『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(38)**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 横断車道

「みちしるべ」創刊以来6回目のお正月、おめでとうございます。今年はどんな年になるか▼小泉政権は、汚職と腐敗で信頼を失った自民党を、立て直したかに見える。改革の名のもとに、規制緩和と民営化を推し進めてきた。これを客観的に見ると、投機的(バクチ的)経済の最大限の開放と言える。結果は投機マネーの育成(郵政民営化)。大企業法人税の軽減(減税据え置き)。その穴埋めを庶民大増税(定率減税廃止・消費税率アップ・健保年金改悪)で補おうとしている▼我らが道路問題に関して言えば、これまでの自民党内閣が計画していた高速道路は、全て造ることにした。特定財源の一般財源化も、それでは意味の無いことになる。それも、今年度は総額6兆円の内の800億円に過ぎない。結果、生活道路の改善は切り捨てられ、凸凹道で老人が転倒し、医療費財政が窮迫する。一方、たまにしか自動車の走ってこない高速道路が、延々と建設されることになる▼国鉄時代に採算性も考慮せず、「おらが村」に新幹線を通すのが流行した。鉄建公団に造らせ、その借金を総て国鉄に背負わせた。国鉄分割民営化の際には、その殆どを国鉄清算事業団に移行し、清算事業団解散の際には、24兆円の負債は36兆円に膨らんで、国民の税金で処理された▼同じ事を道路公団民営化でも行なった。全ての公団負債を、道路保有機構が背負い込んだ。国鉄と違うところは、鉄道資産をJR各社に譲り渡した関係で、JR株式総額が大きくなり、国が全ての株式を取得することで、多少は現金化の可能性があることだ。道路公団の場合、道路資産は国や自治体に所属する為、そのような現金化は殆ど見込めない▼最も懸念されるのは、民営化後の新幹線建設は、国の負担で行なっているが、わずか年間1000億円程度である。しかし、高速道路は高速道路会社が造るのであるが、年間数兆円規模になる。それも道路保有機構が総て買い取るのであるから、国民負担となる。全ての計画を遂行する予定であるから、小さな政府どころの話ではない。総額は200兆円とも300兆円とも試算されている▼結局の所、儲かる部分は民間に、負債が残る部分は国民負担と言うことである。外資の税金逃れは野放しで、大企業の法人税率は下がる一方で、勤労者の税(健保・年金等も)負担は益々増大している。消費税率アップを、小泉はチャッカリ否定しているが、政府税調や自民党税調、それに谷垣君に明言させている。消費税率アップは時間の問題だが、消費不況の壊滅的影響は避けられない▼そのうち、日本の株式と円相場の暴落もあるだろう。そう遠い話ではなさそうだ。その後は、全ての日本資産は外資に買い叩かれ、日本は植民地となる。 (コラムX)

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『みちしるべ』**第31回道路公害反対運動全国交流集会参加報告**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 藤井隆幸

第31回道路公害反対運動全国交流集会参加報告

世話人 藤井隆幸

∽∽ 会場となった鞆の浦とは∽∽

 昨年の11月5日(土)~6日(日)にかけて行なわれた、全国交流集会の報告をします。今回は広島県福山市で行なわれました。土地勘の無い方のために説明しますが、瀬戸内海沿いに、岡山県を越えて広島県に入ったすぐの都市です。福山市の中でも、最南端に位置する、鞆の浦(とものうら)という観光地での開催でした。

 瀬戸内海の東の入口である紀伊水道と、西の入口である豊後水道の丁度中間に位置した天然の入り江で、古くから港町・漁港として栄えたと言います。瀬戸内海の満ち潮の時には、大阪と下関の両方から潮の流れに乗って、船が輌の浦に辿り着き、丁度潮目を迎えたのだそうだ。暫く鞆の浦港で休憩した船は、今度は引き潮に乗って、それぞれ下関と大阪に向かったそうです。

 そんな歴史を感じさせる街であり、やたらとお寺が多く、古い民家も多く残っていました。歴史財産を生かして、観光の街として街興しに、NPOが活躍していることを聞きました。今回の集会のお世話をしてくださった一団体が、そのNPOでした。天然の入り江を生かした古い港であり、観光的価値の高い風景がありました。しかし、その入り江の一部を埋め立てて、古い灯台(常夜灯)も取り壊し、入り江の横断橋を掛け、靭の浦の街をバイパスにする計画があるとの事でした。未だに、そのようなゼネコン行政がまかり通っていることに、参加者一同は怒りを持って視察しました。

 首都圏・中部圏・関西圏では新たな高速道路計画は、財政的な背景もありますが、土地収用の困難さから、余り目立った動きはありません。その分、四国や広島といった地域に、高速道路の建設がシフトしています。高速道路は必要性から造ると言うより、造りやすさで動くと言うのが実態のようです。広島に道路団体が出来だしたのは、90年代に入った頃からでした。本四公団の尾道~今治ルート(しまなみ海道)は広島になります。山陽自動車道の関連で、国道2号線のバイパスなどが、目白押しというところです。そんな情勢のもと、今回は広島での開催となったわけです。

∽∽ 集会の主な経過∽∽

 さて、初日はNPOの案内で、まず鞆の浦の視察から始まりました。その後、鞆支所の上に併設された公民館で、全体集会が開かれました。現地実行委員長の挨拶の後、全国連事務局長の基調報告がありました。集会のメインは、その後行われた記念講演でした。奈良女子大学大学院の中山徹先生が『住民参加のまちづくリ――道路政策の民主的な転換を求めて――』と題して講演されました。

 1時間半の講演を私如きが数行の文章にするのは無理ですが、日本が人口減少の時代に入り、これまでの右肩上がりの経済活動はありえないことから、発想の転換が求められているとの事でした。都市間競争や大型開発競争の時代は去って、これからは環境型社会・循環型社会の形成が大切だとのお話でした。

 初日の締めくくりは、夕食を兼ねた懇親会です。場所は鞆港の向かいに浮かぶ、仙酔島にある国民宿舎でした。市営の渡し舟に乗って5分程度でした。例年の立食パーティーと違い、座敷に座ってのお食事会でした。洒落たホテルのお食事と言う感じは無く、民宿のもてなし風でした。海産物はふんだんに出て、満足の行くものでした。国民宿舎の表は自然の砂浜のようで、多分、夏は海水浴客で賑わうのでしょう。庭のバーベキュー施設で、蛤を焼いてくれたのが一興でした。

 阪神間道路問題ネットワークからは4人の参加でしたが、懇親会は「北部水源池問題連絡会」の西浦代表世話人と私の2人だけでした。「中の自然と住環境を守る会」の西田代表は、初日はお子さんを同伴されていましたので、新幹線で2日間、かよいの参加となりました。「みちと環境の会」神崎事務局長は、初日が勤務の為、2日日だけの参加でした。懇親会の席が、恒例により各団体の自己紹介の場ですので、少し淋しい感じもありました。

