石油の高騰に伴って、マイカー燃料のガソリン価格が上がり、庶民に議論されるようになった。そこに目をつけた民主党が、道路特定財源の暫定税率を本則税率にすべきだと主張する。これを与党の道路族の利権か、庶民生活かといったレベルで議論してよいものか▼そもそも現代資本主義は、需要と供給で物価が定まると言った単純な世界ではない。アメリカのサラ金のサブプライムローンが破綻し、ヘッジファンドの矛先が商品相場に向き、金属・石油・穀物の価格高騰を煽っている。ヘッジファンドの横暴を是認するのは、米英日だけで、世界は経済不安を持っている 。物価高騰の問題については、ヘッジファンドのマネーゲームの規制しかないであろう▼道路特定財源については、昭和28年の「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」に始まり、昭和33年の「道路整備緊急措置法」に引き継がれ、今日に至っている。いわゆるガソリン税は、国に入る揮発油税(暫定税率48.6円/リットル・本則税率24.3円/リットル)と、自治体に入る地方道路譲与税(暫定税率5.2円/リットル・本則税率4.4円/リットル)を合わせたものをいう。揮発油税は昭和29年4月に13円/リットルから5回の変更で昭和39年4月に24.3円/リットルと定められた。その後、昭和49年4月に暫定税率29.2円/リットルとされ、3回の変更で平成5年12月に48.6円/リットルとされ現在に至る。地方道路譲与税は昭和30年3月に2円/リットルから3回の変更で昭和39年4月に4.4円/リットルと定められた。その後、昭和49年4月に暫定税率5.3円/リットルとされ、3回の変更で平成5年12月に5.2円/リットルとされ現在に至る。それらの暫定税率の期限が、今年の3月末ということになっている▼新たな法律を作らない限り、自動的に本則税率にならざるを得ない。暫定税率は、この他にも軽油引取税・自動車取得税・自動車重量税がある。庶民生活は楽になり、不況に苦しむ運送業などには良いことかのように思われる。とはいうものの、自動車が引き起こす社会的費用は、これらの税金ではとても賄いきれないのは現実である。道路維持建設・環境保全・救急を含む医療費など、多くの費用は他の税金で賄われて車の存在はある▼暫定税率はそのままにして、特定財源ではなく一般財源にしてしまうのが、社会的公平性からは最も選択すべき方法論であろう。トラック業界や中小業者が不況にあえぐのは、他に問題がある。殆どの荷主は大企業で、大半が中小零細のトラック業者とでは、適正な運賃が支払われない現実がある。中小零細業者にしても、大手の暴利のために、利益を吐き出さされているのが現実である▼燃料の下落は、簡単に大企業の暴利に吸収されるのは明白。とはいえ、目先の生活にあえぐ中小業者の苦境に、何の政策もない現実では、一時の清涼剤であろうか。環境問題に取り組む、わがネットワークとしては、多少、板ばさみではある(コラムX)
澤山輝彦
<氷川清話よリ>
講談社学術文庫の一本に勝海舟の「氷川清話」(江藤淳・松浦玲編)がある。勝海舟の談話集である。最初に勝海舟の談話を編集したのは吉本襄という人でその版「海舟先生 氷川清話」は読みやすいものであったから広く世の中にしられてきたものだそうだ。
だがこの吉本本、書き直しが多く原文の意味が損なわれているものが多いという。文庫版解説によればこの書き直しの中には許しがたいものがあると言うし、もっとひどいのは意図的な書き直しがされていることで、海舟の時局批判、明治政府批判はあらかた削りとられている、首相や閣僚を名指しで攻撃している談話が、まるで世間一般を訓戒しているような抽象的道徳論にすりかえられる、日清戦争の最中に戦争に反対した談話などは初めから収録を見合わせていた、というのである。世の中には腰抜けがいるのは今も昔も変わらないのだ。
