『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』斑猫独語(21)**<2005.1. Vol.33>

2006年01月12日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<絵がわかるとは――遊ぶということ――>

 十一月に小さな個展をした。抽象画と言うのだろう、そんな物ばかり十二点を出品しご高覧いただいた。この数年間ほとんどこんな絵を描いている。ここでも毎度の事ながら、「あなたの絵はわからない」「なにが描いたあるの」「抽象画は分からないな」などの言葉をいただいた。抽象画は分からないと言った人の一人は、ピカソの「ゲルニカ」やムンクの「叫び」まで「あれって何」分からないと言ったのだ。分からない理由にゲルニカの牛や叫びの人の顔の表現をとりあげたのである。ある意味では「裸の王様」を見抜いた発想のようにも聞こえる。私はそういう発想の仕方を全否定はしないつもりだ。それなりに「するどい」ともとれる発言であるようだ。けれど、ここまで言うのは、私の絵を俎上に乗せ分からない、こりゃなんじゃ、ヘンな絵とくさすのとは次元が異なってしまう。ピカソやムンクまで持ち出してくさすとなると、やはり問題である。「ゲルニカ」や「叫び」にはもう既に美術史上の一定の評価が頑然としてあるし、そこには人々の生きた時代の歴史の証言や、美術による思想表現の裏打ちもある、と私は思うのだ。そんなものが一体となって存在するこれまでの評価を打ち破るためにはそこそこの理屈では無理だと思う。教養程度の知識でものを言うのではなく、それ相応の学問的追求が必要となろう。その上での自説の展開が世に認められる結果ともなればそれは大したものである。まあ世の中こんな風に変革の思想を打ち出して変わって行かねばならないのだ。それが本当なのだと思う。

 さて私の場合となると「あなたの絵はわからないな」と言われれば、私はいつもこう問い返すことにしている。「絵が分かるとはどういうことですか」と。普通即答されることはあまり無い。ほとんどの場合ただなんとなく笑って済ますという終わり方をしているようだ。そこでそれらの人の絵の見方、どういう風に見ておられたか、何をもって分かったとしておられたかを考えてみた。

 大抵の方は描かれてある物が何であるか、自分の知っている物であることを確認されているようだ。たとえばそれがヒマワリであり、ネコであり、リンゴであり、港の船溜まりの風景であるということを。しかもそれらの表現が作者の心象によって、過大に変形や変色されたものではなく(デフォルメという言葉がある)、実にありのままに描かれており、見る者の感性が撹乱されない時、「絵が分かった」と言われているように思われるのだ。こういう単純な見方をされる時であっても、まず描かれた物が何であるかを確認し、それと共に配色や形、構図、描き方(テクニック)などもいっしょに見ておられるのだ。なるほどこれで十分絵は見ているし、わかった、と言っていいことになるではないかと思う。

 それならば同じような見方で抽象画と呼ばれるものを見てもらうとしよう。その画を見た人にとって先のような見方をして画中に欠けていたものは何だったのだろう。具体的な物、自分が知っている物が描かれていなかった、ただそれだけのことではないだろうか。そのために目に入っているはずの色や形、構図、描き方(テクニック)などはすべて目に入らなかったのと同じように脳が処理をしてしまい結局「わからない」の一語が出てしまうのだろう。自分の記憶にあり知識の中にある物が描かれていない絵を、また記憶にある物であっても極端に変形されていたりすると「もう駄目だ」「わからない」と言ってしまっては少しさびしいと思うのだ。

 抽象的に、又は抽象的な物を見ることは何か難しいことのように思える。だが日常生活の中で私たちは様々な抽象的な概念の中で生きている。私は年に一度何のこだわりもなくお正月に寺社へ行く。遊びなのだ。ほとんどの人々も同じような気持ちで行っていると思う。だがそんな対象にした「神」や「仏」なんていうものは抽象の固まりではないか。「美」などもまさにそうだし、「愛」や「道徳」などというものも抽象の極まりだ。また日頃使っている言葉の中にも抽象的な事を表している事例がたくさんある。言葉の解釈を厳密にすれば、なんと難しいことであろうか、というような事でも、普段の生活の中では平然とし使用して生活しているのである。抽象画に限って抽象は「わからない」と言ってしまっては社寺参りを遊びとする精神からすれば「遊びの放棄」であると思うのだ。

 とは言え、抽象画は「わからない」だから無視する。無関心でおこう、それはそれでかまわないと私は思う。たかが一枚の絵を無視しようと無関心であろうと世の中に不都合をもたらすわけではないからだ。だが世の中には無視、無関心であってはならないことがたくさんある。それも抽象的な次元での話と限ったものではない。そんな事柄であっても目の前に問題提起されない場合人々の無視、無関心は日常のことであり、たとえ目の前につきつけられたことであっても目に見える変化が無い場合、問題は遠方で発生しているというような場合、無視、無関心は続くそんな無関心生活をしていて、何者にも逆らうことなく清く正しく生きていても、賞状一枚勲章一つ、ほしくもないけれど、もらえるわけではなく、税金だけはきっちり取られる。こんな無視、無関心生活が誰にとって有利に働くのか。とするとこういう無視、無関心生活に陥るのも「遊びの放棄」に通じるのだなあと思う。抽象概念に遊ぶこと、これは普通の遊びと同じだ。遊びは大事なことなのだ。

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