Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

(新規)「パストライブス/再会」

2024年12月31日 23時31分40秒 | 映画(2024)
心の表面張力。


幼なじみのナヨンとヘソンはとても仲良し。学校帰りはいつも一緒。ちょっとしたことで泣くナヨンをヘソンがなだめる。そんな関係は居心地が良くて、ナヨンは母に「将来ヘソンと結婚すると思う」と言っていた。

しかしある日、突然の別れが訪れる。ナヨンの両親がカナダへの移住を決意したのである。気持ちがどうあっても子供にはどうすることもできず、「さよなら」と一言だけ残して別の道を歩く二人。

12年の月日が流れ、どれほど距離が離れていてもSNSですぐに繋がれる世界がやって来た。英語名でノラと呼ばれるようになったナヨンは、ヘソンが自分のことを探していることを見つける。すぐに昔のように打ち解ける二人。毎日PCの画面越しにデートを重ねる日々が始まった。

が、またも二人に試練が訪れる。ニューヨークで暮らすノラはヘソンに「いつNYに来るの?」と言い、ヘソンはノラにソウルに来てほしいと言う。しかしお互いこれから社会へ飛び立とうとする時期で、将来の夢を放り出して相手の元へ駆け込むほど覚悟はできていなかった。

「しばらく連絡するのはやめましょう」とノラが言い、「じゃあ一年後に」とヘソンは応えた。しかし「一年後」はうやむやになり、二人は別のパートナーとの生活を始めた。

幸運の女神には前髪しかないと言う。ノラはアーサーという白人男性と結婚した。一方でヘソンは付き合っていた女性と破局し、NYにいるノラに会いにやって来る。

ノラとアーサーは作家である。芸術肌で洗練された街に住み、身なりも暮らしぶりもクール。進歩的な夫婦だから、ノラはアーサーにヘソンについてすべてを隠すことなく話し、ヘソンの訪問を堂々と受け入れる。

初めてNYへ来たヘソンは落ち着かない様子でノラを待つ。ノラは満面の笑顔でヘソンを迎え、歓迎のハグをする。二人はNYの街を歩き回りながら、昔と同じように仲睦まじい時を過ごす。

一日目の夜、自宅に戻ったノラはアーサーに告げる。「あなたの言ったとおりだったわ。彼は私に会いに来た」

いくら進歩的と言っても、幼なじみの初恋のひとに会うと言われて心中穏やかでいられる人はそうはいない。アーサーはノラに事前に忠告していたのだ。

それでもノラは翌日以降もヘソンのNY観光に同行した。時折ヘソンが見せる明らかに未練がある表情にノラが気付かないわけはなかった。

最後の晩、ノラはヘソンをアーサーに会わせる。それは、今の自分を克明なまでに見せつけてヘソンに諦めさせようとしたかのようであった。

しかし最後に、ノラがヘソンを見送った後に大きなどんでん返しが訪れる。

心が揺らいでいたのはノラも同じだったのだ。

メリーゴーラウンドの前で口にした言葉。「12年前は子供だった」「でも今は大人になった」。まったくそんなことはなかった。

「昔のナヨンはもういないんじゃない。あなたの中に置いていったの」

生きていく中で様々な選択をしてきた。それらは決して間違いではなかった。でも何でこんな気持ちになるのだろう。

折り合いをつけなければ。私は大人なんだから。そうして生まれたのが、劇中で何度も出てくる前世の話である。

この世で関わりを持つひと、例えば体がぶつかるとか。そういう人とは前世(パストライブス?)でも繋がりがあったということなのだとノラは言う。それは、好きだという気持ちを懸命に抑えるための方便のように聞こえる。

しかし、そのすべてはラストで崩壊する。アーサーの前で泣き崩れるノラ。この二人が、失意を胸に帰国したヘソン以上に辛い思いを抱く結果に至ったのは皮肉であり残酷であった。

人によっては、ノラの心情や行動にシンパシーを感じられないという人がいるかもしれない。しかし、盛り上がる気持ちのままに振る舞って一線を越えてしまうドラマティックな恋愛と一線を画し、とことん理性と折り合いを付けようと寸止めを続ける三人の物語は、新鮮で興味深く見応えがあった。

(90点)※4月13日23時30分投稿
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「オッペンハイマー」

