街を往く(其の十四)
『絵画と文学』展
1926年~1936年*小林多喜二から梅原龍三郎まで
藤井新造
昨年11月20日~12月29日まで、兵庫県立美術館で「絵画と文学」展があった。私は2度行ったが、1度目は「西垣良美・大河内淳矢デビューコンサート」があり、この演奏を聞いて続いて学芸員による解説を聴講し、展示会をみるという慌しいが贅沢な午後の半日間を過ごした。
コンサートは県立美術館が土曜日ごとに午後2時より催す無料のものである。時間が許す限り行ってみたいのだが、昨年はこれを含め2~3回しか聞くことができなかった。
さて、展示会の感想であるが、私は他でも短いものを書いているので重複する箇所があるのを御勘弁願いたい。展示会をみたかったのは、私が若い時に読んだプロレタリア文学作家、中野重治、小林多喜二、佐多稲子(窪川稲子)、宮本百合子(中条百合子)、平林たい子たちの初版本の装幀、本人の若い時の写真、雑誌の表紙などであった。
彼らはプロレタリア文学の高揚期から後退期まで約10年、大正の終わりから昭和にかけて、まさに激動期に生き、文学を作った。
特に中野重治は若くして、かの有名な詩「辛よ さようなら/金よ さようなら/君らは雨の降る品川駅から乗車する/李よ さようなら/もう一人の李よ さようなら/君らは君らの父母の国にかえる……」にはじまる『雨の降る品川駅』、又「お前は歌うな/お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな/風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな……」にはじまる抒情詩『おまえは歌うな』をひっさげて詩壇に華やかにして登場した人物である。
この時代、大正の終わりから昭和にかけて雑誌『驢馬(ろば)』の詩人グループに依拠して詩作を発表できた彼に対して、作家 伊藤 整(せい・本名=ひとし)は次のように羨望と嫉妬心をかくすことなく吐露している。
「私の詩集『雪明りの路』の校正が出はじめていたこの年の秋頃、室生犀星が『日本詩人』に『驢馬』という雑誌に出ることを予告する短い文章を発表した。それは自分の知っている若い詩人たちが雑誌を出す筈で、自分と芥川龍之介とがそれに力を貸してやることになっている、という趣旨のものだった。その同人として、平木二六・堀 辰雄・窪川鶴次郎・宮本喜久雄・中野重治・西沢隆二・太田辰夫という名前が挙げられてあった。私は、平木二六の名を、どれかの詩の雑誌で見た覚えがあるだけで、この一群の若い詩人たちの名は初めて見るのであったが、彼等を強く羨望した。室生犀星と芥川龍之介とに公然と支持されて雑誌を出すことのできるこの数人の青年たちの幸福を考えると、私の胸は嫉妬心でうずいた」(『若い詩人の肖像』伊藤 整;著)。
そして、杉浦明平も次の如く書き記している。「……中野たちの青春も、その次の世代つまりわれわれとくらべれば、花々しくボヘミンにも見えるが、ともかく抑圧されていなかった。佐多稲子の『私の東京地図』の終わりの方で、そういう中野たちの群像を見ることができる。そこでは政治と文学とがまだ分離していなかった。中野でさえ、政治と文学との二律背反の苦しみを味わないで済んだのである。だから花々しさがあった。しかも彼らは20そこそこで日本のジャーナリズムに登場して、いわば早くから舞台の上で活躍するのになれている」(杉浦明平;著 筑摩全集「中野重治」月報23号)。
そのように彼の文学者としての位置は早くから確立していた。中野が斎藤茂吉について「茂吉は日本文学にある一定の地位を占めている」と、『斎藤茂吉ノート』で書いているが、彼の人生も又、小説・詩・評論家として多くの作品を残し、日本文学の中で確かな地位を占めていることも事実ではなかろうか。
治安維持法のもとでの文学者たちの苦難の生き方
その中野も、1932年日本プロレタリア文化連盟の活動をしたことにより逮捕され、以降2年余りにわたり獄中生活を強いられる。当時の治安維持法下での執筆、政治活動は今では想像出来ない過酷な状況下にあった。中野は次のように語っている。「私は書いたことがありますが、残された普通の文献というものは、ことに1930年代から戦争の終るまでのあいだでは、残されなかった文献と或る関係を持っています。残された文献はもちろん極めて貴重です。ただ、残されて今研究者たちの手にある文献が、書かれた文献のすべてではない。このことが見のがされ勝ちになる。出版された刊行物、文献が片っ端から没収されて闇に葬られる。書かれたものが印刷されぬうちに奪われてしまう。或る問題について或ることを書こうとしていた人間が、筆をつける直前に肉体として消される。そこで、書かれた文献の書かれる以前、印刷される以前そこに存在して仕事をしていた肉体、その動きその苦労、その喜び、それはそのものとして文献の形に残されなかったのですから、いま学者たちがAの文献、Bの文献、思いもかけぬ人、その文献まで持ってきて、それらをつないで筋の通った説明をする場合、そこに生き働いて、しかし文献の形に何かを残すことができなかった人間の姿はどこかへ消えてしまうということがある。常に必ずではありませんが、場合によって一再ならずそういうことがありました。あったと私は思います。」(「中野重治は語る」平凡社≪久保 栄 について≫)
また、ある時は「……印刷されたものについての検閲はもうどうでもよかった。ただ死んだり、殺されたりすることが恐ろしかった。裁判所のにらみは十分きいていた。要するにもう一度しばられるのがいやだった」と、『小説の書けぬ小説家』(1936年)の主人公に言わしめている。
絶えず死の恐怖を身近に感じた生活であったことがうかがえる。私も、かつて人民戦線事件で連座した古くからの活動家から聞かされたことがあった。
そして執筆禁止により生活も困窮をきわめる。「執筆禁止により、作品の発表なし。翌年(1939年)にかけて職業紹介を介し東京市社会局調査課千駄ヶ谷分室に臨時雇で就職」。(「中野重治年譜」筑摩書房;昭和29年発行)。今でいうところのパート、アルバイトの類の仕事であったのであろう。
そして、同時代のプロレタリア作家の1人、前田河広一郎も後年こう書いている。「その時代は、私などの予言したより早く来た。宿命的に戦争に突入すべく定められていた日本の帝国主義的資本主義は一もなく二もなくわれわれの運動にのしかかって来た。機関雑誌は四つに裂き、五つに裂けて、同志というものをちりじりばらばらになった。私はどうにかこうにか食って行くための努力で精一杯となった。」(「葉山嘉樹について」1954年)
文学者達も執筆もままならず、日常生活を維持することも困難であったことがわかる。そんななかでも女性グループの平林たい子・神近市子・太田洋子・林芙美子等は、立場、考えの違いをこえて協力し合い、お互い励まし合い何とか生きのびようと努力したと聞いている。
展覧会を見ながら、そのような時代を生き抜いたプロレタリア文学の人達に熱い想いをはせざるを得なかった。
(この項つづく)
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