『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**パレスチナ、ガザの何が問題なのか?(中編)**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 川西自然教室

パレスチナ、ガザの何が問題なのか?(中編)

田中 廉

1.イスラエル建国

 イスラエル建国には二つの要因があります。

① 第一次大戦後、イギリスが委任統治を開始したパレスチナへのユダヤ人の移住が進んだことです。

 パレスチナのユダヤ人の人口はヒットラ-が政権を握る(1931年)前年の1930年は17万人(パレスチナ人口の16%)でしたが、ナチによる迫害からパレスチナに移住する人が増え1945年には59万人(同31%)と3.5倍に増えました。この間アラブ人の増加が1.5倍ですので、異常なスピ-ドでユダヤ人が増えて来たことがわかります。しかし、ユダヤ人の移住が順調に移行したわけではありません。

 イギリスはパレスチナ人の反乱などで、自分たちの石油の権益が脅かされるようになると、1939年5月、急遽シオニズム支援策を中止。ユダヤ人の新移民入国と、ユダヤ人の土地購入を禁止する決定(「マクドナルド白書」)を下し、アラブ大反乱の終息と大戦中の反英運動の激化回避策を講じました。「ユダヤ人民族国家」建設運動へのイギリスの支援を突如失ったシオニズムの側は、イギリスに対して暴力テロ活動を強めてゆきます。1946年6月には過激シオニストは、イギリス軍の入居するホテルを爆破し、一般人を含む91名が死亡しました。イギリスを見切り、アメリカを頼り建国を画策します。

② 第2の要因はホロコ-ストを生きのび、ヨ-ロッパで行き場を亡くした25万人のユダヤ人難民対策です。

 欧米にとっては非常に頭の痛い問題だったので、こちらの方が、より重要だったと思います。1945年に第二次世界大戦は終了しましたが、ヨーロッパでは600万人と言われるユダヤ人が虐殺されました。ホロコ-ストを生きのこったユダヤ人は25万人いましたが、元住んでいた家は他人に奪われ、ポーランドでは帰郷した村で集団虐殺されるなど、故郷に帰ることができませんでした。また、米国などへの移民も認められず、ドイツやドイツが占領していた東欧で難民となっていました。この25万人のユダヤ人難民対策が連合軍の大きな課題でした。

 その解決策として、パレスチナにユダヤ人国家を創り、そちらに移住させることが画策されます。国連は特別委員会を設け、パレスチナ分割案についてアドホック委員会で検討させます。アドホック委員会は「分割案は国連憲章違反であり、国際法にも違反している可能性があるので、国際司法裁判所に諮るべきである。」、「分割案は、経済的にはユダヤ国家にはよいが、アラブ国家には持続不可能になる。」、「ヨーロッパのユダヤ人難民問題は関係当事国が可及的速やかに解決しなければならないが、それをホロコ-ストと何ら関係のないパレスチナ人に代償を支払わせる形で、パレスチナの地にユダヤ人の国を創って解決しようとするなどは、政治的に不正である。」と結論。特別委員会で可決され、総会にかけられます。

 国連総会でユダヤ人国家が認められるには、欠席と棄権を除いた2/3以上の賛成が必要ですが、現住民(パレスチナ人)の同意もなく、その領土を奪って、他の民族が国を創るのは正当化できるはずもありません。反対する国が多く投票しても勝てる見込みがなかったことにより、当初の投票日はシオニストの妨害で3日間延期させ、その間にシオニストとアメリカは経済援助と脅迫を使い、強烈な多数派工作を行いました。

 その結果、1947年11月に国連でアラブ側の反対にもかかわらず、「パレスチナを分割し、イスラエル国家を認める」ことが決議されます。人口で31%、土地所有率で6%のユダヤ人に、57%の土地を与えるという不当なものでした。1948年(第一次中東戦争)から1973年(第4次中東戦争)まで、アラブ側とイスラエルの戦争が起こります。いずれもイスラエルが勝利、または負けることがなく、イスラエルはパレスチナ自治領を侵食するだけでなく、シリアの一部などを占領し領土を拡大させてゆきます。

 イスラエル国家成立については、2つの大きな問題があります。まず、ユダヤ人差別、迫害、虐殺などは主としてヨ-ロッパで生じたことなのに、その解決策として自分たちが植民地としていた、つまり自分たちに痛みのない場所に、何代にもわたって住んでいた住民の同意や生活を無視し、ユダヤ人国家を創り解決を図ろうとしたことです。本来であれば、もともとユダヤ人たちが望んだように、自国に住むユダヤ人の文化、人格を自国民と同等に尊重し協調して生活することです。それをせずに自分たちにとって厄介な難民化したユダヤ人を、パレスチナ住民の意思を無視して送り込むことにしたのです。それは身勝手な行いであり、そこに正当性はありません。

 第二番目は、一歩譲ってユダヤ国家を認めるとしても、ユダヤ人はもともとそこに住んでいたパレスチナ人と対等な関係で共存を図るべきです。イスラエルの「土地なき民に、民なき土地を」のスロ-ガンで、自分たちの行動を正当化しようとしていますが、それは事実を捻じ曲げています。

 旧約聖書で「乳と蜜の流れる地」と書かれているパレスチナは、古代より農業がおこなわれていました。イスラエルではすべての土地・場所に関する名称から、アラビア語を廃止しヘブライ語に変え、子どもたちに自分たちは無人の荒野を開発し緑地にしたが、アラブ人たちはその繁栄を見て、後から来たのだと教え込もうとしています。(2011年に私がパレスチナ西岸自治区を訪問した時に、市販されているすべての地図から、アラブの町や村の名前は消されていました。)また、ユダヤ人は相場の何倍もの価格で土地を買ったのだと主張しますが、アラブ側から見ると異なります。以下は「世界史研究所」の説明です。

 「高等弁務官は、委任統治政府が『第一次世界大戦で村々は破壊され、国内は貧しさと閉塞の空気に満ちている。』と指摘しながら、何の打開策も講じなかった。疲弊したアラブ農民の負担能力を超えた苛酷な税を課し、その一方で安い価格の穀物を大量に輸入して国内作物の価格暴落を招いた上に、作物の海外輸出を禁止した。行き詰まった農民は納税のため土地を売るしかなく、ユダヤ人は土地を安値で手に入れた。また政府は旧オスマン帝国銀行の債務取り立てを引継ぎ、農民に厳しく返済を迫り、その結果多くの土地が没収された……。アラブ住民は、委任統治政府の不当な政策により、生活の糧を奪われる危険に陥ったことを痛感している。」(Al-Huseinī,Jamāl, Radd al-Lajnati al-Tanfīdhīyah alā Mulāhazāti al-Mandūbi. 1924、140)。

2.パレスチナ難民は何故生じたのか?

 パレスチナ難民はイスラエルにより意図的に作られたものです。

 シオニストはイスラエル建国前から、将来のイスラエル国家でユダヤ人が安定的に暮らすためには、自国領土内のパレスチナ人の比率を下げる必要があると考えていました。イスラエルの初代首相となったベングリオンは、「たとえユダヤ国家ができたとしても、ユダヤ人の人口が60%程度では、安定的かつ強力なユダヤ国家にはならない。」と発言します。

 国連によるパレスチナ分割を決議した1947年11月から、イスラエル建国宣言を挟んだ1949年初頭まで、民兵組織を使い多数の集団虐殺を行います。その一例が、1948年4月(イスラエル建国宣言の1ケ月前)のディル・ヤシーンの虐殺です。エルサレム郊外のパレスチナ人集落(ディル・ヤシーン)がイスラエルの民兵に襲われ、100名余りの村民が暴行・レイプ後に虐殺されます。普通はこのような虐殺は隠すものですが、虐殺の首謀者であるイスラエルの民兵組織は記者会見を行い、犠牲者数を200名以上と倍増し発表します。(この事件の民兵組織の指導者が、のちにイスラエル首相となるベギンです。)

 その結果、パレスチナ人はパニックを起こし、着の身着のままでパレスチナ領や国外に避難しました。(これをナクバと呼びます)イスラエルは国境を閉ざし難民を締めだし、帰国しようとする者は容赦なく射殺しました。その結果イスラエル領内のパレスチナ人比率は40%から20%と下がりました。200以上の村が破壊され、70万人が難民となりました。

 国連総会は1948年12月に「故郷に帰還を希望する難民は可能な限り速やかに帰還を許す。そう望まない難民には損失に対する補償を行う。」、1974年には「追放された郷里に帰還し奪われた財産を取り戻すパレスチナ人の不可侵の権利を再確認し、帰還を要請する。」との決議を行いますが、イスラエルは拒否したままです。イスラエルは1948年に80万人のユダヤ人がアラブ国から追放され、人口交換があったのだから、この問題は解決済みだと主張しますが、まったくもっておかしな論理です。アラブ諸国からユダヤ人を追放したのはアラブ諸国であって、パレスチナ人が行ったことではありません。これはアラブ諸国とイスラエルの間の問題であってパレスチナ人が決めたことではありません。

