『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(37)**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月07日 | 熊野より

三橋雅子

<ブルータスならぬ、熊野よ、おまえもか?>

~台風被害は原発と同じ構図?

 

以上は2011年9月の台風12号など、集中豪雨による、南紀(新宮)の水害被害写真。写真の提供は、北部水源池問題連絡会のN氏。

 前号の私の<台風被害報告>を読んで愕然。断続的な停電など何かと後遺症が残る中での文章とはいえ、そのずさんさもさることながら、あわせて掲載された、那智勝浦現地で撮影されたN氏の、すさまじい映像とのちぐはぐさに、穴に入りたい気分になった。普段余りに情報が氾濫する日常に辟易して、たまには電話を始め、あらゆる姦しい情報手段から隔離されるのも悪くない、などと我が身の安全にルンルンと過ごしていた結果が、あの、映像との乖離おびただしい、ノーテンキで且つ杜撰な文章になったことをお詫びしたい。

 加えて我が家は半孤立集落。数箇所の遮断箇所は何とか自力で倒木を伐り土砂を除けて通れるようにしたが、重篤な亀裂箇所は人力ではままならず、重いゴミ収集車は台風以来入れないまま、ぎりぎりのカーブ道のガードレールが次第に、少しづつずり落ちていくようになった。コワ!ようやく今、本格的な道路復旧工事に入って、いよいよ通行は難しくなってしまった。迂回道路などあるはずもない。工事現場の下に車を置いておき、そこまで2キロ弱を歩き、現場付近は運よく通れることもあるが、めいっぱいに重機に占領されていると、脇の半崩れの山道をずっこけながら上り下り、自転車は到底無理、と言うほぼ缶詰状態の暮らし。暮れも押し詰まり、余すところ5日になって、やっと通行可能になる。

 その間、この災害は果たしてどこまでが「未曾有の天災」によるものなのか、ほんとに人智で軽減されることはなかったのか?を考えざるを得なかった。

1.利水ダムの罪

 熊野川にはいくつも発電ダムがある。昭和40年代(1960年安保以降の)日本の経済成長期に電力の需要増大に備えて、まさに「お国のために」産業発展の礎として水力発電がどんどん作られた。原発のさきがけか。熊野川流域は、地質、地形の条件も適所であったらしい。この時、補償金などのお金の動きが、ご他聞に漏れず、ダム建設を推進させた。

 本宮町唯二の国道2本をはじめ、驚いたことに、わが庵に通じる狭い山道の舗装もすべてこの時の恩恵の遺産だという。おかげで我が家の近辺は、荷物が運べるようになったとあって、車でどんどん下に降りてしまった。道路通じて村さびれる、のみならず置土産に至る所、杉・檜を植えて。かくてダムは森を疲弊させた遠因になった。この「繁栄」のお蔭でダムに文句は言えない、と言う構図が根深く熊野川の底流にある。「ダムのお蔭」さまさまで、かつて雄姿を誇った川の、満々とした流れは見る影もなくなったが、水運を生業としていた船頭さんも廃業の保証はたっぷり手にしたし、マチは潤い人並みの道にも恵まれた。

 私は熊野川の疲弊だけでも十分ダムの罪は声を大にすべきと思っていたが、加えて、あの尊大極まる放流予告。ものものしいサイレンに続く「これから毎秒〇〇トンの放流をしますから水流付近には近づかないよう・・・」と「通告する」居丈高なアナウンスは、まるで戦時中の空襲警報か、だれだれ閣下のお通りをを予告する、猛々しい軍靴の響きを連想してしまう。「そこのけそこのけ、ダム放流の御通りだ・・・」とでも言わんばかり。

 水に浸かった天井までの張替えに肩を落としている店主に、たいへんでしたね、とそっと声をかける序に、あんな雨に加えてダムからまでどんどん放流されてはねえ・・・と思わず恨み言を漏らしても、一様にいや、あの雨ではしょうがない、どうしようもない天災ですよ、ときっぱり諦めている。確かに今回の雨量は桁外れであった。明治42年の大洪水、大斎原(おおゆのはら)にあった本宮大社が流された時以来のものだという。1953(昭和28)年の大雨も大きな災害をもたらしたが、これを知る人たちは今回は比較にならないものだという。だから今生きている人にとっては「開闢以来」なのだ。あの大雨ではどんな洪水も仕方あるまい、との諦めである。全く「人災」の余地はなかった、と。

 確かに、日本一雨量の多い大台ケ原の年間雨量が4800ミリだというのに、9月4日の大台ケ原は2400ミリ以上、1日で半年分降ってしまったのだ。本宮でも1000ミリを越えた。大台ケ原の年間の5分の1を越える。確かにすさまじかった。

