映画少年の青春。
舞台は1950年代。主人公のサミーは両親に連れられて行った映画館で「地上最大のショウ」を観て衝撃を受け、映画の世界にのめり込む。
人は様々で興味を持つものもまったく違う。同じ遺伝子を持っていたとしても親子が同じものにハマるとは限らない。だから親は、子供の隠れた可能性を引き出そうといろいろな体験をさせるのだ。
しかし関心を持ったとしても、よほどのことがない限りそれが生業に直結することはない。サミーの両親は映画に興味を持ったことを素直に喜ぶが、その一方で父は「趣味」はほどほどにするよう諭す。
子供にとっていちばんの人生の師は両親である。エンジニアとしての自信と誇りをもって、アリゾナ、カリフォルニアと転職を繰り返し、上昇志向を実践していく父に対し、母も密かに自分の思いを抱えていた。サミーは撮影した家族映画の編集のときにその思いに気づいてしまう。それは、当時高校生だった彼にとっては衝撃のできごとであった。
好きなことは楽しい。そんな個人の純粋な気持ちだったものが、家族や友人との関係が広く絡んでくることによって変化していく。それは映画に限らず男女の関係だって同じこと。誰もが人生で必ず突き当たる壁であり、そこで一定の妥協をもって割り切るのか、欲望を優先して突き進むのかの選択を迫られるのだ。
もちろんそこに100%の正解はない。どちらの選択を取ろうが一定の後悔が残る。特に自分の思いを優先して突き進んだ場合は、他者、特に自分に近い人たちに対して迷惑をかけてしまう。
進路に迷っていたサミーが、あるきっかけで名匠J.フォード監督と面会する機会を得る。映画を志していることを聞いたフォード監督はこう言う。「なぜ映画の世界に行きたいと思うのか。心がズタズタにされる商売だぞ」。中盤で登場した叔父も、芸術を生業にすることについて同じようなことを言っていた。
外の人は言う。好きなことを仕事にできて楽しいだろうね、うらやましい。しかし実際は決してそんなことはなく、むしろ好きという純粋な気持ちが汚され壊されていく非常にストレスフルな生き方なのかもしれないと思った。
ただ本当に好きな人はそれでも、いかに自分が傷つこうとも進んでいくのだろう。面会を終えて事務所から出てきたサミーの足取りはことのほか軽く、それは青春の通行儀礼を終えて晴れ晴れとした心の内を現したかのようであり印象的であった。
時代背景として印象に強かったのは人種問題である。白人と非白人、男性と女性の問題がクローズアップされることが多いが、ユダヤへの迫害が特にカリフォルニアのような大都市圏で露骨だったということを改めて知った。アリゾナでは誰とも仲良くできて、映画撮影では友人たちを率いていたサミーが一気にヒエラルキーの最下層に位置付けられてしまったのには驚いた。
S.スピルバーグ監督の自伝的作品と言われている本作。今だからこそ、当時の状況や気持ちを冷静に俯瞰して整理できたということなのだろう。生き方は違えど、70代を過ぎてそれなりに良い人生だったと言えるようになっていたいと思った。
(85点)
舞台は1950年代。主人公のサミーは両親に連れられて行った映画館で「地上最大のショウ」を観て衝撃を受け、映画の世界にのめり込む。
人は様々で興味を持つものもまったく違う。同じ遺伝子を持っていたとしても親子が同じものにハマるとは限らない。だから親は、子供の隠れた可能性を引き出そうといろいろな体験をさせるのだ。
しかし関心を持ったとしても、よほどのことがない限りそれが生業に直結することはない。サミーの両親は映画に興味を持ったことを素直に喜ぶが、その一方で父は「趣味」はほどほどにするよう諭す。
子供にとっていちばんの人生の師は両親である。エンジニアとしての自信と誇りをもって、アリゾナ、カリフォルニアと転職を繰り返し、上昇志向を実践していく父に対し、母も密かに自分の思いを抱えていた。サミーは撮影した家族映画の編集のときにその思いに気づいてしまう。それは、当時高校生だった彼にとっては衝撃のできごとであった。
好きなことは楽しい。そんな個人の純粋な気持ちだったものが、家族や友人との関係が広く絡んでくることによって変化していく。それは映画に限らず男女の関係だって同じこと。誰もが人生で必ず突き当たる壁であり、そこで一定の妥協をもって割り切るのか、欲望を優先して突き進むのかの選択を迫られるのだ。
もちろんそこに100%の正解はない。どちらの選択を取ろうが一定の後悔が残る。特に自分の思いを優先して突き進んだ場合は、他者、特に自分に近い人たちに対して迷惑をかけてしまう。
進路に迷っていたサミーが、あるきっかけで名匠J.フォード監督と面会する機会を得る。映画を志していることを聞いたフォード監督はこう言う。「なぜ映画の世界に行きたいと思うのか。心がズタズタにされる商売だぞ」。中盤で登場した叔父も、芸術を生業にすることについて同じようなことを言っていた。
外の人は言う。好きなことを仕事にできて楽しいだろうね、うらやましい。しかし実際は決してそんなことはなく、むしろ好きという純粋な気持ちが汚され壊されていく非常にストレスフルな生き方なのかもしれないと思った。
ただ本当に好きな人はそれでも、いかに自分が傷つこうとも進んでいくのだろう。面会を終えて事務所から出てきたサミーの足取りはことのほか軽く、それは青春の通行儀礼を終えて晴れ晴れとした心の内を現したかのようであり印象的であった。
時代背景として印象に強かったのは人種問題である。白人と非白人、男性と女性の問題がクローズアップされることが多いが、ユダヤへの迫害が特にカリフォルニアのような大都市圏で露骨だったということを改めて知った。アリゾナでは誰とも仲良くできて、映画撮影では友人たちを率いていたサミーが一気にヒエラルキーの最下層に位置付けられてしまったのには驚いた。
S.スピルバーグ監督の自伝的作品と言われている本作。今だからこそ、当時の状況や気持ちを冷静に俯瞰して整理できたということなのだろう。生き方は違えど、70代を過ぎてそれなりに良い人生だったと言えるようになっていたいと思った。
(85点)
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