21世紀の生きるファンタジー。
彼女が地上波などの、いわゆるメインストリーム的な媒体に出なくなってから、どのくらい経っただろう。
ただその間世の中も少しずつ変わって、テレビに出ずとも活躍の場を至るところに探すことができるようになった。
むしろ他の同年代の人たちと明確に異なる活動を続けることで、彼女の存在感は一層際立つ方向に働いている。
その証拠が、いまだに一定の間隔で主演映画が作られ、その作品に多様な才能を持った製作陣や共演者が集まってくるということだ。
そんな彼女の個性や境遇を端的に示唆した言葉が、本作の冒頭に画面に現れる。
「男か女かはどっちでもいい」
これはジェンダーフリーよりも広い意味で、本作の主人公である「さかなクン」、そして主演ののんの存在の強さを結び付けるものである。
小さいころから魚好き、というより魚のことしか頭にないミー坊。学ランを着ている場面や、周りの人たちと交わす言葉の端々から推測するかぎり、設定としては男子だ。
しかし、そのことは脚本の中心にはほとんど反映されない。話としては、ひとりの魚好きの子供であった「ミー坊」が周りの人たちを巻き込み、時には支えられながら、「お魚博士」になるまでの物語として完結している。
劇中のエピソードは、おそらく原作をかなりアレンジしたものであろう。多分にドラマ的であり、ありえなさやベタな展開が目立つ。
ただ、設定や主人公の存在がやや宙に浮いた話であることから、これをファンタジーと捉えればなくはないかと思えてくる。そしてそこに「のん」の存在はかっちりとハマる。
蛇足になるかもしれないが、ファンタジーでありながらもその裏にある暗い部分も透けて見えるところは興味深い。愛情に包まれてすくすくと成長したミー坊の陰で、家族は別離して、母親は厳しい経済状況に陥っている様子が、何の説明もなく描かれている。
夢を叶えることは可能だけどそれなりの代償要るよって、どこか斜に構えた感じは嫌いではない。
(70点)
彼女が地上波などの、いわゆるメインストリーム的な媒体に出なくなってから、どのくらい経っただろう。
ただその間世の中も少しずつ変わって、テレビに出ずとも活躍の場を至るところに探すことができるようになった。
むしろ他の同年代の人たちと明確に異なる活動を続けることで、彼女の存在感は一層際立つ方向に働いている。
その証拠が、いまだに一定の間隔で主演映画が作られ、その作品に多様な才能を持った製作陣や共演者が集まってくるということだ。
そんな彼女の個性や境遇を端的に示唆した言葉が、本作の冒頭に画面に現れる。
「男か女かはどっちでもいい」
これはジェンダーフリーよりも広い意味で、本作の主人公である「さかなクン」、そして主演ののんの存在の強さを結び付けるものである。
小さいころから魚好き、というより魚のことしか頭にないミー坊。学ランを着ている場面や、周りの人たちと交わす言葉の端々から推測するかぎり、設定としては男子だ。
しかし、そのことは脚本の中心にはほとんど反映されない。話としては、ひとりの魚好きの子供であった「ミー坊」が周りの人たちを巻き込み、時には支えられながら、「お魚博士」になるまでの物語として完結している。
劇中のエピソードは、おそらく原作をかなりアレンジしたものであろう。多分にドラマ的であり、ありえなさやベタな展開が目立つ。
ただ、設定や主人公の存在がやや宙に浮いた話であることから、これをファンタジーと捉えればなくはないかと思えてくる。そしてそこに「のん」の存在はかっちりとハマる。
蛇足になるかもしれないが、ファンタジーでありながらもその裏にある暗い部分も透けて見えるところは興味深い。愛情に包まれてすくすくと成長したミー坊の陰で、家族は別離して、母親は厳しい経済状況に陥っている様子が、何の説明もなく描かれている。
夢を叶えることは可能だけどそれなりの代償要るよって、どこか斜に構えた感じは嫌いではない。
(70点)
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