 発電ダムはあくまでも利水ダムで、治水ダムではないから、安全性を優先した事前放流は義務付けられていない。大雨に備えて事前放流した後、予報が外れて台風がそれ、雨が降らなかったらダムは空っぽになり電力供給に支障をきたす。これでは利水ダムの意味がない、ということで、いつも、ぎりぎり満杯近くになって放流するから、雨とあいまって下流はたまったものではない。仮に事前放流が見込み違いで空っぽになり電力供給が不足したとしても、人命の安全を優先した結果の停電なら、納得づくで不便に耐えられる筈、と思うのが我々市民の発想だが、電力会社にとっては停電の不便を強いるより、自らの商品不足の損失の方が重大なのであろう。治水のために利水に支障きたすような事前の措置をするのは規定にないこと、法律違反だと、あくまで規定を盾にしている。ならば人命、住民の財産を守ることを優先するよう法律を変えるべきである。

 これまでにも、本宮より下流の川の合流地点では、幾度となく「ダムの放流とあいまって」と明言された熾烈な水害を蒙ってきた。その都度、事前放流に関する規定の見直しなど、行政が真剣に取り組んでこなかった責任は十分にあるはず。とりわけ1995(平成7年)の河川法改正で「第1条目的」に「環境保全」が入れられたことは画期的なことだった筈だが、その好機に、「産業への通水」などだけでなく周辺住民の安全に関する配慮(事前放流に関する義務)をきっちり入れるべきではなかったのか?従来の災害と同じく今回に関しても、電力会社は規定に違反していることはないから責任は一切ない、と強気である。今回死者も出した新宮市では、議会は関電からの見舞金500万円とかを突き返す議決をした。今度こそ県ともども「利水ダムの横暴」に対する何らかの協議と対策をすることになるのだろうか。

2.森の荒廃

 熊野川の氾濫もさることながら、いたるところ川の橋や道路に、流れてきた木の堆積、その白々とした枯れ木の無残な残骸が水路を阻んだ跡は無残だった。皆白々と、最近倒れたとは思えぬ枯れた廃木の態、もしくは最近まで立っていたと思しき木々も、その根の貧弱さから、もともと根の張らない杉・檜のひ弱さ、もろさに加えて、日照を求めて上へ上へといたずらに伸びようとした細い木々の惨めな姿は、手の入らない森の姿の映し絵に見える。

 40年前、国の政策で杉・檜の植栽が奨励されたうえ、1本数万円から数十万円で売れるとあって、我先に植林に励み、儲けにあいまって、道路が付いたので、田畑や家の敷地にまで植えて山を降りていった。やがて外材が入ってくると、値段は暴落、伐って運び出す手間代が割に合わないとなって、山は放置された。結果、間伐されないままひょろひょろの木々がひたすら上に伸び、少しの風にも倒れて、それもまた放置されたまま、惨めな木々の墓場の態をなしている。荒れた山はところどころ禿ちょろけて、風化した砂山のように、一足踏み込めば、ザザーッと崩れ落ちたりする。

 我が家の一番奥の水源も然り。一番良質の水だったが放棄せざるを得なかった。森の荒れようは、今始まったことではないことは以前から体感していたが、それもこの地へ住み着いてから、という僅か10年の歳月の間にも刻々と、恐らく加速されて、というのが実感できる。杉・檜の成長が止まるどころか、まだまだ先がとんがっていて、年々眼に見えて伸び、日照時間が年毎に短くなっていく心細さも、半百姓としては切実である。しかしこちらも先の知れている山姥ゆえ、森と命運を共にするもよしか、という気にもなりかけていた。そして老いたりといえども、この壮大な奥深い森、和歌山に入ったとたん、山の様相が一変して、その深さ大きさに圧倒されるといわれる、独特の山の魅力は、一朝一夕に衰えを見せるものではない。しかし内部は深く病巣に侵蝕されていて、いつ病んだ部分が表面化されてもおかしくないのが現実だとしたら・・・?往年の美貌を、一見辛うじて維持している美女が、内部は癌があちこち転移してぼろぼろの、もはや手の施しようが無い命運!にも似た現象かしら?などと悲しい連想が走る。

 この、森の荒廃を早めたのも、ダム―道路―森の放棄・・・という経路によるところが大きいとしたら・・・つまりはダムも根っこでは、所詮お金に操られた原発と同じ構図に過ぎなかった、と今更ながら思い知る。ただ負の遺産が原発とは桁違いに小さいこと、そして何より反原発への力の片棒になり得る、と言うことがせめてもの慰めだろうか。

もろもろを沈めて浅き冬の川

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『みちしるべ』斑猫独語(48)**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月06日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<道はあるくもの>

 たとへば、家から近くの郵便局へ行くとすると、行きと帰りは同じ道を通らない、回り道をして帰ってくることもあるし、時間や用件にもよるが、最寄りの駅へ行くのにもこの方法で行き帰りすることもある。こんなことが面白いのだ。

 知らない所を訪ねる場合、この方法を試みるとそれが近場であっても一寸した旅をしているような気分になったりする。電車はさすがに駅間距離が長いからよほど時間の余裕と天候、健康状態が良好でないと後にさしつかえることがあるから注意が必要だが、街の中で地下鉄やバスで移動するなら駅、停留場は一つくらい手前で降りて目的地へ向かうこれがいいのである。そこからとる道も一筋二筋、表通りをはずして路地をとおったりするとなおさらいいのだ。

