Ⅴ 近現代共産主義
(15)二方向の体制内変革
1960年代は、世界的に変革へ向けた政治運動が高揚した現代史上の転機であった。すでに世界はアメリカを盟主とする西側陣営とソ連を盟主とする東側陣営とに分断されて、いわゆる冷戦の状況にあったが、変革の波は東西それぞれで生じている。東側では、後発ながらすでに確立されていた二つの共産党支配国家で、体制内での大規模な変革の動きが生じた。
①チェコスロバキアの「人間の顔をした社会主義」
チェコスロバキアでは、ナチスドイツの占領から解放された後、1946年の総選挙でソ連の影響下に共産党が比較第一党となり連立政権を樹立したが、連立相手の非共産党との対立が深まる中、1948年の総選挙では共産党及びソ連の圧力下で共産党が圧勝、以後は翼賛政党を従えた「国民戦線」という形態を採りつつ、事実上の共産党支配体制を確立した。
そうした中、硬直した共産党支配国家を変革すべく、1968年に共産党第一書記に選出されたアレクサンデル・ドプチェクを中心に、大規模な政治経済改革が実行されようとした。「人間の顔をした社会主義」(以下、「人間の顔」と略す)のスローガンは、チェコスロバキアの科学哲学者ラドヴァン・リヒテによる。
改革の行動綱領によれば、戦後直後に「ブルジョワジー残党」と闘うために必要とした「中央集権的及び行政指令経済の方法」はもはや必要なく、階級対立が終焉し、労働者が搾取されなくなった当段階では、チェコスロバキア経済が「世界の科学・技術革命」に参加し、資本主義と競争するためには、重要な地位を(党官僚ではなく)「有能で教育を受けた社会主義専門家幹部で埋める」ことを保証する必要があるとされた。
要するに、その変革プログラムは共産党支配体制の枠組み内で、抑圧的な政治と硬直した中央計画経済を緩和することに重点が置かれた。そのために、共産党の党内民主化、中央計画経済の緩和と自主管理の導入、検閲の廃止と秘密政治警察の活動規制、報道・文化活動の自由、移動の自由といった政策が次々と打ち出されたため、「プラハの春」と称賛されることにもなった。
しかし、これらはあくまでも共産党指導部という「上」からの改革措置であり、「下」からの民衆運動としては十分な発展を見ることがなかったことは弱点であり、二十数年後に共産党支配体制を終焉させた民衆革命の域には達しなかった。
ただ、体制内変革とはいえ、「人間の顔」改革は最終的に共産党支配の終焉につながる要素を包蔵していたことから、ソ連共産党指導部はソ連を盟主とする同盟関係への脅威とみなし、1968年8月にワルシャワ条約機構軍(実質ソ連軍)を通じた軍事介入によりドプチェク指導部政権を転覆したため、「プラハの春」はわずか7か月余りで挫折した。
②中国の「文化大革命」
中国では、日本の支配から解放された後、国民党との内戦を制した共産党が1949年以来、最高指導者・毛沢東の権威のもとに実質的一党支配体制を確立していたが、農工業の発展テンポを急速化することを目指した「大躍進」政策が失敗したことを受け、60年代には中央計画経済を緩和する「調整」と呼ばれる改革政策に転じていた。
そうした状況下で発生した「文革」と略称される(以下、略称で表記)事象は「人間の顔」改革とは異なり、明確な年度と日付をもって記録される出来事ではなく、おおむね10年がかりの複雑な過程を辿った政治経済全般の変革に伴う動乱であった。
その公式な始まりは、1966年8月の「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」と題する党中央委員会の決議にあるとみなされ、本格化するのは「実権派」を批判する69年の第9回党大会における林彪の総括的政治報告からとされる。
「文革」の発端は、中国では如上「調整」政策を実務的に担っていた党幹部(いわゆる実権派)らに対して、当時劣勢にあった原理主義的な毛沢東とその支持者がしかけた権力闘争であり、「人間の顔」改革とはある意味で逆向きの事象とも言えるが、その過程で若手党員や学生・労働者を動員したことから、「下」からの参加も得て、ある種の大衆運動に発展した。