「高速道路はまだまだ造る必要があると言が、高速道路はもう造るのを止めてもいいのだよ。あんな物を造りまくって流通流通などと言っている内に、自分たちの食べる物の自給率がどんどん下がって行ったのさ。我が国は瑞穂の国と言うではないか。せめて米だけでも完全自給の道を確保しておかないと、いまにひどい目にあうよ」
「道を造れば急患を運ぶのに便利になるなどと国会で答弁していた大臣がいたが、今は病院に着いても診てもらえず、たらい回しになる時世ではないか、もっと根本的に人が生きてゆける道を造らねばならないのだ」
「最近の日本人はおとなしくなりすぎたようだ。特に若者になあ。すこしはチベットの人を見習ってもいいんじゃないかなあ、大学まで進学する若者が多い世の中になったのに、若者に覇気が無いのだ、そこをうまく利用されているのだよ。これは食い物のせいもあるのではないか、米を中心にした和食を見直す時にきているのさ」
勝海舟風、大和濁話でした。
三橋雅子
<小栗判官の壷湯――湯の峰温泉②>
湯の峰にはもう一つ、小栗伝説にまつわる壷湯がある。これが世界遺産に指定されてしまった。小栗判官とは常陸の国の城主であったが、讒言によって攻められ落城、落ちのびていく途中盗賊に毒殺されて埋ゆられた。しかし餓鬼の姿で生き返り、湯の峰の温泉まで辿り着いて蘇ったと言うのが、ここの壷湯である。二~三人しか入れないので、シーズンには30分区切りの順番待ちになる。あと何時間待ちなどというのを、「これに入らずには来た甲斐がない」と辛抱強く待っている。世界遺産に浴場が指定されたのは世界初、と言えば、どうしても入りたがるものなのか。「日に七色湯の色が変わる」という神秘的な湯に、私も一度入ろうかと思っているうちに、世界遺産騒ぎで一躍ばか高い値上げになったので止めた。地元民たちは、あんな小さい壷の湯なんか、いくら流れているとはいえ汚くて、と入らない。汚いといえば、本宮でもう一つ観光客の集まる湯は川湯で、下から温かい湯が沸いてくるから自分で足で掘って温度を調節する。これも地元では、流れているとはいえねえ…と。〈こんな文章が観光協会の目に留まったら大変、クワバラクワバラ〉冬場は河原を一部堰き止めて巨大で豪快な露天の「仙人風呂」になる。
当初、旅館の「小栗屋」はともかく民宿「てるてや」などという名前に戸惑った。小栗を見初めた照手姫は彼を追って難行苦行の旅を続け、出会ったものの、あまりの姿に小栗とは気付かず、その土車を押す。道中あまたの人々が次々と車押しに手を貸して湯の峰まで送り届けた。ひと引き千僧ふた引き万僧のご利益があるといわれる、地元の、熊野詣の人々への協力を惜しまない親切さは、この辺に由来するのだろうか。
大雨の時は小屋ごと流されるのを避けて、すぐ営業停止、湯屋はあけ放たれて、内外をきつい流れがとうとうと流れるままにされる。時には扉をパタパタさせて暴れる流れに耐えている小屋が大丈夫だろうか、と危ぶまれることもある。ここの様子で雨量が分かる。
小栗にまつわる伝承は多いが、表立っての話ではないものに、毒殺されてぼろぼろになった体とは、実はハンセン氏病だったという説がある。この病の人々をここでは拒むことなく営々と受け容れて治療させてきたという。熊野にはなんでもあり、何者も拒まない、ひたすら癒しの聖域と言われる所以の最たるものか。最近ではアトピーで見るも無残な娘さんが、湯の峰の湯で全治して、それはきれいになって帰って行ったと聞いた。土地の人たちに嫌な顔をされ、同浴を拒まれることはなかったのだろうか、とその時ふとよぎった疑問が、小栗ハンセン氏病説で解けた。どんな病気もこの湯ではうつらない、と土地の人々は断言する。この湯が、腐らず二年はもつと言うのも、90度以上のアツアツをお風呂のたびに汲んできて、日常の料理用はもちろん、災害時に備えておくのに誠に重宝である。我が家の谷水は同じ自然水でも、塩素抜きというのはこれほど腐敗しやすいものかと驚くほど、汲み置きは不可能である。
