『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』市民科学講座「ナノ粒子の健康リスク」に参加して**<2013.3. Vol.77>

2013年03月26日 | 単独記事

市民科学講座「ナノ粒子の健康リスク」に参加して

大城則龍

 2月後半は東京にいて、「さいなら原発尼崎住民の会」のSさんのメールにより、2月23日に渋谷市民科学講座「ナノ粒子の健康リスク」(主催:NPO法人市民科学研究室)がおこなわれることを知り、参加してきました。ご紹介いただいたSさん、ありがとうございます。まず講座内容の報告の前に、自動車排ガスによる大気汚染問題全般について簡単に説明します。

 自動車排ガスの中でも特に二酸化窒素(NO2)や浮遊粒子状物質(大気中に浮遊する直径10μm【1/100mm】以下の微粒子=SPM)が健康被害の原因物質として注目され、環境基準が設定されて日本中で測定が継続されてきました。道路公害裁判でも二酸化窒素やSPMの毒性が焦点となり、勝利裁判の判決文にはそのどちらかが原因物質として、あるいは両方が複合的な作用を施してと明記されてきました。ところで二酸化窒素も浮遊粒子状物質も主にディーゼルエンジンからから排出されます。

 ディーゼルエンジンでは、ピストンによって空気を圧縮し、シリンダー内の高温空気に燃料を噴射することで自然着火させて動力を得ます。この時、空気に含まれる酸素が燃料分子と反応して着火するのですが、同じく空気に含まれている窒素も酸素と反応して窒素酸化物が生成されます。この窒素酸化物をNOX(ノックス)と総称し、その中の窒素が二つの酸素と結びついたものがNO2(二酸化窒素)です。要するに二酸化窒素の構成に燃料はかかわっていません。一方SPMは、シリンダー内に噴射された燃料や潤滑油などが構成にかかわっています。

 さて、一般にSPMはディーゼル排ガス由来のもののほかに、ウィキペディアの解説によれば、石炭や石油の燃焼によって発生するフライアッシュ(飛灰)、物の破砕などにより発生する粉じん、風じんや砂じん嵐によって発生する土壌粒子(最近話題になっている黄砂もこの中に含まれます)、海面から発生する海塩粒子、タイヤ摩耗粉じん、花粉などの植物性粒子、カビの胞子などの動物性粒子、スタッドタイヤにより道路面が削られて発生するスパイクタイヤ粉じん、宇宙から降下してくる宇宙じんなどがあるそうです。

フライアッシュ(飛灰);かつては産業廃棄物として処理されていたが、最近ではコンクリートに練りこまれて再生されている。放射能に汚染されたガレキの焼却灰もコンクリートの素材の一部として利用されている危険性がある。

 話しを自動車排ガスに戻しましょう。二酸化窒素濃度の測定には簡易法があり、多くの市民団体などが取り組んでいます。排ガスの人体への毒性については、さまざまな議論を経て、排ガスに含まれる物質の中では、どちらかと言えば二酸化窒素ではなくSPMが主犯格だという結論に落ち着きつつあります。ただし市民がおこなう二酸化窒素の測定活動は決して無意味ではありません。二酸化窒素もSPMも(後でふれるPM2.5やナノ粒子もふくめて)ディーゼルエンジンから排出されますので、ディーゼルエンジンからの排ガス物質総体の濃度の指標としてとらえれば、今後も充分意味のあるデータが得られると思います。行政が管理している自動車排ガス測定局は比較的交通量の多い幹線道路に設置されているものの、その幹線の中でも比較的低い濃度になりやすい箇所に設置されていることも少なくないのです。行政は環境基準を達成したか否かを毎年評価してはいますが、その幹線道路の1,2ポイントの評価にすぎず、厳密に言えば、その幹線道路のほとんどを評価していません。市民が年に数回定期的に、たくさんのポイントで測定することは、行政が把握しえない、平面的な変化を確認できるのです。

 そしてSPMの中でも、どうやらPM2.5(1/400mm以下の微粒子)が特に毒性が顕著だと言われ始めました。1997年にアメリカでPM2.5の環境基準が設定され、それから12年後にようやく日本でもPM2.5の環境基準が設定されました。

さて、SPMの濃度は経年的に下がりつつあります。その理由は、自動車NOx・PM法の求めに応じて、車種を特定して古いディーゼル車を規制したこと、新車の規格を①セラッミクフィルターや触媒法により、排ガスとして排出される前にSPMをある程度除去してきたこと、②コモンレールシステムという燃料高圧噴射を開発し、排ガス中のSPMの総量を低減させたこと、などによります。

 ところがここに落とし穴がありました。

 コモンレールシステムは確かにSPMの総質量を低減させるのですが、それは、排ガス内の比較的粒子径の大きなものを減らすからなのです。そして、残念ながら比較的粒子径の小さいものは以前よりも多く排出していたのです。