2024年04月07日 09時04分38秒 | 映画(2024)
天才が背負う責任。


来年は昭和100年だという。最近の昭和ブームは高度経済成長からバブルに至るまでの、いわば昭和後半を対象としているが、何よりも昭和を象徴するできごとであり、わが国全体の大きな転換点となったのが昭和20年の敗戦であったことは言うまでもない。

日独伊の三国同盟で連合軍に立ち向かい、他国が陥落する中で最後まで戦いを諦めずにいた結果として、広島と長崎に原子爆弾を投下され、わが国は今でも続く世界唯一の被爆国となった。

その歴史から、世界のどの国よりも原爆に対して強い思いを持つわが国において、本作の扱いに様々な意見が出たことは当然である。

作品の中身を見ずに公開に反対するなんて、という声も聞かれた(私も同感である)が、そのような思いを抱く人がいるということは理解できる。

本作は、わが国を除く世界では昨年の夏に公開され空前のヒットを記録した。先ごろ発表になったアカデミー賞でも主要部門を多数獲得し、そうした実績を引っ提げて、ようやくわが国でも公開されることになった。

結果的には良かったのかもしれない。公開の是非を巡る議論が沸騰していたころから作品の存在は広く認知され、今回の公開はIMAX等のフォーマットを網羅する大規模なものとなった。我々は巨匠C.ノーラン監督がこの問題をどう捉えたのかを鑑賞し、冷静に向き合うチャンスを与えられたのである。

上映時間が長いという話は聞いていた。オッペンハイマー博士の人生について、原子爆弾を開発し広島・長崎で使用するまでの上り坂と、その後思想の変化を伴いながら没落していく下り坂の両方を描くということも、前情報として知っていた。

実際に観てみると、前半と後半は想像以上にすべてが異なっていた。まるで2つの違う映画を観るようであった。

後半でメインとなるオッペンハイマー博士の聴聞会、ストローズ議員の公聴会の場面は前半にも登場するが、前半は基本的にその聴聞会で博士が語る過去の経緯が主となる出世物語である。

前半はとにかく勢いがある。天才故というのだろうか、道徳からかけ離れた行為を数多くやらかしながらも、それを力ずくでねじ伏せるべく成果を上げていく。理論の内容などはこちらの頭には入ってこなくて何を言っているのか分からない場面が多いが、あれやこれやしながら、彼の名はやがて世界政治の舞台に届くこととなる。

米国軍の将校から、原爆製造の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」への参画を持ちかけられた博士。もともと研究の傍らに取り組む組合活動にも熱心だった彼は、自分の研究が国の役に立つなら、もっと言えば、自分こそがドイツに打ち勝つための最重要人物であるというほどの気概で原爆開発に身を捧げることを決断する。

科学と政治の付き合い方は難しい。学問は政治から切り離されるべきだという正論は述べつつも、政府からの交付金がなければ研究は続けられないし、政府としても限りある予算の使い道として公のためになることを説明できなければ資金を与えることができない。

軍事利用を禁止すべきだと言っても、どこで線引きをするのか、違う目的で進めていた研究を他者が軍事に転用する可能性はないのか、簡単には整理できない。

その中でひとつ分かることがある。それは餅は餅屋だということ。

博士が少なからず政治的な意図をもって原爆の開発に当たったことが、世界の歴史と、博士自身の人生を変えてしまったような気がした。

特にドイツが降伏した後、何故開発を続けたのか、そして広島・長崎に原爆を投下したのか。今も一部のアメリカ人は、原爆投下こそが戦争を早く終わらせて多くの人の命を救ったのだと主張するが、それは絶対に間違いである。

原爆投下の予行演習であった核実験の成功をもって前半は終わる。広島・長崎への実際の投下はニュースの音声として流れ、映画は後半の聴聞会と公聴会へと移る。

世の中は、原子爆弾から更に強い水素爆弾への移行を目指していた。その中心となっていたのがストローズであり、彼はこの功績をもって重要閣僚に成り上がろうとする野心的な政治家であった。

ストローズは天才・オッペンハイマー博士を新たな研究所の所長に招へいしたが、博士はそのころ既に宗旨替えをしており、ストローズと博士はことごとく対立することとなる。

立身出世の物語が一転して法廷モノのような空気に変わる(裁判ではないと口酸っぱく言われるが)。大音量と激しい動きがあった前半と正反対の「静」の空間へと変わる。

劇中では、アインシュタイン博士に「人はどこかで業績に向き合うときが来る」というようなことを言わせている。原子爆弾の開発と投下は、ひとりの人間が引き受けるにはあまりにも大きい事象であった。事実かどうかはともかく、劇中のオッペンハイマー博士は良心の呵責に苛まれ、一時的にその地位を失う憂き目に遭う。

