Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

(新作)「先生の白い嘘」

2024年12月31日 21時11分08秒 | 映画(2024)
心の傷のかさぶたを剥がしてえぐる。


最近ドラマやCMの露出が急増している奈緒の主演作。先日、「告白 コンフェッション」を観たときに、セリフもない役だったけど笑顔が強く印象に残って、また大画面で観てみたいなと思っていた。

本作を観ようと思った直接の動機はそれなのだが、なんだか公開直前になって想定外の炎上騒ぎが起こってしまった。

三木康一郎監督がインタビュー取材の中で、奈緒が希望していたインティマシーコーディネイター(心のケアをする専門家)の起用を拒否していたことを明かしたのだ。

本作は性暴力を正面から扱った作品であり、三木監督曰く、何人もの女優に断られた末に主演を受けたのが奈緒だったと言う。しかし、勇気と覚悟を持って仕事を引き受けた彼女の願いを監督は、間に人を入れたくないという理由で拒否したのである。

この監督のやり方と、それを得意げにインタビューで語る態度に批判が殺到し、映画公開初日の舞台挨拶は、謝罪から始まる異例の事態となってしまった。

中には「こんな監督が作った作品を観るべきではない」という声まで上がったが、それでは奈緒をはじめ作品に全力を注いだ人に余計な被害を与えてしまう。もやもや感が拭えないままではあるが、まずは作品を観ないと始まらないという思いで映画館へ足を運んだ。

高校教師の美鈴は、親友の美奈子の交際相手である早藤からレイプされた過去を持っている。早藤と美奈子は婚約するが、その裏で早藤は美鈴にちょっかいを出し続け、美鈴もどこか早藤に惹かれる部分があるのか、体の関係を断つことができずにいた。

そんな中、美鈴のクラス内で、生徒が人妻とラブホテルへ行ったという疑惑が持ち上がる。その生徒・新妻と1対1で面談する中で、美鈴は思わず表に出さなかった本音をぶつけてしまう。ともに性的なトラウマを抱える美鈴と新妻。小さな共感はやがて好意へと姿を変えていく。

奈緒はとても整った顔立ちをしているが、大きな瞳に吸い込まれそうという感じではないので、実はメイク、表情、演技でオーラをぼやかすことができる。初体験が心の傷となった美鈴の、失望と諦めに支配された痛々しい姿をよく体現していた。

しかし美鈴は、新妻との出会いによって少しずつ変わりはじめる。早藤に対しても、なしくずし的に引きずられるのではなく、毅然とした態度で自分の主張を伝え、そして・・・。

不幸な出来事で心に傷を負ってしまった人たちがいる一方で、そのきっかけを作る人物、本作で言えば早藤のような人間にも、それはそれで幼いころに種が蒔かれたのだろうと想像する。

負の連鎖を止めるには何が必要か。小さな出会いで逆回転が始まるのか。笑顔こそないけど少しだけ希望の光が差し込むラストシーンに少しだけ救われた。

(70点)※7月22日21時10分投稿
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「フェラーリ」

2024年07月07日 18時21分23秒 | 映画(2024)
命を削った日々のその先に。


子供のころのスーパーカーブーム、80年代後半からのF1ブームは経験しているが、それほどのめり込んだわけではないので、この映画で描かれた話は初めて知ることばかりであった。

エンツォフェラーリは1947年に妻のラウラと共同でフェラーリ社を設立した。レーシングドライバーの経歴を持つ彼は、性能の優れたスポーツカーを生産し、有名レースでの優勝を重ねることで会社の地位を高めることに成功した。

しかし、過剰なまでのモータースポーツへの投資は会社経営を圧迫していく。更に1956年には、ラウラとの間にできた息子のディーノが病死し、エンツォの愛人騒動と相まって夫婦仲は最悪になり、そのことは重大な企業判断をする際の足かせにもなっていた。

