Ⅳ 近世共産主義
(5)ルソーと安藤昌益
欧米の18世紀は革命の世紀であり、フランス市民革命とアメリカ独立革命という二つの世界史を変える大革命を経験した。それらに少なからぬ思想的影響を及ぼしたのが、両革命を見る前に世を去ったジャン‐ジャック・ルソーであったが、ルソーは近代共産主義思想にも触発的な影響を与えている。
ルソーは人間社会における不平等という問題を初めて正面から主題化して取り組んだ思想家であり、彼の落選した懸賞論文『人間不平等起源論』では、私有財産を人間社会の不平等の最大要因として挙げている。
「ある土地に囲いをして、「これは私のものだ」と言おうなどと思いつき、こんなたわごとを信じるほど純朴な人々を見い出した最初の人間こそ、政治社会の真の創始者であった」という有名な一節は英国の囲い込み運動を念頭に置いているようにも読めるが、属人的・排他的な近代所有権制度全般への告発と解釈することもできるだろう。
社会的不平等を告発したルソーは、原始の自然状態を人間社会の理想状態と仮定した。しばしばルソーのモットーとされてきた「自然に帰れ」は、まさにそうしたルソー的理想の縮約である。老子の無為自然論を思わせる思想であるが、ルソーはユートピアを構想することはなく、また共産主義的な思想を表明することもなかった。
従って、「自然に帰れ」はルソー思想の正確な縮約とは言えない。ルソーが理想として説いたのは一般意志に基づく共和政体であった。ここには基礎哲学と政治理論の乖離があり、ルソー思想の理解を困難にしている。さらに言えば、ルソーは土地その他の生産手段のあり方も明示しなかったため、彼が告発した不平等の解消の道筋も明らかでない。
ルソーの一般意志とは個別的な民意や世論のようなものではなく、そうした個別的なものを超え、社会契約に基づき全体的な公共の利益を目指す人民の意志であり、そこから個別的な利害を代表しがちな代議制よりも直接民主制が是とされ、その限りでは、共産主義的なソヴィエト制度の原型のような提起であるとともに、一般意志の指導への服従という権威主義的な要素―レーニンの民主集中制を予期させる―も内包していた。
他方、革命など想定することさえできなかった18世紀の日本で、ルソーとほぼ同時代に平等社会の理想を説いたのが安藤昌益であった。東北地方の町医者を本業とする自由思想家であった昌益は、ルソーが『人間不平等起源論』を書いた一年前の1753年に『自然真営道』を公刊した。
昌益は「鎖国」政策により欧米思想に接することなしに、おそらく日本で初めて独自に封建制度を正面から批判した啓蒙思想家であり、奇しくもルソーと同様、自然状態を「自然世」という語で理想化した。ルソーと異なるのは、昌益はユートピアンであり、現世=法世を自然世に昇華すべく、身分・階級のない万人直耕の農業社会を理想として具体的に描写していることである。
従って、昌益の思想は共産主義と呼び得る内実を備えると同時に、「上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く」といった刑罰制度への否定的な言及からはアナーキズムの要素も一定認められ、言わばアナーキズム系の共産主義=アナルコ・コミュニズムの素朴な先駆けと読むこともできる。
ただ、昌益はルソーと異なり、当時の徳川幕府の言論統制を警戒して、意識的に宣伝を控えたことで、長く民間に埋もれた思想家となり、その同時代的な影響はほぼ皆無であった。むしろ、現未来のエコロジカルな共産主義において参照されるべき点が多いかもしれない。
(6)フランス革命と共産主義
ルソーの没後、10年余りを経て勃発したフランス革命はいくつもの段階に分かれ、段階ごとに中心主体を成す階層も異なる複雑な、言わば総革命であったが、最終的には持てる階級である中産階級が主体となるブルジョワ革命に収斂していったと言える。そのため、私的財産権は重要な旗印となり、共産主義は革命の理念からは遠かった。
そうした中、革命のクライマックスとなったジャコバン派の恐怖政治がクーデターで終焉し、革命収束期の総裁政府の段階で、改めて革命の急進化を追求して決起しようとしたグループの中心に立っていたのが、フランソワ・ノエル・バブーフであった。
貧農家庭に生まれ、兵士や徴税役人、土地台帳管理人など様々な職を転々とする前半生を送ったバブーフは、最後に就いた土地台帳管理人の職務経験から土地私有制の弊害に気づき、革命思想に目覚めたと言われる。
結果、職を捨てて革命渦中に飛び込むことになるが、当初は革命体制下の地方行政官など目立たない位置にいた。ジャコバン派にも批判的であったが、独裁者ロベスピエールがクーデターで失権した後に再評価するようになったと言われる。
その結果、革命収束期の保守的な総裁政府には敵対的となるのであるが、彼がしばしば最初の近代的共産主義者とみなされるのは、1795年に雑誌論説として発表した『平民派宣言』において、土地私有制度の廃止や物品の共同管理に基づく配給制などを骨子とする新たな社会制度を提起したからである。
また、彼の思想は当時黎明期にあった機械文明を肯定的に評価していた点で近代的であり、また前衛分子による武装決起や階級独裁といった後の共産主義思想の先駆けとなるモチーフを含んでいた点でも、近代共産主義の原型を提示していたと言えるが、一方では「真の平等」をモットーとしつつ、生産より分配の共産化に重心を置き、富の不平等の解決を農地均分に見出した点ではなお近世的な要素を残しており、完全な意味での近代共産主義者ではなかったと言える。