脱東京を果たして以来、求めた土地が次々と田舎らしい田舎ではなくなることに幻滅しつつ、ほんまもんに近い「田舎」を求めて辿り着いたのがたまたま熊野であったのは、今更ながら幸運であった。なによりもおいしい水、そしてそれを維持するための心安らかな暮らしをしたいと、高コストが投入された飲料水を、惜しげもなく流す水洗トイレの痛ましさから解放され、代わりに貴重な堆肥に変える喜び、排水は行き着くまでに十分土壌処理されて川を汚すことのない嬉しさ。たったこれだけのことが満たされる場所を求めたことが、ようやくここ熊野に辿り着くことになったことをつくづく幸運に思う。
そして、この貴重な掛け流しの湯の峰温泉が、本宮町のごく一部の地域の財産区として、その住民だけが無料で入れるという特典は、引っ越してくるまで知らぬ事であった。更なるラッキーの上塗りというものである。隣町の中辺路から、片道30数キロの道のりとガソリン代と入浴料を投じても、この湯の魅力には勝てない、と通ってくる人の中には、私もこの近くに家を探して買えばよかったと悔やみ、当方の慧眼を羨む人がいる。ひたすらこのお風呂ゆえに、この不便な地に居を定めたものと勝手に決め込むのである。
春めきてはや窓放つ一人の湯
北極の化石探し 北欧旅行記 その2
川西自然教室 森 雄三
しばらく行くと下へ降りて河原のウォーキングとなるが、大石小石がゴロゴロしていて柔らかい靴底の足首に負担がかかる。といってゴム長でなければ、浅瀬を渡るのにひどい事になるのだが。先を行く一行が立ち止まって私達を待ってくれていた――「大文夫か?」口々に聞いてくれる様子。「日本人はコンパスが短くて、一生懸命歩くのだが追い付けなくて済みません」とスースーハーハー喘ぎながら皆に感謝する――だがすぐ出発してしまうので、彼等には小休止になっても私達には休みにならない。その内に流れが深くなり、これを避けるために再び丘陵を越えねばならなかったりする。やっとの思いで到着した目的地は2本の氷河跡が合流する地点に出来た広い河原で大小の礫が堆積していた。
ノルウェー人ガイドのブッツアさんは見上げるような大男、髯ぼうぼうの顔だが優しそうな碧い目でこの辺りが化石の宝庫?だと言う。それも良いけれどとりあえずは腹ごしらえである。北欧のホテルはどこもいわゆるバイキング式なので、今朝の食事の際にちゃっかりランチ分を確保しておいた。手作りのハンバーガーもどきを頬張りながら、岩石ばかりで草木の一本も無い荒涼たる自然を眺めていると、ここが我が地球のトップでそこに現に自分が居るのだ、との感慨が湧き上がってくる。谷底から屹立する、幾つもの千メートル級のピークは、山肌に万年雪を抱き清冽な空気の中にくっきりと稜線を描く。氷河そのものを見る事は出来ないまでも、目前の渓谷の奥深く進めばそれがあると想像するのも心躍る思いであった。
さて肝心の化石探し。私達は観光気分であまり真剣ではないが、他の人達は遠くからわざわざこのツアーに参加する位だから知識も経験も豊富で、リュックサックから取り出した用意の鉱山用ハンマーを振り回しながら早くも何か面白いものを見つけた様子。つられてこちらも目をこらして探すうちにコツが分かってきた。石の風化した面より新しい破断面が良いようで、石の大小はあまり関係ない。巨大なアスナロの葉に似た植物化石が見付かったので、ノルウェー人のスタフスネスさんに聞くと、
「ΨηνρφψδЖЭЮ……About sixty million years ago」
約六千万年前のものだと教えてくれた。ケヤキかクヌギの先祖のような葉が2枚、レリーフされたように明瞭な植物化石が見付かったが一抱えもある大きな岩でとても持ち帰るのは不可能、写真に撮っておくだけにした。
帰りは気分的にいくらか楽で、皆で記念写真を撮ったりトナカイの糞を観察したりしながら、それでも私達には強行軍で先頭から30分も遅れてブッツアさんのベースキャンプにたどりついた。キャンプといっても山小屋風建物で、半分が装備類を収納する倉庫、残りは土間から1段上った木の床面の居住区となっている。一行は暖房の効いたその居間に上がり込んでお茶をご馳走になった。先に述べたように、スピッツベルゲンでは家に入る時に靴を脱ぐ習慣だから「上がり込む」という言葉がぴったりである。日本人は、脱いだり履いたりはお手のもの。自慢ではないがこればかりは他の誰よりも早かったのである。
