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Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

(新規)「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」

2025年12月31日 12時23分15秒 | 映画(2025)
待たせたな。


映画の冒頭に日本のファンへ向けたトムのあいさつが流れる。

シリーズ第1作が公開されたのは1996年。既に絶頂期を迎えていたT.クルーズの新たな代表作であり、それまでシリーズものを作らなかった彼が初めて続篇を手掛けた、まさに稀代の大スターの代名詞ともいえるシリーズの最新作が満を持しての公開である(まだ先行上映だけど)。

本来は2023年に公開された前作「ミッション:インポッシブル/デッドレコニング」と2部作で作られるはずであったが、諸事情により2作めは公開が延期。タイトルも「ファイナルレコニング」と変更された。

ファイナルレコニングは「最後の試練」と訳されている。毎回常に無理筋のミッションをこなしてきたイーサンハントにとって、最後の仕事という意味に捉えられ、明言したのを耳にしてはいないが、シリーズ最終作の位置付けとも取れる。

個人的には、「M:I」表記が前面に出て、イーサン個人の闘いにスポットが当たっていた「M:i:III」までと、サブタイトルが付いて、ベンジーたちと組んだチームプレイが目立つ「ミッション:インポッシブル ゴーストプロトコル」以降にシリーズは二分される。

今回、「すべてのミッションはここにつながる」と銘打ったように、ときどき過去の印象的な場面が挿入されて意外な接点があることが明かされる。30年も前の作品なのに、実際の場面が流れると「あー、この場面か」となるところはさすがである。

シリーズ中最長の上映時間が示すように、前作に続いてアクションシーンの多さとバリエーションも豊富である。ベーリング海の深海からアフリカの空中まで、緯度経度、高度深度なんでもござれの活躍を見せる。

ただ、すごいのは伝わってくるものの、観終わってみると印象的な場面がなかったかなという感想を持つ。それこそ30年経ってもすぐに記憶がよみがえってくる1作めのヘリコプター抱きつきや床面すれすれまでの落下と比べると、沈没した潜水艦の中を捜索するミッションは、丁寧にしっかり作られているのは分かるが、なんとも地味で分かりづらい。

全般を通してチームのメンバーが並行して無理筋のミッションをこなしていくが、これも0.1秒のタイミングを逃すななど無理度が極めて高いものの、あまりに無理が過ぎるせいか見ていていまひとつ緊張感が盛り上がってこない。

前作の感想でも書いたが、複雑に交錯する登場人物の関係については上手く整理されており脚本の巧みさを感じる。新しくチームの仲間として動く人たちのキャラクターも悪くない。

それでも、シリーズとしてはやり尽くした感に満ちており、トムの年齢から考えてもこれで勇退とするのがベストと言えるのではないか。金曜ロードショーで始まった過去作品の見直しで十分に楽しめる。

(70点)※5月18日12時20分投稿
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(新規)「サンダーボルツ*」

2025年12月31日 09時29分30秒 | 映画(2025)
今度こそ新たなフェーズの第一歩。


過去にDCのヒーロー映画の感想として、「結局最後は力比べになってしまう」という言葉をよく綴っていた(参考:「ワンダーウーマン」)。

なぜそんなことを言い出したかというと、本作が同時公開された北米において「批評家の大絶賛を受けて好スタート」という記事を見たからである。

本作は、全員過去に傷を負った悪者のヒーロー映画という触れ込みで宣伝をしていたが、それだけならば既にDCの「スーサイドスクワッド」があって新鮮味に欠ける。

加えて、主要な登場人物はみんな特殊能力を持っているが、ビジュアルとして明確なのは、あらゆる物質を通り抜けることができるゴーストくらいで、他は訓練等で戦闘能力が向上した者ばかりであり、彼らが繰り広げるクライマックスを想定した場合、どうしても肉弾戦しか想像できなかった。

しかし本作では、主役扱いのエレーナをはじめとして登場人物を丁寧に取り上げて描くことで、観ている側がしっかり引き込まれる構図になっていた。

物理的な力比べではなく、チームワークや心の持ちようを勝敗を決するカギとするのであれば、長期シリーズにありがちな世界観が広がり過ぎるインフレ問題にも対処が可能というものであろう。

振り返ればかつてのマーベル作品はその辺りをきっちり押さえていたような気がする。神が仲間になっても宇宙を舞台にしても、それらを同じ世界の中に置きつつ崩壊や発散を起こさずにおもしろいストーリーを組み立てていた。

