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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産主義の系譜と展望(10)

2025-08-10 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(4)マルクス共産主義の画期性と課題性
 文字どおりに近代共産主義と呼び得る思潮は、カール・マルクスとその共同研究者フリードリヒ・エンゲルスに始まる。その1848年公刊の共著『共産党宣言』(以下、『宣言』)は、まさしく近代共産主義のマニフェストに位置付けられ、全世界的に翻訳もされて世紀を超えた持続的影響力を持った。
 この書はしかし、マルクスとエンゲルスにとっては最初の出発点を成す小冊子にすぎず、その最終的な到達点を示すものではなかったから、共産主義の理論書としてはなお不十分なものであった。
 とはいえ、この中で、マルクスとエンゲルスは近世以前の共産主義思想を「反動的社会主義」・「保守的またはブルジョワ社会主義」・「批判的ユートピア社会主義」に類別して批判的に対照させ、社会科学理論に昇華された新しい共産主義理論を示そうとした点で画期的であった。そこから、雑多な「社会主義」と理論的に整序された「共産主義」とが概念的にも区別された。 
 もっとも、マルクスとエンゲルスの理論は「ユートピア社会主義」と対置された「科学的社会主義」として規定されることもあるが、これは主としてエンゲルスによるやや図式的な整理であり、「社会主義」という包括的なアンブレラ概念と「共産主義」を区別することが近代共産主義の本来の意義である。
 そうしたマルクス=エンゲルスの近代共産主義(以下では、マルクスに代表させて「マルクス共産主義」と呼ぶが、エンゲルスの貢献を過小評価する趣旨ではない)の画期性は、新たな歴史観・社会観に基づき、当時欧米で発展を遂げつつあった賃金労働を基軸とする資本主義経済社会の批判的な構造分析を通じて、来たるべき共産主義社会への移行の方法及び過程を理論化したことにあった。
 そのためにも、到達点となる共産主義社会の描写以前に、当面の資本主義経済社会の分析が先行しなければならなかった。ただ、現実の執筆順は逆となり、マルクスは『宣言』の約20年後に『資本論』第一巻をようやく完成させるも、生前には未完に終わり、第二巻以降の完成はエンゲルスの手に委ねられることになった。
 ともあれ、マルクス共産主義が近世以前の共産主義に比べればはるかに理論的に構築されていることは確かである。その軸となっているのは、唯物史観、剰余価値理論、階級闘争、プロレタリア革命、プロレタリア階級独裁といった新規の諸理論である。
 総じて言えば、近世以前の共産主義が平等な農村協同体を共産主義的ユートピアとして構想したのに対し、マルクス共産主義では搾取のない労働者の自由な結合による工業社会を共産主義社会のモデルとして想定していると言える。そうした点では、マルクスによって「ユートピア社会主義」に分類されたオーウェンの模範工場の実践をより理論的に昇華させたものと見ることもできる。
 しかし、こうしたマルクス共産主義には課題も残された。中でも、ユートピア論を厳に慎む自制的な態度のゆえに、マルクス共産主義の到達点となる共産主義社会の理想状態がぼやけたものとなったことは、後世、マルクス主義を標榜する共産主義理論家や共産主義政党がそれぞれの共産主義的到達点を明示することに苦慮し、しばしばユートピアとは真逆のディストピアの現出に手を貸す結果を招いた。
 もっとも、マルクスはいくつもの著作や論文、論説等の中で共産主義的な到達点を素描的に示してはいる。その軸として、協同組合による代議政治、協同組合連合による共同計画経済が挙げられるが、いずれも素描(粗描)にとどまっており、政策論の域には達していないため、マルクス共産主義から具体的な政策を抽出することは困難となっている。


(5)アナーキズムとの対決と交差
 マルクス共産主義の同時代的なライバルとして台頭してきた急進思想は、アナーキズムであった。「無政府主義」が定訳となっているアナーキズムであるが、その趣意は単に「政府機構の廃止」にとどまらず、あらゆる政治的権力・権威の源泉となる国家の概念そのものの廃棄にあるので、今後、本連載ではしばしば「無国家主義」と表記することにする。
 このような近代アナーキズムの祖はピエール・ジョゼフ・プルードンとみなされている。貧しい醸造・樽製造職人の家庭に生まれ、幼少期から労働者として働きながら独学で思想家となったプルードンのアナーキズムはアカデミックではないものの、わかりやすく魅惑的な政策論を含み、労働運動にも浸透していった。
 マルクスも9歳年長のプルードンの著作に親しんでおり、数回面会もし、当初は彼の著作をフランス・プロレタリアートの科学的宣言」とまで称賛していたが、プルードンは共産主義には否定的であり、マルクスからの共産主義者通信委員会への勧誘も固辞した。マルクス自身、研究を進めるにつれ、プルードンには批判的となり、プルードンの著作『経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』をもじった自著『哲学の貧困』の中でプルードンを徹底批判した。
 これに対して、論争家ではなかったプルードンからは特に強い論駁はなかったが、プルードンの後継者とも言えるロシア貴族出身のアナーキスト理論家・運動家で、マルクスとほぼ同世代のミハイル・バクーニンはマルクスを一定評価しつつも、そのプロレタリア独裁理論には反対し、たとえ共産主義社会への過渡期にしても国家が残存するなら、恒久独裁体制の余地を残してしまうと批判した。
 バクーニンのアナーキズムは労働運動の中にも浸透し、バクーニン自身、マルクスもその結成に尽力した国際的労働運動団体・第一インターナショナルにも参加したが、マルクス派とバクーニン派の対立は極まり、バクーニンは除名されるに至った。
 こうして、マルクス共産主義とアナーキズムの対立は運動上も頂点に達したが、理論的な面ではマルクス自身も階級支配が消滅する共産主義社会では今日の政治的な意味での国家はなくなるとしており、無国家主義を全否定していたわけではない。
 つまり、共産主義社会では(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担は何らの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格を完全に失う。そして共産主義的集団所有の下ではいわゆる人民の意志は消え失せ、協同組合の現実的な意志に席を譲るというのである。
 究極的にはマルクス共産主義も国家には否定的であるが、アナーキズムのような一挙的な政治革命による「国家の廃止」ではなく、プロセスとしての社会革命を通じた「国家の消滅(または死滅)」を想定する限りで、両者は対立しつつ、交差し合っているとも言える。


(6)クロポトキンの無国家共産主義
 アナーキズムの主要な関心が国家の廃止にあったことは言うまでもないが、生産や労働といった経済問題も無視はしていない。その点、プルードンは市場と競争は必要であるとしながら、それらは搾取的ではなく相互的でなければならないと主張し、貨幣に代わる交換券(労働貨幣)を発行する人民銀行を擁する経済体制を構想した。
 そのため、プルードンはマルクスからは小資産を擁護する「ブルジョワ社会主義者」として批判されることになったが、バクーニンは労働者自身の運営する生産者組織によって生産手段を直接に管理する集産主義を主張しており、共産主義にはより好意的であった。
 これに対して、バクーニンと同様にロシア貴族出身のアナーキスト理論家で、バクーニンより33歳、マルクスより24歳年少で大雑把に両人の息子世代に当たるピョートル・クロポトキンはバクーニンの集産主義を批判して、プルードンの相互主義に立ち戻りつつ、これを相互扶助論としてより理論化し、かつプロレタリアート独裁のような過程も経ない協同組合の連合による無国家共産制の確立を主張した。
 1887年に公刊した小冊子『無国家主義共産主義:その基礎と諸原則』はその簡略なマニフェストである。これに基づき、より詳細に無国家共産主義社会の実像を具体的に論じたのが1892年のより文学的なタイトルの著作『パンの略取』であり、両著併せてクロポトキン流無国家共産主義の宣言書であり、言わばマルクス・エンゲルス『宣言』のアンチテーゼと言えるものであった。
 ただ、クロポトキンは科学者(特に地理学者)を本務とするアカデミックな人物であり、マルクスのように労働運動の組織化には動かず、バクーニンのように自派のアナーキスト運動を形成することもなかったため、著作を通じてアナーキズムの大家として評価を得ながらも、彼の無国家共産主義は十分な影響力を持った潮流とはならなかった。
 また、理論面から見て、クロポトキンの無国家共産主義はその基盤がやはりアナーキズムにあることは否めず、マルクス共産主義に代わるオルタナティブな理論としての潜在性を包蔵していながら、アナーキズムの派生思想という性格を脱するまで完成されるに至らず、また無国家共産主義社会への移行の方法や過程も具体化されなかった点を含め、十分な発展と継承を見なかった。

