Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「クワイエットプレイス:DAY1」

2024年06月30日 11時46分49秒 | 映画(2024)
無理ゲーの際を攻める。


2018年の公開時は、低予算のサプライズヒットだった「クワイエットプレイス」。続篇が作られるなど相当な稼ぎがあったのだろう。今回は、大都会ニューヨークを舞台に特殊撮影満載の大作として映画館に帰ってきた。

第1作の時点で既に世界が崩壊していたところ、そのきっかけとなった最初の日々、クリーチャーが地球へ襲来してきた時期を描く前日譚的な作品となっている。

最近よく見る前日譚、作られる割りには、その後の出来事が分かってしまっているだけに盛り上がらないことがよくある。しかし本作に関しては、パニックの規模が前作を遥かに上回るものとなることが容易に想像でき、ある意味まったく違う作品として期待が膨らんだ。

冒頭、ニューヨークの雑踏の音量が90デシベルであるという字幕が出る。何百万人が常に動き続ける街で音を出さないことがどれだけの無理ゲーであるか、この時点で映画のイントロとしては成功である。

さて、第1作では登場人物の出産という驚くべき無理要素を入れていたが、今回は大都会が舞台であることに加えて、主人公がホスピスに通う末期患者であることと、彼女がネコを肌身離さず連れていることを突っ込んできた。

赤ちゃんもそうだが、ネコも鳴くよね。本来であれば。しかしそこはきちんと乗り越える。演技も上手い素晴らしいネコである。代わりに、服が破れた音だけで襲われてしまうかわいそうな人がいるところは、相変わらずさじ加減が上手いクリーチャーである。

そういった苦言は多少ありながらも、ニューヨークの街で繰り広げられるクリーチャーと人間の戦いは非常におもしろく見られる(戦いと言っても人間は逃げるしかないのであるが)。自動車の防犯アラーム、公園の噴水、地下鉄の構内など、都会ならではのアイテムを駆使した攻防は見どころに溢れている。

そしてパニック映画の添え物でありながら結構重要な要素ともなる主人公のストーリーについても、それなりに作られていて白けさせない。ホスピスという設定が最後になって生きてくるところも加点要素である。

前日譚のもう一つのネックは、当該作に続く続篇が作りにくいことにあるが、この後本シリーズはどこへ向かうだろうか。

(80点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ザウォッチャーズ」

2024年06月30日 10時55分21秒 | 映画(2024)
見つめていたい。


1983年に全米No.1の大ヒットとなったThe Policeの"Every Breath You Take"は、実は執拗に監視を続けるストーカーの歌だというのは有名な話である。

柔らかなメロディーに騙されがちだが、君のすべての呼吸をI'll be watching youと言われたら、ぞぞっと寒気がする。そう、"Watch"はいくつかある「見る」の中でも「監視する」の意味を強く含む単語なのである。

あのM.ナイト・シャマラン監督の娘、I.ナイト・シャマランがメガホンをとったということで一部で話題の本作。"Watchers"=監視者とは誰なのか?父親と同様にとんでもないものが大画面にばーんと登場してしまうのか?というあたりに関心を持ちつつ映画館へと足を運んだ。

主人公のミナを演じるのはD.ファニング。久々に見たが、少し擦れた感じの女性が似合うようになっていた。

何やら心に傷を抱えていて、目に力がなく、持て余した時間を電子タバコをふかすことで消費するミナは、知り合いからの依頼を受けて遠くの町までオウムを運ぶことになる。しかし、クルマはうっそうとした森の真ん中で突然動かなくなり、助けを求めに行ったミナは道に迷ってしまう。

もうすぐ夜が来る。ただごとではない物騒さに恐怖を感じるミナの前に年老いた女性が現れ、死にたくなければ付いてくるよう告げた。老女の後を追ってたどり着いたその場所は、大きな窓のあるコンクリートの箱部屋であった。

ミナを含む4人の人間は、箱の中で"Watchers"から常に見られている存在だと言う。彼らは何故人間を見るのか。そしてそもそも彼らの正体は何なのか。

本作には原作が存在するらしいが、不思議な設定を組み立てる手並みでは父親譲りの巧さを見せる。

更に、"Watchers"の見せ方に関しては、影や光の加減を使うなどによりあからさまにせず余白を持たせた形をとっている点で、父親よりも格調高い画面を作ることに成功している。