今回高評価の声が聞こえるのは、そうした以前の良きマーベルの姿を思い返す人が多くいたからに違いない。

もちろん映像で魅せる部分や、くすっと笑いを取る部分が、バランス良く散りばめられている点にも言及したい。能力を身につけるまでの過程での苦悩をトラウマに持っているヒーローたちの中に、レッドガーディアンのような張り詰めた空気感に句読点を与える存在がいることで映画の幅が広がってくる。

ヴィランの立ち位置にいる女性CIA長官のヴァレンティーナの扱いもおもしろい。普通ならば勧善懲悪で使い捨て退場となるところが、ラストで意外な立ち回りを見せてくれた。「〇〇は戻ってくる」はマーベル映画の定番であるが、「Bベンジャーズ」や「アベンジャーZ」の下りは、本作を盛り上げただけでなく次作以降にも大きな期待を持たせてくれた。

そしてその中心にF.ピューがいることが、個人的には非常にうれしい。

(90点)※5月6日9時30分投稿
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「片思い世界」

2025年05月04日 22時31分49秒 | 映画(2025)
叙情的マルチバース。


いずれも朝ドラの主役を経験した広瀬すず杉咲花清原果耶が共演し、「ファーストキス」のヒットも記憶に新しい坂元裕二のオリジナル脚本と、これ以上ない看板を背負って公開された本作。

「片思い」という個人の感情を表す言葉に「世界」というまったく異なる次元の単語を結びつけたタイトルを注意深く観察していれば、本作の秘密にすぐ気付けたかもしれない。

児童合唱団に所属する美咲は、練習が始まる前の時間を利用して音楽劇の台本を書いていた。最後の一文を書き上げて、近くにいた男の子「てんま」に声をかけたが、さっきまでピアノの椅子に座っていたはずのてんまはそこにいなかった。

ほかの児童たちが集まり始めて、全員で記念撮影をすることになる。シャッターが切られるその瞬間、音楽室の扉が開く。「てんま?」美咲が声を上げると、児童たちは一斉に視線をカメラのレンズから扉の方へ向けた。

舞台は変わって都心のとある一軒家。そこでは20代の若い女性三人が一緒に暮らしていた。美咲、優花、さくらは、どうやら児童合唱団の女の子たちが成長した姿らしい。

朝起きて、食事をして、三人はそれぞれ仕事場や大学へと向かう。夜はスーパーで買った食材で夕食を作り、一緒に食べて就寝する。時には誕生日を一緒にお祝いしたり、仲が良い幼なじみがそのまま大きくなって一緒に暮らしているとしか思えない暮らしぶりであったが、彼女たちには秘密があった。

その大きな秘密が明らかになるまでそれほど時間はかからないのだが、漫然と見ていると「あっ、そういうことか」と驚かされることになる。それも突然明かされる驚きではなく、振り返ってみると実は数々の布石が、どこか記憶に引っ掛かる違和感として散りばめられているのが分かるところが心憎い。この辺りが坂元裕二の巧さなのだろう。

帰宅途中のさくらが道に転がっているボールをすっと避ける。美咲とさくらがバスに乗り遅れ、運転手にアピールするが取り合ってくれず、しかし直後に走り込んできた男性に対し、運転手はすっとドアを開ける。

秘密が明らかになった瞬間に「片思い」と「世界」が結びついたタイトルもすっと心に落ちてくる。美咲、優花、さくらの誰かではない、彼女らが存在する場所が思いを届けることができない世界なのである。

彼女らは三人でいるときはとても楽しそうにしているが、一人になったときには物寂しいというか、どこか諦めの漂う表情をしている。仕事をしたり、勉強をしたり、のみ会に参加したり、という光景を見れば見るほど、彼女らがどのような気持ちでこうした行動をしているのか想像して胸が締め付けられる。

後半、彼女らは一縷の望みを抱いて、片思いを成就する夢を追いかける。予告でよく見た「ずっと、こうしたかった」という美咲の台詞が頭にあったから、きっと夢が叶うのだろうと思いながら観ていた。

前半の秘密が明らかになるまでの流れは巧いと書いたが、後半のそれぞれが夢を追いかける話は「おや?」と思うところが多かった。

何よりもやっとさせられたのが、さくらの「片思い」の相手として描かれたのが、とある事件の犯人であったという点である。相手と繋がりたいと思うのが片思いであり、そこには男女でも親子でも愛情が伴うはずだが、さくらの感情にそれはあり得ただろうか。

