初春に西宮戎と道について
世話人 藤井隆幸
「みちしるべ」正月号の巻頭文は誰が?
「みちしるべ」の正月号の巻頭は、代表世話人が時々の道路行政や世界情勢について、所論を掲載するシキタリになっています。初代の砂場徹氏は昨年正月に他界されました。胃癌から大腸癌、更に肝臓癌と転移して行き、壮絶な闘病生活の後のことでした。氏は必ず、正月号の巻頭に情勢について思うことを書かれました。
また、後を継いだ大橋昭代表世話人も、正月巻頭の論評を必ず書かれました。その大橋氏も、体調の後退には抗しきれず、代表の座を退かれました。今は代表世話人が空席のままの状態です。連絡先としての事務局は預かったものの、はてさて正月巻頭の辞を書くのは、さすがに気が引けます。
とはいえ、誰も引き受けてはくれませんし、原稿そのものの集まりが、余り芳しくはありません。仕方が無くと言えば申し訳ないのですが、大所高所からの論評は遠慮させていただき、今風情勢の下での道の話を書きたいと思います。昨年の総選挙では政権が交代し、今年は7月には注目の参院選があります。政治談議は山ほどできるというものですが、そこは控え目に道の話などを………。
引越し先は西宮戎に近い国道43号線沿い
私事ですが、年末の慌しい中、引越しをしてしまいました。「再婚か?」なんて質問は皆無であったのは、先に引っ越された神崎さんと、偉い違いやなぁ! また、このご時世「家を買ったのか?」なんて言葉もありませんでした。まっ、少しでも家賃が安い方が、当世、有難いのは事実。世話をしてくれた人の話に乗っかりました。
新しい住所は同じ電話局管内で、番号が変わらないのを良いことに、転居通知の手配はしていません。その転居先というのが、西宮戎の近くなのです。国道43号線と高架で走る阪神電鉄の直近で、それはもう賑やかなことです。国道43号線道路公害裁判を闘った原告で、まだ沿道に残っている人はいます。が、大半の原告は既に沿道を退去しています。これは被告(国・阪神高速)の思惑で、沿道に原告が居なくなれば、最高裁で違法状態とされた国道43号線(及び阪神高速神戸線)が、違法状態でなくなるというものです。これには兵庫県が提案した、防災道路計画というものがありました。国道43号線の幅員を50mから75mに拡幅し、グリーンベルト化しておいて、災害時に復興帯とするというものです。阪神淡路大震災で全壊・半壊の木造家屋は、国が買い取るというものです。民々売買よりもかなり条件が良く、(片側12.5mにかかる)多くの沿道住民が転居してゆきました。原告も同じことが言えています。
そんな中で、わざわざ沿道に戻ってくる原告も珍しいといえるでしょう。調べてみなければ分りませんが、私ぐらいのものではないでしょうか? 沿道生活は30年近くになりますので、騒音や振動には慣れています。防音工事も施されていますので、以前の沿道よりは、静かなのかもしれません。それに、長年住んでいる人のいうことには、この不況のせいで、交通量が随分減ったとのことです。それは計測の結果からも、当たっているのです。
神様も人の作った不況にはマイッタ
さて、お正月に初詣という私の習慣はありません。それでも、お袋や叔母さんが生きていた頃は、元旦の人ごみを避けて、3日くらいに人の多くない神社やお寺に参詣しました。駐車場から本殿の近い、広田神社(マイナーですが嘗ては官幣大社)や鷲林寺。宝塚の山奥の塩尾寺(えんぺいじ)や、遠くは南紀の淡島神社などです。
西宮戎は十日戎だけではなく、正月も結構人込みになります。今回の家が近いこともあって、今年の正月は三賀日とも、西宮戎を通過することになりました。例年なら、人込みで周辺を自転車で走るなど、考えられなかったものです。ところが、三賀日ともスイスイ。2日は歩きだったので、境内にも入ってみました。例年、一方通行のはずが、双方向でも込み合うほどでもないのです。時間が遅かったこともありますが、本殿の前でも人は少しでした。裏の方に稲荷神社の社などがあり、電気が灯ってはいるのですが、誰も居ませんでした。
境内は露店が切れ目なく続きますが、少ないのは否めません。地図を載せていますが、赤門筋もギッシリとはいえない状態でした。最盛期は国道43号線沿いも、切れ目無く露天商がひしめき合っていたのとは、隔世の感があります。商売の神さんですから、不況は尚更、込み合うといわれてきました。十日戎は正月の倍は混雑するのですが、この不況は「えべっさん」も泣かせているようです。
西宮戎参道の衰退について
ここで御当地の道路について、若干説明しておきます。そもそも西宮戎の赤門(正面玄関)は、山陽道と西国街道の結節点であったのです。宿場町で赤門前には遊郭があったりして、大変賑わったもののようです。遊郭の名残が、戸田町界隈にスナックビルが多いことで、今に引き継がれています。