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共産主義の系譜と展望(9)

2025-08-06 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(1)米国のユートピア共産主義
 近世以前の共産主義と近現代の共産主義とを分ける主要なメルクマールは、哲学的思惟に基づき、理想的なユートピアとしての共産主義社会を構想し、あるいはユートピア協同体を社会実験的に実践するか、それとも共産主義を一定の社会科学的な理論に昇華し、共産主義社会への移行の方法と過程を具体的に提示するか、という点にある。言うまでもなく、後者が近現代共産主義の特徴である。
 19世紀の中頃はこうした新旧の共産主義思潮の交代期に当たるが、その交代は急激に生じたわけではなく、19世紀後半期に至るまで、両潮流は併存する関係にあった。中でも興味深いのは、その入植・建国の初めから共産主義とは程遠い位置にあったはずの米国で、ユートピア共産主義的な協同体の社会実験が隆盛化したことである。
 こうした米国のユートピア共産主義は主にオーウェン派とフーリエ派に分かれたが、中でもフーリエの影響は大きく、1840年代には30以上のフーリエ主義の団体が設立され、全米各地で実験協同体を運営した。中でもニュージャージー州にフーリエの直弟子アルバート・ブリスベンによって設立されたその名も北米ファランクスは10年以上持続した。
 一方、持続期間の長さという点では、フランスの政治家・作家のエティエンヌ・カベによって創始されたイカリアン協同体運動が特筆される。カベはフランスの1830年7月革命で重要な役割を果たし、政治家となるが、間もなくその政治思想のゆえに余儀なくされた英国亡命中に出会ったオーウェンの影響を受けて、共産主義に覚醒したと言われる。
 彼はギリシャに実在するイカリア島を架空のユートピアとして描写した小説『イカリアへの航海』を公刊した。この小説はトマス・モアの『ユートピア』に触発された同形式の未来小説であり、米国の社会主義政治家モリス・ヒルキットによれば、「この本の最後の部分は、共産主義思想の発展の歴史に捧げられており、プラトンから19世紀初頭の有名なユートピアに至るまで、この主題に関するほとんどすべての既知の作家の見解の要約が含まれている。」
 カベは構想にとどまらず、1848年には渡米して、テキサス州で自身の構想に基づく協同体の設立を開始した。その協同体構制はオーウェン思想の影響が強かったため、イカリアン運動はオーウェン主義の派生物とみなすこともできる。
 イカリアン運動は内部的な分裂も経験しつつ、イリノイやミズーリ、アイオワ、カリフォルニアなどに協同体を設立したが、中でもアイオワの協同体は1898年に解散するまで半世紀近く存続し、米国におけるこの種の世俗主義的実験協同体としては最長記録を残したとされている。
 ちなみに、カベもオーウェンと同様、最後は独裁的となり、「終身大統領」への就任をもくろんだが阻止され、テキサスの協同体を追われた末、1856年に支持者とともにミズーリに移転して新たな協同体を築いたが、到着のわずか二日後に死去した。


(2)中国の太平天国
 米国でユートピア共産主義が隆盛化していた同時代の中国では、宗教色濃厚なある種の共産主義運動が勃興した。いわゆる太平天国の乱と呼ばれるものであるが、洪秀全によって興され、1853年から1864年まで10年以上にわたり南京を占領してある種の地方政権を樹立した太平天国も、ユートピア共産主義の実験協同体に数えることができる。
 太平天国は、漢民族内の少数派・客家出自の科挙試験落第者であった洪秀全がキリスト教の影響を受けつつ、独自に立ち上げた宗教結社・拝上帝会の活動を基盤として構築した一種の共産主義体制であり、その領域の広さと最盛期の域内人口300万人という規模からすれば、単なる協同体を超えた地方的な「国」と呼び得るだけの体制を擁していた。
  太平天国には「滅満興漢」のスローガンに示されるように、満州人の王朝である清朝を打倒して、漢民族の支配を奪還するという民族主義的な野心も込められていたが、それだけにとどまらないことは、その綱領ないし憲法に相当する天朝田畝[でんぽ]制に明らかである。
 これは万人平等の自給自足を理想としつつ、土地を農民に均等配分したうえ、収穫物は自家消費分と種もみを除き国庫に収納し、平等に分配することを柱とする制度構想であり、それまでの封建的中国社会では見られない画期的な思想であり、後の中国共産党の政策にも影響を及ぼしたと言われるものである。
 ただ、実際の財政運営の必要から、また太平天国内部の権力闘争の影響などもあり、天朝田畝制は施行されることなく終わったと見られている。太平天国がより長期間持続し、政情も安定していれば施行された可能性もあるが、太平天国は洪秀全が死去した頃には弱体化しており、彼の死の翌月、清朝軍によって南京を奪還され、あえなく壊滅した。


(3)近代共産主義の誕生
 冒頭で示したように、近代以前の共産主義に代わる近代共産主義が誕生したのは19世紀中頃、わけてもカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの功績が多大であり、真の意味での近代共産主義思想はマルクスとエンゲルスに始まると言って過言でないが、両人とも、ある日天啓の如くに新思想がひらめいたわけではなく、近代共産主義が誕生するに当たっては産婆のような役割を果たした先行思想と運動があった。
 その中では、今日忘却されがちなヴィルヘルム・ヴァイトリンクと彼が主要なメンバーとなった正義者同盟の活動が重要である。ヴァイトリンクはドイツの仕立て職人からスタートした独学の思想家・運動家であった。
 彼は労働者中心の歴史認識に基づき、労働者を革命主体として明確に位置付け、欧州では秘密結社と労働者大衆の決起による権力奪取、北米では協同銀行と協同企業の設立による経済革命を通じて共産主義社会が創出されること、さらには過渡期における短期独裁論など、マルクスとエンゲルスにも影響を及ぼした理論を先駆的に提起していた。
 ただ、ヴァイトリンクが想定する労働者とは自身のような手工業職人であったこと、彼にはキリスト教の千年王国論やメシア主義の影響も見られ、渡米後は中国の太平天国を好意的に伝え、洪秀全を称えるなど、宗教色が見られたことや、アイオワ州でドイツ人移民の実験協同体コムニアに参加したことなど、近世以前の共産主義思想ともつながる過渡期の思想家であった。
 しかし、彼が有力なメンバーとなった正義者同盟はパリで1836年に結成された近代的な共産主義者団体の元祖であり、後にエンゲルスが創設した共産主義者通信員会と合併して史上初の完全な共産主義団体である共産主義者同盟へと発展する。
 一方、ヴァイトリンクにも影響を与えたフランスの職業的革命家ルイ・オーギュスト・ブランキも、近代共産主義の誕生に一役買っている。ブランキはバブーフの流れを汲み、武装した少数精鋭の秘密結社による権力奪取や人民武装による独裁というブランキ理論の中核はバブーフの影響による。
 ブランキは実際、持論に基づく少数精鋭の革命結社・四季協会を結成し、19世紀のフランスで続発した革命のほとんどに関与した人物であるが、ヴァイトリンクやマルクスとは対照的に、彼は労働者階級の役割も民衆運動も信じておらず、エンゲルスの評価によれば、「彼は感情によって、人々の苦しみに同情することによってのみ社会主義者であるが、社会主義理論も社会救済策に関する明確な実際的提案も持っていない。」
 そうした意味で、ブランキは革命の方法に関する理論家にして実践家であり、思想としての共産主義は持ち合わせていなかったと言えるが、革命の実践に関しては、マルクス、エンゲルスからレーニンに至る近代共産主義の急進化を刺激し、特にレーニンには触発的効果を及ぼしたと言える。

