『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(42)**<2006.9.&11. Vol.43>

2006年11月07日 | 横断車道

90年代の6月頃になると、道路騒音問題が新聞記事になった。環境庁(現:環境省)は全国の自治体から収集した、前年度の道路騒音調査結果をまとめて記者発表する。しかも9割の測定場所が環境基準をオーバーし、社会問題と受け止められた。しかし、昨今はそのような新聞記事は見かけない▼なにも道路騒音が改善されたからではない。国道43号線訴訟の最高裁判決を受けて、騒音の環境基準が改訂された。騒音の測定方法をより近代的な、最高裁判決に習ったのは正しかった。が、その際に例外区域規定を追加した。実は例外ではなく、全国で道路騒音が問題になる場所(騒音測定がなされる場所)は、総てこの例外区域規定の対象になった。国道43号線の騒音が激しい場所でさえ、この例外区域規定では環境基準内というのである▼騒音の環境は改善されていないが、新しい環境基準では総てクリアーする。従って、80%騒音の環境基準が達成されているので、新聞記事にならない。それと同じことが高速道路建設の赤字問題にも当てはまる▼小泉改革の目玉として道路公団が民営化された。道路公害に反対する住民団体は、70年代から有料道路制度(道路4公団)の財政破綻を指摘してきた。住民のそんな意見を黙殺してきた歴代内閣であったが、小泉内閣は反転して問題視した。以後、毎年8月前後に道路公団の財務諸表の発表があり、新聞記事も華々しく掲載した。日本道路公団の4分の3の路線は赤字であると▼ところが、公団民営化後の今年は、気がついた範囲で言えば、高速道路(株)の財政記事を載せたのは読売新聞だけであった。比較的目立たぬ記事で、東日本高速道路(株)の殆どの路線が黒字を確保したというものだ▼公団当時は《道路建設の借入金の年間金利(金利)》を《ランニングコストを差し引いた料金収入(収益)》と較べて、《収益》を《金利》が上回れば赤字といったのである。民営化後は借金を国の「道路保有機構」が丸抱えしている為、高速道路(株)の財務諸表は《収益》だけしか発表しない。総て黒字になるのは当たり前だ▼中曽根内閣で国鉄が民営化されたが、良くなったのは職員の愛想だけであった。サービスの低下(ローカル線の廃止・職員の削減・超過密ダイヤ・貨物輸送の廃止・運賃の高騰)は、結果として尼崎(福知山線)の脱線事故を引起した。あれだけ国鉄の赤字を言いながら、借金の大部分を「国鉄清算事業団」に押し付けて、JR各社が黒字になるのは当たり前。その借金も24兆円が36兆円に膨らみ、「事業団」解体の際に総て国民の税金に解消した▼咽もと過ぎれば何とか……。しかし「道路保有機構」の40兆円の借金は、これから膨らんで将来の国民が背負わされるのである。 (コラムX)

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『みちしるべ』斑猫独語(27)**<2006.9.&11. Vol.43>

2006年11月06日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<なぜかキューバが気になって>

 イナバウアーという言葉を流行させたトリノ冬季オリンピック、ジタンの頭突きが出たサッカーのワールドカップドイツ大会、どちらも半年ほど前に我々を熱狂させたことなのに今(2006年11月)考えるともうずっと以前の事だったような気がする。世の中というものはじつに目まぐるしく動いているものだなあ、と考えてしまいそうだが、この目まぐるしさはメディアによって増長されているものだから、自分自身の感性をしっかり持たないと、またたくまに月日はたってしまうのだ。甲子園高校野球大会もメディアによって与えられるこんな催し物の一つだ。今年の夏の甲子園高校野球大会の決勝戦は延長再試合という予測しなかった試合になり、早稲田実業が優勝した。この両チームはその後の兵庫国体で再び顔を合わせ早実が勝つのである。早稲田実業は、王監督の出身校だ。

 WBC・ワールドベースボールクラシックというのがあった。日本チームは王監督にひきいられて参加、どういう試合の仕組みがあったのか、日本は韓国に二回負けているのに優勝したのである。優勝を報じる号外が出て、その取り合いでケガ人も出たそうで、たかが野球ではないか、ケガまでして号外をとるなんて馬鹿な、と私はののしったのだ。

 WBCはアメリカ大リーグ機構などが中心となって作ったものだ。世界的に見れば野球人気はサッカー人気の足元にも近寄れない。(サッカーと呼んでいるのは日本など少数でフットボールと言う方がはるかに多いこれが正式であろう)野球が盛んな国は少ないからだ。野球をするには道具がいる。道具をそろえるには金がかかる。貧困な国では遊びとして簡単に野球をすることは出来ない。だが蹴るボールが1個あればサッカーは出来る。これがサッカーの裾野を広げている。ということは貧しい国が多いということなのだ。野球が流行るアメリカでサッカーが流行らないのには別のわけもあるのだが。

 そんな野球王国アメリカは自らが牛耳ることが出来る世界大会がほしかった。そこでアメリカ主導のWBCを発足させる。アメリカ主導だから、最初のうちはアメリカの敵であるキューバを「よしたれへん」と言っていた。キューバは野球が強いのだ。なぜキューバで野球なのか、これはキューバが地理的にアメリカに近いことも一つの理由になると思うが、だったら陸続きのメキシコやカナダでだって野球が盛んであってもいいのだが、もうちょっとなにか違うわけがありそうだ。キューバの歴史を調べればその中にわけがみつかるかもしれない。それはそれとして野球の強いキューバ抜きの世界大会では値打ちが下がる。そこで急場しのぎか渋々だったかは知らないが、とにかくキューバを参加させたのだ。そしてアメリカは敗退するがキューバは決勝にまで進出するという結果になった。

