敗戦直後の満州・大連の様子(前)
――父の記録より――
田中 廉
部屋の片づけをしていたら、父が医学関係の雑誌に書いた「大連陸軍病院の終末」という記事を発見した。終戦直後の8月22日~9月22日までの1ケ月間の記録である。敗戦直後の混乱や緊張が伝わってくる。貴重な記録だと思うので紹介します。
大連陸軍病院は当時東洋一の完備を誇るといわれた大病院で、関東軍の傷病兵の内地還送業務(注1)を行う特別な任務を持っていたため、満洲各地から陸続と送られてくる長期収容患者は一旦この病院に収容され、原隊復帰と内地還送に識別の上、重症者は内地までの病院船輸送に耐え得るまで、滞留治療が行われていた。病舎は3カ所有り、旧検疫所病舎を利用した汐見隊は内地還送の重傷者、小学校を利用した南山隊では原隊復帰可能の軽症者、本院は外科を主とする雑多な患者が収容されていた。父は軍医(中尉)で、終戦時には本院に属していた。父は終戦直後、捕虜になることを意識して、所持本(露西亜語4週間)の欄外に頁数を日付に合わせながら書き込みのように記録を残していた。その記録である。原文は漢字以外はカタカナ。( )内は私が日誌の略語を補ったもの。(注)は父の説明。
(注1)戦争末期、黄海の制海権も失い病院船の安全が危うくなり内地還送病院で無くなったことが昭和18年11月4日の将校会報で告げられている。中支、北支、関東軍の還送患者は奉天に集中、朝鮮経由となる。
8(月)22(日)夕方軍師来るとの情報あり。奉天発の列車とも3車両とも云う。予定によると18時には大連着(のところ)5時頃には怪翼を周水子(飛行場)に下す。一同帰宅を止め庶(務室)に寝床を作る。
8(月)23(日)2時50分谷少尉が命令を持って帰る。武器の集積、部隊の金州、鄭家屯、大房子、夏家河子への移動、(当)部隊の任務はそのまま。患者を起こす。昼は軍師を待つが来ない。周水子(家族診療所)へ行った市川(運転手)や、浦川・五藤などの看護婦により周水子の様子分かる。酒、時計、万年筆(が奪われた由)
8(月)24(日)部隊はそのまま、戦車大広場に来り、繁華街が荒らされる。周水で満(人)の非行が伝えられ、赤十字章を各人付けることにする。昨日自決した准尉(注2)と福森患者を送る。自動車に乗り私服で帰宅する。脱走兵と同じなり。家は無事。街に晴天白日旗あり。
(注2)青酸カリ中毒。捕虜となるのは決まり自決。敗戦時、部隊将校には致死量の青酸カリを入れたアンプルが配布され、私も妻の分と二筒を所持。
8(月)25(日)部隊の自動車を奪いに来る(ソ連)兵隊(注3)多し。婦女の外出尚あり、夜間大江町の交番襲わる。頻頻としてピストルの音を聞く。
(注3)大連占領の先遣部隊は蒙古兵戦車隊。腕巻き時計の使用法も不案内であったが自動車の運転はお手の物、病院の自動車を片っ端から搔っ攫い自家用車とした。
8(月)26(日)食い延ばす算段。汐見(隊)が不安なので元気な患者や幹部を送る。谷、大塚、細見(少尉)、元気な患者15名、動ける自動車はすべて取られたので徒歩となる。(非行)酒から女への移行、唇をかむ。25、26(日)の新(聞)くる。満州は重慶(軍進駐)とある。今日から内地に(アメリカ)上陸の筈。
8(月)27(日)須貝が(汐見隊から)帰ってくる。苦労した由。夕方帰宅。途中星が浦方面より馬車続く、(星が浦)高砂町の一部は立ち退きを命ぜられた由。タンク隊の宿舎になるとのこと。ホテル、周辺もすでにソ(連軍)に占められている由。街は命により戸毎に赤旗を立てている、しかし、満人は青天白日旗。夜大雨降る。
8(月)28(日)朝8時向かいの馬車2台を雇い星が浦へ、(親類の)立ち退きの手伝い。星が浦の混乱、昼過ぎ帰隊。平穏、飛行艇が飛ぶ。新聞に25日付で復員の御詔勅が出ている。車は右側通行となる。ヤマノフ司令官が第一になしたこと。
8(月)29(日)(病院は)今日から2食主義を実行する。8時起床、10時朝食、夕食は6時、主食米130、雑70。午すぎに帰る。電車迄右側通行。張家(注4)東亜医院に行く、(日赤)牧先生に会う、山本氏宅、家の整理。