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共産主義の系譜と展望(8)

2025-08-02 | 共産主義の系譜と展望

Ⅳ 近世共産主義

(5)ルソーと安藤昌益
 欧米の18世紀は革命の世紀であり、フランス市民革命とアメリカ独立革命という二つの世界史を変える大革命を経験した。それらに少なからぬ思想的影響を及ぼしたのが、両革命を見る前に世を去ったジャン‐ジャック・ルソーであったが、ルソーは近代共産主義思想にも触発的な影響を与えている。
 ルソーは人間社会における不平等という問題を初めて正面から主題化して取り組んだ思想家であり、彼の落選した懸賞論文『人間不平等起源論』では、私有財産を人間社会の不平等の最大要因として挙げている。
 「ある土地に囲いをして、「これは私のものだ」と言おうなどと思いつき、こんなたわごとを信じるほど純朴な人々を見い出した最初の人間こそ、政治社会の真の創始者であった」という有名な一節は英国の囲い込み運動を念頭に置いているようにも読めるが、属人的・排他的な近代所有権制度全般への告発と解釈することもできるだろう。
 社会的不平等を告発したルソーは、原始の自然状態を人間社会の理想状態と仮定した。しばしばルソーのモットーとされてきた「自然に帰れ」は、まさにそうしたルソー的理想の縮約である。老子の無為自然論を思わせる思想であるが、ルソーはユートピアを構想することはなく、また共産主義的な思想を表明することもなかった。
 従って、「自然に帰れ」はルソー思想の正確な縮約とは言えない。ルソーが理想として説いたのは一般意志に基づく共和政体であった。ここには基礎哲学と政治理論の乖離があり、ルソー思想の理解を困難にしている。さらに言えば、ルソーは土地その他の生産手段のあり方も明示しなかったため、彼が告発した不平等の解消の道筋も明らかでない。
 ルソーの一般意志とは個別的な民意や世論のようなものではなく、そうした個別的なものを超え、社会契約に基づき全体的な公共の利益を目指す人民の意志であり、そこから個別的な利害を代表しがちな代議制よりも直接民主制が是とされ、その限りでは、共産主義的なソヴィエト制度の原型のような提起であるとともに、一般意志の指導への服従という権威主義的な要素―レーニンの民主集中制を予期させる―も内包していた。
 他方、革命など想定することさえできなかった18世紀の日本で、ルソーとほぼ同時代に平等社会の理想を説いたのが安藤昌益であった。東北地方の町医者を本業とする自由思想家であった昌益は、ルソーが『人間不平等起源論』を書いた一年前の1753年に『自然真営道』を公刊した。
 昌益は「鎖国」政策により欧米思想に接することなしに、おそらく日本で初めて独自に封建制度を正面から批判した啓蒙思想家であり、奇しくもルソーと同様、自然状態を「自然世」という語で理想化した。ルソーと異なるのは、昌益はユートピアンであり、現世=法世を自然世に昇華すべく、身分・階級のない万人直耕の農業社会を理想として具体的に描写していることである。
 従って、昌益の思想は共産主義と呼び得る内実を備えると同時に、「上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く」といった刑罰制度への否定的な言及からはアナーキズムの要素も一定認められ、言わばアナーキズム系の共産主義=アナルコ・コミュニズムの素朴な先駆けと読むこともできる。
 ただ、昌益はルソーと異なり、当時の徳川幕府の言論統制を警戒して、意識的に宣伝を控えたことで、長く民間に埋もれた思想家となり、その同時代的な影響はほぼ皆無であった。むしろ、現未来のエコロジカルな共産主義において参照されるべき点が多いかもしれない。

 

(6)フランス革命と共産主義
 ルソーの没後、10年余りを経て勃発したフランス革命はいくつもの段階に分かれ、段階ごとに中心主体を成す階層も異なる複雑な、言わば総革命であったが、最終的には持てる階級である中産階級が主体となるブルジョワ革命に収斂していったと言える。そのため、私的財産権は重要な旗印となり、共産主義は革命の理念からは遠かった。
 そうした中、革命のクライマックスとなったジャコバン派の恐怖政治がクーデターで終焉し、革命収束期の総裁政府の段階で、改めて革命の急進化を追求して決起しようとしたグループの中心に立っていたのが、フランソワ・ノエル・バブーフであった。
 貧農家庭に生まれ、兵士や徴税役人、土地台帳管理人など様々な職を転々とする前半生を送ったバブーフは、最後に就いた土地台帳管理人の職務経験から土地私有制の弊害に気づき、革命思想に目覚めたと言われる。
 結果、職を捨てて革命渦中に飛び込むことになるが、当初は革命体制下の地方行政官など目立たない位置にいた。ジャコバン派にも批判的であったが、独裁者ロベスピエールがクーデターで失権した後に再評価するようになったと言われる。
 その結果、革命収束期の保守的な総裁政府には敵対的となるのであるが、彼がしばしば最初の近代的共産主義者とみなされるのは、1795年に雑誌論説として発表した『平民派宣言』において、土地私有制度の廃止や物品の共同管理に基づく配給制などを骨子とする新たな社会制度を提起したからである。
 また、彼の思想は当時黎明期にあった機械文明を肯定的に評価していた点で近代的であり、また前衛分子による武装決起や階級独裁といった後の共産主義思想の先駆けとなるモチーフを含んでいた点でも、近代共産主義の原型を提示していたと言えるが、一方では「真の平等」をモットーとしつつ、生産より分配の共産化に重心を置き、富の不平等の解決を農地均分に見出した点ではなお近世的な要素を残しており、完全な意味での近代共産主義者ではなかったと言える。
 バブーフと彼の少数の同志たちは言わば革命の巻き直しを求めて、1796年5月に革命的決起の計画を立てたが、当局の内通者の密告により決起予定日前日に検挙され、裁判で死刑宣告を受け、翌年5月にギロチンで斬首された。
 「平等者の陰謀」と呼ばれるこの決起計画は長いフランス革命の過程の中では一エピソードに過ぎず、その後、最終的にナポレオン帝政に転回していくことを阻止できなかったが、バブーフの思想はその後も持続的な影響を残し、近代共産主義思想の形成の足掛かりとなったことは確かである。

 

(7)オーウェンの共産主義的社会実験
 フランス革命が挫折し、ナポレオン帝政、さらにはブルボン王朝復活という形で反革命が進行する中、イギリスは産業革命の中心地となり、近代資本主義の旗手として台頭していた。その中から、ロバート・オーウェンという一人の独異な資本家が現れる。
 ウェールズの職人家庭に生まれたオーウェンは丁稚奉公からたたき上げ、労働条件や労働者の福利に配慮された模範的な紡績工場を立ち上げ、利潤面でも成功を収めるという稀有の資本家となったが、単に「人道的」な資本家というレベルにとどまらず、ある種の共産主義思想に到達し、アメリカで自ら社会実験を試みたという点でも独異な人物となった。
 オーウェンは1825年、インディアナ州でドイツ人の宗教家ゲオルク・ラップが創設し、移転のため競売にかけられていた宗教的入植地ニューハーモニー村を買収し、私有財産制、宗教、それらと結合した結婚制度を「悪の三位一体」とみなす自らの信念に基づき、自給自足を原則とする私有財産のない共産主義的な生活及び労働のための協同体として再編した。
 彼は1826年にニューハーモニー村の基本法として「ニューハーモニー完全平等協同体憲法」を制定したが、欧州からの移住者を含めた多様な村民の間での意見の対立を克服するため、オーウェンによる独裁制に陥ったばかりか、共有財産の事実上の私物化も進行し、ニューハーモニー村はわずか数年で挫折、1828年にはオーウェン自身も帰国してしまった。
 かくしてオーウェンの社会実験は失敗に終わったが、アメリカやイギリス、アイルランドでは彼の影響を受けた実験的協同体の創設ブームが起き、アメリカでは南北戦争前に設立された130の実験的協同体のうち、16はオーウェンの影響を受けていたと言われる。
 それらのすべてが短期間で挫折したが、そこには後にマルクスとエンゲルスによって「ユートピア社会主義」と規定されたように、オーウェンに代表される19世紀前半期の共産主義思想は社会革命が可能となる社会的経済的な条件を考慮せず、理念のみが先行する唯心論的な性格を帯びていたことが関わっていた。
 とはいえ、元来オーウェンは「革命」ではなく、あくまでも一地域での「社会実験」を試みたにとどまるのであり、むしろこうした試みはコミューンを基礎とする社会運営を構想する本来のコミュニズムの趣意に沿っている一面もあることは見逃せない点である。

