『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』戦時下の学童疎開のこと**<2003.5. Vol.23>

2006年01月09日 | 大橋 昭

私の戦争体験・覚え書
戦時下の学童疎開のこと

みちと環境の会 大橋 昭

はじめに

 第二次世界大戦での日本敗戦以降、58年という時間の流れは、国民の約7割が戦争を知らない世代に属するまで変化させて来た。私はそんな時代の変遷の中で、あの戦争体験が徐々に風化し、少年期に辛酸をなめた「学童疎開」という歴史的事実も、戦後社会の片隅に追いやられ、その言葉すらも聞かれなくなってゆくことを不安に思う。

 あの戦争の末期に「お国のため」と称し、「学童疎開」なる戦争遂行政策に組み込まれた者としての体験したことを、今ことさら誇示することなくその意味や経緯も併せて記して置くことは、戦争を知らない世代の人たちへの責務であると思う。戦後、平和憲法の下にあって今日まで、曲がりなりにも平穏な生活を享受してきたことに感謝しつつも、世界が日本が、再び戦火の危機に見舞われようとしている時、改めてこの思いを強くする。

 戦争は人命を損ない自然環境を破壊し、平穏な生活をも奪い去る。そしていつの時代でも戦争で一番悲惨な被害を受けるのは国籍の如何を問わず、最も弱い立場にある子供たちであることは、この間のアメリカ軍によるイラク空爆の非をみれば一目瞭然である。故に「学童疎開」と言う特異な戦時体験の一端を回想し記録することは、反戦平和へのささやかな行動であると信じ以下に遺して置く。

「学童疎開」とは

 第二次世界大戦の末期、敗色濃厚の情勢下の1944年6月30日、この時の小磯内閣は、日増しに激化する本土空襲時の混乱を避け、国民学校初等科学童をより安全な地域に分散、移住させる目的で学童疎開の実施を指令する。

 当初、国は家族制度の崩壊と国民の戦意喪失をおそれ、人員疎開に消極的であったが本土がアメリカ空軍B29大型爆撃機の航続距離圏に入るに及んで急遠、学童疎開が行われ、縁故疎開(空襲の少ない地方の親戚を頼る)を第一に促進させていたが、途中から「団体教育のいい機会であり、少国民の錬成をすべし」と方針転換を図り、全国主要都市の国民小学校初等科児童を対象に、戦火の少ない地方へ学童疎開が行われた。

※ 【因にイギリスやドイツでは戦時下の疎開問題を第一次世界大戦の教訓に学び、第二次世界大戦開始前の早い時期から、綿密な構想と計画が練られ戦災を最小限にする政策が実行された】

 こうして一般及び初等科児童の疎開促進が決定され、東京・大阪はじめ18都市(尼崎市も含む)における、初等科3~6年生児童を対象に疎開が実施された。

 この時、大多数の児童は集団的に疎開が行われ、縁故を有する児童は個人的に疎開したが、これらに該当しない児童は都市に残留し寺子屋式の教育を受けた。

 集団疎開組では8月には第一陣が出発、翌年には範囲が拡大され、敗戦までに推定50万人が、全国約7000ヶ所の社寺・旅館・寮などに寝泊まりした。

 先年、NHKが放映した戦時下の集団疎開(富谷国民学校・東京都渋谷区)を撮影した貴重なフィルムを観る機会があり、汽車で出発する学童たちはまるで遠足にでも行く気分がよく撮られており、反対に見送る親たちの表情は戦地に往く兵士を見送るがごとき悲壮な表情がリアルに撮影されており、往時を回想し思わず胸が熱くなった。

 親元を離れ慣れぬ疎開生活のスタートは、まだ親に甘えていたい子供たちに苛酷な試練を強いた。それは悲しいまでの食料不足による栄養失調や病気(蚤・虱の媒介による疾病、疥癬の蔓延や兵士との共同風呂から性病感染など)と疎開先の人々との人間関係のむつかしさもあり、児童にとってはつらい体験となった。