事前の印象からホラーを期待した人には物足りないかもしれないが、ファンタジーとして見れば、彼らの正体やその背景、ミナと"Watcher"が対峙するクライマックスの展開に疑いなく合点がいく。

何よりも、食傷気味になってもシリーズものの続篇やアメコミヒーロー絡みで商売せざるを得ない状況において、独自性を持った作品を作り続けることは非常に意義のあることであり、その流れを受け継ぐ逸材の出現を歓迎したい。

(75点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「告白 コンフェッション」

2024年06月02日 13時32分37秒 | 映画(2024)
墓まで持っていくべき案件。


上映時間74分。最近長時間化が著しいと言われる中で激しく逆行する潔さ。

主人公の浅井は、大学の山岳部で一緒だったジヨンと登山の最中に悪天候に見舞われ遭難してしまう。ジヨンは足に大けがを負っており長い距離を歩けそうもない。死を確信したジヨンは突然浅井に告げる。

「俺はさゆりを殺した」

さゆりは、これも山岳部で一緒だったが、16年前に遭難して行方不明になってしまった女性である。突然の告白に戸惑う浅井だが、その後近くに避難できる山小屋を発見する。

死に際の告白のつもりだったのに、助かってしまった。気まずい・・・、というか秘密を知ってしまった自分は消されるのでは?二人のひと晩の攻防の行方はいかに。

映画の冒頭はあまりのショボさに笑ってしまった。難しいのかもしれないけど、もう少し導入部を丁寧に描けなかったかなと。告白された浅井がちょっと立ち上がって数歩歩いたら向こうに山小屋が見えたり、動けないから死を確信したのだろうに、浅井の肩を借りたら目と鼻の先くらいとはいえ少し高台の山小屋まであっさりたどり着けてしまったり。

その後もコントのようなやりとりが続く。自分を殺そうとしているのではと怯える浅井が、ジヨンの持っているサバイバルナイフを奪おうとトイレに行っている隙に試みるが、突然背後にジヨンが立っていて仰天する。大けがしている人間が音を立てずに近寄るってあり得ないでしょう。

まあ、そんなこんなで何を見せられてるんだ状態が結構続く中で、ジヨンはついにキレて山小屋の中で鬼ごっこが始まる。階段落ちやら、貞子風の這いずりやら、ジヨンが体を張ってがんばるが、ストーリーも後半の後半に入ってようやく意外性が出てきておもしろくなる。

半分ネタバレになるが、キーワードは浅井の秘密と夢オチである。救助隊への電話で「一人です」と言った部分が回収され、あまりに強烈だった夢の影響で思わず現実のジヨンに引っ掛かる言葉を漏らしてしまう顛末はうまくできていた。

それより何より映画館の大画面で奈緒のアップが見られただけで、かなり満足度が上がったのであるが。

(70点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「関心領域」

2024年06月02日 12時24分37秒 | 映画(2024)
塀が隔てる正しさと幸せ。


ナチスドイツを題材にした作品は様々あって、ジャンルも正統な歴史モノからSFやコメディまで実に幅広い。いわばレッドオーシャン状態であり、ここで新たな作品を作ろうとしても新味を出すのはなかなか難しいのではないかと思っていた。

そうした中で本作は、アウシュビッツ捕虜収容所の隣に家を建てて暮らしている家族の日常生活を描くという画期的な設定を打ち出してきた。ナチスの蛮行を直接映さずに、空気感だけでどのように異常性を伝えることができるのか大いに興味を持った。

冒頭、黒い画面にタイトルが映され、それが消えた後不穏な音楽とともにしばらくブラックアウトが続く。アカデミー賞では音響賞を受賞したそうだが、エンドロールの音楽を含めて、何気ない日常に潜む異常性を伝えるのに一役買っていた。

主人公はドイツ軍人のルドルフとその家族。ルドルフは、アウシュビッツ捕虜収容所の所長を務めており、敷地に隣接する一角にプール付きの庭を持つ一軒家を構えていた。

軍人でも所長となれば管理職なので、普段の仕事は公務員のごとく決まったルーティンに乗った出退勤である。職住近接だから家族と触れ合う時間はたっぷり確保できる。ルドルフも妻もこの生活に満足しており、遠い先の将来にまで夢を膨らませるのだった。