名匠M.マン監督がメガホンを取った本作は、そんなエンツォにとって激動の1年となった1957年に焦点を絞って描く。

冒頭、朝のまどろみの中で目覚めるエンツォ。横で寝ている女性を起こさないように彼はそっと家を出て行く。彼が向かった先にいたのは、妻のラウラ。そう、柔らかなぬくもりで包み込んでいた冒頭の女性は、いわゆる愛人のリナ・ラルディだったのだ。

息子のディーノの死因は病気だから、決してエンツォに全責任があるわけではない。しかし、ラウラの行き場のない怒りは、仕事に傾倒し過ぎたり、外に愛人を作ったり、父親としての責務を果たしたとは言えない彼に行き着く。

エンツォの評価は実母からも低く、「フェラーリ家を継ぐべきだったのは長兄(既に死去)だ。エンツォではない」と言う始末。居心地が悪くなった彼は、ますます仕事と愛人へと遠ざかっていく悪循環に陥っていた。

フェラーリ社を立て直すためには、もっとレースに勝たなければならない。彼は契約ドライバーに命を懸けた究極のパフォーマンスを要求する。

現代より技術力で劣り、安全面の意識も高くなかった時代。レースに参加する者は常に死と隣り合わせの日々を送っていたのだと想像する。実際に劇中には事故のシーンが登場し、レース前にドライバーがパートナー宛てに覚悟の手紙を書いている描写もある。

なぜそこまでして・・・と思うが、エンツォの凄みによってそんな言葉は口をつく前に消し飛ばされる。現代社会なら間違いなく社会的制裁を受けるであろう男は、そのカリスマ性で歴史を作ってきた人物でもあった。

主演のA.ドライバーは特に最近演技派としての評価が高いが、一度見たら忘れない大きな作りの顔と、実際に大きい体格(身長189cmとなっている)に精巧な老けメイクを施すことで、このエンツォという男の迫力を大画面で押し出すことに成功している。

そして負けず劣らずの迫力を見せるのはラウラ役のP.クルスで、可憐なラテン系のイメージとは程遠い、常に青白い炎を湛えて夫と相対する情念の女性を演じている。

理想とかけ離れてしまった現実の悲しみに浸ることもできずに、ただただ命を削り続けることしかできない彼らを切なく思う。似た立場に立ったとして、同じような生き方はできないし、選ぼうとも思わない。

ただ人生には正解はない。一生懸命に生きた人たちの人生は尊重されるべきものであり、そうすることで生まれた輝かしい歴史があることには敬意を払わずにはいられない。

一切の緩みや休息のない中で繰り広げられる演技合戦に、旧式のレーシングカーによる公道レースの迫力のある映像が加わり、大画面で観るべき屈指の作品となっている。

それにしても、あんなことが「ミッレミリア」で起きていたなんて・・・。あの場面は、長い映画鑑賞生活の中でも結構トラウマになりそうです。

(85点)
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「クワイエットプレイス:DAY1」

2024年06月30日 11時46分49秒 | 映画(2024)
無理ゲーの際を攻める。


2018年の公開時は、低予算のサプライズヒットだった「クワイエットプレイス」。続篇が作られるなど相当な稼ぎがあったのだろう。今回は、大都会ニューヨークを舞台に特殊撮影満載の大作として映画館に帰ってきた。

第1作の時点で既に世界が崩壊していたところ、そのきっかけとなった最初の日々、クリーチャーが地球へ襲来してきた時期を描く前日譚的な作品となっている。

最近よく見る前日譚、作られる割りには、その後の出来事が分かってしまっているだけに盛り上がらないことがよくある。しかし本作に関しては、パニックの規模が前作を遥かに上回るものとなることが容易に想像でき、ある意味まったく違う作品として期待が膨らんだ。

冒頭、ニューヨークの雑踏の音量が90デシベルであるという字幕が出る。何百万人が常に動き続ける街で音を出さないことがどれだけの無理ゲーであるか、この時点で映画のイントロとしては成功である。