3.ガザとは

 16年の長きにわたり、「天井の無い監獄」と言われ、福岡市とほぼ同じ面積のところに約230万人(福岡市は約160万人)が住んでいます。食糧、燃料、日用品、医薬品などすべての物資の出入りはイスラエルの管理下に置かれ、その出入をイスラエルが恣意的に制限。かつてヨーロッパに輸出していたオレンジ・イチゴ・花などの生産はほぼ壊滅し、経済は疲弊しています。地下水脈の上部でイスラエルが水を大量に汲み上げるので、井戸水は海水が混ざり、飲料水はイスラエルから輸入せざるを得ない状態で、電気の80%はイスラエルに依存しています。かつて日本の援助で作られた空港も、イスラエルによって破壊され長期に渡り使用不能です。若者の失業率は約67%で、将来に絶望し宗教上の理由から、今までほとんど行われなかった自殺が増えているといわれています。これらのイスラエルの行為は、国際法で禁じられている「集団懲罰」であると、国連や人権団体から強い批判を受けていますが、イスラエル政府には馬の耳に念仏の状態です。

長くなったので、今回はここまでにします。
(ガザの現状、イスラエルの情報操作、イスラエルの狙い、私たちに何ができるのかなどは次回掲載予定)

【投稿日 2024.5.19.】

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『みちしるべ』**パレスチナ、ガザの何が問題なのか?(前編)**≪2023.冬季号 Vol.118≫

2024年02月23日 | 川西自然教室

パレスチナ、ガザの何が問題なのか?(前編)

田中廉

 現在、世界では二つの戦争が起きている。一つはウクライナで、もう一つはパレスチナだ。この二つの戦争には二つの共通点と二つの異なる点がある。

 共通しているのは、国連で定められた国境を越え、他国が侵略している点である。ウクライナではロシアはクリミヤ半島や東部地域を自国の支配下に置こうとしている。パレスチナでは、オスロ合意でパレスチナ・イスラエルの二国家建設が約束され、国境が定められた。にもかかわらず、パレスチナ自治区の西岸地区ではその60%がイスラエルの支配下にあり、入植地が毎年拡大し、土地と水がイスラエルに奪われ続けている。もう一つの共通点は、ロシア、イスラエル共に、度重なる国連の非難決議を無視し、武力で他国を侵略する無法国家であることである。

 異なる点は欧米、そして日本では、ウクライナ戦争ではロシアが強く批判されているのに対し、パレスチナではイスラエルの行為が黙認されていることだ。イスラエルのガザ攻撃は2月初めで死者が27,000人以上となり、その70%が女性や子供である。今回のハマスによる奇襲攻撃は、軍事施設だけでなく民間人・外国人も殺害し、人質としている点は厳しく批判されなければならない。が、イスラエルによる異常な大量殺害はイスラエルの主張するいわゆる「自衛権」を大きく逸脱しており、虐殺としか言いようがない状態である。このガザ虐殺や西岸地区での武力を背景とした入植地拡大について、欧米は一応非難はするが、口先だけで実際は何もしていない。

 ロシアには経済封鎖、資産の差し押さえなどの制裁行為がとられているが、イスラエルには何ら有効な手立ては取られず、逆にアメリカの最大の軍事援助国はイスラエルである。これは明らかな二枚舌(ダブルスタンダ-ド)である。どれほど「民主主義を守る」と唱えても、自国に有利な場合だけ使用する手前勝手な念仏にしか聞こえない。

 また、報道の量、扱い方もウクライナ戦争では些細なことを含め、大量の情報が連日流されてくるが、一方パレスチナ紛争では、次第に報道が少なくなり、西岸地区でパレスチナ人が武装入植者に殺されてもほとんど報道されない。(2/5付の毎日新聞は一面で報道)逆にイスラエル人がパレスチナ人に殺されれば報道されることが多い。それは、パレスチナ人とイスラエル人の命の価値に何倍、何十倍もの差があるかのようである。これは報道の主体が欧米(白人諸国)であり、潜在的な偏見が影響しているのではないかと思われる。

パレスチナに関するいくつかの疑問に2回に分けて答えたい。

1. パレスチナ問題はイスラム教徒とユダヤ教徒の宗教戦争なのか?

 否である。ユダヤ人はBC11世紀に現在のパレスチナ地域にイスラエル国家を建国したが、幾多の分裂、紛争を経てBC6世紀にはバビロニアに滅ぼされ、以降はその地を領土とする国家の支配下に置かれた。2世紀にロ-マに最後の反乱を起こすが鎮圧され、エルサレムにとどまることが禁止され、離散(ディアスポラ)することとなった。

 キリスト教国では、十字軍(11世紀)までは偏見はあったが貿易、商業、農業など比較的自由に活動できた。しかし、熱狂的な十字軍運動で異教徒であるユダヤ人に対する偏見、弾圧は加速され、第一次十字軍はゆく先々でユダヤ人集落を襲い軍資金を奪いエルサレムに向かい、エルサレムではイスラム教徒、ユダヤ人、東方系のキリスト教徒の大虐殺を行った。(シナゴ-グに逃げ込んだユダヤ教徒は外から火をかけられ皆殺しとなった)

 中世以降、ヨ-ロッパ諸国ではユダヤ人は土地所有の禁止、ギルドからの締め出し、公職追放などにより、農業、手工芸ができなくなり、両替商、質屋、古物商などに従事し、キリスト教徒が嫌う金融関係で富を蓄えることとなる。

 イスラム教は7世紀に成立し、勢力圏は中東、北アフリカ、スペインにまで及んだ。基本的には宗教には寛容でキリスト教徒、ユダヤ教徒は「啓天の民」(同じ聖書の信仰から出た民。主としてキリスト教徒、ユダヤ教徒をさす)として一定の税金(人頭税)を納めれば信仰の自由や、民族性が保証された。また、時の政権の高官になるものも多かった。

 15世紀スペインのイスラム国家が滅ぼされた時、ユダヤ教徒はキリスト教への改宗か、国外追放を迫られ、多くのユダヤ人が再度「離散」した。この時、オスマントルコは大勢のユダヤ人を暖かく受け入れ、国の基盤を固めた。初期のイスラム国家ではユダヤ教徒、キリスト教徒への弾圧があったこともあるが、少なくとも中世から初期近代までは、イスラム教国の支配下で安全に暮らしていた。

2. パレスチナ人とユダヤ人の対立はいつごろから始まったのか?

 シオニズム運動により、ユダヤ教徒のパレスチナ移住が加速した第一次大戦後から、小さな衝突はあったが、1929年の「西の壁事件」(西の壁を含むエルサレムは、数百年のイスラム教徒の統治の下、イスラム教徒が同地を管理していた。ユダヤ教徒は壁や周辺の現状を変えないことで礼拝を認められてきたが、力をつけたユダヤ教徒が幕を張り、シオニストの旗をたて、デモ行進をしたことが発端となり、双方に数百人の死傷者が出た。)以降、激しさを増し、第二次大戦後のイスラエル建国により決定的になる。

 1791年フランスで「ユダヤ教徒解放令」が成立するなど、西欧ではユダヤ人に対する法的差別は徐々に廃止されていった。が、反ユダヤ感情は根強く残り、またロシア、東欧では19世紀末から20世紀初頭にかけ、「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人への襲撃・略奪が繰り返された。19世紀後半より、ユダヤ人の中に自分たちの祖国を作ろうというシオニズム運動が生まれた。「ポグロム」を逃れ、ロシア・東欧からのパレスチナへの移住が始まった。

 第一次大戦でイギリスはいわゆる三枚舌外交で、オスマントルコの領有していた領土について、フランスとは領土の分割、アラブ人にはアラブ国家の建設、そしてユダヤ人にはユダヤ国家建設を約束した(1917年バルフォア宣言)。第一次世界大戦後ユダヤ人の移住は加速し、イスラム教徒のパレスチナ人の危機感は高まり1929年には「嘆きの壁事件」が起こった。

 シオニズムによる移民が始まる前のパレスチナの総人口は約50万人で、イスラム教徒80%以上、キリスト教徒10%、ユダヤ教徒は5%(2.5万人)ほどだったと推定される。1922年は総人口(ベドウィンは含まず)約76万人でイスラム教徒78%(59万人)、キリスト教徒10%(7万人余)、ユダヤ教徒11%(8万人余)であった。その後、移住は加速し、1932年は総人口(ベドウィン含む)104万人でイスラム教徒73%(76万人)、キリスト教徒9%(9万人余)、ユダヤ教徒16%(17万人余)。そしてイスラエル建国前の1947年は総人口191万人でイスラム教徒61%(116万人)、キリスト教徒8%弱(15万人弱)、ユダヤ教徒31%(59万人)と、イスラエル人の比率は急上昇していった。

