初めての防空壕(赤い夕陽 1)
三橋雅子
65年前の1945年8月9日は、私にとって敗戦日8月15日よりも重い日付。長崎なのではありません。ソ連の対日宣戦布告の日、満州在住者にとってそれは青天の霹靂でした。その事実を知るより先に、初めての空襲警報に方向違いの北の方からの敵機来襲、大人たちが、おかしい、これは何じゃ?という中、とりあえず初めての防空壕入りをしたのでした。内地を知らない、新京(現、長春)生まれの10歳、国民小学校4年生の夏のこと。
この防空壕は父自慢の、方々から見学に来たデラックスな、馬鹿でかいシロモノ、地下のボイラー室からドアを開ければ壕に通じる道に出、庭をぐるっと築山をめぐって門まで通じている、つまり外に出ないで、家の中から壕に入れて、必要ならそのまま通りにまで抜けられるという大袈裟なものでした。中には腰掛や棚がしつらえられ、当座の食料その他が揃っていました。私はこの中でご飯を食べるのはままごとみたいで面白いだろうな、などと、内地の惨澹たる空襲に逃げ惑う人々には誠に不謹慎ながら、非日常に憧れていました。が、内地と違って空襲は一向に来ない、宝の持ち腐れとは正にこのこと、と言っている矢先の空襲です。いよいよ出番、といささかワクワクしながら、ふだんは使用人しか入らない地下室へ。台所の床をガラガラと開けて階段を降り、ボイラー室を抜けて・・・・と、クダンの壕は水浸しでした。井戸ではないまでも水脈に当っていたのでしょう、ジャブジャブと川の中を進むようで、一番小さい私は屈強なボーイの肩車に乗って行きました。それだけ天井が高い、つまりそれだけ深く掘った、ということでしょう。(父がアホだったのか?)食料などは濡れていなかったけれど、座るに座れない・・・と間もなく敵機はきびすを返して北の空に消えて行った、とか、爆弾1つ落とすことなく、何ともあっけなくも形だけの「空襲」でした。(この後、ソ連がいわゆる日ソ一週間戦争で「ポツダム宣言」受諾後もガンガン攻め立て、日本の戦死者8万人を出し、砂場さんを含む捕虜57万人強がシベリヤに送られ、そこでの強制労働と飢餓で10万人以上が凍土に眠ることになった惨事、はたまた、<別転地、満州>へと駆り立てられて渡った「満蒙開拓団」の人々の悲劇〈推定18万人強〉は、まだ北部辺境でのことでした。〈半藤一利著『昭和史』〉)
豪華な防空壕の初使用(後にも先にもこれ一回きりでしたが)は、こんな具合でしたが、そんなことより大人達はやがて知る、この日未明の、まさかのソ連の宣戦布告に狼狽、てんやわんやの中で、長崎にまた馬鹿でかい爆弾、広島と同じ手のが落とされたんだって、と<遠いことのニュース>を知るのでした。
しかし、これを境に満州最大、最新の機能を備えた日本人町、新京特別市が混乱のルツボに化していきます。それまでの、空襲も食糧難もまるでよそ事の「別天地」が、たちまちにして恐怖と混乱の街に急変するのでした。
ながとせを経てもなお我がふるさとに今日も落つるか赤い夕陽
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