 宿泊は鞆の浦シーサイドホテルで、公民館・ホテル・渡船場ともに歩いてすぐで、会場の設定は申し分ありませんでした。ホテルは5人部屋が殆どで、深夜まで飲んだり話したりで、結構、交流の場となりました。

 翌日は分科会が中心になりました。最初に全体集会で、3本の特別報告がありました。地元福山と広島市内のバイパス問題、それと東京の圏央道のあきる野・高尾からの裁判闘争の報告でした。分科会は2つに分かれたのですが、それぞれテーマを決めるのではなく、出来るだけ全員に発言してもらうとの配慮でした。今回の会場にはハイテク施設は無いのですが、ノートパソコンと液晶プロジェクターを持ち込んでの説明が多くありました。時代を感じさせるのですが、財政的についてゆけない気がしました。最後に全体集会で締めくくりましたが、このところ通例になっているように、あえてまとめはせずに集会アピールだけを採択しました。

 今回の参加は、61団体から201名の名前での参加があったとの報告がありました。

∽∽ 集会参加こばれ話∽∽

 開催地が福山市と、大阪や京都のように近いわけではありませんが、首都圏のように遠いわけではありません。当初、JRの在来線で行くつもりをしていました。尼崎駅発9:05の新快速に乗ると、姫路着は10:01です。姫路発(10:04)三原行の普通で、29駅目の福山駅着が12:24です。運賃も\3,890とリーズナブルです。福山駅から会場までは、15分間隔でバスがあり30分程度ですので、充分に間に合います。

 しかしながら、西浦さんは車で行くので、往復便乗させてもらいました。神崎さんが往路、JR在来線で行かれたので、感想を聞いてみてはと思います。運賃は安いのですが、みんなで行くと飲み代が高くつくかもしれません。

 200人の参加者がありましたが、それでも全国連の事務局長が集会最後の事務連絡で、カンパの要請をされましたので、きっと赤字運営であったのだと思います。70~80年代の全国集会では黒字運営が続き、地元へのカンパにするのがお決まりになっていました。最近は赤字になるのが当たり前で、主催団体は大変です。

 わがネットワークが全国集会を誘致できればと思いますが、現実的には難しいでしょう。そんな思いで、僅かばかりのカンパをして帰りました。

《完》

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『みちしるべ』山伏が歩いた江戸時代の道**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 澤山輝彦

山伏が歩いた江戸時代の道
――泉光院江戸旅日記――より

世話人 澤山輝彦

 「赤毛のアン」という有名な物語がある。私はそれを女、子供の読むものだと勝手に決めているから書き出しの一行すら読んだことはない。そんな私が「やっぱり赤毛のアンが好き」なんていう本を手にしてしまい、その中にあったプリンス・エドワード島(「赤毛のアン」の舞台、カナダ東岸にあり、愛媛県程度の広さがある)の紀行を読んでみたら「・・・・馬車の時代が長かったため、歩行者優先の交通ルールが確立されているのである。日本は、駕籠や大八車からいきなり自動車の時代になってしまったので、いまだに人と車がうまく共存できていないように思える」と、日本の現代道路事情にも通じ、まさにその原点とも言えるようなことが書いてあるのに出くわした。これが道路交通関係の本から得た意見ならともかく、「アン関係の本」から得たというところが、ちょっと皮肉っぽくて面白く妙な気がしたのだった。

 人と車がうまく共存出来ていない、と指摘される現代の道路に至るまでの道路事情はどうであったか。一昔か二昔前の道路状況はまだまだ私達自身の記憶にもあるし、文献や映像も残っている。駕籠はおくとして、私の記憶でもまだ大八車は元気だった。車屋と呼んだそんな車の製造・修理業者が生家の裏にあった。自転車に繋いで牽くリヤカーも健在で、それらは馬力やオート三輪、4トン積程度のトラックなどと共に移動や物流の一端を担って活躍していた。乗用車はまだ少なかった。街の道路の舗装は進んでいたが、今のように裏路地まで舗装されつくすということはなく、一筋二筋裏に入るとあちこちに土道があった。歴史をさかのぼるはるか昔の徒歩や駕籠に頼って移動していた時代のことになると写真はまあ無いと見ていいだろうから、古典と言われる物や絵図、古文書などを頼りに類推することになる。そこで私は以前読んだ「泉光院江戸旅日記――山伏が見た江戸期庶民のくらし――」(石川英輔著講談社1994)という本をもう一度読んでみた。それは「日本九峰修行日記」という日向(宮崎県)佐土原の山伏、野田泉光院成亮が書いた6年2ヵ月(1812,10.8.~1818,12.4.)にわたる日本回国(旅)日記の要約、現代語版で、これに道のことが書いてあったからだ。ところが今度読んでみると道にかんする記述は案外少ないのだ。それは泉光院が人の往来の多い街道を避けていたからだ。街道には托鉢者の往来も多い。沿道の住民はそう度々托鉢に応じないからもらいが少なくなる、そこで街道を離れたのである。どこもかしこも同じような土の道しかない時代では、歩きよいか歩きにくい程度の比べようしか無かっただろうから、道に関する記述は少なくて当たり前なのかもしれない。いろんな道があってこそ、比較も出来書き残すことも出来るのだ。

 さて 、この日記はどんなものか「日本九峰修行日記」(三一書房刊、日本庶民生活資料集成 第二巻に収録、ほとんどの図参館で所蔵しているはず。私は川西市立中央図書館蔵の物を使った)からご当地阪神間の記述部分を引用してみと、

  • 五月朔日 大雨天。明石立、辰の下刻。一の谷敦盛廟所の辺通行の時分別して大風雨 兵庫湊川洪水、川口に浅瀬あり、歩渡り夜に入り西の宮駅に着、宿す。
  • 二日 晴天。西の宮立、辰の上刻。武庫川洪水、是れは船渡り、同枝川同断、昨日防州の出家歩行渡りして溺水に及ぶ、今日迄も死骸知れず。昼前尼ケ崎城下へ着、大阪迄三里の間、川々難儀に及べり。大阪玉川野田の藤一見、昼過土佐堀蔵屋敷へ着。
  • 三日 晴天。滞留。国元への書状認む。

 こんな調子だが、もっと書き込みの多い国もある。さて泉光院は二日間で荒れた阪神間を通過している。橋がかかっていない様子がわかるが、道についての描写はない。ただ明石~西宮間、西宮~大阪間を歩いた時間をみれば、ここは平地だし歩きやすい良い道だったのだろう。文化十二年五月一日は1815年6月8日のこと。石川英輔現代訳本には坊さん水死のことは省かれている。やはり資料として使うのなら原本を読まねばならないだろうが、とりあえず石川本「泉光院江戸旅日記」から道について書いた所をひろってみると、

