Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「メイズランナー」

2015年05月31日 14時17分04秒 | 映画(2015)
変革か秩序か。


いきなり理不尽な状況に放り込まれた人間が、生き延びるためにどう振る舞うか。

背後に巨大な組織があって統制・監視されているという構図は、古くは「トゥルーマンショー」あたりを思い出すが、最近は「ハンガーゲーム」のように、監視される側を集団にしてその内部の抗争を複層のドラマとして描く作品が増えている。

本作の特徴は、各人が一つの目標に向かって争うのではなく、同じ環境で暮らしながらいつしか向かう方向を異にしている点にある。

話は飛ぶが、ここで思い出すのが、先日の大阪都構想に関する住民投票である。

非常にざっくりと言えば、現状維持を望むミナミの高齢者層が、改革を期待したキタの現役・若年層を上回ったという切り口で報道されている。もっと細かい分析はあるだろうが、この見立てはそう大きく外れてはいないと思う。

思い返せば、世の中は常に変革の繰り返しである。正確には、変革をしようとしてきた繰り返しと言おうか。

ただ本当に変わるということは難しい。"Yes, we can."と言って大統領になった人がchangeできたことが果たして何かあったか。わが国では、もっと悲惨な結果を生んだ政権交代があった。

そういった意味で、迷路の中心の広場で生活を続けるうちに、脱出よりも平穏を望むようになった人たちの気持ちはよく分かる。

主人公であるトーマスが現れた途端に平穏な生活が突然終わりを告げたのは事実だから、守旧派のリーダーであるギャリーの矛先がトーマスへ向かうのも当然だ。

しかしそれでは映画が成り立たないところも仕方がない。

トーマスは、多くの仲間を犠牲にしながらも眼前に現れるクリーチャーを撃墜し、迷路を脱出し陰謀の秘密の一端を知ることとなる。

三部作の第1作ということだが、続篇が舞台を変えただけで同じような話の繰り返しにならないことを期待する。脱出とクリーチャーとの戦いに関しては特段の見どころがなかったから。

(65点)
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「イニシエーションラブ」

2015年05月31日 13時48分56秒 | 映画(2015)
AB間のまちがいさがし。


堤幸彦監督は策士だ。

これはおもしろい、大満足したという記憶はないのだが、予告・宣伝を見るとどうも気になってしまう。

最後の5分ですべてが覆る。原作とは違うエンディング。あなたは必ず2回観る。と煽るだけ煽った本作。

正確には、「150万人が騙された」という言葉に騙されたと言っていい。ただしそれは必ずしも悪い意味ではない。

もともと宣伝で「騙される」予告をしている以上、観る側はどこにタネがあるかを探りながら話を追うことになる。

そうしていると、ところどころに分かりやすいように引っ掛かるポイントが現れるのだ。

まず冒頭から、予告や宣伝にまったく出てきていない男性が出てきて語り始めるところで違和感を覚えるのだが、彼が「たっくん」と呼ばれる経緯の不自然さでその感覚は更に強くなる。

ただ、物語の構成をカセットテープのA面・B面になぞらえる妙手で切り替わりのテンポが潔いために、最大の違和感である「鈴木」の違いに決定的な判断を下すタイミングを失ったまま最後の5分へなだれ込む。

だから、どんでん返しの感想は、「そうだったのか」と「やっぱり」が半々であり、気付かなかった違和感がまだあるんじゃないかと、確かに「2回観たくなる」作品となっているのである。

本作の主役である繭子は、A面では「鈴木」に対して上位に立ち、言動と行動で魅了する。見事なまでのぶりっこは完全に悪女なのだが、かわいさに翻弄される男の性は悲しいほど理解できる。

それがB面では力関係が一転して、繭子は遠距離恋愛に耐え忍ぶ女性として描かれる。悪女と無縁の姿は、どちらが本当の彼女なのかと混乱しそうになるが、なんのことはない。人間は誰しも二面性を持っているのだ。

それは付き合う相手によって変わる場合もあれば、自らが確信して違う性格を出現させる場合もある。

繭子は生来の悪女だったのか。いや、辛い経験や記憶から自分を守るためにスイッチを切り換えたのだと捉えたのだが、やっぱりそれは男の甘い考えなのかもしれない。

繭子役の前田敦子。AKB48時代から先頭で世間の賞賛と非難を一身に浴びてきた彼女だからこそこの変わり身の役がハマる。

「鈴木」Bが言うように、木村文乃の方が洗練された魅力を持つ女性であることに疑いはないが、まったく別のオーラを発信する前田敦子のために本作は作られたと言っても過言ではない。