 キューバはフロリダ半島の目の先にあり、アメリカがいじめ続けている社会主義の国だ。東西冷戦という構図が無くなって久しい今日、陸続きの国境で揉め事が頻発するというわけでもないのに、こんな小さな島国一つを、社会主義国家である、というだけでアメリカは目の敵にし続けているのである。アメリカは弱い者いじめを楽しむ嗜虐的な国なのだろうか。こんなアメリカのやり方は漫画ドラエモンに出てくる“いじめっ子ジャイアン”にも劣る。ジャイアンのいじめは執拗ではなく、やがて一緒に遊んだり冒険に出たりするのだ。アメリカはキューバのグアンタナモに基地を持ち年間4000ドルで借りていると聞いた。勝手なことはしているのだ。

 キューバ、私がその名を覚えたのは戦後早々、6、7才のころキューバ糖からである。戦後の食料事情の悪い時、何故か砂糖、キューバ産のものだったからキューバ糖と呼んだ砂糖の配給があったのだ。当時、砂糖は欠乏していて、甘味料というとサッカリン、ズルチンという今なら使用停止になるだろう合成甘味料を使っていたのを覚えている。そんな時代に母がおやつにカルメラを作ってくれたが、材料はキューバ糖だったのだろうか。キューバは砂糖の生産国だからサトウキビから作る酒、ラムの産地でもある。数年前私は「カリビアン・クラブ」というキューバ産のラムを知った。うまいラムだった。しばらく続けて飲んだ。だがなぜかこのラム入手しにくく、購入先のカタログから消えて久しい。

 私は酒はストレートで飲むのが本道だと思っているからラムもストレートで飲むが、ラムをベースにしたカクテル、キューバリブレは道をはずして愛飲している。カクテルと言っても基本的にはラムをコカコーラで割っただけのものだ。キューバリブレ自由キューバの響きがいい。ところでなぜコカコーラ=米国、ラム=キューバが手をにぎっているのだろう。今は犬猿の仲になってしまったアメリカとキューバだが、キューバがスペインから独立する時、アメリカが助けたからで、キューバリブレはその頃に生まれたのであろう。その後キューバには革命が起こり、社会主義国家となる。キューバでは今もこれを飲んでいるのだろうか。そうだとすればキューバの人達の屈託の無さのなせるところであろう。いじめのアメリカでのキューバリブレの位置付けは反社会主義、反カストロの資本主義国家キューバ再来を意識しての飲み物なんだろうと思う。もう一つダイキリというカクテルがあり、ヘミングウェイとこのカクテルの話は有名だそうだがどんなことか私は知らない。

 もう今では昔語りかもしれないが、東京キューバンボーイズという楽団があった。マンボのリズムの軽快な演奏をしていたいい楽団であった。

 私の好きな歌、ラ・パロマは「我が船ハバナをたつとき」と歌い出している。首都ハバナ。ハバナの旧市街は世界遺産だそうで、過日NHKTVでその街を紹介しているのを見た。そこではキューバの子供たちが板に何かの車をつけたもので路上を走って遊んでいた。それは私が戦後した遊びと同じものだった。1950年代の古いアメリカ車が一寸苦しそうだがまだまだ走っていて、そんな車が写っている街の風景は旅行会社のパンフレットにまで出ている。これら古い車の修理風景はもうほとんど解体作業に近いものである、とごく最近キューバを訪れた知り合いの画家の紀行文にあった。そんな光景を見たり聞いたりして「もったいない」という言葉はキューバには通用しないなと思った。「もったいない」は浪費を続ける国や人々にだけあてはまる言葉である。消費を煽るモデルチェンジを繰り返し、手入れをすれば長く乗り続けることが出来るだろう車を早々と買い替えに走らせる、「もったいない」は先ず自動車産業に向けたい言葉だ。

 今、私の住む街で、粒大ごみを捨てる日にごみの集積地を見ると大人用や子供用のまだまだ乗れる自転車が捨てられていない日は無い。まことに「もったいない」のである。これを見るたび思い出す事件がある。大阪港に入った船のキューバ人乗組員が子供用自転車を盗んで捕まったという事件があった。キューバの子供に持って帰ってやりたかったのだそうだ。この事件が起きたのはマータイさんと言うよその国の人から「もったいない」ぞ、と言われないと気がつかない浪費に陥ってしまった時代が始まるまだずっと前の出来事であったが、そんな自転車を集めてキューバの子供たちに送ってやる運動をしたいなあ、とわりに真剣に考えたのだった。
 キューバとアメリカの関係改善はアメリカの出方次第だ。アメリカがキューバのやり方を認めればそれで済むのだ。たかが野球と毒づき、ラムを賛歌した私はここに来て外交評論もしてしまうのである。野球や競馬やサッカーに、マスコミにあおられる大多数の日本人、彼らはまじめでおおらかで性質がすなおでねじけていない人達だ。こんな人が大勢いるのだから、日本の未来は明るいはずだ。こんな人達が憲法第9条を守ろうと言ってくれたら、日本は世界平和大会・WPCワールドピースクラシックで絶対優勝できる。マスメディアの在り方がいかに大事かよくわかる。