戻ったホテルのバスルームで、石鹸入れのケースにノルウェー語、ドイツ語、英語の3カ国語で記されたアピール
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お客様方ヘ
ノルウェー中のホテルで、その必要もないのに何トンものタオルが洗濯されているのを想像して下さい。膨大な量の洗剤が我々の環境を汚染していることが分かる
でしよう。
決めて下さい。
浴槽・シャワー室内に置いたタオルは
「交換する」
タオル掛けのタオルは
「再使用する」
の意思表示であると。
我々の環境のためのお願いです。
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極北の地スバールバル諸島の自然については、例えば或る文献では、
[異常なまでに破壊され易い、換言すれば自己修復能力の殆ど無い自然である]
と表現されている。実際この地において、何百年か前の狩猟者が動物を大量虐殺した跡が今もそのまま残されているという。もしかすると、私が水苔の上に踏みつけた足跡は何世紀にも渉って消えないのかも知れない。それを思うと、終わって見れば思い出深く、そしてチョッピリ厳粛な気分になった旅であった。
何故旅行をするのか
人は各々遠くへ行きたくなる時がある
芦屋市 藤井新造
子ら泳ぐ歓声のなか塩積みし艀はしげと運河を通う 山本みつえ
何故人は遠くへ行きたくなるのか。各々理由があり旅立つのであろう。私の場合はっきりした理由が見つからないが、時々そんなことを考えてみることがある。
勿論、人に誘われて、その時の気分により軽いノリで近くへ行く時は別にして大概はあとで考えてみると、やはり動機らしきものはある。
それで思いあたるのは、私は小さい頃より18才位まで瀬戸内の小さい狭い村で育ったのでもっと広い所、遠くへ行きたいと言う願望を絶えず持ち続けていた。村の背後には300m~400m前後の山々が有り、一応五色連山と呼ばれ親しまれていた。東南の方向にあるこの小高い山と、西には海があり、海のなかには瀬戸大橋開通のため今は陸続きになった沙弥島をはじめ塩飽諸島が点在していた。そして、私の生まれた土地にはなくなった「塩田」があった。(このことは何回かここに書いている)小高い山々は頂上近くまでみかんの木が植えられ、我家もわずかばかりのみかん畑からの収益により生計がなりたっていた。それ故、夏など物心ついた時、みかん畑にいた。父母が早朝よりみかん畑に出かけた時、私が弟と一緒に父母がこしらえていた昼弁当を遊びながらみかん畑に届けるのが日課だった。
みかん畑の中腹より眼下に塩田があり、そこで忙しく働いている人達が蟻の如く絶えず動いているように見えた。塩田特有の作業である。この作業ここで簡単に説明するのは難しい。たまたま私の母の従妹が記録した『浜曳きのうた』(短歌集・山本みつえ著)を少し長くなるが引用して参考にしてもらう。
「浜人の朝は早い。男衆たちが4時頃には浜に出て、昨日沼井台に掬い入れ鹹(かん)を漉したあとの湿った砂を金鍬で掘りだしている。……冬と夏は塩田のかき入れ季であり、肉体的に最も苦しい季節でもある。11月になって霜がおりると、ひたひたと鳴る自分の草履のおとにおびえながら暗い道を朝場に行き、棒のようにかじかむ素足で、昨日仕上げに曳いた反対の方向に馬鍬を曳くことによリー日の作業が始まる。
私の地方では「塩田で働く人のしんどさ(肉体的疲労)について、あのきつい仕事がこなせたら、どんな仕事も軽いものだ」と言われていた位の重労働であった。