 尼崎で『みちしるべ』の印刷を手伝った帰り、宝塚市立病院に入院している妹を見舞いに行くことにした。市立病院など目印として大きなものは大体の位置の見当をつけて向かえば十分辿り着くので、その日もそのつもりで阪急宝塚へまず出ればいいと思っていたのでそのことを話すと、阪急宝塚からは遠いと言われ地図をみれば小浜にあることがわかり、尼宝線で行けば小浜バス停が最寄りであることがわかった。尼宝線は拡幅問題やY電器の開店問題などで、わがネットワークの検討対象になったまいどの道路である。そんなことの色々を考えながらバスに乗っていたが、先に書いた方法を楽しもうと、小浜の手前安倉で降りた。ところがここにはあまりいい道がない。しかたなくバス道を歩いたが、Y電器の前を過ぎてここだったのか、あの頃ここを問題にされた方は今どうされているのかな、など思いながら歩いた。そして目的地の市立病院へは、行く手を工場、高速道路にはばまれ、これは迂回にちかい道をとってたどりついたのだ。この場合読みが甘かったかもしれないが、迂回させられたこと、それも高速道路の長い壁によるには、先のまわり道の楽しみはなかった。

 盛り土による道路の造成は土地を二分してしまう。盛り土ではなくても車線の多い道路でも同じことだ。地域によっては行き来も出来なくなってしまうくらいの物になるのである。またこんな道路は景観を台無しにしてしまう。刑務所の壁なんか鬱陶しいものだろうが、道路が遮ってしまう景色も鬱陶しいものである。騒音、排気ガス、交通量などは問題としてとらえられ数量的に検討することが出来るが、景観というようなものは数値に変換出来ないものだから、やっかいである。でもこのことは十分気をつけないと人の心、情緒、文化を破壊してしまう。広島県福山の鞆の浦などよくがんばっている。たかが、自動車交通の利便のため文化遺産の風景を壊してしまってはならないのである。

 娘は(私の姪だ)売布神社から歩いて来ると妹が言ったので帰りは私も売布神社へ出ることにした。これは旅的な帰路となった。小浜宿の跡をみたりして、調子にのりすぎて、見当を誤りついたのは清荒神であった。近々お参りと、鐵齋美術館を訪ねてみよう。

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『みちしるべ』**ノーマイカートラウママウラト交通弱者**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月05日 | 澤山輝彦

ノーマイカートラウママウラト交通弱者

澤山輝彦

 何千万円もする車は別にして自動車はもう高嶺の花ではなくなった。持とうと思えばまあ誰でも持つことが出来る。そんな時代に車を持たないことを貫き通すこと、それは思想なのである。車を持たない我家はその思想に乗っているのだ。我家は車があれば助かる時にはタクシーを利用している。誰も彼もが車を持ってしまったことが世の中に様々な歪を生んだのだと私は思っている。これを正せば実に簡単に解決する問題がたくさんあるのだ。そんな歪を生む原因に加担しない、というのが車を持たない理由=思想を実践するところなのだが、もし私が道路問題、広く環境問題に取り組んでいなかったとしたらどうだろう、私は車を持たずにいただろうか。持ったかもしれない、自動車は好きだったからなあ。でも持たずに来た、それは生まれ育った場所(環境)が関係しているのだと私は思っている。

 私は昭和14年、環状線の内側、大阪市福島区に生まれ、昭和41年までそこで生活してきた。幼少年時代は戦中戦後である。庶民が自家用車を持てるという時代ではなかった。自家用車のほとんどは会社や官庁の物であり、一般人としては極ごく一部のお金持ちが持つたもので、車は庶民にとって高値の花だった。国産車というもの、特に乗用車はそれ自体がまだ黎明期のおそまつな物だったのだ。大型でクロームメッキがピカピカの派手なアメリカ車が走り、それらに大人も子供もあこがれたのだった。あれはキャデラック、マーキュリー、パッカード、クライスラーだと車名をあてて遊んだりしのだ。そんな時代だから当時の町屋の造りにはガレージなど付いてない。今のように一寸した空き地があれば駐車場になっているということもなかった。主な道路を一歩内側に入れば、そんな町が続いているのだった。そんな主要道路には市電、市バスが網の目と形容されるように走っていた。勿論、交通機関としては市電市バスだけではなく、大阪環状線の前身、城東線、西成線があったし(大阪環状線になったのは昭和36年1961)市営地下鉄も(御堂筋線だけだったかなあ)があった。人々はそれらを足として利用していたのだ。停留場から停留場へ、あとは徒歩で目的地に到達する、それで十分だった。

 そんな中でも市電は楽しい乗り物だった。色んな形式があり、あの形この形に乗るというのも楽しみだった。市電がらみの事故もいろいろあり、それらは町の話題になった。中学時代には遠足の集合場所が郊外電車のターミナルになることがあり、そこへは市電で行ったのだが、なかには三輪タクシーに相乗りして来るやつもいた。そんなことが子供にとって大人びたぜいたくで楽しいことだったのだ。そして日本はやがて大経済発展を遂げて行く。車を持つ層も拡大し町は車であふれる。市電はもはや自動車にとって邪魔者でしかなく、徐々に撤去された。大阪市電の終焉は昭和44年(1969)である。