 首都ハバナの名を冠した「ハバナクラブ」という名のラムもある。これはカリビアンよりもよく出ているようだ。とりあえずなんでもいいからラムを買い、キューバリブレで乾杯といこう。

 王監督はWBC優勝が評価され、正力賞を受賞した。(11月7日)王監督は「WBCは半年も前のことで、自分のなかでは過ぎ去った試合だった」と感想を述べている。(発行が延びた結果このことが追加出来た)

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『みちしるべ』アメリカ合衆国のおもしろさ**<2006.9.&11. Vol.43>

2006年11月05日 | 澤山輝彦

アメリカ合衆国のおもしろさ

世話人 澤山輝彦

 2006年9月26日付け毎日新間は「自動車社会に一石を投じた 加州温暖化訴訟」という社説を載せた。社説は――米カリフォルニア州司法当局が、自動車から排出される二酸化炭素は温暖化を引き起こし、農業被害や健康被害をもたらしてきたとして、日米の6社を相手取った損害賠償訴訟をおこした。賠償請求額や訴訟がどのように進んでいくのか不明だが、自動車を地球温暖化の主因に据えたことは大きい――と始まる。自動車なしでは生活が成り立たないといわれる米国でこの訴訟だ。日本では考えられないことではないか。やはり民主主義の先進国なのだなあ。と言っても連邦政府のやり方はそうとも言えないが。だから合州国は面白い、と私は言うのだ。

 私たちをとりまく道路問題も自動車の在り方を突き詰めて考えれば解決する。狭い日本で市場を奪いあい、物流という言葉で道路を要求する。あたふたと移動する盆正月、駆け足で見て置る観光、ゆっくりした生活ができないので、車と道路を要求する、徒歩での用足しが難しくなってきた地方での生活、こんなことで吐かれる道路が要る、自動車が要る、という声を集めてまわり、道路の必要性を説くのだ。「もう一台車がいるでしょう、これはママサン向けのセダンなんですよ」なんて言って、過乗な自動車の供給をする。こんな世の中いいはずがない。加州当局のように日本の自動車社会に日本的な一石を投げる行政当局は出ないだろうな。

 アメリカ合衆国議会の今回の中間選挙の報道は見ていて大変面白い。これがアメリカ的民主主義なのだなあ、というものから、徹底した個人主義的言動である、というものまでいろいろ出てくるからだ。ブッシュ大統議が肩入れに訪れた候補者の演説会場にはその候補者が顔を出さなかったとか、共和党員でありながら民主党に投票する会、というプラカードを持ったおばさんが現れるのを見ると、アメリカ合州国という国は面白い、と思わぎるをえない。民主主義が成熟しているのだろう。非核三原難もなんのその、核武装を考えてどこが悪い、と言う閣僚が出る日本、平和憲法を都合よく解釈し続けたあげく改憲しようと、そのムードを煽り、それに乗せられる人々、日本人の精神年齢は○○才と言われて懐慨した昔からちっとも進歩していないではないか。全てとは言わない。半数以上の日本人がアメリカ人にならって、もっとまじめにしっかり自分で考えれば、日本も面白くなるのだが。

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『みちしるべ』「徳政大塩味方」能勢山田屋大助の乱**<2006.9&11 Vol.43>

2006年11月04日 | 川西自然教室

「徳政大塩味方」能勢山田屋大助の乱

川西自然教室 井上道博

 天保7年(1836)は、春から秋までことのほか雨が多く続いて稲、綿とも大凶作になった。秋の収穫がほとんどなかったため、年を越して天保8年春から夏にかけての村方、町方の困窮は激しかった。在郷町池田の天保8年3月の調べでは、町の人口5239人のうち「夫食(ふじき)才覚之候者」つまり自分で食料が調達できる者はわずかに821人にすぎず、残る町人口の実に84%にものぼる4418人が「飢人」に数えられていた。この飢饉のひどさは前後にみない米価の高騰となって反映している。川西の下屋敷に残る資料では、天保8年4、5月に銭140文。6月朔より280文。9日よりあがり300文になり、11日には308文になり、14日には340文になり、又麦も1升につき220文、又そらまめも1升190文、そのはか青物、ごまめ値高く候ゆえ、人々難犠致し乞食に落ちる人数知れず。又飢えて死ぬる人数燿れず。

 この年天保8年2月19日に、この危急を見かねて大坂市中で元天満の与力大塩平八郎らが乱を越した。乱は半日で鎮圧され、大塩父子は乱より1ヵ月後靫本町の隠れ家を突き止められ自殺した。大坂市内では次のような歌がうたわれていた。

大塩が所持の書物を売り払い 是ぞむほんの初めなりけり
どっと出てそっと引きたる大塩が 又出よふかと跡部おそるる
              (跡部は老中水野忠邦の弟大坂東町奉行)
大塩が我が身の為か他が為か 切支丹やらなにしたんやら
一つ米よせて二つに分けて見よ 家中心もとけて安臣(心)


 さらに大塩の乱に誘発された一揆が摂津で起きている。その一つが能勢における山田屋大助の乱である。7月1日夜、能勢郡今西村にある杵の宮(岐尼神社)の境内に人々が集まった。2日の朝には「徳政大塩味方」「徳政訴訟人」などと書いたのぼりを立て早鐘、太鼓を打ち鴫らして気勢をあげた。主だった者は5人で山田村の山田屋大助、書家 今井藤蔵、剣客 佐藤四郎左衛門らという。その日の内に今西村か稲地・平野・神山・垂水。長谷あたりの村々をまわって強制的に人足を集め、その差し出しを拒んだ稲地村の庄屋の家では番人が殺害された。その勢いに恐れて村々もおいおい助勢することになった。また酒屋や村役人など大きな家に押し入っては米や金銭を強要した。一方この日、能勢郡川辺郡村々に各家から1人ずつ今晩中に杵の宮への集合と「強(おそれながら)奉願上候口上覚」という関白殿下宛の徳政令の請願書が廻された。