さて、第1作では登場人物の出産という驚くべき無理要素を入れていたが、今回は大都会が舞台であることに加えて、主人公がホスピスに通う末期患者であることと、彼女がネコを肌身離さず連れていることを突っ込んできた。

赤ちゃんもそうだが、ネコも鳴くよね。本来であれば。しかしそこはきちんと乗り越える。演技も上手い素晴らしいネコである。代わりに、服が破れた音だけで襲われてしまうかわいそうな人がいるところは、相変わらずさじ加減が上手いクリーチャーである。

そういった苦言は多少ありながらも、ニューヨークの街で繰り広げられるクリーチャーと人間の戦いは非常におもしろく見られる(戦いと言っても人間は逃げるしかないのであるが)。自動車の防犯アラーム、公園の噴水、地下鉄の構内など、都会ならではのアイテムを駆使した攻防は見どころに溢れている。

そしてパニック映画の添え物でありながら結構重要な要素ともなる主人公のストーリーについても、それなりに作られていて白けさせない。ホスピスという設定が最後になって生きてくるところも加点要素である。

前日譚のもう一つのネックは、当該作に続く続篇が作りにくいことにあるが、この後本シリーズはどこへ向かうだろうか。

(80点)
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「ザウォッチャーズ」

2024年06月30日 10時55分21秒 | 映画(2024)
見つめていたい。


1983年に全米No.1の大ヒットとなったThe Policeの"Every Breath You Take"は、実は執拗に監視を続けるストーカーの歌だというのは有名な話である。

柔らかなメロディーに騙されがちだが、君のすべての呼吸をI'll be watching youと言われたら、ぞぞっと寒気がする。そう、"Watch"はいくつかある「見る」の中でも「監視する」の意味を強く含む単語なのである。

あのM.ナイト・シャマラン監督の娘、I.ナイト・シャマランがメガホンをとったということで一部で話題の本作。"Watchers"=監視者とは誰なのか?父親と同様にとんでもないものが大画面にばーんと登場してしまうのか?というあたりに関心を持ちつつ映画館へと足を運んだ。

主人公のミナを演じるのはD.ファニング。久々に見たが、少し擦れた感じの女性が似合うようになっていた。

何やら心に傷を抱えていて、目に力がなく、持て余した時間を電子タバコをふかすことで消費するミナは、知り合いからの依頼を受けて遠くの町までオウムを運ぶことになる。しかし、クルマはうっそうとした森の真ん中で突然動かなくなり、助けを求めに行ったミナは道に迷ってしまう。

もうすぐ夜が来る。ただごとではない物騒さに恐怖を感じるミナの前に年老いた女性が現れ、死にたくなければ付いてくるよう告げた。老女の後を追ってたどり着いたその場所は、大きな窓のあるコンクリートの箱部屋であった。

ミナを含む4人の人間は、箱の中で"Watchers"から常に見られている存在だと言う。彼らは何故人間を見るのか。そしてそもそも彼らの正体は何なのか。

本作には原作が存在するらしいが、不思議な設定を組み立てる手並みでは父親譲りの巧さを見せる。

更に、"Watchers"の見せ方に関しては、影や光の加減を使うなどによりあからさまにせず余白を持たせた形をとっている点で、父親よりも格調高い画面を作ることに成功している。

事前の印象からホラーを期待した人には物足りないかもしれないが、ファンタジーとして見れば、彼らの正体やその背景、ミナと"Watcher"が対峙するクライマックスの展開に疑いなく合点がいく。

何よりも、食傷気味になってもシリーズものの続篇やアメコミヒーロー絡みで商売せざるを得ない状況において、独自性を持った作品を作り続けることは非常に意義のあることであり、その流れを受け継ぐ逸材の出現を歓迎したい。

(75点)
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「告白 コンフェッション」

2024年06月02日 13時32分37秒 | 映画(2024)
墓まで持っていくべき案件。


上映時間74分。最近長時間化が著しいと言われる中で激しく逆行する潔さ。

主人公の浅井は、大学の山岳部で一緒だったジヨンと登山の最中に悪天候に見舞われ遭難してしまう。ジヨンは足に大けがを負っており長い距離を歩けそうもない。死を確信したジヨンは突然浅井に告げる。