 例えば、粒子径10μmのもの1個を除去し、その代わりに1μmのものを700個新たに生成した場合には、SPMの総質量は小さくなります。その結果、1μmのものが700個も増えてしまいます。

 環境基準を守るために開発した技術が、皮肉なことに新たな難問を発生させました。しかもそれは人体にとって大変な脅威となるかも知れません。ディーゼル車はガソリン車に比べて熱効率がよく、少ない燃料で長い距離を走ることができます。コモンレールシステムを取り入れることによって、さらに熱効率は良くなりました。二酸化炭素の排出量が少ないので、地球温暖化対策でも優良なシステムのです。このナノ粒子の問題を除けば・・・。

 PM2.5の中でも0.1μm(1/10000mm)程度以下の粒子をナノ粒子と言います。

ナノ粒子とは

 ナノ粒子とは、粒子の大きさで規定されます。1㍍に対して1mmは1/1000㍍、1μmとは1/1000,000㍍、1nm(ナノメートル)とは1/1,000,000,000㍍です。ナノ粒子は、同じ物質のよりサイズの大きい粒子とは物理的・化学的性質が大きく変わるようです。例えば金は、通常は電流を通し、また化学反応が起こりにくい物質で、色は黄色です。ところが、金をナノサイズにすると、電流に対しては半導体(導体と絶縁体の中間の性質を持つ)となり、化学反応が起きやすく、色は、粒子のサイズに応じて、桃色から赤あるいは橙色へと変わるそうです。

 銀は、殺菌・抗菌作用があることは昔から経験的に知られていました。これは銀と接触した細胞の細胞膜が破壊されることによると言われています。そしてナノシルバーは、接触する酸素から酸素原子を生成し、その酸素原子がバクテリアやウィルスと反応を起こし殺菌作用を現すそうです。ナノシルバーでコーティングされた食品保存容器(=タッパ)を手にした方も少なくないでしょう。ナノシルバーは、ソックスからパソコンのキーボード、さらに、エスカレーターの手すりに至るまで、最も多用されている強力な抗菌剤の一つなのです。このほかにもナノチタンや、レシチン、リポソームが化粧品や食品などへ利用されているそうです。

 さて、渋谷市民科学講座「ナノ粒子の健康リスク」では、主催者側が「ナノ毒性クライシスの検証」と題してナノ毒性問題の概観を説明された後、東京理科大学・武田健教授、東京理科大学・梅澤雅和研究員のお二人がそれぞれ講演していただきました。内容が重なりますので(見解が分かれている点はありませんでしたので)、お二人のお話しを以下まとめて報告します。

  まず、浮遊粒子の質量濃度と個数濃度について説明しましょう。下図をご覧下さい。10μm以下の浮遊粒子の質量分布は、7μmあたりに小さな山を、0.3μmあたりに大きな山を形成しています。しかし個数濃度は、0.1μm付近で小さな山、0.02μm付近で大きな山を形成しています。この0.1μm以下のサイズの物質をナノ粒子と総称しています。

 粒子状物質の人体への毒性を解明するときに、2つの手法があります。一つは疫学的な手法です。アメリカの90都市のPM10濃度と死亡者数との相関関係を調べると濃度が高い方が1.4%増の死亡者数(2000年)、アメリカ10都市のPM2.5濃度と死亡者数の関係は3.5%増(2003年)、カナダ8都市のPM2.5濃度と死亡者数の関係は2.2%増(2003年)です。しかもその死因は呼吸器系よりも循環器系の方が多かったのです。

 解明するもう一つの手法は動物実験です。もっとも顕著な影響は、例えばディーゼル排ガス中のナノ粒子を母親に暴露させて生まれた子どもには、大脳皮質末梢血管の周囲細胞がナノ粒子をとりこんでおり、これを溶かそうとするのですが、逆に周囲細胞の方が壊れて溶けてしまい、血管を痛めていることが解剖の結果明らかになりました。

 脳への影響とともに大きいのが精子をつくる精祖細胞への影響です。

 ディーゼル排ガス中のナノ粒子を母親に暴露させると、胎仔の脳や精巣に変異をもたらします。

 本来は、母胎と胎仔との間には血液胎盤関門があり異物を通過させないはずなのですが、これを通過しています。また、血液脳関門、血液精巣関門も通過しています。

 ナノ粒子が体内へ取り込まれた場合の解剖学的な説明をされましたが、とても意外な話もありました。

 ディーゼル排ガス中のナノ粒子は、0.02μmのサイズのものが最大の個数濃度を示していましたが、これよりもさらに小さい粒径(例えば0.006μmくらい)は、体内に取り込まれても代謝により体外へ排出されるだろうと言われていました。小さければ小さいほど毒性が高まるわけではないようです。

 ナノ粒子という言葉はあまり耳に馴染みがありませんが、例えば、タバコの煙はナノ粒子のかたまりなのだそうです。喫煙により、脳梗塞、心筋梗塞、大動脈瘤、肺気腫、ぜん息、白内障などの危険性が高まります。妊婦の喫煙は、顕著な事例では乳幼児突然死を誘発します。

