『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**出入橋(変遷)と中之島界隈(桜とバラ)視察**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

出入橋(変遷)と中之島界隈(桜とバラ)視察

2024年4月例会

よっしー(吉岡 裕子)

 時は4月11日(木)、「春爛漫」は少し過ぎた感のある今日。むしろ汗ばむほどのいい天気です。阪神電車福島駅に午後1時半集合。メンバ-は澤山さん、田中さん、藤井さん、藤本さん、平出さんと私の6名。日陰は涼しいけど陽の当たるところは少し暑い。

 まずは出入橋近くの「きんつば屋」でひとつ110円のきんつばを買う。すごく有名な店と澤山さんに聞いていたが、ほんまだ。人が並んでいる! 今日は木曜日、祝日でもなく平日、普通の日。3組も居てはって、少ししたら後ろにも2人。びっくりしたよ。

 阪神高速道路沿いを歩き、川に出たら橋を渡って東へ。「散歩道」とある。堂島川沿い。時々、観光船が通る。手を振ったら振り返してくれはったよ。あと作業船とゆうのか、動力のついてない船を引ぱる船も走っている。田中さんに散歩道に咲く木・花・野草の名前を教えてもらいながらのんびり歩いていたら、田中さん、藤本さん、私の3人は前を行く3人(澤山さん、藤井さん、平出さん)と距離がついてしまった。途中、陰になっていて石でできた椅子のあるところで休憩して、さっき買ったきんつばをみんなで食べる。おいしかったよ。

 中之島手前の大阪市役所のトイレを記念(?)として使用させてもらう。市役所のすぐ隣で「大阪万博をこの時期にするのはやめて、能登の支援をしよう」という集会が行われていた。音楽が流れていて明るくいい感じ。署名活動もされていて、私も署名させてもらった。

 中之島の端っこまで歩く。南側は工事中。今度来た時どおなっているのかな。桜の花もまだ咲いていて、川に小さな花いかだをつくっていた。半分以上は散ってます。もうすぐ若葉の木に変身する桜だ。ビルが立ち並ぶ大阪の大きな川の中州にある中之島。普通背の高いビルがあると、その威圧感で押さえつけられるような、ちょっと怖い感覚があるんやけど、ここにはそれはない。とんでもなく高いビルがないという事だけじゃなくて、川があることで景色が広がり、両岸の建物の中に、ぽつんぽつんと2階建ての民家があるのがなんともほっこりさせる。それがのんびりとした気持ちにさせて威圧感を感じさせないのかも。

 中之島の芝生広場では、大人も子どもも歩いて走って自由にしていた。犬も一緒だ。その端っこには小さなテントをたてて、中でくつろいでいる人やピクニックシ-トを敷いて寝転んでいる人もいた。あの大阪ーなにわー「〇〇でっせ」、「〇〇やさかい」の言葉があふれた町。「そやけど」ここはちょっと違った大阪だ。なんやろ! 都会やけど田舎のような。みんながせかせかしていない。ゆっくりしている。ここに来ている人はその空間と時間を大事に大切にして、お互いにその邪魔をしない。だから気持ちよく過ごせる。ふらりと来た私もその中でほっこりさせてもらいました。ありがとう、いや「おおきに」か。

 途中、中之島図書館や中之島公会堂の近くを通る。JR大阪駅まで戻り解散。今日は歩いた。箕面よりもっと歩いたよ。10000歩は歩いたよ。ベルサイユ宮殿の庭園を限りなくちっこくしたような庭園があって、薔薇がたくさん植えられていた。花が咲いているのは少なかったけど近寄ると少し香った。今度は花がいっぱい咲いている時にもう一度来ようとみんなで約束。そして、待ち合わせは中之島公園にできるだけ近い駅でと言う事は満場一致。

【投稿日 2024.5.7.】

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『みちしるべ』**紅葉狩りを兼ねての交流会(箕面の滝)**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

紅葉狩りを兼ねての交流会(箕面の滝)

2023年11月例会

よっしー(吉岡裕子)

 2023年11月27日(月)くもり。雨が降るのではと聞いていたけれど降らなくてよかった。箕面の滝まで澤山さん、田中さん、藤井さん、藤本さん、平出さん、私の6名で歩く。今にも降ってきそうな空模様だけど、さすが箕面。紅葉がすごくきれい。もみじ、いちょう、多分うるし。あと名前のわからない木。ごめんなさい。