「俺はさゆりを殺した」

さゆりは、これも山岳部で一緒だったが、16年前に遭難して行方不明になってしまった女性である。突然の告白に戸惑う浅井だが、その後近くに避難できる山小屋を発見する。

死に際の告白のつもりだったのに、助かってしまった。気まずい・・・、というか秘密を知ってしまった自分は消されるのでは?二人のひと晩の攻防の行方はいかに。

映画の冒頭はあまりのショボさに笑ってしまった。難しいのかもしれないけど、もう少し導入部を丁寧に描けなかったかなと。告白された浅井がちょっと立ち上がって数歩歩いたら向こうに山小屋が見えたり、動けないから死を確信したのだろうに、浅井の肩を借りたら目と鼻の先くらいとはいえ少し高台の山小屋まであっさりたどり着けてしまったり。

その後もコントのようなやりとりが続く。自分を殺そうとしているのではと怯える浅井が、ジヨンの持っているサバイバルナイフを奪おうとトイレに行っている隙に試みるが、突然背後にジヨンが立っていて仰天する。大けがしている人間が音を立てずに近寄るってあり得ないでしょう。

まあ、そんなこんなで何を見せられてるんだ状態が結構続く中で、ジヨンはついにキレて山小屋の中で鬼ごっこが始まる。階段落ちやら、貞子風の這いずりやら、ジヨンが体を張ってがんばるが、ストーリーも後半の後半に入ってようやく意外性が出てきておもしろくなる。

半分ネタバレになるが、キーワードは浅井の秘密と夢オチである。救助隊への電話で「一人です」と言った部分が回収され、あまりに強烈だった夢の影響で思わず現実のジヨンに引っ掛かる言葉を漏らしてしまう顛末はうまくできていた。

それより何より映画館の大画面で奈緒のアップが見られただけで、かなり満足度が上がったのであるが。

(70点)
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「関心領域」

2024年06月02日 12時24分37秒 | 映画(2024)
塀が隔てる正しさと幸せ。


ナチスドイツを題材にした作品は様々あって、ジャンルも正統な歴史モノからSFやコメディまで実に幅広い。いわばレッドオーシャン状態であり、ここで新たな作品を作ろうとしても新味を出すのはなかなか難しいのではないかと思っていた。

そうした中で本作は、アウシュビッツ捕虜収容所の隣に家を建てて暮らしている家族の日常生活を描くという画期的な設定を打ち出してきた。ナチスの蛮行を直接映さずに、空気感だけでどのように異常性を伝えることができるのか大いに興味を持った。

冒頭、黒い画面にタイトルが映され、それが消えた後不穏な音楽とともにしばらくブラックアウトが続く。アカデミー賞では音響賞を受賞したそうだが、エンドロールの音楽を含めて、何気ない日常に潜む異常性を伝えるのに一役買っていた。

主人公はドイツ軍人のルドルフとその家族。ルドルフは、アウシュビッツ捕虜収容所の所長を務めており、敷地に隣接する一角にプール付きの庭を持つ一軒家を構えていた。

軍人でも所長となれば管理職なので、普段の仕事は公務員のごとく決まったルーティンに乗った出退勤である。職住近接だから家族と触れ合う時間はたっぷり確保できる。ルドルフも妻もこの生活に満足しており、遠い先の将来にまで夢を膨らませるのだった。

ただ、昼は青空の下で太陽の輝きに隠されていた部分が夜になると感じられるようになる。時折響く発砲のような音や、塀の向こうから沸き立つ煙。一切の説明はないが、我々は想像してしまう。