彼女らが望みを抱くきっかけになるラジオのパーソナリティの存在が、よく分からないままうやむやになってしまうところも良くない。カミオカンデまで引っ張り出しておいて空振りなのは故意なのか、後で解説するサイトを探してみようと思う。

ただ苦言はいろいろあれど、主演女優陣の輝きはまったく曇りなく、加えて美咲の片思い相手の「てんま」を演じた横浜流星もオーラがあって良かった。さすがは大河ドラマの主演を張るだけある。

(75点)
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「異端者の家」

2025年04月29日 09時10分57秒 | 映画(2025)
誰もが支配したがっているんだ。


政治と宗教の話はタブーとよく言われる。思想が異なる相手だったときに面倒くさいことになるからという理由に尽きると思うが、それは個人の思想を更に膠着化させることにも結び付いている。

こうした状況は宗教の二世問題にも深く関係する一方で、特定の宗教を信仰していない家庭環境で生活をしていた場合には、宗教が持つ特別な価値観に気付けないまま年齢を重ねてしまう=免疫を持てないという側面も持つ。

日本人は往々にして後者が多く、自分も例外ではないのだが、外国では宗教が話の核心に置かれている映画が頻繁に作られる中で、そういう作品は理解するのがなかなか難しい。

本作も話のど真ん中に宗教観が据えられている。タイトルにもなっている「異端者」であるリード氏は、見た目こそ温和で上品な中高年男性(なにしろH.グラントである!)であるが、実際は問答を繰り返しながら相手の心を侵食しようとするモンスターである。

彼の家を訪れたのは二人の若い女性宣教師・シスターバーンズとシスターパクストン。2人組で自転車に乗って個別に布教活動を行う姿は大昔からよく目にしたモルモン教の姿である。

キリスト教についてそれほど知識があるわけではないが、モルモン教はキリスト教の一派であり、必ずしも本流ではないということは何となく感じていた。

リード氏は、教典の詳細な資料の入手を希望すると言って二人を自宅へ招き入れる。教会にとって関心を持ってくれる人は貴重であり、二人は初めて会うリード氏に不安を感じながらも丁寧な応対に努める。

大雨の中で玄関口に立たせておくわけにはいかない、妻がブルーベリーパイを振る舞うから少し休んでいかないかと声をかけられ、家の中に足を踏み入れた二人。しかし、その家はリード氏が支配する唯一神の世界であった。

物語におけるリード氏の行動の動機は不明であるが、一般の世界に置き換えたときに、似たようなシチュエーションは多くあると思う。つきつめれば、どんなときでも人は自分を優位な立場に置くことを試みると言ってもいい。

リード氏は、モルモン教の立ち位置について、ボードゲームやポピュラーミュージックの歴史になぞらえて、本質的なもの反復に過ぎない、つまり偽物だと非難する。彼の理論はそれなりに筋が通っていて、シスターパクストンは「新しい視点に気付かされた。私たちは間違っていたのかもしれない」と感想を漏らす。

彼の支配への行動は続く。目の前で神の再生を見せると言って、家の奥から預言者として登場した女性に毒入りのブルーベリーパイを食べさせる。そのタイミングで行方不明の二人を探して教会から別の宣教師が家の呼び鈴を押した。

やはり宗教的要素が強かった「ロングレッグス」がオカルトに寄っていた中で本作はどうなのかと推移を見守っていたが、後半はある程度分かりやすいエンタメ作品にまとまっていた。

モルモン教のシスターを主役に据える設定や、二人の人間的な性格や感情を掘り下げて描く下りはおもしろかった。地味でおとなしめなシスターパクストンがリード氏の標的となる構図は切なくなるほど的確である。

そのシスターパクストンが突然名探偵コナンばりに推理を働かせて覚醒するのはご愛敬。冒頭にシスターパクストンがセックスの話をしていたことと関連していて、彼女の内にある異端な部分が現れてリード氏と対峙したという理解にとどめておく。

話の展開としては、協会がもっとリード氏を怪しまなければおかしいと思うし、大雨じゃなかったらリード氏のシナリオ通り進んだのか?などツッコミどころは多数あった。

分かったこととしては、人は知らない間に絡めとられていつの間にか動けなくなってしまうということ。気付けたら何かできるのかもしれないけれど、「いつの間にか」というところが問題なので解決するのは難しそうである。