 また、ナノ粒子を活用した化粧品も世間では普及しているそうですが、皮膚の構造が非常に優れていて、化粧品を塗ることで皮膚から体内へ吸収されることは考えにくいと、両先生とも述べておられました。ただし、皮膚に外傷や炎症その他の疾患がる場合は体内への浸入は起こりうるそうです。

 山火事でもナノ粒子は発生するそうです。最近注目されている黄砂はナノ粒子よりも粒径は大きいそうです。少しマスコミが騒ぎすぎではないかと言われていました。マスコミが流す中国由来のPM2.5の濃度は一日平均値をさしているのか、1時間値なのか、最大値なのか平均値なのか、情報を冷静に判断してほしいと言われていました。

 

血液胎盤関門:水俣病が発生した当初、当時の医学界の常識では、血液胎盤関門は胎仔を守るためにあらゆる異物を通過させないことになっていた。故原田正純氏は、メチル水銀化合物は血液脳関門と同様に血液胎盤関門を通過し、したがってメチル水銀化合物を蓄積した魚介類を食した母親から胎盤を介して胎児の脳に広範な障害を起こすことを初めて明らかにした。

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『みちしるべ』第77号(2013年3月)の印刷終了しました

2013年03月25日 | 日記

 

  お待たせいたしました。『みちしるべ』第77号(2013年3月)の印刷が終わりました。各団体では、配布が少し先になるかもしれません。今しばらく、お待ちいただくようお願いします。

 当方、配布の分担する分は、ママチャリでの30kmコースで、印刷日(昨日)に配布してきました。出発が午後7時も過ぎていましたのしたので、もうすっかり暗く……。

 この写真は、武庫川河川敷を宝塚方面に北上しているところです。宝塚に入ると、道路と河川敷が離れているので良いのですが、西宮市内では傍を通っているので、車のヘッドライトで眩惑されて、サイクリングロードが見えなくなってしまいます。明るいうちに通過したいものです。

 でも、すっかり春で寒くもなく、冬の強い北風に向かうこともなく、まぶしくなければ快適です。これから暖かくなると、夕刻には虫の大群が飛んでおり、目や口に入るので困りますね。

 澤山輝彦画伯が、「車で通過すると見えないモノが、歩いていると気づくものです。」と言っておられます。『みちしるべ』を各団体にお届けするサイクリングでも、色々のものを発見して、面白い旅ではあります。

 これは、宝塚の裏道で遭遇した≪桃の花≫です。すっかり満開になっていました。川西の加茂地区の桃源郷も、きっと満開を迎えているのでしょうね。これも、昼間に見ると素晴らしいのですか……。

 配達も最後に近づいた芦屋で発見! 結構、いつも通っているのですが、気が付かなかったですね。昔は、郵便ポストと言えば、こんな形をしていたんですよね。

 夜も9時を過ぎていましたので、ご近所の人に聞くわけにもゆかず……。新たに設置されたものなのか? はたまた、趣があるから新しいモノに取り換えないで……、と嘆願されたものか? いずれにしても、飾りではなく、現役のようでした。

 芦屋市と言えば、「お金持ち」というイメージですね。実際のところは如何なのか知りませんが……。年末でもないのに、こんな提灯が設置してありました。なんともはや、情緒たっぷりですね。セコムの長嶋兄貴も、脱帽ってところでしょうかね。

 さて、家にたどり着いたのは、午後の10時です。あちらこちらで、写真なんか撮っているから……。郵送分が、また家に残っていました。でも、最近の郵便局は24時間稼働中なんですね。

 良いのか悪いのか? 議論はさておき、終電近くなると【ゆうゆう窓口】とやらが、行列ができるのですから、急がねば。幸い、混雑もなく、郵送をお願いしてきました。

 これで、私の『みちしるべ』第77号のお仕事は終了。えっ、まだブログ版のアップが、一部残っていました。でも、また明日のことかな……?

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『みちしるべ』パリの風景**<2013.3. Vol.77>

2013年03月24日 | パリ&東京&沖縄より

パリの風景

Yamanba.Mako.

乞食のいる街

 やたらに乞食が道端に座っている。あ、これ戦前の満州、新京と同じ、と懐かしい感じ。もっとも、東京にも戦前乞食がいたそうだが。戦後は白衣の元傷病兵がそこらじゅうに座っていたり、電車の車両を回ってきて痛ましくて嫌だったが。フランスの地下鉄もスリと同様、乞食の物乞いが車両をまわるそうだ。

 久しく見なかったなあ。しかしここには、老いも若きも男も女もすべている。若い女の乞食がいるのは、フランスだけとか聞いたが、真偽のほどは分からない。日本では乞食は軽犯罪法で禁じられているそうだから今は見かけないが、ホームレスでも若い女の子は考えられない。そのことを思うと、フランスでは若い女でも乞食にならざるを得ないというのは分かる気もする。ある意味の健全さがそこにはある。女が若くても、商品にはならないということだ。皮肉なことだが、若い女の子なら路頭に迷わずともすむ、というのはむしろ不快な現象である。大阪天王寺に老女のホームレスがいたが。いずれにせよ「若い女が路頭に迷うかどうか?」はその地の何らかの指標の一つになるのではないか。