ただ、昼は青空の下で太陽の輝きに隠されていた部分が夜になると感じられるようになる。時折響く発砲のような音や、塀の向こうから沸き立つ煙。一切の説明はないが、我々は想像してしまう。

もちろん音や煙は夜にだけ出ているのではない。少しずつ目を凝らして、聞き耳を立ててみると、日常のそこかしこに収容所の暗部のかけらが転がっているのが分かってくる。

ルドルフたちの会話、一家に住み込みで働いているメイド、川遊びをしていたときに流れてきた物質。冷静になってみれば、ここは明らかにほかとは違う空間である。しかしルドルフの妻は、「ここは若いころから夢みてきた場所」と言う。彼女はメイドに向かってこんなことも言う。「夫に頼んで灰にしてもらうよ」

映画の背景や、大局的な歴史を学んでいる者からすれば、何という物言いであり傲慢な態度かという反応になるのだが、ミクロ的に彼女の視点に立ってみれば、実はそれほど常識外れな人物ではないことを理解できてくるところがおもしろい。

ある日、ルドルフは転属を命じられる。栄転ではあったが、妻はアウシュビッツの地を離れるのを嫌がり、彼は単身で行くことに。行った先では軍部の戦略担当とでもいう仕事に就き、アウシュビッツで行おうとしているハンガリーから大量の捕虜を輸送する作戦の中核を担うことになった。

彼は功績を認められ、ほどなくアウシュビッツに戻ることが決まった。大勢の人の命を奪うことが成果とされ、輝かしい人生の階段を上っていく。それがいかに誤ったことなのかは、奪われる側に立って実際に感じてみないことには分かりようがない。

帰還が決まったルドルフは妻に電話で知らせた後、職場を去ろうと階段を下りていくが、急に吐き気に襲われる。インサートされるのは、おそらく現代の収容所の博物館の展示物である大量の靴や遺物。神の手を持った映画の作り手が出演者にいたずらをしたようだ。

それにしても、「関心領域」というのは、直訳ではあるがよくできたタイトルである。不幸は関心の外にあるのだ。最近マイノリティに配慮し過ぎる事例もあるが、それでも気付いてもらえなければ不幸のままなのだから声を上げなければいけないのである。

(80点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ボブマーリー ONE LOVE」

2024年05月18日 21時49分19秒 | 映画(2024)
選ばれしカリスマ。


偉大なミュージシャンを題材にした映画が多く作られるようになったが、今回はレゲエの神様・Bob Marleyである。

ただ、これまでの作品と少し様子が違うのは、伝記のように幼少期から有名になるまでを順を追って描くのではなく、彼のアーティスト人生にとって最大のハイライトとなった1977年前後の2年弱を集中的に取り上げているところである。

彼の祖国・ジャマイカは二大政党による壮絶な政権争いが勃発しており、内戦寸前の状態にまで悪化していた。ボブは音楽で事態の収拾を図れないかとライブの計画を立てたが、そのことが過激派の反発を招き、1976年12月、リハーサル中のバンドは襲撃を受け、ボブ自身も命に別状はなかったものの胸と腕を撃たれた。

ライブ終了後、ボブたちはジャマイカを離れロンドンへと本拠地を移した。平和を訴えるためには、もっと強く世界にアピールできる音楽を作らなければならないと感じた彼は、これまで積極的ではなかった広報活動にも力を入れ、後世に残る傑作"Exodus"を誕生させる。

世界的な成功と名声を手に入れた彼は、1978年に満を持してジャマイカに帰国し、同じ年の4月、首都キングストンでライブを開催し、その場で二大政党の党首を握手させることに成功した。

このくだりを聞けば、誰だって彼を偉人と思うだろう。実際に、命の危険を感じながらも信念を貫いた彼の功績は、決して色あせることのない素晴らしいものである。

しかし本作は、その苦闘の期間のボブと周りの人たちを細かく描くことで、偉人ではあるが必ずしも完璧ではない、人間・Bob Marleyを浮かび上がらせている。

世界ツアーで訪れたパリでの夫婦の言い争いの場面が顕著であるが、カリスマミュージシャンにとって私生活や道徳の優先度は高くなく、パートナーは我慢を強いられる。本作の製作陣に息子のJiggyや妻のRitaがクレジットされていることから、本作で描かれたことはほぼ事実なのだろう。