(80点)
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「イミテーションゲーム エニグマと天才数学者の秘密」

2015年05月24日 20時21分32秒 | 映画(2015)
天才は秘密に存在してこそ花が咲く。


これが事実に基づいた物語というのだからすごい。50年以上の時間を経て開放された第2次世界大戦中の驚くべき秘密。

英国の天才数学者がドイツ軍の暗号システムを打ち破り、連合国側の勝利に大きく貢献したというのが表の事実だが、問題はその裏だ。

暗号解読が敵側に知れれば新しいシステムに換えられてしまうということで、解読の事実自体が極秘事項となったのである。

すべての通信に反応するのではなく、読み取った通信文書を選り分けるという作業。それは、機密保持のためにはある程度の国民の犠牲は致し方ないという判断に結び付く。

通信文の解析で国民が命の危機にさらされている事実を知る。いま知らせれば、その人の命は確実に救える。しかし、その結果として敵側が暗号システムを変更すれば、その先の何千、何万もの命に影響が及ぶかもしれない。

国として、組織として、英国はこの冷酷ともいえる秘密を貫き通したことで大戦を勝利した。しかし、その裏で国民の命が国によって選別され、死なずに済んだかもしれない人が死んだのである。

改めて国とは何なのかと考えてみる。

国は、国の政府は、国民の最大利益を追求することが責務である。最大利益とは必ずしも全員の利益ではない。時には切り捨てが必要となる。

しかしそんなこと表向きには絶対言えることではない。この秘密がもし戦時中に漏れていたとしたら、とてつもなく大きな批判を浴びていたことだろう。

わが国でも秘密保持法が問題となった。国益にかなうとの理由で秘密裏に何をされるか分からないと言えば確かにそのとおりである。

ただ、判断が分かれる複雑な話は、秘密を解いたところで解決できるものではない。むしろ生じるのは混沌と停滞が関の山であろう。

主人公のアラン・チューリング教授は、自分の才能のすべてを注いでこの任務を遂行する。しかし人間には情がある。どんなに合理化を進めてもどこかに残る感情はどこへ行くのか。

映画は、アランの少年時代、任務に当たっている時代、数年後の暮らしの3時代を行き交う。脚色や設定が巧みなため(もちろん演者の演技も)か、何の解説がなくとも混乱せずにすんなり話に入っていける。

過去では、天才故のいじめと、ただ一人理解してくれた友達クリストファーへの複雑な感情。戦後では、謎に包まれた独りの暮らし。それぞれの時代に一つずつ秘密を仕込んで、同時進行で次第に明らかになるアランの真実。

天才は一人では天才たり得ない。才能を目覚めさせたクリストファー、開花させた同僚のジョーンたち。暗号解読までであれば美しい成功物語である。

しかし作品は、残酷なその後にもスポットを当てる。自らが開発した暗号解読機「クリストファー」と暮らし、更なる開発に心血を注ぐ日々。

同性へのわいせつ容疑で捕らえられたアランが刑事に問い質す。「自分は機械か人間か」。

利用され翻弄され続けた戦時は過酷だったが、それでも人間的で生きる意味があった。晩年のアランは、天才故ではなく同性愛者として苦痛を被った。そして新しい理解者が現れることはなかった。

かくして天才は国によって消費された。国益に最もかなう形で。

(90点)
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「脳内ポイズンベリー」

2015年05月23日 00時23分45秒 | 映画(2015)
求められるのは理性のリーダーシップ。


ピクサーの「インサイドヘッド」の公開は2か月先。頭の中という同じような題材を「あたまハネ」して製作したのかと思ったが、どうやら本作には原作があるらしい。

向こうが「喜び」「悲しみ」「怒り」といった感情をキャラクター化しているのに対して、こちらは「ポジティブ」「ネガティブ」「理性」「衝動」「記憶」と、行動に結び付く意識に焦点を当てている。

しかもそれぞれを人間が演じて名前までついている。議長の「理性」担当は「吉田」という名前で、大人のメガネ男子であり、性格は優柔不断というように、表の看板以外の属性が複層的に備わっているのである。