 シオニスト団体は不在地主などから計画的にパレスチナの土地を購入し、その結果多くの農民は土地を追われた。(次回に続く)

【投稿日 2024.2.9.】

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『みちしるべ』**「ロシアのウクライナ侵略」から「パレスチナ」を思う**≪2022.秋季・冬季合併号 Vol.114≫

2023年03月30日 | 川西自然教室

「ロシアのウクライナ侵略」から
「パレスチナ」を思う

――欧米のダブルスタンダ-ドについて――

川西自然教室 田中廉

 2022年の最大の出来事は「ロシアのウクライナ侵略」だと思う。ウクライナ側にロシアの安全を脅かすような行動があったとしても、それを武力で抑え込もうとするのは許されるべきことではない。国連総会でロシア非難決議が大多数の賛成で採択された。日本をはじめ世界はウクライナに同情的である。

 ウクライナ関連のニュ-スを毎日のように見ていて、大きく引っかかるものがある。それは、パレスチナのことである。他国を軍事的に侵略して領土を広げているのは世界に2国である。それは、ロシアとイスラエルだ。ロシアとウクライナの関係は、イスラエルとパレスチナの関係とそっくり同じである。ロシア、イスラエルの両国に共通なのは、武力で領土を拡大し、そのことが国連総会で圧倒的多数で非難決議が採択されても、全然意に介さないことである。

 しかし、両者に大きな違いが2つある。一つは、ウクライナには西側諸国から大量の武器が供給され、アメリカでは一部兵器の在庫不足がささやかれるほどの軍事援助が行われ、現在ではウクライナの方が軍事的に優勢なほどである。一方、パレスチナ側には武器援助はなく、ガザ地域の手製のロケット弾程度で軍事力に圧倒的な差がある。二つ目は世論、特に西側の関心である。道義的にはイスラエルに正義はないので非難はするが、制裁はしない。つまり、言うだけである。ロシアにはありとあらゆる経済、政治面での制裁が行われているが、イスラエルには、無法を見ているだけである。

 パレスチナ側の抵抗は時にはテロと呼ばれるが、ウクライナ側の行動をテロというのはロシアだけである。このことを、西側諸国、西側メディアはほとんど問題としていない。これはいじめっ子と被害者、そして事なかれ主義の学校との関係にも似ている。いくら子供や家族(パレスチナ)が教師や学校(国連、欧米諸国)にいじめを訴えても、学校側はいじめっ子側(イスラエルと保護者のアメリカ)の反発を恐れ、事なかれ主義で済まそうとする。そしていじめは続き、ますますエスカレートする。

 イスラエルのいじめは多々あるが、一例は水である。気候変動のために気温が上昇しており、パレスチナ人はかつてないほどの深刻な水不足を経験している。ヨルダン川西岸地区の水源地の85%がイスラエル当局によって管理され、パレスチナ人は自分たちの水源地から取られている水を、高い価格でイスラエルから買うことを余儀なくされている。アムネスティー・インターナショナルによると、「西岸地区に住むパレスチナ人は、国際標準の1日100リットルに満たない、1日73リットルの水しか利用できていないが、イスラエルの市民は1日240リットルの水を利用している。ガザの住民は沿岸の帯水層から水を汲み出しているが、限度を超えて汚染も進んでいる。」イスラエルはガザに流れ込む水脈を、ガザの手前でくみ出し、ガザに行く地下水を減らしている。

 もう一例は住宅破壊である。「イスラエルの人権団体ベツェレムは、イスラエルが占領するヨルダン川西岸と東エルサレムで、2021年にイスラエル当局に破壊されたパレスチナ人住宅が295戸に上り、895人が住宅を失ったと発表した。2016年の366戸に次いで多く、2017年以降最多となった。イスラエル当局は『許可のない違法建築』として住宅破壊を正当化するが、パレスチナ人に建設許可を出すことはまれで、ベツェレムは『イスラエルのアパルトヘイト(人種隔離)政策がパレスチナの発展を妨げている』と非難した。ベツェレムによると、2017年には164戸、2019年以降は毎年270戸以上が破壊された。」(共同通信2021/1/5)

 イスラエル政府は合法的というが、そもそも法律自体が占領地からのパレスチナ人排除のためのものである。パレスチナ人がなけなしの金を費やし建築するのを見て見ぬふりをして、完成後軍が武力を背景に潰すいやらしさである。家と資金を失った家族には絶望と憎しみだけが残る。

 欧米、特に米国のパレスチナ問題に対する行動は明らかなダブルスタンダードである。朝日新聞の報道では、「今年12月にパレスチナ自治政府のアッバス議長は、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が起きた今年、国際的な支援の重要さに注目が集まったと指摘。その一方でパレスチナの占領が黙認されている現状は、『国際法違反に対するダブルスタンダードだ。すべての国は、パレスチナ問題解決のために支援してほしい』と訴えた」とある。

 2018年、イスラエル国会(クネセト)は「基本法:ユダヤ人国家」を可決成立させ、「イスラエル国家がユダヤ人の民族国家であって、民族自決権はユダヤ人によってのみ専権的に行使される」旨を明らかにした。この結果、従来はヘブライ語と並んで公用語とされていたアラビア語はその地位を失い、ヘブライ語のみが国家公用語と規定され、また、ユダヤ人入植地の建設・発展は民族理念の具現化として、積極的に推進されることが明記された。

 イスラエル建国時の独立宣言では、「宗教、人種、性別に関わらず、すべての国民が平等な社会的、政治的権利」をもつとされたが、今やこの建国の理念を覆し、国際法違反とされている占領地での入植地拡大(領土侵略)をさらに推し進めようとしている。イスラエルの人口900万人のうち20%はパレスチナ系だが、以前も政府からの補助、就職、インフラ整備などで差別を受けてきたが、今後ますます追い詰められる可能性が高い。

 今年、西岸地区におけるパレスチナ人の死者は、国連が2005年に記録を開始してから最悪となった。

 私達が今やることは、「ウクライナとパレスチナは同じだ。パレスチナを忘れるな!!!」と叫び続けることである。小さく、微々たる力しかないが諦めないことは力であると信じ続けるしかない。

【投稿日 2022.12.29.】

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『みちしるべ』**終戦直後に建設された黒川小学校保存について**≪2022.夏季号 Vol.113≫

2022年08月25日 | 川西自然教室

終戦直後に建設された黒川小学校保存について

田中 廉

 川西市黒川地区は「日本一の里山」と呼ばれ、今もコナラ、クヌギなどの落葉樹主体の山々が連なり、春はエドヒガンザクラ、ヤマザクラ、少し遅れてカスミザクラが咲き、5月には薄緑、緑、黄茶など新緑で一斉に山が笑い出し、秋には黄、茶、赤茶、赤色と多彩な色に染まり、冬には葉を落とし静かに春を待ちます。

 田畑の少ない山間部ですが教育熱心な土地柄で、1873年(明治6年)明治政府が全国に小学校を建設した時、黒川地区には建設の計画はありませんでしたが、黒川、国崎、横路の住民の運動でお寺の一部を借り、教師1名、生徒16名で小学校が開設されました。その後1904年(明治37年)に現在では兵庫県で最古の木造校舎である北校舎が建設され、学童疎開などで生徒数が増えた結果(生徒数109名) 1946年(昭和21年)に南校舎が建てられました。北校舎は入母屋屋根のある風格のある建物ですが、南校舎は敗戦後すぐに建てられたので簡素な作りです。戦後すぐの最盛期でも児童数109名の小さな小学校です。黒川の山裾の南斜面に同じような大きさの小さな校舎が上下に並んで建っています。しかし児童数の減少により1977年(昭和52年)に休校となり、黒川公民館として使用されていました。戦後76年間南北の校舎はオシドリ夫婦のように仲良く静かに年を重ねました。

 ところが今年(2022年・令和4年)3月に廃校が決まり、「旧黒川小学校の南北の校舎、および運動場に建設予定の黒川里山センタ-(仮称)の施設運営に指定管理者制度を導入し民間委託し、2022年(令和4年)度に事業者を募集する。南校舎は事業者の提案次第では解体も視野に入れる」と新聞報道されました。オシドリは2羽いてこそ絵になるのに、校舎のうち地味で華やかさの少ない南校舎(メス)が取り壊しの危機に陥りました。