(注4)張家声氏(満医大出)、東亜医院(女医)、楊鳳鳴氏(のちの大連医師会長)と共に凌水屯患者の収容委託病院経営者
8(月)30(日)食料の配給なく、全市いたるところに闇市が立っている、ジャガイモ100匁7円、牛肉25円、リンゴ4円等。その代り綿布、家具類は著しく安くなり、ファンファン(交換)の満人もむしろ金を受け取ることを喜ぶようになり、その目先の早さに驚く。
8(月)31(日)帰宅、無事。相変わらず隣組すべて不安そうな顔をしている。家の前の小さな畑のトマト茄子を抜いて菜を播く、少しく悠々たるところを満人に見せねばならぬ。
9(月)3(日)日赤がソ(連)の病院になったとのこと。肝臓癌の川向患者の腹水を取る。停戦協定の内容を伝えるものあり、内地280万の米兵が上がると云う。夜寝てからみなで慷慨久しく12時となる。陸軍は消滅とともにきびしく反省されねばならぬ。政治も又同断。
9(月)4(日)昨日高松伍長が来て凌水屯の様子が少し判ったので、朝食後田辺をつれて出かける。(部隊長)小山中尉の家の下ではすでに勇ましい軍属、訓練生の姿を見かける。訓練生300名が当隊の警備に任じ、竹槍を持って時には刃傷沙汰まである。隊内を見回る、著しい略奪、散乱。引継ぎもあらばこそ(注5)、田中さん宅でご馳走になり、お土産までもらって帰る。石田洋行の主人、偽八路軍の首魁をぶち殺すと云っていきまいている。星が浦何事もなし。夕方、停戦協定の内容を新聞記事で見る。協定でなく降伏文章である。何をか云わん。
(注5)敗戦の作法を知らない日本軍は、隊内を整頓し、員数をそろえて軍使の到着を待った。中には鉛筆を削ってそろえたという。軍使は来ず、暴徒がすべて掻っ攫った。凌水屯には1000頓級の船16隻を艤装する物資が倉庫に貯蔵されていたが、その荒らされ方は見事であった。
9(月)5(日)昨夕馬車部落、木材を運ぶと見たら馬欄河の688(部隊)の木材の掠奪なり、本朝も続く。登庁途中(日赤)川合先生に会う。今日も何かあり、常磐橋から電車東行なく歩く。将校会報議論沸騰たり。寺児溝の満人不穏にして汐見隊危うし、八路(軍)と称する者院内に入り見回る、ソ兵に武装を解かれる――戸田中尉の悲壮なる電話。内地放送を聞く。総理宮殿下の議会演説、町田忠治氏の演説等終戦に於ける日本の戦力を裸にする、その貧弱なるに驚く。
9(月)6(日)昨夜大雨あり為に汐見隊は無事。
9(月)7(日)部隊長汐見行しぶしぶ、汐見では碧山荘の親分(注6)に仁義を切って通行を保証せらるる。高粱20、米5(表)
(注6)大連港の沖仲仕。福昌公司華工収容所寺溝満人街にあり、平時でも立ち入り禁止。
9(月)8(日)家に帰る。畑の菜は芽を出す。前の満人部落は掠奪材で家を建て出した。
9(月)9(日)凌水屯行、すでにソ兵が入っていてもう中に入れぬ、自分がまいた医務室前の豆を抜いて帰る。午後奈良崎先生とソ兵の衛兵のところへ話に行く、自動小銃をほめると即座に2発うっておどろかされる。
9(月)10(日)昨日汐見の看護婦を碧山荘頭目の了解の下に八路(軍)にまもられ、重症患者と共に南山と本院に護送する。人員に異常なかりしも、看護婦の私物をつんだ太車、ソ兵の掠奪にあう。汐見の患者を診察す、経理室、薬室、診療課長室、宿直下士官室すべて病室となる。汐見にソ兵出入りしきりにして、谷少尉も着ている軍袴をぬがされたと云う。
9/11以降は次号(予定)
家族の引き上げ(父が母の俳句の遺稿集を作成した時の母の年譜より)
「昭和22年2月25日漸く帰国を許可される。2月25日将校用天幕で非常用として子ども2名が這入れる大リュックサックを作る。2月27日大連港へ。吹雪の埠頭倉庫で一夜を明かし、28日乗船。遠州丸。船艚のお蚕棚の1週間。3月7日佐世保港入港。島の緑、薮椿の赤い花が瞼にしむ。すし詰めの満員列車で夫の郷里(和歌山県橋本市。筆者注)につく。——略—— 5月5日次男誕生。廉と命名」
以上