もちろん音や煙は夜にだけ出ているのではない。少しずつ目を凝らして、聞き耳を立ててみると、日常のそこかしこに収容所の暗部のかけらが転がっているのが分かってくる。

ルドルフたちの会話、一家に住み込みで働いているメイド、川遊びをしていたときに流れてきた物質。冷静になってみれば、ここは明らかにほかとは違う空間である。しかしルドルフの妻は、「ここは若いころから夢みてきた場所」と言う。彼女はメイドに向かってこんなことも言う。「夫に頼んで灰にしてもらうよ」

映画の背景や、大局的な歴史を学んでいる者からすれば、何という物言いであり傲慢な態度かという反応になるのだが、ミクロ的に彼女の視点に立ってみれば、実はそれほど常識外れな人物ではないことを理解できてくるところがおもしろい。

ある日、ルドルフは転属を命じられる。栄転ではあったが、妻はアウシュビッツの地を離れるのを嫌がり、彼は単身で行くことに。行った先では軍部の戦略担当とでもいう仕事に就き、アウシュビッツで行おうとしているハンガリーから大量の捕虜を輸送する作戦の中核を担うことになった。

彼は功績を認められ、ほどなくアウシュビッツに戻ることが決まった。大勢の人の命を奪うことが成果とされ、輝かしい人生の階段を上っていく。それがいかに誤ったことなのかは、奪われる側に立って実際に感じてみないことには分かりようがない。

帰還が決まったルドルフは妻に電話で知らせた後、職場を去ろうと階段を下りていくが、急に吐き気に襲われる。インサートされるのは、おそらく現代の収容所の博物館の展示物である大量の靴や遺物。神の手を持った映画の作り手が出演者にいたずらをしたようだ。

それにしても、「関心領域」というのは、直訳ではあるがよくできたタイトルである。不幸は関心の外にあるのだ。最近マイノリティに配慮し過ぎる事例もあるが、それでも気付いてもらえなければ不幸のままなのだから声を上げなければいけないのである。

(80点)
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「ボブマーリー ONE LOVE」

2024年05月18日 21時49分19秒 | 映画(2024)
選ばれしカリスマ。


偉大なミュージシャンを題材にした映画が多く作られるようになったが、今回はレゲエの神様・Bob Marleyである。

ただ、これまでの作品と少し様子が違うのは、伝記のように幼少期から有名になるまでを順を追って描くのではなく、彼のアーティスト人生にとって最大のハイライトとなった1977年前後の2年弱を集中的に取り上げているところである。

彼の祖国・ジャマイカは二大政党による壮絶な政権争いが勃発しており、内戦寸前の状態にまで悪化していた。ボブは音楽で事態の収拾を図れないかとライブの計画を立てたが、そのことが過激派の反発を招き、1976年12月、リハーサル中のバンドは襲撃を受け、ボブ自身も命に別状はなかったものの胸と腕を撃たれた。

ライブ終了後、ボブたちはジャマイカを離れロンドンへと本拠地を移した。平和を訴えるためには、もっと強く世界にアピールできる音楽を作らなければならないと感じた彼は、これまで積極的ではなかった広報活動にも力を入れ、後世に残る傑作"Exodus"を誕生させる。

世界的な成功と名声を手に入れた彼は、1978年に満を持してジャマイカに帰国し、同じ年の4月、首都キングストンでライブを開催し、その場で二大政党の党首を握手させることに成功した。

このくだりを聞けば、誰だって彼を偉人と思うだろう。実際に、命の危険を感じながらも信念を貫いた彼の功績は、決して色あせることのない素晴らしいものである。

しかし本作は、その苦闘の期間のボブと周りの人たちを細かく描くことで、偉人ではあるが必ずしも完璧ではない、人間・Bob Marleyを浮かび上がらせている。

世界ツアーで訪れたパリでの夫婦の言い争いの場面が顕著であるが、カリスマミュージシャンにとって私生活や道徳の優先度は高くなく、パートナーは我慢を強いられる。本作の製作陣に息子のJiggyや妻のRitaがクレジットされていることから、本作で描かれたことはほぼ事実なのだろう。