党内権力闘争が発端とはいえ、毛が「造反有理」をスローガンとし、大衆の造反と自己解放を強調したことから、これは「自由主義」を掲げながらもテクノクラート管理社会化が進行していた西側資本主義諸国の学生・青年運動にも影響を及ぼし、中国がソ連のチェコスロバキア軍事介入を非難したことへの共感も手伝って、毛沢東思想が西側の青年の間でも一世を風靡する契機ともなった。
実際のところ、「文革」は正式には「プロレタリア文化大革命」とも呼ばれるように、共産党中国の建国後もはびこるブルジョワ文化の残滓を取り除くべく階級闘争を推進し、資本主義への道を歩む「走資派」を一掃してプロレタリア文化を構築するイデオロギー的な趣旨を伴うものであり、まさに「人間の顔」とは逆方向の認識に基づいていた。
しかし、党官僚制への「造反」という観点から、上海では上海人民公社と呼ばれる革命組織が樹立され、これが革命委員会に改組されると、全国で従来の党組織を解体して革命委員会が設立されるなど、「文革」初期(68年頃まで)には「下」からの革命の要素も共時的に見られた。
ただ、「文革」は明確な行動綱領も欠いたうえ、民衆革命的な風潮から生まれた一種の民兵組織・紅衛兵による階級闘争に名を借りた横暴が極まり、無数の迫害や弾圧を生み、次第に毛沢東の個人崇拝体制に変質するなど、矛盾が拡大していった。最終的には、1976年の毛の死去に続き、「文革」主導者とされた四人の毛側近党幹部(いわゆる四人組)の逮捕・起訴をもって「文革」は終了した。
「文革」期の犠牲者数について正確な統計はないが、最大推計では1000万人を超えるともされる死者数は、ソ連におけるスターリン時代の「大粛清」、次項で見るカンボジアの共産党による「大虐殺」と並び、〝共産主義〟の名のもとに引き起こされた三大人道的惨事として歴史に銘記される。
(16)カンボジアの「文明大革命」
カンボジアで1975年から79年まで一党支配を行ったカンボジア共産党(正式名称:カンプチア共産党、以下、通称クメール・ルージュで表記)が引き起こした「大虐殺」は、最大推計で犠牲者200万人(当時のカンボジア人口のおよそ四分の一)とされる計画的ジェノサイドであり、これはナチスドイツのホロコーストに匹敵する20世紀における国家的人道犯罪の双璧の一つに数えてよいものである。
ただ、この事象はジェノサイドという側面に焦点が集中しがちであり―当然だが―、特定の名称がなく、漠然と「カンボジア大虐殺」などと呼ばれてきた。しかし、別視点からみれば、これは先史農耕社会を理想化した農業ユートピアを短期間で性急に目指した革命であり、すでに収束に向かっていた中国の文革にも触発され、それをより過激化し、西欧的近代文明そのものを変革する「文明革命」にまで貫徹させようとしたものと言える。その意味では、「文明大革命」である。
ここで想起されるのは、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』に見られた「社会に文明があり過ぎ、生活手段があり過ぎ、工業や商業が発達し過ぎた」という文明過剰論である。この一節は見落とされがちであるが、ここで批判されているのは資本主義的文明のことである。しかし、これが文明破壊と先史時代への回帰を志向するものでないことは、マルクスとエンゲルスがユートピア共産主義を否定し、基本的には工業社会を志向していたことから明らかである。
クメール・ルージュの政治上の最高指導者はポル・ポトであったが、党の農本主義的なイデオロギーのもととなったのは、エコノミストで、党の政権掌握後に国家元首(国家幹部会議長)にも就任したキュー・サムファンの1959年の論文にあった。