 私たち川西自然教室は、例会、植物観察会などで黒川にはよく出かけ、黒川の一部で里山の整備も毎月行っています。数年前までは、春休みに合わせ黒川小学校の運動場で「野草を食べる会」も行っていました。なじみのある建物がなくなることに危機を覚え、いろいろと調べると、残すに値する建物だと確信するに至り、市議会に保存のための請願を行いましたが、継続審議となりました。それで、署名活動を開始し9月の議会に再度提出する予定です。

A 建物そのものの重要性

 専門家は「全国各地に点在する木造校舎は、明治から戦前のものが主流であり、戦後の木造校舎は極めて稀であり、希少価値があります」(円坐設計)と述べています。戦後、中学校新設もあり大量の木造校舎が建設されますが、1959年(昭和34年)、日本建築学会が「木造建築禁止」を決議し、その後25年間大型木造建築は建設されず、鉄筋コンクリ-ト校舎に次々と建替えられてゆきました。戦後、木造校舎が建てられたのは戦後初期の14年間と、規制が緩和された1985年(昭和60年)以降です。今では戦後初期の木造校舎は全国的にも数が少なく非常に貴重なものです。特に昭和20年(1945年)代前半に建てられたものは、いろいろ調べましたが極めて少なく、現在の黒川小学校南校舎はほぼ建築時のままと言われており、その歴史的価値は高いと思います。旧黒川小学校は2009年(平成21年)に兵庫県の「景観形成重要建築物」に指定されており、一体として保存されることにより、明治から昭和にかけての日本の山村地域での教育・文化の歴史を肌身で学ぶことができます。

B 戦後教育の象徴として

 南校舎は1946年(昭和21年)敗戦後国民が失意と困窮のどん底にある中で、子どもに教育をということで、何よりも優先して建設された校舎です。そこには、国や郷土の再建のためには未来を担う子供たちの教育が大切だという、先人たちの祈るような熱意がひしひしと伝わってきます。建物があってこそ、そこで遊び、学んでいた子供たちのことをより豊かに想像でき、今日の豊かな日本を築く原動力を育んできた戦後の教育・文化の大切さと、その変遷をより深く理解することができるのではないでしょうか。

 「米100俵」という言葉があります。「長岡藩は幕末、徳川側につき徹底抗戦をしますが敗れ、長岡は焼け野原になります。「国が興る(おこる)のも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」と教育第一主義を唱え、三根山藩からの救援米百俵をもとに、国漢学校を設立し、多くの人材を育て上げた」という話です。終戦直後の「米100俵」を象徴するのが旧黒川小学校です。

C 費用について

 老朽化が進み耐震工事など維持管理に費用が掛かることは理解しています。しかし、「旧黒川小学校保存のふるさと納税」や、「クラウドファンディング」等、多くの人達から資金を集める方法はあります。また、「登録有形文化財」(現在1万件ほどが登録されている、敷居の低い制度)ですが、これに指定された場合耐震工事などの費用の一部が国から補助されます。


D 観光の拠点として

 黒川は「日本一の里山」でありながら、すぐ近くまで公共交通のアクセス(能勢電、国道、県道)が確保されており、大阪からも移動1時間圏内に入るなど、他地域にはない有利さを持っています。豊かな自然の中、明治・昭和の教育文化を象徴する「旧黒川小学校」は、自然を体験する「黒川里山センタ-」と共に黒川の将来に大きな役割を果たすでしょう。

 一度潰してしまえば、もう元には戻すことはできません。将来の川西のために、ぜひ、旧黒川小学校を残しましょう。

追伸:2012年(平成24年)、江戸初期建設で大阪市で一番古いといわれ、府指定文化財の十三の渡辺邸(敷地2500㎡)が、相続税が払えないとの理由で解体され土地売却に至りました。大阪府は買取に5億円かかるとのことで買取を断念したとのこと。金がないとのことで安易に文化財を破壊すべきでないと思い、今回の行動に至りました。

【投稿日 2022.8.11.】

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『みちしるべ』**77年間の平和――世界に誇るべき日本の奇跡――**≪2021.秋季&冬季合併号 Vol.111≫

2022年02月27日 | 川西自然教室

77年間の平和

――世界に誇るべき日本の奇跡――

田中 廉

 今年は終戦後77年ですが、明治維新から終戦までが同じく77年です。明治維新から終戦までは非常に長い年月だと思っていましたが、私が生きてきた年数(今年で75歳)とほとんど違わないことに驚くとともに感慨深いものがあります。この二つの時代は同じ時間の長さですが、両者には大きな違いがあり、二つの言葉で区別できます。戦前の77年は「戦争の時代」であり、戦後のそれは「平和の時代」です。

 明治維新から太平洋戦争の敗戦までは、日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)、第1次世界大戦(1914~18)、シベリア出兵(1918~22)、日中戦争(1937~45)、太平洋大戦(1941~45)と、戦争していた年数の合計は23年間で、実に30%の期間がどこかで戦争をしていたことになります。私たちは戦後77年間、日本が「平和」[※注]であったこと、戦争で誰一人殺すことも殺されることもなかったことを、当たり前のように感じているのではないでしょうか。

 しかし、これは日本の歴史上も非常に稀で奇跡に近いことです。ここに日本史年表(児玉幸多編・吉川弘文館)があります。なんとなく飛鳥時代(593~710)、奈良時代(710~794)の合計202年間は、「戦争・戦い」に関しては白村江の戦い(663)くらいしか覚えていないので、比較的平和だったのかと思っていましたが、大きな間違いあることを知りました。

 年表によれば、この間、大和政権は領土拡大のために隼人(現在の鹿児島県)、蝦夷の領地に侵入を繰り返し、811年の蝦夷平定迄戦いは続きました。その最後の38年間は「東北38年戦争」と称される激しい戦いが行われたようです。 ≪なお、その後も征服地の住民を別の土地に移住させ(俘囚と称す)ますが、待遇が悪かったのか俘囚の反乱が各地で起こり、年表記載の最後の反乱は883年の上総俘囚の乱です。≫ 飛鳥・奈良時代の領土拡大による年表に載るような大きな戦いは7回です。それ以外にも白村江の戦い(663)、壬申の乱(672)、藤原広嗣の乱(740)と、数万人規模の戦争があり、長期間の平和はありませんでした。

 平安時代(794~1192)の約400年も、初期の100年ほどは前述のように領土拡大の戦いは続き、承平・天慶の乱(平将門、藤原純友の乱935~941)、刀伊の賊の来寇(1019)、平忠常の乱(1028)、前九年の役(1051)、後三年の役(1083)、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、平家滅亡(1180~185)と、「平安」とは縁遠い「平安時代」でした。その後鎌倉時代(1192~1336)、南北朝時代(1336~1392)、室町時代(1394~1573)、戦国時代・安土桃山時代(1473~1615)を経て、江戸時代(1603~1868)に至ります。この間、絶え間なく戦いがあったことは皆さんご存知でしょうから詳細は省きます。江戸時代は島原の乱(1637~1638)、「シャクシャインの乱」(1669 北海道東部のアイヌの反乱)と地域的な反乱はありましたが、基本的に平和な時代でした。このように、77年以上も「平和」であったのは、江戸時代と戦後だけなのです。

 もう一つ重要なことは、戦後77年間、平和が保たれた国は世界196ヶ国でも極めて珍しいことです。戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争等と、いくつもの戦争がありました。米国はこれらすべての戦争の当事者で、合計10万人以上が死亡しました。お隣の韓国はベトナム戦争で約5000人の戦死者を出しています。昨年やっと終結したアフガニスタン戦争では51ヶ国が参戦し、アメリカ2437人、イギリス455人、カナダ158人と、フランス87人、ドイツ54人など、合計4000人弱が戦死しています(2020年1月)。ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争は、一体何をもたらしたのでしょうか? ベトナム、アフガニスタン戦争では、アメリカを中心とする側は、兵器など軍事的には圧倒的に有利だったにもかかわらず、数千人から数万人の犠牲者と相手側に、その何十倍もの犠牲者と国土の荒廃を残して、結局は撤退(=負け戦)となりました。敗因はそこに住む大多数の国民に外国軍が受け入れられなかったからだと思います。

 各国政府は「民主主義のため」「テロ撲滅のため」と言うでしょうが、今となっては虚しい言葉です。どれほど多くの命が奪われたのでしょうか? やり場のない悲しい気分に襲われます。たとえその国に問題があるとしても、自分たちの価値観と異なっていても、他国の問題はその国自身で解決するべきで、外国が軍事的に介入するべきことでは決してありません。湾岸戦争とイラク戦争についても、フセイン政権を倒し勝利したように見えますが、フセイン政権が押さえつけていたアルカイダやイスラム国等、イスラム原理主義勢力の伸張を後押しすることになり、またイラク国内の治安の悪化をもたらしました。湾岸戦争が、駐米クエート大使の娘の議会での「イラク兵が病院に侵入して胎児を殺した」と言う真っ赤なウソ証言(ナイラ証言)で、また、イラク戦争では「大量破壊兵器を所持している」という噓の情報で、アメリカだけでなく世界の世論を開戦に傾けさせた等、後味の悪い戦争でした。

