これ以後、清朝は13世を一方的に廃位し、チベットを藩部から中央集権的な省に格下げする改革に着手するが、間もなく辛亥革命で清朝が打倒されたことで、白紙に戻された。そこで、チベットは残留する清朝軍を武力で駆逐して、ダライ・ラマ政権の支配を回復した。
 1913年には13世も帰国して、ここにチベット独立革命が成立した。チベットと英国、中華民国三者で協議した1915年のシムラ条約では、チベット独立に否定的な中華民国の立場にも配慮し、チベットを中国の宗主下での独立国家として承認したが、内容に不満の中華民国が署名を拒否したため、結果的にチベットは事実上の独立を確保した。
 といっても、後ろ盾となった英国の影響力が増し、実質的には英国の保護国に近かったが、13世は保守的ながらも、英国の支援でチベットの近代化に取り組み、文化面でも一定の欧化を進めた。
 その間、軍閥割拠の内戦状態に陥った中華民国側も辺境のチベットに本格介入するゆとりがなかったことにも助けられ、この近代チベット国は支配領域を中華民国から奪取・拡張しつつ、1933年の13世死没を超えて1951年まで存続した。
 そうした点で、チベット独立革命は英国という外力も加わった近代化革命を兼ねたものとなると同時に、独立革命後のモンゴルがロシアとの関係を深めたことで、ロシア革命の影響を直接に受けて社会主義勢力が台頭、再独立‐社会主義革命を経て社会主義国に収斂していくのとは対照的な経過を辿った。

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近代革命の社会力学(連載補遺30)

2022-10-11 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(4)モンゴル独立革命とその帰趨
 晩期の清朝は、極東進出を活発化させる帝政ロシア対策としても、モンゴル遊牧民保護のために禁じていた漢人のモンゴル入植を解禁したため、中原に接する内モンゴル地域ではモンゴル人の遊牧地が削減されたことに対するモンゴル人の反発が高じた。
 一方では、急激に人口を殖やした漢人入植者の側にも反モンゴル感情が生じ、1891年には金丹道と呼ばれる内モンゴル漢人系の秘密結社が蜂起、最大推計50万人ともされるモンゴル人を殺戮する非人道的な民族浄化事件も発生した。
 こうした漢人勢力の攻勢に対抗して武装ゲリラ活動を開始するモンゴル人も存在したが、一方で、独立運動に赴く者も現れた。こうしてモンゴル独立革命の蠕動はまず内モンゴルに始まるが、その革命の動きはいまだ漢人の入植にさらされていなかった外モンゴルにも波及した。
 そうした内外モンゴルの運動をつないだのは、内モンゴルのモンゴル人官僚バヤントメリン・ハイサンであった。これに呼応して、外モンゴルでもダ・ラム・ツェレンチミドやトグス‐オチリン・ナムナンスレンらの王侯貴族が独立運動に乗り出した。
 こうした外モンゴルの独立運動は帝政ロシアに資金援助を依頼したことから、ロシアという外力が加わることになり、以後、帝政ロシアを打倒したロシア革命後も含めて、モンゴルとロシア(ソヴィエト)の関係が緊密となる契機が作り出された。
 そうした中で辛亥革命が勃発すると、これを機に外モンゴル諸侯が決起したのであるが、その際に君主ボグド・ハーンとして推戴したのが、モンゴルにおける最高宗教権威であった活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世であった。
 辛亥革命とは異なり、共和制でなく君主制が志向されたのは、当時、内外モンゴルをまたいでモンゴル諸部族を結集できるのは、旧モンゴル帝国皇家であったチンギス・ハーン裔がすでに衰微した時代にあって、活仏をおいて他になかったからであった。とはいえ、活仏は言わば象徴的な君主であり、実権は首相に就任したナムナンスレンが掌握した。
 こうして成立したのが数百年ぶりに独立を回復したモンゴルのボグド・ハーン政権であるが、この政権は独立運動の支援国であった帝政ロシアを後ろ盾としており、事実上ロシアの保護国に近い状況にあった。
 同時にまた、如上独立運動の経緯から、この政権は外モンゴルに権力重心があったところ、革命翌年の1912年には内モンゴル有力者らもボグド・ハーン政権に帰順したため、1913年には軍を派遣して内モンゴルの支配を開始した。
 さらに、政権は一歩遅れて独立革命が成立したチベットと協調し、相互承認条約を締結した。この条約は相互防衛義務も規定した安全保障条約でもあって、両国が未だ帰趨の定まらない不安定な独立状態を協調して防衛していくための同盟であった。
 しかし、この後の経過がチベットと大きく分かれていくのは、モンゴルがロシアを後ろ盾としたことに要因がある。ロシアは辛亥革命で成立した中華民国との関係構築を目指すため、中華民国の国益に配慮し、すでに漢人人口が上回っていた内モンゴルを含めた独立に異を唱えた。
 そのため、ボグド・ハーン政権は内モンゴルから軍を撤退させざるを得なくなり、事実上は外モンゴルのみの独立となったばかりか、1915年に帝政ロシアと中華民国、モンゴルの間で締結されたキャフタ条約では、モンゴルに対する中華民国の宗主権が承認された。
 その結果、外モンゴルは中華民国宗主下の自治国家という地位に後退し、自立的な外交権を喪失した。こうして、モンゴル独立革命は所期の成果を見ず、実質上は挫折することとなり、真の独立はロシア革命後の地政学的変化を待たねばならなかった。

