Con Gas, Sin Hielo

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「フォックスキャッチャー」

2015年03月14日 00時56分34秒 | 映画(2015)
あまりに悲しい空っぽの人生。


マイナースポーツの悲哀はスポーツ先進国の米国にもある話らしい。よく考えれば、五輪が開催されるごとに数十人の金メダリストが生まれる国である。国民の記憶に残る競技者が一部に過ぎないのは十分理解できる。

物語の中心となるのは、1984年ロサンゼルス五輪のレスリングで金メダルを獲得したマーク。しかし米国においてレスリングは知名度が低い。金メダルを獲ったといっても、昼は小さいジムで練習に明け暮れ、夜は古アパートに帰って食べて寝るだけの生活を送っている。

加えて彼には同じ五輪で金メダルに輝いた兄・デイヴがいた。彼は選手としての実績とは別に、優れた指導者・人格者、更には妻と子を持つ優しき家庭人であり、常にマークの上に立ち前を歩く存在であった。

決して表面には出なかったものの、マークの中にしこりのような劣等感があったことは想像に難くない。そこに突然、大富豪のデュポン氏から競技生活を全面的にサポートするというオファーが舞い込んできた。

趣味であるレスリングの振興のために私財を投じるという筋立ては、聞くかぎりは普通にある金持ちの社会活動だが、この行動が3人を深い溝へと落とし込んでいく。

デュポン氏が切望したのは、人として認められることだった。もっとくだけた言い方をすれば友達が欲しかっただけなのかもしれない。

ある時デュポン氏がマークに語った思い出にこんな言葉があった。

「たった一人いた友達に母がお金を渡しているのを見た」

そう、彼は底知れぬ孤独の中にいた。使用人がいたり、外界と社交辞令的に接したりはあっても、大邸宅で繋がりがある人間は母だけ。

それでも莫大な財産を盾に不自由なく人生を送ってきた。彼は思ったのだろう。欲しかったものを手に入れられるかもしれないと。

しかし、財産で人の配置を替えることはできても、蓄積もなく知識もない中で形を繕おうとしても中身が伴わないことは明らかだった。

自分の作ったスピーチをマークに読ませる。自らが冠した大会で優勝する。母親の面前で所属選手に語りかけてみせる。

形を繕おうとすればするほど痛々しさだけが増していく。一時的にでも結果が出なければ張りぼては瓦解する。

大富豪の道楽であればまだ可愛げがあるかもしれないが、残念ながらデュポン氏は必死だった。

ソウル五輪の惨敗後に広報ビデオを見返したデュポン氏は、表情こそ固定したままであったが、何かが明らかに切れた様子が伝わってきた。

デュポン氏を演じたS.カレルはアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。

登場時から放たれる異様なまでのオーラは、直接的には特殊メイクなのだが、その固められた表情とともに、会話の中に刻まれる微妙な長さの間が人の寄せ付けなさを際立たせる。

相手から意に沿わない返答があると、少し間を置いて”Good.”=「いいだろう」と一言発する。

どうみても全然良くない。他の様々な動作の中に、深い溝の奥に澱が溜まって行く不気味さが見事に表現されていた。40歳過ぎて童貞だとこうなってしまう場合もあるわけだ。

マーク役のC.テイタムはある意味そのまま。体は頑強だが、管理や戦略といった気遣いには向かない残念な弟がハマっていた。

逆にデイヴ役のM.ラファロは、体格的にレスラーどうなの?と初めは思ったが、話が進むうちに人間性全般を含めて違和感がなくなっていった。いい配役だった。

事件全体を顧みると、最初の時点でデイヴがデュポン氏の申し入れを受けていれば、ここまでこじれなかったのかもしれないとは思った。孤独を消し去る方法はないだろうが。

(85点)
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