 日本はアメリカと軍事条約を結び、また、2020年度で世界9位の軍事大国なのに、77年間「平和」を享受できたのは何故でしょうか? それは、やはり憲法九条のおかげだと思います。ベトナム戦争の時代は、一部の右翼的な人たちは別として、保守陣営でも「自衛隊は専守防衛」と認識されていましたし、護憲勢力も大きな力を持っており、海外で戦争することなど論外でした。湾岸戦争、イラク戦争で日本は、米国からの強い要請もあり自衛隊を派遣しますが、国会で憲法九条との整合性が議論され、結局は直接戦闘しない場所での任務となりました。

 米英によるイラク戦争に派遣された陸上自衛隊が、1発の銃弾も撃たず武力の行使をせずに、 施設復旧や医療指導、給水といった人道復興支援に徹したのは9条の制約があったからです。しかし、安倍内閣は国会で決議することなく、2014年に閣議決定で「集団的自衛権」を認めてしまいました。これは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」というのが政府の説明です。つまり、これを認めると、日本が攻撃されていなくても、外国のために戦争ができることになります。

 もし、アフガニスタン戦争に類似する事態や、台湾有事が将来生じたら、日本はどうするのでしょうか? 政府は防衛費をGDP比2%に拡大しようとしています。そうなれば、日本は世界3位の軍事大国となります。また、憲法を変えようという動きもあります。先の戦争で310万人の死と引き換えに、「絶対に戦争はしない」という固い決意のもとに日本人が獲得したのが日本憲法です。「憲法は亡くなった人の夢の形見」(加藤剛)です。将来の人たちに「奇跡の平和を享受した100年、200年」と言われるように、憲法を守り「平和」を後世に残してゆきたいと思います。

[※注]  実際は、湾岸戦争・イラク戦争の際は自衛隊が現地に派遣されましたが、憲法の制約があり戦闘行為に参加せず、幸いにして直接は殺すことも殺されることもありませんでした。最近、朝鮮戦争時、掃海作業などで56名死亡したことが明らかになりましたが、これは占領下で米軍の強い要求によるもので少し事情が異なります。

【投稿日 2022.2.14.】

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『みちしるべ』**10年後の日本**≪2021.夏季号 Vol.110≫

2021年08月21日 | 川西自然教室

10年後の日本

田中 廉

 「来年の事を言うと鬼が笑う」というが、10年後であれば鬼はどんな反応を示すのだろうか?(へそで茶を沸かすとでもいうのだろうか?)ところが藤井さんより、10年後の予想をしてみようというお題をもらった。よく考えれば、今、私は74歳だが、この歳の男性の平均余命は13.1年(女性は16.8年)で、10年先には、あの世にいる確率も高いので、まあ、気楽に予想することにしよう。

 私が気になるのは、米中対立が今後どの様に展開するかである。米国はチベットやウイグルでの人権問題、香港での民主化弾圧、南シナ海での領有権、商習慣、安全保障を理由とした先端技術などを問題として、中国包囲網を構築しようとしている。5Gをめぐっては、先行する中国製品の普及を阻止するために、情報漏洩、国防上の脅威などを理由に米国だけでなく、西側諸国にも圧力をかけ中国製品をボイコットさせている。何故、米国がこれほどまで強硬なのだろうか?

 中国の行動には独善的で理不尽なことが多い。しかし、世界には同じような理不尽なことは山ほどある。それに対し、総てを非難し改善を要求するのであれば理解できる。中国の人権を言うのであれば、イスラエルが国連で定められたパレスチナの土地を半世紀以上も武力で奪い続け、又、ガザでは天井のない監獄と言われる状態であることを黙認しているだけでなく、その弾圧に使われる兵器などの軍事援助(アメリカの最大の軍事援助国はイスラエルでその額はイスラエルの軍事費の20%強)をしている矛盾をどう説明するのだろうか?

 昔からそうであるが、欧米諸国の典型的なダブルスタンダ-ドである。中国排除の最大の理由は、覇権争いである。物価水準を勘案して為替レ-トを調整した購買力平価(PPP)では、すでに中国のGDPは米国の約1.2倍である(2018年度IMF統計)。名目GDPでも、中国は2030年前後にアメリカを抜き1位となると予想されている。軍事的には米国は中国を大きく凌駕しているが、経済的にはほぼ互角になろうとしている。スットクホルム国際平和研究所によれば、2020年度の世界の軍事費(推計)のうち米国は39%(7780億ドル)で断トツの1位であるが、2位の中国は米国の1/3程度(2520億ドル)である。(ちなみに日本は9位で491億ドル)。米国が圧倒的な軍事力を保持できるのは、それを支える経済力と技術力があるからである。

 大きな利益を出し将来発展が望めるのが先端技術であり経済を支える大黒柱である。また、先端技術は経済的にも重要であるが、安全保障上でも重要である。米国は2018年に「国家安全保障に重要」な「最先端且つ基盤的な技術」の輸出管理を強化する法案を成立させた。「最先端且つ基盤的な技術」は以下の14分野。すなわち①バイオテクノロジ、②AI及び機械学習能力、③測位、④マイクロプロセッサー技術、⑤先進的計算技術、⑥データー分析技術、⑦量子情報及びセンシング技術、⑧ロジスティクス技術、⑨3Dプリンティング、⑩ロボティクス、⑪脳、コンピューター・インターフェース、⑫超音速、⑬先端的材料、⑭先進的サ-ベイランス技術である。以上の14の項目について、米国の中国排除が行われるだろう。(最も輸出管理法は中国だけを対象としているものではなく日本を含めすべての国が対象となるが、実質は中国排除である)

 中国も対抗して自国の技術・情報が海外に流出するのを防ぐために輸出管理法を2020年に成立させた。中国の経済的な切り離し(デカップリング)が現実味を帯びてきた。日本企業・政府が「米国を選ぶのか、中国を選ぶのか」と態度決定を迫られる日が来る可能性が高くなった。ただ冷静に考えれば、デカップリングは現実的に考えれば不可能で、双方にとって経済的に貧しくなり、政治的混乱だけが残るだろう。

 2020年度の中国への海外からの直接投資額は、コロナ禍でチャイナリスクが叫ばれているにもかかわらず、前年比6.2%増加で過去最高を記録した。また、中国商務部によると、外資企業は全企業数の2%を占め、都市雇用の10分の1、税収の6分の1、輸出入の5分の2を生み出している。(ジェトロ ビジネス短信2021年1月25日)

 このように中国市場は外資にとって非常に大きなウエイトを占め、大きな収益源である。また、日本の輸出先は2010年以降、中国又はアメリカがトップで、近年の中国のシェアは20%ほどだ。一方、輸入先では2008年以降は中国がトップで、近年のシェアは22~23%である。直接投資の収益率(2014年~2020年)は中国が12~16%に対し、米国・欧州は5~8%で中国の方が圧倒的に高く、「海外直接投資にかかる収益源としても中国の存在感の大きさが浮き彫りになった」(ジェトロ2021年資料)

 日本及び世界にとっても中国市場は非常に重要である。これらの権益を失う危険を冒してまで、米国の提案にそのまま乗るとは思えない。それは、「コロナ対策で休業補償なしで自主休業しろ」というようなものである。米国はココム(対共産圏輸出統制委員会)で戦略物資・技術の流出を管理し、そのことも功を奏してソ連崩壊につながった。もし、同じことを中国で期待しているとすれば、その期待は裏切られるであろう。世界貿易では中国が輸出で世界一(シェア15%)、輸入で2番である。一方、米国は輸出で2位、輸入で1位である。かつてのソ連の世界シェアは数%で、経済規模が異なる。世界の国々の2/3は中国との貿易額が米国より大きく、米国の力が及びにくい。

 また、ヨーロッパ諸国にとっては、中国の軍事的脅威はゼロで敵対する理由が弱い。何はともあれ、米国は覇権を守ろうと中国排除を続けるであろうし、中国も持久戦を覚悟していそうなので、この対立は長引き、双方ともに疲労困憊するであろう。くれぐれも日本は、米中経済冷戦には参戦しないでほしい。多分10年後には、適当なところで手うちをしていることを期待したい。