 

(8)フーリエの共産主義的協同体構想
 オーウェンとほぼ同世代のフランスの哲学者・思想家シャルル・フーリエは、オーウェンとは対照的に裕福な商人家庭に生まれながら、フランス革命の渦中、財産を喪失したことを機に共産主義的な思想に転回していったという経験を持つ人物である。
 彼はオーウェンよりも思弁的であり、神の創造説を前提に社会的、動物的、有機的、物質的という四運動を理性の諸法則とする独異な基礎哲学を基盤としつつ、産業主義的な文明を批判し、彼が発見したと主張する「情念引力」なる概念に基づき、土地や生産手段を共有としたうえで、1620人を単位として数百家族がファランステールと名づけられた集合住宅に居住しつつ、自給自足の共同生活をする協同体ファランジュを提唱した。
 ファランジュは農村と都市の機能を併せ持つような協同体であり、その中心となるファランステールは近現代の集合住宅の先駆けのような構想とも言える。また、フーリエは最終的に、世界がファランジュの緩やかな連合によって形成されるようになるとも予見した。
 このようなフーリエの共産主義はマルクスとエンゲルスによってオーウェンと同様に「ユートピア社会主義」に分類されているが、フーリエは「情念引力論」を通じて人間の自然的欲望を肯定し、保守的な19世紀初頭のカトリック社会フランスにあって同性愛にも肯定的であり、また女性の権利を擁護し、結婚は女性の権利を損なうとして自らも非婚を実践した。
 こうしたフーリエの社会思想全般を総合考慮すると、フーリエには近代の進歩的思潮を先取りする要素が認められることは確かであるが、一方で彼はレイシズムより反産業主義の観点から強固な反ユダヤ主義者でもあったことは見逃せない。 
 思弁性の強かったフーリエはオーウェンのように自らの構想に基づく協同体を実際に建設することはせず、また革命に対しては自身フランス革命に巻き込まれ、財産喪失も経験したことから強く批判的であり、急進的ながら反革命的という点でも独異な人物であった。
 彼の思想は同時代的にはなかなか理解されなかったが、没後に支持者を増やし、特にアメリカで受容され、実際に彼のファランジュ構想に基づく実験的協同体の設立が各地で相次いだ。故国フランスでも、1832年、中北部コンデ・シュル・ヴェスグレにフーリエ主義の協同体ラ・コロニーが設立され、これは現在も会社形態に変えつつ継続されているという。

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共産主義の系譜と展望(7)

2025-07-29 | 共産主義の系譜と展望

Ⅳ 近世共産主義

(1)トマス・モアの『ユートピア』
 中世と近世をつなぐ近世はまさに過渡期であり、西欧社会では中世の封建制が解体されていく時期であるが、思想としての共産主義においても、近代共産主義思想の萌芽が見られたのはこの時期である。
 その嚆矢を成すのは、意外にもイングランドのチューダー朝宮廷で最高位まで上り詰めた政治家・法律家のトマス・モアであった。彼の最も著名な著作『ユートピア』は、風刺文学的な形式で書かれた共産主義社会の設計図のような作品であり、「どこにもない場所」という含意のユートピアの造語とともに、文学史的にも未来小説の先駆を成している。
 モアのユートピアはプラトンの哲人国家とは異なり、専制的ではない終身制の君主を擁し、各世帯集団から選出された代表者らが統治する都市の集まりから構成され、財産共有、6時間労働義務、余暇の自由、非戦、最小限の奴隷制に基づき、全員が習得義務を負う農業を主軸とする理想社会であり、彼が執筆した16世紀初頭はもちろん、現代でもまさに「どこにもない」社会である。
 彼がこのような一見奇異な作品を書いた動機については諸説あるが、ルネサンス的な人文主義的ヒューマニズムの思想に基づき、当時のチューダー朝専制主義に対する暗黙の批判とともに、当時、羊毛生産の需要から封建領主らが断行していた土地の囲い込み運動への批判があったと見られる。
 土地の囲い込みはある意味で、中世的な封建領主から近代的な所有権に基づく地主への移行を示す新たな経済変動でもあり、結果として、封建的荘園制の下で農奴に留保されていた入会権のような共産主義的要素を排除し、農民を放逐する結果を招いた。
 そうした排他的な所有権の設定運動に対して、モアは「羊が人間を食い尽くす」という言葉で痛罵していたことからも、囲い込みは私有財産に対する批判的視座を形成する要因となったのであろう。
 他方、モアがユートピアという造語のもとに共産主義的理想社会を描写したことで、共産主義に「実現不可能な空想」というイメージが烙印される結果となったことは「現実主義」と対立的にとらえられ、近代以降の共産主義思想と運動にも少なからず普及上の制約をもたらしたと言えるだろう。
 それとともに、モアの「ユートピア」は人口均等配置のための居住制限や田園居住義務といった統制主義、余暇には全市民に勉学を奨励する一方で選抜された学者のみが公務員や司祭となり得るという知的エリート主義の一面もあり、こうした点も含め、近代の共産主義思想にインスピレーションを与えた可能性がある。
 ちなみに、モアは愛人との再婚のためカトリックでは禁忌の離婚を強行しようとしていた専制的な主君ヘンリー8世の身勝手な計画に断固反対したことで反逆罪に問われ、斬首されたほど強い信念のカトリック信者であり、無神論と結びついた近代的共産主義の思潮とは明確な一線を画している。
 ただし、モアのユートピアでは無神論(無神論者は弾圧されないが、軽蔑はされる)も含め、宗教的寛容が保障されることから、モアの思想は宗教的共産主義とも一線を画し、むしろ近代の世俗的共産主義に近いと言えるかもしれない。


(2)イングランド革命と真正水平派運動
 モアがユートピアを上梓して100年以上を経て、チューダー朝を継承したステュアート朝下で、プロテスタントの一派である清教徒(ピューリタン)による革命が勃発し、最終的には国王チャールズ1世の処刑とクロムウェルを元首とするイングランド史上唯一の共和体制の樹立に至るが、この革命の過程で、急進的な平等主義を主張する水平派が台頭した。
 水平派は自然権に基づく国民主権、普通選挙の実施など主に政治面での平等と民主化を要求するにとどまったが、それでは満足せず、農地共有と集団農業、つつましい生活物資を互いに分かち合う互助的共同社会を掲げるグループが真正水平派を形成した。
 かれらは現実にも1649年からイングランド南東部サリーのセント・ジョージズ・ヒルで囲い込みで私有地化されたかつての入会地を占拠し、ジェラード・ウィンスタンリーを指導者として共同生活を始め、荒地開拓を進めた。畑を掘り起こす人という意味でディッガーズ(Diggers)とも呼ばれた。
 これはまさにモア的ユートピアの実践とも言えるユニークな運動であったが、基本的に下級領主層ジェントリーを主体とし、水平派でさえ敵視し、弾圧した「現実主義」のクロムウェル軍事独裁政府からは一層危険視され、共和国軍(ニューモデル軍)の圧力により、わずか一年ほどで強制解散に追い込まれた。
 ちなみに、真正水平派が共同体を営んだセント・ジョージズ・ヒルは今日、厳重に出入り管理される富裕層のゲートコミュニティとして知られる高級住宅街に変貌していることは、いかにも皮肉と言わざるを得ない。


