『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』**戦争の思い出**<2015.3. Vol.88>

2015年04月08日 | 単独記事

この記事は『らくがき』13号(2011年11月発行)に掲載されたものです。山川泰宏さんが著者に承諾を得て、新たに打ち直したものです。

戦争の思い出

駒場松桜会関西支部
駒十一 山田 道子

 私は昭和15年4月生まれです。多分戦争を知っている一番若い世代ではないかと思います。物心ついた頃には戦争も激しくなり、空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕に入る日々でした。洋服の左胸には白い生地で住所、氏名、生年月日・血液型が墨で書かれて縫い付けてありました。母や姉からそれを覚えるようにいわれて、よく口でとなえたものでした。それと出かける時には肩掛けカバン(ポシェット)をかけて、ハンカチ・チリ紙の他に薬の空き缶に入り大豆が入れてあり、それがカタカタと鳴りました。

 その頃住んでいた武蔵野、吉祥寺は東京の郊外で静かな町でしたが、近くに中島飛行場があり、空襲がだんだん激しさを増し、庭の砂場をつぶして父が防空壕を掘り、空襲警報の時は家族8人その中に入りました。私はラスクのお菓子の空き缶に座布団を置いて座っていました。私が最初に覚えた字が空き缶に書かれたカタカナのラ・ス・クという字でした。防空壕の小さな入口から見上げると、爆弾が飛んで行くのが見えました。兄は「あれは焼夷弾だ」と他の爆弾の種類を言ったりしましたが、私にはそれがどんな爆弾かはわかりませんでしたが私の町を通り越して行きました。だんだん空襲も回数が増えて、父の郷里の山梨に疎開することにしました。

 父は東京に残り、母と子供たちだけの疎開でした。母は妹がまだ赤ん坊だったのと疎開の準備に追われていたので、当時4歳8ヶ月だった私は中学1年の兄と小学校5年の姉に連れられて汽車に乗りました。昭和19年12月の10日前後だったと思います。中央線の日下部(今の山梨市)まででしたが、今の様に電化されておらず、山の傾斜のきつい所ではスイッチバックをしたり、山の中を走るのでトンネルの多い汽車の旅はとても長く思いました。その日は小春日和の穏やかな日で汽車を降りてから、一里以上兄と姉に連れられて歩きました。この文を書くので兄に疎開のことを聞きましたが、「4歳の妹を連れて、一里以上も歩いて心配だった?」と尋ねましたが、いい子して歩いたようで、特に手を焼いたことや、困ったことはなかったようです。今思うと、長い道中、トイレなどは如何したのかしらと、お腹はすかなかったのかしらと、もう一度兄に電話した方がいいかなと思っていますが、今でも覚えているのは、母がいなくても、さみしさはなく、冬の暖かい日差しが心地よく、兄と姉とハイキングしているような気持でした。

 叔母の家に着くと叔母や使用人やご近所の人までが迎えてくれ、4歳の子が親も付かずに子供達だけで疎開してきたとびっくりしたり、憐れんだりしていました。そこは空襲も無く、暖かい冬の陽が当たる縁側に布団が干してあり、猫が日なたぼっこしているのどかな暮らしがありました。

 その日から、正月をはさんで半月位伯母の家に預かってもらいました。その間に手伝いの、くに子が出産されたり、正月にくに子さんの家に連れて行ってもらいましたが、そこで、暴れ牛が家の周りを角を立てながら走り回り、家の中からドキドキして眺めていたこともありました。

 正月も過ぎた頃、母たちも疎開してきて父の親類の家に移りました。私たちの住むところは門長屋で、小屋に荒むしろを敷いただけ。台所の流しは戸の外に付けただけ。トイレは年が行かない私と妹は庭の隅に穴を掘ってそこで用を足しました。母や姉たちは農作業する時のトイレで戸も無いようなところでした。立派な格式のある家で手入れの行き届いた庭木や果樹があり、いたずらさかりの子供が悪さをするのではないかと、今思うと一寸堅苦しく、母も大変気を使ったのではないかと思います。

 食べ物も不自由していたのでしょう。一羽だけ鶏を飼っていて、卵を一個産むと兄妹で替わり番こに食べていました。母は時々着物などを風呂敷に包み、それを背負ってどこかへ行っていました。夕方、私は帰りの遅い母を町はずれの橋まで迎えに行ったりしていました。

 厳しい暮らしが続きましたが、この町でもあまり安心していられなくなりました。それは、10キロメートル以上離れた甲府の町が空襲にあったのです。その前に米軍機からビラがまかれ、それには「甲府良い町 花の町 四月五月は花の町 六月七月 灰の町 八月九月は米の町」こんな文句が書かれたもので、姉に教えてもらいました。今でも忘れずに言えるのはその位、強烈だったからでしょう。甲府の空襲の夜は西の空が真っ赤で玄関の前にもオンべロ(紙のもえかす)が飛んできていました。ビラの文字通り灰の町となり、八月十五日には大家の御隠居部屋に皆が集まり、ラジオを聴きました。放送が終わると大家の京子ちゃんと同級生の姉が玄関前の銀杏の木に向きあって泣いていました。

 これが昭和十五年生まれの戦争体験記です。

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