 米中経済覇権争いでの米国の中国バッシングを見て、日米半導体摩擦を思い出した。日本は1970年代の官民プロジェクトの成果もあり、1980年代には「日の丸半導体」の中核製品であったDRAMは世界を席巻した。これに不安を抱いた米国は「不当廉売販売だ」に加え、「米国のハイテク産業あるいは防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がある」との非難を浴びせ、1986年に「日米半導体協定」(第一次協定)を結ばせた。「一定以上の外国製(実質米国製)のシェア拡大」「公正販売価格での固定価格」などの米国に有利な内容を盛り込み、監視の目を光らせた。その後、「第三国へダンピング輸出をしている」「日本市場で米国の半導体のシェアが伸びていない」ことを理由に、パソコン・カラ-テレビ・電動工具などに100%の関税をかけるなど圧力を強めた。

 第一次協定が満期を迎えた1991年には、第二次「半導体協定」をむすぶことを強要し、「日本国内製造の半導体の規格を米国の規格に合わせること」や「米国製品のシェアを20%まで引き上げること」を要求した。1997年の第二次「半導体協定」が満期になる頃には、すでに日本の半導体は完全に勢いを失っていたが、それを確認し、やっと「半導体協定」は失効した。それでも、米国は日本に「日本市場での外国製半導体のシェア確保を目的とする「協議会」を3年間残すことを認めさせた。この日米半導体協定の日本側団長であった元日立製作所専務の牧本次生氏は、「ここで覇権争いに負けたら、中国は30数年前の日本のように競争力をそがれるだろう」と警鐘を鳴らしている。

 ある国内半導体メーカー経営幹部は、最近中国・精華大学の教授より「米国の攻撃は終わりが見えないが、必ずアジアの時代が来る。もっと一緒に何かできないか」との連絡を受け驚いたという。「アジアの時代」は魅力的な言葉であり、そうなれば素晴らしいと思う。ただ、その前に中国のトップが変わることを期待している。

【投稿日】2021.8.12.

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『みちしるべ』**コロナPCR検査の大幅な拡充を!**≪2020.冬季&2021.春季合併号 Vol.109≫

2021年04月22日 | 川西自然教室

コロナPCR検査の大幅な拡充を!

田中 廉

 今回の新型コロナ問題で、首をかしげることがある。それは、「どうして日本のPCR検査件数が少ないのか?」である。新型コロナの厄介なところは、無症状感染者や無症候期(潜伏期間)にも感染性があることが確認され、その感染源の割合は5~6割ほどといわれている。感染の拡大を抑えるためには、PCR検査を行い、感染者を隔離することが基本である。

 本年1月下旬には大隅,大村,本庶,中山のノ-ベル医学・生理学賞受賞者が連名で、コロナ対策について声明を発表した。声明は4項目ありその2番目が、「PCR検査の大幅な拡充と無症状感染者の隔離を強化する」である。本年1月頃のデータ-だがPCR検査件数は、以下のとおりである。(一人で2回以上検査を受けた場合もあるので検査を受けた人数は検査件数よりも少なくなる。人口当たり。)

日本 4.4%     豪州 約45%     イタリア 約45%
スイス 約44%   オ-ストリア 約44% マレ-シア 約11%
フィリピン 約6.5%

※別途調べたデンマ-クは約188%(検査を受けた人は約68%)

 原因は、巨額の検査費用、オリンピック実施に患者数を増やしたくなく、「クラスター戦略」に固執、等々いくつも指摘されている。初期の検査数の少なさは、PCR検査が当初、保健所を通してしかできず、その保健所の数が1994年の全国847から2020年には467に減らされ、当然スタッフも減少しているので、今回のような緊急事態に対応できなかったこと。また、病院も経費節減の名のもと、統廃合が進められキャパに余裕がなかったことが一番の原因だと思う。

 平時は何とか回っていたが、有事の備えができていなかったということだ。これは、それまでの政策が機能しなかったということで、政治の問題でもある。この間の日本の対応は、広島県医師会の健康情報(5月9日)に簡潔にかつ率直に記されている。それには「4月2日、日本感染病学会と日本感染環境学会は、『軽症の患者にはPCR検査を勧めない』という方針を明らかにしました。背景にあるのは、まず陽性者の入院・隔離施設の圧倒的な不足、PCR検査可能許容数の不足、偽陽性率の高さ(30%ほどとも聞きます)などです。一方『コロナに感染しても大方(80%)は自然治癒する』、という事実も忘れてはいけません」と書かれている。

 要は、病院の受け入れ態勢が十分でなく、患者が増えれば医療崩壊が起こるとして患者数を減らそうとしたのだ。そのため新型コロナを軽視するような表現までしている。厚労省は4月15日にはPCR検査センターの設置を許容し、かかりつけ医などの判断で保健所を通さずとも検査ができるようになった。また、以前は37.5度以上が4日継続などの基準があったが、この基準は撤廃され、今ではいくつかの症状が出た場合は検査OKとなった。

 以前よりは前進した対応であるが、大きな問題がある。かかりつけ医などが症状の出た人にしかPCR検査の許可を出さないので、無症状な人は検査されない。最初に述べたように、コロナの特徴は、無症状感染者や無症候期からの感染が5~6割ほどもあるので、無症状の人にもPCR検査を広げて、これら感染者を隔離しない限り、コロナの抑え込みは難しい。

 今は、一度に数十から数百の検体を検査できる全自動PCR検査機が色々と開発され、唾液によるPCR検査も可能になっている。また、プール方式という、複数の人の唾液を1カプセルに入れ一度に検査する方法も一部では行われ、その場合、費用は大幅に低下する。

 実際、那須塩原市では無症状の希望者を対象に、PCR検査を今年1月から実施している。家族であれば5人までの人の唾液を検査キットにいれ、検査センタ―に持参し、1キット当たり個人負担分1000円を支払う仕組みだ。これだと夫婦二人では一人500円、家族5人であれば一人200円で検査ができることになる。もし陽性であれば、全額市が負担し個別に再検査が行われる。

 このように、検査件数を増やすことは容易になってきている。まず介護施設、病院、感染が多かった地域などでは無料で複数回検査をするべきだと思う。コロナ感染に不安を持つ人は誰でも、無料または安価にPCR検査を何度でも受けられるようにすべきだと思う。(感染しても初期にはウイルス量が少なく検査で引っかかってこないので2回の検査が必要)

 感染することも怖いが、自分が無症状感染者で他の人に感染させることも非常に怖いのだ。複数のPCR検査で陰性であれば、もっと積極的に人と会い旅行も、外食もできるようになる。GOTOキャンペーンなどなくても人は、外に出てゆくだろう。そして経済もよい方向に進むだろう。感染者が減少し、医療にまだ余裕のある今こそ、好機である。

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『みちしるべ』**PCR検査を受けました!**≪2020.冬季&2021.春季合併号 Vol.109≫

2021年04月21日 | 川西自然教室

PCR検査を受けました!

田中廉

 12月6日(日)に37.4℃の熱があり、翌日朝に平熱に下がっていましたが、かかりつけ医に昨夜は熱(37.4℃)があり診察を受けたいと電話しました。が、インフルエンザやコロナの診察はできないので、市立病院に行くように言われました。市立病院に電話し、「かかりつけ医ではPCR検査はできないので、市立病院に電話するようにといわれた」というと、かかりつけ医から連絡が入っていたのかどうか(ここは不明)わかりませんが、午後2時に病院の駐車場に来るように指示されました。

 駐車場に行き病院に電話すると、看護師さんが来て、診察券・保険証を写真で撮り、いったん病院に戻りしばらくすると、同じ看護師さんが来て、一通りの聞き取り調査と少し離れたところから検温を実施。1時間半ほど車で待機後、病院内の特別な部屋に案内され、医者より聴診器で胸の音、首のリンパ節、のどを調べられ、熱もないので問題はないでしょうとのことでした。

 PCR検査を希望しますかと聞かれ希望したところ、看護師がPCRのキットを持ってきました。自分で採取するように言われ、大きな吸引パネルの前で自ら両方の鼻の穴に綿棒入れ、それを小瓶の中に入れ看護師に渡し、それで終了でした。

 2日後、病院より「陰性でした」との電話がありホッとしました。駐車場では2~3台、看護師さんが来て診察券などを撮っていたので、発熱外来の人ではないかと思いました。診察代は1,270円で、コロナ検査代は無料でした。

 以前5~6月頃、同じように37.4℃の熱が出て、県のコロナ相談係(?)に電話したところ、「38度以上になればまた電話ください」といわれ、検査されなかったことを思うと、だいぶPCR検査は改善されたようです。ただ、これはかかりつけ医の判断が大きく、私の友人は同じ時期に同じような発熱を訴えたが、紹介はしてもらえなかったとのことです。

 以上、ご参考になれば幸いです。

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『みちしるべ』**原発反対は風評被害につながるか?**<2020.春季号 Vol.106>

2020年07月11日 | 川西自然教室

原発反対は風評被害につながるか?