ボブは皮膚がんをきっかけに36歳で早逝する。これもカリスマミュージシャンの宿命だろうか。希望するしないに拘らず、時代が彼を選び、作品を作らせ、天国へと引き取っていった。

決して必要以上に崇め奉るのではなく、一人の人間として激動の時代を生き抜いた彼に寄り添い思いを馳せる、そんな作品に仕上がっていた。

(75点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「胸騒ぎ」

2024年05月16日 21時06分55秒 | 映画(2024)
見ると不幸な気分になる。


なんでもあの「ファニーゲーム」に匹敵する衝撃だそうである。

事前の情報からバッドエンドが分かってしまうのはある種のネタバレではあるが、一抹の期待を持ちながら観て打ちひしがれるよりは精神衛生上良いのかなと、覚悟をしながら映画館へ足を運んだ。

あらすじもそれなりに知っていて、旅先で出会って仲良くなった家族に招待を受けて遊びに訪れるが、とんでもない悪夢の週末になるという話である。

「ファニーゲーム」は前半から青年二人が異常性と不快指数をMAXにするが、本作で主人公・ビャアンの一家を陥れるオランダ人夫妻は、はじめは極めてフレンドリーに振る舞う。だからこそビャアンたちは、数か月前の夏の良い思い出のリピートを期待して、自ら悪夢へと足を踏み入れていったのだ。

ただ、少しずつオランダ人夫妻・パトリックたちとの間に違和感が生じていく。ベジタリアンだと知っているはずなのにイノシシの肉を執拗に勧めてきたのを手始めに、娘・アウネスの寝床、会食での熱過ぎるダンス、ドライブでの大音量音楽と、積み重なる筋違いのおもてなしに一気にストレスが溜まり、ビャアンたちは夜明け前にこっそりと家を抜け出す。

しかし、ここでアウネスのお気に入りのぬいぐるみがなくなっていることに気付き、仕方なくUターン。起床していたパトリックたちの謝罪と説得を受けて滞在は継続することになってしまう。

「必ず最高の一日にするから」というパトリックの言葉のとおり、改めて開放的な田舎の暮らしを楽しむが、それは一瞬のこと。昼食後にアウネスと、パトリックの子供・アベールがダンスを披露するという場になって、突然に家の中の空気が修羅場と化す。

舌がなくて話すことができないというアベールの存在が物語の鍵となるのだが、前評判どおりオランダ人夫妻の胸糞悪さはかなりのものである。アウネスとアベールという二人の幼気な子供が不幸な目に遭うのもげんなりする。

原題が"Speak No Evil"でもあり、理解不能な悪魔と解釈するのが妥当なのだろうけど、それにしてはまわりくどい部分が多いとも思った。

パトリック夫妻の目的が最後に明らかになる「あれ」であるならば、ビャアンたちを招き入れた時点で豹変してもおかしくないところを、何故違和感を小出しにしていたのか?ビャアンたちの振る舞いによっては無事に帰れるシナリオが存在したのか?

ビャアンたちがパトリック夫妻の意に沿わなかったのが不幸の原因とするならば、未遂に終わったとはいえ一時的に逃亡できたのは何故なのか?ぬいぐるみの件がなくても結局は逃げられない手筈になっていたのか?

重箱の隅なのかもしれないが、小さな違和感が積み重なって・・・というのは邦題にもつながっている本作のポイントでもあり、ご都合に思われないよう、故意ではない違和感は少なくしてほしかったというのが正直なところ。

J.マカヴォイ主演でのリメイク製作が決定しているという話だが、どうなることやら。

(65点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「恋するプリテンダー」

2024年05月11日 22時10分32秒 | 映画(2024)
見れば幸せな気分になる。


なんでもこの冬のサプライズヒットだったそうである。

必ずしも世界的なネームバリューがあるわけではないキャスティングによる普通のラブコメが、現時点で2億米ドルを超える興行収入をたたき出したのだ。

理由について新型コロナが明けたからだとか様々な憶測が飛び交っているが、どういう作品なのか、本当に普通のラブコメなのか、とにかく観てみなければ始まらない。ということで公開早々に映画館へ足を運んだ。

冒頭、一人の女性がカフェを訪れる場面から始まる。若いけど絶世の美女という感じではない。どちらかと言えばファニーフェイス。ひょっとして彼女が主役なの?