(3)ウィンスタンリーの共産主義論
 真正水平派指導者ジェラード・ウィンスタンリーは仕立て屋や羊飼いなどを転々とした庶民出自の運動家・理論家であり、最後は商人になったが、運動が失敗した後の1652年、『一綱領における自由の法則、または回復された真の治安判事職』(略して『自由の法則』)というクロムウェルに献呈された長いタイトルの書籍を出版した。
 この本はおそらくモア『ユートピア』に一定触発されつつ、より詳細で理論的な内容を含む、言わば17世紀の共産党宣言のようなマニフェスト冊子である。その内容は経済体制から統治、法制のあり方に至るもので、後のマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』より詳細な共産主義社会の設計図的な書でもある。
 その基本は使徒行伝に遡る原初的なキリスト教共産主義に基本を置き、彼がセント・ジョージズ・ヒルで試みようとした私有財産や貨幣のない社会を理想化する。その点では、彼の思想は明確に中世キリスト教共産主義の延長に位置づけられる。
 彼によれば、土地と物品は共有されるが、男性が家、家族、基本的な必需品を個人の財産として保持することを許可されるべきであるという。すべての労働は集団で行われ、全員が働くことを保証するために監督者が任命され、労働拒否者は公民権を剥奪され、強制労働によって罰せられる。
 ウィンスタンリーは元来より自由主義的であったが、『自由の法則』ではこれを修正し、もはや自由が普遍的であるとはせず、自由を信教、選挙権、労働生産物に対する権利、家事労働者を雇用する能力に狭く定義する。
 そのうえで、共産主義のより権威主義的なビジョンを提示し「正義の政府」による社会統制の必要性を強調した。彼は「正義の政府」のために、法律を執行し、計画経済を監督し、家父長制を支持する毎年選挙される議会制度を提案している。
 また、彼は私的所有の道具として機能する政府に反対する一方で、「無礼」を防止し、君主主義の表出を抑圧するためには、常備軍によって施行される法律が必要であるとも主張した。
 彼は刑罰に関しても厳格主義であり、「目には目を」の原則に従った法律を提案し、殺人、強姦、取引を犯して捕まった者、弁護士や牧師であった者にも死刑が適用されるとする。一方では、投獄に頼らずに地元の紛争を解決する調停人をすべての町が毎年選出することを提唱している。
 こうしたウィンスタンリーの共産主義は、近代に至ってアナーキズム系のより自由な共産主義思想と対立する統制的かつ権威主義的な共産主義理論の先駆であったと読むことも可能である。
 しかし同時に、彼が初期の著作『正義の新法』の中で、自然を神とみなす汎神論的な唯物論の立場から、「時の初めに、偉大な創造主理性は、獣、鳥、魚、そしてこの創造を統治する主である人間を保存するため、地球を共通の宝庫とした」と論じ、「地球をすべての人にとって共通の宝庫とする基礎を築く」ことを共産主義の課題としていた点、地球環境的視野でエコロジカルな共産主義を再定義する現未来の共産主義にも手がかりを与える可能性を持っているとも言える。


(4)北アメリカ自治植民地の非共産主義的性格
 ピューリタンは北アメリカにも集団移住し、自発的な植民地を建設、これが今日のアメリカ合衆国の主要な基礎を形成したことは知られているが、この原初の北アメリカ植民地は、比較的少数の入植者の自治的コミュニティーとして出発したにもかかわらず、初めから非共産主義的に構成されていた。
 すなわち、土地は私有制であり、有力なコミュニティー指導者が男性開拓者に土地区画を分け与え、土地所有者らの間で割り当てを決めた。大きな土地区画は社会的に高位にある男性に割り当てられるのが通常であり、その点から早くも経済格差が生じたが、あらゆる白人男性は家族を扶養するに足るだけの土地を持つ権利を認められた。
 その点、北アメリカ先住民の土地観念とは対照的であった。先住民は数多くの部族に分岐し、それぞれに土地観念も多様ではあったが、少なくとも白人入植者のような排他的所有権の観念はどの部族も持っていなかった。
 先住民には個人が土地を属人的・排他的に所有するという発想はなく、かつ部族共有といった集団所有とも異なり、部族メンバーの個別的な土地利用権を認めつつ、自然の大地に活かされ、自然と共生する共同体が機能していたとされる。
 このような所有権観念の相違は、後に白人入植者による言わば囲い込み、先住民族の土地の侵奪と不毛な先住民居留地への追放という白人中心の「開拓」思想・政策のもととなる。
 いずれにせよ、北アメリカ植民地はその出発点から非共産主義的であり、自由人や地主など比較的広範な有産者層が代表者として政治参加する共和制の形成とともに、独立革命後のアメリカ合衆国においても有産階級主導の非/反共産主義的な金権共和政治の土台を形成していくことになる。

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共産主義の系譜と展望(6)

2025-07-25 | 共産主義の系譜と展望

Ⅲ 中世共産主義

(4)キリスト教少数派の共産主義思想
 中世における思想としての共産主義は低調ではあったが、中世の共産主義思想は主としてキリスト教少数派の中から、封建制に組み込まれたローマ・カトリック教会体制への批判と重なる形で現れた。
 例えば、フランスのリヨンで商人ピエール・ワルドが創始したワルド派は信者が自ら財産を放棄する自発的貧困を美徳とし、使徒言行録に従って財産を共有したが、すでに清貧さを失っていたカトリック教会の迫害を受け、異端宣告され、ピエモンテでは信者が殺戮された。
 また、中世後期のイタリアに発したドルチーノ派はより踏み込んで、教会ヒエラルキーや封建制度の解体、相互扶助と尊重に基づく新しい平等社会の創造、財産の共有、男女平等の尊重など革新的な思想を説いたが、やはり異端宣告を受け、指導者のフラ・ドルチーノは妻とともに火刑に処せられた。
 イングランドの革新的な司祭・哲学者だったジョン・ウィクリフも、共産主義的ではなかったものの、ワルド派の影響下に教会権威や修道主義を批判し、教会の財産所有を否定した。
 彼の思想を核とするラロード運動の中から出て、1381年のイングランド農民反乱の精神的指導者となり、「アダムが耕しイブが紡いでいた時、誰が領主だったか」とアジ演説した司祭ジョン・ボールは、封建的階級社会を批判しつつ、「イングランドでは財産が共有にならない限り、また農奴も領主も消えて皆が平等にならない限り、世の中がうまく行く道理はない」と説いた。しかし、彼は反乱鎮定後、捕らえられ、残酷に処刑された。
 こうして、キリスト教少数派の共産主義思想は当時の教会当局や王権によってもキリスト教的封建秩序への脅威とみなされ否定・弾圧され、社会に広く浸透することはなかったのである。


(5)イスラーム経済思想の混合的性格
 中世社会を彩るもう一つの宗教であるイスラームは商人でもあった預言者ムハンマドによって創始された「商人の宗教」であるだけに、その教義は私有財産と商取引にはいたって肯定的であると言える。ただし、喜捨が義務とされるため、富の独占は許されず、富者は貧者への財産の寄付と社会還元が求められる。
 また、イスラームの教義では、神が万物に対する唯一の所有者であって、人類は地球上における神の代理人とされ、神の所有物を引き受ける存在にすぎない。その意味では、私有財産といえども、言わば神からの「信託財産」である。
 加えて、「人は水、エネルギー、農地の三者と共にある」というムハンマドの預言に従い、これらの私有は許されないとする解釈から、森林や牧草地、荒野、水、鉱物、海洋資源など、天然資源は共同体(ウンマ)の共有財産として全員が等しく利用できるとされる。
 こうした両義的な性格から見ると、イスラーム経済思想には非共産主義的な要素と共産主義的な要素(共産主義的という性格付けが不適当ならば、より広く「社会主義的」な要素)とが混合しているとも言える。


