Con Gas, Sin Hielo

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「セッション」

2015年05月05日 09時44分15秒 | 映画(2015)
私が直す。私が壊す。


世代が知れる話だが、スパルタといってまず思い出されるのが戸塚ヨットスクールである。昭和の時代は、運動部は水も飲まずに過酷な練習に取り組むのが当たり前であったが、犠牲者が出たヨットスクールの事件が行き過ぎた指導として捉えられるようになり、ここから体育会系のノリが少しずつ修正されはじめた印象を持っている。

しかし、主流ではなくなったもののヨットスクールは現在も存在し、その教育方針を支持する一定の層が存在していることも事実だ。苦しみを乗り越えて初めて得られるものがあるとする理論が100%間違っていると言うことはできない。

本作の舞台は名門音楽大学。その中でもトップの技量を持つ者しか所属できないジャズバンドがあった。

ドラムを専攻する新入生のニーマンは、そのバンドを率いるカリスマ的存在のフレッチャー教授からスカウトされ、意気揚々とバンドへと乗り込む。しかし、そこは想像を絶するスパルタの海であった。

寸分のピッチのズレやテンポの乱れも許さない。少しでも気を抜けば、人間性を根本から否定するような叱責の言葉を浴びせられ、更にはビンタや物が飛んでくる。

フレッチャーは、かつてのジャズの名手チャーリー・パーカーのエピソードを挙げて自らの指導の正当性を説く。彼の実力と実績は誰も疑いを挟む余地がないから、学生は歯を食いしばってついていくしかない。

しかし次第に精神に異常を来していくニーマン。仲良くなりかけた彼女に突然別れを告げ、親族との食事会で周りに悪態をつく。

芸事を極めるためには無駄なものはすべて切り捨てるべきというフレッチャーの理想は、正しいか正しくないかでは測れない。それは、ある意味では正しく、違う意味では正しくないから。

ニーマンの技量は確実に向上する。しかし、フレッチャーの中に根付く異常性が物語をあらぬ方向へと大きく揺り動かしていく。

競争相手をあてがってやる気を刺激するという発想に悪意はないが、付随する言葉に期待や愛情が微塵も感じられない。むしろ憎悪と悪意がニーマンを少しずつ追い詰め、異常な関係の終わりを告げる事故の場面へ繋がっていく。

ただ、これで終わらないのが本作の凄いところで、もうひとつの残酷なシナリオが待ち受けている。あまりの仕打ちに、当事者でもないのに座席に押し付けられるような圧迫感と居心地の悪い汗が流れるのを感じた。

圧倒的な存在感で迫るJ.K.シモンズが納得のオスカー戴冠。狂気の場面はもちろん、バーのピアノ演奏や知り合いの子供を相手にしたときの普通の人間ぶりが、この話の鋭さを一層際立たせる。

圧力を全面に受けて立つM.テラーの熱演も特筆モノだ。異常には異常で立ち向かわなければ生きられない。最後の圧巻の演奏は新たな狂気の始まりでもあるが、力を出し切っての一発締めは爽快の一言に尽きる。

音楽を素材にしたこの素晴らしい映画を、オープンしたばかりのTOHOシネマズ新宿で観られたのは幸運だった。

(95点)
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2 コメント

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Unknown (ふじき78)
2015-05-15 10:49:35
これを日本の落語でやったら面白いかもとかいう変な連想を思い付いてしまった。完璧に仕上がっても目がいってるので誰も笑わない、みたいな。
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突き抜けたその先 (クラム)
2015-05-21 18:33:44
ふじき78さん、こんにちは。

確かに落語の世界は師弟関係が厳しそうな印象があります。
闘いの向こうに生まれる笑いもあるとは思いますが、
ひとりで恍惚になってはだめでしょうね。
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