女性はトイレを借りようとするが、杓子定規な店員は客でなければ貸せないと突っぱねる。そこにオーダーに並んでいた男性が助け舟を出す。「彼女はぼくの妻なんだ。妻の商品もオーダーしたから、トイレを貸してくれるよね」。

ドラマティックな出会い。確かにひさびさのラブコメ感満載の展開に期待は膨らむ。

女性=ビー(ベアトリス)はトイレへ駆け込むが、そこで洗面台の水をジーンズの股間にかけてしまう大失態。なんとか乾かそうととんでもない恰好でハンドドライヤーに股間を近づけて悪戦苦闘するビーの姿に、期待は確信に変わる。

ビーを演じるのはS.スウィーニー。最近急激に注目を浴びるようになった女優で、「マダムウェブ」にも出てたようである。確かにあの少女たちはかわいかったね。

よく考えれば、絶世の美女よりもくるくる変わるファニーフェイスの方がラブコメに合っているのも当たり前の話。物語が進むごとに、花咲く笑顔と愛らしいキャラクターが観る側に浸透して、魅力を最大限に押し上げる手筈になっているのだ。

トイレを終えて事なきを得たビーと、彼女を助けた男性=ベンは、店を出てから街を歩き、ベンの家へ行き、楽しい会話をしながら寝落ちして一夜を明かす。それは邪な気持ちなど一切ない、極めて自然で最高な時間だった。

しかしビーは、あまりにうまく行き過ぎた展開に怖気づいて、こっそりとベンの家を抜け出して帰ってしまう。彼女の気持ちが理解できないベンは、友人のピートに「最低な女だった」と愚痴を言うが、これを考え直して戻ってきたビーがうっかり耳にしてしまったから、さあ大変。

こうして書いていくとキリがないのでほどほどにしておくが、とにかく次から次へとベタの応酬である。主人公の男女は結ばれる運命にあるのに、良い方にも悪い方にも偶然過ぎることがこれでもかというほど起きる。

主人公の周りにも個性的なキャラクターが散りばめられる。ビーの元フィアンセ、ベンが昔フラれた元カノ、結婚式を挙げるビーの姉とベンの女友達、元カノのBFや結婚する二人の両親も含め、人種と個性と人間関係が入り乱れて混乱するがノリと勢いで突っ走っていく。

これでいい。これだからいい。でも、何でこの種の映画が最近なかったのか?と思うよりも、何故本作がこんなにヒットしたのかという疑問の方が大きいのは変わらない。

主人公のすぐ横に同性愛カップルを配置したとはいえ、グラマラスな肢体を持つビーと筋肉隆々のベンは、劇中の多くの場面で肌を露出し、典型的な女性と男性のアイコンとして機能しており、ビーが子供のころから結婚に憧れていたという設定もLGBTQ隆盛の逆を行っている。

実際S.スウィーニーは、最近ある映画プロデューサーから「美人でもないし、演技も下手なのになぜこれほど人気があるのか」と言われたそうで、この流れを理解できない、またはおもしろくないと思っている人は一定数いるのだろうと推察する。

それでも結果こそがすべて。こういう物語を欲している人たちが多くいることを証明したことは大きい。古典的なラブコメが好きなことも多様性に混ぜてもらってもいいじゃない。

(90点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「パストライブス/再会」

2024年04月13日 23時31分40秒 | 映画(2024)
心の表面張力。


幼なじみのナヨンとヘソンはとても仲良し。学校帰りはいつも一緒。ちょっとしたことで泣くナヨンをヘソンがなだめる。そんな関係は居心地が良くて、ナヨンは母に「将来ヘソンと結婚すると思う」と言っていた。

しかしある日、突然の別れが訪れる。ナヨンの両親がカナダへの移住を決意したのである。気持ちがどうあっても子供にはどうすることもできず、「さよなら」と一言だけ残して別の道を歩く二人。