地図で見ていただければ分るのですが、「えべっさん」への参道は「旧国道」といわれる、今は西宮市道となっている道路です。山陽道が赤門に突き当たっているのです。私が幼少の頃は、この「旧国道」を遥か尼崎の方から、正月には晴着を着た多くの参拝者がぞろぞろと歩いて通っていました。阪神電車と国道43号線の間には、地図には書きませんでしたが、北から鳴尾御影線・さくら通り・もみじ通り・旧国道があります。当然、50年代頃までは、旧国道が一番賑やかでした。国道43号線の公害もあり、車社会で人が歩かなくなり、電車で参拝する人が多くなって、西宮中央商店街のさくら通り・もみじ通りに、賑やかさは移ってゆきました。
震災復興で中央商店街のアーケードが撤去されました。高層マンションを建設し、メンテナンスをするのに邪魔になったのが本音です。が、あろうことか行政は「震災で傷んだアーケードが崩れて、被害者が出たら商店街で責任を持つのか!」と、恫喝したのだそうです。アーケードを撤去する代わりに、石の舗装を行ないました。が、ビル風と雨が吹き込むために、総ての商店は開口部に戸を設置しました。今まで通りから店内まで、遮るものが無かったのに、戸を開けなければ商店に入れず、客足は激減してしまいました。折から不況と巨大商業施設による流通の形態変化もあって、中央商店街も衰退してゆきました。旧国道の衰退は更なるものになりました。
注目して欲しいのは、旧国道と交差する札場筋です。札場筋は南北4車線道路です。何と、旧国道は札場筋を越えられないのです。信号もなく横断禁止になり、一旦、国道43号線の横断歩道に南下して横断しなければなりません。旧国道は西行き一方通行ですが、車も左折オンリーになっています。嘗ては山陽道を担っていた道が、西国街道(国道171号線)の延長の県道に分断されているのです。これも道の歴史なのでしょう。
「にこく」ってどれのこと
「人間」とは「人の間をいい社会のこと」でした。嘗て広辞苑でも「間違って人をいう」としていたものです。でも、大多数が「人」のことを言うので、今は広辞苑でもその意を掲載しています。「にこく」つまり「二国」は、国道43号線のことを言うのです。国道2号線と勘違いしている向きが多く、次第にそうなってしまってゆくのでしょうか。
国道2号線が整備されたのは西宮市では、70年ほど前の話になります。武庫川と支流の枝川の間は氾濫地帯でした。武庫川と枝川を整備し、その間の土地を売却し、そのお金で武庫川整備と国道2号線の整備をしたとしています。旧の枝川は浜甲子園線(阪神電鉄の路面電車が走っていた道路)で、広大な土地が売却されたことになります。その時できたのが甲子園で、十干(甲・乙・丙……)と十二支(子・丑・寅……)の組み合わせが甲子(きのえねね)であったので、甲子園と銘々されました。
そんな昔にできたのが国道2号線です。国道2号線の近くには省線(院線を経て省線、後に国鉄を経て今はJR)が走っていました。当時は蒸気機関車で、火の粉を撒き散らしていた関係で、沿線には家はありませんでした。ところが国道2号線が開通すると、沿道には街並みが栄えてきました。道路ができれば地価が上がるという、現在では神話みたいな話が、こんな時代感覚から出てきました。
そして戦後の戦災復興区画整理事業で、国道43号線が建設されました。国道2号線と区別するため、第二阪神国道と呼びました。第二阪神国道は長ったらしいので、「二国」と呼ぶようになりました。従って、国道2号線は「一国」と言っていたのです。それが国道2号線の2号と勘違いして、「にこく」と言う余所者が多くなってきたのです。
2010年の道路を占うと
「構造改革」とは? 効率よく企業利益が上がれば、庶民にもオコボレが。生活水準は上がる筈? しかし、社員を派遣に置き換えて、低賃金で儲け。勤労者の大半の給与は減り続け、企業減税の穴埋めに、庶民増税をしたものだから、市場経済は冷え切りました。軸足をアメリカ経済(輸出)にシフトしましたが、アメリカもリーマンショック。
今、企業の溜め込みは国民総生産に匹敵する規模。派遣切りを止めて正社員にし、法人税をもっと払っても、痛くも痒くもないのです。しかし、私の企業からと手を上げる会社はありません。そこは政治のやることですが………。給与水準の引上げと企業法人税を元に戻すと、景気は直ぐに良くなります。そうすれば企業も喜ぶのですが。
道路行政も同じことで、不況の中で車社会がムダを創出していることが分ったはず。ここで「止める」といえない道路行政。彼らは死ぬまで変わることはできないのでしょう。ならば、住民サイドが主導権を握ることが必要なのでしょう。
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