 つい建物の写真なんか撮っていると、ケ躓きそうで道の端は歩けない。しかし、そのものの写真は撮れないから、バスの中からやってみたがブレと窓越しでは無理だった。零下10度の寒風の中に座ってるのは何とも寒いだろう、と思うけど、案外平気な顔をして「スィルヴプレ(プリーズ)」と手を出している。陽気とも言えないが、悲惨な感じがない。若い屈強な男が犬と座っているから、池袋あたりの座りんぼかと思ったら、通りかかると、やっぱり「スィルヴプレ」と手を出す。社会的な伝統からも、クリスチャンには「この世にはどうしても、自分では身すぎ世すぎができないような者が出てきてしまう、致し方のないものをみんなで支える…」的な考え方があるのだろう。ノブレス・オブリゲス(高貴な者の義務)の流れも?しかし実際に足を止めて施しをしている光景には、たまにしか出会わなかった。無論私も0.01ユーロたりとも。

不思議な郵便局

 郵便局に行くと「ボンジュール マダム」と愛想よくドアを開けてくれる中年男。郵便局にドアマン?怪訝に思って観察すると、次々こうやって、たいていの客は知らんぷりだが、中には「ボンジュール」とにこやかに返す人も。出る時もさっとドアを開けてくれるから、思わず「メルシ(サンキュー)」に「オ・ルヴォワール(グドバイ)」とにっこり。翌日も同様。しかし何となくよれよれで、職員でないことが分かってきた。第一、職員は皆制服だ。これも乞食の一種らしい。小銭を握らせる人はたまさかでも、寒い路上に座るよりは遥かに快適。外は氷も路端に転がっている、みぞれ交じりの寒風、中はホカホカ。納得した。職員も排除しないところが粋というべきか?

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『みちしるべ』街を往く(其の十三)**旧神戸移住センターを訪ねて<2013.3. Vol.77>

2013年03月24日 | 街を往く

旧神戸移住センターを訪ねて
  ブラジルへ渡った人々を想う(街を往く 其の十三)

藤井新造

  1930年3月8日。神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのように暗い。

 三ノ宮駅から山の手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装備の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な光塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚らしい細民街に連なる丘の上の是が「国立海外移民収容所」である。

 小説『蒼氓(そうぼう)』の冒頭の出だし部分である。今から約80年前の「国立海外移民収容所」、現在は、「海外移住と文化の交流センター」と名前を変更し改築され新しい建物に生まれかわっている。

 ここへ来たのは2回目である。1回目は約4年前に、この建物が「神戸移住センター」と呼ばれていた時である。同館の年表によると2008年5月に改築のため、一時神戸の深江に仮移転したことがあるが、その時である。その年の3月に近く建物が壊され新しくなると、新聞記事を見て訪ねて行った。旧い建物を見ておきたかったのだが、既に外壁は工事用のシートで覆われ、内部を覗きみることしかできなかった。前回この場所を探すため、北野通りの異人館あたりをうろうろして歩き見つけた結果、建物の中に入れず非常に残念であった。

 今回は、正月の慌ただしい日々が過ぎ、少し時間ができたので再度行くことにした。と言うのは、小説『蒼氓』を読み何時かはここへ行こうとの何年ごしかの想いの実現であった。

 それでという訳でないが、小説の方は以前は眼を通していたのみで終わっていたのを、今回はゆっくりと読む機会を与えてくれた。

 5階建のビル(?)の外壁はクリーム色で塗られ、新しいせいか非常に立派というか堂々として見える。建物の名称も変わり、それにふさわしく「関西在住のブラジル人児童を対象としたポルトガル語と日本語の学習支援を中心とした教室」を設け、色々と行事を行っているようだ。

 私が行った当日も、20人位の生徒を相手に語学の勉強をしている風景がみられた。勉強の邪魔をしてはいけないと思い、余り長居せず立ち去ったが、熱心な勉強態度は充分伝わってきた。

 今はブラジルへここを起点として移住する人はなく、この建物を「文化の交流センター」として活用しているようだ。当日1階で色々と日本人のブラジル移住についての資料の展示があった。例えば、どの県から何人ブラジルへ移住したかについて詳しく書かれていた。意外に思ったのは、広島県から2万人以上の移住者がいて、東北、信州からが思ったより少なかったことである。そのことについて館内の人に聞いてみたが、理由がわからないとの返事であった。多分、人から人への口伝えにより増えたのではないかと想像されるが……とのことを言っていた。

 次に、各国からブラジルへの移住者は(1813年より)イタリアより約151万人、ポルトガルより約146万人、日本より19万人、次にスペインより約6万人の順になっている。地球の裏に位置する日本からより、イタリア、ブラジルの宗主国のポルトガルからの移住者が多いのは距離的にいって理解できるが、他国から少ないのはどうしてであろうかとの疑問をもった。

小説『蒼氓』を生んだ時代背景は

 して、この建物は作家の石川達三が『蒼氓』を書き、1935年第1回の芥川賞を受けたことで一層有名になった。そして、小説の内容を一言で要約すると、日本よりブラジルへ移民する人々がここで移住するため、1週間宿泊・諸準備をする、まさしく移住センター(当初は「移民収容所」と呼んでいた)であった。

 国が一番心配していたことは移住者の健康状態である。今では想像もできないが、特に感染病であったトラホーム(眼の病気)については非常に気をつかっていた。戦後間もない頃には幼い子供がよくこの病気を患っていた。この病気に感染している者は移住検査をパスできない。

 このように健康チェックが第1の目的であり、その次についで、ブラジルの国の気候、習慣についての知識、初歩的な挨拶言葉を習うことであった。又、宿泊しているこの間、現地で必要な労働服を買ったり、生活に必要な日常品(鍋釜、石鹸、洗濯たらい、ゴム靴御飯杓子、亀ノ子タワシと)を購入し現地での生活が容易にできるよう準備した。

 このような宿泊所での移住者の各々の家族が過した1週間をこの小説は描いている。著者の石川達三自身がブラジル渡航を実体験しているので、それをもとに、作家の眼でフィルターにかけ作品構成をし、上莧の小説に仕上げている。

 出身地としては東北出身者達が多く登場する。第1回移住者は953人(乗船者)とある。

 さて、この作品の時代背景をある程度知っておかなければ、何故日本から多くの移住者がブラジルへ行ったのか理解できないであろう。

 そこで『昭和史』(今井清一他2名・岩波新書)を参考にして歴史を少しだけなぞっておこう。

 1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街でおこった株式の暴落をきっかけにし、全世界を恐慌に巻き込んだ。この大恐慌は勿論日本経済に大きい打撃を与えた。

 特に信州、東北地方の貧しい農民と、都会の労働者を一層生活苦に喘ぐ状態を作った。

 当時の流行語として「大学を出たけど」の映画が作られるほど、若者は職にありつけず都会失業者が街に溢れる程であった。そして都会での失業者は、再び自分の故郷へ帰るはめになった。汽車賃のない人々が街道ぞいに歩く列がつづき「東海道53次は時ならぬ賑わいを呈した」と当時の新聞は報じている。(朝日新聞)

 そして翌年1930年には冷害におそわれた東北・北海道地方の状態は悲惨だった。この地方の鉄道沿線では旅客の投げる弁当から残飯めあてにひろおうとして、子供たちが列車に集まるみじめさがみられた。弁当をもたないで学校にくる欠食児童。子女の「身売り」が、どの地方でも多数にのぼって社会問題化したという。

 だから『蒼氓』の文中のなかで、移民するなかの農民の1人に次の如く語らせている。「……何のために此処に4人からの移民が居るかっていうと、農村では食えないからだ。その食えないっての抑に(そもそも)政治家が農民百姓を馬鹿にしている。……」

 (この項、次回に続く)

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『みちしるべ』斑猫独語(54)**「山電事故から」**<2013.3. Vol.77>

2013年03月23日 | 斑猫独語

山電事故から

澤山輝彦 

 山陽電車と自動車運搬車が踏切で衝突する事故があった。(2013.2.12)踏切での事故のほとんどは踏切を渡っている側の不注意が原因である。電車が来ているのに踏切が上がったままというたちの悪い例もなくはないが少ない。

 この山陽電車事故を報道するニュースショーを見ていたら、現場中継のアナウンサーが「電車は大きく大破しています」と叫んでみいる。「馬から落ちて落馬して」という重言というやつである。我々もついやってしまうのだが、経験を積んだアナウンサーでも、現場で興奮してつい口から出てしまったのだろう、まあご愛嬌だ。同時に同じショーに出ていた評論家というのだろう女性がしたり顔で「高架になっていれば事故は防げたでしょうね」と言ったのだ。高架になれば踏切はない、踏切事故はおきないのだ。ぬけぬけと言う神経を疑った。まあニュースショーなど真剣に視る必要はないのだが、みれば視たでいろんなことにこだわってしまう。たまには「あ、ええこと言いよるなあ」という場面にであうこともある。この山陽電車事故がらみでは、トレラートラックの運転手は前方の車が赤信号で止ったため、自分の車の進む先が短くなって車体後部が踏切にはみ出してしまったと言った。この言を受けたある評論家は、前の車の後にあててでも前進すべきであった、と言ったが、その通りなのだ。法律では緊急避難は認められる。でもこういう対処の仕方を自動車乗りは簡単に決断出来ないのだろうな。車が大事なのだ。たかがしれた車でも。外国ではバンパーなんてぶつけてがちゃがちゃやるためにあるという認識を持っていて、それで割り込み駐車したりするという話を聞いたことがあるし、フランスでの実例をテレビでみたことがある。