時とともに人心が移ろう様子も克明に描かれる。原爆投下直後には地鳴りのような大きな歓声で博士を称賛した人たちが一転してオッペンハイマーに懐疑的な目を向ける。一時の勢いに乗って物事を決めることがなんて恐ろしいことか。情報が瞬時に世界を行き来する現代だからこそ肝に銘じたい。

聴聞会はストローズの謀略のためか非公開で進められた。そのため事実かどうかは分からないのだが、オッペンハイマー博士を追求する弁護人が広島・長崎の原爆でどの程度被害が出ると予想していたのかについて強く詰め寄る場面があった。博士はあまりにも大きな被害が出たから宗旨替えをしたと言ったのだが、では何人ならば良いとなるのかということである。

当然博士は返答に詰まる。ブレているのである。あれだけのことをやっておいて、今更きれいごとの世界に逃げようとしたってそれは許されないでしょう?

この映画はオッペンハイマー博士を否定はしない。多くの間違いを犯すひとりの人間として描いている。ただ彼は天才だったため、その間違いが世界や多くの人の人生を変えてしまったという事実を語っている。

最後は博士だけでなく、ストローズも痛手を被る。しかし、この一連の原爆開発で最大の被害を受けたのは世界中のすべての人である。80年経った現代においても、どこかで狂人が現れて核のボタンを押すことがないようにと願うことしかできなくなってしまったのだから。

(80点)
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「ゴーストバスターズ/フローズンサマー」

2024年04月05日 23時42分16秒 | 映画(2024)
これで、もとどおり。


前作の「ゴーストバスターズ/アフターライフ」がそれなりにヒットしたことにより同じメンバーで作られることになった続篇。ただ今回、J.ライトマンは監督から退き、共同で脚本を執筆したG.キーナンが担っている(二人での脚本は変わらず)。

「アフターライフ」はこれまでのゴーストバスターズとは一線を画す作品であった。シリーズの真骨頂と言える「ゴースト」と「コメディ」が鳴りを潜め、代わりに前面に押し出されていたのは、初代ゴーストバスターズの頭脳であったイゴン博士の家族を中心とした人間ドラマであった。

良く練られたドラマに加えて、B.マーレイD.エイクロイドといったレジェンドバスターズが久々にそろい踏みするという豪華さも手伝ってのヒットだったのだと思う。

約3年の月日が経ち、スペングラー一家はニューヨークへと転居し、新生ゴーストバスターズとして日々奮闘していた。M.グレイス演じる孫娘のフィービーは15歳となり、大人の美しさを醸し出す眩しい女性へと成長していたが、いかんせん未成年であることが問題となり、市長からゴーストバスターズとしての活動を禁じられてしまう。

納得がいかないフィービーは、ふとしたことで出会ったゴーストのメロディと仲良くなるが、メロディの後ろに世界を滅ぼそうとする邪神の影があることには気付いていなかった。

というわけで、基本的には前作と同様に話の中心はフィービーであり、思春期を迎えた彼女の複雑な感情が問題を引き起こす。実の母親が手を焼く中で、前作で急接近してどうやら結婚したらしい義父を含めて、新しいスペングラー一家の絆が描かれる。

並行してレジェンドバスターズも今回は序盤から登場して、かつての友情だけでなく、正しいリタイア後(ゴールデンイヤーズ)の生き方を模索する様子にスポットが当たる。

ただ、いずれのドラマも前作から連なる軸での物語であり、もうひとつ跳ねた感じがしなかったのが正直なところ。レジェンドたちも、前作で溜めて溜めてクライマックスで満を持して登場、という流れに比べると、新鮮さや爆発力で劣ってしまっていた。

作り手はその辺りを分かっていたのだろう。今回はゴーストにかなり比重が置かれており、最大の敵である邪神のガラッカに加えて、非生命体を移動するゴースト、前作に引き続いて登場のミニマシュマロマン、旧シリーズで出てきていた食いしん坊のゴーストなど、個性豊かなゴーストが全編を通して画面中を飛び回っていた。