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近代革命の社会力学(連載補遺29)

2022-10-10 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(3)辛亥革命と「五族共和」理念
 モンゴル/チベット独立革命の言わば震源を成す辛亥革命は古代以来頻回の王朝交代を経験しながらも連綿と続いてきた中国の伝統的な君主制を終焉させる共和革命であったが、民族関係の観点から見れば、多民族の同君連合的な組成を持った清朝を打倒する民族革命でもあった。
 実際、辛亥革命の理念的指導者であった孫文が提唱した著名な三民主義の筆頭を成すのは「民族独立」であったし、三民主義に加えて、清朝支配層であった満州人の追放を含意する「駆除韃虜」や「恢復中華」といった直截な民族主義的スローガンも掲げられていたのであった。
 一方、モンゴル・チベットにとっても、辛亥革命で清朝が打倒されたことは、かの「文殊皇帝観」に基づく清朝支配体制からの離脱を意味していた。従来、同君連合の君主として奉じてきた清朝皇帝が存在しなくなったからには、独立の地位を回復できるはずだというのであった。
 ここまでは、共に満州人に支配されてきた各民族の分離独立という理念を共有しているように見えるが、辛亥革命の主体勢力であった孫文ら革命派漢人の民族観念はアンビバレントなものであった。
 「民族独立」といっても、漢民族を含めた各民族がそれぞれ分離独立することを意味していたわけではなく、当初は、むしろ清朝を構成した五大民族、すなわち漢満蒙回蔵(漢人・満州人・モンゴル人・ウイグル人・チベット人)の共存を目指す「五族共和」が標榜されていた。これは言わば、多民族共和国の構想であった。
 もっとも「五族共和」理念自体は元来、革命派と対立した立憲王党派が清朝の体制内改革の理念として提唱していたものであり、言わば借りものであった。革命派の本旨は、むしろ「恢復中華」にあったと言える。
 このようにスローガン化された「中華」は、単に漢民族の独立回復のみを意味せず、むしろ旧来の中華主義、すなわち漢民族中心主義を含意し、他民族に対しては同化主義を志向することになる。その限りでは、革命的というより、明朝以前の歴代中華王朝理念への後退を示してもいた。
 実際、中華民国が成立すると、五族共和論は事実上撤回され、同化主義の方向性が基調となるのであった。この方向性が、モンゴル・チベットの独立革命に対しては反革命力動として働くことは明らかであった。
 その点、辛亥革命の数年後、欧州の代表的な多民族同君連合の大国であったオーストリア‐ハンガリー帝国を崩壊させたオーストリア革命では、支配下各民族が続々と分離独立していく帝国解体革命の方向を取ったこととは対照的な力動を示したのが辛亥革命であったと言える。

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近代革命の社会力学(連載補遺28)

