Con Gas, Sin Hielo

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「プロミシングヤングウーマン」

2021年07月23日 08時14分14秒 | 映画(2021)
誰も幸せにならない正解。


今日開幕する東京五輪2020。開会式直前になって大きく揺れているのは、主要スタッフの過去の発言や動向による辞任・解任問題だ。障害者いじめ、ユダヤ人虐殺の不適切利用と、事象やめぐる事情は違うものの、共通するのは20年以上前のできごとを掘り返されてのごたごたということである。

しかもいずれも明確な犯罪ではない。にも拘らず世の中の風潮は、彼らを社会的に抹殺すべきともとれる攻撃を続けている。これはどうしたものか。

犯罪ではないが、被害者や心を痛めた人たちがいる以上、その人たちの気が済むまで謝罪を続けなければならない。気持ちは分からないではないが、なんかどこかの国で聞いたような主張だ。線引きは誰がどのようにするのか、明確に正しい解答はないだろう。

かつて医療系の大学に通っていたキャシーは、ある事件をきっかけに大学を中退。いまは小さいコーヒーショップの店員として毎日を過ごしている。

前途有望であったはずの人生を投げ捨てるほどの事件。事件の被害者は彼女の親友だったニーナ。キャシー自身は事件と無関係だったが、そのとき何もできなかったことにとてもいたたまれなさを感じていた(このあたりは「おかえりモネ」の設定にも通じる。行動の方向はてんで異なるが)。

将来の道を閉ざしたのはニーナへの贖罪か?店員の仕事の傍らで、夜になると彼女は裏の顔へと変貌する。次のニーナを生まないために。

ほんの軽い気持ちで。悪気はなかった。いくら言い訳をしても取り返しのつかない悲劇を招いたとすれば、加害者は罰せられなければならないはず。しかし親友を不幸へ追いやった男たちは、罪を償うどころか一段階上の幸せへステップアップしようとしている。

過去のできごとに時効はないのか。大括りにすると悩ましいが、本作は一定の線引きをしている。

それは、罪を償う行為をしたか。そして現在でも贖罪の心を持ち続けているか。

小山田圭吾は反省どころか、いじめという悪事を武勇伝のように雑誌インタビューで語っていた(らしい)。セクハラで訴えられたハリウッドセレブたちは、権力や財力を駆使して(?)犯罪として認定されることを免れていた。

映画の中で印象的だったのは、ニーナを死へ追いやった男子学生たちの弁護をしていた弁護士だ。罪の意識に苛まれ休業している彼は、とんでもないことをした、今でも罪を忘れることはないと言い続ける。他の人たちとは違ってニーナの名前もしっかり憶えていた彼にキャシーは告げる。「私はあなたを許す」。そして最後に彼に罪を償うチャンスと大役を授けるのである。

ニーナの事件がはっきりと明かされるのは後半になるため、前半は謎多きキャシーの行動を中心にサスペンス調に映画は進む。中盤になると、大学の同級生だったライアンが現れ、二人は恋仲になる。ショップで笑顔で戯れる二人をスローで映す場面は、ラブコメと言ってもおかしくないほど画面の色合いが変わる。

彼女が明るい将来へ一歩を踏み出す決意を固めたそのとき、ある事実が彼女の前に突き付けられる。

世の中に完全な公平などあり得ない。不幸な事件があったとしても、それに自分を合わせなければいけない道理はない。キャシーは幸せになる権利があったし、両親は何よりもそれを望んでいた。しかし知ってしまった以上、彼女に選択肢はなかった。

上述の、ラブコメ・ハッピーエンドとサスペンス・バッドエンドの間を行ったり来たりする脚本が非常に見応えがあった(本年度アカデミー賞脚本賞受賞)。

実るほど頭を垂れる稲穂かな。人は常に反省しながら前を向いて生きる。今日もがんばろう。

(80点)
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