(70点)
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「ミッキー17」

2025年04月17日 21時06分59秒 | 映画(2025)
人間はマイルドにもハバネロにもなれるのだろうか。


ディストピア臭がする近未来を舞台にした作品は個人的に好みである。設定の自由度が高い中で、どれだけ想像を超えたものを見せてくれるかにワクワクするのである。

今回、「パラサイト 半地下の家族」B.ジュノ監督がハリウッドの資本を使ってその世界に挑むというので、期待は相当高かった。

主人公は人生ほぼ詰み状態の男・ミッキー。友人に誘われてマカロンで一攫千金を狙うが、大失敗して出資者から追われる羽目になり、これは地球から逃げ出すしかないと過酷な宇宙バイトの契約を交わしてしまう。

そのバイトは、自分の肉体や記憶のデータをコピーして何度も再生できるようにするというもの。ただ、何度も再生できるということは何度でも死ねるということでもあり、ミッキーは宇宙空間に存在するあらゆる未知の危険にさらされ、その度に惨い形で命を落としていく。

絶命するのを見届けると、宇宙船内の科学者たちがコピー機を使って次のミッキーを3Dプリンタのように作る。タイトルになっている「ミッキー17」というのは、16回死んで生まれ変わってきた17人めのミッキーという意味である。

そのミッキー17、作品の冒頭で大地の裂け目に転落して既に瀕死状態に陥っている。そこにやって来るのは未知なるクリーチャー。どう見ても生き残るのは無理というシチュエーションから奇跡が始まるのであった。

ミッキーの独白を含めた説明が長かったり、クリーチャーとの翻訳機をドラえもんのようにあっさり作ったり、少しやっつけ的な部分も目立つものの、独特な世界観はおもしろい。

死んだものと決めつけて新しくプリントアウトされたミッキー18と17の関係も興味深い。コピーなのだから判で押したようなミッキーが生まれるはずという思い込みをうっちゃって、17と18をまったく違う性格にすることによって物語が一気に広がりを見せるのである。

同じ人間のはずなのに対立したり嫉妬したりするユニークな展開を経て、時間をともにしていくうちにバディのようになっていく二人。こんなに違うのに同じように愛情を注いで、奇妙な三角関係を楽しむ恋人のナーシャの存在もユニークである。

一方、敵対するのは宇宙船を支配する政治家かつ実業家のマーシャル。「哀れなるものたち」以来、すっかり情けない役が板についてしまったM.ラファロが、ミッキーたちを卑下し、立てついてくる者を徹底して叩き潰そうとする自分本位な人物を、小物感たっぷりに演じている。

他にもほぼすべての登場人物のキャラクターが立っていて、上述のミッキーのナレーションと相まって、映画自体が分かりやす過ぎるくらい分かりやすくできている。このクオリティであれば、B.ジュノ印は次作以降も期待したい。

(80点)
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「アマチュア」

2025年04月13日 19時10分35秒 | 映画(2025)
一芸に秀でることは、すべてに通ずる。


そういえばR.マレックってオスカー俳優なんだよな。チャンスを見事につかんで俳優としての箔を付けた彼だが、今でもあまり主演を張る作品は少ない印象だ。

そんな彼がメインストリームの娯楽作品で主演を務めるのが本作。演じるのは、ある事件に巻き込まれて犠牲になった妻の復讐に燃えるCIAのサイバー専門捜査官・チャーリーである。

アクションもふんだんに盛り込まれている作品だが、チャーリーは腕っぷしに物を言わせるタイプではない。CIA幹部に対し、犯人グループと戦うために特殊訓練を受けさせてほしいと訴えても一笑に付されるような人物である。

しかしチャーリーにはIQ=170という別の武器があった。犯人グループとCIA幹部の関係を見抜いた彼は、証拠書類を盾に別人の身分証明書などを作らせて国外脱出に成功。ヨーロッパの各地で暗躍する犯人グループへの復讐に単身向かうのであった。

予告で「殺しはアマチュア」と言っているとおり、銃を手にしても何もすることはできないが、ハッキングなどデジタルスキルを活かした作戦についてはプロ中のプロ。4人の犯人グループや、チャーリーの動きを止めようと躍起になるCIA幹部を、思いもよらない手段でやり込めていく様は爽快である。