属性の質がことごとく違う5人が、主人公である櫻井いちこの行動を決める会議を進行しようというのだから、一筋縄でいくはずがない。

「頭の中がパニックになって~」というのはまさにそういう状態のことで、例えとしてはすんなり入ってくる(頭の中が真っ白に~」と言うとまったく違ってしまうが)。

いちこが30歳になっても自分の立ち位置を見定められずにいるのは、この脳内会議がうまく機能していないからにほかならない。

会議がうまくいかないのは議長が仕切り下手だからである。酷いときには限界だと言って議長職を放棄してしまうのだからどうしようもない。そんなときは、突然現れた超自我によってやけくそな決断に至ってしまうのである。

誰もが「理性」を議長にしているわけではないかもしれないが、理性が全体をコントロールすれば安定するという組み立ては納得する。だから自分の中の「理性」が真理に気付く瞬間がいちこの成長へ投影されているわけだ。

脳内会議はいわば密室ものとして展開するが、個性あふれる役者陣の丁々発止によって中だるみすることなく進行する。「衝動」の桜田ひよりがかわいい。

現実世界では、真木よう子が冒頭の胸元アップから一貫して、柔らかく線の細い女性を演じている。これまで気の強い役が多い印象があっただけに新鮮だ。

全体的に気軽に楽しめる作品に仕上がっているが、「あなたを好きだけど、あなたと一緒にいる私が嫌い」という別れの言葉は深く秀逸だ。

(75点)
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「ゼロの未来」

2015年05月23日 00時10分05秒 | 映画(2015)
脳内ポイズンクリープ。


時代も場所も特定できない。ひょっとすると、見かけだけ人間で人ではないのかもしれない。

そんな舞台を用意してくる映画が時々あるが、こういう作品を作る監督って頭の中が多次元になってるんだろうなと思う。

主人公のコーエンは、何やら分からないゼロの定理を研究する傍らで、人生の意味を教えてくれる1本の電話をひたすら待っている。

読み取ろうとすること自体が無理もしくは意味があまりないことなのかもしれないが、普遍的な人生に置き換えて見ることができなくない。

答えのない問題を追い求める滑稽さ。存在しないものを待ち続ける哀れさ。

時々やりきれなくなって雑念に身を委ねる。うまくいかなくなって何もかも投げ出してしまいたくなるけど、頭を切り替えることで救われることもある。

いわゆる近未来風の混沌とした風景に、幸せとは程遠い物語が続くので、少しずつ気が滅入ってくるが、その分夕暮れの浜辺に癒やされる。

彼女もいない、未来も見えない、それでもこれまででいちばん平穏なコーエンの姿に癒やされる。

劇中で効果的に使われるのがRadioheadの名曲"Creep"。

女性ボーカルで雰囲気もまったく違ったので最後の最後でようやく気付いたのだが、コーエンの人生はまさに芋虫だ。

ただもちろん、幸せになれる芋虫だっているのだ。

(70点)
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「ビリギャル」

2015年05月06日 04時59分23秒 | 映画(2015)
さわやかな青春を過ごせた幸運。


わが国の教育は問題だらけ、などと社会問題を取り上げる作品ではない。

大学に入ること自体を目的にするっておかしくないか?と突き詰めるのもどこか違う。

これは、さやかという少女の目覚めと成長の物語であって、大学受験はたまたまその手段であったに過ぎない。

全体的に話ができ過ぎに感じるが、彼女が猛勉強して慶応大学に現役合格したという事実が何より強いので、大きな問題にはならない。

ポイントは、さやかはギャルではあったが不良ではなかったということだろうか。

やりたいことをさせてきたという母親の愛情、思いやりに長けた友達や塾の講師との出会い、一見無為な時間を過ごしてきたかに見える中でさやかは着実に健やかに成長していた。あとは、いわゆるやる気スイッチを入れるだけ。

うちの子供にもそういう出会いや目覚めが訪れないものかとありきたりな感想を抱く。それを見つけてやるのが親の仕事ではないかとも思うが、親ができるのは環境づくりまで。信じて待つのが基本である。