ボブは皮膚がんをきっかけに36歳で早逝する。これもカリスマミュージシャンの宿命だろうか。希望するしないに拘らず、時代が彼を選び、作品を作らせ、天国へと引き取っていった。

決して必要以上に崇め奉るのではなく、一人の人間として激動の時代を生き抜いた彼に寄り添い思いを馳せる、そんな作品に仕上がっていた。

(75点)
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「胸騒ぎ」

2024年05月16日 21時06分55秒 | 映画(2024)
見ると不幸な気分になる。


なんでもあの「ファニーゲーム」に匹敵する衝撃だそうである。

事前の情報からバッドエンドが分かってしまうのはある種のネタバレではあるが、一抹の期待を持ちながら観て打ちひしがれるよりは精神衛生上良いのかなと、覚悟をしながら映画館へ足を運んだ。

あらすじもそれなりに知っていて、旅先で出会って仲良くなった家族に招待を受けて遊びに訪れるが、とんでもない悪夢の週末になるという話である。

「ファニーゲーム」は前半から青年二人が異常性と不快指数をMAXにするが、本作で主人公・ビャアンの一家を陥れるオランダ人夫妻は、はじめは極めてフレンドリーに振る舞う。だからこそビャアンたちは、数か月前の夏の良い思い出のリピートを期待して、自ら悪夢へと足を踏み入れていったのだ。

ただ、少しずつオランダ人夫妻・パトリックたちとの間に違和感が生じていく。ベジタリアンだと知っているはずなのにイノシシの肉を執拗に勧めてきたのを手始めに、娘・アウネスの寝床、会食での熱過ぎるダンス、ドライブでの大音量音楽と、積み重なる筋違いのおもてなしに一気にストレスが溜まり、ビャアンたちは夜明け前にこっそりと家を抜け出す。

しかし、ここでアウネスのお気に入りのぬいぐるみがなくなっていることに気付き、仕方なくUターン。起床していたパトリックたちの謝罪と説得を受けて滞在は継続することになってしまう。

「必ず最高の一日にするから」というパトリックの言葉のとおり、改めて開放的な田舎の暮らしを楽しむが、それは一瞬のこと。昼食後にアウネスと、パトリックの子供・アベールがダンスを披露するという場になって、突然に家の中の空気が修羅場と化す。

舌がなくて話すことができないというアベールの存在が物語の鍵となるのだが、前評判どおりオランダ人夫妻の胸糞悪さはかなりのものである。アウネスとアベールという二人の幼気な子供が不幸な目に遭うのもげんなりする。

原題が"Speak No Evil"でもあり、理解不能な悪魔と解釈するのが妥当なのだろうけど、それにしてはまわりくどい部分が多いとも思った。

パトリック夫妻の目的が最後に明らかになる「あれ」であるならば、ビャアンたちを招き入れた時点で豹変してもおかしくないところを、何故違和感を小出しにしていたのか?ビャアンたちの振る舞いによっては無事に帰れるシナリオが存在したのか?

ビャアンたちがパトリック夫妻の意に沿わなかったのが不幸の原因とするならば、未遂に終わったとはいえ一時的に逃亡できたのは何故なのか?ぬいぐるみの件がなくても結局は逃げられない手筈になっていたのか?

重箱の隅なのかもしれないが、小さな違和感が積み重なって・・・というのは邦題にもつながっている本作のポイントでもあり、ご都合に思われないよう、故意ではない違和感は少なくしてほしかったというのが正直なところ。

J.マカヴォイ主演でのリメイク製作が決定しているという話だが、どうなることやら。

(65点)
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「恋するプリテンダー」

2024年05月11日 22時10分32秒 | 映画(2024)
見れば幸せな気分になる。


なんでもこの冬のサプライズヒットだったそうである。

必ずしも世界的なネームバリューがあるわけではないキャスティングによる普通のラブコメが、現時点で2億米ドルを超える興行収入をたたき出したのだ。

理由について新型コロナが明けたからだとか様々な憶測が飛び交っているが、どういう作品なのか、本当に普通のラブコメなのか、とにかく観てみなければ始まらない。ということで公開早々に映画館へ足を運んだ。

冒頭、一人の女性がカフェを訪れる場面から始まる。若いけど絶世の美女という感じではない。どちらかと言えばファニーフェイス。ひょっとして彼女が主役なの?