 野間(野間神社・川辺郡笠沙町)へ行こうとするが、非常に道が悪く、とても行くのは無理だといわれて、加世田郷(加世田市)へ行って山伏宅に泊まる。地元の人でも強く止めるような悪い道があったのだ。

 国境の町である出水郷(出水市)へ行く。途中の平坦な土地に、幅が五間(九メートル)長さが一理半(六キロ)の一直線の松並本があり、それが巨大な馬場になっているのを見た。「百万騎の兵を置くことが出来るだろう」と感心しているが、ここを歩いたかどうかはわからない。

 亀井家四万三千石の城下、津和野では、石州というだけあって、山野も、田畑、道筋、すべて石ばかり。と感心している。

 富山城下(神通川)には船橋がかけてあった。68艘の船が直径6センチばかりの太い鎖2本でつないであり、その上を歩いて幅が120メートルもある川を渡った。船橋は方々にあるが、当所船橋日本第一也と書く。

 高山から流れてくる宮川を渡るのに“籠の渡し”の難所を通る。「上の綱から水面までは、約10メートルで、大きな石の間を水が滝のよう流れている」と書いているから、かなリスリルある渡りだったのだろう。神岡町にも藤橋というかずら橋があり、橋の中ほどは低く垂れて、真ん中へ行けば――ぶらぶらと振りあぶなき橋也――とある。

 有名な野麦峠や笹子峠なども越えているが石川本では峠道の様子はわからない、原本ではどうだろうか。

 群馬県佐波境町は日光への勅使が通る例弊使街道の宿駅であり、ここで勅使が――御輿中より、御包物を道々御散らしにつき、男女群集し捨い候こと也――という記録をしている。上野と下野の間6、7里道はなはだ悪し、とある。

 越中へは親不知、子不知、犬突き、駒がえりなどという難所を通る。北は波打ち際までわずか12.3メートル、南は数百メートルの石山で、長さは1.5キロほどをこえる。

 立山山麓では先の飛騨の藤橋には比べ物にならない橋を渡る。――危なき橋にて、軽業の綱渡りに向じ、長さ15間――と書いている。

 この頃一人で馬にまたがって乗ることを許されていたのはある身分以上の武士であった。他は馬子のひく馬にしか乗れなかったのだ。それが「越後の国では、農村ではもちろん、城下、宿場でも、馬子に口を取らせずに――乗り打ちすること自由なり――と書いている。

 秋田あたりでは砂道と書いた道が出ている。土道とは違う道があったのか。

 那須野の原は――この原、小村もなき所なれば、草刈りの者もなく、狐道は縦横にあり、いずれに尋ね行くすべもなく道踏み迷し――という僻地を夜に入るころやっと村にたどり着いた。

 箱根の関所を通り抜けた泉光院は――大峰の奥駆より少しは良し――という悪路を3里いってとある。大峰奥駆道とは、大峰山系の尾根筋を岩場をめぐったりしたりしながら歩く修行者の道であり、道と言えば言えないことはない程度の道だ。

 大井川を渡るのだが、近くの人に聞くと三つの瀬の場所と渡り方を教えてくれた、とあり、海近くの川幅1キロほどを渡る。深い所で45センチくらい浅瀬ばかりであった。人々は大井川を勝手に歩いて渡っていたのだ。

 高松12万石の殿様の行列をみたり、岡崎矢矧(はぎ)の橋の完工には渡り初めの儀式もなく、江戸から来た役人が、――見のうえ渡り始められたり――とあり、渡り初めの儀式がないのが面白くなかったらしい。

 本宮川沿いに川上へ向かう道は――道悪しきこと言語道断たり――である。

 この本から当時の道の状況を知ろうとすれば結局この程度のことしかわからない。原本でもあまり違いがないだろう。だが野を越え、山を越え、川を越しての旅の様子はよくわかる。この日記から得る当時の人々の暮らし、人情などは大変興味深く面白い。続けて紹介させていただいていいだろうか。

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『みちしるべ』熊野より(18)**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 熊野より

三橋雅子

<こうして友達が増える> 

その二 拾われた「地元のおばちゃん」

 ある日、南高梅で有名な旧南部川村(みなべがわむら)で澤地久枝さんの講演会があるというので、バスと紀勢線を乗りついで出掛けて行った。震災前、芦屋で彼女の講演を聴いて以来、お元気なのだろうか、かなり重篤な筈の心臓病はどうなのだろうか、という気がかりもあった。南部町と合併する前の、このちっぽけな、人口7千人足らずの村の、村として最後の催しだというのにほだされたこともあった。南部(みなべ)駅に降りて、バスを待つと時間に間に合わないので、たかが3キロ余り歩くことにする。しかし気楽な散策をして方向を間違ったりしていては遅刻する。途中で確認をしようかとキョロキョロするが、車はたまに行き交うが人っ子一人出会わない。やがてスーッと車がすり寄ってきて、こちらが道を確認しようかと思っているのに、〇〇に行くのはこっちの方向でいいんですか?と訊く。またか、と思わず苦笑。私は道を訊かれる名人なのである。初めての土地だろうがお構いなし。息子と一緒に歩いていたら、ほんとによく訊かれるんだ、時間が掛かってしょうがないとぼやかれるほどである。時間を気にしながら一生懸命こいでいる自転車まで止められるのでかなわない、とは思うものの、せっかく呼び止められるのを無碍にもできない。しかし、稀代の方向音痴、間違って教えたり、知らないからとすげなくしても、と地図を持ち歩くことにしていた。地図を広げて「今ここですから…ええっと」なんて一緒に探すことになるから、余計時間が掛かる。今回も「この土地の者ではないので…」とは言ったものの、あらら?その〇〇は私が行く所ではないか。「知らないんですけど、私もそこへ行く所で竜神行きのバスに乗るつもりだったから、あそこに竜神方面の標識が出てるからこの道で大丈夫のはず」と言うと「じゃあ、乗りませんか?一緒に探しましょう」というわけで、私は道問う人に拾われ、軽トラックの助手席に座った。彼女は「こんな所を歩いているのは、てっきり土地の方だと思った」と苦笑している。本宮からだと知ると余計驚いて、何時に出て来たか、などと感心している。彼女は私がバスから列車に乗り換えた田辺近くの町。折しも市町村合併問題が沸騰している最中。彼女の居住地を聞いて私は思わず「わあ、すごい!と叫んでしまった。そこは、本宮と共に新田辺市に合併が殆ど本決まりだったのが、ごく最近、合併協議会から離脱したのであった。住民運動の成果?すごい快挙!と私が羨ましがるのを、彼女は苦笑の面持ちでいきさつを語る。合併急先鋒の町長は、この町が地理上も町の大きさ、実力から言っても、他の小四町村をつなぐ要のような位置にあり、この町ぬきの合併は考えられないような状況を踏まえてか、その町が抱える財政上の難問題を強気でごり押ししようとした。これが通らなければ離脱する、という脅しにも似た強気が裏目に出て、それなら離脱したら?とおっぼり出されたも同然の、まさかの離脱となったのだと言う。どんなことになるのやらこれからが大変、いずれ無条件で入れてくれ、と泣きついていくのでは?と言う彼女に、でも、単独で行かざるを得なくなったのは何といってもラッキーな話、合併反対の運動は、ここまでに息が切れてしまうのだから…と話は弾んだ。

 帰りは当然、田辺駅まで送ってもらうことになったが、その前に一寸寄り道を、と目指すのは自然食品の店、私もなかなか行けないで買いたいものがある絶好の所。店の主人はタマの私の顔も覚えていて、二人を見比べて「あらーお知り合いだったんですか」と驚くと、彼女は「さっき、ほんの数時間前からのお友達、ねっ!」といたずらっぽく言って、楽しそうにいきさつを語る。その、わずか数時間の知己に彼女は田辺駅まで迎えに来た連れ合いの車を先導してみかん農家の自宅まで案内し、自作の甘夏をダンボール一箱、車に放り込んでくれた。その後も彼女は、知人に紹介してくれる度、必ず出会いのいきさつを語るのである。「だって、あんな所をトコトコテクっていたら、誰だって地元のおばちゃんと思うでしょう?」こうして初対面の人にも、私は、ミナベをトコトコ歩く変わった人、と印象付けられてしまうみたい。

 肝腎の澤地久恵さんは、思ったよりお元気でますますの意気軒昂、しかし体調は思わしくないそうで、いくつもの予定の講演を断り、どうしても義理を果たさなければならない、この、ちっぽけな村での講演だけは、という律儀な彼女の思いを込めての来村だと言う。話は何でも壮大な、遠くロシヤの、ひょんな関わりの知人が、この村から受けた恩義に報いなければならない借りがあるのだという。何で、こんなちっぽけな村に彼女が講演に?という私の疑問が解け、この村が以前からシコシコと紡いできた文化活動の奥行きを垣間見る思いであった。朝日新聞、週刊金曜日などへの常連投稿で有名な、また戦争体験の出前語り部でも広く飛び回っておられる本多立太郎氏が、比較的最近大阪からこの村に、血縁のない家族を構成して居を定められておられるのも、うなづける思いがする。

 澤地氏を含めた「九条の会」発足以前の話ではあるが、当然論調は厳しく、芦屋での講演を上回る激しさであった。情勢がそれだけ厳しくなったということか。

 厳しくなったのは社会情勢だけではないような気がする。年内に紀南でこんなに雪が積もるのは珍しいという。お風呂からは日暮れ前に帰るようにしているが、先日は温泉を出ると大粒の雪が舞っていたのに、湯壷で茹でていたさつま芋をもう少し…と欲張ったお蔭で四時を少し廻ったろうか、果たして最後のトンネルを抜けて危ない橋を渡り、急斜面のカーブを一つは突破したものの、この先いくつもの、ますますひどくなる難所は無理か?と締めて、公民館前に車を停めて雪道をトコトコ歩く羽目になった。何しろ干し芋にする茹で芋大袋を二つと風呂道具を背負っているから手をつなぐどころではないが、雪を蹴散らしての約二キロはなかなか楽しかった。

 振り向けばふたりの来し跡雪の道

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『みちしるべ』能勢の寒天つくり**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 川西自然教室

宮本常一を読む(2)
能勢の寒天つくり

川西自然教室 畚野 剛

今回は北摂のお話  前回、宮本常一さん(以下宮本と略記します)が大阪南部にお住まいのころに、冬の岩湧山に出掛けて、昭和初め頃の高野豆腐つくりを実地調査されたお話をしました。おなじ本(注1)のレポートに続くページで、厳冬期に野外で作業するもうひとつの厳しい作業、寒天つくりについても書かれているのを見つけたので、紹介いたします。

 調査の時期は昭和10年2月、場所は大阪府北部のチベットとも言われたいまの豊能町から能勢町の辺りでした。当時の行政区では右の地図(注2)に見られるように吉川、東谷(黒川)、東郷、歌垣の各村を南から北へ貫くコースでした。

 宮本は文のはじめに能勢妙見宮について説明しており、その紋が十字になっていることに注目されています。

 今でも、妙見宮に参詣すれば、頭を朱色の十字で染めたお供え餅が売られているのを見ることが出来ます。また、すこし前まで、能勢電車の車体に付けられていた社章は、下の図(注3)のように、この矢筈十字紋を4つの稲妻(電気鉄道のエレクトリックを意味)で囲んだものでした。

兎皮の老人  宮本は吉川(正しく妙見駅)で下車し、亀岡まで歩いたのです。まず一人の老人と出会いました。その人が兎の皮の袖なし(注4)を着ていたことが宮本さんの心をひきました。

 宮本は「この山中には毛皮を用いる風が近頃まで盛んであって、フンゴミ(注5)も鹿皮のものを多く用い、手甲の類にも鹿皮を多く見かけた。(中略)元来この山中は猪や鹿の多いところで、そういうものの皮が古くから使用されていた。」などと老人から立ち話に聞きました。寒い路上での立ち話でもこれだけ聞き取り出来るのは宮本の才能でした。

  • (注1)宮本常一著作集25「村里を行く」、p76~83、寒天小屋にて 未来社(1977)。
  • (注2)原図は20万分の1 帝国図(大正8年製版)。紙の『みちしるべ』での印刷状態が良くなくて、ここでは省略させて頂きました。
  • (注3)図は豊能町史(写9-9)から引用。省略しました。
  • (注4)袖のない仕事着(半纏)、襦袢(普段着)、羽織(外出着)の類の総称。(日本民俗大事典)
  • (注5)もんぺの一種。冬期間上体に綿入れの長着を着るため、すそ部が入るように太めに作る。(日本民俗大事典)

歩き通す老人  宮本は大土峠への坂道で2人目の老人に会いました。「摂津の尼崎へはどういくか。何里ほどあろうか。」と聞かれた。「その旅姿は藩政のころからなにほども変わっていない」と宮本も感心。「但馬から歩いて来た。」「汽車や電車があるのに何故?」「どうも乗り物は性にあわぬ。尼崎の工場にいる子(孫?)に会いに行くのだ。」と会話を交わしたが、「路上の行き違いではおちついて話もできなかった。」と、宮本は口借しげ。その夜は東郷泊まり。峠の上で逢った炭焼きの家を訪ねるのは、夜道おっくうで止めた。

寒天製造小屋で  翌朝、宿をでてすぐの道のほとりを少し下って、小屋の仕事の合間にしばらく話を聞いた。「寒天仕事を始めるのは12月初旬で、2月初旬までざっと70日間仕事をする。職人は丹波の氷上郡から来る。……」と、しばらくの間き取りといいながら、B5にして4ページ半の分量を記録している! 宮本は、とくに製造の工程について詳しく述べているが、私は「丹波では冬は始終曇っていて乾燥が効かぬので寒天は作れない。また(消費地の)京都への道は能勢から亀岡の道が便利というのも能勢の利点であり、丹波の方は出稼ぎになってしまう。」というくだりに興味をもった。

そのあと宮本は……  酒造場も見ながら進んだ。「この地の人たちは、京都への地の利(注6)を利用しながら、寒天や酒の工場を経営する資本と覇気をもち、ゆたかに暮らしている。」と述べ、「文化の光をうけた古風」という印象を得たのであった。

 「摂丹の国境には、大きい杉の木がある。それ以外にこれという特徴もない国境である。だが丹波に入ると、能勢で多く見かけた皮のフンゴミをつけた人はそこには見られなかった。」という文でレポートを締めくくっている。

北摂の寒天産業の今  たとえば、平成13年12月14日の暮らしの新聞には猪名川町下阿子谷で糸寒天を干している写真が載っています。ただし、凍結の工程は野外ではなく冷凍庫によっているとのことです。

 また、川西市内長尾でも福井寒天製造所畦野分工場がありました。昭和63年まで営業されていました。働き手はやはり丹波の氷上から来ていたと家の方から聞きました。このページの写真(省略しました)はその工場と千し場のあとの現状です(写:2005年12月18日雪の日に)。

  • (注6)宮本の歩いた摂丹を結ぶ吉川~亀岡コースは、摂丹鉄道と言う名で大正の初め頃に鉄道免許を得ていたが、地元資本の力では、実現は叶わぬ夢に終わったのであった。
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『みちしるべ』埋草草紙**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 澤山輝彦

埋草草紙

梅草草子

 ソウルヘ行ってきた。みちしるべ32号で井上千栄子氏が既に報告した清渓川を見てくるのが目的の一つであった。ソウルは気温零度以下、空気は乾燥しており、そんな戸外をうろちょろするのは初めてで、防寒着で身体は暖かでも顔や耳が非常に冷たかった。1月12日付毎日新聞は都市再生と題して清渓川を特集している。

 ソウルの旅館でNHKBSTVを見ることが出来たから、秋田、新潟に大雪が降ったことを知った。大陸の乾燥した風が日本海を渡る間にたっぷり海上の水分を吸収しそれが日本海側に大雪を降らすのだろうと、にわか気象予報士になったような話しをしあったのだった。

 帰宅後家族でこの大雪について話しあった。なぜ雪の積もりにくい屋根が出来ないのだろう、融雪装置が取り付けられないのだろうか、というようなことが主だった。私たちが今更言うまでもなくこんな事は研究されており、あるいはすでに開発されているだろう。それでも自然の力が勝ってしまう、自然はあなどれないのだ。そんな中では人々はいろいろ知恵をはたらかせ、そこに住み続けてきた。秋山郷という所は北越雪譜に取り上げらねている豪雪地帯として名を売っている。私たちが都市住民の感覚で、積雪対策の完備した道路が作られないのかとか何とかは言える。でもそれを地元の人は歓迎するのだろうか。そんな道が出来れば四輸駆動車が大手をふって入り込むことだろう。それはそれでその地の環境を破壊するのではないだろうか。なんといってもそこは秘境なのだし、それが売りなのだ。住民が雪のため不足しているといった品物を見れば、豪雪対策として大規模な耐雪備蓄倉庫なんか作ればいいんじゃないか、と勝手なことを考えたのであった。

 今年も箱根駅伝をみた。見所のあったレースだった。トップの走者が脱水症状になりどんどん抜かれ、ふらふら蛇行しながら先へ進む。それには妻も私もはらはらした。妻など救急車の手配まで心配する始末であった。だが彼は絶対安全だ。死ぬことはない。そこは管理されたゲームの世界なのだから。このレースの彼を心配してはらはらどきどきした人は戦争という場に思いを馳せなくてはならない。戦場とは常に殺されるかもしれないということが前提の場なのだ。そこへ身内や知人を送り出すということは、はらはらどきどきで済むものではない。いやな事件、人殺しが多い。人を殺すのは大犯罪だ。だから人々はいきどおり、犯人を憎む。だが戦場では人を殺さねばならないのだ。人を殺しに行くのだ。戦争をしてはいけない。戦争を放棄した日本、この国のよさをつぶしてはならないのだ。

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『みちしるべ』住民のエネルギーを垣間見た**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 神崎敏則

住民のエネルギーを垣間見た
――尼宝線(武庫工区)拡幅整備問題の途――

みちと環境の会 神崎敏則

 以下は、尼宝線武庫工区の拡幅工事問題の途中経過を、あくまで神崎の個人的な見解からまとめたものです。読者諸氏のご指摘をいただくことができましたら幸いです。

住民の意見を聴くポーズつくりに懸命な兵庫県

 昨年2月、兵庫県県土整備部街路課に『みちと環境の会』が「尼宝線拡幅に関する説明会の実施を申し入れ」、その席で課長は、尼崎市を経由して自治会・沿道住民の方に説明会を5月に開くことを約束した。兵庫県のこの対応の根拠は知り得ないが、住民に充分な情報を与えて納得してもらいたいとの思いよりは、住民への説明会を拒否したと言われたくないという思惑に力点が置かれていたと推測する。

 3月から4月にかけて兵庫県と尼崎市が沿道3850世帯にアンケートを配布し、その集計をもとに6月22日に待ちに待った説明会が開かれることになった。この間、毎月1回の『沿道住民の集い』では、説明会で何を県に訴えようかと議論を重ねていた。ところがその説明会は社協の各単組会長以上に参加者を限定することがわかった。6月18日の『第10回沿道住民の集い』では参加者限定を問題にして、6月20日付けで抗議文を県に送付した。

 7月1日に西宮土木に行き、6月22日の説明会の内容を確認した。当時の参加者は11名だったこと、事業期間はH18年からH24年を予定していること、H18年度中に国に事業申請をおこなうこと、18mの幅員で整備すると2.5mの歩道幅員となるがそこにガードレールを設置すると2.Omに更に狭められることが分かった。

『みちと環境の会』の議諭も蛇行の連続

 この流れを受け、『みちと環境の会』の運営委員会の議論は、署名運動を取り組むかどうかが検討され始めた。沿道住民と共に県の対応を問題にして少しでも大きなうねりを作りたい、住民へのかかわりを密にしたい、多くの住民はこう思っているのだと県に具体的な運動で突きつけたい、というのが署名を取り組みたい側の主張だった。しかし議論はここから前後左右し、蛇行を繰り返した。