 たかがしれた車と言えばこの頃の車デザイン悪いなあ。特にヘッドライトが大きく一体化した前照灯周辺がきらいだ。目が釣り上がったようなのが主流になっていないか。ぎすぎすした悪い顔つきをしている。丸いヘッドライトの可愛い顔の車が無くなったようだ。又、個性的なデザインもきらわれるようだ。すぐ平凡な形になってしまう。要求する者が悪いのか、与える者が悪いのか。

 誰も彼もがたかがしれたこんな車を持ち、車中心で物事を考えることが普通の時代である。当然公共交通機関の利用が減りそれは衰退していく。公共交通機関を利用していた者はもう見捨てられたようなもので、それに交通弱者という言葉を作ったりしてしまう。その為の対策を求めてもそこは少数派、大声にはならないからニュースにもならない。車社会はこんな結果を出してしまったのだ。こんな弱者を切り捨ててしまう社会はまともであるはずはない。道路問題しかり、車社会の問題しかり、それらの影の部分はずっと見続けなくてはならないのだ。

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『みちしるべ』赤い夕陽(7)**「事実は小説より…」**<2013.3. Vol.77>

2013年03月21日 | 赤い夕陽

事実は小説より…(赤い夕陽 7)

三橋雅子

 北満の、いわゆる開拓団の避難民は、どんどんぞろぞろ新京に流れてきた。1945年敗戦から数週間後だろうか。狭い日本から「広い満州の別天地へ…」と多分鉦や太鼓での「国のお勧め」で、空襲も逃れようとのいわば疎開も兼ねての渡満だったと聞く。酷寒の慣れぬ土地へ、多くは幼子を連れての暮らしは容易ではなかったはず。新京でも、密閉した室内での炭による一酸化炭素中毒の事故をずい分聞いた。二重窓に目張りをして迎える冬に、炭火には必ず小窓を開けるように、と言われて育った満州っ子には考えられないことだったが。

 新しい厳しい暮らしに慣れるまもなく、夫には赤紙、続いてソ連軍の襲撃、敗戦…と「別天地」は悲惨の地獄と化し、女子供だけの命からがらの逃走を余儀なくされた。道中、日本軍の、シベリヤへ連行されるのを免れた幸運な解除軍隊は、日本へ帰るべく列車で南下していた。こうして日本へ向かっていると思いきや、中にはおかしいおかしい、何だか変だぞ、と思ったら、いつの間にか北へ向かっていてシベリヤへ連れて行かれていた、と言う不幸な連隊も多かった。砂場徹さんがその中にいらしたのであろう。私の兄の一人は、これはシベリヤ行きだと気付いた時、列車から飛び降りて、走って走って草むらに隠れたりしながら、無我夢中で脱走してきた。一緒に逃げた仲間も、後ろからバンバン撃たれては倒れていく中、何しろ足が速かったから先頭で走っているうち気づいたら誰も周りにいなかった、と、その話はあまりしたがらなかった。仲間のことを思うとやり切れなかったのだと思う。私たちは、除隊になった兵士を乗せた列車が毎日新京駅に入ってくるのに、いつまでたっても帰ってこない兄のことは誰も口に出さず、一体どうしてしまったのだろう?と誰しもが思っていた。内地で招集された他の二人の兄たちのことはもとより何も分からない。土壇場で南方に行ってることはないだろうな、と祈るしかなかった。何しろ、これからは戦死の恐れはないのだ、というだけで、敗戦はどんなに有難かったか。

 女子供のテクの逃走組は、側を通る除隊兵の列車が止まると、どうか子供だけでも乗せて行ってやって、と懇願したが全く受け付けられなかったという。自分らは軍規でそういうことは禁じられている、とことごとく振り切った。負けてしまった今、軍規もへったくれもあるものか、とそれを無視するものは居なかったのだろうか?

 そういう列車で帰還した元日本兵の辛い思いを聞いたことがある。列車が止まるのが、一番嫌だった、側を歩く避難民たちが群がってきてどうか助けて、この子だけでも…、と必死で無蓋車の縁に手を掛けて放さない、それを一本一本指をはがして、そうしてるまにまた別の手が…それを必死で剥がした、あの指の感触がいまだにこの手に残っていて忘れられない…と。それを気の毒に思うより、そんな軍規をこの期に及んで誰のために守った?と悔しい思いが募る。関東軍の司令官など、もうとっくにスタスタ逃げて居なかったんだというのに!(関東軍が通化に移動する、と称して首都新京を離れたのは8月12日)もとより彼らは、そんな関東軍のテイタラクを知る由もなく、依然軍規が自分らに及んでいると信じていたのか?何しろ負けたことがないから?いや、軍隊だの国だのは、大義名分で「国民」を好き勝手に動員するけど、いざという肝心な時は、何も助けてはくれないシロモノなのだ、ということを肝に銘じるべきだと思う。