田中 廉

 原発に反対することは、――福島での風評被害を助長し、『科学的に安全が証明されている』海産物・農産物の販売を阻害し、福島の人を苦しめている――と主張する人が、たまたま近くにいたので、その人への反論です。福島第一原発の汚染水処理(特にトリチウム)について話題になったのでその点について少し詳しく書きました。

 海岸に立地している原発が爆発し、そのとき大量の放射性物質をまき散らしたのだから、多くの国民が原発に強く汚染された地域の農作物、魚類など食べ物について、慎重になるのは当然のことです。

 自分の仕事に誇りを持つ生産者も、汚染された食べ物を売ることはありませんでした。信用を回復するために、生産者は、時間をかけ土壌の改良を行い、海では汚染水の海洋流出が止まり放射性物質の影響が低下し、現在は放射線の測定を行っても健康に問題がないだろうという状態にまで回復した状況だと思います。

 福島は安全性アピ-ルの為に、たぶん非常に丁寧に放射能の測定を行い出荷するでしょうから、もし、ス-パ-で福島産の魚や野菜が売られていたら、私は気にせず買います。

 しかし、今まで政府、企業は不利なデ-タ-は隠し、うそをついてきた過去があるので、政府や行政の数値をそのまま信用できないという人や、できるだけ放射能の影響の少ないものを、特に子供に食べさせたいと思う人がいても自然です。これは個人の自由です。このことにとやかく言うのは失礼です。

 今、風評被害はあるだろうと思います。これには、放射能の測定を行い安全基準以下であることを明記するなどの、時間をかけ丁寧に説明を重ねて解消してゆくものです。「科学的に安全性が立証されているのだから、文句を言うな」というのでは、権威主義的で反発を招くだけです。

 内容についていくつか、指摘したいことがあります。

1.風評被害

 現在、福島の魚は風評被害で全然売れないという状態ではありません。地道な努力で現在は震災前の15%ほどまで回復しています。2017年には福島の漁港でセリが始まり、魚種によっては高い値が付いたそうです。今年2月には全魚種が出荷できるようになりました。

 豊洲市場の水産会社との交渉も進められ、安定的な供給が見込めれば、市場で取り扱いができ、販路も確保できるとこが分かったそうです。2018年より、イオンが東京・埼玉などの8店で「福島鮮魚便」コーナーを設け、昨年は好評なので10店に増やしています。そして今年は、千葉・名古屋・大阪でも特設会場で販売をしています。反応もよく、思っていたような風評被害は無かったようです。

 今後、出荷量は紆余曲折があっても、伸びてゆくだろうというのが現在の状況ではないかと思います。ただ、アルプス処理した放射性物質を含む汚染水を海に流せば、今までの福島の努力は水の泡になります。いくら基準値以下だといっても消費者は納得しないでしょう。

 風評被害とは「根も葉もない噂により経済的な被害を受けること」です。原発汚染水、また、安全とされるトリチウムの危険性について、疑問や意見を述べることは、根も葉もないうわさ話ではありません。多様な選択肢を認め合い、各人が自由にものを言えることは、憲法に保障された権利で民主主義の一番の基礎です。

2.科学的に問題がない?

 これほど誤解を招く言葉はありません。科学に絶対はありません。「科学的に問題がない」から、それに反対するのは無知で「風評をあおる」などというのは、科学を知らない人の言葉です。

 規制値は、現時点で我々が持つ知見と、その値が社会に与える影響を、政治的に配慮して決められています。私たちは、自然界のいろいろな事象のほんの一部しか知りません。今後、研究や経験が積み重なってゆけば、判断の基礎になった知見は変化します。それは、規制が厳しくなることもあれば、ゆるくなることもあります。

 「政治的に配慮」とは、規制によって生じるコスト、技術的問題、実施団体(今回は東電)への経済的負担、水産業などへの影響を考えることです。規制値は、純粋に安全性だけを基に決められているものではありません。「現時点で我々が持つ知見に基づく安全性」と「政治的に配慮」のバランスの上に作られています。

 「科学的なデーターに基づく」と言われる規制値は、たいがいの場合、会社の負担(コスト)が少なくなるよう、また、原発内での作業がしやすいように、緩和される傾向にあります。ですから、決して今の規制値が「科学的」根拠だけで作られているのではないのです。

 それゆえ、政府・企業の言う「科学的に安全」に不信感を持つ人がいても自然なのです。そして、その不信感を主張することは、「科学的に安全である」と主張するのと同じように、根拠があり表現の自由で守られるべきことです。

 政府のやることに監視の目を光らせている人たちがいることで、政府や企業が不正や不合理、非科学的なことをする予防になり、それは国民の利益にもかない、長い目で見ると政府や企業の利益にもなります。すべての人が、お上のいうことを素直に信じているのではないのです。

3.福島第一原発の汚染水処理(特にトリチウム)について

 資源エネルギ-庁によれば、2019年10月末の汚染水の貯蔵量は約117万㎥で、トリチウム量は約856兆ベクレルです。日本のトリチウムの排水基準は60万ベクレル/ℓで、年間の放出管理基準値(総量規制値)は22兆ベクレルです。(この値は、国内で最初に稼働した福島の原発のトリチウムの年間排出量が20兆ベクレルなので、福島原発の排出量が先にあり、それに合わせて基準を決めたと疑われる。)

 政府はアルプス処理水を、基準値以下に薄めて海洋投棄しようとしています。トリチウム以外の放射性物質の総量規制は、全部合わせて2200億ベクレルで、トリチウムの1%です。

 政府は、トリチウムの崩壊電離エネルギ-が非常に微弱であること、人体に取り込まれても速やかに排出され蓄積しないこと、生物濃縮がないことなどを理由に、人体への影響が他の放射性物質と比べ極めて低いと、大量に放出しても問題はないとの判断です。

 問題はいくつかあります。

① 希釈して海洋に放出する案

 トリチウムの総量規制は年間22兆ベクレルしか海洋投棄できないので、今あるアルプス処理水(約856兆ベクレル)をゼロにするには39年ほどかかります。今でも毎年100~150㎥の汚染水が発生しているので、さらに時間がかかるでしょう。

 たぶん、政府・東電は基準値を大幅に緩和してもっと短期間で海洋投棄を行うのではないかと危惧されています。その場合は、今までの規制値や、その基となった科学的根拠はいったい何だったのかという疑問が生じます。

 規制値は安全だと合理的に判断される値に、更に安全係数を掛けて厳しい値に定められます。それを経済的な理由で安易に変更すべきではありません。もし、規制値以下であれば海洋投棄してもよいとなれば、薄める海水は無尽蔵にあるのだから、なんでも海に捨てることができるようになります。
一度特例を認めれば、堤防が決壊して洪水になるように、他の場合でも同じようなことが行われ、海は核のゴミ捨て場になります。

 また、東電が2018年に認めていますが、アルプスの処理能力を超えた汚染水を処理したため、現在のアルプス処理水の80%が、トリチウム以外の本来除去されるべき放射性物質が規制値以上、場合によれば何万倍も高い濃度で存在しています。これも再処理せずに希釈して流せることになります。(一応東電は再浄化するといっています)

② トリチウムの生物への影響および生物濃縮について

 政府・東電の説明:「トリチウムは自然界にも広く存在し、生物への影響は微々たるもので危険性はほとんどない。」という説明でした。その根拠は以下の3点です。

  1. トリチウムは自然界に普通に存在し、毎年、宇宙線と大気の反応により大量に作られ、私たちの体内(体重60㎏として)には50ベクレル程度、日本の水には1ベクレル程度存在すること。
  2. トリチウムが出す放射線はベーター(β)線ですが、そのエネルギ-は非常に弱く紙1枚で防ぐことができ、進む距離も非常に短く、その人体に与える影響は、他の核種に比べて桁違いに低いこと。
  3. そのため外部被ばくは無視でき、問題とされるのは内部被ばくです。
    トリチウムは水素の同位体なので水素と同じ働きをします。(厳密には極々少し重い)汚染水ではトリチウム水(HTO=水素原子1個+トリチウム原子1個+酸素原子1個)として存在し、水(H2O=水素原子2個+酸素原子1個)と同じ挙動をします。トリチウム水は体内では通常の水と同じように約10日で排出され、特定の臓器に蓄積されることはなく、また、生物濃縮を起こすことは確認されていない。
  • 反論:環境中のトリチウムは、ほとんどがトリチウム水(HTOと称す)として存在しますが、一定量が有機結合型トリチウム(OBTと称す)になります。OBTは、主として光合成によって形成され、海中では植物プランクトンや藻類により形成され、植物連鎖の中に取り込まれます。
    人間が経口摂取したOBTは、その50%がトリチウム水として短期間で排出されますが、ごく一部のOBTは生物半減期が1年となり長く体内にとどまり続けます。英国プリストル海峡で、二枚貝やカレイに高濃度のトリチウムが蓄積されているという論文が2001年に発表され、それに対し、測定方法などに問題があるとの反論も出されました。
    英国食料基準庁のガイドラインに従い1997年から10年間、毎年調査し続けた結果では、海水のトリチウムが5~50ベクレル/ℓであったのに対し、ヒラメは4000~50000ベクレル/㎏、二枚貝のイガイは2000~40000ベクレル/㎏で、夫々平均3000倍と2300倍の濃縮率でした。
    また、トリチウム水で育てた海藻を二枚貝のイガイに与えた実験では、投与量に比例してトリチウムが蓄積していることが確認されています。以上のように、生物濃縮については、従来とは異なる実験結果もあり、生物濃縮の有無については合意されていないのが実情だと思います。

