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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産主義の系譜と展望(16)

2025-08-31 | 共産主義の系譜と展望

Ⅵ 現未来共産主義

(3)共産主義の再定義
 20世紀末のソ連をはじめとする共産党支配国家の連続的崩壊現象は、国家共産主義の失敗と破綻の象徴であった。その政策的な要因を挙げればきりがないが、根本的な要因は、共産主義と国家という観念及び制度との相性の悪さにある。
 本来の共産主義は、近代以前であれば素朴な自治的農村協同体を理想とし、近代以降では搾取的な賃金労働制によらない労働者の自主管理協同組合を基盤とする工業社会を理想とし、最終的に国家は「死滅」するとする思想であり、国家をベースとする思想ではなかった。
 それを無理に国家と結び付け、共産党が国家を独占的に統治し、政府の中央計画経済に基づき賃金労働制を残した国有企業を通じて生産活動を展開していくというある意味では「現実的」で、わかりやすい構制を追求したのが国家共産主義であった。しかし、果たして共産主義と国家の無理な結合は失敗に終わった次第である。
 そうとすれば、いったん空欄となった共産主義の現未来における再定義に当たっては、国家の観念と制度を前提としない無国家共産主義の方向に道が付けられることだろう。その点、無国家共産主義を展開したクロポトキンの思想の潜在的可能性は高いと言える。
 クロポトキンはマルクスとは異なり、一家を成さなかった思想家であり、その後の継承・発展が十分なされずに終わったため、その思想は未加工の原石のような状態で図書館や古書店に眠っているが、今後、改めて再発見される価値のあるものである。
 ただ、クロポトキン(1842年生)はマルクス(1818年生)よりおよそ一世代若いとはいえ、マルクス同様、基本的には19世紀の思想家であるから、その思想をそのままの形で現未来に当てはめることには無理がある。共産主義の再定義に当たっては現代的・未来的な視点の加味が必要である。
 その際、土台としてエコロジーの視点は必須である。エコロジーへの配慮は、資本主義を凌駕しようと長足かつ急速な経済発展を目指した国家共産主義には欠如した視点であった。とはいえ、国家共産主義諸国では最終的に生産活動が停滞し、資本主義諸国よりは低開発に終始したことで、環境的負荷という点でも結果的に低度であったことは皮肉である。
 国家共産主義諸国の破綻後、それらの諸国を含め、グローバルに資本主義が急拡大していく中、地球環境危機がかつてなく深刻化する現未来において、共産主義にエコロジー視点を埋め込み、エコロジカルな共産主義の再定義を行うことは不可欠である。
 もう一つは、上部構造としてのデモクラシーの再構築である。デモクラシーは共産党支配国家においては完全に欠如していた。それは政治的抑圧の常態化をもたらし、20世紀末の連続的な民衆革命の主要な要因となった国家共産主義の欠陥である。
 これを歴史的教訓として銘記する一方で、「一党独裁」を批判してきた議会制民主主義も今や利権腐敗と大衆扇動政治の代名詞と化し、民主主義を内側から掘り崩している状況下で、改めて民主主義的な共産主義の再定義が試みられなければならない。
 さらに、情報通信技術の高度な発達という産業革命的変化を受け、「地球村」がユートピアではなくなっていく現未来状況を踏まえ、地球全域を包摂する視点で共産主義をとらえ直すことも必要である。


(4)エコロジズムの内在化
 上述した共産主義の再定義における第一点目のエコロジー視点に関してさらに敷衍すると、それはエコロジズムの内在化ということになる。
 エコロジズム(ecologism)は日本語に訳しにくい用語であるが、ここでは富の源泉は健全な生態系にあり、経済政策も生態系の保全に重点を置いたものでなければならないという趣意で、「重生態系主義」という私訳を与えておきたい。
 「重生態系主義」に最もふさわしい生産様式を考えた場合、それは計画経済を伴う共産主義である。すなわち、生態系の保全に第一の基準を置いた計画経済に基づく互助的な生産活動である。
 その点で、生態系の持続を考慮する計画経済の技術は不可欠であり、環境負荷がとりわけ高い産業分野に関しては厳格な計画の下に集産化する必要性があるため、集産主義的な要素も限定的には採り入れなければならない。その限りでは、国家共産主義に近い側面がある。
 しかし、無国家共産主義においては国家という観念も制度も存在しないから、計画経済も国家が政府を通じて運営するのではなく、企業体が共同の自主的な計画を通じて運営していく構制となるだろう。
 また、気候変動に代表されるような地球環境問題は、まさにグローバルな規模で解決されなければならないから、「重生態系主義」は国家の枠組みを取り払った地球全域での計画経済を要求するだろう。


(5)参画民主主義の再発見
 共産主義の再定義における第二点目のデモクラシーに関して敷衍すると、それは参画民主主義の再発見である。
 「参画民主主義」(participatory democracy)は「参加民主主義」と呼ばれることのほうが一般的かもしれないが、「参加」ではいかにも弱く、単に投票するだけでも「参加」と言えなくはないので、より積極的な関与のニュアンスを込めて「参画」と呼ぶことにしたい。
 こうした「参画民主主義」は実のところ、共産主義には元来備わっていた。ロシア革命で現れた「ソヴィエト」(совет)というロシア語も、単なる選挙制議会ではなく、労働者や農民、兵士らがより直接的に政治に参画する「民衆会議」であった。
 それがボリシェヴィキ⇒共産党の政権掌握により換骨奪胎され、支配政党に納まった共産党の指導部決定を追認するだけの会議体に堕し、ソヴィエト連邦という単なる国名の修辞となってしまったのであったが、本来の「ソヴィエト」を再発見することは民主主義的な共産主義の再定義に不可欠である。
 ただ、人口も増大していく現未来にあって、文字通りの直接的な民衆の参画を制度化することは物理的に無理であるから、何らかの形での代議制は必須であるが、それは議会制度のような選挙によるものではなく、党派性のない中立的な代議制であることが互助的な協力を旨とする共産主義にふさわしい。


(6)コミュナリズムからコスモポリタニズムへ
 共産主義の再定義における第三点目の地球全体の包摂に関して敷衍すれば、それはコミュナリズムからコスモポリタニズムへ、という視座転換である。
 共産主義は元来、小さなコミューンを基礎とする協同体を理想化しがちであり、政治的な面では地方自治的な協同体を基盤とするコミュナリズム(communalism)と結び付いていた。国家共産主義はそうしたコミュナリズムを打破して、国家単位で共産主義を再定義しようとしたのだった。
 それは一方では、国家を超えた世界主義的なコスモポリタニズム(cosmopolitanism)の否定にもつながり、その傾向はスターリン時代のソ連第一主義とも言える「一国社会主義」政策によってますます強まった。
 しかし、現未来のグローバルなコミュニケーションの発達、さらに地球環境問題のようなグローバルな解決を待つ問題への直面を踏まえると、コスモポリタンな共産主義の再定義が必要である。その点、無国家共産主義は国家という観念を持たないがために、「国際的」ならぬ「民際的」な「世界共同体」の構想とも結び付きやすい利点を持つ。
 このことはコミューンを基礎単位とする構制の否定を意味するのでなく、共産主義は引き続き地方自治的なコミューンを重視するが、そうした基礎の上に世界共同体にまで重層的に拡大された新たな共産主義が模索されるであろう。

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共産主義の系譜と展望(15)

2025-08-27 | 共産主義の系譜と展望

Ⅵ 現未来共産主義

(1)共産党支配国家の崩壊
 ソ連をモデルとしてその衛星国・同盟国にも広く拡散した共産党支配国家は、1989年に始まる連続的な民衆革命の結果、1990年代初頭までに、一部の例外を除き、次々と崩壊した。
 その直接的な発端となったのは、ソ連軍が常駐する衛星国として最もソ連に従属していた東ドイツ(ドイツ民主共和国、以下、東独と表記)における民衆革命であった。東独は戦後直後の1946年にドイツのソ連軍占領地域でドイツ共産党とドイツ社会民主党が合併して結成された社会主義統一党という名義で他名称共産党が翼賛政党を従えて実質上一党支配する形の体制が49年に確立されていた。
 ドイツ共産党はローザ・ルクセンブルクのような反レーニン主義者が中心となってドイツ革命時に結成された党であるが、ローザらが反革命化した新政府に殺害されてからは、次第にソ連共産党の教義に忠実な党となり、戦後、社会主義統一党に衣替えすると、完全にソ連共産党の国外衛星政党として抑圧的な体制を形成していた。
 1960年代には、西独への「逃亡者」を防ぐため、西独と分け合う東西ベルリン間に悪名高い「壁」を構築したが、これはすでに東独体制が政治的には民衆から拒否されていたことを示す崩壊の予兆であった。
 経済的な面では、東独はソ連モデルの中で比較的良好ではあったが、1980年代に入ると中央計画経済がソ連以上に行き詰まりを見せる中、1989年には民衆の平和的デモが拡大、党も西側への自由渡航を認める政策に転換したことで、「ベルリンの壁」が法的に崩壊、後に物理的にも撤去された。翌年には、東独国家自体も東西ドイツ統一の過程で消滅した。
 この出来事は中・東欧圏の他のソ連同盟諸国にも強いインパクトを与え、連続的な民衆革命の引き金となったばかりか、翌年にはソ連自身も憲法改正により共産党一党支配体制を廃止する契機となった。
 ソ連では共産党一党支配の終焉がソ連邦自体の崩壊につながることを恐れた党内保守派が1991年8月に「ペレストロイカ」を進めるゴルバチョフ(新憲法下で新設の大統領に就任)を拘束するクーデターに出たが、急進改革派のボリス・エリツィンや市民の抵抗で失敗に終わったことを引き金に、エリツィンを中心にソ連解体の動きが加速化し、91年末にはソ連を構成したロシアをはじめ三共和国首脳の間でソ連解体が合意され、ソ連は終焉した。
 これを機に、モンゴルにまで至る他のソ連の衛星/同盟諸国でも同様の一党支配体制が主として民衆革命によって終焉していくが、その余波は早くからソ連と決別し、独自の自主管理経済体制を構築してきたユーゴスラビアにも及んだ。
 ユーゴでは1980年に終身大統領チトーが死去した後は、共産党に相当する共産主義者同盟の集団指導制で運営されていたが、準市場経済化された中途半端な自主管理経済が停滞する中、1990年代初頭、ソ連と同様の共和国連邦を構成する各共和国が独立する動きを加速化させ、同年初頭には共産主義者同盟が解散した。
 超法規的とはいえ、中核国ロシアが音頭を取って一応合意に基づき平和裏に解体されたソ連とは異なり、ユーゴでは最大構成国セルビアが連邦解体に強く抵抗したことで、他の構成共和国との間で順次内戦となり、その渦中では構成共和国の一つであったボスニア‐ヘルツェゴビィナやコソボ自治州を中心にジェノサイドの性質を持った民族浄化が発生するなど、凄惨な内戦状況が1990年代を通じて続くこととなった。
 こうした連続的な体制変動の結果、文字通りに共産党が一党支配する共産党支配国家は、現時点で中国、ベトナム、キューバの三か国を残すだけとなった(ただし、以下の二か国を加えれば、五か国とみなす余地もある。)。
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の支配政党・朝鮮労働党は2010年の党規約改正で「共産主義の建設」という文言を削除したが、2021年の規約改正で再び「共産主義社会の実現」という文言を復活させており、朝鮮労働党を他名称共産党とみなすことも可能である。
 ラオスでもマルクス‐レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による一党支配が続いており、これも他名称共産党とみなすことは可能である(ただし、共産主義については明言していない)。


(2)空欄となった「共産主義」
 1990年代の共産党支配国家の連続的崩壊現象は世界の共産党に強い衝撃波をもたらし、非体制の野党にとどまっていた諸国の共産党にあっても、党の消滅や党名変更、イデオロギー路線の転換をもたらす結果となった。
 現存共産党の現況を見ると、残り少なくなった体制共産党も中国におけるように憲法原則まで昇華させるかどうかは別としても、程度差はあれ資本主義的市場経済を受容・志向する流れにあり、もはや共産主義は党規約上の美辞的な建前として事実上は放棄していると言って過言ではない。
 非体制・野党の地位にある大半の諸国の共産党はいまだ共産主義を標榜しているとしても、これとて虚しい歴史的な建前に過ぎず、多くは議会政党として、またアメリカ共産党のように議会外政党として、革命を放棄した(わずかながら急進性を残す)実質的な社会民主主義政党として資本主義に適応化している状況にある。
 こうした共産党の総退行現象は、そもそもすでに名目化していた「共産主義」という社会思想そのものをいったん完全な空欄に帰せしめる状況を作り出していると言ってよい。
 「共産主義」の定義を独占してきた権威的な総本山ソ連が健在であった時代、「共産主義」は政治的にはソ連が体制イデオロギーとし、世界の大半の共産党が規範的に追随してきた「マルクス‐レーニン主義」と同一視され、経済的には同じくソ連の産業国有化・中央計画経済に基づく集産主義的な経済モデルと同一視されてきた。
 しかし、ソ連という総本山が消滅したおかげで、「共産主義」を「マルクス‐レーニン主義」から分離することができるようになり、かつ混同されてきた「集産主義」から区別することもできるようになった。これがここで言う「空欄」の意味するところである。
 「空欄」は「無」とは異なるから、社会思想としての「共産主義」が消滅し、無に帰したわけではない。それどころか、「共産主義」は誰でも自由にその内容を埋めることができる状況になったと言える。その結果、「共産主義」は今、あらゆる権威から解き放たれて最も自由な思考の羽ばたきが許される社会思想となったのである。
 1990年代の共産党支配国家の連続的崩壊現象は、共産主義思想にとってはその消滅・終焉のレクイエムではなく、新たな再生・出立のファンファーレであると積極的にとらえるべき事象であったと言えるであろう。

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共産主義の系譜と展望(14)

2025-08-23 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(15)二方向の体制内変革
 1960年代は、世界的に変革へ向けた政治運動が高揚した現代史上の転機であった。すでに世界はアメリカを盟主とする西側陣営とソ連を盟主とする東側陣営とに分断されて、いわゆる冷戦の状況にあったが、変革の波は東西それぞれで生じている。東側では、後発ながらすでに確立されていた二つの共産党支配国家で、体制内での大規模な変革の動きが生じた。