12年の月日が流れ、どれほど距離が離れていてもSNSですぐに繋がれる世界がやって来た。英語名でノラと呼ばれるようになったナヨンは、ヘソンが自分のことを探していることを見つける。すぐに昔のように打ち解ける二人。毎日PCの画面越しにデートを重ねる日々が始まった。

が、またも二人に試練が訪れる。ニューヨークで暮らすノラはヘソンに「いつNYに来るの?」と言い、ヘソンはノラにソウルに来てほしいと言う。しかしお互いこれから社会へ飛び立とうとする時期で、将来の夢を放り出して相手の元へ駆け込むほど覚悟はできていなかった。

「しばらく連絡するのはやめましょう」とノラが言い、「じゃあ一年後に」とヘソンは応えた。しかし「一年後」はうやむやになり、二人は別のパートナーとの生活を始めた。

幸運の女神には前髪しかないと言う。ノラはアーサーという白人男性と結婚した。一方でヘソンは付き合っていた女性と破局し、NYにいるノラに会いにやって来る。

ノラとアーサーは作家である。芸術肌で洗練された街に住み、身なりも暮らしぶりもクール。進歩的な夫婦だから、ノラはアーサーにヘソンについてすべてを隠すことなく話し、ヘソンの訪問を堂々と受け入れる。

初めてNYへ来たヘソンは落ち着かない様子でノラを待つ。ノラは満面の笑顔でヘソンを迎え、歓迎のハグをする。二人はNYの街を歩き回りながら、昔と同じように仲睦まじい時を過ごす。

一日目の夜、自宅に戻ったノラはアーサーに告げる。「あなたの言ったとおりだったわ。彼は私に会いに来た」

いくら進歩的と言っても、幼なじみの初恋のひとに会うと言われて心中穏やかでいられる人はそうはいない。アーサーはノラに事前に忠告していたのだ。

それでもノラは翌日以降もヘソンのNY観光に同行した。時折ヘソンが見せる明らかに未練がある表情にノラが気付かないわけはなかった。

最後の晩、ノラはヘソンをアーサーに会わせる。それは、今の自分を克明なまでに見せつけてヘソンに諦めさせようとしたかのようであった。

しかし最後に、ノラがヘソンを見送った後に大きなどんでん返しが訪れる。

心が揺らいでいたのはノラも同じだったのだ。

メリーゴーラウンドの前で口にした言葉。「12年前は子供だった」「でも今は大人になった」。まったくそんなことはなかった。

「昔のナヨンはもういないんじゃない。あなたの中に置いていったの」

生きていく中で様々な選択をしてきた。それらは決して間違いではなかった。でも何でこんな気持ちになるのだろう。

折り合いをつけなければ。私は大人なんだから。そうして生まれたのが、劇中で何度も出てくる前世の話である。

この世で関わりを持つひと、例えば体がぶつかるとか。そういう人とは前世(パストライブス?)でも繋がりがあったということなのだとノラは言う。それは、好きだという気持ちを懸命に抑えるための方便のように聞こえる。

しかし、そのすべてはラストで崩壊する。アーサーの前で泣き崩れるノラ。この二人が、失意を胸に帰国したヘソン以上に辛い思いを抱く結果に至ったのは皮肉であり残酷であった。

人によっては、ノラの心情や行動にシンパシーを感じられないという人がいるかもしれない。しかし、盛り上がる気持ちのままに振る舞って一線を越えてしまうドラマティックな恋愛と一線を画し、とことん理性と折り合いを付けようと寸止めを続ける三人の物語は、新鮮で興味深く見応えがあった。

(90点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オッペンハイマー」

2024年04月07日 09時04分38秒 | 映画(2024)
天才が背負う責任。


来年は昭和100年だという。最近の昭和ブームは高度経済成長からバブルに至るまでの、いわば昭和後半を対象としているが、何よりも昭和を象徴するできごとであり、わが国全体の大きな転換点となったのが昭和20年の敗戦であったことは言うまでもない。

日独伊の三国同盟で連合軍に立ち向かい、他国が陥落する中で最後まで戦いを諦めずにいた結果として、広島と長崎に原子爆弾を投下され、わが国は今でも続く世界唯一の被爆国となった。