 一揆は7月3日には西走し中山峠を越え鎌倉村・杉生村(猪名川町)を経たか、阿古谷村から木津村(いずれも猪名川町)へ入ったかで左曽利村(宝塚市)の万勝寺に宿泊した。そして4日には麻田藩木器村(三田市)に至り光福寺で昼食をとったが、ここで追っ手に囲まれ大助は八つ時(午後1時半ころ)腰に銃弾を受けて3人は切腹し乱は鎮圧されたという。

 この一揆に参加した村人は33ヵ村712人にのぼった。(一説には2千人とも)いずれにしても近在を揺るがした出来事だった。

 大塩の乱やそれに続く一揆の広がりに恐れをなした時の施政者は、緊急に幕政改革を痛感するようになった。天保12年(1841)徳川家斎が死去し、12代将軍家慶の信任のもと、老中水野忠邦が天保の改革を実施した。中心は奢侈品や日常生活全般の倹約、統制で、その厳しさに多くの人には不評で改革は思うようには進まなかった。

 天保14年水野忠邦が失脚し、以後異国船の来航など外圧もあり幕府の倒壊、明治維新へと歴史は動いて行ったのである。

参考文献 川西市史第二巻「幕末維新の大阪」大阪文庫 他

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『みちしるべ』熊野より(21)**<2006.9.&11. Vol.43>

2006年11月03日 | 熊野より

三橋雅子

<熊野・八咫(ヤタ)の火祭り>

 黒い熊野の山々を背景に、ごうごうと火が燃え盛る。山伏たちがなにやら儀式めいた火の扱いを繰り返して、やがて山の奥深くに消えていく(ように見える)。チリンチリンと鳴らしていく鈴の音だけが暗い中に寂しく響き、山伏の白装束が闇に吸い込まれていくのと一緒に、鈴もはかなげに消えていく。勇壮果敢な炎、それを操る山伏たちの勇姿と対照的に、消えていく鈴の音のはかなさが耳に残る。炎はまだまだめらめらと、黒い闇を舐めるように踊っているが、山伏達が消えた方向の視界は黒く閉ざされているだけに、他の感覚が鋭くなるのか、もう聞こえないはずの鈴の音が聴覚の底に残る。

 祭りはこれより前に本宮大社から、山伏が担ぐ炎の御輿や時代行列が大斎原(オオユノハラ)まで蝋燭を灯した参道を静々と行く。暮れなずむ、ほんの暮色が翳る中、点々と灯る足元の蝋燭はむしろ、ちょうど青々と実った稲穂を映し出す。かつての「蟻の行列」詣でを模した、平安装束に編み笠の女人達が一段と眼を牽く。これを追って、カメラを持って走るのや、行列の後に続くのは観光客か報道関係者で、地元の人たちはほとんど見かけない。行き先は熊野川のほとりの、もともと大社があった場所、水害(明治22年・1889年8月)で流されて、今の小高い所に移る前の本来の地である。今は大鳥居が一つあるのみ、高さ34メートル幅42メートルの日本一の大きさとか。この日はライトアップされて、空に向かって銀色に巨体をさらしている。

 毎年、定型の行事が行われる中、一つだけ年替わりのイベントがある。今年は佐野安佳里さんの弾き歌いライブ。雨の時は室内の会場も用意されているが、燃える火が黒い森と空に放たれ、ちらちらと火の粉が舞う中でこそのライブであろう。今年もぽつぽつと雨の兆しが関係者の顔を曇らせてはいたが、何とかそれ以上の濡れ場にはならず、手拍子がアンコールの拍手に変わって、いつも鎮まり返っている山と川が賑わった。

 目玉はやはり熊野太鼓か。大太鼓が文字通り熊野の神々に聞かせるごとく、厳粛に黒い森と空に轟く。このいざなぎ・いざなみを讃える天の舞に続き、地の舞、人(ジン)の舞で大小さまざまのあまたの太鼓を賑々しく奏でながら、打ち手はこの世の喜怒哀楽を髣髴とさせるように声を発しながら踊りまくる。若々しく腿高く舞いながら、確かなリズムと音を小気味良く発しているのは、連れ合いがよく行く喫茶店のママさん。中年も遥かに過ぎているはずだが。この日は店は閉めて、その代わり次の定休日は律儀に開けているとか。あらっ、あれは見たことあるような、ねえ、あれ、〇〇課長さんじゃない?あの白髪。ウン、そうみたいだな。きりりと鉢巻をねじり上げ、どすの利いた掛け声高く、軽々しいステップで打ちまくっている姿は、役所に所在なげに(?)座っている時より遥かにダンディだ。

 太鼓の余韻が冷めやらぬうち、八咫踊りが始まる。これには知った顔もいくつか。同じ浴衣がちらほらするのは、温泉の泊り客か?音曲と手拍子を背に蝋燭の帰り路を辿ると、むせ返るように迫る稲の匂い。風に揺れて頼りなげに点々と続く蝋燭だけの足元、またしても暗きに触発された嗅覚の活動か、稲がこんなに心地よく鼻腔をくすぐるとは知らなかった。昼間、あんなに田んぼの風を浴びているのに。