有村架純の無敵のかわいさも手伝って話としては完璧である。重ねて書くが、おそらく演出を加えたでき過ぎになっている。

でも、それはさやかの努力の正当性を削ぐものではないし、大学入学後に待ち受ける新しい困難にも彼女ならきっと立ち向かっていけるという、前向きな印象を持ったことも決してミスリードではないはずだ。

(70点)
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「セッション」

2015年05月05日 09時44分15秒 | 映画(2015)
私が直す。私が壊す。


世代が知れる話だが、スパルタといってまず思い出されるのが戸塚ヨットスクールである。昭和の時代は、運動部は水も飲まずに過酷な練習に取り組むのが当たり前であったが、犠牲者が出たヨットスクールの事件が行き過ぎた指導として捉えられるようになり、ここから体育会系のノリが少しずつ修正されはじめた印象を持っている。

しかし、主流ではなくなったもののヨットスクールは現在も存在し、その教育方針を支持する一定の層が存在していることも事実だ。苦しみを乗り越えて初めて得られるものがあるとする理論が100%間違っていると言うことはできない。

本作の舞台は名門音楽大学。その中でもトップの技量を持つ者しか所属できないジャズバンドがあった。

ドラムを専攻する新入生のニーマンは、そのバンドを率いるカリスマ的存在のフレッチャー教授からスカウトされ、意気揚々とバンドへと乗り込む。しかし、そこは想像を絶するスパルタの海であった。

寸分のピッチのズレやテンポの乱れも許さない。少しでも気を抜けば、人間性を根本から否定するような叱責の言葉を浴びせられ、更にはビンタや物が飛んでくる。

フレッチャーは、かつてのジャズの名手チャーリー・パーカーのエピソードを挙げて自らの指導の正当性を説く。彼の実力と実績は誰も疑いを挟む余地がないから、学生は歯を食いしばってついていくしかない。

しかし次第に精神に異常を来していくニーマン。仲良くなりかけた彼女に突然別れを告げ、親族との食事会で周りに悪態をつく。

芸事を極めるためには無駄なものはすべて切り捨てるべきというフレッチャーの理想は、正しいか正しくないかでは測れない。それは、ある意味では正しく、違う意味では正しくないから。

ニーマンの技量は確実に向上する。しかし、フレッチャーの中に根付く異常性が物語をあらぬ方向へと大きく揺り動かしていく。

競争相手をあてがってやる気を刺激するという発想に悪意はないが、付随する言葉に期待や愛情が微塵も感じられない。むしろ憎悪と悪意がニーマンを少しずつ追い詰め、異常な関係の終わりを告げる事故の場面へ繋がっていく。

ただ、これで終わらないのが本作の凄いところで、もうひとつの残酷なシナリオが待ち受けている。あまりの仕打ちに、当事者でもないのに座席に押し付けられるような圧迫感と居心地の悪い汗が流れるのを感じた。

圧倒的な存在感で迫るJ.K.シモンズが納得のオスカー戴冠。狂気の場面はもちろん、バーのピアノ演奏や知り合いの子供を相手にしたときの普通の人間ぶりが、この話の鋭さを一層際立たせる。

圧力を全面に受けて立つM.テラーの熱演も特筆モノだ。異常には異常で立ち向かわなければ生きられない。最後の圧巻の演奏は新たな狂気の始まりでもあるが、力を出し切っての一発締めは爽快の一言に尽きる。

音楽を素材にしたこの素晴らしい映画を、オープンしたばかりのTOHOシネマズ新宿で観られたのは幸運だった。

(95点)
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「フォーカス」

2015年05月04日 23時09分47秒 | 映画(2015)
観たという記憶が盗まれる。


「今度のウィル・スミスは天才詐欺師」という予告篇の言葉を聞いて、これはキムタクのドラマか?と思った。

口が悪い人に「何をやってもキムタクにしか見えない」と言われる木村拓哉。公正に言えば、彼の存在感に演じる役柄が追い付いていないのが問題なのである。

そこで今回のW.スミスだが、作品自体が軽量級ということでは、確かにこの扱いがきれいに当てはまる。

更に言えば、軽さの質に関しても、テンポが良いとか楽しくなってくるとかの類ではなく、存在感が薄く心に響いてくるものがないと表現する方がしっくり来る。

最も気になったのは、物語の核となる騙しの部分である。

天才詐欺師・ニッキーは、スポーツなどの大きなイベントに照準を合わせ、チームを編成し綿密に練り込んだ作戦を実行していく。あるきっかけで知り合った女性・ジェスを見習いとしてチームに引き込むが、彼女のお手並み拝見となった集団路上スリの連係プレイの場面は、視線が付いていかないほどするすると流れていく。