①チェコスロバキアの「人間の顔をした社会主義」
 チェコスロバキアでは、ナチスドイツの占領から解放された後、1946年の総選挙でソ連の影響下に共産党が比較第一党となり連立政権を樹立したが、連立相手の非共産党との対立が深まる中、1948年の総選挙では共産党及びソ連の圧力下で共産党が圧勝、以後は翼賛政党を従えた「国民戦線」という形態を採りつつ、事実上の共産党支配体制を確立した。
 そうした中、硬直した共産党支配国家を変革すべく、1968年に共産党第一書記に選出されたアレクサンデル・ドプチェクを中心に、大規模な政治経済改革が実行されようとした。「人間の顔をした社会主義」(以下、「人間の顔」と略す)のスローガンは、チェコスロバキアの科学哲学者ラドヴァン・リヒテによる。
 改革の行動綱領によれば、戦後直後に「ブルジョワジー残党」と闘うために必要とした「中央集権的及び行政指令経済の方法」はもはや必要なく、階級対立が終焉し、労働者が搾取されなくなった当段階では、チェコスロバキア経済が「世界の科学・技術革命」に参加し、資本主義と競争するためには、重要な地位を(党官僚ではなく)「有能で教育を受けた社会主義専門家幹部で埋める」ことを保証する必要があるとされた。
 要するに、その変革プログラムは共産党支配体制の枠組み内で、抑圧的な政治と硬直した中央計画経済を緩和することに重点が置かれた。そのために、共産党の党内民主化、中央計画経済の緩和と自主管理の導入、検閲の廃止と秘密政治警察の活動規制、報道・文化活動の自由、移動の自由といった政策が次々と打ち出されたため、「プラハの春」と称賛されることにもなった。
 しかし、これらはあくまでも共産党指導部という「上」からの改革措置であり、「下」からの民衆運動としては十分な発展を見ることがなかったことは弱点であり、二十数年後に共産党支配体制を終焉させた民衆革命の域には達しなかった。
 ただ、体制内変革とはいえ、「人間の顔」改革は最終的に共産党支配の終焉につながる要素を包蔵していたことから、ソ連共産党指導部はソ連を盟主とする同盟関係への脅威とみなし、1968年8月にワルシャワ条約機構軍(実質ソ連軍)を通じた軍事介入によりドプチェク指導部政権を転覆したため、「プラハの春」はわずか7か月余りで挫折した。

②中国の「文化大革命」
 中国では、日本の支配から解放された後、国民党との内戦を制した共産党が1949年以来、最高指導者・毛沢東の権威のもとに実質的一党支配体制を確立していたが、農工業の発展テンポを急速化することを目指した「大躍進」政策が失敗したことを受け、60年代には中央計画経済を緩和する「調整」と呼ばれる改革政策に転じていた。
 そうした状況下で発生した「文革」と略称される(以下、略称で表記)事象は「人間の顔」改革とは異なり、明確な年度と日付をもって記録される出来事ではなく、おおむね10年がかりの複雑な過程を辿った政治経済全般の変革に伴う動乱であった。
 その公式な始まりは、1966年8月の「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」と題する党中央委員会の決議にあるとみなされ、本格化するのは「実権派」を批判する69年の第9回党大会における林彪の総括的政治報告からとされる。
 「文革」の発端は、中国では如上「調整」政策を実務的に担っていた党幹部(いわゆる実権派)らに対して、当時劣勢にあった原理主義的な毛沢東とその支持者がしかけた権力闘争であり、「人間の顔」改革とはある意味で逆向きの事象とも言えるが、その過程で若手党員や学生・労働者を動員したことから、「下」からの参加も得て、ある種の大衆運動に発展した。
 党内権力闘争が発端とはいえ、毛が「造反有理」をスローガンとし、大衆の造反と自己解放を強調したことから、これは「自由主義」を掲げながらもテクノクラート管理社会化が進行していた西側資本主義諸国の学生・青年運動にも影響を及ぼし、中国がソ連のチェコスロバキア軍事介入を非難したことへの共感も手伝って、毛沢東思想が西側の青年の間でも一世を風靡する契機ともなった。
 実際のところ、「文革」は正式には「プロレタリア文化大革命」とも呼ばれるように、共産党中国の建国後もはびこるブルジョワ文化の残滓を取り除くべく階級闘争を推進し、資本主義への道を歩む「走資派」を一掃してプロレタリア文化を構築するイデオロギー的な趣旨を伴うものであり、まさに「人間の顔」とは逆方向の認識に基づいていた。
 しかし、党官僚制への「造反」という観点から、上海では上海人民公社と呼ばれる革命組織が樹立され、これが革命委員会に改組されると、全国で従来の党組織を解体して革命委員会が設立されるなど、「文革」初期(68年頃まで)には「下」からの革命の要素も共時的に見られた。
 ただ、「文革」は明確な行動綱領も欠いたうえ、民衆革命的な風潮から生まれた一種の民兵組織・紅衛兵による階級闘争に名を借りた横暴が極まり、無数の迫害や弾圧を生み、次第に毛沢東の個人崇拝体制に変質するなど、矛盾が拡大していった。最終的には、1976年の毛の死去に続き、「文革」主導者とされた四人の毛側近党幹部(いわゆる四人組)の逮捕・起訴をもって「文革」は終了した。
 「文革」期の犠牲者数について正確な統計はないが、最大推計では1000万人を超えるともされる死者数は、ソ連におけるスターリン時代の「大粛清」、次項で見るカンボジアの共産党による「大虐殺」と並び、〝共産主義〟の名のもとに引き起こされた三大人道的惨事として歴史に銘記される。


(16)カンボジアの「文明大革命」

 カンボジアで1975年から79年まで一党支配を行ったカンボジア共産党(正式名称:カンプチア共産党、以下、通称クメール・ルージュで表記)が引き起こした「大虐殺」は、最大推計で犠牲者200万人(当時のカンボジア人口のおよそ四分の一)とされる計画的ジェノサイドであり、これはナチスドイツのホロコーストに匹敵する20世紀における国家的人道犯罪の双璧の一つに数えてよいものである。
 ただ、この事象はジェノサイドという側面に焦点が集中しがちであり―当然だが―、特定の名称がなく、漠然と「カンボジア大虐殺」などと呼ばれてきた。しかし、別視点からみれば、これは先史農耕社会を理想化した農業ユートピアを短期間で性急に目指した革命であり、すでに収束に向かっていた中国の文革にも触発され、それをより過激化し、西欧的近代文明そのものを変革する「文明革命」にまで貫徹させようとしたものと言える。その意味では、「文明大革命」である。
 ここで想起されるのは、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』に見られた「社会に文明があり過ぎ、生活手段があり過ぎ、工業や商業が発達し過ぎた」という文明過剰論である。この一節は見落とされがちであるが、ここで批判されているのは資本主義的文明のことである。しかし、これが文明破壊と先史時代への回帰を志向するものでないことは、マルクスとエンゲルスがユートピア共産主義を否定し、基本的には工業社会を志向していたことから明らかである。
 クメール・ルージュの政治上の最高指導者はポル・ポトであったが、党の農本主義的なイデオロギーのもととなったのは、エコノミストで、党の政権掌握後に国家元首(国家幹部会議長)にも就任したキュー・サムファンの1959年の論文にあった。
 この中で、サムファンはフランス植民地から独立して日の浅かったカンボジアの国富の相当部分がサービス分野に集中しており、第一次・第二次産業部門に損害を与えていると主張し、農業の発展のため都市部の公務員を含むサービス労働者の一部を農村に再配置することがひいては産業の成長を可能にすることを提唱した。この発展は、農村部にすでに存在していた相互扶助制度に基づく協同組合の創設によっても奨励されるが、そのような改革は事前に教育されなければならず、「農民は忍耐と理解をもって扱われなければならない」という慎重な留保もなされていた。
 しかし、70年代半ばのカンボジアはベトナム戦争に巻き込まれ、米軍の爆撃で農村が破壊され、農業基盤も崩壊する中、内戦を制した革命的解放勢力として権力を掌握し、緊急的な食糧増産を必要としていたという事情からも、農業基盤の再建を目指す中で、クメール・ルージュの面々はサムファン自身を含め、性急な農本主義に走ることとなった。
 そうした性急さは、サンファン自身が「(カンボジアは)中間段階で時間を無駄にすることなく、完全な共産主義社会を創造する最初の国になるだろう」と豪語したということにも現れている。これは過渡期を経て、低次から高次の共産主義社会へ移行するというマルクスの移行過程論からも完全に逸脱していた。
 クメール・ルージュの目標は、貨幣、商業、私有財産の完全かつ即時の廃止を通じて農本的で平等な共産主義社会を創造することにあったが、それ自体はユートピア共産主義もしくはアナーキズムの思想にもしばしば見られるもので、目新しさはない。
 クメール・ルージュの特徴はむしろ、そうした性急な目標達成のための手法の過激さにあった。その一つが都市住民の農村への大量的な強制移住策であり、もう一つが知識人に対する階級抹殺であった。クメール・ルージュの幹部自身の多くがフランス留学経験を持つ知識人でありながら、かれらは西欧的な教養を持つ知識人を革命の障害とみなし、計画的に殺戮した。
 この側面から見れば、クメール・ルージュの蛮行はマルクスの移行過程論を無視したユートピア共産主義思想が最悪の形態と規模、方法をもって表出されたものと言える。
 クメール・ルージュを特徴づけるもう一つの要素はクメール人優越主義である。そのため、クメール・ルージュは少数民族を強制移住させ、その言語を禁止したほか、法令によりカンボジアの人口の15%を占めた20以上の少数民族グループの存在を否定した。
 中でも、イスラーム教徒の少数民族であるチャム族に対しては、イスラームが新しい共産主義体制に適合しない異質文化であるとの認識から、計画的な民族浄化の対象として殺戮した。
 こうしたクメール人優越主義は人種・民族の別を超えた社会的平等を志向する共産主義の理念にむしろ反する夾雑物であり、この側面ではクメール・ルージュはアーリア人優越主義に基づき、ユダヤ人をはじめとする少数民族を殺戮したナチスに類似していると言える。
 最終的に、クメール・ルージュ支配体制は同じ共産党支配体制ながら対立関係にあった隣国ベトナムの侵攻を受け、四年足らずで崩壊したが、その後も20年近く密林地帯でゲリラ活動を展開した。


(17)名目的共産主義への退行

 1970年代後半以降になると、共産主義とは何かを突き詰めて追求する風潮は東西ともに潰え、共産主義と集産主義の混同も正されることなく、もはや共産主義が単なる名目上の空疎な理念でしかなくなる傾向を増していく。そうした「名目的共産主義」への退行を象徴する実例を幾つかかいつまんでみる。

①ソ連の「発達した社会主義」
 共産党支配体制の固定化とともに共産主義=集産主義の定式が定着したソ連では、60年代以降、中央計画経済の地域分権化、利潤率指標の導入などの部分的改革がなされたがいずれも成功せず、停滞と行き詰まりを見せていた。
 そうした中、長くソ連体制を法的に規定してきた1936年憲法(スターリン憲法)を改正した1977年憲法の前文では、当時のソヴィエト国家を「プロレタリアート独裁の任務を果たし終え(た)全人民国家」と規定したうえ、ソ連社会は「社会主義がそれ自身の基礎の上に発展する段階」としての「発達した社会主義社会」であり、それは「共産主義への道における法則にかなった段階である」であって、ソヴィエト国家―「社会主義的全人民国家」―の最高目的は「社会的共産主義的自治が発達している無階級の共産主義社会の建設」にあるとしている。
 要するに、そうした未来の共産主義社会の実現の過程にある中間到達点が「発達した社会主義社会」だということであって、現時点は共産主義社会への準備段階にあるとされるのである。裏を返せば、革命から60年を経てもいまだ共産主義の段階には達しておらず、未来の共産主義社会の実像も、それがいかにして達成されるのかも不明のまま、ソ連体制は新憲法制定からわずか14年後には解体・消滅していくのである。

②西欧のユーロコミュニズム
 共産党はロシア革命後、西欧の資本主義諸国でも続々と誕生していったが、西欧では革命はいっこうに勃発しない中、ソ連による「プラハの春」の武力転覆以降、西欧諸国の共産党はソ連から離反し、プロレタリア独裁の放棄や複数政党制の容認などを掲げ、議会政治への積極的参加を志向するようになる。
 中でも当時、西欧最大規模の共産党であったイタリア共産党はこうしたユーロコミュニズムの主導者となり、保守系政党との連携による政権獲得を目指した。ちなみに、世界で初めて1947年に議会選挙を通じて政権を獲得したのは、イタリアに四囲を囲まれた内陸の小国サン・マリーノの共産党であった。
 このような革命放棄と議会進出に重点を置くユーロコミュニズムとは、暗黙裡における共産主義の放棄、資本主義の修正にとどまる社会民主主義路線への転換であり、イタリア共産党がまさにそうなったように共産党そのものの消滅、あるいは実質的な社民党化につながる道であった。

③中国の「改革開放」
 中国では如上「文革」が収束した後、「文革」では糾弾・迫害対象となった「走資派」が復権し、特に1978年以降、鄧小平が事実上の最高指導者となったことで、中国共産党の基本路線は「改革解放」へと大きく切り替わった。
 これは要するに、市場経済への漸進的な移行政策であり、農家の自主制を認める生産責任制、経済特区制による外資の導入や国外からの技術移転の促進、企業の経営自主権の拡大などが推進された。
 その基本思想は先富論、すなわち先に豊かになる条件を整えた者から豊かになり、その影響から他の者が豊かになればよいというまさに資本主義的経済競争論に基づいており、共産主義的な平等論は棚上げされていた。
 こうした「改革開放」の集大成が1993年の憲法改正で憲法にも取り込まれた「社会主義市場経済」の原理であった。これにより、中国では共産党支配体制を護持したまま、「共産党が指導する資本主義」というねじれた体制が定着していくことになる。

④ソ連の「ペレストロイカ」
 ソ連では1964年から82年までスターリンに次ぐ長期政権を担ったレオニード・ブレジネフ共産党書記長が死去した後、二人の高齢の党指導者政権がいずれも指導者の死去で短期に終わると、1985年に史上最年少54歳のミハイル・ゴルバチョフが書記長に選出された。
 政権初期、ソ連の停滞を象徴するようなチェルノブイリ原子力発電所大爆発事故に見舞われたゴルバチョフ指導部の下で開始された「ペレストロイカ」は行き詰まったソ連体制の全般的な構造改革であり、内容的にはかつてソ連自身が粉砕したチェコスロバキアの「人間の顔」改革に酷似していた。言わば、ソ連版「人間の顔」改革である。
 しかし、ロシア語で再構築を意味する「ペレストロイカ」(перестройка)は単なる「改革」のレベルを超え、1977年憲法に規定された共産主義への道としての「発達した社会主義社会」を放棄し、暗黙裡に資本主義への道に切り替えるもので、経済的には中国の「改革開放」をより消極的に実行する数年がかりの移行プロセスとなった。
 しかし、1989年の学生らの民主化要求を武力鎮圧し、共産党支配体制を護持した中国とは異なり、政治的民主化・自由化に重心が置かれた「ペレストロイカ」は1990年の憲法で共産党の一党支配体制を廃止したことによって、ひいては翌年のソ連国家の解体・消滅にもつながった。

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共産主義の系譜と展望(13)