 我が家への山路を曲がりくねりながら振り返ると、遠くの山の頂が断続的にぽーっと赤らむ。踊りも終わったようだな。花火があんなにしか見えないの?そりゃあそうだろう、こんなに山が遮ってるんだから。三田の花火は家から見えたのにね。ここは10キロも離れてるし。車は真っ暗な山の深みに吸われていく。

 私は外でコーヒーを滅多に飲まないが、一度いざなみの君の店で太鼓のことを訊いた。祭りの間近には、猛練習で大変なんでしょう?お店を閉めてから?なにしろソロでなく指揮者もなくて独特のリズムがぴたりと合うのには、よほど息が合わなくては。しかし、毎週欠かさずやってるから、特に間際だからといって…と意外な返事。なるほど、そうでなくてはそれぞれ仕事持ち、長続きはしないだろう。それでも東京公演などで、永の休店のこともある。連れ合いが、まだ休みかな、と寂しがる。

 八咫の火祭りとは八咫烏の祭り。神武天皇が熊野の山深くで道に迷った時、道しるべになって案内したと言われる、あの八咫烏にちなむ。小学校の確か修身の教科書の一頁目に、色刷りで弓の先に烏が止まっている神武天皇の絵があった。あれが熊野の話だったとは。しかし戦後の小学生は神武天皇など知る由も無し?

 8月も暮れ、夏休みは残り数日。今年も無事祭りは済んだ。

 八咫祭り熊野揺るがす大太鼓

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『みちしるべ』**道路公害反対運動全国交流集会参加『四方山話』**<2006.9.&11. Vol.43>

2006年11月02日 | 藤井隆幸

第32回道路公害反対運動全国交流集会
集会参加の裏表『四方山(よもやま)話』

世話人 藤井隆幸

【日程】

1日目 10月14日(土)

13:00 現地見学……圏央道工事現場(中央道とのジャンクション附近=高尾山)
16:30 全体集会……開会挨拶と特別報告4本 東京経済大学(国分寺駅近く)
18:80 懇親会………東京経済大学の学生食道にて立食パーティー

2日目 10月15日(日)

09:30 全体集会……基調報告・パネルディスカッション
13:00 分散会……… 3会場にて
15:30 全体集会…… 「アピール」「特別決議」採択

3日目 10月16日(月)

11:00 国交省交渉

*****************************************************

「天狗さんは何処に?」お江戸の蕎麦は美味くない!

 出発の前夜(?)は午前3時に就寝。寝るのが遅い日が続いていた。新大阪発8時過ぎの「のぞみ」は指定席で寝過ごすことも出来ない。心配で早めの6時に目覚め、新大阪には7時過ぎに着いてしまった。乗ってしまえば2時間余り充分に寝られる。乗越しても終着は東京。車掌に叩き起こされる筈だ。

 新大阪からは隣は空席。京都から名古屋まで、奇麗な姉ちゃんが乗ってきた。窓側で化粧しだしたのは覚えているが、名古屋で席を立って通してあげるまで、一切記憶がない。名古屋からは奇麗なご婦人が乗ってきた。小柄なので網棚に荷物を上げるのを手伝った。不思議に新横浜近くで日が覚めた。網棚から荷物を下ろしてあげて下車した。殆ど爆睡していたので、果れていたに違いない。

 東京駅から中央線で、高尾駅(現地見学集合場所)に行くのが一般的らしい。実行委員会の案内もパソコンの検索でも同じであった。しかし、新横浜から横浜線で八王子駅まで行き、そこから中央線に乗換えて高尾駅に行けば、390円安く多少時間も早く着く。八王子に着くと、10年程前に八王子大学セミナーハウスでの交流集会で、同室だったN氏に出会った。N氏は横浜在住なので、横浜線が便利なのだそうだ。1年前にもお会いしているのだが、何か老けて見えた。きっと自分もそうだろう。

 高尾駅では天狗さんがお出迎えするような案内があったが、天狗さんは見当たらない。高尾駅の北改札は本造の古びた構えで、天狗さんが立っていれば、絵になる風景。実際に天狗さんが到着したのは、大方の参加者が集合した頃であった。手違いがあったらしいが、参加者が天狗さんをお迎えした格好だ。

 N氏と私は、駅前の蕎麦屋さんに入って昼飯をとった。関東の蕎麦は、だしの色が濃いものだ。関西の私には美しく見えないのだが、美味しいとも思わなかった。駅舎といい、駅前の老舗といい、映画のロケには最適な風景だ。が、関西人の目は楽しませてくれたが、舌は満足させてもらえなかった。でも、N氏は「美味しかった、ご馳走様。」と言って代金を払った。そんなものなのであろう、関東では……。

「バスが来ない!」ツリーハウスってなに?