 市電があった時代、停留所で切符を売るおばさんがいた。回数券一冊にはおまけが一枚付いている。それをばらして一枚一枚を単価で売り切ると一冊で一枚分が儲けになる。非常にこまかい商売だが、利用する人も多かったのだろう、結構そんなおばさんがあちこちにいた。

 そんな町で育った30年、車無しで何の不都合も感じなかったこと、それが身体にしみ込んでいるのだ。このことは大きい。そこで根付いたこと、公共交通を利用して事は足りる、ということが私の生活においてずっと続き、現在の私のノーカー生活に繋がっているのである。これは車なしで町の生活を送ってきたことが私の深層心理に何の悪い影響も残していないことの証しであり、トラウマという言葉が表す反対の概念にあたるのではないだろうか。このことを表す言葉を知らないが、トラウマの逆さまだからマウラトではないだろうか。こう書くと、何を言っても不信の目で見られてしまうかもしれないな。

 私がこのようにノーカーでいることが出来るのは、都市生活をしてきたからだと結論づけたのだが、全ての都市生活がこうであるとは思っていない。大量消費の時代が来る。消費は美徳なんて言われる時代を迎え商魂が人々をほうっておかなかった。車に関しては国民車という言葉で廉価車が開発され、国産乗用車も改良が進みだんだん良いものが出来てくる。人々は素早く時代の変化に対応した。マイカー時代になってしまったのだ。

 そしてマイカーが公共交通機関を破滅させた。それは都市だけではなく、時期の違いこそあれ地方においても同じであった。都市はともかく、地方における公共交通機関の衰退、廃止は交通弱者という言葉を生んだ。一日数本のバス便に頼る生活がある所、そんな所があちこちに出来たのだ。交通弱者だけではなく、過疎地、限界集落という言葉が生まれたことも似たような根にある問題なのだ。

 この構図が国や地方の発展過程では必然的であるとするなら、為政者、行政当局は弱者を救済する施策をとらねばならない。そんな人々を見捨てる罪作りなことは許されないことだ。罪作りは犯罪ではないか。暴力団とつるんだ伸介は罪を問われた。でも彼はそんな交通弱者を作ったわけでもなし、過疎地化に加担したわけではない。(と言っても俺は伸介を免罪しないよ)こんな罪をつくり、放置する者は伸介より早く罰されるべきだろう。そうではないか、誰もしなければ俺が罰してやろう。又々不信感を招くような事を言ってしまった。

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『みちしるべ』**恐ろしい青信号**< 2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月04日 | 神崎敏則

恐ろしい青信号

神崎 敏則

 今から45年ほど前のことだ。小学校1年の春休み、生まれて初めて長崎市に連れて行ってもらった。母と姉二人と妹の5人で、長崎市内に暮らしている遠い(?)親せきのお宅に1、2泊しただろうか。長崎市内のアーケードの人の多さ、お店がひしめくように並んでいる様に圧倒された記憶はあるが、何のために連れて行かれたのかまったく覚えていない。買い物をしたかどうかさえ覚えていない。そんなあやふやな記憶の中でも鮮明に覚えていることがある。

 長崎港から西へ約100km離れた五島列島の福江港から定期船に乗り、約4時間かけて長崎港の大波止で下船した。港のターミナルを通って、2、3分も歩かないうちに大きな交差点に出くわした。目の前を左右に路面電車が走り、そのレールの手前側と向こう側にそれぞれ3車線ずつ車道が走っている。大波止からそのまま真直ぐその交差点を直進すれば、右手に県庁舎があり、さらに直進すれば長崎で一番大きいアーケードのある浜町(はまのまち)にたどり着く。こちらの直進する道路の車線は片側3車線と2車線だった。

 この交差点に着いた瞬間に、怖気づいてしまった。車が血相を変えてビュンビュンと右に左に走っている。今から思えば法定速度以内のスピードなのだろうが、五島列島の車とはまるで雰囲気が違っていた。島の車は、信号付近に子どもがいると、なんとなくこちらを注目してくれていたのだ。そもそも赤信号で待っている間に車が1台か2台程度しか通らない。車の立場から言えば、青信号を通過するとき交差点で待つ子どもに気配りする。運転手と目が合うことも珍しくはない。しかし、長崎の車は違っていた。次から次に目の前を車が右から左に走り抜け、その向こう側を電車が走り、さらにその向こう側を車が左から右に駆け抜けていく。どの車も信号待ちしている子どもに、いっぺんたりとも注目することはない。どこかのゴールを目指して競い合うかのようにして走っていく。

 口を半開きにして、腰が引けたまま信号が青に変わるのを待っていると、ようやく進行方向が青に変わった。すぐさま姉二人はほかの歩行者とともに横断歩道を渡り始めた。すると信じられない光景が目に飛び込んできた。姉たちが横断歩道を歩いているそのさ中に車が次から次に走り出したのだ。姉たちはまだ横断歩道の真ん中ぐらいなのに、僕の前の車線を右から左に次から次に駆け抜けていた。長崎はとんでもないところだった。