 いたるところに、サザンカが咲いていた。私は今まで赤やピンクをよく見てきたんやけど、ここは白のサザンカが多い。国語辞典を見たら漢字は「山茶花」と書いて「白/赤の花をひらく」とあった。花図鑑(単行本の大きさ)にも「晩秋に白い花を咲かせます」とあった。サザンカは白なんや。これまで、歩いていると家の庭に咲いているサザンカを見かけたけれど、濃いピンク色が多かった。白は少なかった。山に咲くサザンカは野生で花は白色。そっかぁ。赤やピンクのさざんかは人間が作りだした色やったんや。

 滝に向かって歩く。そしたら、ここに咲いている赤やピンクのサザンカはあとから人が植えたんや。ツバキもあった。まだまだ花が開いているのは少ないけど、ひとつふたつと咲いている木もあった。中国ではツバキ類は「山茶」と書く。「山茶の花」で「サンサカ、サンザカ」と呼ぶ。それが誤って「サザンカ」と呼ばれるようになったらしい。ふと思った。「サザンカ」が「山茶花」なら、なんで「ツバキ」は「山茶」じゃないんやろ。ツバキは日本が原産地で、「山茶花」は日本の国有種とある。でもツバキが「山茶」となっていたらと考えたら、「うーん、なんか違うな」となったので「ツバキ」は「椿」がいい。

 平日なのに人が多くて、途中のトイレ休憩の時も少し並んだ。滝までの道なので「滝道」と呼ぶんやけど、両側にお店がいっぱい。新しいお店も多く、昔(10年以上前)よく来てた時と様変わりしていた。駅からの100m程は昔ながらの箕面名物「もみじの天ぷら」の店が並んでいて、なつかしかったよ。すこしだけお店を冷やかしながら滝へ歩く。昆虫館も通り過ぎる。あっ、田中さんが「もみじの天ぷら」を買ってくれて、みんなに分けてくれた。私はもみじとゆうより、このサクサク感が好きだ。おいしかった。

 犬を連れた人は箕面在住の方だろうか。いや車で来たとゆう事もあるかな、とか思いながら「よかったな」と犬に心で声をかけた。歩きました。普段歩かないので2.8kmは「あるいたー」の私です。(2.8km、2.7km、2.7kmと、いくつかの「駅~滝」までの距離が記してたので2.8kmが正しいかわからないけど。)

 滝は「ふつう」やった。豪快に「グワ-」と流れているわけでもなく、静かに「さらり」と流れてもなかった。記念写真を撮ろうと近くの観光客の人に頼んだら「オッケ-、オッケ-」とニコニコと引き受けてくれた。「ワン、ツウ、スリ-」の声掛けで、みんな「にっこり」と微笑む。アジアの方(男性)でした。ありがとうございました。そおなの。外国からの観光客の人が多かった。アジアの人は同じアジアだから見た目は同じ。でも言葉が日本語と違うから、海外から来はったんやとわかった。

 帰りは基本的に下り道やから行より楽やった。鳥が鳴いて空を飛んでいる。木々の紅葉。鹿もいたよ。下の方を流れる川には魚がおると思うけど、見つけられんかった。サザンカ、赤もピンクもいいけど白もすてきやった。また来たい。いつかまた行きましょうね。

【投稿日 2024.5.7.】

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『みちしるべ』**「イランからの葉書」**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

「イランからの葉書」

藤本千恵子

 4月15日、ポストから2~3通の葉書を受取り、「あぁ~、DMばかり……」と思った瞬間、キラリと光るものがあった。「ん?」とよく見ると、貼られた3枚の切手の右端が光っている。切手の真ん中には紫のスミレのような蕾とミントのような緑の葉に鮮やかな蝶がとまっている。その美しさにホッと心が和らいだ。さらによく見てみると図柄の下には鳩のような鳥が切り込まれており、手の混んだ切手に驚いた。老眼の目でやっと見えたのは「Iran」の文字だ。

 その葉書の正体は広島の絨毯屋さんが1年に1度、買い付けに行くイランから投函したものだった。4月14日の上川外務大臣の談話には「現地時間の4月13日夜から14日未明にかけて、イランはイスラエルに対して、ドローンやミサイル等を使用した攻撃を行いました。」とある。