ニューヨークに舞台を移したことを含めて、これをもってゴーストバスターズが帰ってきたということになるのだろう。世界の危機を救い大勢の市民からの喝さいを浴びる様子は、40年前に見た光景。

かつての栄光に戻るのか、新しい時代が始まるのか。M.グレイスが出演するのであれば次作も観ようかな。

(70点)
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「変な家」

2024年03月23日 21時22分34秒 | 映画(2024)
変なのは家だけじゃない。


3月15日に公開されたこの作品は、同日から上映開始の「DUNE PART2」などを押さえて、週末の興行成績トップを記録した。

何よりもタイトルのインパクトが大きい。チラシで無機質な間取り図を見せて、「あなたにはこの異常さがわかりますか?」と問うてくるのも上手い。

ふざけない佐藤二朗、笑わない川栄李奈という配役も新鮮で、これは見たことがないものに会えるかもしれないと思った。

そんな本作の冒頭。現れたのは間宮祥太朗演じるユーチューバー(?)の男性。最近閲覧数を稼げるネタがないと悩んでいるところに商売のパートナーらしき男性がやって来て、新しい部屋を借りようと思ったけど間取りを見た妻に反対されたという話をする。

この時点で浮かんだ小さな疑問符は、映画が進むにつれてどんどん大きくなっていく。

別に動画投稿で日銭を稼ぐ人を差別するつもりはない。共感はしないが。

ただこの作品、全編を通してご都合主義というか、とってつけたような不自然な展開があまりに多くて白けてしまうのである。クライマックスで主人公が銃口を突き付けられてから長時間撃たれないで待っているとか、お屋敷から抜け出したと同時に東京からはるばる来た車が現れるとか。

配役も、ニコニコしない川栄李奈もいいなと思ったけど、二人姉妹の妹役で姉が瀧本美織では、先日まで放映してた「となりのナースエイド」が浮かんできてしまうし、謎の人物が高嶋政伸と分かった瞬間に扮装も含めてコメディと化してしまった。

肝心の家の話も、はじめの部屋の真相を探るまでは良い塩梅の不気味さが漂っていたが、川栄李奈が演じる女性の正体が明らかになってきてからは緊張感が一気に消え去り、前述のとおりコメディと言ってもおかしくない微妙な空気になった。

まあ、お笑いで言えば「出オチ」という種類のものなのだろう。これである程度稼げるのであれば、同じような作品がまた作られ続けることは想像に難くない。

(45点)
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「アーガイル」

2024年03月14日 22時35分14秒 | 映画(2024)
ナウ&ゼン、ノベル&リアル。


ベストセラー作家が執筆したスパイ小説が実際に起きていることと酷似しているとして、本物のスパイに追いかけられるという話。

いくら何でも無理があると思いつつも、作ったのがM.ヴォーン監督と聞けば期待の方が上回る。実際に観ると、はじめから無理と思わず推理していれば気付いたのではないかと思うほどシンプルなからくりであった。

主人公・エリーのもとに突然現れた本物のスパイ・エイダン。彼は、何故か分からないが自分を狙ってやって来る追っ手を次々に退けていく。

立ち位置は自分が小説で書いてきた完璧なスパイ・アーガイルそのものなのに、目の前で奮闘するエイダンは汚いヒゲを生やした中年男性。それでもエリーの目には時々彼の姿がアーガイルに映ってしまう。H.カヴィルがアーガイルを演じるのに対して、エイダンに扮するのはS.ロックウェル。このギャップがおもしろい。

見かけはともかく自分の命を救ってくれたエイダンに信頼を抱きつつある中で突然の裏切りが判明。右も左も分からない異国の地で誰も信じられなくなったエリーに更なるどんでん返しが待ち受ける。

前半から結構なスピードで敵味方や攻守が目まぐるしく入れ替わる。ジェットコースターのよう、というとありふれた表現になるが、観ている側もエリーと同じように何がなんだか分からないうちに先の世界に運ばれていく感覚が心地良い。

しかし中盤で突然大きな謎が明かされ、そこで観客はエリーとお別れし、その後は単独で引っ張り回されることになる。

エリー役のB.ダラス・ハワードは小説家がぴったりハマっていた。途中からある理由で覚醒するのだが、その姿がまったく垢抜けておらず、一般女性が無理なコスプレをしているようにしか見えない点にも感心した。そんなはずないのにダサくもなれてしまう、女優魂の面目躍如といったところか。