 高尾駅に集合した現地見学参加者は、定刻どおりにバスに乗るために、幹線道路に移動した。狭い歩道に50人ほどが溢れ返った。ところが、肝心のバスが定刻に来ない。歩道を通行する人に通路を空けるよう指示したり、歩道沿いのお宅の人に謝ったり、現地実行委員会のメンバーはヤキモキ。

 絶好の行楽日和で、渋滞したのが原因だった。路線バス仕様の京王バスが、貸切となっていた。現地の運動団体が何時もチャーターしているらしい。運転手も何時もの方で、運行を支持することは無く、時間だけを打ち合わせていた。現地の運動は、それだけ大したものなのだと感じた。

 高尾山は豊臣の時代から戦前まで、時の支配者の領有により、極めて自然が残された山とのこと。本来なら国立公園というところであるが、面積が小さすぎるので、国定公園として東京都の管理とか。都心から1時間で来れ、気軽に登れる自然豊かな山として、広く愛されているらしい。休日にハイカーを対象に署名を集めると、1日に700筆ほど集まるらしい。署名集めのメンバーも、相当集まるのであろう。

 その高尾山の山腹に圏央道のトンネルを貫き、中央道とジャンクションで結ぶのだという。トンネルエ事が開始されるや、御主殿(ごしゅいん)の滝が枯れかけたとのこと。関西では天狗といえば鞍馬である。が、高尾も天狗伝説があるらしい。ここの運動で裁判を起こす人たちのことを、「天狗党」とか「ムササビ党」と呼んでいる。今回新たな裁判を起こすので、「天狗党」への参加を募集していた。

 見学の道々、運動を伝える看板が多く設置してあった。西宮での武庫川合戦を思い出す。シーツに赤ペンキ。やたらと「!」マークのある文字が躍っていた。しかし、高尾の看板は子供の描いた絵が多く、「川西自然教室」風である。それが高尾流なのだろう。高尾流といえば、運動の拠点の事務所近くに、ツリーハウスというものが建てられていた。斜面に樹齢80年の大木がそびえていた。その木の地上10m程の所に、木を中心の柱として板を組み合わせた小屋が建てられていた。同じ高さの斜面の道から、吊り橋が小屋と結ばれていた。一度に10人の入場制限。好奇心旺盛な見学者に時間を譲って、私は入場を辞退した。

 建設に参加したのは、鋸も使ったことの無い素人のボランティア。延べ数百人とのことであった。このツリーハウスという奇想天外なアイデアに、多くのTVをふくむマスコミが飛びついた。マスコミには圏央道の問題も報道して欲しいと要望したが、全く触れられることは無かったという。そこは天狗たちのしたたかさ、ツリーハウスがTV放映されると、圏央道の各運動団体のホームページヘのアクセスは急増したという。

圏央道の寿命は東海地震まで?蕎麦の埋め合わせは豆腐で!

 行きのバスの車窓から、圏央道と中央道のジャンクションを見た。帰りは徒歩で現場近くを通って、マジマジと眺められた。橋脚は既に完成しており、桁も半分以上載っかっていた。50m以上もある橋脚は、割り箸を立てているように、見るからにひ弱であった。

 東南海・南海地震は30年以内に80%の確率で発生するらしい。東海地震は何時起こっても不思議でないという。プレート境界で起こる海洋型地震は、M8クラスの巨大地震である。阪神淡路大震災はM7.6であつた。M1の違いはエネルギー値では100倍の差に値する。今度、プレート間(ユーラシアとフィリピン海プレート)の地震が起こるのは、宝永・慶長大震災のように、東海・東南海・南海大震災が同時に発生する可能性が高いと、いずれの地震学者も予想している。その際は、M8.6~9の規模になるといわれている。

 阪神淡路大震災は活断層といって、プレート表層で起こる直下型地震だ。ガタガタと揺れる周期の短い地震だ。阪神淡路大震災は12秒間の揺れであった。対して海洋型地震は、長周期のユーラ・ユーラと揺れる。最近では地震学者は5~7分も揺れるという。阪神淡路大震災のような直下型地震では、木造家屋の被害が多かった。が、海洋型地震では、近代的巨大構造物が危ないという。高層ビルや巨大橋、それに高架構造物のことである。人類史上100年以内に、このような構造物は総て建設された。地球上で、巨大構造物が海洋型地震に遭遇したことは、未だかつて経験がない。日本の大半の富の集積した太平洋岸が、その実験場になろうとしている。明日かも知れないし、あの世に行ってからかも知れないが。

 ともかく、このジャンクションは東海地震までの寿命であると、独り静かに納得したのである。このジャンクションを真上に見上げる場所に、豆腐屋さん(工場兼直売所)の駐車場があった。360度見渡す限り山と青空ジャンクションであった。 トンビと思われる猛禽類が、かなりたくさん飛行していた。川の流れも蒼く透明。この豆腐屋さんも「天狗党」だとか。現地見学の一行に出来たての豆腐を振舞ってくれた。バーゲン会場でもあるまいと、我先にと頂くのは遠慮していた。が、実行委員から残すのは失礼だといわれてから、若い学生たちとは思惑は違うのであるが、最後の残骸まで食べ尽くした。しかし、屋外で食べたからかもしれないが、何とも美味しい豆腐であった。豆腐は大豆と水が命というが、高尾の名水はその名に恥じないものだった。

 豆腐屋天狗の奥様が挨拶されて、「既に供用されている中央道だけでもうるさいのに、圏央道まで出来ると……。」と不安だといわれた。ジャンクションであるから、当然のこと曲線半径は小さい。家から見上げたその場がカーブになっている。道路から車が降ってくるのは、今時珍しいことでもない。現地見学の一行は、これから道路が出来る人たちが大半で、実際の道路の騒音を経験した人は少ない。静かなところであるから、騒音は耐えがたいのである。それに夜間は下降気流になり音が下りてくる。物流の大型トラックが早朝にピークとなる。大変だと改めて見上げてみた。

