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「ブラッククランズマン」

2019年03月23日 01時11分52秒 | 映画(2019)
憎しみが玄関のドアをノックしている。


ピアノの黒鍵と白鍵は隣り合って完璧なハーモニーを奏でるのに我々は何故そうならないのか。Stevie WonderとPaul McCartneyが歌ってから40年近くが経とうとしているのに、人種間の距離は近付くどころかむしろ遠のいた感すらある。

先日のアカデミー賞で「グリーンブック」が作品賞を受賞した瞬間、S.リー監督は怒りのあまり会場を出て行こうとしたという。

そこまで思い入れのある渾身の作品が、この「ブラッククランズマン」だ。あのKKKに潜入捜査を試みた黒人がいたという信じられない実話をもとに、現代にも通じる差別意識をエンタメ要素を織り交ぜながら描いている。

現代のハリウッドだから当然トランプ大統領を皮肉る場面も多い。各所での発言を聞くかぎりリー監督の思いでもあるのだろう。

しかし全篇を貫いて読み取れるのは、この根深い対立は決して白人が加害者、黒人が被害者という単純な構図ではないということである。

クライマックスに差し掛かろうとする場面でKKKの集会と黒人の集会が交互に映される。

KKKは明らかに作り物と分かる昔の映画で白人が黒人を懲らしめる場面を見て喝采を送る。一方で黒人の集会では老人が過去の不幸な事実を語る。彼が語るのはおそらく事実なのだろう。あまりの悲惨さに聴衆が顔をしかめる。

しかし皮肉なことに両方の集会が行き着く先は同じなのである。KKKが「ホワイトパワー!」と叫べば、黒人たちは「ブラックパワー!」と声を上げる。

これは決して誇張ではない。この映画には、先鋭化した人と比較的穏当な人が黒人白人とも一定の割合で配置されている。おそらくこれは現実の世界に近い。つまり世間には少なからず過激な思想を抱いている人がいて、暴発の危険をはらんでいるということなのである。

主人公・ロンのキャラクターもあって全体的に明るいトーンで描かれているが、この映画が突き付けているのは出口の見えない絶望的な断絶である。不当な歴史があったかどうかではなく、いま存在する憎悪が出発点となり新たな憎悪を生み出しているのだ。

これを見れば「グリーンブック」の世界が大甘に思えるのも仕方がないし、リー監督が怒ることにも理解はできる。ただぼくはおとぎ話としての「グリーンブック」は決して否定はしない。

また本作は素晴らしいと思うが、リー監督の思想にも同意はしない。彼はアカデミー脚色賞のスピーチの最後に「次の選挙では正しいことをしよう」と言った。当然"Do the right thing"に掛けての言葉なのだが、今回の映画を見るかぎり「正しいこと」が何かという問いに対する解答はない。

そもそも選挙で「正しくない」選択を敢えてする人などいない。それぞれがそのときに正しいと思った選択肢に投票し、数が多かった者が勝利するのが選挙というものなのである。

民主主義であれば多数決で方向性が決まり、独裁国家であればある指導者の判断ですべてが動く。自由主義の社会でマイノリティが発言する力を持った結果として、意見が対立したときの先鋭化が激しくなったのだから皮肉と言うほかない。

もっと社会が成熟すれば、その力を協調や融和へ持っていこうという機運が高まるのかもしれないが、どの国を見てもそんな余裕はなさそうである。

ロンが仲良くなった社会活動家のパトリスは、彼が真っ当な思想を持った警察官だと分かっても警察組織を"pig"と敵視し一緒にはなれないと言う。そんな二人が会話する部屋のドアをノックする音が響く。

とっさに銃を構える二人。鍵穴の向こうの光景は、映画が綴ってきた物語以上に深刻な現実社会そのものであった。エンタメ作品の形をとりながら社会問題を正面から投げかける。それも偏りを極力排するバランスが秀でているから脚色賞というのは至極納得である。

(95点)
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