 横断歩道を渡るときは、たとえ青信号であっても右手を挙げて右を見て、左を見て、もう一度右を見て、車が通らないことを確認してから渡る、と小学校で教えられていた。なのに長崎では、歩行者側の信号が青であっても、車が走っている間をすり抜けるようにして歩行者が急いで渡っていかなければならないことになっていた。腰が引けるのを通り越して後ずさりし始めた。すると青信号が点滅し始めた。横にいた親せきのおばさんが僕の手をギュッと握って「ほら、渡るとよ」と僕に声をかけて駆け出すように渡ろうとする。僕はありったけの力を込めて渡るまいと後ろに下がろうとした。一瞬、右折しようとする車の運転手と目があった。怒りがこもった目つきでこちらをにらみつけている。その眼は「渡るのか渡らないのか、はっきりしろ!」とどやしついていた。

 この時母はどうしていたのだろうか。記憶にないがおそらく片手で妹の手を引き、もう片方の手は五島から持ってきた荷物を抱えていたのだろう。ともかく母と妹はまだその横断歩道は渡っていなかったと思う。

 とんでもないほどに怖い青信号を何とか渡らずにすんで、安心しているのもつかの間。また信号が青に変わった。その途端におばさんが僕の手をギュッとつかみ、ぐんぐん引っ張っていく。今度はおばさんの勢いが違っていた。必死で渡るまいとからだをくの字に曲げて抵抗しても、片手をつかまれて引きずられるように運ばれていった。ちょうど首輪についたリードを引っ張って、嫌がる犬をひきずって散歩させているような光景に似ているだろうか。いやいや見た目はそうであっても、気持ちはそんな安直なものではない。地獄のふたがあいているのに、その上のロープを渡らされているような気分だったのだ。車が走っている間をすり抜けて駆け足で渡るなんて、いつ車に轢かれて死んでもおかしくないくらいに怖いことだった。

**************************************

 20歳代で運転免許を取得し、いまだに車を購入したことはないが、運転は嫌いではない。運転マナーを良くしたい思いはあるが、スピードの出しすぎを同乗者に指摘されることはたびたびだ。時間と追いかけっこしているような生活スタイルがまとわりついてしまい、なんでも早くてきぱきと片付けなくてはならないような強迫観念に縛られていた。実際には期限が過ぎてからあわてて原稿を書きだすことの方が多いのだが、強迫観念に縛られていることは間違いない。そんな気負いが運転に現れているような気もする。今は自分自身を振り返る時間を与えてもらっているのかもしれない。

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『みちしるべ』**忘れてはならない事**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月03日 | 川西自然教室

忘れてはならない事

田中廉

 新年なので明るい話をと思うのですが、困難な状況にある被災者の人たちのことを思うとやはり昨年の東日本大震災と福島第一原発事故について書きたいと思います。

 私は6月に福島県いわき市、11月に岩手県大槌町にボランティアで行きました。ボランティアに行きたいと思う人は多くいると思いますが、受け入れ側の態勢ができていないとそれもできず、思いがあっても参加できなかった人も多いと思います。私の場合は所属する教会とパレスチナの子供の支援団体が現地で活動しており、そのおかげで思いを果たすことができました。6月はがれきの撤去や農作業の手伝いなど、11月は仮設住宅の集会室でカフェ-を開き、私はお茶係で他のメンバ-が編み物指導などで被災者の人たちの団らんの場を作る活動でした。

 大槌町はすでに瓦礫は撤去され、津波に流されなかったビルがいくつか残るだけで、他は建物の土台を残して何もなく、写真で見る原爆投下後の広島のような風景でした。手作業で行うボランティアのやることは、業者の仕事量から見るとわずかなものです。それでも被災者の人たちは非常に喜んでくれます。それは、自分たちのことを心配してくれている人たちがいる、自分たちは忘れられていない、と実感するからだと思います。被害の状況は地域により、また同じ地区でも場所により大きく異なります。

 福島県いわき市では津波に加えて、原発事故の影響が大きくより困難な状況にあります。農作業を手伝ったいわき市の農家の人は、「何年もかけやっと有機栽培の認定をとり、販売ルートの開拓もしたのに、これですべての夢が破れた。」と、嘆いていました。

 大槌町のカフェ-では、多くの人の話を聞くことができました。編み物をしながらの住民同士で、また、昼食で多くの人が帰った後も残っていた、数人の人から被害の状況や、当日の様子、仮設生活の現状などです。その中で80何歳のおばあさんの話が一番印象に残っています。足が悪く杖を頼りに歩いていますが、当日息子さんが車で迎えに来てくれて自分は助かったのですが、そのため、自分より若い奥さんの両親の救出が間に合わず津波で亡くなったのです。「何もできない自分より若い人が助かった方がよかったのに―――」というつぶやきに、かける言葉がありませんでした。

