私の阪神・淡路大震災10年目の1月17日
芦屋市 藤井新造
ずたずたの大地に我ら去年今年 長谷川 櫂
私事になり恐縮であるが、昨年11月末右肩大結節骨折、12月中旬修復手術を行い、まだ右肩を少しでも動かせば疼痛が走る身体なので震災特集をテレビで見ていた。しかしどうしても震災時の死者への祈りに行かねばとの衝動にかられ、午後1時過ぎに自宅を出て先ず「芦屋市祈りと誓い」の献花場所がある芦屋公園になり向かう。外は小雨が降り六甲山頂は雪で白くなっている 。歩く途中、六甲全山が雪雲に覆われて裾野しか見えなくなる。天候の不順さをまのあたりにする。
芦屋市役所の東側の歩道より南へ43号線を渡り行くと4、5分もすると献花場所がみつかる。受付にテントを一つ張って市の職員数人が暖房もとらず立っている。机の上には献花の蘭の花が並べられていた。職員より記帳をうながされ名前を書く。そして蘭の花一本をとり捧げる。私は祈る言葉を用意してなくただ黙祈するのみであった。献花する祈念碑には「震災に耐ヘし芦屋の松涼し」(稲畑汀子)の俳句があり、確か何回かこの近くを歩いている。その時、虚子の孫で高名な稲畑さんのこの句の意味を考えたことがある。この小さい街のなかで444名の震災による死者がでた。その人達への追悼の句としてどう理解すればいいのか。俳句に素人の私は「……芦屋の松涼し」は芦屋市が震災から復興する姿を詠んだのか、それとも震災の被害にもめげず凛として姿を崩さなかった松の木を何らかの象徴として詠んだものか、そのあたりの内容がよく分からないのだ。何となく、この句はこの場所ではそれなりの落ち着きがあっても献花の場所としてはいかがなものかと疑問に思えた。まあこの日行政の方でルナ・ホールで「芦屋市犠牲者追悼式」が屋内であり、屋外としてはこの場所以外相応しい所がないのかも知れないと一人合点し、次の目的地の津知町公園へと向う。
この時小雨はやんでいたが、相変わらず六甲山に雪雲が横たわり、冷えた身体を少し暖めるため市庁舎に入り待合室で休憩する。暫くして庁舎を出て公光橋を渡り津知町に行く時、突然の如く陽が射し一瞬周辺が明るくなったが又空は雪雲へと戻る。先ず川西町より津知町を歩くが、ここ川西町も新築の家も多いがいまだに更地になったままの空地もある。目的地の津知町公園へは地図も見ず、およその見当をつけて歩くがなかなか見つからない。仕方なく町内をあっちこっちうろつくが、幸いにも日吉神社の近くに石板の地図があり公園にたどりつく。公園の北西に位置してそれとわかる「絆」と彫り込んだモニュメントがあり、その前に献花が数束おいてあり、地面には食卓台の広さにビニールで四方を被い20本位のローソク立てを作っていた。その横に焼香台が二つあり、私は一本の線香に火をつけ芦屋公園でしたと同じく合掌して祈った。私が行った時は誰もいず、自治会による設営と聞いていたが如何にもつつましく死者を弔うのにふさわしい落ち着いた雰囲気が伝わってきた。この津知町だけでも56名の震災による死者を数えた。
それから10年が経ったのだ。私は公園のベンチに腰かけ、わが家でも震災時より2週間給水がなく、ガスがこなかったつらくて苦しかった生活を想い出した。当日、飲料水は東大阪市に住む三男の友人がポリタンクニ個分バイクで運んでくれ当座をしのしだ 。洗濯物は箕面市に住む義妹に依頼し、西宮北口まで運び、干し上がった物を又そこまで届けてもらい受け取った。あまり感謝しない私もこの時ばかりは義妹の好意を本当に有り難く思った。そして80才過ぎた義母の入浴のため日曜ごと合計3回、三田市と宝塚市へ車で一日がかりで出かけた。途中義母が気分を悪くし、三田市商工会議所の便宣で小さい部屋を借り休憩したこともあった。水洗便所に流す水は夜間に子供たちと芦屋川へ何回か汲みに行った。幸いに我家の被害は震災による被害貸付制度の範囲で助かったが、2軒隣の2戸は全壊に近く人が住めなくなった。しかし、これまで60年間生きて仕事をし生活する上で、これほど気持の上で余裕のない緊張した日々を過ごしたのは初めてである。それとこんなこともあった。震災直後思いもかけず子供たちが3軒隣の独居老人の安否を確認に行ったととである。日頃そのようなことに無頓着な子供と想像していたので、その行為には驚いた。今から考えれば、我家に老人がおり咄嗟に頭に浮かんできたのであろう。私には意外なことに見えた。そのようなおおまかな出来事を追想していたが、やがて当日の朝地震があった時間がよみがえってきた。
余震の度にびくついていたが勤務先が医療機関という業種から職場のことも気になって仕方ない。いつもより2時間遅れて自宅を出て阪急芦屋川駅に着いたのは9時ごろである。駅員は誰もいず、ホームに上がると東の端の方は傾いて一部崩れており線路のレールが曲がっている。これでは電車も動くまいと仕方なく階段を降り、駅の公衆電話の場所に行くと何十人もの人が順番待ちで並んでいる。いらいらしながら待つ。そして職場へ連絡をとり、今日はとりあへず家族のことも心配なので欠勤の旨を告げる。薬棚もこわれ職場のある尼崎市も大変であったが、診療は続けられそうというので安心する。
この日は誰しも経験したように、余震の度に精神と肉体がピリピリと反応し、散乱した家具類をかたづける気も起こらず、安全な場所を確保して、全員毛布にくるまって過ごした。翌日の出勤は大阪~西宮北口間は電車が動いているというので自宅よりそこまで歩く。途中線路の側道より線路上を歩いている大勢の人をみて、親王塚町あたりから私も線路上を歩くことにした。震災二日目なのに神戸方面より大勢の人が列をなし、リュックを背負って歩いている。子供連れの家族もたくさん歩いている。その一人に神戸の様子を聞くと、建物の大半は崩壊しその下敷きになり、又火災により死者が多くでていることを聞く。これは大変な災害が発生していることだと知る。夙川駅付近では線路のレールが側道にはみ出てぶらさがりっており、鉄筋コンクリートの五階建てのビルが線路側に傾いて辛うして立っている感じであった。そして夙川駅より東の方面の木造住宅の家屋の崩壊がひどかった。ここからも線路上を歩く方が近道なので私も列に続いて行く。阪急は3日後には危険なので歩くなと看板を出しフェンスで閉鎖した。徒歩通勤の時間で体力を消耗するので私は何日か職場で泊まった。自宅に飲料水が通じたのが2月2日。ガスの供給が可能になったのは2月28日と私のメモにある。
今も屋根の雨もりにより天丼の板がどすぐろくなり、少しだけ傾いた家に住んでいるが、家を失った人々を想うと、この日本の国が如何に天災に無力で被災者に無慈悲な国家であることか身をもって知った。夜の「市民=議員立法総括そして(災害基本法)へ」の集会には参加できなかったが、10年へて、あの大震災の経験を私達がどのように活かしきっているのだろうかと想い家に帰り、「被災者は再生したのか」(池田清)「続・権力に迎含する学者たち――知識人の震災責任を問う」(早川和男)共に「世界」2005年4月号を読み、上述したように、この国の在り方をいろいると考えさせられた1日であった。
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