2022-10-08 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(2)清朝藩部の半自治的支配構造
 辛亥革命以前、モンゴルやチベットを含む清朝の異民族辺境版図は本土の直轄域とは区別されて藩部と呼ばれ、藩部を管理する理藩院によって統括されていた。理藩院管轄下の藩部には、内外蒙古、チベット及びチベットの連続域とも言える青海、さらにかつての西域に当たる新疆の各領域があった。
 理藩院は元来、清朝がモンゴルを征服した後、なお強大であったモンゴル諸部族を統治するために設置した蒙古衙門を前身組織とし、1638年に蒙古衙門を拡大改組して理藩院に改称したものである。なお、清末の1906年に理藩部と再改称されたが、以下では理藩院で総称する。
 理藩院は中央省庁の一つではあったが、集権的統治機関ではなく、管轄下の各藩部では原則的に民族自治が許されており、ある意味では現代中国における名目的な少数民族自治区の制度よりも広い自治権が保障されていた。
 そもそも清朝は中国大陸における少数民族である旧女真族=満州人が建てた王朝であり、満州人皇帝が各民族の共通君主として立ち、漢民族やその他の少数民族を包摂してある種の同君連合を形成していたため、民族自治は辺境統治のありようとしても自然なことであった。
 特に、モンゴルを含むチベット仏教圏では、清朝皇帝は智慧を司る文殊菩薩の化身にして、天から授かった輪宝なる武器を所持し、地上を仏法に基づき治める理想の王としての転輪聖王を一身に体現した「文殊皇帝」として君臨するという皇帝観の下に、清朝の支配が受容・正当化されていた。
 とはいえ、各藩部は清朝が軍事的に征服した結果として清朝の版図に併合されたものであるから、完全な自治が認められたわけではなく、中央から文武官を派遣して、自治事務の監督や封爵、朝貢をはじめとする主要な朝廷事務に従事させた。
 こうした半自治的支配はしかし、清朝末期の体制動揺期には直接統治方針に転換され、1884年に新疆が地方行政区分の省に転換されたことを皮切りに、モンゴルやチベットを含むその他の藩部も省・州・県のような地方行政区分に再編する計画が企図された。
 特に中国大陸中心部(中原)に北方で接続する蒙古では、新式軍隊の配備を含む上からの強制的近代化政策を導入するとともに、漢民族の入植を奨励し、伝統的な遊牧地の削減を政策的に実施するなどしたほか、チベットでも1903‐04年の英国による侵略・占領後、清朝の直接統治に転換された。

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近代革命の社会力学(連載補遺27)

2022-10-07 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(1)概観
 中国最後の王朝体制である清朝を打倒した辛亥革命は清朝の北部及び西部の辺境版図に独立へ向けた蠕動をもたらしたが、その中心はモンゴルとチベットであった。
 この両者は地理的には離隔しているが、中世のモンゴル帝国(元朝)以来、共にチベット仏教を精神的基盤として共有する間柄として、かねて緊密な関係にあり、独立革命に際しても協調的行動を取ったので、ここでは両事象を包括して扱う。
 先行したのはモンゴル(蒙古)であり、1911年10月に辛亥革命が勃発するや、同年12月には外蒙古(現モンゴル国領域に相当)の王公貴族層が決起し、チベット人のモンゴル活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世を君主ボグド・ハーンに推戴し、独立を宣言した。
 このように辛亥革命とほぼ同時的に発生した経緯から、この独立革命は辛亥革命の一部とみなすこともできるが、革命の性格としてはモンゴル人の民族革命であり、また革命の方向性としても活仏を推戴する神権君主制を志向したことから、辛亥革命を契機とする別個の革命事象と見るべきものである。
 他方、チベット独立革命は1912年、清朝崩壊後にチベットの民兵組織が蜂起して清朝のチベット駐留軍を駆逐したうえ、インドに亡命していた活仏ダライ・ラマ13世を帰還させることで成立した。
 こうしてモンゴルとチベットの独立革命は別個に発生したが、辛亥革命で成立した中華民国政府は直ちに清朝の旧辺境版図の独立を承認する立場になく、モンゴル・チベットの独立はなお未確定であったことから、1913年、両国は相互承認条約を締結し、独立の地位を中華民国にも認めさせようとした。しかし、この後の経過では、両国の進路は分かれる。
 チベットは中国大陸革命で成立した中国共産党政権の人民解放軍が進攻・征圧した1950年まで独立を保持したが、モンゴルは独立に難色を示す中華民国と極東進出を狙う帝政ロシアの思惑から、1915年の条約で外蒙古のみが中華民国の宗主権下で自治権を保持するという妥協策に収斂した。
 こうして、モンゴルの独立は大きく制約される結果となり、完全な独立はロシア革命後の1921年、ソヴィエト政府の支援の下、改めてボグド・ハーンを君主とする立憲君主国を樹立するまで待つことになる。
 その意味で、1911年のモンゴル革命は完全な独立を獲得した1921年の再革命に対して、第一次独立革命―実態としては未遂―とみなすことができる。