そして何よりお楽しみの、「キングスマン」で「不謹慎」と称賛したバトルシーンである。

今回は、もうもうと立ち込めるカラースモークの中で二人の中年男女が踊りながら乱射する場面と、配管から漏れた原油でつるつるになった船室でナイフをアイススケートのブレードに見立ててフィギュアスケーターのごとく敵陣へ突っ込んで行く場面の2つが「振り切って」いた。

心臓の近くの5ミリを撃ち抜くのはさすがにやり過ぎ感があったけど、小道具や伏線などもキレイに配置され、非常に安定して楽しめる娯楽作品であった。ただ、「キングスマン」と繋げる場面があったけど、ユニバースのようにする必要はないと思う。

(80点)
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「アバウトライフ 幸せの選択肢」

2024年03月12日 23時08分29秒 | 映画(2024)
この世界が落ち着かなく感じる自分に気付く。


ミシェルとアレンは付き合ってから結構時間が経過した男女。ミシェルは結婚を望んでいるが、アレンは愛する気持ちに疑いはないが最後の一歩を踏み出すことができないでいる。

友人の結婚式でのできごとがきっかけでケンカした二人は、お互いの実家に戻って、結婚か別離かの選択について真剣に向き合うことにした。一日経って、改めて両親も交えて話をしようと提案するミシェル。そして両家の一同が会する場が設定されたのだが・・・。

舞台用に作られた脚本なのか、全編ほぼミシェルとアレン、彼らの両親の6人だけの会話劇である。6人はいずれも白人。性的嗜好はいずれも男性と女性の間で成り立っていて、女性のミシェルは強い結婚願望を持っている。

決してタイムスリップしているわけではないし、過去に書かれた話という情報もない。まぎれもなく2023年の作品なのだが、ここまでポリコレ要素が見られない作品に遭ったのはひさしぶりで、どこか面食らっている自分に驚いてしまった。

R.ギアS.サランドンW.H.メイシーと、70歳代の名優が元気な姿を見せてくれるのはうれしい(D.キートンは2年ほど前にJ.BieberのMVに出ていた)が、彼らが中心にいることも時代とのズレを意識する要素になっていた。

結婚を前に悩む若い二人の手本となるべき両親たちは、自分の人生が最良の選択だったのか自信が持てず、パートナーではない異性を心のよりどころにする過ちを犯してしまった。

名優たちが四者四様の振る舞いや心の持ちようを演じるところが興味深いが、さすがに70歳代でこの色恋沙汰はないのでは?とも思った(セリフで自分たちの年齢を60歳だと言う場面があったが、もう10歳若ければもっとハマる話になったかもしれない)。

マリッジブルーは女性のものという印象を持っていたせいもあるだろうが、アレンの煮え切らなさもしっくり来なかった。いまどき結婚に踏み切れないのは愛情よりも経済面では?という、これまた最近の由々しき風潮に毒されていることが明確になってしまった。

あとは邦題が良くない。原題から外れるのはともかく、どこかで聞いたようなタイトルではなかなか目に止まらないだろう。最近にしては珍しく温かい映画なのだから、この種の作品を好む層に届くような広報展開をしてほしいところだ。

(65点)
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「落下の解剖学」

2024年03月02日 08時38分21秒 | 映画(2024)
愛と死をみつめて。


昔から法廷劇がおもしろいというのは定番である。そこに、フランス映画でありながら今年度のアカデミー賞に作品賞、監督賞を含む5部門にノミネートという肩書きが加わったら期待せずにはいられない。

作品の外形は、宣伝で大雑把ではあるが知っていた。人里離れた山荘で男性が転落死する。事件か事故か不明のまま妻への疑惑の目が強まっていくが、現場を知る唯一の証人は視覚障害のある幼い息子だけ。

ノミネートされたアカデミー賞の部門には脚本賞も含まれている。難解なミステリーである一方、登場人物の揺れ動く立ち位置や感情が整然と描かれており、出演者の台詞以外に説明がないのにとても分かりやすい。

容疑をかけられる被害者の妻(主人公・サンドラ)がベストセラー作家だということも少しずつ明かされるし、息子・ダニエルの視覚障害もはじめから明確に示されているわけではない。前情報がありながら、転落した父親に遭遇するまでどの程度の障害なのか分からなかったくらいである。