 住民はあきらめている、『みちと環境の会』は住民運動をするのではなくて啓蒙活動をおこなうべきだ、拡幅整備問題を取り組む意味がない、との議論が並行してはじまった。今から考えれば、どちらの意見が正しいとか間違っているとかではなく、運動の状況をそのまま反映していたのだろうが、議論の当事者は相手の間違いにしか目が向かないものだった。とりあえず破裂してしまうことは回避して、毎月の『沿道住民の集い』とその前段のニュース配布だけは当面続けて、かつ、尼崎市道路整備担当課に話しを申し入れることは全体で確認できた。9月8日に尾崎市担当課に行くと、「10月頃に西宮土木が説明会をおこなう意向だ」と答えた。

 ちょうどこの9月から、幸いなことに『みちと環境の会』の運営委員会において、第7回定期総会に向けて議案の討議がスタートした。そこではこれまでの尼宝線拡幅整備問題に取り組んだ運動の総括(その素案は『みちじるべ』前号にも掲載)を意図的に提案し、住民はあきらめていないし、『みちと環境の会』が住民との結びつきをしっかりと「地面の下で根をはるように」強めてきたことが強調された。この議案を運営委員会全体で確認して、11月27日に第7回定期総会を迎えた。西宮土木がおこなう住民への説明会の4日前であった。

住民のエネルギーは偉大だ~説明会に100名の住民が参加

 住民への説明会は、尼宝線を境界にして東側の住民は12月1日、西側は2日におこなわれた。説明会場は両日とも武庫地区会館なので、できるだけ多くの住民の意見を聴きたいのであれば、2回の説明会のどちらに参加してよいとしたはずだ。けれどもわざわざ東西に分けたのは、少しでも小分けにして発言が少なくてすむように、また仮に追及されるとしても小人数からのものにしたいとの小賢しい考えがあったのだろう。県の小賢しさには困ったものだが、正直なところ住民がどの程度発言するのかは不安だった。

 県の思惑とは反対に2回の説明会に約100名の住民が参加し、しかも私の不安も吹き飛ばして住民は次々に訴えた。

 県がおこなったアンケートについて、ある参加者が「アンケート用紙をもらっていない」と言うと、他の参加者ももらっていないと声が上がり、これに対し県は、社協の会長に渡して再配布することを答弁。再配布の結果、集計結果が変わったら整備内容は変更するのかと住民が更に問うと、「パーセンテージの高い低いでは変わらない」との回答に、「それではアンケートの意味がない」、「無責任ではないか」と住民が指摘し、県は「言われる通りです」としぶしぶ答えた。住民の意見を聴くためのアンケートではなくて、最初から18m幅員ありきのアンケートでしかなかったことが暴露された。

 また、騒音や大気汚染の問題に対応して欲しいとの意見には、最近では環境に配慮した道路づくりが求められていると答えておきながら、肝心の具体策については低騒音舗装で騒音対策をおこなうこと、光触媒を使って二酸化窒素を分解する技術を取り入れること、電線を地中に埋設すること、などにとどまった。

 低騒音舗装は、3年もすれば舗装画が摩滅して効果が薄れると指摘する専門化もいること、より効果的な騒音対策である遮音壁を検討すべきことを訴えると、県は、歩道が2.5mでは構造的に無理だとはねつけ、更に騒音問題を追及する住民に対して、『確かに武庫工区の測定局では騒音の環境基準を超えているが、2万7千台も走る道路が基準を超えるのは当然で、国道の8割は基準を超えている」と開き直ってしまった。

 夜間には4車線の中の中央よりを走るように看板を取り付けて欲しいと訴える住民に対しては、看板を設置することは可能だが規制することは別の部署の問題だと、まるで他人事のような答弁。

 また県の答弁により、尼宝線は大型車の混入率が高く19~20%もあることがわかり、しかも、4車線になることで、現状の2万7千台が3万台になるとの予測を立てていて、子どもをもつ保護者の不安を一層大きくした。

 二酸化窒素などの排ガス問題に対しては、光触媒により二酸化窒素を分解すると提案しているが、ほとんどその効果が見込めないことは県も充分認識しているはずだ。自動車メーカーの技術開発やドライバーマナーの普及の問題を強調して、自分たちは道路を造る部
署にすぎないと言う。責任の限界を勝手にこしらえた、無責任極まりない、あきれ果てた答弁だった。

 歩道の安全性については、歩道と車道との間の縁石は高さ15cm、歩道は高さ5cmにしてできるだけ傾斜を設けないと説明した。今回の工区に含まれていない武庫之郷交差点より南の歩道も大変狭くて危険であることを住民が指摘したが、今回の整備とは別の問題と
して消極的な答弁に終わった。多方面から問題点を指摘する、住民の視野の広さにも驚かされる場面だった。

 この他にも、阪急神戸線を越える陸橋が2車線のままでは渋滞の解消にならないとの指摘などもあり、説明会は2回とも参加者からの質問が解消されることもなく、会場の武庫地区会館の閉館時間を理由に説明会が打ち切られて終了した。

住民のエネルギーを垣問見ることができた

 県は冒頭で、住民の理解が得られるような道路づくりをおこなうと言ったが、少なくとも今回の説明会では、住民の理解が得られなかったことは明らかだ。しかし県は、次回の説明会の開催を求める住民に対して、「土地補償のこともあるので、当事者には説明するが、今回のように広い範圏ではありません」と逃げ腰だ。

 県は道路計画の詳細を作成し、工事直前には住民への説明会をかたちだけおこないたいのだろうが、その段階では住民の要求はなかなか通りにくくなる。詳細の計画ができる前に住民への説明会をおこなわせることができるかどうか、県に具体的な運動で追ることができるかどうかが問われている。

 今回の説明会で、『みちと環境の会』は住民のエネルギーを垣間見ることができた。私たちの想像以上に大きなエネルギーを持っていることを、実感を以って教えてくれた。沿道住民約600世帯に毎月「ニュース」を配布し、『沿道住民の集い』での議論の経過、県や市の動きとその問題点などをお知らせして昨年12月で15号を数える。この『みちと環境の会』の取り組みが、住民のエネルギーを引き出す一助となったのだとは思う。しかしまだ、エネルギーを垣間見ることができた段階だ。住民とがっちりとスクラムを組んでいく段階にたどりつくことができるかどうか、『みちと環境の会』が今問われている。

 一歩前に出て、署名を取り継むことで県に説明会をおこなわせることもできれば(個人的にはできると信じている)、住民の様子を眺めて住民へのかかわりを避けて通ることもできるだろう。いままさに『みちと環境の会』の正念場だ。どんな『みちと環境の会』になるのかこの1年が楽しみだ。いずれにしてもこれまでと同じように、蛇行を繰り返しながら前に進むしかない。

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『みちしるべ』道路交通工学を考える*道路交通容量について②**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 基礎知識シリーズ