 心配になって絨毯屋さんに電話すると、店主が「いえいえ、大丈夫ですよ。私共がこの葉書を出したのはちょうど1ヵ月前です。それに、戦争は国のトップがしていることで、遊牧民はもちろんのこと、下々の者は普段の生活をしています。」と言う。「それに、戦争とは関係なく、イランに着いたら必ず現地の人がついての行動となります。空港と絨毯の倉庫の往復しかしません。」とのことである。切手も購入から投函まで、現地の「いつも決まった男の子」に頼むそうだ。「日本人がイランへ入国すること」と「戦争」について、端的に話してくれたように思う。「これが現実なのか……」とつくづく思う。

 絵葉書の表はザクロス山脈で、カシュガイ族の遊牧民がにっこり笑いながら、子羊の皮袋を棒に吊るして、ヨーグルトとチーズを作っている。彼女が着る民族衣装は、土の茶色の世界に暮らすからと、鮮やかな緑や紫やピンクなどの色が使われるという。四季のある日本の、京都でよく見かける着物とは正反対の色彩である。

 また、彼女らが織る絨毯の文様の中で、ザクロは「豊穣・子孫繁栄」、四角は「窓・井戸」、櫛は「結婚・生命の誕生」、羊は「財産」、鳥は「悪事喰いの鳥」を表す。

日本がすでに失ったものばかりだ。

 文様に戦後の日本が目指してきたものが間違いだったと言われ、切手に豊かさとは何ですか?と問われた気がしてならない。

【投稿日 2024.4.27.】

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『みちしるべ』**名神湾岸連絡線の有料道路事業者決定**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

名神湾岸連絡線の有料道路事業者決定

藤本千恵子

 スマホを上手く使いこなせない昭和生まれの人間でも、世の中、本当に便利になった、と実感させられることがある。道路関連の単語を検索すると「国土交通省」のニュースをはじめ、「乗りものニュース」「日刊建設工業新聞」等のニュースが瞬時に送信されてくる。

 2024年4月5日の日刊建設工業新聞には「名神湾岸連絡線/阪神高速会社と西日本高速会社が参画、有料道路事業を導入」とあった。

 名神湾岸連絡線とは兵庫県西宮市今津水波町~西宮浜2丁目までの約3kmの自動車専用道路で、筆者の住む今津地域にとっては、今後の住環境に多大な影響を及ぼす道路である。阪神高速3号神戸線の渋滞を解消する「ミッシングリンク対策」とされているが、コロナ禍で1年遅れとなった令和3(2021)年道路交通センサスによれば、3号神戸線は6年前の平成27(2015)年の時より、湊川ランプ以外は軒並み交通量は減少している。しかし、令和3(2021)年3月に都市計画決定し、国交省の直轄事業として進められた。

 開示請求した「名神湾岸連絡線橋梁 (西宮JCT2工区)予備設計業務の成果品は、当然ながらその殆どが「黒塗り」だったが、「計画系業務スケジュール管理表」には、2022年12/9(阪・Nx)と印字があり、両社を交えて協議した形跡がある。だから、この2社の参画決定にはさほど驚きはなかった。

 しかし、地元住民のみならず西宮市の担当課さえも驚いた点は、「阪神高速の工事着手予定日が2028年4月1日、西日本高速会社の工事着手予定日が2031年4月1日」と記載されていたことだ。

 始点となる西宮JCT(ジャンクション)の橋梁予備設計業務は4区分に分けられているが、4工区は3/29に納品検査が終了したばかりで、斜張橋と推測される「海上部」はまだ納品に至っておらず、終点の西宮浜JCTにおいては、今年度になって発注されたばかりである。このようは状況のなかで、たとえ「予定日」とはいえ工事着手日が発表できたのか、は事業主体である「兵庫国道事務所」に問い合わせるしかなかった。担当専門家官が言うには「阪神高速と西日本高速会社が『有料事業許可申請』を行う際、申請書類に工事着手予定日を記載する必要があったから。」という回答だった。

 また、「実際の状況をご説明すると、始点の西宮JCT付近でも検討する案件が出ており、西宮JCT周辺の今津地域での住民説明会は当分の間、開催できる状況ではない。」と言う。要は「まだまだ先」ということなのだが、ここで問題になるのは、一度新聞記事となって発信されてしまうと、読者は「名湾が動き出した。名湾は進んでいる。」と思い込んでしまうことだ。