(6)カルマット派支配の半共産主義的性格
 イスラーム体制の主流はほとんどが非共産制であったと言えるが、少数派シーア派から分離した反主流的なイスマイール派の分派カルマット派が9世紀末から11世紀にかけてアラビア半島東部やバーレーンなどで事実上分離して樹立した地方政権は、20世紀以前に一世代以上存続した唯一の共産主義体制と評されることもある。
 カルマット派とはアッバース朝カリフ制との闘争、エジプトのシーア派ファーティマ朝との敵対、完全な平等を求めるプロパガンダ活動を展開したクーファ出身の牛車御者ハムダン・カルマットを創始者とする独異な一派であった。
 カルマット派は886年にはバーレーン、889年にはアル‐アハサ(アラビア東部)に独自の共和国を樹立した。ただ、カルマット派に関しては史料が乏しく、その社会実態を正確に把握することは困難である。
 わかっているのは、カルマット派社会は平等主義とある種の共産主義の原則に基づいて構築されていたこと、住民が稼いだ金はすべて共同の国庫に納入され、公平に分配されたこと、困窮者は特別基金からの援助を受けられたことである。
 ただし、土地と奴隷は国家が所有する一方で、生産手段は私有財産とされ、コーランが容認していた奴隷制を土台とする混合経済体制とみなすべきかもしれない。
 国家行政は最高統治者が率いる選挙制の長老評議会によって行われ、バーレーンの伝承によれば、この地域の村や都市はすべて選挙された長老によって統治されていた。さらに、長老たちの中から33人の集会が選出され、精神的指導者たる説教者ダイが率いる三頭評議会が形成されたとされる。
 こうした選挙制合議システムは、同時代の世襲王朝化したアッバース朝やファーティマ朝のカリフ制に比べれば民主的であり、古典期ギリシャのポリスを想起させるような政治制度と言える。
 しかし、カルマット派共和国は、バーレーンとアラビア東部では地元の新興シーア派系ウユニド王朝により打倒され、最後の拠点となったアラビア東部のフフーフもセルジューク・トルコによって1067年に撃破された。その他、イラク、イラン、トランスオクシアナに拡散していたカルマット派コミュニティも改宗により順次崩壊し、現存していない。

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共産主義の系譜と展望(5)

2025-07-21 | 共産主義の系譜と展望

Ⅲ 中世共産主義

(1)非共産制としての封建諸制度
 中世という時代を経験した諸国では、形態差・程度差はあれ、封建制が社会の基本構制となった時代が中世である。封建制下で土地と領民を支配した封建領主とは単なる地主を超えたある種の農業資本家であると同時に、地域の統治者でもあった。
 このような封建社会が本質的に階層的かつ非共産的であることは明らかであり、封建制が支配した中世は人類の歴史上―後に見るように、「現在時点としての現代」と並んで―非共産主義的な時代であったと言える。
 この時代には、前回見たように、原初には共産主義的でさえあったキリスト教会も封建制の中に組み込まれ、教会も十分の一税のような租税を教区民から徴収する封建領主と化し、大司教のような高位聖職者は聖界諸侯に連なることになった。
その点、キリスト教が布教される以前の日本の古代末・中世において、寺院や神社が領主として排他的な荘園を擁していたのも類似した事象であり、洋の東西で中世は封建制が宗教をも覆っていた。


(2)非共産的コミューンとしての商業自治都市
 中世の基本構制である封建制に包摂されない部分社会として、商業自治都市の存在があった。商業自治都市は、「都市の空気は自由にする」という標語にも現れるように、中世における「自由」の象徴であった。
 しかし、この「自由」とはあくまでも封建領主からの自由であって、都市内部は大商人による寡頭支配が一般的であり、その社会はある意味、封建領主が支配する荘園以上に、多くの貧民は下層民を抱えた貧富差の大きな階級社会であった。
 こうした商業都市の自治権獲得運動はコミューン運動とも呼ばれ、自治都市は「自由」なコミューンではあったが、それは共産主義的コミューンとは対照的な非共産主義的コミューンであった。これらの自治都市の中には、イタリアで多く見られたように、一個の共和国にまで発展し、メディチ家のフィレンツェのように一銀行家が世襲僭主にのし上がり、実質的に君主国化する例が現れたことも驚くべきことではない。
 ちなみに、日本の中世においても、堺や博多のように、封建領主の支配の外で商人が支配する自治都市が少数ながら見られたことは興味深い一致である。


(3)ロシアの農村共同体ミールと日本の惣村
 中世にあっても、共産主義的な慣習が完全に排除されていたわけではない。封建領主の領地支配権は近代の完全な排他的所有権とは異なり、荘園に隷属する農奴ないし隷農の保有地を留保するものであったため、程度差はあれ、農民たちは共有地や入会地のような形で生産手段を共有し、生産活動を一定程度協働できたからである。
 その点、ロシアでは農奴の結束が固く、かれらはミール(またはオプシーナ)と呼ばれる共同体を結成し、土地を共有したほか、合議制の集会や刑罰権まで含む独自の自治機構も擁していた。
 その成立起源については諸説あり、10世紀に遡るともいうが、史料的には早くとも15世紀頃には現れるとされるので、かなり古い慣習的制度である。このような強力な自治慣習は、近代のソヴィエトが導入した農業協同組合コルホーズに類似するほか、行政的機能も併せ持つ点では中国が一時導入した人民公社をも想起させる。
 ただ、ミールは国が上から政策的に導入した制度ではなく、農民が独自に発展させた慣習的制度であるだけに、西欧では農奴制が廃止されていった近世になって中央集権化を追求する帝政ロシアが反動的な農奴制の強化に走ったのも、こうした自治的なミールを統制・弱体化する狙いがあったと考えられる。
 このようなある種の慣習的農民共産主義の類似物は、ここでも中世日本に見られた。日本でも封建領主の支配から相対的に自由な立場で、農民が自治的な惣村を形成した。惣村は重要な生産手段である山林などを惣有財産とし、惣村民が共用できる入会地とするとともに、合議制の寄合や刑罰権まで含む自治機構を擁していた。
 こうした惣村も、日本における中世末期に相当する戦国時代に入ると、一円支配の強化を狙う戦国大名による侵食を受けて弱体化する。最終的に豊臣政権の兵農分離・検地を経てほぼ解体され、江戸時代には幕藩の下部統治機構としての近世村落へと変質していった。

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共産主義の系譜と展望(4)

2025-07-17 | 共産主義の系譜と展望

Ⅱ 古代・古典期共産主義

(5)老子「小国寡民」とプラトン「理想国家」
 商業都市とその集合体としての国家の発達により、先史共産主義がもはや忘却されていくと、共産主義は現状を批判する理想化された思想として、哲学的に語られるようになる。古典期には、洋の東西でそのような思想が出現した。
 その一つは、中国の老子が描いた「小国寡民」である。老子の小国寡民は、互いが行き来しなくとも、すなわち交易せずとも自給自足可能な小規模田園共同体を理想化しており、そこでは船や車、さらに武器のような文明的利器があっても誇示することのないつつましやかな暮らしが想定されている(小国寡民)。
 老子は通説によれば紀元前6世紀頃の人とされるが、この時代の中国はいわゆる春秋時代であった。中国大陸中心部の中原が多くの国に分かれて合従連衡する戦国時代前夜であり、すでに牧歌的な時代を過ぎていた。そうした中で、老子は時代に抗って小国寡民の理想を説いたのである。
 他方、古典期のギリシャでは、プラトンが哲人の統治する理想国家(政体)を提唱した。プラトンの哲人国家は老子が描くような田園共同体ではなく、当時のギリシャのスタンダードであったポリスを想定しつつ、アテナイのような民主制ではなく、知的な素養を備え、善のイデアを体得した哲学者が統治する一種の君主政体を理想として描いている。
 老子においても、彼の言うところの「道(タオ)」を体得した聖人による統治が想定されていたが、老子流の聖人統治者は権謀術策を弄しないという意味での「無為」の統治者であり、良き統治とは、民衆がその功績を特段称賛もしないような無為自然の統治であると論じている(拙稿)。これは消極国家論の先駆けであり、一種のアナーキズムとも読める。
 プラトンの哲人国家はより積極的であり、哲学者(哲人王)を頂点に、統治者‐防衛者‐生産者の三階級から成る階級社会である点では非共産主義的であるが、統治者階級及び防衛者階級には所有欲を持たせないため、私有財産が禁止され、家族も共有するものとされ、部分的に共産主義が適用される半共産制が想定されている点でユニークなものである。