2025-08-19 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(12)トロツキーの理論的批判活動
 レフ・トロツキーは10月革命とその後のボリシェヴィキ政権の樹立、ソヴィエト連邦の創設の過程でレーニンと並ぶ重要な役割を果たした革命家・政治家であり、レーニンの有力後継候補でもあったが、スターリンとの後継争いに敗れ、亡命を強いられた後、ソ連の刺客により亡命地メキシコで暗殺されるまでの余生は在野の理論家・運動家として過ごすこととなった。
 彼が主として亡命時代に提唱した諸理論はしばしば「トロツキズム」の名のもとにくくられるが、彼の理論はスターリンの下で確立されつつあった共産党支配国家の構造及び政策に対する多岐に及ぶ批判から成り立っていた。
 中でも、スターリンの下で高度に進行していた非民主的な官僚主義に対しては批判的であり、ソ連政府の政策が国民の広範な民主的参加を欠いており、労働者の自主管理と経済運営への民主的参加を抑圧していることを指摘した。
 彼の理論の眼目は、主著『裏切られた革命』の中の一節「官僚的独裁政治は、ソヴィエト民主主義に取って代わられなければならない。批判の権利の回復と真の選挙の自由は、国のさらなる発展に必要な条件である。これは、ボリシェヴィキ党をはじめとするソヴィエト政党の自由の復活と労働組合の復活を前提としている。産業に民主主義を導入することは、労働者の利益のために計画を根本的に修正することを意味する。」に集約されている。
 また、ソヴィエト民主主義や労働者による生産管理の必要性を強調することからも、トロツキー理論には評議会共産主義への接近を思わせる部分もあるが、本質的にはレーニン流の国家共産主義の枠内にとどまっている。
 彼は実践面では、スターリンの影響が強くなった共産党の国際組織・第三インターナショナルに対抗して、自派の第四インターナショナルを組織して活動したが、これは1940年のトロツキー暗殺後、分裂・衰退した。
 トロツキーには存命中も信奉者が多く、非業の死を遂げたことでますます強固な信奉者を生み、「トロツキスト」はマルクス主義内部で最大級の非主流派勢力となったが、トロツキーは問題提起型の理論家であり、スターリン時代のソ連体制に関する多くの論点を網羅しながらも、内容的にはレーニン主義の亜流理論であり、具体性にも欠け、共産主義思想におけるブレークスルーとなるような要素は見出し難い。
 

(13)共産主義と集産主義の混同
 近代以前の素朴な共産主義思想では私有財産の廃止と財産の共有が中心モチーフであったが、マルクス以降の近代共産主義思想では私有財産の廃止から生産手段の社会的共有に重心が移った。
 その場合、生産手段の社会的共有の方法が問題となるが、マルクスのプロレタリアート独裁論では、主要な生産手段に加え、銀行や運輸機関といったサービス機関もいったん国家の手に移すという構制になるため、「国有化」がクローズアップされることとなった。
 このような生産手段やその他の経済手段の国への集中化は「共産主義」ではなく、むしろ「集産主義」と呼ばれるべきものである。しかし、ロシア革命後のソ連ではこうした国有化と政府による中央計画経済が共産党支配体制下の主軸的な経済政策として採用され、スターリン政権下で一定の成果を上げたことからも、「共産主義」と「集産主義」が混同されるようになった。
 このような概念の混同はソ連がスターリンの長期独裁期に共産主義の総本山的な位置を占めるようになると完全に定着し、非/反共産主義者はもちろん、共産主義者の間ですら一般化していった。
 本来、「共産主義」と「集産主義」の区別は「共産主義」を正しく理解するうえで最重要のポイントであるが、両概念の混同は今日でもなお維持され、共産主義の正確な理解を妨げている。
 たしかに、マルクス理論ではユートピア主義を避けるため、資本主義から共産主義へ至る過程が重視され、過渡期のプロレタリア独裁国家の段階では「国有化」が目指されるが、それはあくまでも過渡的・暫定的なものである。
 マルクスの移行過程論によると、プロレタリア独裁期を経過した後に共産主義社会の段階に入るが、このような生まれたばかりの初期共産主義社会にはなお資本主義的な交換経済の残滓が見られ、労働時間が表象された労働証明書によって必要物資を取得する「低次共産主義」の段階である。
 その後、そうした残滓的な交換原理も克服され、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」の標語が妥当する「高次共産主義」へ移行した時、共産主義社会は完成すに至る。
 ちなみにマルクス理論にあって、共産主義の段階では賃金労働制が廃されることは明らかであるが、貨幣経済全般が廃止されるのかどうかは不明である。その点、廣松渉はマルクスも貨幣制度の廃止を「志向」はするものの、一気呵成に廃止できるとは考えていないとしている。
 いずれにせよ、こうしたプロレタリア独裁⇒低次共産主義⇒高次共産主義というマルクスの移行過程論はいつしか忘れられてしまい、プロレタリア独裁期の国有化集産主義が共産主義の教条と化していくのである。スターリン時代に多くの犠牲を出した農業集団化政策も、その延長上に位置づけることができる。
 ソ連の集産主義は日用品まで含むあらゆる物品を独占的な国有企業で生産するとともに、それらの独占国有企業を所管する高度に細分化された経済官庁も加わり、共産党指導部の大綱的方針を起点に複雑なプロセスから成る中央計画経済を伴ったため、強固な官僚制が発現する一方、労働者は計画や生産の過程で何らの参加・決定権も持たなかった。
 一方で、貨幣経済は存置されたため、資本主義的な市場経済こそ排除されていたものの、国有企業といえども収益を考慮することは避けられず、また労働者も資本主義経済下と同様、賃金制により雇用されていたから、実態としては資本主義経済と大差なく、国家が言わば総資本家として経済を運営していたに等しく、ソ連にはその全期間を通じて真の意味での共産主義は存在しなかったと言える。


(14)脱/非集産主義の理論と実践
 こうした共産主義と集産主義の混同を避けて、集産主義を脱却し、またはより積極的に非集産主義的な理論と実践を試行する動きも、ソ連の外部で見られた。ここでは、[A]国家共産主義の枠内で脱集産主義と[B]無国家共産主義に基づく非集産主義とに大別し、その代表的な例を見る。

[A]国家共産主義の枠内での脱集産主義

①トロツキーの産業民主主義論
 先に触れたように、トロツキーは官僚主義が高度化したスターリン時代のソ連を批判し、産業民主主義論を提唱した。特に労働組合の活性化と労働者による生産管理の導入、経済計画への大衆参加である。
 しかし、マルクスが想定した「労働者階級独裁」ではなく、「共産党独裁」を特徴とする国家共産主義体制では労働組合は共産党の傘下団体に過ぎなくなるので、その活動も党に規制され、不活性化する。また生産企業体も党‐国家に従属し、労働者による生産管理などは望めない。
 中央計画経済も党が掌握したうえ、極めて複雑な官僚的プロセスを辿るため、経済計画に関する知識を持たない大衆の参加など望むべくもなく、国家共産主義と産業民主主義は両立しない。

②ユーゴスラビアの自主管理経済
 国家共産主義の枠内で、中央計画経済に主導される集産主義を克服しようとするユニークな実践―直接ではないが、トロツキー的な方向性を持つ―は、戦後のユーゴスラビアで見られた。
 反ナチス・レジスタンスで功績のあった共産党(後に共産主義同盟)が一党支配を構築した戦後のユーゴスラビアでは1950年から、「労働者のための工場」というスローガンの下、自主管理を導入し、社会的所有企業の経営を労働者に委ねた。
 この体制では、労働者は労働者評議会で意思決定を行い、雇用保障を受ける労働集団の構成員とみなされた。労働者自主管理は、経済運営における国家の役割を根本的に否定し、企業の党‐国家への従属は、契約経済と呼ばれる相互の権利と義務に基づくシステムに取って代わられ、ソ連式の中央計画経済のアンチテーゼとなった。結果、ソ連とは敵対関係に陥った。
 ユーゴスラビアの自主管理は自主管理体制の名の下に歴史上最も持続した制度であったが、共産主義者同盟と改名した党の支配―実態は終身大統領ヨシップ・チトーのカリスマ的権威主義支配―の枠組み内にとどまり、労働者の真の自発的な自主管理ではなかったため、労働者の参加意欲は乏しかった。
 さらに準市場経済的な企業間競争の要素が発現し、同一産業内の企業間、産業間、村と都市間、地域間の不平等も拡大し、言わば「資本制によらない市場経済」という中途半端で非効率な準市場経済に帰着した。

③中国の人民公社制度
 1949年の国共内戦に勝利した共産党支配下の中国では、1958年から人民公社の制度が導入された。人民公社は「コミューン」の中国語訳とされる。
 人民公社は一郷一社の規模を基本単位とし、末端行政機関であると同時に、集団所有制の下に農業、工業、商業等の経済活動のほか、教育、文化さらには軍事の機能に及ぶ総合的な自給自足かつ共同食事制も伴う協同体として構想された制度であり、言わば近代以前のユートピア共産主義にまで立ち返るような理想主義的制度であった。
 さらに、共産党指導部は都市にも同様の人民公社を拡大し、生活の取り決めを集団化し、女性の労働を他の仕事に解放するために家事を集団化する家事労働の社会化という実験的取り組みを計画した。
 しかし、国家共産主義の枠内でのコミューンは所詮、党‐国家の末端機関に過ぎず、人民公社に対する党‐国家からの干渉を排除できなかった。上からの命令・調達主義による農民の生産意欲の大幅低下といった現象も発生し、共同食事による食料や資材の大浪費をも招いた。
 むしろ都市部では一部成功例も見られたが、60年代以降に始まる「文化大革命」の混乱に巻き込まれ、人民公社の社会実験は十分に育たなかった。

[B]無国家共産主義に基づく非集産主義

①ウクライナのマフノフシチナ
 マフノフシチナについては前回見たが、ここではその経済的な側面に焦点を当てる。マフノフシチナは基本的には農村協同体を基本とする社会であり、ロシア革命以前小作人であった農民は「土地は誰のものでもなく、そこで働く者だけが利用できる」という原理に基づき、農場を共有した。
 大規模な地所は集団化され、農民の家族や個人が居住する200人程度から成る農業コミューンが形成された。集団農場での農作業は農民によって自主管理され、総会での合意による意思決定を通じて作業プログラムが自発的に合意された。
 他方、マフノフシチナには労働者も参加しており、占領した都市では労働者自主管理による生産を目指して労働者会議が組織された。例えば、カテリノスラフでは、地元のマフノ運動が都市の産業経済を社会的所有下に置くことで主導権を握った。市内のパン屋も労働者の管理下に置かれ、多くのアナーキストのパン屋が地元住民の食糧を確保するための計画を策定した。まさにクロポトキンの著書タイトル『パンの略取』である。
 マフノフシチナでは物々交換経済が推進されたが、働く貧困層が依然として貨幣を必要とする現状から、貨幣は廃止せず、多種の通貨の使用が許可された。
 また、地域会議は地元のブルジョワジーと銀行に課税し、ブルジョワジーから約4000万ルーブルを引き出し、銀行からは1億ルーブルを収納させたうえ、大規模な富の再分配を実施した。貧困者は軍事革命評議会に物質的援助を申請することができた。
 ただ、こうしたバーター/貨幣混合経済は通貨管理を欠いていたためインフレ率が高くなり、軍事情勢の変化により通貨価値が激しく変動し、ロシア赤軍がウクライナに進軍するにつれてルーブルの価値が上昇した。また、価格統制を課さなかったため、マフノフシチナの支配下でパンの価格が高騰するなどの経済不安に見舞われたことも事実である。

②スペインのアナーキスト自治体
 これについても前回見たが、その経済的側面に焦点を当てる。スペインのアナーキスト自治体は基本的にアナーキズムの影響を受けた労働組合が主体となっていたため、労働者自主管理への関心が高かった。
 そのため、アナーキスト自治体では程度差はあれ、企業の労働者管理が実施され、中でもスペインにおける工業中心地であったカタルーニャでは、産業の75パーセントが自主管理下に置かれた。
 自主管理システムには、労働者自身が直接に経営権を掌握する形態と、労働者委員会が労働条件の決定権を握る形態という二つのタイプがあった。前者が最も急進的な形態の自主管理であるが、これは外資の支配がなく、アナーキスト系労働組合の影響が強い企業体で導入された。
 自主管理システムにおける賃金に関しては、家族単位の世帯給制度が試行されたが、より急進的な経済政策は、地方農村部における貨幣制度そのものの廃止であった。これは、農村の革命的コミューンをベースに、貨幣制度を廃止し、労賃を世帯ごとのバウチャー制に置換するものであった。
 これにより、日常必需品は共同貯蔵所でクーポンにより取得し、余剰品は近隣コミューンに流通させる一方、貨幣はいまだ貨幣が廃止されていない地域との取引にのみ限局するというある種の混合経済が試行された。
 このような農村コミューンは、革命的経済政策のもう一つの柱である農業の集団化を前提としている。ここでの「集団化」は、同時期のソ連で実施されていた中央主導の強制的集団化とは異なり、労働者の自主管理に照応する形で、農民が地主から収用した土地を集団的に所有したうえ、生産手段を共有しつつ、自主管理的なコミューンを通じて農業経営を行う、自主管理農業システムであった。
 こうしたコミューンは同時に地域の議決機関も兼ねており、全員参加型の直接民主主義が試行されていた。一方で、これらコミューンが連合してより広域的なまとまりを形成する場合もあった。そうしたコミューンとコミューン連合の形成が最も進展したのは、一大農業地帯であるアラゴンであった。
 ただ、スペインのアナーキスト自治体は各地域ごとに別の主体勢力によってまちまちに運営され、都市をより緊密に連合させることができなかったことは―統合力の欠如はアナーキズムの弱点―、ソ連の支援を受けた中央政府による壊滅措置を容易にしただろう。
 
③ギニアビサウ独立運動下の解放区
 1970年代までポルトガルの植民地であった西アフリカの小国ギニアビサウでは、ポルトガルからの独立を求める運動が10年以上にわたり展開される中、解放運動団体のギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)が占領した解放区で、ある種の無国家非集産主義の経済運営が行われた。
 PAIGCはマルクス主義者で農業技術者でもあったアミルカル・カブラルが設立に関わった運動体・政党である。カブラルはマルクス主義者ではあったが、プロレタリア革命論者ではなく、むしろ労働者階級が未成立の資本主義世界周縁部で社会革命を成功させる鍵は独立後の中産階級が握るとし、中産階級が社会革命の歴史的使命を果たすためには、社会の利益のためにその富と特権を犠牲にし、自己を労働者大衆と同一視するという意味での「階級自殺」を犯す必要があるという独特の革命理論を提唱した。
 植民地下のギニアビサウは圧倒的に農業地帯であったため、独立運動には農民の動員を必要としたが、PAIGCの実質的な最高指導者であったカブラルは農業技術者としての知識を生かして、戦闘員に農業技術を伝授し、地元農民にも技術指導できるように訓練したことで、解放区における農業生産性の向上とゲリラ部隊自身の自給自足を一挙両得的に確保した。
 PAIGCは占領した解放区内ではポルトガル通貨の使用を禁止しつつ、農産物と必要な物資を交換する人民倉庫という独自の物々交換システムを構築し、民生を保障した。これは戦時経済の性格が強いものの、独立国家が成立する前段階としての無国家共産主義の一種と言える。
 ただし、PAIGCの解放区経済はスウェーデンがPAIGCを全面的に支援し、60年代末から非軍事的な分野に限定しつつ、多額の援助を行い、非軍事物資の最大供与国となったことによっても支えられたことは否めない。
 また、カブラルが独立前の1973年にPAIGC内部の反対派により暗殺され(ポルトガル関与説あり)、74年のポルトガル民主化革命の余波として独立を果たすと、PAIGCは軍事援助を受けていたソ連にならい、同型の一党支配体制を樹立した。