 車で逃げようとして多くの人が亡くなった事実もあれば、車でなければ助からなかった事実もあります。高齢化が進むことより、今後歩行困難な人たちの避難はどうするのがいいのかも、考えなければいけないでしょう。

 被災地の多くで湾岸部が大きく地盤沈下したこともあり、復旧は進んでいません。仕事も激減し、被災者の将来に対する不安は想像にあまりあります。今後の復興には巨大な費用が掛かります。そしてその多くを税金という形で私たちが負担しなければならなくなるでしょう。

 ただ、復興のための税金が、他の減税で消えてしまうのでは何のための税金かわかりません。やるべきことをやって、税金が増えることは仕方ないと思いますが、それは個人も企業も同じように負担しなければいけません。消費税のように、その税額とほぼ同じ額が大企業の減税に使われているのであれば、それは詐欺です。今後も被災地復旧、原発廃止について、税金の使い方も含め関心を持ち続けたいと思います。

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『みちしるべ』**「みちと環境の会」(尼崎)の解散、再出発**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月02日 | 単独記事

「みちと環境の会」(尼崎)の解散、再出発

みちと環境の会 元会長 高岡和男

 多くの皆さんにご指導・ご支持をいただきました「みちと環境の会」(1999年11月28日、第1回総会)を、2011年12月18日(日)第13回総会をもって解散することを決定しました。

 一昨年から議論してきましたが、運営委員の選出では運動の中心となる事務局長の選出ができなくなりました。

 会を結成した砂場会長、運動を発展させた大橋会長の後を引き受けて2年でしたが、私自身の勉強不足と包容力のなさが招いたもので今思うと残念でなりません。

 しかし、総会の方針でも述べていますが脱原発をはじめ今ほど環境を守る運動が必要な時期はありません。

 今後については、次の通り確認しました。

  1. 「みちと環境の会」を解散し、「青空だより」「NO2測定」はストップ、今後は市民の立場に立って、会員・会費制ではなく、自由参加でその都度参加費を集め実行委員会方式で取り組みます。
  2. 「みちと環境の会」の剰余金については、今後の組織の連絡などの活動資金にさせていただきます。
  3. 世話人を選出し、年に数回の講演会、交流会をその都度実行委員会で開催します。
  4. 「阪神間道路問題ネットワーク」の加盟につきましては、「ネットワーク」の許可を得てオブザーバー参加することとします。

以上

「世話人選出」(12月18日)5名

「阪神間道路問題ネットワーク」参加問題

  • 1月29日 道路問題ネットワーク会議(於西宮)で確認
  • 特に資格問題などはないので尼崎で会費を決めて参加を
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『みちしるべ』**阪神間に見る現代資本主義の現状**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月01日 | 藤井隆幸

阪神間に見る現代資本主義の現状

藤井隆幸

庶民的景況感と経済の実態

 昨今、庶民は経済の先行きに、大変な不安を抱いている。そこそこの年金生活を送っている人も、ますますの年金減額に、老い先が心配である。大手企業に勤める人々も、若年退職勧告が、いつあるかと思っている。公務員も強まるバッシングに、底の知れない恐怖がある。10~40代の若者は悲惨で、その多くが非正規雇用である。70~80年代に、サラリーマンのうらやむ高収入であった自営業者は、最もみじめな現状にある。若者のワーキングプア以下なのである。

 それぞれ、不安と現状の差があるものの、総じて景況感の悪さは共通するものがある。だから、巨大産業も大変なのだと考えてしまう。しかし、一昨年から昨年にかけて、内部留保(非課税の純利益)は26兆円も積み増してしまった。その前年は11兆円と、利潤の拡大は加速しているのである。大手企業だけで、266兆円に達しており、地球上で類を見ない異常な溜めこみになっている。

 しかしながら、その大企業も将来像を描けないのは、庶民と同じことである。実態を反映しない超円高にあっても、海外進出はうまくいっているわけではない。タイの水害などでは、手痛い損害を被った。原発事故での電力不足が問題になっている日本だが、中国や米国は、そんな日本より電力事情が悪いのである。非正規雇用が4割に達する日本の労働力は、高品位の労働の質が望めるうえに、途上国の賃金より極端に高いわけではない。

日本の資本主義と世界経済の到達点

 この経済混迷は、いったいどこから来るのであろうか。原因は世界に普遍的に、影響を生じさせている。ただし、その国と地域の立場と発展段階などの違いで、現れ方がまちまちで、根源が同一であると信じがたいのではある。

 人は生きるために働く。文明を発達させる中で、最低限の生産から、余剰生産が可能になってくる。そして、集団社会を形成する人間は、分業という手段で更に余剰生産を形成してきた。

 分業の労働の対価を交換するに当たり、物々交換から貨幣を考案する。この貨幣が余剰生産とともに蓄積され、更なる生産力の為につぎ込まれる。その際に、貨幣は資本という名に変わって、意思を持ち始めた。