しかし、中盤のヤマ場である東洋人大富豪とのギャンブル対決、後半のモーターレース界を舞台にした駆け引きは、普段緻密を是とする天才にしては計画が大雑把に過ぎないかと思った。

急所を外して撃つって、既にプランBあるいはCの選択肢なのかもしれないが、成功確率はどのくらいなのだろう。

天才が大博打に打って出るほど事が大きかったと言いたいのは分からないではないが、こじれた原因と思しきニッキーとジェスの関係がすんなり理解できないことも終盤の盛り上がりを阻害している。

東洋人大富豪をやり込めた後にニッキーが去って行くのが唐突過ぎて、ジェス同様に観ている側が呆然となるし、再会したらしたで未練たらたらな様子を見ると、ますますニッキーの感情と行動が理解できなくなる。

そうなると唯一確実な情報である「天才詐欺師」を拠りどころに、結局ニッキーは上手くトリックを使って生き延びるのだろうという点だけが残り、どんでん返しがあっても驚かないという残念な構図になってしまうのである。

北米興行で微妙な成績、本邦ではTOHOシネマズでの公開はなしという事実も推して知るべしか。

(50点)
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「寄生獣 完結編」

2015年05月04日 14時50分10秒 | 映画(2015)
神の右手、悪魔の右手。


前後篇という構成は諸刃の剣である。特に前篇を観て期待が膨らめば膨らむほど、後篇はよほど巧く収めなければ却って不満が溜まることになりかねない。

本作の前篇は、侵略者の登場から新一の覚醒までを見応え十分に描くとともに、新たな闘いの種を方々に蒔いて期待値を高めた。

それを受けての後篇であるが、相変わらず話はよくできている。

侵略者は、人間という食糧を絶やさぬように体よく社会の支配者にならんという意識で、人間の社会的行動を模するようになるのだが、皮肉なことにまさに人間が辿る破滅の道に陥っていく。

市役所の内ゲバは分かりやすい端的な例だが、田宮良子は子供を持ったことで人間の感情を芽生えさせてしまい、最期は最も人間らしい選択をとる。

様々な場面で侵略者たちが口にする。この不条理はすべて人間が生み出したものであると。

寄生獣とは人間のこと。姿かたちこそ違うが、侵略者は人間の鏡に過ぎないということなのだろう。

人間は単独では弱い存在だが集団になると別の生き物になると、田宮良子が言った。

実際、後篇で目立ったのは人間の強さであった。

特殊部隊を統制して市役所内に巣食う侵略者を駆除する人間。愛する娘を殺されて、侵略者に敢然と立ち向かう人間。

誰かと繋がって強い意識を持つことで人は本来持っている以上の力を出せるが、使い道を誤るとそれは破滅へ行き着くものでもある。

人間は弱い。弱くて強い。人間は間違う。それでも生きていく。誰かのために。

田宮良子は独学で人間を学んだが、ミギーは生身の人間である新一と共生することで、より良く実践的に学んだと言えよう。

話がよくできていた一方で、蒔かれた種であるキャラクターについては、時間的に掘り下げが難しかったようである。

前篇から出ている田宮良子に比べて、最強の敵となる後藤、侵略者の表向きのトップに君臨する広川などは、物語を動かす立場である割に出番自体が少ないし、ピエール瀧演じる三木に至ってはまさかの・・・であった。

加えて残念だったのは最後の下り。ミギーのオチをつける意味では仕方ない展開ではあるが、とってつけたようにあの男を登場させる以外に方法はなかったのだろうか。

それでも、特殊技術に関しては見事の一言で、特に対後藤の決着は作り込みが際立っていた。先日のテレビ放映版ではグロい描写が相当カットされていたが、後篇は放映自体できないのではないか。

俳優陣も負けておらず、深津絵理は侵略者に人間の感情が差し込むという難しい表情を絶妙なバランスで演じていた。橋本愛は髪が短けりゃ短いなりの美少女になるのに驚いたし、少しだけ体も張って頑張った。ピエール瀧は・・・これはこれでおいしいのか。

(85点)
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