この中で、サムファンはフランス植民地から独立して日の浅かったカンボジアの国富の相当部分がサービス分野に集中しており、第一次・第二次産業部門に損害を与えていると主張し、農業の発展のため都市部の公務員を含むサービス労働者の一部を農村に再配置することがひいては産業の成長を可能にすることを提唱した。この発展は、農村部にすでに存在していた相互扶助制度に基づく協同組合の創設によっても奨励されるが、そのような改革は事前に教育されなければならず、「農民は忍耐と理解をもって扱われなければならない」という慎重な留保もなされていた。
しかし、70年代半ばのカンボジアはベトナム戦争に巻き込まれ、米軍の爆撃で農村が破壊され、農業基盤も崩壊する中、内戦を制した革命的解放勢力として権力を掌握し、緊急的な食糧増産を必要としていたという事情からも、農業基盤の再建を目指す中で、クメール・ルージュの面々はサムファン自身を含め、性急な農本主義に走ることとなった。
そうした性急さは、サンファン自身が「(カンボジアは)中間段階で時間を無駄にすることなく、完全な共産主義社会を創造する最初の国になるだろう」と豪語したということにも現れている。これは過渡期を経て、低次から高次の共産主義社会へ移行するというマルクスの移行過程論からも完全に逸脱していた。
クメール・ルージュの目標は、貨幣、商業、私有財産の完全かつ即時の廃止を通じて農本的で平等な共産主義社会を創造することにあったが、それ自体はユートピア共産主義もしくはアナーキズムの思想にもしばしば見られるもので、目新しさはない。
クメール・ルージュの特徴はむしろ、そうした性急な目標達成のための手法の過激さにあった。その一つが都市住民の農村への大量的な強制移住策であり、もう一つが知識人に対する階級抹殺であった。クメール・ルージュの幹部自身の多くがフランス留学経験を持つ知識人でありながら、かれらは西欧的な教養を持つ知識人を革命の障害とみなし、計画的に殺戮した。
この側面から見れば、クメール・ルージュの蛮行はマルクスの移行過程論を無視したユートピア共産主義思想が最悪の形態と規模、方法をもって表出されたものと言える。
クメール・ルージュを特徴づけるもう一つの要素はクメール人優越主義である。そのため、クメール・ルージュは少数民族を強制移住させ、その言語を禁止したほか、法令によりカンボジアの人口の15%を占めた20以上の少数民族グループの存在を否定した。
中でも、イスラーム教徒の少数民族であるチャム族に対しては、イスラームが新しい共産主義体制に適合しない異質文化であるとの認識から、計画的な民族浄化の対象として殺戮した。
こうしたクメール人優越主義は人種・民族の別を超えた社会的平等を志向する共産主義の理念にむしろ反する夾雑物であり、この側面ではクメール・ルージュはアーリア人優越主義に基づき、ユダヤ人をはじめとする少数民族を殺戮したナチスに類似していると言える。
最終的に、クメール・ルージュ支配体制は同じ共産党支配体制ながら対立関係にあった隣国ベトナムの侵攻を受け、四年足らずで崩壊したが、その後も20年近く密林地帯でゲリラ活動を展開した。
(17)名目的共産主義への退行
1970年代後半以降になると、共産主義とは何かを突き詰めて追求する風潮は東西ともに潰え、共産主義と集産主義の混同も正されることなく、もはや共産主義が単なる名目上の空疎な理念でしかなくなる傾向を増していく。そうした「名目的共産主義」への退行を象徴する実例を幾つかかいつまんでみる。
①ソ連の「発達した社会主義」
共産党支配体制の固定化とともに共産主義=集産主義の定式が定着したソ連では、60年代以降、中央計画経済の地域分権化、利潤率指標の導入などの部分的改革がなされたがいずれも成功せず、停滞と行き詰まりを見せていた。
そうした中、長くソ連体制を法的に規定してきた1936年憲法(スターリン憲法)を改正した1977年憲法の前文では、当時のソヴィエト国家を「プロレタリアート独裁の任務を果たし終え(た)全人民国家」と規定したうえ、ソ連社会は「社会主義がそれ自身の基礎の上に発展する段階」としての「発達した社会主義社会」であり、それは「共産主義への道における法則にかなった段階である」であって、ソヴィエト国家―「社会主義的全人民国家」―の最高目的は「社会的共産主義的自治が発達している無階級の共産主義社会の建設」にあるとしている。
