「あの頃」を話したがらない様々な理由(赤い夕陽 6)
三橋雅子
つい先ごろ、昔の仲間と会談した際、何の話からか戦後の満州の話になった。もう一人引揚者が同席していたのだ。昔から、彼女が私のいた新京近くからの引揚者だということは知っていたが、お互い具体的な話はしたことがなかった。ただ、同じ社会調査のメンバーとして、何度も現地で寝食を共にした際、ある時ボスが、その二人どうも共通した「野太い」ところがある、と思っていたら・・・と、満州育ちの引揚者という共通点を指摘されて苦笑したことがある。(ほんとは「図太い・・・」と言いたいところ、さすが年の功で「野太い」とはうまい表現を…と感心したが)50年前、現地調査でかなりの期間滞在した農村地帯の暮らしは、裕福な地域とは言え何かと東京の暮らしからは不便があった。折につけ不自由をかこつ東京人達の中で、私たちは、つい引き揚げ時の、お風呂など何日も入らず、真っ黒い手のまま、あてがいぶちの食事にかぶりついたことを思えば、これきしの不自由など、飢えないだけまし、足を伸ばして寝られるだけありがたい、と諦めが良かったらしい。
しかしそれ以上の具体的な、混乱の戦後の話はしたことがなかった。ずいぶん永年、おしゃべりをしているのに、である。年月を経たせいだろうか?驚いたことに今回、何かの話をきっかけに、私より5つ若い彼女は、5歳にしてレイプの何たるかを私は知ってしまった、とさらりと言ったことである。私のいた新京よりちょっと奥地の、ハンカトンという私も聞き覚えている町では、ソ連進駐軍の「史上稀にみる残虐非道」(前出、半藤著『ソ連が満州に侵攻した日』)がまさしく展開されていたのである。傀儡とはいえ満州国の首都であった新京特別市とは、何と言ってもかなり事情が違って、「子供心にもこわかった、ものすごく」と彼女のいう「怖い」体験は、私には一回しかない。(この時だけは、異様な気配に目覚めると、酔っぱらった兵士が短銃を、引き金を引いたまま父の首に突き付けていて、私の、たいていの荒くれ兵士をとろかす「魔術の片言ロシヤ語」も凍り付いて声にならず、ただ歯がカチカチなるだけだった。ふとしたはずみでこの場面は、こうしてこの先理不尽な死の場面になることも、よく聞き知っていた。)
彼女は私より幼くして、レイプの被害に遭った女性たちのうつろな姿、惨めさ、哀れさを、まじかに見ている。そのこと自体も残酷なことである。彼女が今まで「戦後の満州という共通の思い出」を語らなかったのはそのせいかもしれない、と納得した。
以前にも、親しくしていた同年齢の著名な女性が、何かの拍子に「私も引揚者なの」、に続けて「でもこのことは誰にも言ったことがない、今初めて」と言った。あれから50年にもなるのに、、、上官の命令とは言え、何人もの無残な『肝試しの殺人』に手を下した、というような元兵士の、語りたがらない体験でもあるまいに、なぜ?と不思議な面持をしたのであろう。彼女は「目の前で、父があまりに無残な殺され方をしたので」と辛そうに言った。
澤地久枝さんも引き揚げ体験を語らないことを、私は不思議に思っていた。芦屋の何とかいう女性ホール(?)での講演で、一言も外地での理不尽な戦後体験に触れないことが怪訝であった。和歌山の南部(みなべ)町での講演に、彼女が「どうしてもここには来て果たさなければならない義理がある」とドクターストップをおしてやって来られ、「私は軍国少女でした」と辛そうに語ったとき、ああ、そうだったのか、とその謎が解けた。更に3回目、私は彼女に毎回律儀に付き合わなけければならないと思っているわけではないが、ただ、爆弾同様の心臓を抱えた身で…との想いもあり、それに辺鄙な場所に居ながら妙に縁あってチャンスに恵まれるのである。しかもこの時は、本宮にも生みの苦しみを経て何とか、九条の会が出来、小田実の田辺講演に続いてのイベント、100数十キロの和歌山くんだりまで新宮からもバスを仕立てて、各地の小さい九条の会を拾いながら馳せ参じたのだ。この時彼女は、これまでの鬱屈を吹き飛ばしたように、しかし同じくとても辛そうに「私は軍国少女でした」という痛々しい「告白」を堂々と語った。誠実な彼女はどんなにそのことに自責を感じているか、聴くだに痛ましい。聡明な彼女にして・・・、とその都度私は時代を察知する困難と、ほぼ同世代の、戦争勃発時からその不当性、異常性を鋭く感じ取っていた加藤周一氏の慧眼に改めて尊敬の念を持ってしまう。幼かった自分の免罪にホッとしながら。
しかしこうしてみると、九条の会の「発起人」達もポツリポツリと穴があいていくんだなあ、という感慨を免れない。小田実去り、井上ひさし亡くなり、加藤周一も3・11の前に逝ってしまった。今こそ、彼の慧眼に触れたいのに。
語りたくない過去…幸運に恵まれ続けで、「引揚者の苦労」には何かと遠い私にも、それゆえか、しばらく「引揚者」のカミングアウトが憚れる時期があった。あれは60年安保闘争の華々しいゼネストが成功した時、私の所属は国鉄・東京中央線の小金井管区で始発電車の阻止を支援する役。終電から始発時間までの長い座り込みの間、ふだんにないおしゃべりで夜明けを待っていた。
「ところで君は敗戦時どうしてたの?疎開先?」という先輩の質問に、引揚者であること、生まれから、戦前の暮らしなど、内地生活者が知らないことを問われるままに語ると、「なーんだ、それじゃあ正に帝国主義の手先じゃないか」と一喝された。その通りに違いない。父は全満州の石油の元締めで、関東軍に石油を納めていたツテであろう、満州といえども物資不足に悩まされる中、軍の酒保からの調達で、物に不自由することのない「非国民」だった。戦後のどさくさも、関東軍が逃げ際に清算して行った多大な支払いのおかげで、引き揚げてくるまでの暮らしも、危ない目からの逃亡も、多分「お金の力」で逃げ切ったのだろう。「幸運な引揚者」に違いない。苦労を重ねた人たちに申し訳ない気がして、大きな声では言えなかった。私が選んで生まれてきた親の下ではないから、私の責任ではないけれども、私はいたく傷ついたし、そういう家庭環境に生まれて育ったことを、若気の至りで恥としていた。人前で「帝国主義の手先の家族」の「苦労の少ない引揚者」を語りたくなかった。しかしこれくらいのしこりは、他の人たちの、重く苦しい傷跡に比べれば、傷にもならない「思い出」でしかない。
それぞれに六十数年温めし「しこり」溶かすは赤き夕陽か