道路交通工学を考える

道路交通容量について②

世話人 藤井隆幸

3-1 交差交通について

 前回は単純道路の交通容量について考えてみました。しかしながら、実際の道路と言うのは、そう単純なものではありません。基本的には単純道路の交通容量の考え方がベースになりますが、現実の道路には交通容量を制約する様々なものが存在します。その代表的なものが、交差交通です。

 一般道路には信号機が沢山あります。西宮から三宮まで国道2号線を走ると、距離は20kmです。時速40km/hで走ったならば、30分で到達する距離です。しかし、現実には渋滞も無くスムーズに走れたとしても、40~50分はかかってしまいます。それは信号待ちをする時間と言うことになります。

3-2 阪神間の南北交通問題

 かつて阪神間南北高速道路の計画が、2度にわたり持ち上がったことがあります。行政当局の言い分は、阪神間では東西交通路は発達しているが、南北交通路が遅れていて問題だ。ところが、それは地理的・社会的・歴史的な必然であって、解消すべき問題ではないのです。

 神戸~西宮にかけては、瀬戸内海と六甲山脈に挟まれた、南北1~2kmの狭隘な平地が広がっています。その東西の端には神戸市と大阪市と言う、人口150万人と250万人の巨大都市が存在します。物流に於いても、神戸港・大阪港という巨大な物流発生源があります。当然、東西の交通需要は膨大になりました。

 阪神高速大阪湾岸線(交通容量15万台)・同神戸線(同10万台)・国道43号線(同8万台)・国道2号線(同6万台)・その他の県市道(同6万台)があり、東西の交通容量は45万台もあります。30~40kmの都市間に、これほどまでに交通容量を保持している地域は、全国的に見ても例が少ないのは当然です。

 一方、阪神間の南北の交通需要といえば、東西に比べれば1つ桁が少ないくらいでしかありません。従って、現在の南北道路交通路は、充分にあるというべきなのでしょう。一部の人の中には、南北で渋滞して困った経験から、不充分との意見もあるでしょう。しかし、それは自動車交通と言う無政府的(行政がコントロールしないから)な特殊性から、仕方の無いことなのです。南北が渋滞する時は、必ず東西も渋滞しているのです。

 これ以上、東西交通路を建設すると言うと、地域住民は暴動を起こして当たり前です。それくらい東西道路公害は凄まじい状態なのです。もし、南北交通路のキャパシティーを増やしたならば、必ず東西交通路の障害物となります。自動車交通と言うのは、交差側を有利にした分、必ず反対側の交通の支障になるというのが、厄介な存在なのです。

3-3 交差点の分析

 何故そうなるのかが、今回の主題というべきものです。例えば、下記のような交差点を考えていただきたい。


 左右の交通は、上下交通が無ければ時間交通容量は4000台(前号参照)あることになります。一方、上下の時間交通容量も4000台です。しかし、それぞれに対する交差交通を通過させるのには、信号機の設置が欠かせません。信号機が無くても交通事故になりにくい時間交通量は、せいぜい200台までです。双方の時間交通量が200台を超えてくると、信号が無くては危険極まりない状態です。

 そこで双方の道路に割り当てられる青信号の時間割合です。左右方向に6割、上下方向に4割とします。そうすると時間交通容量は、左右2400台・上下1600台に激減してしまうのです。今回は考察しないのですが、右折車があると、更に時間交通容量は激減することになります。

 左右の道路に、更に上下方向の道路が交差すると言うことは、左右の道路の交通容量をもう少し減らすことになるのです。

3-4 立体交差は交通容量拡大の効果はあるか

 そこで議論になるのが、道路の立体交差化です。実際に渋滞の酷い交差点を立体交差させて、渋滞を解消した例は多くあります。しかしながら、実際は立体化した方向を優先しただけで、その交差道路の交通容量は増えません。

 

 上図は立体交差化の典型的な模式図です。立体交差以前の時間交通容量は左右方向が2400台であったものが、4000台に増えることになります。しかし、上下方向の時間交通容量は、1600台から増えることはありません。

 左右方向の道路から、右行きの右左折車と左行きの右左折車をさばくために、それぞれ3割の時間帯の青信号を割り当てたとします。残る4割の時間帯に上下方向の青信号が割り当たられることになります。従って、立体交差後も交通容量は増えないことになります。

 ただし、立体交差以前は右折車の問題がありました。立体交差では左右の交通の、この問題が解決しますので、実際は効果があることに違いはありません。が、立体交差には莫大な敷地を確保しなければならず、建設費は膨大になります。一体、費用対効果の面では如何なのでしょうか。

 右折車対策としては右折レーンの設置があります。右折レーンの設置は、土地の確保も立体交差より遥かに少なくて済みますし、建設コストも工事期間も少なくて済みます。立体交差で渋滞を解決しても、次の交差点問題が発生します。一つの渋滞箇所を解決したために、新たな渋滞箇所が出来ると言うのは、阪神間では常識になりつつあります。

 それでも立体交差が必要なのか、考えてみる必要がありそうです。

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『みちしるべ』友情**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 砂場 徹

友情

みちと環境の会 砂場 徹

 本格的な冬がやってきて、赤、黄色と鮮やかだった公園の紅葉もいつのまにか元の立木にかえってしまった。

 そんなある朝、市営住宅のおばさんたちが「Aさんの家にゆうベホームレスが泊まったらしい」と騒ぎだした。空き缶を集めた大袋を積んだ自転車が住宅の入り口に置かれているのだから証拠は歴然だ。そのとおリホームレスがAさんの家に泊まったのは確かだ。次の日も空き缶を積んだ自転車が置いてあった。騒ぎはもっと大きくなった。「棟長は話にならんからSさん(連合自治会長)に言いに行こう」とか。この人たちはなぜか直接会って話そうとはしないのだ。それにしても大半のひとは無関心か、無関心をよそおっているのが気になる。

 私は腹をたてていた。「友達のホームレスが泊まったらなぜいかんのや。ホームレスを友達にしてはいけない法律でもあるのか。あんた達は高級車に乗ってパリッとしたスーツを着た紳士がAさんのところに泊まっても同じように騒ぐのか」と。それをどこで、いつぶつけてやろうかと躊躇しているまに2、3日つづいたこの事件は消えてしまった。Aさんとホームレスは、黙って合宿をやめたのだ。

 ホームレスのおっちゃんの長いあいだの「住みか」は、近くの新幹線の線路下にある公園のベンチを借用したひと隅だ。この公園は私の家から見える紅葉が映える大きい公園とは別の、ブランコが二つと滑り台が一つと、形だけの砂場しかない公園である。ここで遊ぶ子供を見かけることは殆どない。これまでにもホームレスを排除するために市役所に苦情を持ち込んだ人は居るようだが、市の係は「見物」には来るが何も変わらないそうだ。今の行政の力ではどうにもしようがないのだ。ホームレスの存在をこの広い地域の人達がどのように思っているかは定かではないが、善くも悪しくも長年の実績である。