女性はトイレを借りようとするが、杓子定規な店員は客でなければ貸せないと突っぱねる。そこにオーダーに並んでいた男性が助け舟を出す。「彼女はぼくの妻なんだ。妻の商品もオーダーしたから、トイレを貸してくれるよね」。

ドラマティックな出会い。確かにひさびさのラブコメ感満載の展開に期待は膨らむ。

女性=ビー(ベアトリス)はトイレへ駆け込むが、そこで洗面台の水をジーンズの股間にかけてしまう大失態。なんとか乾かそうととんでもない恰好でハンドドライヤーに股間を近づけて悪戦苦闘するビーの姿に、期待は確信に変わる。

ビーを演じるのはS.スウィーニー。最近急激に注目を浴びるようになった女優で、「マダムウェブ」にも出てたようである。確かにあの少女たちはかわいかったね。

よく考えれば、絶世の美女よりもくるくる変わるファニーフェイスの方がラブコメに合っているのも当たり前の話。物語が進むごとに、花咲く笑顔と愛らしいキャラクターが観る側に浸透して、魅力を最大限に押し上げる手筈になっているのだ。

トイレを終えて事なきを得たビーと、彼女を助けた男性=ベンは、店を出てから街を歩き、ベンの家へ行き、楽しい会話をしながら寝落ちして一夜を明かす。それは邪な気持ちなど一切ない、極めて自然で最高な時間だった。

しかしビーは、あまりにうまく行き過ぎた展開に怖気づいて、こっそりとベンの家を抜け出して帰ってしまう。彼女の気持ちが理解できないベンは、友人のピートに「最低な女だった」と愚痴を言うが、これを考え直して戻ってきたビーがうっかり耳にしてしまったから、さあ大変。

こうして書いていくとキリがないのでほどほどにしておくが、とにかく次から次へとベタの応酬である。主人公の男女は結ばれる運命にあるのに、良い方にも悪い方にも偶然過ぎることがこれでもかというほど起きる。

主人公の周りにも個性的なキャラクターが散りばめられる。ビーの元フィアンセ、ベンが昔フラれた元カノ、結婚式を挙げるビーの姉とベンの女友達、元カノのBFや結婚する二人の両親も含め、人種と個性と人間関係が入り乱れて混乱するがノリと勢いで突っ走っていく。

これでいい。これだからいい。でも、何でこの種の映画が最近なかったのか?と思うよりも、何故本作がこんなにヒットしたのかという疑問の方が大きいのは変わらない。

主人公のすぐ横に同性愛カップルを配置したとはいえ、グラマラスな肢体を持つビーと筋肉隆々のベンは、劇中の多くの場面で肌を露出し、典型的な女性と男性のアイコンとして機能しており、ビーが子供のころから結婚に憧れていたという設定もLGBTQ隆盛の逆を行っている。

実際S.スウィーニーは、最近ある映画プロデューサーから「美人でもないし、演技も下手なのになぜこれほど人気があるのか」と言われたそうで、この流れを理解できない、またはおもしろくないと思っている人は一定数いるのだろうと推察する。

それでも結果こそがすべて。こういう物語を欲している人たちが多くいることを証明したことは大きい。古典的なラブコメが好きなことも多様性に混ぜてもらってもいいじゃない。

(90点)
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「パストライブス/再会」

2024年04月13日 23時31分40秒 | 映画(2024)
心の表面張力。


幼なじみのナヨンとヘソンはとても仲良し。学校帰りはいつも一緒。ちょっとしたことで泣くナヨンをヘソンがなだめる。そんな関係は居心地が良くて、ナヨンは母に「将来ヘソンと結婚すると思う」と言っていた。

