Ⅴ 近現代共産主義
(4)マルクス共産主義の画期性と課題性
文字どおりに近代共産主義と呼び得る思潮は、カール・マルクスとその共同研究者フリードリヒ・エンゲルスに始まる。その1848年公刊の共著『共産党宣言』(以下、『宣言』)は、まさしく近代共産主義のマニフェストに位置付けられ、全世界的に翻訳もされて世紀を超えた持続的影響力を持った。
この書はしかし、マルクスとエンゲルスにとっては最初の出発点を成す小冊子にすぎず、その最終的な到達点を示すものではなかったから、共産主義の理論書としてはなお不十分なものであった。
とはいえ、この中で、マルクスとエンゲルスは近世以前の共産主義思想を「反動的社会主義」・「保守的またはブルジョワ社会主義」・「批判的ユートピア社会主義」に類別して批判的に対照させ、社会科学理論に昇華された新しい共産主義理論を示そうとした点で画期的であった。そこから、雑多な「社会主義」と理論的に整序された「共産主義」とが概念的にも区別された。
もっとも、マルクスとエンゲルスの理論は「ユートピア社会主義」と対置された「科学的社会主義」として規定されることもあるが、これは主としてエンゲルスによるやや図式的な整理であり、「社会主義」という包括的なアンブレラ概念と「共産主義」を区別することが近代共産主義の本来の意義である。
そうしたマルクス=エンゲルスの近代共産主義(以下では、マルクスに代表させて「マルクス共産主義」と呼ぶが、エンゲルスの貢献を過小評価する趣旨ではない)の画期性は、新たな歴史観・社会観に基づき、当時欧米で発展を遂げつつあった賃金労働を基軸とする資本主義経済社会の批判的な構造分析を通じて、来たるべき共産主義社会への移行の方法及び過程を理論化したことにあった。
そのためにも、到達点となる共産主義社会の描写以前に、当面の資本主義経済社会の分析が先行しなければならなかった。ただ、現実の執筆順は逆となり、マルクスは『宣言』の約20年後に『資本論』第一巻をようやく完成させるも、生前には未完に終わり、第二巻以降の完成はエンゲルスの手に委ねられることになった。
ともあれ、マルクス共産主義が近世以前の共産主義に比べればはるかに理論的に構築されていることは確かである。その軸となっているのは、唯物史観、剰余価値理論、階級闘争、プロレタリア革命、プロレタリア階級独裁といった新規の諸理論である。
総じて言えば、近世以前の共産主義が平等な農村協同体を共産主義的ユートピアとして構想したのに対し、マルクス共産主義では搾取のない労働者の自由な結合による工業社会を共産主義社会のモデルとして想定していると言える。そうした点では、マルクスによって「ユートピア社会主義」に分類されたオーウェンの模範工場の実践をより理論的に昇華させたものと見ることもできる。
しかし、こうしたマルクス共産主義には課題も残された。中でも、ユートピア論を厳に慎む自制的な態度のゆえに、マルクス共産主義の到達点となる共産主義社会の理想状態がぼやけたものとなったことは、後世、マルクス主義を標榜する共産主義理論家や共産主義政党がそれぞれの共産主義的到達点を明示することに苦慮し、しばしばユートピアとは真逆のディストピアの現出に手を貸す結果を招いた。
もっとも、マルクスはいくつもの著作や論文、論説等の中で共産主義的な到達点を素描的に示してはいる。その軸として、協同組合による代議政治、協同組合連合による共同計画経済が挙げられるが、いずれも素描(粗描)にとどまっており、政策論の域には達していないため、マルクス共産主義から具体的な政策を抽出することは困難となっている。
(5)アナーキズムとの対決と交差
マルクス共産主義の同時代的なライバルとして台頭してきた急進思想は、アナーキズムであった。「無政府主義」が定訳となっているアナーキズムであるが、その趣意は単に「政府機構の廃止」にとどまらず、あらゆる政治的権力・権威の源泉となる国家の概念そのものの廃棄にあるので、今後、本連載ではしばしば「無国家主義」と表記することにする。
このような近代アナーキズムの祖はピエール・ジョゼフ・プルードンとみなされている。貧しい醸造・樽製造職人の家庭に生まれ、幼少期から労働者として働きながら独学で思想家となったプルードンのアナーキズムはアカデミックではないものの、わかりやすく魅惑的な政策論を含み、労働運動にも浸透していった。