最初に犯人と対峙したときには、温情を見せてしまい危うく反撃されそうになるが、その後は冷酷さも身につけていく。ずっと室内勤務だった捜査官がほどなく世界を股に掛けたスパイものの主役になれる点はフィクション要素満載だし、どこからどこまでがチャーリーがあらかじめ描いた筋書き通りなのかよく分からず、少しご都合主義なのでは?と感じるところもないわけではないが、気軽に見る娯楽作品としては十分良くできている。

R.マレック自身、007の悪役を演じていたこともあったから、切れ者の役にも違和感はない。裏で手助けしてくれた人たちの退場は残念だったが、CIA幹部に追っ手として指名されたL.フィッシュバーンは、チャーリーにある種のリスペクトを抱く人物として独特の位置付けとなっており好感が持てた。

(70点)
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「エミリアペレス」

2025年04月06日 20時39分58秒 | 映画(2025)
情熱が交錯する街、メキシコ。


実は本年度のアカデミー賞で最多部門にノミネートされたのは本作であった(12部門13ノミネート)。

しかし受賞に至ったのは、かねてから本命視されていたZ.サルダナの助演女優賞と歌曲賞の2部門に留まった。特にトランスジェンダーとして初めて主演女優賞のノミネートされたC.ソフィア・ガスコンは大いに注目を浴びたが、過去の発言が炎上したことが響いたためか、半ば賞レースから除外される形となってしまった。

このように内容よりも周辺の話題が盛り上がっていた本作。予告篇を見るかぎり、メキシコの麻薬カルテルのボスが性転換をする話らしいが、サスペンスなのか社会派なのかどうにもよく分からなかった。

眠くなるのも覚悟の上で鑑賞に臨んだのだが、冒頭でいきなりZ.サルダナが歌い出した!なんと、これはミュージカルではないか。

この欄で何度も書いているが、映画の醍醐味は、今まで観たことのない世界を経験することにあると思っている。

ミュージカル=キラキラした夢やファンタジーの世界という定型の図式を大きく飛び越えて、本作の舞台はメキシコの麻薬組織の周辺である。この設定に違和感を覚えるのは偏った先入観かもしれないが、スペイン語の独特のリズム感やラテン系の音楽はミュージカルとあまりにもミスマッチで、逆にすごく心地良く耳に入ってきた。

歌われる歌詞の内容も、裁判がどうだのとか、脅しの台詞をリズム感良くしゃべるとか、いわゆるミュージカルとはかけ離れた世界が繰り広げられるところも非常に新鮮であった。

物語もなかなかクセが強い。麻薬カルテルのボスであるマニタスは、人生を変えたいと性転換手術を希望しており、腕の良い医師を探し秘密裏に事を進めることのできる有能な人物を探していた。そこで白羽の矢が立ったのがZ.サルダナ演じる弁護士のリタであった。

リタはマニタスの家族にも知られることなく、イスラエルの美容整形医師を斡旋し、手術は成功。大金を手にしたリタは輝かしい未来へ向かって進めるはずだったが、ある日、彼女の前にエミリアペレスと名乗る女性が現れるのだった。

リタの前に性転換後のマニタス=エミリアがやって来るのは、予告篇を見ても分かっていたが、まったく未知だったのはその後のストーリーである。エミリアは何故リタの前に姿を現したのか。望みはいったい何なのか。

リタは当然身構える。秘密を知っている自分を消しに来たに違いないと。しかし、エミリアがリタに求めたのは、まったく違う次元の希望であった。

マニタスとして裏世界で成功した男は、エミリアという女に生まれ変わって180度異なる倫理観で生きようとする。その対比に驚くが、エミリアの人間力なのであろう。新しい世界でも彼女は見事に事業を軌道に乗せてみせる。

しかしどう考えても、この物語がハッピーエンドで終わる気はしない。すべてを捨てて生まれ変わったはずのエミリアだったが、どうしても心の中から排除できなかった家族への愛情が湧き上がってくる。

マニタスの妻を演じたのはS.ゴメス。アイドルやモデルとしての活躍が目立ってきた彼女だが、情熱的で気が強いラテン系の女性が実にハマっている。これからも俳優としての仕事は増えるだろう。

自分に正直に生きて命を燃やした3人の生き様は切ない結果に終わるが、不思議ともの悲しさやがっかり感は少ない。それはミュージカルという形式によるとともに、ラテンアメリカの空気感がそう感じさせたのかもしれないと思った。