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共産主義の系譜と展望(12)

2025-08-16 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(9)ロシア革命と共産党支配国家の出現
 マルクスとエンゲルスの『宣言』では、共産主義者は他のプロレタリア階級の集団にまさって、プロレタリア運動の条件、進行、一般的な結果を見抜く力を持つとされているだけで、共産党が唯一の支配政党の地位を持つということは何ら述べられていなかった。
 そもそも、マルクスたちが『宣言』を公刊した当時、まだ近代的な政党は発達しておらず、「共産党」というものも共産主義者の同盟としてしか認識されておらず、しかも他のプロレタリア階級集団との併存が想定されており、今日流に言えば多党制が前提であった。
 しかし、レーニン流の国家共産主義においては、共産党が国家を独占的に掌握する指導政党としての地位を持つという構制が当然視された。そして、現実にも、ロシア10月革命により政権を獲得したレーニンのボリシェヴィキ党が独裁党となり、ロシアを核に新たに形成された超域国家ソヴィエト連邦においてボリシェヴィキ党改めソヴィエト共産党が支配政党の座に就くこととなった。
 このような共産党が国家を独占的に支配する共産党支配国家という形態はそれまでにない20世紀の全く新しい国家形態であったが、ロシア革命の成功により、以後、モデルとして世界で模倣されていくことになる。このような共産党支配国家モデルはマルクスより、むしろ17世紀のホッブズの政治理論に近いものがあった。
 ホッブズは人間の自然権を自由・平等なものと考えつつも、人間の利己的動物としての本質から、自然状態においては「万人の万人による闘争」とならざるを得ないとし、それを克服するべく個々人の権利を国家権力に委譲する社会契約を結ぶ必要があると論じ、そうした権利の委譲を受けた絶対国家を旧約聖書に登場する怪獣リヴァイアサンにたとえたが、共産党支配国家における共産党はまさにリヴァイアサンであった。
 共産主義者の中でも、ローザ・ルクセンブルクは10月革命翌年の1918年という早い段階で、「普通選挙もなく、出版と集会の無制限の自由もなく、自由な言論闘争もなく、・・・・・・実際の権力は、傑出した知性を授けられた1ダースほどの党の指導者の手中にあ(る)」とし、「事実、あるのは一徒党の政府であり、━確かに独裁であるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治屋たちの独裁、つまりブルジョワ的な意味での独裁である」と断じていた。
 このような事態の進展はマルクスもエンゲルスも予見し得なかったが、プロレタリア独裁国家がたとえ「過渡期」の国家形態であろうと、結局においては永続化するだろうというアナーキスト・バクーニンの予見が的中した形である。
 実際、10月革命から二年後の1919年の段階で、当時アナーキストの長老格となっていたクロポトキンは「一党独裁の鉄の規律の下で、強力に集権化された国家共産主義に基づいて共産主義共和国を建設しようという企ては失敗に帰しつつある」と看破していた。
 また、日本のアナーキスト・大杉栄も1922年の段階で、「労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも反革命要素でさえあることすらがわかった」と記している。
 こうしたリヴァイアサン的一党独裁国家が頂点を極めるのは、早世したレーニンの後継者として登場したスターリンの時代である。この時代は共産党独裁を超えて、党最高指導者スターリンという怪物的な一個人が党員はもちろん、一般国民の生殺与奪の権利をも一手に握る個人独裁に転じ、ある種の僭主政が出現したのであった。
 しかし、スターリンの治世は連合国側で勝利した第二次世界大戦を越えて約30年に及んだことや、ソ連がスターリン支配下で一定以上の経済発展とアメリカに伍する大国としての国際的な地位の確立に成功したこともあり、共産党支配国家はある時点までは新興国の成功モデルとみなされる結果となった。


(10)ウクライナ独立運動と無国家共産主義の短い実践
 共産党支配国家に反対したクロポトキンの無国家共産主義に影響された実践の稀有かつ未完成な実例としては、ロシア革命の渦中、ウクライナ独立運動の一コマとして、アナーキストのネストル・マフノに指導された無国家共産主義に基づく地方政権の樹立がある。
 貧農出身の彼は若くしてアナーキズム運動に参加、折からのウクライナ独立運動では、リベラルな中産階級を主体とする中央ラーダ(評議会)が主流をなす中、農民層をウクライナ革命反乱軍に組織化したマフノフシチナは当初、ロシアのボリシェヴィキと戦略的共闘関係にあったが、元来思想的に相容れないため、最終的には袂を分かつことになる。
 マフノは1918年から1921年にかけて、ウクライナでアナキスト共産主義を確立するため、農民を主体に労働者も加わったマフノフシチナ(マフノ協同体)の設立を開始した。当初はカテリノスラフを中心にしていたが、次第に南部の広い地域、特にマフノの郷里でもある現在のザポリージャ州に拡大した。
 マフノフシチナにおける運営の基本的な制度は、全政党を排除したうえで、参加型(参画)民主主義を通じて農民と労働者の活動を自主管理する合議体である自由ソヴィエトであった。自由ソヴィエトは地方自治機関として機能し、これを基盤に地域レベルから中央レベルまで連合する比較的水平的な組織化を達成した。
 一方、農民・労働者・反乱軍地域会議は、マフノフシチナの政治体制における「民主的権威の最高の形態」を代表した。この会議は当該地域の農民、産業労働者、反乱軍兵士の代表を集め、当面の問題について討議し、その決定を地元の人民集会に持ち帰る大会のような機能を果たした。
 さらに、独立戦争中でもあった状況下、軍事革命評議会が設置された。同評議会は如上地域会議間の執行役として、地域の軍事問題と民政問題の両方をカバーしたが、その活動権限は地域会議自体によって明示的に限定された諮問的な合議体であり、自由ソヴィエトに対してはいかなる命令権限も持たなかった。
 マフノフシチナの基本性格は農業協同体であり、農地の共有に重点が置かれていたが、後に改めて述べるように、占領した都市では、マフノ主義者は労働者の自主管理体制を敷いたほか、物々交換を中心としつつ、貨幣制度も維持する混合的な流通システム、富裕税・銀行税を通じた富の再配分などなど、経済実験的な試みも行っている。
 マフノフシチナの支配は1920年1月にマフノフシチナの壊滅を目指す赤軍がウクライナに侵攻し、終焉した。マフノヴィストはボリシェヴィキの赤色テロに対してゲリラ戦を継続したが、同年10月の一時的な同盟協定をはさみ、1921年8月までに敗北した。マフノをはじめ主要なマフノヴィストは亡命し、あるいは赤軍に殺害された。


(11)スペイン内戦とアナーキスト自治体
 ソ連の共産党支配国家がスターリンの個人独裁に変質していた頃、1930年代のスペイン内戦下でアナーキストの影響を受けた労働組合が主体となって、かなり広い地方において、中央政府と並行する形で、アナーキズムに基づいた地方自治体を樹立した。
 これは共産党支配国家モデルに対するアンチテーゼとなるような事象であり、19世紀には思想上にとどまっていた共産主義とアナーキズムとの対立と交差が現実の政治経済的な事象として現れたものとも言える。
 こうしたスペイン・アナーキスト革命の過程で設立された地方ごとの革命統治機関の名称や権限などはその運営主体によりまちまちではあったが、主要なものとして、カタルーニャ反ファシスト民兵団中央委員会、バレンシア人民執行委員会、アラゴン地方防衛評議会、マラガ公衆衛生委員会、アストゥリアス‐レオン最高評議会、マドリッド防衛評議会などがある。
 ただし、これらの地方革命諸機関は住民による直接参加型の組織ではなく、それらを実質的に動かしていたのはアナーキスト勢力の中核である全国労働者連合(CNT)及びその他の周辺労働団体であり、所により、CNTの連携組織であるイベリア・アナーキスト連盟(FAI)が参加することもあった。
 左派連合・人民戦線が握る中央政府や正規の地方政府とこれらの地方革命諸機関の関係性は当初、二重権力関係にあったが、完全な対抗関係ではなく、並行関係にあって、穏健な人民戦線系政府を牽制するような複雑な関係にあった。
 ただし、カタルーニャでは、後述するように、アナーキスト系勢力の自治政府参加に伴い、如上の反ファシスト民兵団中央委員会は解散し、自治政府に統合されたが、自治政府の権力は名目的なもので、事実上はアナーキスト系勢力が実権を持った。
 地方革命機関の統治領域内の農村部には数多くの革命的自治体(コミューン)が成立した。こうしたコミューンでは警察・裁判所といった既存の権威的な法秩序維持装置も解体され、ボランティアによる巡視隊や近隣会議による紛争解決などの新しい民衆的な秩序維持制度に置換されていった。所によっては、刑務所の開放化のような実験的取り組みもなされた。
 スペイン内戦に義勇兵として共和派で参加し、こうした革命的コミューンを見聞したイギリスの作家ジョージ・オーウェルは、その印象を、「文明生活における普通の動機―俗物根性、金銭欲、ボスへの恐怖等々―が消滅している」とし、故国イギリスとの対比で、階級分断が消滅し、「農民とかれら自身の他には誰もおらず、誰も他の何者をも自分の主人としない」と書き記している。
 後に改めて触れるように、スペイン・アナーキスト革命は一部の共産主義者にも支持され、自主管理に基づく労働システム・農業システムの広範な導入や貨幣制度の廃止といった先端実験的な経済政策も試行されたことから、クロポトキン流の無国家共産制に近い要素をも帯びていた。
 これに対して、人民戦線中央政府を支持していたソ連のスターリン政権はアナーキストを敵視し、呼応する中央政府もアナーキスト自治体に対して流血鎮圧も伴う壊滅措置を進めたため、スペイン・アナーキスト革命は、1938年までに中央政府に回収される形で事実上収束した。

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共産主義の系譜と展望(11)

2025-08-14 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(7)国家共産主義の台頭と優勢
 マルクス共産主義は共産主義社会をユートピアとして描写するのではなく、そこへ至る過程を提示することを特徴とすることは述べたが、プロレタリアートの独裁理論はまさしくそうした移行過程論であった。
 それによれば、プロレタリアート独裁は階級闘争を経たプロレタリア革命によって労働者階級が国家権力を掌握してひとまず生産手段を国家の手に集中し、ブルジョワ的生産諸関係に専制的干渉を加える過渡的な段階である。
 しかし、旧来のブルジョワ的生産諸関係の廃止が完了すれば、労働者は階級支配を廃止し、次なる段階、『宣言』の表現によれば「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人の自由な発展にとっての条件であるような協力体」が現れるとされる。これは共産主義社会のやや漠然とした表現であるが、「協力体」であって「国家」ではないという点が重要である。
 こうしたプロレタリアート独裁国家を経由して共産主義協力体へという過程論は後世のマルクス主義の共産主義者によって十分に考慮、継承されず、過渡的にすぎないプロレタリアート独裁のみがクローズアップされてしまうことになる。
 これは、『宣言』の中でプロレタリアート独裁期の政策論が10項目にまとめられて比較的具体的に列挙されていたこと、折から確立されつつあった主権国家・国民国家の理論と諸制度とも同期しやすい理論であっただけに、「現実主義」の共産主義理論家には受容されやすかったゆえと考えられる。
 その筆頭格がウラジーミル・レーニンであり、彼は自身の革命論を構築するに当たり、プロレタリア独裁を階級独裁から一党独裁に読み替えたうえで、共産党支配の理論に仕上げた。
 マルクスの階級独裁は労働者階級による独裁であり、その念頭には労働組合による直接的な支配があったと考えられる。であればこそ、労組には賃金増ではなく、そもそもの賃金労働制の廃止を標語とするよう呼びかけていたのである。
 こうした労働者階級独裁は共産党のような前衛政党による独裁ではなく、共産主義者はむしろ「すべての国の労働者党の中で最も断固とした、常に推進的な部分」として、労働運動と労働者革命とを後押しする強力で一貫した後衛集団に徹することが強調されていた。
 しかし、革命的状況の中で権力掌握を急いだレーニンはマルクス理論のこうした微妙な点をことさらに無視し、共産党の独裁に振り替えた。結果として、マルクスが想定した階級独裁の廃止という重要なプロセスは忘れられ、まさにバクーニンが批判したようなプロレタリアート独裁国家の永続という事態がマルクス主義標榜国家において現出する結果となった。
 これは、国家権力を通じた共産主義という意味で国家共産主義と言うべき新思潮にして革命的実践でもあった。鋭い論争家・弁舌家にして巧みな運動家でもあったレーニンの手腕により、国家共産主義は共産主義の思潮の中で、優位性を確立する。

 

(8)評議会共産主義の対抗と挫折
 レーニン流の権威主義的な共産主義思想に反発したドイツとオランダの共産主義者らは、党ならず職場で選出され、リコール可能な代議員で構成された労働者評議会と評議会を中核とした労働者による自主的な政治経済運営を主張する評議会共産主義の理論と運動を1920年代に対置した。
 これはポーランド生まれのドイツ共産党共同創設者にして、レーニンの論敵でもあったローザ・ルクセンブルクの持論であった労働者の自発的なゼネストのような決起を後押し、方向づけすることに共産党の役割を見出す非レーニン主義的な―マルクス理論にはより忠実な―理論にも触発されていた。その代表者は、ドイツのオットー・リューレやオランダの天文学者アントン・パネクークらであった。
 評議会共産主義は、(一)資本主義は衰退しており、直ちに廃止されねばならない。(二)それは評議会民主主義による経済に対する労働者の統制に取って代わられねばならない。(三)ブルジョア階級は、資本主義を維持するために、社会民主主義の同盟者とともに労働者階級を操作した。(四)この操作に対しては選挙政治をボイコットし、伝統的な労働組合と戦うことによって抵抗されねばならない。(五)ロシア革命の集大成としてのソヴィエト連邦の経済体制は資本主義の代替ではなく、新しいタイプの資本主義にほかならないといった綱領を共有したが、具体的な理論内容は論者によりまちまちで統一されなかった。
 また、ローザらが参加した1918年ドイツ革命では帝政打倒を果たした後、反革命化した社会民主党政府により共産党は弾圧され、ローザらも虐殺されて共産主義革命としては失敗に終わったことで、対照的に成功したレーニン主導のロシア10月革命とは真逆の経緯を辿っていたことも実践面での足かせとなったであろう。
 結局、評議会共産主義は1930年代以降、ドイツやオランダで強烈な反共主義ナチスの政権獲得と併合という状況下でおよそ共産党の活動自体が禁圧される一方、ロシア革命の拡大的所産であるソヴィエト連邦のスターリン政権下における国家共産主義の強固な確立と異論派粛清という閉塞状況に直面する。
 その結果、評議会共産主義は国家共産主義に対抗できる運動として大きな広がりを見ないまま衰退し、その後は欧州やアメリカで小さなサークル的思想運動として継続されるにとどまった。