(6)スパルタの半共産制
 古代ギリシャの都市国家ポリスの中でもとりわけユニークな国制を採用していたのが、スパルタである。スパルタは宣戦布告などの儀礼的役割を果たすだけの二人の世襲王を擁する君主制ながら、実態は統治者階級であるとともに防衛者階級でもある30歳以上の市民が政治の実権を持ち、その下に第二級身分として、参政権を持たないが、土地の所有は認められ、商工業に従事するペリオイコイ、最下級に市民の土地に分属して農業に従事し、貢納義務を負うヘイロタイの三階級制で成り立っていた。
 このうち「平等者」とも呼ばれた統治者階級の市民は幼少期から親元を離れて厳しい軍事訓練を受けるとともに、成人後も将軍の配下で共同食事制の下に生活した。市民間の経済的な平等性を維持するため、土地は均等配分され(後に形骸化し、不均等が生じた)、国内での貴金属貨幣の使用が禁じられた。
 このようなスパルタの社会経済構造は部分的な半共産制とも呼び得るものであり、晩年のプラトンによっても好評価されていたことは注目される。哲人政治の理想には達しないものの、スパルタの社会構造はプラトン理想国家の三大階級社会に近いものであり、統治と商工業の分離、統治者階級の半共産主義など、プラトン的理想に近いものと認識されていたのだろう。


(7)原初キリスト教団の共産主義的性格
 ローマ帝国は商業主義的であり、富の偏在は著しく、労働者階級プロレタリアートの語源ともなった無産階級プロレタリウスの語が生まれたのもローマ時代であったように、徹頭徹尾非共産主義的であったと言える。
 そうした中、ローマ支配時代のユダヤでナザレのイエスによって創始された新宗教には共産主義的な性格が見られた。イエスが少数の弟子と共に形成していた原初の教団に衣食住を共にする「共餐主義」的な性格が見られたことは、まさに「最後の晩餐」のエピソードが示しているし、富裕な信者の寄進でまかなわれるようになった教団の資産も共有されていたと考えられる。
 イエス自身、「神の国」を貧者の国として説くこともあり、彼が告発・処刑される契機となったユダヤ神殿で引き起こした騒乱も、神殿公認の商人の活動を妨害したものであり、イエスが強い反商業主義的な信条を有していたことも窺える(拙稿)。ただし、カウツキーなど一部の近代共産主義者がイエス自身を「共産主義者」とみなすのは後知恵的な時代錯誤であるかもしれない。
 しかし、イエス没後、実弟ヤコブが貧者の運動として教団を率いていた時代にはまだ共産主義的性格は残されており、使徒行伝でも、エルサレムの初期キリスト教会では「自分の所有物を自分の物と主張する者は一人もおらず、すべての物を共有していた」と記されていることから、イエス没後の教会組織でも、初期にはある種の共産主義が実践されていたと見る余地はある。
 教会がローマ教皇を頂点とする職階制によって統治され、教会自身も一個の封建領主として領地と領民を支配するようになり、脱共産主義化していくのは時代精神が反共産主義に染まったとも言える中世に入ってからのことである。

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共産主義の系譜と展望(3)

2025-07-13 | 共産主義の系譜と展望

Ⅱ 古代/古典期共産主義

(1)貨幣経済社会の成立
 先史時代と歴史時代最初の古代を経済的な面で画するのは、貨幣経済社会の成立である。交易活動が広域化・商業化すると、素朴な物々交換は特定の鉱物等を定型化された交換手段として使用する貨幣交換に転化していった。
 通貨制度は未整備でも、貨幣を基準とする交易は富の蓄積を容易にし、交易を専業とする商人階級の分化を促進した。そうした商人階級が富を所有する商業都市の成立が歴史時代・古代の幕開けであった。
 商業都市は、先史時代には互助的であった交易活動の商業化に伴い成立した新しい共同体であり、本質的に非共産主義的な階層的共同体であった。そうした商業都市が文明開化を促進したことは、人類の歴史に今日にまで及ぶ或る特定の方向性を与えた。 


(2)古代文明圏の非共産主義的性格
 古代に入って各地に成立する文明圏は商業都市の集合で成り立っており、古代エジプトのように、比較的早くから統一的な王権が成立したところでも、その実態は商業都市の集合体であったと言ってよい。
 人類史上最初の文明圏とみなされるメソポタミアで典型的に見られるように、古代都市には王(君主)が存在した。王は先史時代の単独首長制が世襲化されて君主制に転化したものであり、君主制と商業都市の組み合わせの段階に達すると、素朴な先史共産主義は完全に過去のものであった。
 古代文明圏はそのほとんどが王を頂点として貴族と平民の階級差を擁する階層社会と商人への富の集中を特徴としており、本質的に非共産主義的であった。ここから共産主義を反文明主義とみなすような消極的な解釈も生じてくる。


(3)インダス文明圏の独異性
 古代文明圏の中でも特に整備されていたいわゆる四大文明圏のうち、インダス文明圏には他の文明圏と比べて際立った特色がある。それは、王宮や神殿に見立てられる遺跡が見られないことである。
 もちろん、考古学上の発掘調査の進展により新発見もあり得るが、インダス文明圏の発掘調査は過去150年以上にわたっており、その間に王宮や神殿が検出されないということが意味するのは、王や神官のような特権階級の不存在である。
 加えて、最盛期でも墓制に明確な階級差が見られないこと、すなわち他の文明圏に見られるような特別に厚葬された墳墓がなく、副葬品も男女差や年齢差の相違に過ぎないことなどから、平等社会であったことが想定されている。
 そこから直ちにインダス文明圏が古代共産主義社会の一例であったと結論付けることはできないが、インダス文明圏が他の同時代文明圏とは相当に異なる社会構造を有していたらしいことは推定できる。


(4)原初仏教団の共産主義的性格
 インダス文明圏はさほど持続せず、最盛期でもおよそ700年ほどで、紀元前1900年頃には滅亡に向かった。その後、ほどなくして中央アジア方面からアーリア人が大量移住し、今日のインドをはじめとする南アジアの形成につながる新たな文明圏を形成する。
 この新しいアーリア文明圏は今日のヒンドゥー教の前身であるバラモン教を軸とする階級社会を特徴とし、インダス文明圏の平等社会を継承することはなかった。しかし、紀元前600年頃に始まるインダス文明圏時代に次ぐインドにおける第二の都市化時代には、再び平等主義の気風が生まれた。
 そうした時代環境下から、釈迦と仏教が誕生する。釈迦の半伝承的な伝記による限り、ヒマラヤ山麓に陣取るシャーキヤ族の立てた小共和国(サンガ)で世襲制元首の世子として生まれたとされる釈迦は、その身分を捨てて宗教的な修行生活に入り、仏教を創始した。
 シャーキヤ族の民族系統については議論があり、アーリア系説とビルマ‐チベット系説とがあるが、いずれにせよ、シャーキヤ国はバラモン教の影響が比較的薄い辺境地にあったことが、バラモン教から自由な仏教を生む背景となったと考えられる。
 仏教の教義そのものは共産主義的というわけではないが、原初仏教団(サンガ・僧伽)は出家者が一定の秩序のもとに宗教的な修養と説教を行う集団であり、比較的平等な関係性の中で衣食住を共にしていた。
 このような宗教的な「共餐主義」の集団は必然的にある種の共産主義を実践することになるから、少なくとも原初仏教団には共産主義的性格が認められたであろう。それは中世のキリスト教修道院の生活にも類似した宗教的共産主義の先例であったかもしれない。

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共産主義の系譜と展望(2)