マルクスも9歳年長のプルードンの著作に親しんでおり、数回面会もし、当初は彼の著作をフランス・プロレタリアートの科学的宣言」とまで称賛していたが、プルードンは共産主義には否定的であり、マルクスからの共産主義者通信委員会への勧誘も固辞した。マルクス自身、研究を進めるにつれ、プルードンには批判的となり、プルードンの著作『経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』をもじった自著『哲学の貧困』の中でプルードンを徹底批判した。
これに対して、論争家ではなかったプルードンからは特に強い論駁はなかったが、プルードンの後継者とも言えるロシア貴族出身のアナーキスト理論家・運動家で、マルクスとほぼ同世代のミハイル・バクーニンはマルクスを一定評価しつつも、そのプロレタリア独裁理論には反対し、たとえ共産主義社会への過渡期にしても国家が残存するなら、恒久独裁体制の余地を残してしまうと批判した。
バクーニンのアナーキズムは労働運動の中にも浸透し、バクーニン自身、マルクスもその結成に尽力した国際的労働運動団体・第一インターナショナルにも参加したが、マルクス派とバクーニン派の対立は極まり、バクーニンは除名されるに至った。
こうして、マルクス共産主義とアナーキズムの対立は運動上も頂点に達したが、理論的な面ではマルクス自身も階級支配が消滅する共産主義社会では今日の政治的な意味での国家はなくなるとしており、無国家主義を全否定していたわけではない。
つまり、共産主義社会では(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担は何らの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格を完全に失う。そして共産主義的集団所有の下ではいわゆる人民の意志は消え失せ、協同組合の現実的な意志に席を譲るというのである。
究極的にはマルクス共産主義も国家には否定的であるが、アナーキズムのような一挙的な政治革命による「国家の廃止」ではなく、プロセスとしての社会革命を通じた「国家の消滅(または死滅)」を想定する限りで、両者は対立しつつ、交差し合っているとも言える。
(6)クロポトキンの無国家共産主義
アナーキズムの主要な関心が国家の廃止にあったことは言うまでもないが、生産や労働といった経済問題も無視はしていない。その点、プルードンは市場と競争は必要であるとしながら、それらは搾取的ではなく相互的でなければならないと主張し、貨幣に代わる交換券(労働貨幣)を発行する人民銀行を擁する経済体制を構想した。
そのため、プルードンはマルクスからは小資産を擁護する「ブルジョワ社会主義者」として批判されることになったが、バクーニンは労働者自身の運営する生産者組織によって生産手段を直接に管理する集産主義を主張しており、共産主義にはより好意的であった。
これに対して、バクーニンと同様にロシア貴族出身のアナーキスト理論家で、バクーニンより33歳、マルクスより24歳年少で大雑把に両人の息子世代に当たるピョートル・クロポトキンはバクーニンの集産主義を批判して、プルードンの相互主義に立ち戻りつつ、これを相互扶助論としてより理論化し、かつプロレタリアート独裁のような過程も経ない協同組合の連合による無国家共産制の確立を主張した。
1887年に公刊した小冊子『無国家主義共産主義:その基礎と諸原則』はその簡略なマニフェストである。これに基づき、より詳細に無国家共産主義社会の実像を具体的に論じたのが1892年のより文学的なタイトルの著作『パンの略取』であり、両著併せてクロポトキン流無国家共産主義の宣言書であり、言わばマルクス・エンゲルス『宣言』のアンチテーゼと言えるものであった。
ただ、クロポトキンは科学者(特に地理学者)を本務とするアカデミックな人物であり、マルクスのように労働運動の組織化には動かず、バクーニンのように自派のアナーキスト運動を形成することもなかったため、著作を通じてアナーキズムの大家として評価を得ながらも、彼の無国家共産主義は十分な影響力を持った潮流とはならなかった。
また、理論面から見て、クロポトキンの無国家共産主義はその基盤がやはりアナーキズムにあることは否めず、マルクス共産主義に代わるオルタナティブな理論としての潜在性を包蔵していながら、アナーキズムの派生思想という性格を脱するまで完成されるに至らず、また無国家共産主義社会への移行の方法や過程も具体化されなかった点を含め、十分な発展と継承を見なかった。