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共産主義の系譜と展望(10)

2025-08-10 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(4)マルクス共産主義の画期性と課題性
 文字どおりに近代共産主義と呼び得る思潮は、カール・マルクスとその共同研究者フリードリヒ・エンゲルスに始まる。その1848年公刊の共著『共産党宣言』(以下、『宣言』)は、まさしく近代共産主義のマニフェストに位置付けられ、全世界的に翻訳もされて世紀を超えた持続的影響力を持った。
 この書はしかし、マルクスとエンゲルスにとっては最初の出発点を成す小冊子にすぎず、その最終的な到達点を示すものではなかったから、共産主義の理論書としてはなお不十分なものであった。
 とはいえ、この中で、マルクスとエンゲルスは近世以前の共産主義思想を「反動的社会主義」・「保守的またはブルジョワ社会主義」・「批判的ユートピア社会主義」に類別して批判的に対照させ、社会科学理論に昇華された新しい共産主義理論を示そうとした点で画期的であった。そこから、雑多な「社会主義」と理論的に整序された「共産主義」とが概念的にも区別された。 
 もっとも、マルクスとエンゲルスの理論は「ユートピア社会主義」と対置された「科学的社会主義」として規定されることもあるが、これは主としてエンゲルスによるやや図式的な整理であり、「社会主義」という包括的なアンブレラ概念と「共産主義」を区別することが近代共産主義の本来の意義である。
 そうしたマルクス=エンゲルスの近代共産主義(以下では、マルクスに代表させて「マルクス共産主義」と呼ぶが、エンゲルスの貢献を過小評価する趣旨ではない)の画期性は、新たな歴史観・社会観に基づき、当時欧米で発展を遂げつつあった賃金労働を基軸とする資本主義経済社会の批判的な構造分析を通じて、来たるべき共産主義社会への移行の方法及び過程を理論化したことにあった。
 そのためにも、到達点となる共産主義社会の描写以前に、当面の資本主義経済社会の分析が先行しなければならなかった。ただ、現実の執筆順は逆となり、マルクスは『宣言』の約20年後に『資本論』第一巻をようやく完成させるも、生前には未完に終わり、第二巻以降の完成はエンゲルスの手に委ねられることになった。
 ともあれ、マルクス共産主義が近世以前の共産主義に比べればはるかに理論的に構築されていることは確かである。その軸となっているのは、唯物史観、剰余価値理論、階級闘争、プロレタリア革命、プロレタリア階級独裁といった新規の諸理論である。
 総じて言えば、近世以前の共産主義が平等な農村協同体を共産主義的ユートピアとして構想したのに対し、マルクス共産主義では搾取のない労働者の自由な結合による工業社会を共産主義社会のモデルとして想定していると言える。そうした点では、マルクスによって「ユートピア社会主義」に分類されたオーウェンの模範工場の実践をより理論的に昇華させたものと見ることもできる。
 しかし、こうしたマルクス共産主義には課題も残された。中でも、ユートピア論を厳に慎む自制的な態度のゆえに、マルクス共産主義の到達点となる共産主義社会の理想状態がぼやけたものとなったことは、後世、マルクス主義を標榜する共産主義理論家や共産主義政党がそれぞれの共産主義的到達点を明示することに苦慮し、しばしばユートピアとは真逆のディストピアの現出に手を貸す結果を招いた。
 もっとも、マルクスはいくつもの著作や論文、論説等の中で共産主義的な到達点を素描的に示してはいる。その軸として、協同組合による代議政治、協同組合連合による共同計画経済が挙げられるが、いずれも素描(粗描)にとどまっており、政策論の域には達していないため、マルクス共産主義から具体的な政策を抽出することは困難となっている。


(5)アナーキズムとの対決と交差
 マルクス共産主義の同時代的なライバルとして台頭してきた急進思想は、アナーキズムであった。「無政府主義」が定訳となっているアナーキズムであるが、その趣意は単に「政府機構の廃止」にとどまらず、あらゆる政治的権力・権威の源泉となる国家の概念そのものの廃棄にあるので、今後、本連載ではしばしば「無国家主義」と表記することにする。
 このような近代アナーキズムの祖はピエール・ジョゼフ・プルードンとみなされている。貧しい醸造・樽製造職人の家庭に生まれ、幼少期から労働者として働きながら独学で思想家となったプルードンのアナーキズムはアカデミックではないものの、わかりやすく魅惑的な政策論を含み、労働運動にも浸透していった。
 マルクスも9歳年長のプルードンの著作に親しんでおり、数回面会もし、当初は彼の著作をフランス・プロレタリアートの科学的宣言」とまで称賛していたが、プルードンは共産主義には否定的であり、マルクスからの共産主義者通信委員会への勧誘も固辞した。マルクス自身、研究を進めるにつれ、プルードンには批判的となり、プルードンの著作『経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』をもじった自著『哲学の貧困』の中でプルードンを徹底批判した。
 これに対して、論争家ではなかったプルードンからは特に強い論駁はなかったが、プルードンの後継者とも言えるロシア貴族出身のアナーキスト理論家・運動家で、マルクスとほぼ同世代のミハイル・バクーニンはマルクスを一定評価しつつも、そのプロレタリア独裁理論には反対し、たとえ共産主義社会への過渡期にしても国家が残存するなら、恒久独裁体制の余地を残してしまうと批判した。
 バクーニンのアナーキズムは労働運動の中にも浸透し、バクーニン自身、マルクスもその結成に尽力した国際的労働運動団体・第一インターナショナルにも参加したが、マルクス派とバクーニン派の対立は極まり、バクーニンは除名されるに至った。
 こうして、マルクス共産主義とアナーキズムの対立は運動上も頂点に達したが、理論的な面ではマルクス自身も階級支配が消滅する共産主義社会では今日の政治的な意味での国家はなくなるとしており、無国家主義を全否定していたわけではない。
 つまり、共産主義社会では(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担は何らの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格を完全に失う。そして共産主義的集団所有の下ではいわゆる人民の意志は消え失せ、協同組合の現実的な意志に席を譲るというのである。
 究極的にはマルクス共産主義も国家には否定的であるが、アナーキズムのような一挙的な政治革命による「国家の廃止」ではなく、プロセスとしての社会革命を通じた「国家の消滅(または死滅)」を想定する限りで、両者は対立しつつ、交差し合っているとも言える。


(6)クロポトキンの無国家共産主義
 アナーキズムの主要な関心が国家の廃止にあったことは言うまでもないが、生産や労働といった経済問題も無視はしていない。その点、プルードンは市場と競争は必要であるとしながら、それらは搾取的ではなく相互的でなければならないと主張し、貨幣に代わる交換券(労働貨幣)を発行する人民銀行を擁する経済体制を構想した。
 そのため、プルードンはマルクスからは小資産を擁護する「ブルジョワ社会主義者」として批判されることになった。バクーニンは労働者自身の運営する生産者組織によって生産手段を直接に管理する集産主義を主張しており、これを共産主義と区別したが、むしろバクーニンの方が本来の共産主義に近いことは興味深い。。
 これに対して、バクーニンと同様にロシア貴族出身のアナーキスト理論家で、バクーニンより33歳、マルクスより24歳年少で大雑把に両人の息子世代に当たるピョートル・クロポトキンは集産主義を批判して、プルードンの相互主義に立ち返りつつ、これを相互扶助論としてより理論化し、かつプロレタリアート独裁国家のような過程も経ない工業と農業が結合された自給自足コミュニティーを基礎とする無国家共産制を主張した。
 1887年に公刊した小冊子『無国家主義共産主義:その基礎と諸原則』はその簡略なマニフェストである。これに基づき、より詳細に無国家共産主義社会の実像を具体的に論じたのが1892年のより文学的なタイトルの著作『パンの略取』であり、両著併せてクロポトキン流無国家共産主義の宣言書であり、言わばマルクス・エンゲルス『宣言』のアンチテーゼと言えるものであった。
 ただ、クロポトキンは科学者(特に地理学者)を本務とするアカデミックな人物であり、マルクスのように労働運動の組織化には動かず、バクーニンのように自派のアナーキスト運動を形成することもなかったため、著作を通じてアナーキズムの大家として評価を得ながらも、彼の無国家共産主義は十分な影響力を持った潮流とはならなかった。
 また、理論面から見て、クロポトキンの無国家共産主義はその基盤がやはりアナーキズムにあることは否めず、マルクス共産主義に代わるオルタナティブな理論としての潜在性を包蔵していながら、アナーキズムの派生思想という性格を脱するまで完成されるに至らず、また無国家共産主義社会への移行の方法や過程も具体化されなかった点を含め、十分な発展と継承を見なかった。

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共産主義の系譜と展望(9)

2025-08-06 | 共産主義の系譜と展望

Ⅴ 近現代共産主義

(1)米国のユートピア共産主義
 近世以前の共産主義と近現代の共産主義とを分ける主要なメルクマールは、哲学的思惟に基づき、理想的なユートピアとしての共産主義社会を構想し、あるいはユートピア協同体を社会実験的に実践するか、それとも共産主義を一定の社会科学的な理論に昇華し、共産主義社会への移行の方法と過程を具体的に提示するか、という点にある。言うまでもなく、後者が近現代共産主義の特徴である。
 19世紀の中頃はこうした新旧の共産主義思潮の交代期に当たるが、その交代は急激に生じたわけではなく、19世紀後半期に至るまで、両潮流は併存する関係にあった。中でも興味深いのは、その入植・建国の初めから共産主義とは程遠い位置にあったはずの米国で、ユートピア共産主義的な協同体の社会実験が隆盛化したことである。
 こうした米国のユートピア共産主義は主にオーウェン派とフーリエ派に分かれたが、中でもフーリエの影響は大きく、1840年代には30以上のフーリエ主義の団体が設立され、全米各地で実験協同体を運営した。中でもニュージャージー州にフーリエの直弟子アルバート・ブリスベンによって設立されたその名も北米ファランクスは10年以上持続した。
 一方、持続期間の長さという点では、フランスの政治家・作家のエティエンヌ・カベによって創始されたイカリアン協同体運動が特筆される。カベはフランスの1830年7月革命で重要な役割を果たし、政治家となるが、間もなくその政治思想のゆえに余儀なくされた英国亡命中に出会ったオーウェンの影響を受けて、共産主義に覚醒したと言われる。
 彼はギリシャに実在するイカリア島を架空のユートピアとして描写した小説『イカリアへの航海』を公刊した。この小説はトマス・モアの『ユートピア』に触発された同形式の未来小説であり、米国の社会主義政治家モリス・ヒルキットによれば、「この本の最後の部分は、共産主義思想の発展の歴史に捧げられており、プラトンから19世紀初頭の有名なユートピアに至るまで、この主題に関するほとんどすべての既知の作家の見解の要約が含まれている。」
 カベは構想にとどまらず、1848年には渡米して、テキサス州で自身の構想に基づく協同体の設立を開始した。その協同体構制はオーウェン思想の影響が強かったため、イカリアン運動はオーウェン主義の派生物とみなすこともできる。
 イカリアン運動は内部的な分裂も経験しつつ、イリノイやミズーリ、アイオワ、カリフォルニアなどに協同体を設立したが、中でもアイオワの協同体は1898年に解散するまで半世紀近く存続し、米国におけるこの種の世俗主義的実験協同体としては最長記録を残したとされている。
 ちなみに、カベもオーウェンと同様、最後は独裁的となり、「終身大統領」への就任をもくろんだが阻止され、テキサスの協同体を追われた末、1856年に支持者とともにミズーリに移転して新たな協同体を築いたが、到着のわずか二日後に死去した。


(2)中国の太平天国
 米国でユートピア共産主義が隆盛化していた同時代の中国では、宗教色濃厚なある種の共産主義運動が勃興した。いわゆる太平天国の乱と呼ばれるものであるが、洪秀全によって興され、1853年から1864年まで10年以上にわたり南京を占領してある種の地方政権を樹立した太平天国も、ユートピア共産主義の実験協同体に数えることができる。
 太平天国は、漢民族内の少数派・客家出自の科挙試験落第者であった洪秀全がキリスト教の影響を受けつつ、独自に立ち上げた宗教結社・拝上帝会の活動を基盤として構築した一種の共産主義体制であり、その領域の広さと最盛期の域内人口300万人という規模からすれば、単なる協同体を超えた地方的な「国」と呼び得るだけの体制を擁していた。
  太平天国には「滅満興漢」のスローガンに示されるように、満州人の王朝である清朝を打倒して、漢民族の支配を奪還するという民族主義的な野心も込められていたが、それだけにとどまらないことは、その綱領ないし憲法に相当する天朝田畝[でんぽ]制に明らかである。
 これは万人平等の自給自足を理想としつつ、土地を農民に均等配分したうえ、収穫物は自家消費分と種もみを除き国庫に収納し、平等に分配することを柱とする制度構想であり、それまでの封建的中国社会では見られない画期的な思想であり、後の中国共産党の政策にも影響を及ぼしたと言われるものである。
 ただ、実際の財政運営の必要から、また太平天国内部の権力闘争の影響などもあり、天朝田畝制は施行されることなく終わったと見られている。太平天国がより長期間持続し、政情も安定していれば施行された可能性もあるが、太平天国は洪秀全が死去した頃には弱体化しており、彼の死の翌月、清朝軍によって南京を奪還され、あえなく壊滅した。