今年の交流集会は学会?懇親会の融通性

 現地見学の後は、それぞれ高尾駅から中央線で国分寺駅までゆき、東京経済大学の全体会場へ向かった。「平城京を守る会」の小井さんと出会い、一緒に大学目指した。会場案内看板には「21世紀の道路行政研究学会」とあった。

 「天狗党」や「ムササビ党」の運動の広さを知った。会場費が「ロハ」(無料→ただ→只→口&ハ)とのことだった。兵庫県で全国交流集会を最後に行ったときに、現地実行委員会の裏方をした経験がある。全体会場・分科会会場・懇親会場・宿泊施設を段取りしなければならない。それも全体会場は数百のキャパがいるし、参加者の特定も変更が多く大変である。神戸で行ったときは、全体会場も分科会会場、懇親会場、宿泊施設もバラバラになってしまった。会場から会場への案内が大変で、通称「ジプシー交流集会」となった。

 今年は宿泊施設以外は総て大学の中。非常に便利であった。会場費がかからないというのは、交流集会を誘致すると赤字になる昨今、大変好条件というほかはない。大学運営に当たる教授陣を、運動に巻き込んでしまっている。したがって、交流集会そのものが大学の運営する学会になっているのである。「天狗党」の活動の後は、必ず居酒屋で終結する。そんな中に、学生はもちろん、教授や弁護士が必ずいるのである。層の広さを感じさせられた。

 懇親会場が学生食堂というので、赤字の交流集会では止むを得ないと思っていた。が、会場が広くて、半分程度を使っただけというものの、普通のホテルの立食パーティー程度のことはあった。大学で行われる学会などの後のパーティーも行われるらしく、ちゃんとしたシェフがいて、挨拶にも来られた。料理内容重視の為に、参加者の量への要求に応えられなかった。そこで急逮、シェフの裁量の範囲で料理が追加されるなど、万全の体制であった。

会場もITなら参加者もIT

 肝心の集会の内容であるが、小泉改革で道路公団が民営化されたが、無駄な道路建設が縮小する方向にはならなかった。どのように変わったかといえば、それは別の機会に検討しなければならないように思う。道路関係団体でも、充分な議論がされていない側面もある。実のところ、睡眠不足の毎日が続き、講演も報告も余り充分には聞けていないのである。何を東京まで無駄使いしたのかと言われそうである。

 しかしながら、毎年のようにITが進展して来ている。大学の教室には総て液晶プロジェクターとパソコンが備えてある。また、道路団体でも携帯用のプロジェクターとモバイルパソコンを持参する所も少なくない。USBフラッシュメモリーを持参して、会場の機器を駆使する向きも多くなった。全国連のホームページの再建のために、メーリングリストを再構築したいといわれたが、アドレスを持っていないものとしては、取り残された感が無いわけでもなかった。

来年も東京経済大学で

 最終日の月曜日は、国交省交渉ということだった。個人的にいえば、建設省当時からの会議室。何度交渉を持ったことか。交渉相手が段々と若く見えてきた。昔は年上の職員であったものが、今は可愛らしい20~30代の青年である。職員の知らない裏話も出来る古狸になった自分を自覚したしだいである。

 主な交渉内容は、6月に行った交渉で積み残したものの再交渉であった為、特に関係を持たない事項であった。時間も勿体無いので、発言はしたかったが仲間に時間を譲って、おとなしく座っていた。

 1日目と2日目は終了が夜だったので、いずれも居酒屋に向かったが、3日目は夕方に帰宅しなければならなかった。昼食も取らずに環境省に行って、気になる『道路騒音の全国調査』(H16年度版を貰って帰った。国交省では交渉の前に『道路概算要求概要』(H18年度)を貰った。

 さて、延べ165名の参加した全国集会であった。来年は大阪のはずであったが、都合でもう一度「東京経済大学」でと決った。現地見学はクルーザーで東京湾ベイエリアの見学だそうだ。季節はずれの台風が来ないことを願って……。

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『みちしるべ』住民と共に歩みつづける運動を**<2006.9.&11. Vol.43>

2006年11月01日 | 神崎敏則

尼宝線(武庫工区)拡幅整艤問題の途中経過
住民と共に歩みつづける運動を

みちと環境の会 神崎敏則

 以下の文章は、尼宝線武庫工区の拡幅整備問題の途中経過を、あくまで神崎の個人的な立場からまとめたものです。読者のみなさんのご指摘をいただくことができましたら幸いです。

担当課長の本性を暴いた住民たち

 『みちと環境の会』が尼宝線拡幅整備問題に本格的にかかわり始めたのは、04年2~3月の「沿道住民へのアンケート」の実施でした。その半年後の9月から『沿道住民の集い』(以下『集い』と略)を毎月開催し続け、本年10月で26回目となりました。併せてニュースを600世帯に毎月配布して、まだ薄くはありますが住民とのかかわりをつくってきました。

 一方、拡幅整備の担当課である西宮土木事務所道路整備第2課は、昨年12月1日、2日に住民への説明会を開きました。この説明会に約100名もの住民が参加して活発に意見が出されました。3月から4月に県がおこなったアンケートが「自分には届いていなかった」と訴える参加者が相次ぎ、課長は「不充分な取組みであったjことをその場で認めました。また、大気汚染や騒音などの住環境が悪化しないように対策を求める住民に対して、