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近代革命の社会力学(連載補遺26)

2022-10-05 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(5)未遂革命の余波
 時機を早まった革命として短時日で未遂に終わった甲申事変は、事変そのものよりも、遅効的に発現した事後的な余波のほうにむしろ大きな広がりがあった。その一つは、農民蜂起(甲午農民戦争)である。
 19世紀の朝鮮では両班階級の不当な搾取に対する農民反乱がしばしば発生したが(拙稿)、甲申事変後、1890年代にかけて持続的な農民反乱が発生した。その言わば集大成が1894年の甲午農民戦争であった
 甲午農民戦争は独自の新興宗教・東学を精神的な基盤とする新しい農民運動であり、両班階級に属しない地方役人出自の指導者・全琫準に指揮されて組織的に武装蜂起したため、一時は南部の全州地域を占領、ある種の革命的解放区を設定した。
 これは、甲申事変で弱体が露呈された革新派両班層に代わって農民層が革命の担い手として登場し、さらに全琫準のように農民に近い社会的位置にあった平民階級から出た非両班知識人が指導者として台頭してきたことを意味する。
 しかし、時に「甲午農民革命」とも称される農民蜂起は、近代的な理念に基づいた革命とは異なり、なお封建思想を残す東学を精神的基盤とし、近代的地方自治の制度を創出することもなかったため、近代化革命への発展を見ることはなかった(その点、近世日本の一向宗革命にいくぶん類似する)。
 一方、朝鮮王朝政府も甲午農民戦争を完全に鎮圧する力量を欠いていたため、和約を締結して、東学勢力による自治を事実上容認せざる得なくなるとともに、遅ればせながら近代化改革にも着手した。事変から10年以上を経た1894年から中断をはさみ、二次に及んだ改革である。
 その点、事変直後は、復旧された「事大党」政権により、甲申事変に関与した人士に対する苛烈な報復的弾圧がなされ、指導者の金玉均も逆賊として追及を受け日本へ亡命、その後、上海で閔妃政権が送り込んだ刺客によって暗殺されるなど、「独立党」はいったん壊滅された。
 しかし、1894年に至り、日本の干渉もあって、近代化改革の第一歩を踏み出す。特に、日本に亡命していた旧「独立党」幹部の一人、朴泳孝が帰国し、改革派金弘集政権の内務大臣として、近代的な内閣制度の導入、税制改革、近代警察・司法の創設など、まさに「独立党」が目指した諸改革(甲午改革)を主導した。
 甲午改革政権は内紛からいったん瓦解するも、1895年、日本公使館の関与の下に、復権した大院君ら反閔妃勢力によって閔妃が暗殺されると(乙未事変)、金弘集政権が復旧し、改革を再開した(乙未改革)。
 ところが、長く事実上の君主的立場にあった閔妃殺害の上に立つ近代化改革の継続に対しては保守勢力の激しい巻き返しが起こり、金弘集は反乱暴徒に殺害されて政権は瓦解、結局、朝鮮王朝の近代化は挫折した。
 この後の経過は甲申事変の余波事象を超えるので論及しないが、朝鮮が内発的な近代化革命に成功しなかったことは、朝鮮権益をめぐる抗争でもあった日清戦争に勝利した日本の朝鮮支配力を強め、最終的には併合へとつながる伏線となる。

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近代革命の社会力学(連載補遺25)