 この「住みか」、夏は快適だがテントを張っているわけでもなし、何かで囲いをしているわけでもないので冬はとても人の住めるところではない。防寒の敷物を敷いてボロくずのような毛布と布団を何枚も纏っている、その小さいかたまりの側を通るたびに私は目を伏せてしまう。今、この宿は雑品を残したまま夜は無人だ。おっちゃんは、どこか、よりましな所に居るのだろう。

 生活保護のAさんは60歳前後だろうが、足に重度の障害がある。この人は、元は理髪師で自分の店を持っていた。だが、母親が亡くなって人が変わったようになった。とうとう奥さんが家を出てしまった。そのうちに難病にかかって理髪の仕事も出来なくなり、いまは生活保護を受ける身だ。

 高架下の公園は、杖をついてヨタヨタと歩くAさんの運動コースの一つの目標で、ベンチがゴール地点だ。そのうちにホームレスのおっちゃんと二人でそのベンチでコップ酒を呑むのを見かけるようになった。Aさんは健康な頃は大の酒好きで仕事を終わると必ず寄る店があった。元気だった頃のAさんを思い出して私はその姿を微笑ましく思っていた。だがそれを決く思わない人がいた。彼、彼女らは「あの二人昼間から酒を呑んどる」「生活保護のくせに酒のんどる」と怒っているのだ。Aさんの家にホームレスが泊まったといって騒ぎをつくりだしたのはこの人たちだ。

 小泉内閣は徹底した金持ち優遇である。取りやすいところから税金を引き上げ、そのうえ生活保護費は削減した。この露骨な庶民いじめはなんだろう。この国の大臣たちにとっては低所得者の生活状態などに関心を持つこと自体、政治ではないのだ。彼らにとってゴミのような存在であるこの人たちの生活再建にカネをかけるはずはない。

 地方自治体にそれを埋める力はない。尼崎市にはホームレスを収容する施設とかその他の対策のための規則などもない。市内のテントの数は増える一方だ。

 小泉は所得差拡大を防ぐことに力を入れるどころか、所得差拡大を強引に進めている。このときに、低所得者の集合住宅で、生活保護者が差別視されホームレスが排斥されている。最も団結しなくてはならない、最も団結できる条件下にあるところでの出来事である。

 地方自治体の多くが、予算がないからと着工を見合わせていた道路、ダムなどの公共事業が動きはじめている。第二東名道路の建設も現実のものになろうとしている。自治体の陳情に、細かい地域的改良が必ずある。各種の委員会がこれに対処するのだが、ほとんどが地域ボスと議員と行政の合意で処理される。ゴタゴタは大から小まで、質もさまざまだが、市民には分からない。また知ろうとしない。「〇〇先生がやって下さった」だけが残る。ホームレスのことなど問題にもならないのも、このような風潮のなかで流されてしまっているのだ。つまり主人公は議員先生なのだ。

 国政次元の問題で、正義と公平を失いつつある現実にメスをいれねばならないという声が上がりはじめている。それに比べると、街の片隅で不正義、不公平を正そうとする市民の声は小さい。戦争を防ぐ闘いもホームレスや生活保護者が「人として」生きるための万策を尽くすのも一つの問題ではないだろうか。団結。足元をもっと見つめねばと思う。

 そう言う私はどうも尻のすわり具合が悪い。ホームレス排斥の動きを見過ごしたのだから。今年1年、恥多き人生だが、最後にチクりと痛い悔いを残してしまった。

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『みちしるべ』年頭のご挨拶**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 大橋 昭

年頭のご挨拶

代表世話人 大橋 昭

新年明けましておめでとうございます

 師走から、年初めの記録破りの寒波と豪雪は想像を超えるものでしたが、皆様にはお健やかに新年をお迎えになられたことと存じます。年頭にあたり平素からの変わらぬご支援ご鞭撻に、改めて心からお礼を申し上げます。

 昨年は4月25日に発生したJR福知曲線の脱線事故に続き、クボタ尼崎工場のアスベス卜(石綿)問題の発覚。子供を狙う痛ましい凶悪犯罪の続発。「マンション耐震強度偽装」などこれまで想像し得なかった、暗い事件の続発にこの国の安全と安心は一気に崩壊し、息苦しい状況が続いた年でした。

 相次ぐ企業のリストラ失業者300万人。年間3万人もの自殺者の出現。一方、学校では給食費や修学旅行費が払えない児童が、4年間で30万人も増加するという「負」の側面も軽視されたままの越年でした。

 年明け早々のマスコミは景気回復と大銀行。大企業の収益向上、株価の大幅上昇、デフレ脱却を華やかに書き立てましたが、小泉政権発足以来この4年間の改革政策は、国と地方の借金を780兆円に膨らませ、国際競争に勝ち残る為にと、小さな政府や新自由主義と規制緩和を錦の御旗に『改革」を推進し、再現のない格差社会を生み出す現実には冷淡でした。

 国民には種々の規制緩和に伴う痛みと社会格差を押し付け、すべての分野にコストと効率を激化させ、莫大な儲けを得た大企業や大銀行の狙いは成功しましたが、世は「カネとモノ」崇拝主義の蔓延で、これまでにない弱肉強食を競争の展開が、人と人のつながりをバラバラにし、ますます自己中心の生き方を強めながら、本来助け合うべき者同士の疑心暗鬼を生むまでに至る世相を生み出してしまいました。

 現実には「勝ち組」と「負け組」という社会的歪みと貧富の格差を拡大させ、少子・高齢化社会への安全網の整備は遅々として進まず、やがて迫りくる増税と福祉政策の切り捨てに暮らしの活力は低下の一途にあります。

 加えて、大企業の談合などに見られる不正の横行・企業倫理の欠如による利益優先の体質は、企業自らの自浄能力と社会的責任への努力を放棄し、その無責任な体質はマンション耐震強度偽装を見るまでもなく、社会の至ところに安全と安心の喪失を生んでいます。

 昨秋の総選挙で圧勝した小泉内閣は、国際的競争に勝ち残るために、更なる規制緩和と「構造改革」の推進で、働く人たちや社会的弱者の既得権を奪い去り、日常生活に大きな不安感を与えています。

 私たちはあの敗戦から61年目を迎えた今、過度に技術文明に依拠した利便性を追求するライフスタイルを克服し、不毛な競争と格差を強いる社会ではなく、一人ひとりが互いの存在と生命を尊重し合い、共に助け合うという新しい価値観に根ざした社会つくりが、これからの課題であることを訴えます。

 そして、平和憲法のもと、主権者として自立した住民運動の結集を通じて、反戦平和。いのち・環境・自治の確立を目指し、次世代のためにも引き続き、協働と連帯を活動の原点に据え、活動してゆくことを表明し、新年のご挨拶といたします。

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