  1. 光触媒で二酸化窒素を分解する技術を取り入れる
  2. 低騒音舗装をおこなう

と課長は応えましたが、より効果釣な対策を住民が求めると、「確かに武庫工区の測定局では騒音の環境基準を超えているが、2万7千台も走る道路が基準を超えるのは当然で、国道の8割は基準を超えている」と開き直ってしまいました。この答弁は担当課長の本音だったと思います。彼は「私は特別悪いことも、変なこともしていない」と言いたかったのです。でもこの発言こそが、住民の生活や思いを無視していることを告白しているのです。住民の騒音への悩みを解決することよりも、他所と同じようにやっているのだから批判される覚えはないという理屈にこりかたまっているのです。そして課長のこの答弁を引き出したのは、まぎれもなく住民の活発な発言でした。

 この説明会の前には、正直なところこれほど多くの住民が参加するとは思っていませんでした。「参加者は多いと思う」とは自分でも口にしていましたが、本音は不安でした。仮に参加者が多くても行政側の一方的な説明に対して、「みちと環境の会」のメンバーが発言するだけで住民は黙って聴いて帰るのとちがうやろかとの不安も少しよぎりました。不安の原因は、毎月の「集い」への参加が少ないことでした。

 この説明会で活発に発言した住民のことをしっかりと振り返って考えなければならないことがあります。

住民は首をすくめて目立たないようにしているわけではない

 毎月の「集い」の前にニュースを沿道住民のお宅に配りながら、インターホンを持して話をしてきました。玄関を開けずにインターホン越しで話される方も少なくありません。それでもちょっと話しただけで、ニュースを大切な情報源として必要としていることが伝わってきました。玄関を開けて毎回必ず話をされる方も、こちらの話を真剣に聴いておられました。沿道住民の過半の人は関心を持っていることがよく分かりました。でも、「集い」にはなかなか参加していただけませんでした。もちろん「集い」に魅力が欠けているのも事実でしょう。もっと企画力があれば、乏しい参加状況は変わったかもしれません。確かにその要素もあると思います。しかし、住民の側の要素もあるのではないかと、当時漠然と思っていました。自宅前の道路が4車線に広げられて、今以上に環境が悪化することに強い不安を抱えているけど、できれば自分は何もしなくても誰かが頑張ってくれるのではないか、自分は目立たないように首をすくめていたい、との思いがあるのではないかと想像していました。そんな普通の(首をすくめた)住民と共に少しずつ成長しながら関わって行けたら良い、と勝手に空想していました。

 首をすくめてめ立たないようにしたいと思っている住民もおられるのは事実でしょうが、今からふりかえると、そうとばかりは限らないと反省させられます。

 住民への説明会が初めておこなわれる、というような具体的に物事が動き出す時には、住民はしっかりと自分の意見を言いました。住民はあきらめていない、だけでなく、首をすくめて目立たないようにしているわけでもなかったのです。

自分のできることを精一杯取り組む住民

 昨年12月説明会の2ヶ月後の「集い」で、項目を以下の3点に絞って要望書を取り組むことを決めました。

  1. 少なくとも現状より環境を悪化させないように約束すること
  2. 歩道については、段差の解消など安全を最優先して計画すること。また『武庫工区』以南の歩道は危険な状態で放置されているため、溝蓋の取付けや電線の埋設、段差の解消などの整備をおこなうこと
  3. 昨年12月と同規模の住民への説明会を改めて速やかに開催し、誠実に住民に対処すること

 わずか3週間で、122名の方が要望書の提出者となりました。その間に聞いた住民の思いは切実でした。「親戚に2階で泊まってもらったら、とてもじゃないけど寝られないと言われた」と訴えたり、道路から80m離れているお宅でも地面の揺れを不安に思われたり、排ガスがひどくて「カーテンを洗っても洗っても真っ黒」になると沿道住民でなければ経験することのないような話をされました。122名が提出者となった要望書を住民3名が兵庫県街路課と尼崎市へ提出しました。

 8月には騒音対策にもっとも効果があり、景観にも配慮した透光型遮音壁の設置を求める署名を取り組みました。商店の少ない沿道で、かつ、設置可能な空間のある箇所に限定しての取組みでしたが、まず住民の方に呼びかけ人になっていただくように、それまで反応の良かったお宅にお願いに行きました。若い主婦のNさんはその場で「私で良ければ呼びかけ人になります」と言われるので、「とりあえずご家族で相談していただいてからで良いですよ」と配慮したのですが、Nさんは「大文夫です。私は集会とかには出ていけませんけど、こういうことはできますから」と自分の名前を書きこみました。

 結果3名の住民が呼びかけ人になり、147名の方が署名捺印されました。呼びかけ人3名が住んでおられる一角は、自分たちで全て集められました。3名の方が運動の中心を担って、全体をぐいぐい引っ張っていくところまではいきませんが、自分のできる範囲は精一杯やろうとしていることがよく分かりました。

住民と共に歩みつづける

 透光型遮音壁の署名に対して担当課長は、「工事の一部のみの設置は公平性の観点から、また、騒音は現状より悪化させないとの基準から、設置は困難」と回答しています。

 直後の『集い』では、147名の署名を軽んじる姿勢に非難が集中しました。この問題も次回の住民への説明会での争点となるでしょう。説明会が年内には開催されるはずですので、今から楽しみです。

 まだまだ成果らしきものは得ることができませんが、不充分ながらも、住民と共に歩むことを追求し続けてきました。これからもこの姿勢を貫くことができれば、やがて展望は切り開かれるのではないでしょうか。

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