 資本は自己増殖を始め、あたかも意志を持っているかのごとく、人間社会のメカニズムの中で巨大化していった。この時、資本家と労働者といった階級を形成する。資本家が労働者を支配しているが如く見えるが、資本の自己増殖要求に、資本家も傀儡となっていたのだと考える方が妥当だろう。

 資本主義の爛熟期に至ると、金融寡頭制が顕著になってくる。アメリカ発の金融テクノロジー(金融工学)は、今や世界経済の上に君臨するに至っている。株式は起業の資本を出し合うのが目的だ。が、株式が売買されるに至って、企業投資の何億倍もの売買が行き交っている。貿易で通貨の交換が必要になって、為替が行われるが、これも貿易額の何万倍の取引が目まぐるしい。先物取引は、将来仕入れのリスクヘッジ(損失回避)のためのものだが、これも同じことだ。

 これらは正常な経済取引を、遙かに超える規模で行われるようになり、実態経済を圧迫するに至っている。いわゆるマネーゲームである。別名、ゼロサムゲームと呼ばれている。「サム」とは足すことである。足すと結末はゼロになる。つまり、誰かが損した分だけ、誰かが儲けるというのである。

 しかし、ことは簡単ではない。ある銘柄の株式が値上がりし、誰かが儲けるといった単純なものではない。M&AとかTOBなどという、いわゆる企業買収や乗っ取りで荒稼ぎする。サブプライムローンのように、貸付債権の転売を繰り返し、その実態が誰にも解らなくなる。それが実態である。

 このマネーゲームに使われる貨幣(殆どは実態のない信用というコンピュータ信号である)は、資本と区別して、日本の経済学者は「マネー」と呼んでいる。資本家は労働者を支配したかに見えた。が今日、「生産・サービス資本」を「投機マネー」が支配する構造が出来上がってしまった。

阪神間で現れた経済現象について

 多少、身近に見えない話をしてしまった。ここで、阪神間で行われている、爛熟経済活動の実態を見ることにしよう。

 阪急電鉄は宝塚のファミリーパークを閉園した。人々は赤字経営だと思ったが、実は、立派に黒字経営をしていたのである。では、何故なのか? 甲子園の阪神パークも、閉園された。これも、おそらくは黒字経営であったものだと推察される。同じことが、アサヒビールの西宮工場の閉鎖である。

 動物園は資産としては巨額になる。しかし、利益幅は大きくは無いのだ。ビール工場にしても、工場資産額が巨大すぎて、その利益は大きいものの、率にすると小さいものとなる。会社全体の利益率で計算すると、会社の利益率を押し下げる作用があるのだ。だからと言って、ビール屋がビールを作らないで、どうするのだ。動物園の地域社会での、歴史的使命はどうでもよいのか?

 常識人では考え付かないことではあるが、東京本社の机の上では、数字だけが総てである。結果は野となれ山となれ、なのが実際のところだ。

 もっとひどいことがあるのだ。阪神パークの跡には、ラ・ラポート(巨大商業施設)ができた。阪急西宮球場跡には、阪急ガーデンズ(同)ができた。西宮市に2つも作って、採算が合うのかということである。本来なら、モノを売って儲けたり、サービスを提供して儲ける。それが商業施設の役割である。が、そんな単純なものではない。

 阪急ガーデンズには、260店ものテナントが入居している。そのテナント料は半端な金額ではない。既に、多くのテナントが撤退を余儀なくされた。利益を上げているだろうと思える店もあるが、商売になっているのか不思議な店がほとんどである。

 阪急系列の業者で、入居を求められて、断れない業者は星の数ほどある。その業者たちが、多大な赤字を抱えてテナントとなって、その分で阪急資本は成り立っているのである。つまり、テナントとなった中小零細業者の生き血を吸って、阪急資本は稼いでいるのだ。

 阪急ガーデンズは、オープンの最大集客が10万人/日であった。梅田北の商業施設は、100万人/日であったことを思えば、大したことではないように見えるが、多重債務者を大量に創出することが、巨大資本の利益となるのである。

 小売業資本が販売利益などという、小幅なモノを考えていれば、投機マネーの要求には到達しないのである。

小泉構造改革とは何であったのか

 日本がマネーゲームの戦場となってゆくのは、もう記憶の古くなった『小泉・竹中構造改革』からである。

 郵政民営化は、郵便配達民間導入に狙いがあったのではない。賢明な読者諸氏にはお判りのことと思う。郵便局の抱える200兆円とも言われる郵貯・簡易保険を、保険会社に売り渡すことであった。日本の保険業資本は、次々にアメリカ資本に置き換わっている。ジョージワシントンも日本に上陸すると、福沢諭吉に変身する。国民の目には、どこまで浸食されているのかわからない。

 保険業というのは、何かあった時に保険金を渡すのが業務と思っているのは、実態を見ないものだ。保険業は、集めた保険金で投機を繰り返し、荒稼ぎする機関投資家(マネーゲーマー)というのが本質なのである。