しかしある日、突然の別れが訪れる。ナヨンの両親がカナダへの移住を決意したのである。気持ちがどうあっても子供にはどうすることもできず、「さよなら」と一言だけ残して別の道を歩く二人。

12年の月日が流れ、どれほど距離が離れていてもSNSですぐに繋がれる世界がやって来た。英語名でノラと呼ばれるようになったナヨンは、ヘソンが自分のことを探していることを見つける。すぐに昔のように打ち解ける二人。毎日PCの画面越しにデートを重ねる日々が始まった。

が、またも二人に試練が訪れる。ニューヨークで暮らすノラはヘソンに「いつNYに来るの?」と言い、ヘソンはノラにソウルに来てほしいと言う。しかしお互いこれから社会へ飛び立とうとする時期で、将来の夢を放り出して相手の元へ駆け込むほど覚悟はできていなかった。

「しばらく連絡するのはやめましょう」とノラが言い、「じゃあ一年後に」とヘソンは応えた。しかし「一年後」はうやむやになり、二人は別のパートナーとの生活を始めた。

幸運の女神には前髪しかないと言う。ノラはアーサーという白人男性と結婚した。一方でヘソンは付き合っていた女性と破局し、NYにいるノラに会いにやって来る。

ノラとアーサーは作家である。芸術肌で洗練された街に住み、身なりも暮らしぶりもクール。進歩的な夫婦だから、ノラはアーサーにヘソンについてすべてを隠すことなく話し、ヘソンの訪問を堂々と受け入れる。

初めてNYへ来たヘソンは落ち着かない様子でノラを待つ。ノラは満面の笑顔でヘソンを迎え、歓迎のハグをする。二人はNYの街を歩き回りながら、昔と同じように仲睦まじい時を過ごす。

一日目の夜、自宅に戻ったノラはアーサーに告げる。「あなたの言ったとおりだったわ。彼は私に会いに来た」

いくら進歩的と言っても、幼なじみの初恋のひとに会うと言われて心中穏やかでいられる人はそうはいない。アーサーはノラに事前に忠告していたのだ。

それでもノラは翌日以降もヘソンのNY観光に同行した。時折ヘソンが見せる明らかに未練がある表情にノラが気付かないわけはなかった。

最後の晩、ノラはヘソンをアーサーに会わせる。それは、今の自分を克明なまでに見せつけてヘソンに諦めさせようとしたかのようであった。

しかし最後に、ノラがヘソンを見送った後に大きなどんでん返しが訪れる。

心が揺らいでいたのはノラも同じだったのだ。

メリーゴーラウンドの前で口にした言葉。「12年前は子供だった」「でも今は大人になった」。まったくそんなことはなかった。

「昔のナヨンはもういないんじゃない。あなたの中に置いていったの」

生きていく中で様々な選択をしてきた。それらは決して間違いではなかった。でも何でこんな気持ちになるのだろう。

折り合いをつけなければ。私は大人なんだから。そうして生まれたのが、劇中で何度も出てくる前世の話である。

この世で関わりを持つひと、例えば体がぶつかるとか。そういう人とは前世(パストライブス?)でも繋がりがあったということなのだとノラは言う。それは、好きだという気持ちを懸命に抑えるための方便のように聞こえる。

しかし、そのすべてはラストで崩壊する。アーサーの前で泣き崩れるノラ。この二人が、失意を胸に帰国したヘソン以上に辛い思いを抱く結果に至ったのは皮肉であり残酷であった。

人によっては、ノラの心情や行動にシンパシーを感じられないという人がいるかもしれない。しかし、盛り上がる気持ちのままに振る舞って一線を越えてしまうドラマティックな恋愛と一線を画し、とことん理性と折り合いを付けようと寸止めを続ける三人の物語は、新鮮で興味深く見応えがあった。

(90点)
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