ダニエルが父親の身体を発見し大声で母親を呼ぶ。駆け付けたサンドラは、もはや動かなくなった夫の姿を見て狼狽する。全編を通して検証される対象となる事故(事件?)現場の状況は、極めて俯瞰的・客観的に見せる2~3分のカットにとどまっている。

しかし、この客観的な状況を見ても、明らかにサンドラが容疑者、しかも極めて強いレベルでの疑いを抱かざるを得ない形になっているところが巧い。いかに台詞で家族への愛情や誠実さを語っても、より確からしい筋書きが思い浮かばないのである。主演女優賞にノミネートされたZ.ヒュラーは決して極端な芝居をするわけではないが、その表情や台詞回しで観る側がいかようにも受け取れる人間の多面性を演じてみせている。

「私は彼を殺していない」「そこは重要じゃない」

起訴されたサンドラは、旧知の弁護士・ヴァンサンに弁護を依頼する。かつてサンドラに恋愛感情を持っていたこともあるヴァンサンは、サンドラの罪を疑うわけではないが、明らかに不利な状況の中で問い詰めてくる検察に対し冷静に抗弁していく。

目撃者がいない以上、事実は誰にも分からない。実際に法廷で繰り返される証言も質問も答弁も、すべては話し手の主観に過ぎない。その中で何かしらの決断を下さなければならないとなれば、どちらがもっともらしいことを言えるかにかかっているというわけだ。

わが国では、検察が起訴した事件の有罪率が非常に高いことが知られている。ごく稀に冤罪事件が発生して話題になるが、その数字は99.9%とも言われている。これは検察の能力が高いというよりは、有罪が確実な事案しか起訴しないと言った方が正しい。それはミスを許さない国の風土なのか、裁判にすること自体が非常に重いこととして慎重になっているのか、いずれなのかは分からないが、事実が不明な中で決断を下すことがとても勇気のいることだということは十分理解できる。

サンドラは起訴されるとは思わなかったとこぼす。疑わしいとしても、彼女を容疑者とみなすほどの証拠が見つかったわけでもなかったからだ。しかし、裁判が進むごとに彼女に不利に働く証拠や証言が現れはじめる。

更に気になるのは、現場にいた唯一の証人として出廷を余儀なくされるダニエルのことであった。父親の死の直後はショックで何も口にできずにベッドで泣き続けていた彼は、法廷でこれまで知らなかった両親の姿を赤裸々に知らされることになる。どれだけ傷つくか想像すらできない。

裁判長は、詳細な証言が予想される日の前日に、出廷しないよう勧める。しかしダニエルはその申し入れを断る。そして最終弁論の日、ダニエルは再び証人として証言台に立つことを自ら希望する。

演技賞のノミネートはZ.ヒュラーのみであったが、ダニエル役の子と盲導犬が素晴らしかった。悲哀、困惑、そして決意へと、話の進行とともに成長を遂げていく様子が、ダニエルの大きな瞳から伝わってきた。そして、その彼の思いこそが他のどんな状況証拠よりも雄弁に人の心をつかむのであった。

(ここからネタバレ注)

サンドラは言う。

「負けたらすべてを失っただろうけど、勝っても終わったというだけだった。何か見返りがあると思っていたのに」

無罪を勝ち取っても彼女の名声に傷が付いたことには変わりない。裁判の結果が間違いだとして批判する人も少なからず居続けるだろう。もちろん観客である我々も、結局事実がどうだったかは分からない。

彼女のこれからは、起きてしまったことを受け入れつつ、自分にとって最も大切なものを守り続ける人生になるのだと思う。まあ、その方向性は彼女に限った話ではなく、ごく一般的なものなのだけれど。

(90点)
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「ネクストゴールウィンズ」

2024年02月29日 08時12分13秒 | 映画(2024)
良くも悪くも、てーげー。


なでしこジャパンが2大会ぶりのオリンピック出場権を獲得した真裏でこの作品を観たというのは、水曜日がTOHOシネマズの割引日だったことと、上映時間がちょうど良かったというのが重なったからに過ぎない。

アカデミー賞の発表に合わせるように興味深い作品が最も多く公開されるこの時期だが、最近の映画はとにかく上映時間が長く、平日の夜に観るのはなかなか厳しい。そうした中で、上映時間が104分で内容も明るい娯楽作品は貴重である。加えて安定した品質の作品を届けるSearchlight Picturesの配給ということもあって19時台の回に足を運んだ。