 彼女らの多くは赤ちゃんに死なれ、いつまでも抱いているわけにもいかず、木の根方において、土をかぶせてやることもできず行軍の後を追ったとも聞く。この時、まだ生きている、この子だけでも生き延びられるかもしれない、と一縷の望みを託すのを、見兼ねたり、頼まれた中国人が引き取って育てたのが、中国残留孤児になった。

 

 新京には連日、身も心もくたびれ果て、腑抜けのようにうつろな目をした避難民たちが流れ込んできた。一様に、頭は坊主、あるいは毛が醜く生えかけてよけい見苦しく、顔には炭を塗ったのか汚れか、はたまた梅干を張り付けて見苦しく、あくまで女であることを隠し、否定し・・・の必死の努力で、いくらかは安全な新京に辿りついたのだった。

 日本領事館の施設など、避難民が収容されているところを、両親は毎日ご飯を炊いておにぎりを届けに行った。「あんなことでは乳も出なくなって子供を死なしてしまう」と帰ってくると暗い顔でこぼしている。うちから持って行ったおにぎりを、いつも、人より遅れて取りそびれてしまう人のことを歯痒がっていたが、とうとうある日、赤ちゃんをおぶった、その女の人を連れて帰ってきた。彼女は少し伸びかかった坊主頭を手拭いで覆い、もう赤ちゃんを負ぶうのもしんどそうにやつれ果てていた。口もろくにきかないのを、私たちはそっとしておくしかなかった。やがて赤ちゃんは少しづつ丸くなり、彼女も女らしい顔を取り戻していった。それだけに梅干や、炭を擦り込んだらしいシミは痛ましかった。しかし彼女の口は相変わらず重く、最小限のことしか口をきかなかった。

 やがて避難民優先で帰国の機会が来て、彼女と赤ちゃんは腰が曲がりそうにお辞儀を繰り返して去って行った。元気で日本に辿りついてね、ご主人が先に着いてるといいわね、と道中の無事を祈り、そのいたいけな姿を涙で見送った。

 

 ところがその夜だいぶ遅くなってから、玄関に人が立った。例の彼女親子と見知らぬ男性が、おずおずといるではないか。軍服姿の男性が、じつは・・・ともじもじ事情を説明するには、新京駅で彼女親子が引き揚げ列車に乗り込むところを、ちょうど同じホームに帰還兵の列車が滑り込んで、偶然にも三人が鉢合わせしたという。除隊兵を満載した列車と女子供を乗せる引き揚げ列車・・・お互い一縷の望みを託して、目を泳がせたかもしれない。それにしても、探そうとしても見つからない雑踏の中で、考えられないことだった。とりあえず、引き揚げ列車を見送り、夫の方も隊列を離れて三人で我が家に舞い戻ってきたのだという。「子供共々死にはぐれるところを助けていただいたそうで・・・・、ついでと言っちゃあなんですが、続けてわしも一つ一緒に置いてくれるわけにはいかんものでしょうか・・・」と彼は平身低頭。両親は「偶然とはいえ、こんなめでたいことはない、帰るのが遅れたって、三人一緒に越したことはないじゃないか」と喜んで招じ入れ、彼ら一家は我が家に住みつくことになった。

 「へえー、こんなことってあるのかしらねえ」と娘たちは姦しく、上の姉が「事実は小説より奇なり」と言った。この格言を私はこの時知った。この言い回しを聞くたび、私はこの一家のことを思い出す。

 彼は良く働き、男手の少なくなったわが家は重宝した。ただ奥さんは、表情はやわらいだものの、相変わらず無口のままだった。

 

 引き揚げてきてから東京の我が家へ、彼は農作物をたくさん背負って訪ねてきた。皆元気だと、満面の笑みで語る彼に、母が「奥さんはしゃべるようになった?」と聞いた。「いやあ、一向に。」と頭をかきながら「ありゃ、わしのせいでして・・・」と事情を語ってくれた。
彼は特高だったという。当時稀代のおしゃべりだった奥さんは、井戸端会議で、いくらたしなめても夫の動向をなにやかや、しゃべってしまう。そこで、もう一切ものを言うな、ときつく言い渡して以来、ぴたりとしゃべらなくなったのだという。到底想像できない、彼女の、ぺらぺらと楽しそうにおしゃべりするキラキラした姿を思い浮かべて、これも戦争の後遺症の一つか、と思ってしまう。父は「うーん特高か・・・」と複雑な表情で腕組みをしていた。

 私はおしゃべりだと言われるたび、このことを思い出し、特高の妻にでもならない限り治らないだろうな、と諦めることにした。

   赤き陽の下に数寄なる偶然は苦労の家族に幸をもたらし

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『みちしるべ』横断車道(68)**<2013.3. Vol.77>