 読み手が問い合わせない限り、国は「あり得ない工事着手予定日」を否定も肯定もしないことだ。あくまでも思い込んでしまった「あなた」が悪いということなのか?今の日本のいたるところで起こっている、黙ってやり過ごすことの「恐さ」を見せつけられた思いがする。

【投稿日 2024.4.27.】

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『みちしるべ』**故 神崎敏則さんの追悼特集⑦**≪2023年秋季号 Vol.117≫

2023年11月11日 | 単独記事

神崎さんとの想いで

            大江和夫

 神崎さんとは阪神医生協で知り合ったと思いますが、その想いでは殆どありません。

 最初に浮かんでくるのは、「テニスを教えてほしい」という事でした。まず高架下の広場で練習をしたのですが、彼はラケットを持ってきてやる気満々でした。テニスは見た目には簡単なようですがボールが思うように飛んでくれません。それでも彼は首をかしげながらも熱心に挑んできました。私もあまりうまくなかったのですが、彼には文武両道は難しいなと思いました。そして彼も気づいたのか4~5回練習したところで、次回の練習日を言っても返事がなくなり自然消滅しました。

 さらに想い出すのは、彼は「道と環境の会」で活動していました。周辺地域にアンケートを取るという事で地道に地域に足を運んでいたとのこと。ある日、彼が運転する車の中での会話。「私『散髪いったん』神崎『うん』。私は1000円以下の散髪しか行ってないので気楽に『いくらやったん』と聞いたら『3000円(?)』と言います。私は驚き『どっ、どこ?』と聞くと『アンケートを取った時、色々と協力していただいた散髪屋さんにお世話になったんやねん。その散髪屋さんが店をたたむというので最後のお別れに』と言います。」彼の住まいは園田、散髪屋さんは武庫之荘。尼崎の端から端です。ずーと通い続けていたのです。その時、私は地道に活動をし、一期一会を大切にする人やなあ、改めて彼の顔を見ました。

 最後になりますが、神崎さんは長年「戦争・原発・貧困・差別を許さない尼崎共同行動」を立ち上げ、共に闘ってきました。会議に行くと彼はいつも私より早く来ていて、静かに「世界」という機関誌を呼んでいました。「本が好きやねん」と言い、国語の先生になりたかったと聞いたことがあります。会議では常に造詣の深いアドバイスをいただき、集会などを成功裏に収めてきました。

 神崎さん。私より早く逝くなんて………。

 はにかんだ笑顔が目に浮かびます。ありがとうございました。安らかに。

【投稿日 2023.10.25.】

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『みちしるべ』**故 神崎敏則さんの追悼特集⑥**≪2023年秋季号 Vol.117≫

2023年11月11日 | 単独記事

神崎さんとの思い出

                  よっしー

 神崎さんとは「みちと環境の会」で知り合いました。その後、私が「阪神間道路問題ネットワーク」の会合に参加するようになり、そちらでも顔をあわせるようになりました。とても精力的に活動をしているイメージがありました。

 尼崎市や、おそらく伊丹市・川西市での集まりでも会っていたように記憶しています。もしかしたら大阪の集会でも一緒になった事があるかもしれません。また、元市会議員だった酒井さんの事務所でも何度も話しました。

 「みちと環境の会」では、会合の後の交流会でも同席しました。――居酒屋・カラオケとか……。お酒はそこそこ強かったように思います。カラオケではどんな歌を歌っていただろう……。フォーク?ポップス?はたまた演歌? うーん、思い出せません。ごめんなさい。ぺこり。

 一番印象に残っているのは、酒井事務所関係の人たちで、一泊二日で泊ったことです。京都の美山にある酒井さん所有(お連れ合いと二人で)の古民家です。とても居心地のいいところでした。

 神崎さんは料理が上手なのです! 古民家に着く前に色々買い物。最後のお店で、今で言う「ジビエ」と言うのでしょうか、鹿の肉を買いました。ポトフを鍋一杯に作ってくれました。多分、生まれて初めて食べたポトフです。あれって、ロシア料理やったような……知らんけど。めっちゃおいしかった! 鹿肉もうまかった!