W杯予選史上最大の失点での敗戦という黒歴史を持つ米領サモアのナショナルサッカーチーム。半分諦めにも似た感情に、南国特有のおおらかでのんびりした気質が加わって、選手たちのモチベーションは上がらず、対外試合で1点も取れない不名誉な記録が継続していた。

その空気を何とか変えようと、協会長(といってもご近所の町内会長レベル)が一念発起して米国本土に新コーチの求人を募集。そこにやって来たのがトーマス・ロンゲンであった。

ロンゲンは決して自ら希望して南太平洋のへんぴな土地に来たわけではなく、彼は彼で大きな問題を抱えており、この役職を引き受けない限りサッカー業界から追放されると言われて渋々受け入れたという経緯を持っていた。

いわゆる負け犬同士がめぐり会って化学反応を起こすという非常によくできた話である。しかも「実話に基づいた」という冠が付く。よく今まで映画化されてこなかったとすら思う。

しかし、これは上映時間が短かったためなのだろうか。コーチや選手、協会長など個性があって魅力的なキャラクターを配置した割りには、話の流れがぶつ切りで、コーチと選手の衝突から和解に至る経緯、コーチングによる技術面の上達度合などが伝わってこず、結果的にクライマックスの盛り上がりやカタルシスが中途半端なものになってしまった。

冒頭とラストに登場するT.ワイティティ監督の下りもおすべり気味で、これまでそれほど悪い印象は持っていなかったのだが、今後は少し割引になりそう。

ただ、ロンゲンを巡る話として、娘との関係の描き方は良かった。遠く離れて携帯の電波も入りにくいという状況を見せた後で、娘からの伝言メッセージを聞く場面が何度も流れる。その真相がクライマックスの直前で明らかになるのだが、他の人物もこのくらいきっちり描ければ良かったのにと思う。

失意に堕ちた人がどう再生するか。序盤でロンゲンが米領サモア行きを促される場面で登場する「悲しみの5段階」=否認、怒り、取引、抑うつ、受容。

彼自身もチームも、自分だけでこのステップを上がっていくことは難しかった。お互いに、そして時には別離した妻などの支援を得ながら現状を受け入れて前へ進みはじめる。バランスが良い作品とは言えないけれど、ポジティブなメッセージは伝わってきた。

(65点)
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「マダムウェブ」

2024年02月25日 20時38分27秒 | 映画(2024)
「ミステリー」と言うなかれ。


スーパーヒーロー疲れという言葉が言われるようになってだいぶ経った。昨年は、シリーズの立て直しに踏み切ったDCだけでなく、マーベルにも「大コケ」のレッテルが貼られる作品が登場する事態となってしまった。

そうした中で公開された本作。少しでも新味を出そうと「マーベル初の本格ミステリー」という宣伝文句を謳ってきたが、先に公開された北米から伝わってきたのは、かつてないほどの酷評と、第1週の興行成績で首位を逃すという散々なニュースであった。

ちなみに本作は、マーベル印でもソニーピクチャーズなので、「ヴェノム」「モービウス」の系列である。・・・といっても、そこがまた微妙なところなのだが。

それにしても、もともと観に行く予定ではあったが、あまりの酷評ぶりにはかえって興味をそそられたので、祝日なのを幸いに公開初日に映画館へ足を運んだ。

まず結論であるが、「そこまで酷く言うほどでは・・・」であった。よくある話だが、事前に入手した情報が過剰だとだいたい結果はこうなる。

ツッコミどころは多い。数えればキリがないが、最たるものは主人公が拝借したタクシーを何のおとがめもなく終盤まで乗り回していたところだろうか。

ただ娯楽作品はすべてに正確さや整合性を求めるものではなく、話がおもしろく盛り上がるのであれば多少の間違いや矛盾には目をつぶるのが常道である。要は、観ている側を心地良く作品の世界に丸め込む力量があるかが最大のポイントなのである。

そういう捉え方のもとに考えたときに、この作品はそこまで酷くないと感じた。主人公と敵役のキャラクターと配役は合格点を与えられるし、物語のカギになる3人の少女についても、白黒ラテンと丁寧にポリコレを踏襲した上で、観る側に反感を抱かせない程度のキャラクターに収めていた。

しかし称賛に値するかと言えば、残念ながらそこまではいかないというのも事実である。良くできているけど、新しい驚きが感じられないのである。少なくともこれは「ミステリー」ではない。これをミステリーと言うのであれば、世の中のアクション映画のほとんどがミステリーになってしまう。