バブーフと彼の少数の同志たちは言わば革命の巻き直しを求めて、1796年5月に革命的決起の計画を立てたが、当局の内通者の密告により決起予定日前日に検挙され、裁判で死刑宣告を受け、翌年5月にギロチンで斬首された。
「平等者の陰謀」と呼ばれるこの決起計画は長いフランス革命の過程の中では一エピソードに過ぎず、その後、最終的にナポレオン帝政に転回していくことを阻止できなかったが、バブーフの思想はその後も持続的な影響を残し、近代共産主義思想の形成の足掛かりとなったことは確かである。
(7)オーウェンの共産主義的社会実験
フランス革命が挫折し、ナポレオン帝政、さらにはブルボン王朝復活という形で反革命が進行する中、イギリスは産業革命の中心地となり、近代資本主義の旗手として台頭していた。その中から、ロバート・オーウェンという一人の独異な資本家が現れる。
ウェールズの職人家庭に生まれたオーウェンは丁稚奉公からたたき上げ、労働条件や労働者の福利に配慮された模範的な紡績工場を立ち上げ、利潤面でも成功を収めるという稀有の資本家となったが、単に「人道的」な資本家というレベルにとどまらず、ある種の共産主義思想に到達し、アメリカで自ら社会実験を試みたという点でも独異な人物となった。
オーウェンは1825年、インディアナ州でドイツ人の宗教家ゲオルク・ラップが創設し、移転のため競売にかけられていた宗教的入植地ニューハーモニー村を買収し、私有財産制、宗教、それらと結合した結婚制度を「悪の三位一体」とみなす自らの信念に基づき、自給自足を原則とする私有財産のない共産主義的な生活及び労働のための協同体として再編した。
彼は1826年にニューハーモニー村の基本法として「ニューハーモニー完全平等協同体憲法」を制定したが、欧州からの移住者を含めた多様な村民の間での意見の対立を克服するため、オーウェンによる独裁制に陥ったばかりか、共有財産の事実上の私物化も進行し、ニューハーモニー村はわずか数年で挫折、1828年にはオーウェン自身も帰国してしまった。
かくしてオーウェンの社会実験は失敗に終わったが、アメリカやイギリス、アイルランドでは彼の影響を受けた実験的協同体の創設ブームが起き、アメリカでは南北戦争前に設立された130の実験的協同体のうち、16はオーウェンの影響を受けていたと言われる。
それらのすべてが短期間で挫折したが、そこには後にマルクスとエンゲルスによって「ユートピア社会主義」と規定されたように、オーウェンに代表される19世紀前半期の共産主義思想は社会革命が可能となる社会的経済的な条件を考慮せず、理念のみが先行する唯心論的な性格を帯びていたことが関わっていた。
とはいえ、元来オーウェンは「革命」ではなく、あくまでも一地域での「社会実験」を試みたにとどまるのであり、むしろこうした試みはコミューンを基礎とする社会運営を構想する本来のコミュニズムの趣意に沿っている一面もあることは見逃せない点である。
(8)フーリエの共産主義的協同体構想
オーウェンとほぼ同世代のフランスの哲学者・思想家シャルル・フーリエは、オーウェンとは対照的に裕福な商人家庭に生まれながら、フランス革命の渦中、財産を喪失したことを機に共産主義的な思想に転回していったという経験を持つ人物である。
彼はオーウェンよりも思弁的であり、神の創造説を前提に社会的、動物的、有機的、物質的という四運動を理性の諸法則とする独異な基礎哲学を基盤としつつ、産業主義的な文明を批判し、彼が発見したと主張する「情念引力」なる概念に基づき、土地や生産手段を共有としたうえで、1620人を単位として数百家族がファランステールと名づけられた集合住宅に居住しつつ、自給自足の共同生活をする協同体ファランジュを提唱した。
ファランジュは農村と都市の機能を併せ持つような協同体であり、その中心となるファランステールは近現代の集合住宅の先駆けのような構想とも言える。また、フーリエは最終的に、世界がファランジュの緩やかな連合によって形成されるようになるとも予見した。
このようなフーリエの共産主義はマルクスとエンゲルスによってオーウェンと同様に「ユートピア社会主義」に分類されているが、フーリエは「情念引力論」を通じて人間の自然的欲望を肯定し、保守的な19世紀初頭のカトリック社会フランスにあって同性愛にも肯定的であり、また女性の権利を擁護し、結婚は女性の権利を損なうとして自らも非婚を実践した。
こうしたフーリエの社会思想全般を総合考慮すると、フーリエには近代の進歩的思潮を先取りする要素が認められることは確かであるが、一方で彼はレイシズムより反産業主義の観点から強固な反ユダヤ主義者でもあったことは見逃せない。
思弁性の強かったフーリエはオーウェンのように自らの構想に基づく協同体を実際に建設することはせず、また革命に対しては自身フランス革命に巻き込まれ、財産喪失も経験したことから強く批判的であり、急進的ながら反革命的という点でも独異な人物であった。
彼の思想は同時代的にはなかなか理解されなかったが、没後に支持者を増やし、特にアメリカで受容され、実際に彼のファランジュ構想に基づく実験的協同体の設立が各地で相次いだ。故国フランスでも、1832年、中北部コンデ・シュル・ヴェスグレにフーリエ主義の協同体ラ・コロニーが設立され、これは現在も会社形態に変えつつ継続されているという。