『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(19)**<2006.3. Vol.40>

2006年03月04日 | 熊野より

三橋雅子

<「水のショック」大訂正>

 訂正といっても熊野の水のことではない。第23号(2003年3月)の<水のカルチャーショック その2>に書いた、旧満州、新京市の水のことである。生水は飲めなくて、私がいつも外出時には水筒を持って歩いたこと、引き揚げてきて、水道の蛇口から直接生水を飲んでいる級友達に驚いたものだったが、それは「今は昔の」よき時代だったこと、その内他の水も、今や…という嘆きを書いた。「かつてはきれいだった内地の水」の悲しい末路は誰もが認める所であろうが、「新京の水」に関しては大間違いだったらしいのである。らしいというのは、これを指摘したのが8歳上の姉で、幼かった私より遥かに確かな記憶であろうということ、驚いて13歳上の姉にさらに確かめると、彼女も生水は直接飲んでいたというのである。慌ててネットで、当時の新京事情を探してみたが、今のところ残念ながら水に関してはみつからない。

 「間違い」の発覚が遅れたのは、彼女達にこの「みちしるべ」を送っていなかったためである。唯でさえこんな所へ引っ越すことについては、その年して大丈夫?という危惧の念で相当に心配しているらしい所へ、こと細かな熊野事情を知らせては、老体の彼女達を気遣わせるかとためらわれたからである。最近、大正8年生まれの兄が亡くなり、葬儀や法事で顔をあわせた機会に当然、中国大陸のあちこちで生まれ育った兄姉達の思い出話に花が咲いた。私が熊野の水を自慢して、かつて生水は飲めなかったでしょ、今では東京も、と言った。その時に異論が出なかったのは皆認知症の兆候か?やや経って電話があり、新京生まれの私が変なことを言っていた、というのである。「だって、新京の水は世界一良い水と言われて、大陸ではありえないような“生水オーケー”だったのよ」という。じゃあ、私の外出時の水筒必携はなんだったのか?「そういえば年中水筒持参だったわねえ、それはあなたが所構わず、咽喉が乾いたを連発してうるさかったからよ」と言われてしまった。私にとって、外出は絶対水筒と切り離せなかった(よく、走りかけた馬車を呼び止めて、ボーイが水筒を持って追いかけてきた)し、外でものを口にすることは硬く禁じられていたから、「生水の禁止」と結び付けてしまったのかもしれない。記憶の曖昧さと思い込みの恐ろしさを思い知る。この大幅な遅ればせの訂正を謹んでお詫びします。

 それにしても、あの席で言うてくれれば…。少しボケが?いや、この姉は昔からおっとり型で何でも一テンポ遅かった。反対に稀代の慌て者である私が大分前、自分の周り年になった時、この姉に「今年は猪、私もとうとう還暦迎えちゃった!実に早いねえ」と言ったものだ。いろいろしゃべって、じゃあ切るわ、と受話器を置こうとした時、やおら「一寸待って、少し変じゃない?だって八つ年上の私が、まだ還暦になってないのよ」とおっとり言うのである。「どうしてそれをもっと早く言ってくれないのよ〜」。もともと彼女はひとの話には割り込みをしないで、最後までじっくり聞くタチだった。私は一周り早く、還暦になったつもりでいたのだ。道理で早いわけ、なんだか得をした気がした。その後12年して本物の還暦を無事迎え、だが誰も祝ってくれないので、私は自分で柚子の苗を買って植えた。「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年」と聞いていたから、(もっとも最後のは眉唾ものだが、いずれにせよ)柚子が実を付けるまで生きているかどうか?と思いつつも、引越しには大事に持ってきて移植した。かい主に似てかせっかちに、かつ小粒の実を十年足らずで付け始めた。

 来年は猪だから、早6回目の周り年を迎えるわけで、とするとこの間違い還暦騒動は二十数年前のことになる。

 新京市の水の話に戻って、私はまだ腑に落ちぬこともあり、念のため大正11年生まれの姉にも訊いてみた。

 「そりゃア煮沸なんかしないで生水を飲んでたわよ、何しろ新京の設備は何もかも東京の比ではなかったんだから。大同大街が56メートルあったの知ってる?私は水洗トイレしか知らなくて、修学旅行で東京のトイレには困ったわ。だから世界一良い水を作る設備があっても不思議じゃないわね」と、一気に切れ目がない。話は延々と続いて、ちょっとちょっと、こっちから掛けてる長距離なのよ、と言いたいが、八十台半ばの一人暮らし、古いことを思い出すおしゃべりは何よりの老化緩和法と思い直して、私の知らない情報に耳を傾ける。たまには顔見せしてもいい東京までの旅費、と思えば安いものだ。

 そういえば、「あの新京駅から続く大同大街は広かった。信号はなかったから急ぎはしないが、渡りきるのに大変だった。56メートル合ったとは、あの遠さは、足が小さかったせいではなかったのだ。

 「それに豊満ダムが出来て、あの電力の豊富だったこと!」と彼女は続ける。これは私の同級生のお父さんが最高責任者で作った発電所で、やはり姉と同級だったお姉さんと姉はいまだに親交があるらしい。余談になるが、この豊かな発電ダムの技師、本間氏は日本人の引き揚げがすべて終わった後も、中国側の要請で残された。ダムの管理が当時の中国では無理だったのだろう。この「豊満ダム」に因んで豊子と名づけられた私の同級生も父親と一緒に残り、引き揚げて再会したのは、ずっと後50年代だった。今思うと彼女の誕生がこのダムの完成後か、少なくともダムの命名以後だとすると、このダムは昭和10年以前の作ということになる。そんなに早かったのか。

 以来電力はあり余って、なんでも、いくらでも使えということだったらしい。我が家も動力とやらを引き込んで、暖房は全館スチームのラヂエターであったが、それに加える炭のコタツは電気になり、火鉢は電気ストーブに変わった。お風呂まで電気で沸かすようになる。お蔭で私は、内地では電気が一番高くつく熱源だということが容易に理解できなかった。馬鹿でかい板みたいのものにニクロム線が巻きつけてあるのをお風呂にじかに突っ込む。母は使用人たちに、この何百ボルトもの電気が如何に恐ろしいものか、コンコンと使用時の注意を説いていた。母には苦い経験がある。料理はめっぽううまい腕利きのボーイが、うちに来たばかりの時だろうか、ジャージャー音を立てている中華なべを片手に、真っ赤になってガスの火をフーフー吹き消そうとしていたという。母は彼の息がもう少し強かったら…と安堵の胸を撫で下ろし、他の皆はお腹を抱えて笑っていたが、私には何故それがおかしいか分からなかった。ケーキのろうそくだって、息で吹き消すじゃない。

 電気で沸かしたお風呂の湯加減を見るねえやが、電源を切った後しばらくボーっと突っ立っていた。母が何してるの?と訊くと、今切った所なので、電気が逃げるまで待っているのです、と答えて、これにもみんなが大笑いした。私には、この時も何故おかしいのか分からなかったが、今だって私は、怖くてすぐに手を突っ込む気にはならないのではないか、と彼女に同情する。

 脇道に次ぐ脇道で長いお詫びの稿になってしまったが、おっちょこちょいのまま古稀を迎えてしまった反省の弁である。

 年を経てかの大陸の春如何に

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