 更に深刻であったのは疎開先での受け入れ態勢の不備、生活習慣や言葉などの違いなど、数々のトラブルが生じ集団疎開児童の心に、暗い影を落としたという記録は枚挙にいとまがない。

 また成長期の児童たちにはキャラメルもチョコレートも『欲しがりません、勝うまでは』の残酷な一言で抑えられた。今から思うと想像を絶する飢餓状況に置かれ、口に入るものはヘビやイナゴなども手当たりしだいすべて食べた。ある寺では境内の池の蛙が瞬く間に食べ尽くされその姿を消したという。

 そして毎朝の皇居遥拝、御真影と奉安殿への最敬礼「兵隊さんありがとう」合唱による軍国精神の注入。軍国主義を支える皇国少国民への錬成は続けられ、家族との通信では疎開先での苦しいとか辛いは禁句とされ、家族には空襲による窮状などを書き送ることは固く禁じたりした。

 疎開先の生活は住居・食費一人一月23円~25円(内、10円は保護者負担)の窮乏生活を強いられ、日々の食料の確保、畑の開墾や薪拾いに追われ勉強どころではなかったことは当時の疎開記録が明瞭に物語っている。親、家恋しいと淋しさと、空腹は育ち盛りの子供たちには耐え難く、しばしば児童の脱走者が出た。都市空襲で多くの学童が、親、兄弟の命を、住家を奪われ戦後に至るも帰る家なく東京上野・大阪梅田の地下街に、膨大な戦災孤児を生み出した悲劇は忘れられない。

学童疎開とは何であったのか

 幼稚園を終えて国民学校入学、即学童疎開。暖かい親の膝元から離され、見知らぬ土地への疎開が「お国のため」という漠とした理由で行われる事に、何の疑いも抱かずまるで遠足にでも行く気分で出掛けた多くの学童たちは、環境の激変による希有な体験をどう受け止めたのか。「学童疎開」なるものが死語化して行く時、戦後から今日まで多くの「学童疎開」ものが著されたが、その評価は定まっていないと思う。しかしその多くは戦争被害者的立場からの記述であることには疑問を持ってきた。

 私たちは年齢的にも確かに直接戦争行為には加担していないまでも、当時は銃後を担う「少国民」と言われ、一部には軍需工場での兵器生産に従事や戦場に往く兵士に日の丸の小旗を振り続けた事実。また戦場への慰問文をはじめ、学校・家庭での遊びに至るその日常生活は軍国主義一色で、少年少女といえども侵略戦争に何の疑問も抱かず、加害者たる立場を意識して来なかった。

 「戦争中のことは何も知らなかった、解らなかった」で許されてしまっていいのだろうか。私個人はあの戦争を指導した者たち、とりわけ昭和天皇が私たち学童疎開者に対し、何一つ謝罪も反省も表さず、逝ったことは大いなる不満と疑問を持ち続けている。

 そしてこのことを戦後史の原点だと考えてきた。いま戦争の悲惨さを知らない世代の政治家たちが平和憲法を蔑ろにして、過去の歴史に学ぼうとせず再び強権を弄して、国民の生命・人権を奪い去る不条理な戦争政策を進めていることに沈黙しておれない。

学童疎開(抄)
 
1942.4.12.
日本近海のアメリカ空母から東京初空襲

1943.12.
閣議で都市疎開実施要綱決定
空襲激化による人・物(生産設備)の地方への分散令

1944.6.30.
閣議決定により主要都市から全国各地方への学童(縁故・集団)疎開始まる(学童疎開ニ於ケル教育要綱)
「皇国民ノ基礎的錬成ヲ全ウシ聖戦目的ノ完遂ニ寄与スルヲ以テ趣旨トナス」
(※)東京防衛局
「老幼者を早く疎開させ、後願の憂いなく本土決戦を貫徹するため」(一般及び学童疎開の強力推進)(縁故疎開から集団疎開への方針転換)「学童集団疎開ハ重要都市ノ防衛力ヲ強化スルト共ニ次代ヲ荷ウ」

1944.8.22.
疎開船・対馬丸が魚雷を受け沈没

1945.8.15.
敗戦・学童疎開終わる

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