その塩田の向こうに海があり、左方から沙弥島、そして真正面に瀬居島があり、この島の人家は肉眼でも見られた。この島から右の方へ、牛島、広島、本島、高見島と続き、その端は岡山県の下津井か水島あたりに延びて見えた。太陽は何時も五色連山から昇り、この島々の間に没していた。
みかん畑の中腹から頂上に抜け頂上つたいに30分余歩くと隣村の大越村が見え、右遠方と言ってもそれ程遠くない距離に無人島の小槌島、大槌島が海に浮かんでいる。この島の東を今は廃止になった宇高連絡船が走っていた。そしてみかん畑より左の方向をみると、讃岐山脈、晴れた日には背後の四国山脈が見えた。
私の身体と心は、村の背後の小高い山々と塩飽諸島の間を動いていたが、何時も当然とは言え、この狭い空間を抜け出し、ふと遠くにみえる四国山脈の高い山へ行きたくなった。あの山脈の山の頂上へ行ったらどんな感じがするのだろうかと漠然と考えた。そして17才の時、石鎚山に登りたいと母親に言った。母親は「毎日みかん畑に行っているのに山へ行っても面白くないのでないか」と、私に言葉を返してきた。私は返答の仕様に困り黙っていたが、その夏単独登山を決行した。
一人で石鎚山へ登り、翌年は友人と剣山へ行く
毎日みかん畑に行き農作業を手伝っていたので、「足」の方は自信があったが、石鎚山登山の地図がないので困った、そこで市立図書館(今は使用されていない)でおおまかな地図を探し、登山口に近い降車する駅とか、どの位の時間で1日目でどれ位登れるか、宿泊施設とか大体のことを調べて出かけた。多分最初の1日目の弁当は二食分位登山に賛成しなかった母親が作ってくれたと思う。
当時の国鉄の西条駅を降り、近くの小さい雑貨店で登山道の入口を聞いた。年配のおばさんは丁寧に道を教えてくれ「熊が出てくるので、どこかで鈴を買って行け」と注意してくれた。しかし鈴を売っている店らしきものは見当たらず、アバウトな私は誰か登っているグループがあり、その後にくっついて行けばよいと安易に考え鈴は買わなかった。そして偶然にも広島県の教師グループに会い宿泊も同じ宿にした。(宿泊して教師であることがわかった。)その夜は、彼等の話を聞き、私が将棋はできると言うと、そのうちの一人が相手をしてくれた。一人で登っている私に寂しいだろうと同情の念を寄せてくれた結果である。しかし、私は教師一般があまり好きでなかったので、他にも登山者がおり、自然と彼等のグループと離れて登った。石鎚山の山頂付近は険しい岩場であり、鎖をたぐりながら登った記憶がある。この登山の経験から、私は一人ではやはり面白くない。がやがやと友人と話ながら山へ登るのがいいと思い、次回は誰か友人を誘って行こうと決めた。
翌年の夏、親しい友人二人を誘い登山計画を立てた。今度は石鎚山と並ぶ高峰の剣山に登りたいと提案した。前回は小屋泊まりであったが、テントで野営することにした。しかし、そのテントが当時、55年前なので知人、友人の間で探したが持っている者がいなく、学校で運動会用に使用していた麻と綿で作られているテントを拝借することにした。担当の教師は「注意して行くように」と一言だけ声をかけ、気持ち良く貸し出しを許可してくれた。しかしこのテントが重く登由に苦役を強いた。
最初の一日目はどの駅で降りたかを忘れたが、登山道は人が登っている形跡がない。材木を運搬する林道、トロッコの線路とか渓谷の裾野の道は、木の丸太棒2本をくくって道にしている箇所があり、小川に落ちそうになった箇所もあった。リュックのなかは、飯盒炊飯できる食料品の材料でいっばい、しかも鍋持参なので重いことこのうえもなしの感じである。一日目は疲れがそれ程でないが二日目からはテントの布が夜露を吸って、これを担ぐ人間に大変な重さでのしかかってくる。テントは二人が交代で担ぐ順番を決めていたが、その者の足どりの重いこと。テントを担ぐ者を先頭にして、後から二人で追いあげるようにして歩くのだが、先頭の足元はふらふらしている。休みを多くしたいが、予定通り進まないので、休憩を少なくしゆっくり歩くことにした。日頃山歩きをしている私にと