 『小泉・竹中構造改革』の行ったことは、郵政民営化だけではなかった。上場企業の決算に、持ち株の額面評価から時価相場に切り替えさせたのは大きなことだ。

 大手企業は会社乗っ取りを防ぐために、自社株を1/3程度は持っているものだ。四半期(3ヶ月)ごとの決算を、上場企業は公開しなければならない。この際、自社株が1円でも上がっていれば、決算は改善し、株価も上がる。その反対は、どんなことがあっても避けようとする。これが東京の机の上では、至上命令となる。小売業が良い商品を提供して、お客に喜んでもらうことを止め、系列会社を落とし入れだすのである。製造業が製造しなくなり、資産の売却に奔走するのである。

 さて、最も『小泉・竹中構造改革』の悪行は、マネーの最大利潤方程式を実現したことである。資本が利益率を上げるためには、商品に占める最も割合の多い人件費、これを削減することである。資本がそれを実現したならば、マネーはそこから血を吸うのである。

 原則、総ての業種に派遣を認めることとし、日本の勤労者の4割を非正規雇用に落とし入れた。欧米では、正規も非正規も労働条件は同じである。が、日本の場合は何分の1になってしまう

 バッシングで公務員の給料を下げれば、自動的に数千万人のサラリーが自動的に下がる。消費税率を上げれば、非正規雇用が促進される。<このことについては別の機会に説明する。>失業率を上げておけば、安い賃金で雇用が可能だ。

 資本活動が高利潤を上げるということは、即ち勤労者所得を引き下げることを意味する。投機マネーは、如何に巨大化したからと言って、富の生産は1円だってできない。資本から生き血を吸うしか、自己増殖の方法は無いのだ。

 実態のない「マネー」がどんどん巨大化すると、自己増殖力は増大する。が、「マネー」に絡む人物は1%でしかない。彼らが実態経済で使うお金は、微々たるものでしかない。一方、勤労者は所得が激減する中で、実態経済の規模も縮小する。資本活動は「マネー」の要求で、飽くなき利潤を稼がねばならない。勤労者所得は益々、縮小してゆく。その分、「マネー」は巨大化し、実態経済は縮小する。この悪夢のスパイラルが、今日の経済の実態なのである。この経済学の入口さえも理解できない、評論家(竹中など)がマスコミで空言を言っているのが滑稽ではある。

日本の支配層1%の実態を直視しよう

 経済の実態を直視すると、何と馬鹿げたことかとわかる。小学生でも総理大臣の職責が、もっと上手くこなせると思えてしまう。何故なのだろう?

 経済界の幹部連中は、60~70代が殆どであろう。彼らは戦後のベビーブーム世代、団塊の世代である。確かに、優秀な大学を優秀な成績で卒業し、大企業に就職したモノであろう。が、その後の経過を忘れてはなるまい。

 派閥を作り、仲間を蹴落とし陥れる。そうして最後まで勝ち残ったものが、今日の経済界の幹部達である。人間性の喪失こそ、生き残る最良の手段であった。心豊かな人物は、とっくの昔にドロップアウトしているか、罠にはめられて引退を余儀なくされているはずである。

 確かに頭脳明晰な人物ばかりがいる、経済界トップではある。が、その思考方向に、社会性の欠片もない。投機マネーの要求する方向に、ひたすらキュウキュウとするのみである。ある意味、「マネー」の傀儡でしかない。

 その傀儡に、政治屋集団はコントロールされる、ロボットというのが実態であろう。彼らには、ガンジガラメにモツレテしまった政治を、最早、修正する能力は無いというべきだろう。傀儡とロボットには、人の本質が欠損している。

 我々は99%である! Occupy Wallstreet ! なのだ。

99%の国民の率直な気分

 人々は本来、良心で生きている。しかし、生きるために充分、働いたにもかかわらず、僅かの対価しか受け取れないと、良心を喪失してしまうことがある。社会システムに適合せず、自らの命を絶つこともできず、ホームレスという羽目になることもある。

 人々は、その恐怖を強く感じだしているのだ。しかし、周囲は見えても、大局が見えているわけではない。そこに、意見の不一致や、自暴自棄も起こりうるのだ。

 それでも、我々は傀儡でもロボットでもない。99%だということに確信を持とう。我々しか、展望は切り開けないのだから。

新システムが新世代により新世界を築く

 かつて60・70年安保闘争は、10~20代が主力となって闘った。明治維新も、もっと若い人々が立ち上がって命を落とした。

 今の若者は、好景気を知らない。生まれながらに、底の見えない不況と付き合ってきた。彼らに好景気は理解できないのだ。彼らが立ち上がらないのではない。

 社会の実態とシステムの在り方を、彼らに教えようではないか。そして、ともに変革の作業を共同しようではないか。彼らには新しいツールがある。

 人々の意識を支配に都合よくコントロールしてきたマスコミ。しかし、若者のネットワークは、その影響力を凌駕する力を持つ。その技術進歩は、目まぐるしく発展してゆく。彼らに力を……。

 「資本」も「マネー」も、手足も無ければ頭脳もない。所詮、人の作ったものだ。しかし、市場経済原理というメカニズムで、ウイルスのように人を浸食しだした。1%の傀儡とロボットを従えて。我々は99%の力で対抗しよう!!

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