2022-10-04 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(4)革命的決起と挫折
 「独立党」が革命的決起に傾斜した要因としてはいくつかのことが考えられるが、一つに破綻状態の財政強化のため日本やアメリカ、フランスに要請した借款の交渉が不調に終わったことに加え、当時、清国から派遣されていた軍人・袁世凱が事実上朝鮮の摂政のようにふるまい、植民地的な様相を呈し始めていたことがあった。
 そうした中、1884年6月、清国はベトナムに対する宗主権をめぐりフランスと交戦することになり、朝鮮駐留軍の半数を引き揚げた。これによって清朝による朝鮮支配に緩みが生じたことが、決起への好機を提供した。
 日本外交当局もまた親日派の「独立党」に政権を掌握させ、朝鮮への浸透力を挽回する好機ととらえたことから、急速に決起の機運が生じた。そのため、「独立党」の計画には日本公使館(竹添進一郎弁理公使)も関与したうえ、電撃的なクーデターの手法で一気に政権を掌握することを狙った。
 とはいえ、「独立党」は文官の集団であり、武力を有していなかったため、必要な武力は主として朝鮮に駐留する日本陸軍部隊を主力に、誕生間もない新式軍隊の一部と士官学校生を動員できるのみであった。
 しかし、この空隙を突いた電撃クーデターはいったん成功し、1884年12月5日(以下、日付は1884年12月)に「独立党」を中心とする新政権が樹立された。といっても、近代的な政府ではなく、事前に国王・高宗の了解も得たうえ、旧来の朝廷機構の枠内で構成された新政権であった。
 構成メンバーとしても、宰相に当たる領議政に大院君の従弟が就くなど、清国に拘束されていた大院君に近い人物が起用されており、財務相に相当する役職に就いた金玉均をはじめ、「独立党」人士と本来は攘夷派である大院君派の連合政権に近い形であった。
 このように、経過としては守旧派をも取り込んだクーデターであったが、新政権が公表した14箇条の綱領(革新政綱)には、門閥の廃止と人民平等の権利の確立、内閣制度の創設、地租法の制定、財政官庁の統一化、政令に基づく行政など、近代的な政治経済制度の樹立に向けた項目が盛られており、新政権が持続すれば、まさに革命的な「甲申維新」となるはずのものであった。
 しかし、新政権は「政綱」の筆頭に大院君の解放と帰還を掲げ、新政権にも大院君寄りの人物を起用したこと、さらに高宗を清朝から自立した「皇帝」として改めて推戴しようとしたことは閔妃とその支持勢力「事大党」及び清国を刺激し、直ちに反革命の態勢に赴かせた。
 6日から清国軍による反撃が開始されると、竹添公使は日本軍将校の反対を押して撤収を指示したため、新政権は実質上武装解除状態となった。これが打撃となり新政権は瓦解、7日には高宗が清国軍に拘束され、清国の要求により、親清派の臨時政権に立て替えられた。
 こうして、「独立党」の革命的決起はわずか数日の天下で挫折することとなった。その要因として、技術的には、独自の武力を持たない両班文官集団が主導したため、武力を専ら日本に依存したこと、その日本が清国軍の反撃の中、あっさり手を引いたことも決定因であった。
 より深層的には、この時期の朝鮮王朝は閔妃が国王を凌ぐ実権を掌握して外戚門閥政治を展開する勢道政治の絶頂期にあり、門閥廃止という「独立党」の政綱を実現できるだけの条件が熟していなかったこと、そのため「独立党」はその母体である両班階級の間ですら支持の広がりを欠いていたことが、挫折要因として考えられる。

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近代革命の社会力学(連載補遺24)

2022-10-03 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(3)「独立党」の形成と日本へ/の接近
 閔妃政権が清国の武力を借りて壬午事変を鎮圧し大院君を排除したことは、ひとまず開国・開化派の勝利を意味していたが、閔妃政権は借りを作った清国への従属を強めていったため、この時期の政権主流派は、清国に奉仕しつつ開国・開化を推進する立場であった。
 この立場は「事大党」とも呼ばれるが、正確には「親清開化派」である。これに対して、清国への従属に反発し、清国から自立しつつ、より急進的な近代化を推進しようとするある種の野党が台頭し、「独立党」と呼ばれるが、これも正確には「脱清開化派」である。
 このグループは、その事実上の指導者である金玉均をはじめ、朝鮮王朝の伝統的支配層を成す両班階級に出自する青年を主体とした急進的な開化主義者から構成されていた。その中には、朴泳孝のように王女を配偶者とする王室外戚も含まれるなど、基本的に体制内部のエリート階層に出自する者が多い。
 その点、日本の明治維新を担った地方藩の青年下級武士層のように、体制の周縁部から台頭した人士による革命とは担い手を全く異にしていたことが、革命事象としての両者の結末を分ける要因ともなったであろう。
 そうした相違にもかかわらず、「独立党」人士は日本の明治維新を朝鮮近代化の範とみなし、日本と結んで朝鮮の近代化を推進せんとする構想を抱いた。そのため、金玉均らは初め、開化派の仏教僧・李東仁を日本に密航させて、日本の実情視察を行ったほか、金玉均自身も国王の勅命を得て、日本に遊学した。
 その際、福沢諭吉と親交を深め、福沢の紹介で明治政府の高官を含む多数の有力者とも懇親する機会を得た。福沢自身もこれを機に朝鮮近代化運動に強い関心を寄せるようになり、「独立党」人士を積極的に支援した。
 体制エリート層に発した「独立党」は当初から革命を構想していたわけではなかったが、そのメンバーはまだ若く、体制内で枢要な地位に就くことはかなわず、朝鮮王朝では伝統の体制内党争を通じて「事大党」を抑え、政権を掌握することは至難な情勢であった。
 一方、壬午事変後、清国の朝鮮干渉が強化される中、修好条規以来の対朝影響力の低下を余儀なくされた日本としても、日本と結んで朝鮮の近代化改革を目指す「独立党」は新たな親日派として利用価値が高かった。そのため、明治政府の井上馨外務卿以下、日本外交当局も「独立党」の支援に傾斜していく。
 こうした両者の利害の一致は「独立党」の日本への接近とともに、日本の「独立党」への接近を促すこととなった。そうした相互力学の中で、「独立党」による武力革命への流れが急速に生じるが、当時の内外情勢に鑑みれば、それは拙速な決起を予感させるものでもあった。