2025-07-09 | 共産主義の系譜と展望

Ⅰ 先史共産主義

(3)原始農耕/牧畜と共産主義
 農耕の開始時期については考古学的な新発見により時代が次第に遡っているが、いずれにせよ、最初期農耕は狩猟・採集の補充程度のものでしかなかったことも裏付けられている。農耕が狩猟・採集より比重を高めるのは、紀元前8000年頃の西アジアにおいてである。
 農耕は共同作業としての性格が元来強く、共産主義とは馴染みやすい。おそらく最初期の原始農耕は共産主義的に行われた可能性がかなり高いと見てよいであろう。すなわち、共同での栽培・収穫、収穫物の集団的共有と分配が自給自足的に行われていたと考えられる。この段階での集落共同体は小規模で、まさに共産主義的なコミューンに近いものだっただろう。
 集落共同体が原初的な都市と言える程度まで発達しても、例えば、紀元前7000年頃に遡るチャタル・ヒュユク遺跡(トルコ)の研究によれば、王族や神官のような特権階級の存在の特徴が見られず、平等社会であった可能性が高いとされる。
 また、最新の調査では、チャタル・ヒュユクでは旧石器時代の文化で典型的に観察されるように、男性と女性が同等の社会的地位を持っているように見えるなど、性別に基づく社会的差別はほとんどないことも明らかになった。
 共産主義=無階級・平等社会という定義も共産主義の定義としては不完全なものであるが―非共産主義的な無階級・平等社会も理論上は想定可能―、先史農耕社会が共産主義的であった可能性は十分にある。
 一方、牧畜も農耕とほぼ同時的に開始されたと考えられており、今日に至るまで両者は経済的に一体性が強いが、共産主義との関わりでは、両者には相違がある。
 牧畜は家畜の飼育を本旨とする生産活動であり、農耕に比べて、個人あるいは家族単位での家畜の所有という観念を醸成しやすい。今日でも、アフリカのマサイ族のような牧畜民にとって、家畜としての牛が最重要財産として貨幣以上に重要な財産価値を有しているということからしても、牧畜は農耕より私有財産制との新和性が高い。
 上掲チャタル・ヒュユクでも、時代が下ると次第に平等主義的ではなくなっていく証拠が見られるとされるが、これはチャタル・ヒュユクでも農耕に続き、牧畜が開始されたことと関連があるかもしれない。 


(4)首長制・都市の成立と脱共産主義
 農耕も規模が拡大し、自給自足を越えた余剰生産が行われるようになると、次第に脱共産主義化していった可能性がある。この段階に達すると、生産力の高い土地を占有する者が集落共同体の集団的指導者として力を持つようになったであろう。
 共同体の集団的指導者は当初、余剰生産物の管理や交易活動の運営など、主として経済的な面を采配する管理者のような存在であったかもしれないが、次第に地主として弱小の共同体成員を従えるようになり、共同体の運営が複雑化するにつれて、政治力も持つようになった。
 このように農耕の発達に伴い、共同体内部に階層が発生したことが、脱共産主義化の本格的な第一歩であったかもしれない。集団指導制の成立は同時に、指導者とその一族が共同体内の大地主となることにより、土地私有制の成立とも軌を一にしていたであろう。
 共同体の規模が拡大すると、統治の安定性の観点からも次第に単独の首長が采配するようになったことも容易に想定できる。こうして首長制が成立する。集団指導制にはまだ共産主義的な要素が残されていたが、単独首長制は明白に脱共産主義的である。
 その間、共同体の拡大と交易活動の広域化・商業化に伴い、各地に都市が成立したことも脱共産主義化を促進したであろう。富の集中と階層化が進んだ商業都市は素朴な共産主義とは本質的に相容れないものだからである。

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共産主義の系譜と展望(1)

2025-07-05 | 共産主義の系譜と展望

まえがき

 11月18日にサービス終了が予定されているgoo blogでは、終了に先立つ10月1日に新規投稿・編集機能の提供が停止される段取りとなっているが、それまでまだ日にちがあるので、当初構想しながら挫折していた連載を当ブログ上での最終連載として改めて縮約掲載することにした。
 この最終連載では、当ブログの主軸を成す共産主義に関して、その思想史的な系譜と今後の展望について総括することで、当ブログの締めくくりとしたい。
 共産主義を一つの観念ないし思想として見た場合、それは先史時代まで遡る可能性のある長い履歴を持つが、筆者はソ連の解体消滅以来、もはや失効したとみなされてきた共産主義について、仮冒を含む過去の共産主義思想に由来する先入観を排してこれを独自に再定義し、再生することを試みてきた反面として、共産主義の系譜についてはほぼ捨象せざるを得なかった。そのため、本連載をもって、その捨象した部分を補充する所存である。
 とはいえ、投稿可能な期間が実質上9月末までと限られているため、仮説上の先史共産主義に始まり、古代から現代に至る世界における共産主義の系譜と展望を相当な早駆けで総覧していかなくてはならないので、覚え書き的な素描とならざるを得ず、改めて新ブログ上で補訂する可能性がある。

 

Ⅰ 先史共産主義

(1)石器生産と原始共産主義
 しばしば過去の共産主義者の多くが先史時代を共産主義の原初段階として想起していたが、文字体系が発明され史料が残されている以前の先史時代における共産主義に関しては、すべて仮説の域を出ない。
 遺跡の考古学的な分析から社会のあり方を推測することはできても、観念ないし思想としての共産主義が先史時代に存在したかどうかは物質的な分析によっては導き出せないので、永久に仮説のままである。
 そういう前提で先史時代を見返すと、農耕開始以前の狩猟・採集社会における共産主義というものを想定することはできる。その点、共産主義=私有財産の否定・財産の集団的共有という定義による限り、集団的な狩猟や採集によって獲得した動植物を集団で分け合うことが原初の共産主義だということになるかもしれない。
 けれども、共産主義を私有財産の否定・財産の集団的共有という法的な所有観念のレベルに限局してとらえるのは旧い定義である。より新しい定義によれば、共産主義とは生産活動の様式に係る一つの考え方であり、それは生産手段の社会的共有を通じた共同的な生産活動及び生産物の公平な分配を志向する社会思想である。
 そうとらえ直すと、狩猟・採集よりもむしろ人類最初の生産活動と言うべき石器の生産がいかにして行われていたのかということのほうがより重要な問題である。その点、簡単な石器の生産は原人の時代から確認されており、人類の進化に伴い、石器は様々な用途に応じた加工製品として発達していく。
 そうした石器製造における生産手段である石や採石場が集団的に所有されていたのか、また石器生産が集団的に実施され、かつ完成した製品としての石器が集団的に共有され、分配されていたのかは、先に述べたとおり、石器に対する考古学的な分析からは解明できない問いである。
 仮に石器生産が共産主義的に行われていたとすれば、それこそが最初の共産主義=原始共産主義ということになるかもしれない。しかし、石器生産が個人的に行われ、基本的に石器は製作者個人もしくはせいぜいその家族の所有に属すると観念されていたならば、原始共産主義は幻想であるということになる。


(2)互助的交易活動と共産主義
 人類は早い時期から集団間での交易活動を開始しており、人類とは本質的にモノを交換し合う動物である。こうした交換=交易は貨幣制度が発明される以前は物々交換によっていたと推定されるが、交易活動は後の商業活動の萌芽である。
 商業活動は私的所有権と私有財産という観念及び商業を専業とする商人という富を蓄積する階級を誕生させ、共産主義的な観念からの離脱を促進したことは間違いないが、貨幣が発明される以前の原初的な交易活動の段階ではまだ商人の階級分化は起きていなかったと想定することができるかもしれない。
 物々交換は貨幣交換よりも煩雑であり、しばしば儀礼的でさえあり、日常的・大量的に反復するには適しないから、物々交換による交易活動は富の蓄積を目的とした商的な活動というよりは、集団間の互助活動―さらには互助を通じた同盟形成―という意味合いが強かったとも考えられる。
 相互扶助(互助)は後に近代のアナーキズムが基軸とした経済思想であるが、共産主義においても相互扶助は生産活動の目的を成す観念であるから―資本主義における利潤追求と対照される―、互助的な交易活動は原始共産主義の一形態とみなすことも可能である。
 その点、考古学は先史時代から相当な遠距離間で交易活動が行われていたことを証明しているが、交易活動の目的や動機、様式までを解き明かすことはできないから、互助的交易活動というものもまた、仮説の域を出ないものである。

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