③ トリチウムの内部被ばく

 一番の問題は、トリチウムは水素と同じ挙動をするために遺伝子の水素原子が、トリチウム原子に置換されることです。トリチウム原子が崩壊しヘリウム原子に変化する時に、それによって原子の結合が切れ、またベーター線により、周囲の遺伝子を傷つけ、癌などのリスクが高まる危険性があると言われています。

 これに対しては、遺伝子は様々な要因でいつも損傷を受けており、「修復酵素」の働きによって修復されており、また、異常な細胞を排除するシステムを人間は持っているので問題がないという人もいます。

④ トリチウムの安全性

 トリチウムそのものの毒性は他の放射性物質に較べて、極めて低いが、福島の汚染水のトリチウムの量は桁違いに多く、総量は最終的には「兆」のレベルではなく、「京」のレベルになるだろうと思われます。

 これを海洋投棄するのは、環境に対する負荷が大きいのではないかと思います。前述の5~50ベクレルの海水で育てたカレイやイガイの生物濃縮のことを考えると、回遊魚でない底魚や貝などでは問題が生じる可能性を排除できません。

 よって、希釈して海洋投棄することには反対です。近畿大学では特殊なフィルター、京都大学では吸着剤を用いてトリチウムを除去することに成功したと報道されています。まだ、実験室段階ですが、研究を続ければ効率的、経済的にトリチウムを除去する実用的な技術が開発される可能性があります。国・東電は、海洋投棄一辺倒でなく、こちらの技術開発にもっと資金を投入し、力を入れるべきだと考えます。

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『みちしるべ』**韓国で思ったこと**<2019. 秋季号 Vol.104>

2020年01月02日 | 川西自然教室

韓国で思ったこと


田中 廉


 2019年11月8日より11日まで、教会(日本聖公会)の「31独立運動100年・信仰の交わりから学ぶ=韓国の旅」に参加し韓国のソウルを訪問した。今回の旅行で三つのことが強く印象に残った。一つは韓国の発展であり、もう一つは教会で見た1枚の写真、最後は西大門刑務所博物館での展示である。

 まず、韓国の発展だが、2018年の韓国の国別名目GDPは10位(日本は3位)、一人当たりGDPは3.3万ドル(日本は3.9万ドル)で28位(日本は26位)である。一人当たりGDPが3万ドルを超えると先進国と言われるので、先進国に属する。一人当たりのGDPが日本とほぼ同じということに少し驚いたが、一流企業の給与は日韓に差はないそうである。買物をしていても物価は日本と大差はないような気がした。只、食事は韓国の方が安かった。現地ガイドの人が安くておいしい店に案内してくれたこともあるのだろうが、夜は腹いっぱい食べても2000円を越えなかった。

 日韓の経済発展の過程はよく似ているように思う。韓国は朝鮮戦争、日本は第二次大戦で壊滅的な被害を受け、ともに資源の無い国だったが驚異的な発展を遂げた。韓国の経済発展の契機になったのは、1960年代中ごろからの日本からの有償・無償の援助と、ベトナム戦争参戦の代償としての米国からの援助と、ベトナム戦争特需と言われている。日本は朝鮮戦争特需で基礎を固め、その後の発展につながった。そして両国共に、色々弊害があったにせよ政府が主導権を持ち、外資の導入に慎重で民族資本を優遇した結果、世界に通用する自国資本のグロ-バル企業が育ち国の発展に寄与した。

 もう一つの教会で見た写真は、韓国聖公会のもっとも古い教会である江華聖堂(教会)の壁にかかっていた、江華聖堂の歴史を伝える写真の一枚である。それは、韓国聖公会が1897年、朝鮮王室海軍士官学校のイギリス人教官の所有する土地と官舎を購入し、布教の拠点としたときの写真で、十数人の海軍士官学校の生徒の訓練風景が映っていた。

 私は今まで、日本に遅れて開国した韓国が、近代化のためどのような努力をしてきたのか知らなかったので、「士官学校もあったのか」と認識を新たにした。帰国し調べると、1910年の日韓併合まで、西洋列強と対等な外交関係を樹立し、殖産興業と富国強兵により近代的な主権国家に生まれ変わるために、必死に努力をしていたことを知った。

 アメリカのワシントンDCをモデルに新しい都市計画を立て、首都の道路を拡張し、公園を作り、1899年には電車が開通した。これはアジアでは京都に次いで2番目で、東京より早いという。1894年には身分制度が廃止され、政府機関の顧問や、電機・鉄道・鉱山・電信などの技術者として約200名の外国人を雇用した。外交面では、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツなどに常設外国公館を置き、万国郵便連合やジュネ-ブ条約にも加盟した。

 日露戦争勃発の直前に、中立宣言を世界に打電した。が、日本は数万の兵士を朝鮮に派兵し不法占領した。そして日露戦争に勝利した日本は、アメリカ、ヨ-ロッパ列強に朝鮮に対する権利を承認され、1905年に宮殿を兵士で囲み、調印に抵抗する大韓帝国の高宗を脅し保護条約を締結した。そして、1910年には日韓併合となり、日本の植民地となった。日本の植民地支配は、韓国にとっても悪いものではなかったという人が居る。確かに、鉄道が整備され、沢山の学校が設立され、耕地面積が増え、農業生産も増え、人口も平均寿命も延びたなどプラスの面もあり、それを評価してほしいという気持ちはわからぬではない。しかし、この意見には忘れてはならない重要なことが二つ抜けている。

 それは、日本は韓国を植民地にすることにより、韓国が自分の力で、自国を豊かにする機会を奪ったことである。当時の日本と韓国の国力を比べれば、韓国独自では、財源不足等で近代化のスピ-ドは遅かったかもしれないが、時間がかかってもそれを納得する形で成し遂げられたと思う。戦後の韓国の驚異的な発展が、それを成す底力を示している。大韓帝国時代、韓国は近代化のため歩き始めたが、その時、足払いをかけその歩みを止めたのは日本であることを忘れてはいけない。

 もう一つは、そもそも、帝国主義時代の植民地の目的は、武力を背景に他国の領土と主権を奪い、自国のための原材料、労働力、市場の確保、軍事上の安全確保などを目的に行うことであり、その目的達成のための改革だったという事である。鉄道は生産が増えた米を日本に運ぶのにも使用され、学校では徐々に日本語が強要され宮城遥拝など日本に従順な国民を作ることが重要視された。植民地主義は、それによる現地への多少の恩恵はあったにせよ、本質は現地の収奪であり、『悪いこと』であることを認識しなければいけないと思う。戦後、ほとんどの植民地が独立し、旧式の帝国主義が亡んだことが、現地の人たちにとっては耐え難いことであり『悪い』ことであったことを証明している。

 最後は西大門刑務所博物館での展示で、ハングルで辞書を作ろうとした二人の国文学者が獄死したことである。日本は植民地化以降、同化政策をとり韓国・朝鮮人の民族意識を徹底して排除しようとしてきた。それはだんだんエスカレートし、1938年には学校では日本語で授業が行われるようになった。その中で1942年に朝鮮語学会事件と呼ばれる、ハングルを学び普及させようとする民族主義者に対する大規模な弾圧が行われ、上記の国文学者が獄死することとなった。

 日本の植民地政策で一番罪深いのは、「日本化政策」で、韓国の文化・伝統を蔑み、韓国・朝鮮人の民族独立の誇りを奪ったことだと思う。其れがどれだけ韓国・朝鮮の人々に筆舌に尽くしがたい苦しみを与えたかを、日本人はもっと深く考え、敏感になる必要があると思う。


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