100年単位で歴史をふりかえろう
神崎 敏則
2008年のノーベル物理学賞受賞者の益川敏英さんが平和への思いを新聞やテレビで語っているのを何度か見聞きした。その中に印象に残る言葉がある。人間の歴史を10年や20年単位でみると平和や民主主義が逆行していると思えるような時がある、でも100年単位でみると着実に前進していることはまちがいない、との主旨だった。なるほど、確かにそのとおりだと思った。
義勇軍と義捐金の申し入れが相次いだ日清戦争
今から116年前の1894年に日清戦争が起こった。当時の日本人にとって、国家間の戦争の悲惨さや愚かしさはほとんど知られていなかった。佐谷眞木人著『日清戦争 国民の誕生』(講談社現代新書)によれば、「日清戦争当時の日本は異様な熱狂に覆われていた。その熱狂をもっともよく示しているのが、義勇軍運動と義捐金献納運動だ」そうだ。
義勇軍とは、民間人が私設の「軍隊」を結成し、戦争に加わろうとした人々をさす。新聞記事に見えるだけでも52の事例があると言う。旧士族の再結集が最も多く、国権派・民権派、侠客がそれに次ぐ。
また、義捐金献納運動は、より広い社会層を巻き込んでいく。1日に2千件を超える献金があったと新聞は伝えたそうだ。華族や豪農のみならず、一般庶民まで個人団体を問わず献金が集められた。
多くの著名人や言論人もまた戦争を肯定した。
福沢諭吉と勝海舟
キリスト教思想家内村鑑三は日清戦争が「義戦」であることを強く主張した。
福沢諭吉は『時事新報』を率い、開戦前に日清戦争をさして「文明開化の進歩をはかるものとその進歩を妨げんとするものとの戦い」だと主張して開戦への論陣を張った。
日清戦争が勃発すると、66社の新聞社が129名の特派員を戦地に送ったらしい。当時は、テレビはおろかラジオ放送もなく、新聞ジャーナリズムの黎明期にあり、日清戦争で新聞の発行部数を飛躍的に拡大した。
難攻不落といわれた旅順を陥落させた際に、新聞各社はこぞって華々しい勝利を記事にした。がその翌日からは、旅順でおきた一般市民への虐殺事件も複数掲載した。
しかし、当時はすでに日本軍による検閲が行われ、規模や経過などがわからない点が多いそうだ。旅順を攻撃した第二軍には、5人の外国人記者も従軍し、ニューヨークの日刊紙『ワールド』には、日本軍が占領後3日間にわたりほぼ全市民を惨殺したと報じ、世界に大きな衝撃を与えた。
福沢諭吉率いる『時事新報』は、この旅順市民への虐殺事件を伝える外国新聞に対して、「流言」であり「誤報」に過ぎず、果ては日本の急速な近代化を喜ばない外国が、「根性悪き姑が日夜新婦の過誤失策を詮索している」ようなものだと、姑の嫁いびりに喩えてまで反論を展開している。
著者は、「このとき、きちんとした事実解明と関係者の処分がなされていれば、事件はこの後の日本にとって有益な教訓になったことと思う」と解説している。
日本中が日清戦争でお祭り騒ぎのようにはしゃぎまわり、喧騒に巻き込まれているころ、日清戦争に正面切って反対の論陣を張り続けた著名人は勝海舟だ。
松浦玲著『明治の海舟とアジア』(岩波書店)によれば、「福沢諭吉の『脱亜入欧』論と対比させていえば、海舟は、アジアに踏み止まるという意見」であり、開戦後にも「この戦争は無名の師であるうえに、ロシアとイギリスを利するものだと断じ」、公言してはばからなかった。「海舟は、朝鮮出兵に反対であり、出兵の日本軍隊が清国の軍隊と衝突することに反対であり、武力を背景とした朝鮮への内政干渉に反対であり、仮に平和的でも、先輩ぶった忠告には反対であった。ただ必要なのは、アジアの国同士としての協力関係を説くことだけだと指摘」した草稿が残されている。
明治を代表する言論人として福沢諭吉の名声は高いかもしれない。しかし、今日からみれば、福沢諭吉は明治政府の庇護者であり、有能な広告塔にすぎなかったのではないか。
日清戦争が終わった翌年、風水害により渡良瀬川が氾濫し、川底に堆積していた足尾の鉱毒が広範囲に溢れ、植物はすべて枯れつくし、惨状がだれの目にも明らかとなった。現地農民は1897年に弾圧をくぐりぬけて東京へ集団陳情に押し寄せ、改めて世論を喚起した。鉱毒問題を糾弾してきた田中正造の長年の運動の山場でもあった。鉱毒問題について海舟は、銅山の「直ちに停止の外はない」と、明快この上ない。