っても「難行苦行」とはこのことかと思えるほど、足がふらつき前へ進まない。帰路は有名な奥祖谷二重かずら橋を通った記憶があり、ゆるやかで整地された道だったので、後から考えると往路と復路を逆にすればよかったのだ。
初めての山なのでそんなことを知る材料もなく登ったので、最初は「苦行」の連続であった。それでも自分らで苦労して運んだ食材で料理し、河原で炊飯したのは(カレーライスだったと記憶するが)今にすれば懐かしい思い出の出来事であった。と言うのは、料理らしき物を作っていないが、このことは生まれて多分初めての経験であった故である。
この夜は、昼間のしんどさが手伝い、三人ともあまり話し合うこともなく眠りについた。二日目は前述したように、道らしき登山道はなくその上きつい上り坂の行程で、三人共々足をふらつかせながら歩いた。そんなに苦労して登頂したのだが、頂上は霧がたちこめて視界がわずか身の周辺しかきかず、長居すればやばいと判断し山を下りることにした。折角だからもう少しの時間おりたかったが、霧が晴れる様子もなく、そのような状態のなかで座っていても気持ちが落ち着かず、その上登山者が少ないので早々に退散することにした。帰りは、食材も少なくなり各々のリュツクも軽くなっていたので、比較的足取りが軽くなっていた。二日目の夜は頂上より少し下がった小さい池のほとりでテントを張った。その夜は皆でテントの外に出て、月光が冴えた満点の星の下、一人がハーモニカを吹いて仲間の気持を和ませてくれた。
私の旅への始まりはこのようにしてスタートした。
この絵は、この文のカツトに使ってほしいと、藤井さんから提供されたものです。紙の『みちしるべ』では、紙面割り振り上、表紙になりました。
国土交通省道路局の概算要求にみる道路投資
世話人 藤井隆幸
毎年、8月の最終金曜日に国土交通省道路局は、次年度の概算要求概要について記者発表します。本庁を訪問、または郵送請求すれば、記者発表資料が入手できます。ただし、国交省ホームページに掲載されていますので、インターネットでも入手可能です。
平成12~20年までの、「財源構成」(表-1)と「事業構成」(表-2)をまとめてみました。道路予算のピークは平成9年辺りではなかったかと記憶していますが、資料を探し出せず、この範囲になりました。
この表について分析したことをまとめると、以下のようになります。
① 道路投資総額は平成12年に対して20年は66%に減少
<表-1>の最上段の「道路投資金額」と「道路投資伸び率」を見てください。これは農林水産省の農道・林道を省く、国と地方自治体と道路(株)の道路総予算額です。平成12年の12兆8千億から、平成20年には8兆4千億に減少していることがわかります。率にして66%まで減少しています。
② 国費は1割程度しか減少しておらず99%が特定財源
ここで注目しておきたいのは、国費と地方費の特定財源が殆ど減少していないことです。そもそも、国費については殆どが特定財源で、国費の伸び率は91%を維持しています。そのため財源の構成比率は28から38%へ増えてしまっています。
③ 地方費は半減しているが特定財源は殆ど減少していない
反面、自治体の財政赤字を反映して、一般財源の減少が顕著です。地方費の一般財源は4兆9千億から1兆8千億に、37%への減少です。そのために特定財源が一般財源より財源割合で逆転してしまっています。
ただし、長引く不況で新車の登録台数は、戦後初めての減少傾向に入っています。また、投機資本のマネーゲームのために、昨年から急激に石油が高騰しており、平成20年の特定財源は減少する可能性が大です。昨年の8月の概算要求の取りまとめ時点では、予想外のことであったと思われます。
④ 財政投融資等は道路投資総額の減少比率で減少
郵政民営化などの影響で、財政投融資等も63%への減少を示しています。無駄な公共事業の代表格である、高速道路建設がこの分野です。ゼネコンのぼろ儲けと、政治家ヘのキックバックの減少につながり、彼らにとっては大変な事態です。
小泉内閣は構造改革といって、道路公団を民営化しました。しかし、国土幹線自動車国道の1万4千キロは予定通りに総て建設することを決めました。それだけではなく、地方高規格道路(阪神高速など)は当初の2000キロから、 ドサクサ紛れに6000キロまで増やしてしまいました。
改革と言う裏で、旧態依然とした道路造り計画は、着々と進められていたのです。その裏づけが次の項ではっきりします。
⑤ 直轄事業は25%もの増額となっているのが特筆すべき
直轄事業というのは、国土交通大臣が指定した国道です。阪神間の国道2・43・171・176号線は総て直轄国道です。大阪の新御堂筋は国道423号線で、一般国道で大阪府知事の管轄です。新御堂筋の工事は大阪府知事の行う、補助事業ということになります。
さて、高速道路の建設において、『合併施工方式』というのが、小泉政権下で考え出されました。A・B・C・D地点を結ぶ高速道路が計画されたとします。A~Bの2kmとC~Dの1kmは西日本高速(株)が建設します。C~Dの10kmは直轄事業として、基本施工を国の事業費と地方の分担金で建設します。全線完成後は西日本高速(株)が付帯事業(照明設備や表面舗装など)を全線に行い、全線を西日本高速(株)の道路として通行料金を徴収します。
⑥ 有料道路事業の4割減を合併施工方式で直轄事業がカバー
こうすれば高速道路建設費が削られたとしても、直轄事業費で補填できるのです。これが『改革』の中身で、無駄な高速道路を国民の見えないところで造る、小泉マジックだったのです。世間では、表面だけ施工して総てを横取りするので、『薄皮道路』と呼ばれています。
予算額だけみれば判らないことですが、財政投融資が減った分を、直轄事業を大幅に増やすことで補っていたのです。
⑦ 地方の行う補助事業は2割減
地方の行う補助事業はこの期間に2割減少しています。しかし、実際の削減率はもっと大きいと考えられます。高速道路の側道が、本来、高速国道の附属道路とされてきたものを、補助事業の地方道として施工されるようになったのです。したがって、本来、生活道路として造るべき地方道は、かなり減少していると見られます。
⑧ 生活道路の地方単独事業は6割減になっている
高速道路は延長で言えば、道路全体の数パーセントにすぎません。直轄事業・補助事業にしても、数割にすぎません。大半の道路は、町の生活道路が占めています。これに投入する資金は、総て地方の負担となります。地方単独事業というのは、最も国民生活を支える部分なのです。
この部分が6割減ということになっているのは、ゼネコンや政治家の懐を暖めるために、生活道路が犠牲になっていることの象徴です。小泉マジックとはそういうものだったのです。
⑨ 有料道路事業に対する地方の出資金割合が平成16年より増加
西日本高速道路(株)が兵庫県内で事業を行う場合、その事業費の25%に見合う金額を国と兵庫県が折半で、出資することになっています。阪神高速(株)が兵庫県内で事業を行う場合、その事業費の25%に見合う金額を国が半分、兵庫県と神戸市が残りの半分を折半で出資することになっています。
平成16年までは13%であった出資金比率が、25%にまで増額されたことで、有料道路事業の地方の出資金が増えることとなりました。
⑩ 道路事業のあり方を問う
戦後の日本の復興は、確かに道路建設に大きなウエイトがあったのは事実でしょう。しかしながら、世界第2の経済大国となった今も、道路投資に依存すべき理由はありません。道路建設に偏った国政を、国民生活中心に切り替えなければならないが、それが
出来ない政治構造は何なのか。
明確に提言できる実態とは裏腹に、革新への道筋は余りにも難題のようです。とはいえ、それを切り開かねば、自滅と言う道しか残っていないのも実際でしょう。
道路特定財源は安全な道路の整備に使え
代表世話人 大橋 昭