その歴史から、世界のどの国よりも原爆に対して強い思いを持つわが国において、本作の扱いに様々な意見が出たことは当然である。

作品の中身を見ずに公開に反対するなんて、という声も聞かれた(私も同感である)が、そのような思いを抱く人がいるということは理解できる。

本作は、わが国を除く世界では昨年の夏に公開され空前のヒットを記録した。先ごろ発表になったアカデミー賞でも主要部門を多数獲得し、そうした実績を引っ提げて、ようやくわが国でも公開されることになった。

結果的には良かったのかもしれない。公開の是非を巡る議論が沸騰していたころから作品の存在は広く認知され、今回の公開はIMAX等のフォーマットを網羅する大規模なものとなった。我々は巨匠C.ノーラン監督がこの問題をどう捉えたのかを鑑賞し、冷静に向き合うチャンスを与えられたのである。

上映時間が長いという話は聞いていた。オッペンハイマー博士の人生について、原子爆弾を開発し広島・長崎で使用するまでの上り坂と、その後思想の変化を伴いながら没落していく下り坂の両方を描くということも、前情報として知っていた。

実際に観てみると、前半と後半は想像以上にすべてが異なっていた。まるで2つの違う映画を観るようであった。

後半でメインとなるオッペンハイマー博士の聴聞会、ストローズ議員の公聴会の場面は前半にも登場するが、前半は基本的にその聴聞会で博士が語る過去の経緯が主となる出世物語である。

前半はとにかく勢いがある。天才故というのだろうか、道徳からかけ離れた行為を数多くやらかしながらも、それを力ずくでねじ伏せるべく成果を上げていく。理論の内容などはこちらの頭には入ってこなくて何を言っているのか分からない場面が多いが、あれやこれやしながら、彼の名はやがて世界政治の舞台に届くこととなる。

米国軍の将校から、原爆製造の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」への参画を持ちかけられた博士。もともと研究の傍らに取り組む組合活動にも熱心だった彼は、自分の研究が国の役に立つなら、もっと言えば、自分こそがドイツに打ち勝つための最重要人物であるというほどの気概で原爆開発に身を捧げることを決断する。

科学と政治の付き合い方は難しい。学問は政治から切り離されるべきだという正論は述べつつも、政府からの交付金がなければ研究は続けられないし、政府としても限りある予算の使い道として公のためになることを説明できなければ資金を与えることができない。

軍事利用を禁止すべきだと言っても、どこで線引きをするのか、違う目的で進めていた研究を他者が軍事に転用する可能性はないのか、簡単には整理できない。

その中でひとつ分かることがある。それは餅は餅屋だということ。

博士が少なからず政治的な意図をもって原爆の開発に当たったことが、世界の歴史と、博士自身の人生を変えてしまったような気がした。

特にドイツが降伏した後、何故開発を続けたのか、そして広島・長崎に原爆を投下したのか。今も一部のアメリカ人は、原爆投下こそが戦争を早く終わらせて多くの人の命を救ったのだと主張するが、それは絶対に間違いである。

原爆投下の予行演習であった核実験の成功をもって前半は終わる。広島・長崎への実際の投下はニュースの音声として流れ、映画は後半の聴聞会と公聴会へと移る。

世の中は、原子爆弾から更に強い水素爆弾への移行を目指していた。その中心となっていたのがストローズであり、彼はこの功績をもって重要閣僚に成り上がろうとする野心的な政治家であった。

ストローズは天才・オッペンハイマー博士を新たな研究所の所長に招へいしたが、博士はそのころ既に宗旨替えをしており、ストローズと博士はことごとく対立することとなる。

立身出世の物語が一転して法廷モノのような空気に変わる(裁判ではないと口酸っぱく言われるが)。大音量と激しい動きがあった前半と正反対の「静」の空間へと変わる。

劇中では、アインシュタイン博士に「人はどこかで業績に向き合うときが来る」というようなことを言わせている。原子爆弾の開発と投下は、ひとりの人間が引き受けるにはあまりにも大きい事象であった。事実かどうかはともかく、劇中のオッペンハイマー博士は良心の呵責に苛まれ、一時的にその地位を失う憂き目に遭う。