世論に押される形で時の内務大臣が現地を視察した際、福沢諭吉は視察に反対する論説を掲げた。毒の有無など素人に分かるはずはないので、専門家の調査を待つべきだとの理由だ。被害農民の運動に横やりを入れる手法も、中身についてわざと見解を表明せずに、方法論でいちゃもんをつけた。明治の言論界の巨人は、陰湿な小技も得意なようだ。
アジアの危機は日清戦争によってもたらされた
原田敬一著『日清・日露戦争』(岩波新書)によれば、日清戦争により、清の軍事力は脆弱であることを世界に暴露して、以後、欧米列強はアジアへの侵略を再始動した。植民地台湾を確保し「大日本帝国」としてアジアに登場した日本も、アジア侵略を拡大していった。19世紀末以降のアジアの危機は、日清戦争によってもたらされたと著者は言う。
1895年10月8日、朝鮮の漢城で大事件が起きた。日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃(ミンビ)と内務大臣、女性3人を殺害した。これ以降、朝鮮では反日感情がいっそう高まった。
1895年11月に日本は台湾平定を宣言したが、その後の抵抗運動は激しく、翌12月には台湾北部の宜蘭が包囲され、翌年元旦には台北城が襲撃された。これに対し台湾総督府はあからさまな殺戮と民衆の相互監視制度という強圧的政治をしいて封殺した。
開戦後も非戦論・反戦論を主張し続けた『平民新聞』
1903年日露に緊張が高まっていく中で、強硬派の活動が目立つ一方で、日清戦争には賛成した内村鑑三は非戦論に転じ、幸徳秋水や堺利彦などが『萬朝報』に戦争反対論を積極的に執筆した。しかし、『萬朝報』としては、反戦非戦を貫くことができず、最終的には、開戦に向かって政府に協力すべきだとする宣言を発した。その夜、幸徳と堺は退社を明らかにし、内村もそれに続いた。
堺と幸徳は「平民社」を興し、11月5日週刊『平民新聞』創刊号を発行し、翌04年2月の開戦後にも非戦論・反戦論を主張し続けたが、11月の52号で発行・編集人と印刷人が軽禁固となり、新聞自体の発行も禁止処分となった。開戦後実に9ヵ月もの間、反戦・非戦の主張を続けることができた。
日清戦争時の勝海舟の孤軍奮闘に比べて、戦争反対は大きく前進した。
逮捕監禁されたのは十数万人
第二次世界大戦時には、軍からの指示で戦地に派遣させられて戦意高揚を目的にした文章を書かされた文筆家も多くいたが、弾圧のなかでも、戦争反対を貫いた作家は少なくない。その代表的な作家小林多喜二は特高に逮捕されて、畳針で体中を刺されるなどして拷問死した。
柳川瀬精著『告発 戦後の特高官僚』(日本機関紙出版センター)によれば、獄中で拷問、虐待が原因で獄死した者114人、病気で獄死した者1,503人、十数万人が捕らえられたと推定され、裁判で実刑を受けた者は5,162人にのぼると言う。弾圧の数の多さは、軍部とその軍部に引きずられた政府が、なりふり構わず戦争へ突進したことの現れであり、その動きに対して反対あるいは違和感を感じとっていた人が数知れずいたことの現れである。
戦後、曲がりなりにも憲法9条が維持されてきたことは、多くの国民が改憲反対の意思を表示していることにほかならない。
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過去の100年を振り返ると、21世紀の末には、アジアの平和を実現して、世界から核兵器を無くすことも不可能ではない、と素朴に思う。思うだけではなく、しっかりとその方向に歩みを進めていきたいものだ。その道は、勝海舟や田中正造がたどった道の延長線上にあるのではないだろうか。彼らの歩んだ道は苦難艱難難渋の連続で、修験道の険しさに近かったかかもしれない。しかし今ではその道を歩く人は比べものにならないくらいに多くて普通の人の道になっているはずだ。
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