(3)近代共産主義の誕生
 冒頭で示したように、近代以前の共産主義に代わる近代共産主義が誕生したのは19世紀中頃、わけてもカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの功績が多大であり、真の意味での近代共産主義思想はマルクスとエンゲルスに始まると言って過言でないが、両人とも、ある日天啓の如くに新思想がひらめいたわけではなく、近代共産主義が誕生するに当たっては産婆のような役割を果たした先行思想と運動があった。
 その中では、今日忘却されがちなヴィルヘルム・ヴァイトリンクと彼が主要なメンバーとなった正義者同盟の活動が重要である。ヴァイトリンクはドイツの仕立て職人からスタートした独学の思想家・運動家であった。
 彼は労働者中心の歴史認識に基づき、労働者を革命主体として明確に位置付け、欧州では秘密結社と労働者大衆の決起による権力奪取、北米では協同銀行と協同企業の設立による経済革命を通じて共産主義社会が創出されること、さらには過渡期における短期独裁論など、マルクスとエンゲルスにも影響を及ぼした理論を先駆的に提起していた。
 ただ、ヴァイトリンクが想定する労働者とは自身のような手工業職人であったこと、彼にはキリスト教の千年王国論やメシア主義の影響も見られ、渡米後は中国の太平天国を好意的に伝え、洪秀全を称えるなど、宗教色が見られたことや、アイオワ州でドイツ人移民の実験協同体コムニアに参加したことなど、近世以前の共産主義思想ともつながる過渡期の思想家であった。
 しかし、彼が有力なメンバーとなった正義者同盟はパリで1836年に結成された近代的な共産主義者団体の元祖であり、後にエンゲルスが創設した共産主義者通信員会と合併して史上初の完全な共産主義団体である共産主義者同盟へと発展する。
 一方、ヴァイトリンクにも影響を与えたフランスの職業的革命家ルイ・オーギュスト・ブランキも、近代共産主義の誕生に一役買っている。ブランキはバブーフの流れを汲み、武装した少数精鋭の秘密結社による権力奪取や人民武装による独裁というブランキ理論の中核はバブーフの影響による。
 ブランキは実際、持論に基づく少数精鋭の革命結社・四季協会を結成し、19世紀のフランスで続発した革命のほとんどに関与した人物であるが、ヴァイトリンクやマルクスとは対照的に、彼は労働者階級の役割も民衆運動も信じておらず、エンゲルスの評価によれば、「彼は感情によって、人々の苦しみに同情することによってのみ社会主義者であるが、社会主義理論も社会救済策に関する明確な実際的提案も持っていない。」
 そうした意味で、ブランキは革命の方法に関する理論家にして実践家であり、思想としての共産主義は持ち合わせていなかったと言えるが、革命の実践に関しては、マルクス、エンゲルスからレーニンに至る近代共産主義の急進化を刺激し、特にレーニンには触発的効果を及ぼしたと言える。

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共産主義の系譜と展望(8)

2025-08-02 | 共産主義の系譜と展望

Ⅳ 近世共産主義

(5)ルソーと安藤昌益
 欧米の18世紀は革命の世紀であり、フランス市民革命とアメリカ独立革命という二つの世界史を変える大革命を経験した。それらに少なからぬ思想的影響を及ぼしたのが、両革命を見る前に世を去ったジャン‐ジャック・ルソーであったが、ルソーは近代共産主義思想にも触発的な影響を与えている。
 ルソーは人間社会における不平等という問題を初めて正面から主題化して取り組んだ思想家であり、彼の落選した懸賞論文『人間不平等起源論』では、私有財産を人間社会の不平等の最大要因として挙げている。
 「ある土地に囲いをして、「これは私のものだ」と言おうなどと思いつき、こんなたわごとを信じるほど純朴な人々を見い出した最初の人間こそ、政治社会の真の創始者であった」という有名な一節は英国の囲い込み運動を念頭に置いているようにも読めるが、属人的・排他的な近代所有権制度全般への告発と解釈することもできるだろう。
 社会的不平等を告発したルソーは、原始の自然状態を人間社会の理想状態と仮定した。しばしばルソーのモットーとされてきた「自然に帰れ」は、まさにそうしたルソー的理想の縮約である。老子の無為自然論を思わせる思想であるが、ルソーはユートピアを構想することはなく、また共産主義的な思想を表明することもなかった。
 従って、「自然に帰れ」はルソー思想の正確な縮約とは言えない。ルソーが理想として説いたのは一般意志に基づく共和政体であった。ここには基礎哲学と政治理論の乖離があり、ルソー思想の理解を困難にしている。さらに言えば、ルソーは土地その他の生産手段のあり方も明示しなかったため、彼が告発した不平等の解消の道筋も明らかでない。
 ルソーの一般意志とは個別的な民意や世論のようなものではなく、そうした個別的なものを超え、社会契約に基づき全体的な公共の利益を目指す人民の意志であり、そこから個別的な利害を代表しがちな代議制よりも直接民主制が是とされ、その限りでは、共産主義的なソヴィエト制度の原型のような提起であるとともに、一般意志の指導への服従という権威主義的な要素―レーニンの民主集中制を予期させる―も内包していた。
 他方、革命など想定することさえできなかった18世紀の日本で、ルソーとほぼ同時代に平等社会の理想を説いたのが安藤昌益であった。東北地方の町医者を本業とする自由思想家であった昌益は、ルソーが『人間不平等起源論』を書いた一年前の1753年に『自然真営道』を公刊した。
 昌益は「鎖国」政策により欧米思想に接することなしに、おそらく日本で初めて独自に封建制度を正面から批判した啓蒙思想家であり、奇しくもルソーと同様、自然状態を「自然世」という語で理想化した。ルソーと異なるのは、昌益はユートピアンであり、現世=法世を自然世に昇華すべく、身分・階級のない万人直耕の農業社会を理想として具体的に描写していることである。
 従って、昌益の思想は共産主義と呼び得る内実を備えると同時に、「上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く」といった刑罰制度への否定的な言及からはアナーキズムの要素も一定認められ、言わばアナーキズム系の共産主義=アナルコ・コミュニズムの素朴な先駆けと読むこともできる。
 ただ、昌益はルソーと異なり、当時の徳川幕府の言論統制を警戒して、意識的に宣伝を控えたことで、長く民間に埋もれた思想家となり、その同時代的な影響はほぼ皆無であった。むしろ、現未来のエコロジカルな共産主義において参照されるべき点が多いかもしれない。

 

(6)フランス革命と共産主義
 ルソーの没後、10年余りを経て勃発したフランス革命はいくつもの段階に分かれ、段階ごとに中心主体を成す階層も異なる複雑な、言わば総革命であったが、最終的には持てる階級である中産階級が主体となるブルジョワ革命に収斂していったと言える。そのため、私的財産権は重要な旗印となり、共産主義は革命の理念からは遠かった。
 そうした中、革命のクライマックスとなったジャコバン派の恐怖政治がクーデターで終焉し、革命収束期の総裁政府の段階で、改めて革命の急進化を追求して決起しようとしたグループの中心に立っていたのが、フランソワ・ノエル・バブーフであった。
 貧農家庭に生まれ、兵士や徴税役人、土地台帳管理人など様々な職を転々とする前半生を送ったバブーフは、最後に就いた土地台帳管理人の職務経験から土地私有制の弊害に気づき、革命思想に目覚めたと言われる。
 結果、職を捨てて革命渦中に飛び込むことになるが、当初は革命体制下の地方行政官など目立たない位置にいた。ジャコバン派にも批判的であったが、独裁者ロベスピエールがクーデターで失権した後に再評価するようになったと言われる。
 その結果、革命収束期の保守的な総裁政府には敵対的となるのであるが、彼がしばしば最初の近代的共産主義者とみなされるのは、1795年に雑誌論説として発表した『平民派宣言』において、土地私有制度の廃止や物品の共同管理に基づく配給制などを骨子とする新たな社会制度を提起したからである。
 また、彼の思想は当時黎明期にあった機械文明を肯定的に評価していた点で近代的であり、また前衛分子による武装決起や階級独裁といった後の共産主義思想の先駆けとなるモチーフを含んでいた点でも、近代共産主義の原型を提示していたと言えるが、一方では「真の平等」をモットーとしつつ、生産より分配の共産化に重心を置き、富の不平等の解決を農地均分に見出した点ではなお近世的な要素を残しており、完全な意味での近代共産主義者ではなかったと言える。
 バブーフと彼の少数の同志たちは言わば革命の巻き直しを求めて、1796年5月に革命的決起の計画を立てたが、当局の内通者の密告により決起予定日前日に検挙され、裁判で死刑宣告を受け、翌年5月にギロチンで斬首された。
 「平等者の陰謀」と呼ばれるこの決起計画は長いフランス革命の過程の中では一エピソードに過ぎず、その後、最終的にナポレオン帝政に転回していくことを阻止できなかったが、バブーフの思想はその後も持続的な影響を残し、近代共産主義思想の形成の足掛かりとなったことは確かである。

 

(7)オーウェンの共産主義的社会実験
 フランス革命が挫折し、ナポレオン帝政、さらにはブルボン王朝復活という形で反革命が進行する中、イギリスは産業革命の中心地となり、近代資本主義の旗手として台頭していた。その中から、ロバート・オーウェンという一人の独異な資本家が現れる。
 ウェールズの職人家庭に生まれたオーウェンは丁稚奉公からたたき上げ、労働条件や労働者の福利に配慮された模範的な紡績工場を立ち上げ、利潤面でも成功を収めるという稀有の資本家となったが、単に「人道的」な資本家というレベルにとどまらず、ある種の共産主義思想に到達し、アメリカで自ら社会実験を試みたという点でも独異な人物となった。
 オーウェンは1825年、インディアナ州でドイツ人の宗教家ゲオルク・ラップが創設し、移転のため競売にかけられていた宗教的入植地ニューハーモニー村を買収し、私有財産制、宗教、それらと結合した結婚制度を「悪の三位一体」とみなす自らの信念に基づき、自給自足を原則とする私有財産のない共産主義的な生活及び労働のための協同体として再編した。
 彼は1826年にニューハーモニー村の基本法として「ニューハーモニー完全平等協同体憲法」を制定したが、欧州からの移住者を含めた多様な村民の間での意見の対立を克服するため、オーウェンによる独裁制に陥ったばかりか、共有財産の事実上の私物化も進行し、ニューハーモニー村はわずか数年で挫折、1828年にはオーウェン自身も帰国してしまった。
 かくしてオーウェンの社会実験は失敗に終わったが、アメリカやイギリス、アイルランドでは彼の影響を受けた実験的協同体の創設ブームが起き、アメリカでは南北戦争前に設立された130の実験的協同体のうち、16はオーウェンの影響を受けていたと言われる。
 それらのすべてが短期間で挫折したが、そこには後にマルクスとエンゲルスによって「ユートピア社会主義」と規定されたように、オーウェンに代表される19世紀前半期の共産主義思想は社会革命が可能となる社会的経済的な条件を考慮せず、理念のみが先行する唯心論的な性格を帯びていたことが関わっていた。
 とはいえ、元来オーウェンは「革命」ではなく、あくまでも一地域での「社会実験」を試みたにとどまるのであり、むしろこうした試みはコミューンを基礎とする社会運営を構想する本来のコミュニズムの趣意に沿っている一面もあることは見逃せない点である。

 

(8)フーリエの共産主義的協同体構想
 オーウェンとほぼ同世代のフランスの哲学者・思想家シャルル・フーリエは、オーウェンとは対照的に裕福な商人家庭に生まれながら、フランス革命の渦中、財産を喪失したことを機に共産主義的な思想に転回していったという経験を持つ人物である。
 彼はオーウェンよりも思弁的であり、神の創造説を前提に社会的、動物的、有機的、物質的という四運動を理性の諸法則とする独異な基礎哲学を基盤としつつ、産業主義的な文明を批判し、彼が発見したと主張する「情念引力」なる概念に基づき、土地や生産手段を共有としたうえで、1620人を単位として数百家族がファランステールと名づけられた集合住宅に居住しつつ、自給自足の共同生活をする協同体ファランジュを提唱した。
 ファランジュは農村と都市の機能を併せ持つような協同体であり、その中心となるファランステールは近現代の集合住宅の先駆けのような構想とも言える。また、フーリエは最終的に、世界がファランジュの緩やかな連合によって形成されるようになるとも予見した。
 このようなフーリエの共産主義はマルクスとエンゲルスによってオーウェンと同様に「ユートピア社会主義」に分類されているが、フーリエは「情念引力論」を通じて人間の自然的欲望を肯定し、保守的な19世紀初頭のカトリック社会フランスにあって同性愛にも肯定的であり、また女性の権利を擁護し、結婚は女性の権利を損なうとして自らも非婚を実践した。
 こうしたフーリエの社会思想全般を総合考慮すると、フーリエには近代の進歩的思潮を先取りする要素が認められることは確かであるが、一方で彼はレイシズムより反産業主義の観点から強固な反ユダヤ主義者でもあったことは見逃せない。 
 思弁性の強かったフーリエはオーウェンのように自らの構想に基づく協同体を実際に建設することはせず、また革命に対しては自身フランス革命に巻き込まれ、財産喪失も経験したことから強く批判的であり、急進的ながら反革命的という点でも独異な人物であった。
 彼の思想は同時代的にはなかなか理解されなかったが、没後に支持者を増やし、特にアメリカで受容され、実際に彼のファランジュ構想に基づく実験的協同体の設立が各地で相次いだ。故国フランスでも、1832年、中北部コンデ・シュル・ヴェスグレにフーリエ主義の協同体ラ・コロニーが設立され、これは現在も会社形態に変えつつ継続されているという。

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共産主義の系譜と展望(7)

2025-07-29 | 共産主義の系譜と展望

Ⅳ 近世共産主義

(1)トマス・モアの『ユートピア』
 中世と近世をつなぐ近世はまさに過渡期であり、西欧社会では中世の封建制が解体されていく時期であるが、思想としての共産主義においても、近代共産主義思想の萌芽が見られたのはこの時期である。
 その嚆矢を成すのは、意外にもイングランドのチューダー朝宮廷で最高位まで上り詰めた政治家・法律家のトマス・モアであった。彼の最も著名な著作『ユートピア』は、風刺文学的な形式で書かれた共産主義社会の設計図のような作品であり、「どこにもない場所」という含意のユートピアの造語とともに、文学史的にも未来小説の先駆を成している。
 モアのユートピアはプラトンの哲人国家とは異なり、専制的ではない終身制の君主を擁し、各世帯集団から選出された代表者らが統治する都市の集まりから構成され、財産共有、6時間労働義務、余暇の自由、非戦、最小限の奴隷制に基づき、全員が習得義務を負う農業を主軸とする理想社会であり、彼が執筆した16世紀初頭はもちろん、現代でもまさに「どこにもない」社会である。
 彼がこのような一見奇異な作品を書いた動機については諸説あるが、ルネサンス的な人文主義的ヒューマニズムの思想に基づき、当時のチューダー朝専制主義に対する暗黙の批判とともに、当時、羊毛生産の需要から封建領主らが断行していた土地の囲い込み運動への批判があったと見られる。
 土地の囲い込みはある意味で、中世的な封建領主から近代的な所有権に基づく地主への移行を示す新たな経済変動でもあり、結果として、封建的荘園制の下で農奴に留保されていた入会権のような共産主義的要素を排除し、農民を放逐する結果を招いた。
 そうした排他的な所有権の設定運動に対して、モアは「羊が人間を食い尽くす」という言葉で痛罵していたことからも、囲い込みは私有財産に対する批判的視座を形成する要因となったのであろう。
 他方、モアがユートピアという造語のもとに共産主義的理想社会を描写したことで、共産主義に「実現不可能な空想」というイメージが烙印される結果となったことは「現実主義」と対立的にとらえられ、近代以降の共産主義思想と運動にも少なからず普及上の制約をもたらしたと言えるだろう。
 それとともに、モアの「ユートピア」は人口均等配置のための居住制限や田園居住義務といった統制主義、余暇には全市民に勉学を奨励する一方で選抜された学者のみが公務員や司祭となり得るという知的エリート主義の一面もあり、こうした点も含め、近代の共産主義思想にインスピレーションを与えた可能性がある。
 ちなみに、モアは愛人との再婚のためカトリックでは禁忌の離婚を強行しようとしていた専制的な主君ヘンリー8世の身勝手な計画に断固反対したことで反逆罪に問われ、斬首されたほど強い信念のカトリック信者であり、無神論と結びついた近代的共産主義の思潮とは明確な一線を画している。
 ただし、モアのユートピアでは無神論(無神論者は弾圧されないが、軽蔑はされる)も含め、宗教的寛容が保障されることから、モアの思想は宗教的共産主義とも一線を画し、むしろ近代の世俗的共産主義に近いと言えるかもしれない。