時とともに人心が移ろう様子も克明に描かれる。原爆投下直後には地鳴りのような大きな歓声で博士を称賛した人たちが一転してオッペンハイマーに懐疑的な目を向ける。一時の勢いに乗って物事を決めることがなんて恐ろしいことか。情報が瞬時に世界を行き来する現代だからこそ肝に銘じたい。

聴聞会はストローズの謀略のためか非公開で進められた。そのため事実かどうかは分からないのだが、オッペンハイマー博士を追求する弁護人が広島・長崎の原爆でどの程度被害が出ると予想していたのかについて強く詰め寄る場面があった。博士はあまりにも大きな被害が出たから宗旨替えをしたと言ったのだが、では何人ならば良いとなるのかということである。

当然博士は返答に詰まる。ブレているのである。あれだけのことをやっておいて、今更きれいごとの世界に逃げようとしたってそれは許されないでしょう?

この映画はオッペンハイマー博士を否定はしない。多くの間違いを犯すひとりの人間として描いている。ただ彼は天才だったため、その間違いが世界や多くの人の人生を変えてしまったという事実を語っている。

最後は博士だけでなく、ストローズも痛手を被る。しかし、この一連の原爆開発で最大の被害を受けたのは世界中のすべての人である。80年経った現代においても、どこかで狂人が現れて核のボタンを押すことがないようにと願うことしかできなくなってしまったのだから。

(80点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゴーストバスターズ/フローズンサマー」

2024年04月05日 23時42分16秒 | 映画(2024)
これで、もとどおり。


前作の「ゴーストバスターズ/アフターライフ」がそれなりにヒットしたことにより同じメンバーで作られることになった続篇。ただ今回、J.ライトマンは監督から退き、共同で脚本を執筆したG.キーナンが担っている(二人での脚本は変わらず)。

「アフターライフ」はこれまでのゴーストバスターズとは一線を画す作品であった。シリーズの真骨頂と言える「ゴースト」と「コメディ」が鳴りを潜め、代わりに前面に押し出されていたのは、初代ゴーストバスターズの頭脳であったイゴン博士の家族を中心とした人間ドラマであった。

良く練られたドラマに加えて、B.マーレイD.エイクロイドといったレジェンドバスターズが久々にそろい踏みするという豪華さも手伝ってのヒットだったのだと思う。

約3年の月日が経ち、スペングラー一家はニューヨークへと転居し、新生ゴーストバスターズとして日々奮闘していた。M.グレイス演じる孫娘のフィービーは15歳となり、大人の美しさを醸し出す眩しい女性へと成長していたが、いかんせん未成年であることが問題となり、市長からゴーストバスターズとしての活動を禁じられてしまう。

納得がいかないフィービーは、ふとしたことで出会ったゴーストのメロディと仲良くなるが、メロディの後ろに世界を滅ぼそうとする邪神の影があることには気付いていなかった。

というわけで、基本的には前作と同様に話の中心はフィービーであり、思春期を迎えた彼女の複雑な感情が問題を引き起こす。実の母親が手を焼く中で、前作で急接近してどうやら結婚したらしい義父を含めて、新しいスペングラー一家の絆が描かれる。

並行してレジェンドバスターズも今回は序盤から登場して、かつての友情だけでなく、正しいリタイア後(ゴールデンイヤーズ)の生き方を模索する様子にスポットが当たる。

ただ、いずれのドラマも前作から連なる軸での物語であり、もうひとつ跳ねた感じがしなかったのが正直なところ。レジェンドたちも、前作で溜めて溜めてクライマックスで満を持して登場、という流れに比べると、新鮮さや爆発力で劣ってしまっていた。

作り手はその辺りを分かっていたのだろう。今回はゴーストにかなり比重が置かれており、最大の敵である邪神のガラッカに加えて、非生命体を移動するゴースト、前作に引き続いて登場のミニマシュマロマン、旧シリーズで出てきていた食いしん坊のゴーストなど、個性豊かなゴーストが全編を通して画面中を飛び回っていた。

ニューヨークに舞台を移したことを含めて、これをもってゴーストバスターズが帰ってきたということになるのだろう。世界の危機を救い大勢の市民からの喝さいを浴びる様子は、40年前に見た光景。

かつての栄光に戻るのか、新しい時代が始まるのか。M.グレイスが出演するのであれば次作も観ようかな。

(70点)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする