「小火(ぼや)の会」
澤山輝彦
「大体やなあ、北斎が描いた時代と今とは何もかも違うんじゃ、それをやなあ、コンピューターで分析中華(ちゅうかという言葉を漢字変換してしまったのである)再現ちゅうかしてやなあ、ここから富士山はみえへん、とかこう見えるとか言うてんのんやけど、いらんお世話やで」真昼亭独鯉さんは名の通り真昼から気炎を上げている。地域コミュニテイの小集団「小火の会」誰も聞いてくれないぼやきを持ちより、うっぷんを晴らす会の巳年初集会の場である。こんな会、上手く行くのかなあとの心配はよそに、案外笑いのほうが勝ったりしてうまくいっている。それぞれ雅号をつけて呼びあうことで、職業を密かに証したり、主義主張を微妙にオブラートで包んだりしている。瀬鯉上人、藪亭逸舎、護憲亭窮状、大痔林国文、蝶立亭美蛙乃など本人自ら、また人から勧められてつけた号を持っている。ところでオブラートだが、粉薬を飲むのに子供の時よく使ったものだ。今でも使われているのかな。これが日本人の医者の発明だということをつい最近知った。
独鯉さんは、NHKテレビ日曜美術館をみてぼやいているのだ。北斎の富岳三十六景を富士山の存在だけに目をやる見方が気にくわないようだ。あの絵には人が描いてある。あの人達の存在を見ないで富士山だけを見るのはナンセンスだと言うのだ。そんな人の中に、富士山に目をむけていない人のあることが面白いのだそうだ。そう言えば絵の中の人物で富士山を見ていない人がけっこういるのだ。富士山がどうしたと言うのだ、俺たちにはいつもの風景なのだ、それを背景に働いているのだ、そんな風に見える絵がたしかにある。面白い指摘だ。図書館へ行って一度富岳三十六景を完全に見てみよう、今年一月の課題が出来たようだ。
「小火の会」の会則はただ一つ決して他人のぼやきに憤慨しないこと。それはそれで聞くこと、このことはぼやいてはならない。これをぼやく人はもっと大きな火を焚く会に入ることをすすめている。
近所で小火があった。小火より小さい微小火だったようだが、消防車が二台やってきてあたりは騒然とした、かと言えばそうではなくえらく静かだったのだ。無関心なのかこれが平常心なのか、私は野次馬根性が旺盛だから、次回「小火の会」では、なぜみんなもっと野次馬にならないのか、とぼやくことにきめた。
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