(2)イングランド革命と真正水平派運動
 モアがユートピアを上梓して100年以上を経て、チューダー朝を継承したステュアート朝下で、プロテスタントの一派である清教徒(ピューリタン)による革命が勃発し、最終的には国王チャールズ1世の処刑とクロムウェルを元首とするイングランド史上唯一の共和体制の樹立に至るが、この革命の過程で、急進的な平等主義を主張する水平派が台頭した。
 水平派は自然権に基づく国民主権、普通選挙の実施など主に政治面での平等と民主化を要求するにとどまったが、それでは満足せず、農地共有と集団農業、つつましい生活物資を互いに分かち合う互助的共同社会を掲げるグループが真正水平派を形成した。
 かれらは現実にも1649年からイングランド南東部サリーのセント・ジョージズ・ヒルで囲い込みで私有地化されたかつての入会地を占拠し、ジェラード・ウィンスタンリーを指導者として共同生活を始め、荒地開拓を進めた。畑を掘り起こす人という意味でディッガーズ(Diggers)とも呼ばれた。
 これはまさにモア的ユートピアの実践とも言えるユニークな運動であったが、基本的に下級領主層ジェントリーを主体とし、水平派でさえ敵視し、弾圧した「現実主義」のクロムウェル軍事独裁政府からは一層危険視され、共和国軍(ニューモデル軍)の圧力により、わずか一年ほどで強制解散に追い込まれた。
 ちなみに、真正水平派が共同体を営んだセント・ジョージズ・ヒルは今日、厳重に出入り管理される富裕層のゲートコミュニティとして知られる高級住宅街に変貌していることは、いかにも皮肉と言わざるを得ない。


(3)ウィンスタンリーの共産主義論
 真正水平派指導者ジェラード・ウィンスタンリーは仕立て屋や羊飼いなどを転々とした庶民出自の運動家・理論家であり、最後は商人になったが、運動が失敗した後の1652年、『一綱領における自由の法則、または回復された真の治安判事職』(略して『自由の法則』)というクロムウェルに献呈された長いタイトルの書籍を出版した。
 この本はおそらくモア『ユートピア』に一定触発されつつ、より詳細で理論的な内容を含む、言わば17世紀の共産党宣言のようなマニフェスト冊子である。その内容は経済体制から統治、法制のあり方に至るもので、後のマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』より詳細な共産主義社会の設計図的な書でもある。
 その基本は使徒行伝に遡る原初的なキリスト教共産主義に基本を置き、彼がセント・ジョージズ・ヒルで試みようとした私有財産や貨幣のない社会を理想化する。その点では、彼の思想は明確に中世キリスト教共産主義の延長に位置づけられる。
 彼によれば、土地と物品は共有されるが、男性が家、家族、基本的な必需品を個人の財産として保持することを許可されるべきであるという。すべての労働は集団で行われ、全員が働くことを保証するために監督者が任命され、労働拒否者は公民権を剥奪され、強制労働によって罰せられる。
 ウィンスタンリーは元来より自由主義的であったが、『自由の法則』ではこれを修正し、もはや自由が普遍的であるとはせず、自由を信教、選挙権、労働生産物に対する権利、家事労働者を雇用する能力に狭く定義する。
 そのうえで、共産主義のより権威主義的なビジョンを提示し「正義の政府」による社会統制の必要性を強調した。彼は「正義の政府」のために、法律を執行し、計画経済を監督し、家父長制を支持する毎年選挙される議会制度を提案している。
 また、彼は私的所有の道具として機能する政府に反対する一方で、「無礼」を防止し、君主主義の表出を抑圧するためには、常備軍によって施行される法律が必要であるとも主張した。
 彼は刑罰に関しても厳格主義であり、「目には目を」の原則に従った法律を提案し、殺人、強姦、取引を犯して捕まった者、弁護士や牧師であった者にも死刑が適用されるとする。一方では、投獄に頼らずに地元の紛争を解決する調停人をすべての町が毎年選出することを提唱している。
 こうしたウィンスタンリーの共産主義は、近代に至ってアナーキズム系のより自由な共産主義思想と対立する統制的かつ権威主義的な共産主義理論の先駆であったと読むことも可能である。
 しかし同時に、彼が初期の著作『正義の新法』の中で、自然を神とみなす汎神論的な唯物論の立場から、「時の初めに、偉大な創造主理性は、獣、鳥、魚、そしてこの創造を統治する主である人間を保存するため、地球を共通の宝庫とした」と論じ、「地球をすべての人にとって共通の宝庫とする基礎を築く」ことを共産主義の課題としていた点、地球環境的視野でエコロジカルな共産主義を再定義する現未来の共産主義にも手がかりを与える可能性を持っているとも言える。


(4)北アメリカ自治植民地の非共産主義的性格
 ピューリタンは北アメリカにも集団移住し、自発的な植民地を建設、これが今日のアメリカ合衆国の主要な基礎を形成したことは知られているが、この原初の北アメリカ植民地は、比較的少数の入植者の自治的コミュニティーとして出発したにもかかわらず、初めから非共産主義的に構成されていた。
 すなわち、土地は私有制であり、有力なコミュニティー指導者が男性開拓者に土地区画を分け与え、土地所有者らの間で割り当てを決めた。大きな土地区画は社会的に高位にある男性に割り当てられるのが通常であり、その点から早くも経済格差が生じたが、あらゆる白人男性は家族を扶養するに足るだけの土地を持つ権利を認められた。
 その点、北アメリカ先住民の土地観念とは対照的であった。先住民は数多くの部族に分岐し、それぞれに土地観念も多様ではあったが、少なくとも白人入植者のような排他的所有権の観念はどの部族も持っていなかった。
 先住民には個人が土地を属人的・排他的に所有するという発想はなく、かつ部族共有といった集団所有とも異なり、部族メンバーの個別的な土地利用権を認めつつ、自然の大地に活かされ、自然と共生する共同体が機能していたとされる。
 このような所有権観念の相違は、後に白人入植者による言わば囲い込み、先住民族の土地の侵奪と不毛な先住民居留地への追放という白人中心の「開拓」思想・政策のもととなる。
 いずれにせよ、北アメリカ植民地はその出発点から非共産主義的であり、自由人や地主など比較的広範な有産者層が代表者として政治参加する共和制の形成とともに、独立革命後のアメリカ合衆国においても有産階級主導の非/反共産主義的な金権共和政治の土台を形成していくことになる。

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共産主義の系譜と展望(6)

2025-07-25 | 共産主義の系譜と展望

Ⅲ 中世共産主義

(4)キリスト教少数派の共産主義思想
 中世における思想としての共産主義は低調ではあったが、中世の共産主義思想は主としてキリスト教少数派の中から、封建制に組み込まれたローマ・カトリック教会体制への批判と重なる形で現れた。
 例えば、フランスのリヨンで商人ピエール・ワルドが創始したワルド派は信者が自ら財産を放棄する自発的貧困を美徳とし、使徒言行録に従って財産を共有したが、すでに清貧さを失っていたカトリック教会の迫害を受け、異端宣告され、ピエモンテでは信者が殺戮された。
 また、中世後期のイタリアに発したドルチーノ派はより踏み込んで、教会ヒエラルキーや封建制度の解体、相互扶助と尊重に基づく新しい平等社会の創造、財産の共有、男女平等の尊重など革新的な思想を説いたが、やはり異端宣告を受け、指導者のフラ・ドルチーノは妻とともに火刑に処せられた。
 イングランドの革新的な司祭・哲学者だったジョン・ウィクリフも、共産主義的ではなかったものの、ワルド派の影響下に教会権威や修道主義を批判し、教会の財産所有を否定した。
 彼の思想を核とするラロード運動の中から出て、1381年のイングランド農民反乱の精神的指導者となり、「アダムが耕しイブが紡いでいた時、誰が領主だったか」とアジ演説した司祭ジョン・ボールは、封建的階級社会を批判しつつ、「イングランドでは財産が共有にならない限り、また農奴も領主も消えて皆が平等にならない限り、世の中がうまく行く道理はない」と説いた。しかし、彼は反乱鎮定後、捕らえられ、残酷に処刑された。
 こうして、キリスト教少数派の共産主義思想は当時の教会当局や王権によってもキリスト教的封建秩序への脅威とみなされ否定・弾圧され、社会に広く浸透することはなかったのである。


(5)イスラーム経済思想の混合的性格
 中世社会を彩るもう一つの宗教であるイスラームは商人でもあった預言者ムハンマドによって創始された「商人の宗教」であるだけに、その教義は私有財産と商取引にはいたって肯定的であると言える。ただし、喜捨が義務とされるため、富の独占は許されず、富者は貧者への財産の寄付と社会還元が求められる。
 また、イスラームの教義では、神が万物に対する唯一の所有者であって、人類は地球上における神の代理人とされ、神の所有物を引き受ける存在にすぎない。その意味では、私有財産といえども、言わば神からの「信託財産」である。
 加えて、「人は水、エネルギー、農地の三者と共にある」というムハンマドの預言に従い、これらの私有は許されないとする解釈から、森林や牧草地、荒野、水、鉱物、海洋資源など、天然資源は共同体(ウンマ)の共有財産として全員が等しく利用できるとされる。
 こうした両義的な性格から見ると、イスラーム経済思想には非共産主義的な要素と共産主義的な要素(共産主義的という性格付けが不適当ならば、より広く「社会主義的」な要素)とが混合しているとも言える。


(6)カルマット派支配の半共産主義的性格
 イスラーム体制の主流はほとんどが非共産制であったと言えるが、少数派シーア派から分離した反主流的なイスマイール派の分派カルマット派が9世紀末から11世紀にかけてアラビア半島東部やバーレーンなどで事実上分離して樹立した地方政権は、20世紀以前に一世代以上存続した唯一の共産主義体制と評されることもある。
 カルマット派とはアッバース朝カリフ制との闘争、エジプトのシーア派ファーティマ朝との敵対、完全な平等を求めるプロパガンダ活動を展開したクーファ出身の牛車御者ハムダン・カルマットを創始者とする独異な一派であった。
 カルマット派は886年にはバーレーン、889年にはアル‐アハサ(アラビア東部)に独自の共和国を樹立した。ただ、カルマット派に関しては史料が乏しく、その社会実態を正確に把握することは困難である。
 わかっているのは、カルマット派社会は平等主義とある種の共産主義の原則に基づいて構築されていたこと、住民が稼いだ金はすべて共同の国庫に納入され、公平に分配されたこと、困窮者は特別基金からの援助を受けられたことである。
 ただし、土地と奴隷は国家が所有する一方で、生産手段は私有財産とされ、コーランが容認していた奴隷制を土台とする混合経済体制とみなすべきかもしれない。
 国家行政は最高統治者が率いる選挙制の長老評議会によって行われ、バーレーンの伝承によれば、この地域の村や都市はすべて選挙された長老によって統治されていた。さらに、長老たちの中から33人の集会が選出され、精神的指導者たる説教者ダイが率いる三頭評議会が形成されたとされる。
 こうした選挙制合議システムは、同時代の世襲王朝化したアッバース朝やファーティマ朝のカリフ制に比べれば民主的であり、古典期ギリシャのポリスを想起させるような政治制度と言える。
 しかし、カルマット派共和国は、バーレーンとアラビア東部では地元の新興シーア派系ウユニド王朝により打倒され、最後の拠点となったアラビア東部のフフーフもセルジューク・トルコによって1067年に撃破された。その他、イラク、イラン、トランスオクシアナに拡散していたカルマット派コミュニティも改宗により順次崩壊し、現存していない。

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共産主義の系譜と展望(5)

2025-07-21 | 共産主義の系譜と展望

Ⅲ 中世共産主義

(1)非共産制としての封建諸制度
 中世という時代を経験した諸国では、形態差・程度差はあれ、封建制が社会の基本構制となった時代が中世である。封建制下で土地と領民を支配した封建領主とは単なる地主を超えたある種の農業資本家であると同時に、地域の統治者でもあった。
 このような封建社会が本質的に階層的かつ非共産的であることは明らかであり、封建制が支配した中世は人類の歴史上―後に見るように、「現在時点としての現代」と並んで―非共産主義的な時代であったと言える。
 この時代には、前回見たように、原初には共産主義的でさえあったキリスト教会も封建制の中に組み込まれ、教会も十分の一税のような租税を教区民から徴収する封建領主と化し、大司教のような高位聖職者は聖界諸侯に連なることになった。
その点、キリスト教が布教される以前の日本の古代末・中世において、寺院や神社が領主として排他的な荘園を擁していたのも類似した事象であり、洋の東西で中世は封建制が宗教をも覆っていた。


(2)非共産的コミューンとしての商業自治都市
 中世の基本構制である封建制に包摂されない部分社会として、商業自治都市の存在があった。商業自治都市は、「都市の空気は自由にする」という標語にも現れるように、中世における「自由」の象徴であった。
 しかし、この「自由」とはあくまでも封建領主からの自由であって、都市内部は大商人による寡頭支配が一般的であり、その社会はある意味、封建領主が支配する荘園以上に、多くの貧民は下層民を抱えた貧富差の大きな階級社会であった。
 こうした商業都市の自治権獲得運動はコミューン運動とも呼ばれ、自治都市は「自由」なコミューンではあったが、それは共産主義的コミューンとは対照的な非共産主義的コミューンであった。これらの自治都市の中には、イタリアで多く見られたように、一個の共和国にまで発展し、メディチ家のフィレンツェのように一銀行家が世襲僭主にのし上がり、実質的に君主国化する例が現れたことも驚くべきことではない。
 ちなみに、日本の中世においても、堺や博多のように、封建領主の支配の外で商人が支配する自治都市が少数ながら見られたことは興味深い一致である。


(3)ロシアの農村共同体ミールと日本の惣村
 中世にあっても、共産主義的な慣習が完全に排除されていたわけではない。封建領主の領地支配権は近代の完全な排他的所有権とは異なり、荘園に隷属する農奴ないし隷農の保有地を留保するものであったため、程度差はあれ、農民たちは共有地や入会地のような形で生産手段を共有し、生産活動を一定程度協働できたからである。
 その点、ロシアでは農奴の結束が固く、かれらはミール(またはオプシーナ)と呼ばれる共同体を結成し、土地を共有したほか、合議制の集会や刑罰権まで含む独自の自治機構も擁していた。
 その成立起源については諸説あり、10世紀に遡るともいうが、史料的には早くとも15世紀頃には現れるとされるので、かなり古い慣習的制度である。このような強力な自治慣習は、近代のソヴィエトが導入した農業協同組合コルホーズに類似するほか、行政的機能も併せ持つ点では中国が一時導入した人民公社をも想起させる。
 ただ、ミールは国が上から政策的に導入した制度ではなく、農民が独自に発展させた慣習的制度であるだけに、西欧では農奴制が廃止されていった近世になって中央集権化を追求する帝政ロシアが反動的な農奴制の強化に走ったのも、こうした自治的なミールを統制・弱体化する狙いがあったと考えられる。
 このようなある種の慣習的農民共産主義の類似物は、ここでも中世日本に見られた。日本でも封建領主の支配から相対的に自由な立場で、農民が自治的な惣村を形成した。惣村は重要な生産手段である山林などを惣有財産とし、惣村民が共用できる入会地とするとともに、合議制の寄合や刑罰権まで含む自治機構を擁していた。
 こうした惣村も、日本における中世末期に相当する戦国時代に入ると、一円支配の強化を狙う戦国大名による侵食を受けて弱体化する。最終的に豊臣政権の兵農分離・検地を経てほぼ解体され、江戸時代には幕藩の下部統治機構としての近世村落へと変質していった。

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共産主義の系譜と展望(4)

2025-07-17 | 共産主義の系譜と展望

Ⅱ 古代・古典期共産主義

(5)老子「小国寡民」とプラトン「理想国家」
 商業都市とその集合体としての国家の発達により、先史共産主義がもはや忘却されていくと、共産主義は現状を批判する理想化された思想として、哲学的に語られるようになる。古典期には、洋の東西でそのような思想が出現した。
 その一つは、中国の老子が描いた「小国寡民」である。老子の小国寡民は、互いが行き来しなくとも、すなわち交易せずとも自給自足可能な小規模田園共同体を理想化しており、そこでは船や車、さらに武器のような文明的利器があっても誇示することのないつつましやかな暮らしが想定されている(小国寡民)。
 老子は通説によれば紀元前6世紀頃の人とされるが、この時代の中国はいわゆる春秋時代であった。中国大陸中心部の中原が多くの国に分かれて合従連衡する戦国時代前夜であり、すでに牧歌的な時代を過ぎていた。そうした中で、老子は時代に抗って小国寡民の理想を説いたのである。
 他方、古典期のギリシャでは、プラトンが哲人の統治する理想国家(政体)を提唱した。プラトンの哲人国家は老子が描くような田園共同体ではなく、当時のギリシャのスタンダードであったポリスを想定しつつ、アテナイのような民主制ではなく、知的な素養を備え、善のイデアを体得した哲学者が統治する一種の君主政体を理想として描いている。
 老子においても、彼の言うところの「道(タオ)」を体得した聖人による統治が想定されていたが、老子流の聖人統治者は権謀術策を弄しないという意味での「無為」の統治者であり、良き統治とは、民衆がその功績を特段称賛もしないような無為自然の統治であると論じている(拙稿)。これは消極国家論の先駆けであり、一種のアナーキズムとも読める。
 プラトンの哲人国家はより積極的であり、哲学者(哲人王)を頂点に、統治者‐防衛者‐生産者の三階級から成る階級社会である点では非共産主義的であるが、統治者階級及び防衛者階級には所有欲を持たせないため、私有財産が禁止され、家族も共有するものとされ、部分的に共産主義が適用される半共産制が想定されている点でユニークなものである。


(6)スパルタの半共産制
 古代ギリシャの都市国家ポリスの中でもとりわけユニークな国制を採用していたのが、スパルタである。スパルタは宣戦布告などの儀礼的役割を果たすだけの二人の世襲王を擁する君主制ながら、実態は統治者階級であるとともに防衛者階級でもある30歳以上の市民が政治の実権を持ち、その下に第二級身分として、参政権を持たないが、土地の所有は認められ、商工業に従事するペリオイコイ、最下級に市民の土地に分属して農業に従事し、貢納義務を負うヘイロタイの三階級制で成り立っていた。
 このうち「平等者」とも呼ばれた統治者階級の市民は幼少期から親元を離れて厳しい軍事訓練を受けるとともに、成人後も将軍の配下で共同食事制の下に生活した。市民間の経済的な平等性を維持するため、土地は均等配分され(後に形骸化し、不均等が生じた)、国内での貴金属貨幣の使用が禁じられた。
 このようなスパルタの社会経済構造は部分的な半共産制とも呼び得るものであり、晩年のプラトンによっても好評価されていたことは注目される。哲人政治の理想には達しないものの、スパルタの社会構造はプラトン理想国家の三大階級社会に近いものであり、統治と商工業の分離、統治者階級の半共産主義など、プラトン的理想に近いものと認識されていたのだろう。


(7)原初キリスト教団の共産主義的性格
 ローマ帝国は商業主義的であり、富の偏在は著しく、労働者階級プロレタリアートの語源ともなった無産階級プロレタリウスの語が生まれたのもローマ時代であったように、徹頭徹尾非共産主義的であったと言える。
 そうした中、ローマ支配時代のユダヤでナザレのイエスによって創始された新宗教には共産主義的な性格が見られた。イエスが少数の弟子と共に形成していた原初の教団に衣食住を共にする「共餐主義」的な性格が見られたことは、まさに「最後の晩餐」のエピソードが示しているし、富裕な信者の寄進でまかなわれるようになった教団の資産も共有されていたと考えられる。
 イエス自身、「神の国」を貧者の国として説くこともあり、彼が告発・処刑される契機となったユダヤ神殿で引き起こした騒乱も、神殿公認の商人の活動を妨害したものであり、イエスが強い反商業主義的な信条を有していたことも窺える(拙稿)。ただし、カウツキーなど一部の近代共産主義者がイエス自身を「共産主義者」とみなすのは後知恵的な時代錯誤であるかもしれない。
 しかし、イエス没後、実弟ヤコブが貧者の運動として教団を率いていた時代にはまだ共産主義的性格は残されており、使徒行伝でも、エルサレムの初期キリスト教会では「自分の所有物を自分の物と主張する者は一人もおらず、すべての物を共有していた」と記されていることから、イエス没後の教会組織でも、初期にはある種の共産主義が実践されていたと見る余地はある。
 教会がローマ教皇を頂点とする職階制によって統治され、教会自身も一個の封建領主として領地と領民を支配するようになり、脱共産主義化していくのは時代精神が反共産主義に染まったとも言える中世に入ってからのことである。

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共産主義の系譜と展望(3)

2025-07-13 | 共産主義の系譜と展望

Ⅱ 古代/古典期共産主義

(1)貨幣経済社会の成立
 先史時代と歴史時代最初の古代を経済的な面で画するのは、貨幣経済社会の成立である。交易活動が広域化・商業化すると、素朴な物々交換は特定の鉱物等を定型化された交換手段として使用する貨幣交換に転化していった。
 通貨制度は未整備でも、貨幣を基準とする交易は富の蓄積を容易にし、交易を専業とする商人階級の分化を促進した。そうした商人階級が富を所有する商業都市の成立が歴史時代・古代の幕開けであった。
 商業都市は、先史時代には互助的であった交易活動の商業化に伴い成立した新しい共同体であり、本質的に非共産主義的な階層的共同体であった。そうした商業都市が文明開化を促進したことは、人類の歴史に今日にまで及ぶ或る特定の方向性を与えた。 


(2)古代文明圏の非共産主義的性格
 古代に入って各地に成立する文明圏は商業都市の集合で成り立っており、古代エジプトのように、比較的早くから統一的な王権が成立したところでも、その実態は商業都市の集合体であったと言ってよい。
 人類史上最初の文明圏とみなされるメソポタミアで典型的に見られるように、古代都市には王(君主)が存在した。王は先史時代の単独首長制が世襲化されて君主制に転化したものであり、君主制と商業都市の組み合わせの段階に達すると、素朴な先史共産主義は完全に過去のものであった。
 古代文明圏はそのほとんどが王を頂点として貴族と平民の階級差を擁する階層社会と商人への富の集中を特徴としており、本質的に非共産主義的であった。ここから共産主義を反文明主義とみなすような消極的な解釈も生じてくる。


(3)インダス文明圏の独異性
 古代文明圏の中でも特に整備されていたいわゆる四大文明圏のうち、インダス文明圏には他の文明圏と比べて際立った特色がある。それは、王宮や神殿に見立てられる遺跡が見られないことである。
 もちろん、考古学上の発掘調査の進展により新発見もあり得るが、インダス文明圏の発掘調査は過去150年以上にわたっており、その間に王宮や神殿が検出されないということが意味するのは、王や神官のような特権階級の不存在である。
 加えて、最盛期でも墓制に明確な階級差が見られないこと、すなわち他の文明圏に見られるような特別に厚葬された墳墓がなく、副葬品も男女差や年齢差の相違に過ぎないことなどから、平等社会であったことが想定されている。
 そこから直ちにインダス文明圏が古代共産主義社会の一例であったと結論付けることはできないが、インダス文明圏が他の同時代文明圏とは相当に異なる社会構造を有していたらしいことは推定できる。


(4)原初仏教団の共産主義的性格
 インダス文明圏はさほど持続せず、最盛期でもおよそ700年ほどで、紀元前1900年頃には滅亡に向かった。その後、ほどなくして中央アジア方面からアーリア人が大量移住し、今日のインドをはじめとする南アジアの形成につながる新たな文明圏を形成する。
 この新しいアーリア文明圏は今日のヒンドゥー教の前身であるバラモン教を軸とする階級社会を特徴とし、インダス文明圏の平等社会を継承することはなかった。しかし、紀元前600年頃に始まるインダス文明圏時代に次ぐインドにおける第二の都市化時代には、再び平等主義の気風が生まれた。
 そうした時代環境下から、釈迦と仏教が誕生する。釈迦の半伝承的な伝記による限り、ヒマラヤ山麓に陣取るシャーキヤ族の立てた小共和国(サンガ)で世襲制元首の世子として生まれたとされる釈迦は、その身分を捨てて宗教的な修行生活に入り、仏教を創始した。
 シャーキヤ族の民族系統については議論があり、アーリア系説とビルマ‐チベット系説とがあるが、いずれにせよ、シャーキヤ国はバラモン教の影響が比較的薄い辺境地にあったことが、バラモン教から自由な仏教を生む背景となったと考えられる。
 仏教の教義そのものは共産主義的というわけではないが、原初仏教団(サンガ・僧伽)は出家者が一定の秩序のもとに宗教的な修養と説教を行う集団であり、比較的平等な関係性の中で衣食住を共にしていた。
 このような宗教的な「共餐主義」の集団は必然的にある種の共産主義を実践することになるから、少なくとも原初仏教団には共産主義的性格が認められたであろう。それは中世のキリスト教修道院の生活にも類似した宗教的共産主義の先例であったかもしれない。

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共産主義の系譜と展望(2)

2025-07-09 | 共産主義の系譜と展望

Ⅰ 先史共産主義

(3)原始農耕/牧畜と共産主義
 農耕の開始時期については考古学的な新発見により時代が次第に遡っているが、いずれにせよ、最初期農耕は狩猟・採集の補充程度のものでしかなかったことも裏付けられている。農耕が狩猟・採集より比重を高めるのは、紀元前8000年頃の西アジアにおいてである。
 農耕は共同作業としての性格が元来強く、共産主義とは馴染みやすい。おそらく最初期の原始農耕は共産主義的に行われた可能性がかなり高いと見てよいであろう。すなわち、共同での栽培・収穫、収穫物の集団的共有と分配が自給自足的に行われていたと考えられる。この段階での集落共同体は小規模で、まさに共産主義的なコミューンに近いものだっただろう。
 集落共同体が原初的な都市と言える程度まで発達しても、例えば、紀元前7000年頃に遡るチャタル・ヒュユク遺跡(トルコ)の研究によれば、王族や神官のような特権階級の存在の特徴が見られず、平等社会であった可能性が高いとされる。
 また、最新の調査では、チャタル・ヒュユクでは旧石器時代の文化で典型的に観察されるように、男性と女性が同等の社会的地位を持っているように見えるなど、性別に基づく社会的差別はほとんどないことも明らかになった。
 共産主義=無階級・平等社会という定義も共産主義の定義としては不完全なものであるが―非共産主義的な無階級・平等社会も理論上は想定可能―、先史農耕社会が共産主義的であった可能性は十分にある。
 一方、牧畜も農耕とほぼ同時的に開始されたと考えられており、今日に至るまで両者は経済的に一体性が強いが、共産主義との関わりでは、両者には相違がある。
 牧畜は家畜の飼育を本旨とする生産活動であり、農耕に比べて、個人あるいは家族単位での家畜の所有という観念を醸成しやすい。今日でも、アフリカのマサイ族のような牧畜民にとって、家畜としての牛が最重要財産として貨幣以上に重要な財産価値を有しているということからしても、牧畜は農耕より私有財産制との新和性が高い。
 上掲チャタル・ヒュユクでも、時代が下ると次第に平等主義的ではなくなっていく証拠が見られるとされるが、これはチャタル・ヒュユクでも農耕に続き、牧畜が開始されたことと関連があるかもしれない。 


(4)首長制・都市の成立と脱共産主義
 農耕も規模が拡大し、自給自足を越えた余剰生産が行われるようになると、次第に脱共産主義化していった可能性がある。この段階に達すると、生産力の高い土地を占有する者が集落共同体の集団的指導者として力を持つようになったであろう。
 共同体の集団的指導者は当初、余剰生産物の管理や交易活動の運営など、主として経済的な面を采配する管理者のような存在であったかもしれないが、次第に地主として弱小の共同体成員を従えるようになり、共同体の運営が複雑化するにつれて、政治力も持つようになった。
 このように農耕の発達に伴い、共同体内部に階層が発生したことが、脱共産主義化の本格的な第一歩であったかもしれない。集団指導制の成立は同時に、指導者とその一族が共同体内の大地主となることにより、土地私有制の成立とも軌を一にしていたであろう。
 共同体の規模が拡大すると、統治の安定性の観点からも次第に単独の首長が采配するようになったことも容易に想定できる。こうして首長制が成立する。集団指導制にはまだ共産主義的な要素が残されていたが、単独首長制は明白に脱共産主義的である。
 その間、共同体の拡大と交易活動の広域化・商業化に伴い、各地に都市が成立したことも脱共産主義化を促進したであろう。富の集中と階層化が進んだ商業都市は素朴な共産主義とは本質的に相容れないものだからである。

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