2013年03月21日 | 横断車道

この時期、どこの小学校でも「6年生を追出す会」をやっている。仕事柄、そのリハーサルに出くわすことが多々ある。還暦も過ぎて、校長先生でも自分より若いので、年寄りが云々することはないと思うが▼公立学校では、体育館で執り行うのであるが、さすがに全員ステージに向かうという、戦前・終戦直後の形式は無くなった。体育館の中央に卒業証書の授与をするところかあり、円周上に並ぶか、対抗して並ぶ形式が多い。花飾りや、照明。ビデオプロジェクターなど、最新設備を駆使するところもある▼しかしながら、なぜかドデカイ演台が据えてあって、それを挟んで児童と校長が向き合い、授与するようになっている。呼ばれた子は大きな声で「ハイ」と言わされている。「声が小さい!」など檄が飛ぶ。ターンポイントまで指定され、証書の持ち方まで指導されている。まるで軍隊か?▼今時、軍隊の整然とした行進を重要視するのは、北朝鮮くらいのもの。その巨大マスゲームを、素晴らしいと思う人も少数となった。「キモイ」と言う感覚すら多数派を占める。中世の軍隊の強さは、一糸乱れぬ統率だった。が、現代は多様性や、個人の工夫を重要視することとなった。劣等生であった、アインシュタインやエジソンが、偉業を成し遂げる時代となった▼小学校において、古い軍国主義の形式を模倣していては、「憲法9条をまもれ!」と叫んでみても、空々しくなるというもの判る。教育現場では、平和教育は言うが、イジメを批判するが、その体質を引きずる形式をやらせていては…▼小学校生活最後の儀式なのだから、何故、校長が一人一人の児童に声をかけて、握手するなりのスキンシップができないのか?「キミと6年間生活できてうれしかった」「大きくなって立派になったら、また来てくれよな」「すっかり中学生みたいになったね」なんて言ってやれないものか▼校長?教頭?学年主任?誰だか知らないが、「君たちは主役なのだから、きびきびした態度で感動させてくれ。みんなを泣かせてくれ!」という。主役を演じてなんになる。彼らは主人公そのものだ。彼らが感動できるように、教育者が配慮をしないで如何するのか?▼戦後の超大国の米国が財政破綻し、世界支配のレジームが壊れようとしている。米国の金魚の糞の日本も、新自由主義のやり過ぎで、経済の行き詰まりが世界で群を抜く。変わらなければ…、と言う時代に、これであるのは、悩ましい。(コラムX)

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『みちしるべ』横断車道のバックナンバーのアップを終えて

2013年03月19日 | 日記

 このところ、更新記事をアップできていませんでした。先頃までは、≪横断車道≫の過去分を毎日アップしていたのですが……。一番、記事数では多かったので、ホッとしたということですが。

 さて、すでに3月も半ばを過ぎて、『みちしるべ』の3月号(Vol.77)を発行しなければなりません。記事も何とか集まっており、パソコン入力する記事も、あと一つというところ。何とか印刷にこぎつけたいのですが……。

 年度末ということもあったり、中々仕事の合間がありません。読者のみなさん、もうしばらくお待ちください。ブログアップも、今しばらくの御猶予を!

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澤山輝彦画伯から、春の便り!

2013年03月09日 | 日記

 このところ、文字ばかりが続きました。そんなわけで、チョット息抜きを……。澤山画伯の庭に咲いた、アネモネとフキノトウです。季節はうつり往くんですね。

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2013年3月例会のご案内

2013年03月08日 | 月例会案内

阪神間道路問題ネットワーク

2013年3月例会のご案内

2013年3月23日(土)午後1時30分~3時30分

西宮勤労青少年ホーム(ぷらっとアイ) 3階 会議室B

西宮市松原町2番37号 TEL.0798-35-5286

地図⇒http://www.its-mo.com/map/addr/125038790_487252300_18/282042560000000200011/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E5%B8%82%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E7%94%BA%EF%BC%92%E2%88%92%EF%BC%93%EF%BC%97/

そろそろ梅も咲き、季節は進んでいます。世界と日本の情勢も進展し、戦後レジームの崩壊の序章を感じさせます。米国の財政破綻、日本の対米従属の無意味化。混迷を極めた時、それは歴史の変更の時代です。頭を柔軟に、変化について行きたいものです▼2月例会は欠席届が最多で、参加者も少なかったので、早目に二次会ということに。ご報告することも少ないです▼『みちしるべ』のブログ版については、1月半ばから開始して、既に1日の閲覧者の合計が5000に到達するペースです。まだ、200記事ほどのアップですので、今後の作業が大変です。《みちしるべ 阪神道路ネット》で検索して頂ければ見られます▼3月号の発行をしなければなりませんが、相変わらず原稿不足です。何か御座いましたらよろしくお願いします。『みちしるべ』表紙の事務局まで。解説付きの写真や、イラストなどもお願いします▼彼岸桜など、早咲きの桜も満開かも知れません。お時間があれば気軽にご参加を。

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