このところの地球温暖化への関心の高まりや、運動不足解消と健康増進ブームに加え、急激なガソリンの高騰で自動車を敬遠する動きにも影響され、自転車の保有台数は今や全国的には8000万台を越え、自転車は手軽で便利な移動手段として私たちの生活に欠かせないものとなっています。
ここ阪神間でも尼崎市や伊丹市などは、地形的にも坂道の少ない平坦な道が幸いしていることもあって、自動車運転免許を持たない者にとって、自転車は日常生活の必需品の位置を占めています。
ただ、手軽で便利な自転車の急速な増加で、電車の各駅やスーパー周辺の歩道には放置自転車が溢れ、乗り手の無秩序な使い方などが往々にして街の生活環境を乱してしまう短所もあることも確かです。
最近、自転車の走行時のルール違反やマナーの悪さが思わぬ重大事故を誘発し、便利な乗り物が一転して自動車事故にも匹敵する恐ろしい凶器にもなる事例があとを絶ちません。自動車依存からの脱却と地球温暖化防止に役立つ自転車ですが、時には高齢者、幼児にとって安全を脅かす障害物に転化してしまうことは残念です。その改善には多くの課題が横たわり、解決を急ぐべき大きな社会問題化していることも忘れてはなりません。
増加する自転車事故に警察庁は30年振りに道交法を改正し、6月から施行しようとしています。そのポイントは(1)携帯電話を通話・操作しながらの運転(2)ヘッドホンを使って外部の音が聞こえない状況での運転(3)雨の日に傘を差したり、傘立てを使ったりする運転を禁止するというものです。
現実の自転車のルール違反例を見てみますと、①無灯火②二人乗り③携帯電話の使用④並列運転⑤スピードの出し過ぎ⑥信号無視⑦一時不停止③飲酒運転などが目立ちます。
また、ある調査では自転車について危険を感じた時はどんな時ですかとの質問に①猛スピードで脇をすり抜けられた時②急に飛び出して来られた時③後ろでベルを鳴らされた時④いきなりぶつけられた時などという答をしています。
こうして見れば自転車利用者にも安全問題について、反省と更なる意識の改革が当然ですが、ただ従来から何度も「道路交通法」の改正がなされながら依然、自転車事故は一向に減少の気配を見せていません。
この理由は現実の交通実態を十分把握せず、ルール違反者への罰則を強化すればよしとする行政側の曖昧さと無責任さにあります。つまり規制強化だけでなんら代替手段を考えず自転車がダメな人は自動車を使えという、今日の環境保護に逆行するような考え方しか持たず、また自転車を日々の生活の重要な手段とする人々の事情を考慮せずに「何よりも自動車優先」という一貫した、この国の道路管理行政の貧しい思想が災いしていることにほかなりません。
私が毎日のように利用している県道尼崎宝塚線は自動車中心の幹線道路ですが、人と自転車は完全に狭い歩道に追いやられ大変危険です。特に武庫之郷周辺の歩行者道は道幅が狭い中を、対向してくる人や自転車を避けるのに本当に命がけです。現在、この県道は拡幅計画中ですが、これからの道路整備開発は歩行者や自転車の安全を中心に据え、最低限「人と自転車の専用レーン」を設け、同時に電柱、広告物をはじめ道路上にある諸々の障害物をすべて撤去し、電柱などは地中に埋め歩行者や自転車利用者の安全性を確保させることが課題です。
今、国会ではガソリン税などの道路特定財源の一般財源化が大きな焦点になっています。しかし、その使い道には多くの疑問があります。現実に国土交通省の管轄する財団法人なるものが、国民の知らぬことを良いことに道路とは無縁の職員旅行や健康器具なるものに血税を使い、肝心の日々の生活の中で本当に必要とするもの、例えば学童たちの通学道路の安全化や、一日中電車がひっきりなしに通るいわゆる開かずの踏み切りの改善、格差と貧困に苦しむ多くの社会的弱者に生きがいを与える政策にこそ、この貴重な血税は使われるべきです。
道路特定財源を官僚や族議員の利権や恣意的な処分に委ねる時代に終止符を打ち、主権者の立場からすべて国民生活の向上に充てるべきだという発信をしてゆく姿勢が問われています。