 参加者は、酒井さん・大江さん・笹部さんとトイプードルのクッキー・平出さん・神崎さん・わたくし“よっしー”の6人と1匹です。ワゴン1台で行きました。神崎さんも車を運転してくれました。初めて神崎さん運転の車に乗り――「あっ、けっこう荒いんや」とわかりました。普段はにこにことしていて、とても温厚なのにドライバーになると……。「へんしんっ!!」(仮面ライダーのごとく)なのです。いや大将(酒井さん)も、けっこう荒いので慣れとります。神崎さんOKやで~~。

 わたし5~6年前の事のように――いやもっと前とわかってたけど――思っていて、平出さんに「2013年9月2日(土)~3日(日)」と教えてもらい、そおかもう10年前になるんや。と、時の経つのは早いと、しみじみと言うか、しんみりしました。

 神戸大に行っている時、甲子園球場でボール拾い?って言うのが、ベンチの横とライト・レフトのアルプス席のとこ(グラウンド)にいて、グローブ持ってボール飛んできたら、そのボール拾ったり預かったりして、後でまとめて球場の中(ダッグアウト)に持っていくやつ……ボールボーイ? じゃないよな。ユニホーム着てヘルメットかぶって。「えっ、高校の時、野球部やったん?」と聞くと、「いいや」と。大学にアルバイト募集が来て、野球してなくてもいいとのことだったとか。思わず「いいなぁー」と言ったのを覚えています。(学生だった頃の話やけど、うらやましいー。)

 神崎さんといつ会ったのが最後だったのか、思い出せません。コロナ禍で私自身が、この3年間、仕事以外でどこかへ出かける事をしていなかったので、今、浦島の心境でもあります。

 今年になり、「阪神間道路問題ネットワーク」に参加できるようになり嬉しいですが、今後、神崎さんと会う事は叶いません。もしも天国があるなら――こおゆう時はあってほしい――たくさんの人と飲んで食べて歌って、いっぱい議論して、いっぱい笑ってほしいです。

 神崎さん お元気で。

【投稿日 2023.10.20.】

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『みちしるべ』**故 神崎敏則さんの追悼特集⑤**≪2023年秋季号 Vol.117≫

2023年11月11日 | 単独記事

地味だが丁寧に組合員さんの声を聴き、コツコツと仕事をこなす努力タイプ。 

弘中 信正

 阪神医療生協の第一診療所常光寺支部の地域担当として、兵庫土建専従から転職採用された神崎敏則さん。彼に対する支部組合員さんの共通した人物評価でした。

 当時の私は、阪神医療生協傘下の阪神中国医学研究所付属鍼灸院の院長として、神崎さんとは同僚として出会うことになります。鍼灸にも興味と関心を持ってもらい、常光寺支部時代には、健康のための鍼灸講座も企画をしてくれました。

 その後に、当時の専務理事との意見の相違もあり、退職の意思があったのを同僚たちが引き留めて鍼灸院と同じ建物内にあった「職域健診部」に配属移動となりました。このとき、月に数回診療所の当直をしていた神崎さんと、通勤時間の負担を軽減するため、帰宅せずに週2回は治療院のベッドで寝ていた私とは、よく勤務後の夜に雑談の機会を持ちました。

 彼からは、時たま故郷の五島列島の話を断片で聞かされて、顔貌の色黒さが瀬戸内育ちの私には、どこか懐かしいものを感じました。

 思い出と言えば、当時はノートパソコンが主流でない時代。手持ちワープロでしたが、彼は個人用を職場に持ち込んでいました。気さくで嫌がることもなく、彼のワープロを良く貸してもらいました。シェア感のある人物でした。

 物事の本質を深く掘り下げるタイプなのでしょう。医療生協の健診部を退職したかと思うと、ひまわり生協の事務長に転職。選挙の挨拶にも快く応じてくれました。その後は、大阪市役所前で早朝に何度か出くわしました。ビル管理会社に勤務しているとのことでした。

  再び、生協には園田支部長としてもどってきてくれて、組合員の代表でもある常務理事の要職について才能を発揮してくれると思った矢先に、九州方面に転勤。今回の悲報を聞きました。

 ここ1年。65歳手前にしての知人や友人と別れることが幾度かありました。振り返ると、現役時代に頑張った分だけ、息切れがあったのかもしれません。6年先輩として、彼の分まで1日1日を大切にしながら道を刻みたいと思います。