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近代革命の社会力学(連載補遺23)

2022-09-30 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(2)朝鮮王朝晩期の情勢
 14世紀末に創始された朝鮮王朝は、儒学教理を精神的な支柱としつつ、創始者・李成桂の子孫が歴代国王を世襲し、両班階級を支配層とする体制を一貫して保持し、王を廃位する政変は経験しながらも、王朝交代も革命も経験することなく、数百年にわたり安定的に存続していた。
 その秘訣は、江戸時代の日本とも似て、日本や琉球との通商関係を例外とする事実上の「鎖国」政策と中国歴代王朝への服属によって定常的に体制を維持していくという徹底した保守主義にあった。
 しかし、甲申事変が発生した1880年代の朝鮮王朝は充分な指導力を持たない最後の国王・高宗の治世下、西洋列強や明治維新後の日本からの圧力を受け、長い王朝史の中でも特に混乱を極めた晩期に当面しようとしていた。
 それに先立ち、1870年代から、ともに野心的な国王父君・李昰応(大院君)と国王正妃・閔玆暎(閔妃)が権力闘争を繰り広げていたが、両派の争点の一つは、西欧列強に対する開国か攘夷かという対外政策にあった。その点で、幕末期の日本とも類似し、列強の帝国主義的膨張に直面した「鎖国」体制晩期の動揺を示していた。
 朝鮮では大院君勢力が攘夷政策を追求したのに対し、閔妃勢力は開国政策を志向するという対立軸ができていたが、1873年の政変で大院君の追い落としに成功した閔妃勢力は、明治維新後、新体制を樹立した日本との修好条規の締結を皮切りに、西洋列強との通商条約の締結に進んだ。
 特に日本との関わりは強化され、日本の支援で軍隊の近代化が進められていたところ、劣遇されたことに不満を持つ封建的な旧式軍隊を扇動する形で、復権を狙った大院君が1882年にクーデターを起こし(壬午事変)、一時的に権力に返り咲くが、閔妃勢力は清国を頼り、復権大院君政権を打倒し、大院君は清国に連行された。
 こうして、以後は閔妃政権の時代となるが、清国を頼ったためにかえって清国への従属が強まり、中朝商民水陸貿易章程をもって朝鮮が清国の属国であることが明定される一方、壬午事変では朝鮮在留日本人も標的にされ、多数の日本人が殺害されたことから、改めて懲罰的内容を持つ済物浦条約が締結され、邦人保護を名目とした日本軍の朝鮮駐留を認めさせられた。
 このように清国と日本の挟み撃ちのような状況に陥ったことは、権力を取り戻した閔妃政権の自立的な政策遂行を制約し、権力維持のために清国と日本、後には極東に触手を伸ばすロシアの間を浮動する日和見主義に赴かせた。
 内政面では、閔妃政権は外戚門閥が権力と利権を独占する19世紀の朝鮮を特徴づけた勢道政治の流れの中にあり、元来はマイナーな一族であった外戚・閔氏による支配が行われていた。
 その中心にあったのは、言うまでもなく閔妃であったが、彼女は巫術に傾倒し、関税収入を含む莫大な国費を祭祀に充てるなどの専横が見られた。結果、財政難をまかなうため、悪貨鋳造策に走ってインフレーションを招くなど、社会経済の混乱も深まったことは甲申事変を誘発する動因となる。

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