作っている側も自信がなかったのだろうか。今回はエンドロール中のおまけ映像がなかった。3人の少女は「キックアス」のヒットガールみたいでかわいかったので、もう一度見てみたい気もしたんだけど。

(70点)
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「ボーはおそれている」

2024年02月18日 18時21分07秒 | 映画(2024)
転がり続ける悪夢。


A24製作、A.アスター監督。後味どころか観ている最中も気分が悪くなる予感しかないが、それでも確かめずにはいられない不思議な魅力の作品を送り続けるユニットである。しかも今回は名優J.フェニックスが主演となれば観ないという選択肢はない。

冒頭、真っ暗な画面の中、遠くの方でかすかに叫び声が聞こえる。案の定不穏な幕開けである。女性が「赤ちゃんはどうした?」というようなことを言ってしばらく問答が続いた後に産声が響く。これは主人公の出生の瞬間だろうか。

場面は切り替わり、J.フェニックス:ボーの登場だ。白髪に覆われた頭にくぼんだ瞳。初老の男性に見えるが、異常にやつれた表情を差し引くともっと若いのかもしれない。彼は疲れた様子でセラピストに、久々の帰省を控えているがいまひとつ気分が乗らないことを打ち明ける。

彼が自宅に帰るところから画面に異常性が現れはじめる。

道端に死体が転がり、狂ったような悲鳴があちらこちらから聞こえる町。全速力で走ってきたボーは、浮浪者の追っ手をすんでのところでかわして建物の中に入る。廃墟のような佇まいの建物には毒グモ注意の貼り紙があり、悲鳴と怒号が鳴りやまない中で彼は束の間の眠りをとる。

隣人からの抗議などでうまく寝付けなかった彼は、結局大きく寝過ごしてしまい、帰省の飛行機に間に合わなくなってしまう。母親に電話をかけ説明するが、いまひとつ納得してもらえない様子。電話を切ると、家に水がないことに気が付く。向かいのドラッグストアに買いに行った間に浮浪者たちが自宅を占拠。翌日部屋に戻った彼に届いたのは、母親が不慮の事故で死去したという報せであった。

ひとり息子として母親の葬儀を仕切らなくては。その思いとうらはらにボーは狂った世界を転がり続ける。

異常者に刺され、少女にクスリを吸わされ、行動を逐一録画され、なぜかその事実を囁かれ・・・。少女は目の前でペンキを飲み、急に現れた男性が「父親は死んでいない」と言い、戦争帰りの精神病患者が命を狙って襲撃してくる。こうして字面にすると、そのハチャメチャさがより明確になる。

この映画について深く考察しようとしても、何を言っても間違いである気がした。

何かおかしい。違和感がある場面がある。でもそれは必ずしもその後の伏線であるというわけではなく、違和感があって当たり前。この映画は全編を通して悪夢なのだから。それすら間違いなのだろうけど、たぶん一度の鑑賞ではとても頭が追い付かない。

ボーは家に戻ってくる。そこで待っているのは過去との対峙という悪夢である。

ボーの母親は名高い経営者であった。葬儀会場となった自宅の部屋には会社の歴史が綴られており、母親の業績とともに会社のプロジェクトに協力したらしいボーの写真も数枚飾られていた。

浮かび上がるのは、明らかに異常な母親との関係性。本当の話かは分からないが、父親の血筋にある身体の異常から母親は神経質になり、ボーに歪んだ子育てをしたと理論を積み重ねると合点がいく。

母親の死、途中で起きる事件・事故、ボーが野外劇場で目の当たりにする自分を主人公にした物語。いずれも真実であり、夢でもある。身の回りのことが本当に起きていることなのかどうか、判断するのは自分の頭でしかないとすれば、つじつまの合わない悪夢だって真実である。

重要なのは本当に起きていることなのかどうかではなくて、真実であろうが夢であろうが、それをどう捉えて生きていくかであり、できなくなったとき、許容限度を超えてしまった瞬間に、それは破裂してしまうのである。

本作を観る前日に、外食のお店の隣に座った女性客が鑑賞中ずっと心地悪かったという話をしているのを聞いて、かなり身構えていたのだが、これまでのA.アスター作品に比べると嫌悪感は軽かった気がする。父親の正体には度肝を抜かれたが。

(75点)
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