【投稿日 2023.10.17.】

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『みちしるべ』**故 神崎敏則さんの追悼特集③**≪2023年秋季号 Vol.117≫

2023年11月11日 | 単独記事

神崎敏則さんの思い出

                   那須弘美

 私が宮崎に帰郷して7年。その間、私の知る何人の活動家(仲間)の方が亡くなられたでしょうか。

 特に私より年齢の若い方がなくなるのは、誠無念な思いです。

 神崎敏則さんがスキルス胃がんで亡くなられた事を、平出さんからのメールで知り、驚きが隠せませんでした。

 神崎さんとの思い出といえば、「みちと環境の会」で彼と共に活動をさせていただいことです。

 「みちと環境の会」といえば、故 砂場 徹さんや 故 大橋 昭さんを中心に、それまで南北高速道路建設反対運動を展開されてきました。しかしその後、道路建設が事実上見送られたことから、上記の名称に変更し、活動の中心を尼崎・宝塚線沿道のNO2調査を定期的に行い、また尼崎・宝塚線の片側2車線拡張工事に伴う、沿線住民の声をつかもうという運動が議論されてきました。

 故 大橋さんがこの会の会長になられ、事務局長を平出さんにお願いしたころから、神崎さんにも会の活動に参加してほしいと呼びかけると、この会に積極的に参加してくれたように覚えています。

 彼は、非常に真面目であり、私と違って学習能力も高く、環境問題についてもいろんな書物を読んで、自分が学んだことを会議の中で報告してくれてもいます。

 その後、彼が事務局長になってからは、県と尼崎・宝塚線沿道住民に対する説明会を企画し、呼びかけや、ビラ配布を行ってきた甲斐もあり、多数の参加者を勝ち取り、防音壁設置の要求や歩行者道路の整備を要求してきました。こうした活動も彼が中心的に担ってきました。

 また、NO2調査に必要な薬品等の準備など、細かい作業も毎回一人で行っていた時もあり、頭が下がる思いがしました。

 その後「みちと環境の会」が事実上休会になり、私とはやや疎遠になりがちでありましたが、神崎さんはそれまで以上に反戦・反原発等、様々な社会問題に声を上げて闘っているように見受けられ、それだけに誠に残念に思います。

 心より哀悼の意を表します。

【投稿日 2023.10.16.】

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『みちしるべ』**故 神崎敏則さんの追悼特集➁**≪2023年秋季号 Vol.117≫

2023年11月11日 | 単独記事

神崎さんのご冥府をお祈りいたします

     虫明ひとみ

 神崎さんとは「道と環境の会」でともに頑張りました。というのは言い過ぎで私なんか、やっとついていった感じで、勉強させて頂きました。決して手を抜かない、それでいて住民の声にとことん寄り添う、その為にどうすればいいかを考え、何度もチラシを作製し、個別訪問を提案実行されてきました。その粘り強さは、すごいと思います。64歳は若すぎます。まだまだやりたい事、一杯あったと思うと残念でなりません。頑張りすぎた人生だったと思います。どうかゆっくりしてください。

 ご冥府をお祈りいたします

【投稿日 2023.10.14.】

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『みちしるべ』**故 神崎敏則さんの追悼特集①**≪2023年秋季号 Vol.117≫

2023年11月11日 | 単独記事

神崎さんの思い出

        阪神合同労働組合 笹部昌已

 神崎さんとは尼宝線周辺を沢山、二人で歩きました。そんな粘り強く運動する人だったけど、やはり惜しい人です。一緒に集会参加もしたり、その後カラオケにも行った思い出もありました。市来伴子さんと5月3日の夜(何年頃か?)、三人でカラオケにも行きました。候補者の応援のつもりなのか、迷惑かける誘いをしたのかわかりませんが、尼崎に根差した人に違いありません。田島診療所やそれ以前の活動は本人も少ししか喋ってくれませんでした。が、特に長い時間の付き合いがあった神崎さんのやってきた活動は、決して無駄に出来ないと思っています。友人の橋本欣也さんが今年9月に亡くなられたことも似た様なショックがありましたが、何故それ程頑張って生きてこられたか畏敬の念を覚えます。少しですが活字にすることで追悼の意と、何時までも忘れないでいたいと思っています。ありがとうございました。

【投稿日 2023.10.9.】

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