要するに、そうした未来の共産主義社会の実現の過程にある中間到達点が「発達した社会主義社会」だということであって、現時点は共産主義社会への準備段階にあるとされるのである。裏を返せば、革命から60年を経てもいまだ共産主義の段階には達しておらず、未来の共産主義社会の実像も、それがいかにして達成されるのかも不明のまま、ソ連体制は新憲法制定からわずか14年後には解体・消滅していくのである。
②西欧のユーロコミュニズム
共産党はロシア革命後、西欧の資本主義諸国でも続々と誕生していったが、西欧では革命はいっこうに勃発しない中、ソ連による「プラハの春」の武力転覆以降、西欧諸国の共産党はソ連から離反し、プロレタリア独裁の放棄や複数政党制の容認などを掲げ、議会政治への積極的参加を志向するようになる。
中でも当時、西欧最大規模の共産党であったイタリア共産党はこうしたユーロコミュニズムの主導者となり、保守系政党との連携による政権獲得を目指した。ちなみに、世界で初めて1947年に議会選挙を通じて政権を獲得したのは、イタリアに四囲を囲まれた内陸の小国サン・マリーノの共産党であった。
このような革命放棄と議会進出に重点を置くユーロコミュニズムとは、暗黙裡における共産主義の放棄、資本主義の修正にとどまる社会民主主義路線への転換であり、イタリア共産党がまさにそうなったように共産党そのものの消滅、あるいは実質的な社民党化につながる道であった。
③中国の「改革開放」
中国では如上「文革」が収束した後、「文革」では糾弾・迫害対象となった「走資派」が復権し、特に1978年以降、鄧小平が事実上の最高指導者となったことで、中国共産党の基本路線は「改革解放」へと大きく切り替わった。
これは要するに、市場経済への漸進的な移行政策であり、農家の自主制を認める生産責任制、経済特区制による外資の導入や国外からの技術移転の促進、企業の経営自主権の拡大などが推進された。
その基本思想は先富論、すなわち先に豊かになる条件を整えた者から豊かになり、その影響から他の者が豊かになればよいというまさに資本主義的経済競争論に基づいており、共産主義的な平等論は棚上げされていた。
こうした「改革開放」の集大成が1993年の憲法改正で憲法にも取り込まれた「社会主義市場経済」の原理であった。これにより、中国では共産党支配体制を護持したまま、「共産党が指導する資本主義」というねじれた体制が定着していくことになる。
④ソ連の「ペレストロイカ」
ソ連では1964年から82年までスターリンに次ぐ長期政権を担ったレオニード・ブレジネフ共産党書記長が死去した後、二人の高齢の党指導者政権がいずれも指導者の死去で短期に終わると、1985年に史上最年少54歳のミハイル・ゴルバチョフが書記長に選出された。
政権初期、ソ連の停滞を象徴するようなチェルノブイリ原子力発電所大爆発事故に見舞われたゴルバチョフ指導部の下で開始された「ペレストロイカ」は行き詰まったソ連体制の全般的な構造改革であり、内容的にはかつてソ連自身が粉砕したチェコスロバキアの「人間の顔」改革に酷似していた。言わば、ソ連版「人間の顔」改革である。
しかし、ロシア語で再構築を意味する「ペレストロイカ」(перестройка)は単なる「改革」のレベルを超え、1977年憲法に規定された共産主義への道としての「発達した社会主義社会」を放棄し、暗黙裡に資本主義への道に切り替えるもので、経済的には中国の「改革開放」をより消極的に実行する数年がかりの移行プロセスとなった。
しかし、1989年の学生らの民主化要求を武力鎮圧し、共産党支配体制を護持した中国とは異なり、政治的民主化・自由化に重心が置かれた「ペレストロイカ」は1990年の憲法で共産党の一党支配体制を廃止したことによって、ひいては翌年のソ連国家の解体・消滅にもつながった。