とにかく独特の世界観が新鮮でおもしろい。ラテンと音楽はもともと相性が良く、楽天的でタフなラテン文化と融合することで、新しいミュージカルの形を見せることに成功したのである。

(90点)
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「BETTER MAN/ベターマン」

2025年04月03日 20時29分17秒 | 映画(2025)
“Rock DJ”はグループの曲ではなかったはず。

Take Thatのデビューが35年前だと聞いて改めて驚いた。もうそんなに時間が経っていたのか。

1990年といえば、わが国もアイドル冬の時代と言われていたころで、この映画の中でもボーイズグループはまったく商売にならないと思われていて、はじめはゲイを対象としたキワモノ系で売り出していたことが描かれている。

しかし彼らはそんな逆境を跳ね返して、英国から世界へと羽ばたいていった。そのグループの中心にいたのがRobbie Williamsで、人気もあったけど周囲と様々な確執を招いた問題児でもあった。

ライトな洋楽ファンにとっての知識はそんなもの。洋楽に関心のない日本人であれば、存在を初めて知ったというケースも多いだろう。

その彼を主人公にした伝記的映画がわが国で拡大公開されることになったのは、あの「グレイテストショーマン」のMichael Gracey監督が手掛けた作品だからにほかならない。

加えて本作では、Robbieをサルとして描くという奇抜な手法がとられたことも話題の一つとなった。映像技術的には何てことはないが、サルがミュージカルを演じることでどのような効果が生まれるのかに興味が湧いた。

ライトな知識の中では、自信家でわがままなザ・芸能人というイメージしかない彼だが、本作で赤裸々に描かれるロバート(本名)は、小さく頼りなさげで孤独な一人の人間であった。

サッカーで活躍できずに周囲からののしられる彼、ショウビズ界を夢見て家族を置いて出て行く父を泣きそうな表情で見送る彼、仕事がうまく行きはじめても自分の失態で周りの人が次々に離れていく彼。

そうしたエピソードが描かれるごとに、彼の姿がサルであることに必然性が伴っていく。

彼は周りとは違うことを自覚しているが、それは肯定的と否定的の両方の側面があって、唯一無二の存在であるという自信の裏側には、周りにうまく適応できない不器用さや怖れが隠れている。それはあたかも違う種類の動物であるかのように。

そんな自分を隠そうとして敢えて大げさに盛って売り込むことで、彼はショウビズ界で一気にスターダムに上り詰めるが、アイドル活動も人間関係も、結局どこかで無理が生じて破綻してしまう。

そうしたことを繰り返しているうちに、彼の肉体と精神は次第にむしばまれていく。ドラッグの影響もあったのだろう。ステージでパフォーマンスをしていると、潜在意識にあるネガティブな自分がサルの姿で客席に現れて、威圧的にこちらを見ている幻覚を見るようになる。

そしてついに再起不能寸前まで叩き落とされたときに、彼はようやく大事なものに気が付くのであった。

初めて知ったことも多かったし、物語としては非常におもしろかったのだが、芸歴35年とはいえRobbieはまだ現役真っ只中であり、この手の伝記的作品を作るのはどうだろうという疑問は拭いきれない。

問題児だった彼が改心しました、めでたしめでたし。と完了形で言ってしまっていいのか。今後彼が決して薬物に手を染めないと言えるのか。

彼だけではない。All SaintsのNicoleとの恋愛話やLiam GallagherやGary Barlowとの確執なんかも結構赤裸々に描いてしまっているけど、大丈夫なの?と正直なところ思った。

でもまあ、そんな疑問がありそうな中で作品を作って公開しちゃうっていうのも、結局エンターテイナーの血なのかもしれない。

そう考えると、弱々しいサルの姿が逆に大げさに盛った演出なのかもしれない。やっぱりRobbie Williamsは「選ばれた人」なんだと思う。

(85点)
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「ロングレッグス」

2025年03月20日 19時33分57秒 | 映画(2025)
神にも悪魔にも選ばれず。


悪魔という概念は極めて宗教的な存在である。従って、あまり宗教を身近に感じずに日常を過ごす者たちにとっては、理解するのが難しいのである。

物語が進むうちに分かってくるが、本作に出てくる殺人鬼は悪魔の使いである。呪術を駆使して他人を操ることができるという時点で、この界隈の知識が浅い立場からすると、実世界から離れたフィクションと括ってしまわざるを得ないところが残念である。

映画は時間軸が連続した物語であるが、敢えてPART1~3を区分している。PART1は、主人公のFBI捜査官・リーの元へ殺人鬼が手紙を届けるまで、PART2はリーが謎を解いて殺人鬼の身柄を拘束するまで、そしてPART3はその後の悪魔の所業である。

PART1はとにかく混乱する。最後まで観て多少は分かった気になっている今でも、おそらく理解しないまま忘れてしまった事象が数多くあると推測する。

PART2の半ばで殺人鬼が姿を見せた辺りから物語の主軸は繋がり始めるので、分かった気にはなる。でもおそらく宗教的な背景の知識がないから頭の中に何も広がってこない。店で殺人鬼の応対をしたレジ係のように「キモ男が来た」で終わってしまうのである。

それでもある程度は楽しめた。画像は凝っていて見どころがあるし、エンディングの結果を見せずに終わらせるところも良いと思う。「サタン万歳」の台詞は選ばれた人間に作用するはずだから、ああなるような気がするけど。

上からエンドロールが降ってくる演出は「セブン」で見た以来だろうか。音楽はT.Rexで、冒頭のクレジットにもT.Rexの言葉が出ていたけど、ここも誰かに解説してもらわないと分からないな。

(65点)
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「Flow」

2025年03月20日 08時19分39秒 | 映画(2025)
生きること以上に重要なことなどない。


アカデミー賞の長編アニメーション賞といえば、ディズニー・ピクサーをはじめとした米国作品が常連であり、今年も大ヒットを記録した「インサイドヘッド2」「野生の島のロズ」といった強力な作品がノミネートに上がっていた。

しかし、その中で栄冠に輝いたのはラトビア出身の監督が作った本作であった。多様性重視という方向性があったのかもしれないが、確かめないわけにはいかない。

全篇セリフもナレーションもなし。主人公はネコ。イヌやサルや鳥やカピバラのような動物が他に登場するが、人類は既に絶滅してしまったのか、文明の痕跡だけを残して一切登場しない。

本作はまず、ネコを主人公にしたというのがいちばんのポイントであろう。

ネコは、動物でありながらも野生とは縁遠い。野良猫も文化や文明の中で人間社会に紛れて生きている。人間がいないながらも、限りなく人間に近い存在として描けるのがネコなのだ。

特にこの主人公ネコは、ペットとしてかわいがられていたのだろう。その姿は愛らしい一方で、小柄な体は独りで生きていくにはあまりにも頼りない。

映画の冒頭、ネコはいつもの寝床と思われる住居の2階にあるベッドでまどろんでいる。突然に飼い主がいなくなったことを理解していないのだろう。この後の波乱万丈の冒険と対照的な平和な光景が印象に残る。

ある日、外を歩いていると、川で魚を捕る数匹のイヌと出会う。こぼれた魚を口に咥えたところを見つかってしまい追いかけっこが始まる。持ち前の俊敏さで何とかやり過ごしたと思った瞬間、今度はイヌたちが全速力で戻ってきて、自分には目もくれずに駆け抜けていった。するとほどなく、大量の水が一気に押し寄せてきた。

大水は瞬く間に周囲の森を飲み込み、ネコが住んでいた住居が沈むのも時間の問題となり、ネコは住処を離れることを決心する。

小柄で非力なネコは、大きな鳥に襲われそうになったり、水中に転落して溺れそうになったり、次々に危険に遭遇するが、その度に自分以外の力によって生命を救われる。そして経験を積むうちに、自分でエサを獲るようになるなど少しずつ強さを備えるようになる。

ネコは何も語らない。それでも、様々な動物との出会いと別れ、前触れなく襲ってくる自然の脅威を経て、ネコがとにかく無心で生きて前を進む姿に、心を動かされ胸が熱くなってくる。

最後に再び自然の脅威が大きな変化を起こしたとき、世界の秩序も根底から覆される。水の中で偉大な王のように君臨していたクジラは干上がった陸では生きることができない。瀕死のクジラを見守るネコとその仲間は、いずれもはぐれ者として集まった者たちだ。

世の中は常に流れの中を移ろっていく。人間がこうして地上の生活を謳歌できる期間も永遠ではないはずだ。過信してはいけない。みんな小さく非力な、この物語のネコなのだ。

(90点)
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