みちのくの旅 斎藤茂吉記念館へ(3)
芦屋市 藤井新造
又、茂吉自身自作を朗読した10首のテープを聞くことができた。私は彼が母親の死に際し作った短歌を、自分の母親が死に近い時、口の中で暗唱したことが在る。
私は茂吉のように母親が死に近づいている時、彼のような歌(首題が同じと言うこと)を一首位でも作れたら自分の心も少しは救われるのでないかと、その時感じた。そしてあまり茂吉を知らない私が彼を羨ましく感じたのである。
私は母親が私に対する期待感(俗に言う立身出世の類?)を身にしみて感じながら育ったが、それがどうしても私の生き方を縛りそうに受け止め、ともすれば自分の自由な生き方が失われそうになると自覚し、一定の距離を置いて接していた。
茂吉のように、彼の母親に対するしぼ敬愛をストレートにしかも深い愛情を持って接している歌を読むと、私の心中は複雑であった。私もそうしたかったが母親に対しどうしても茂吉のように率直な気持を表現し接することができなかった。茂吉は違っていた。
中野重治は前記の「斎藤茂吉・人と作品」で少し長い引用であるが、このあたりをうまく述べている。
「……そして最後にこういうことを感じた。なんと茂吉が肉身主義者であったことだろう。なんと彼が、全く人間的に、しかしほとんど動物的に祖母にたいする、父にたいする母にたいする、兄弟にたいする肉身の愛を告白したことだろう。彼が職業上からも家にしばられていた。それは全く順当なことである。しかし彼は、同時に、生涯血縁の家にしばられていた。そうして、歌の上での温熱は全くこの方にある」と言いきっている。
しかし茂吉だけでなく、短歌型の作家には肉親、特に母親を詠んだ歌が多い。
最近では、角川春樹の獄中記(『俳句』2004年11月号)のなかでの母親を題材にした俳句がそうである。又、坪内稔典の「紅梅の咲くごと散るごと母縮む」「母死んで海の青さよつわぶきよ」「つわぶきは故郷の花、母の花」などの俳句を(「わたしとお母さん」毎日新聞10月29日 )読むと、尚更私の上記の想いを強くしたものである。
さて、一通り館内をめぐりゆったりとした広さのあるロビーの椅子に座ってガラス越しに蔵王を銚めると、さきほどの車中と同じく山は雪で煙って裾野しか見えない。
「蔵王山に雪かも降るといひしときはや斑なりというへけらずや」(『赤光』、以下同じ)「雲の中の蔵王の山は今もかもけだもの住まず石あかさ山」、そして蔵王山上歌碑「陸奥をふたわけざまに聳えたまう蔵王の山の雲の中に立つ」蔵王の神々しい全容は、残念ながら垣間見ることさえ出来なかった。この季節には山頂が積雪で覆われていても、蔵王を眺望できるだろうと予想していた私の甘い希望は実現しなかった。
展示室内は夕方近くであったせいか私たち夫婦以外には一組の中年夫妻らしき見学者しかいなく、館内を何回か自由に歩き廻ることができた。
私は密かにこの記念館で興味を抱いていた展示品について見たかったことが三つあった。一つは、茂吉が20年近く妻と別居し、この間歌を通してつきあっていた女性(世に公然化されていることであるが)がどのような扱いをうけているかであった。しかし、この件については彼女の小さな写真(A4版位のもの)のみ壁に飾ってあり、二行位の解説文のみで終わっていた。茂吉の展示館であれば、中野重治の言葉を私なりに勝手に借用すると、この女性は茂吉の人生で「確かなある位置を占めていた」筈であるが、どうもそのように思えない展示の仕方であった。まあそれも記念館の意向であれば仕方はないであろうが……。
もう一つ、戦争中の歌集『霜』『小園』他のなかで戦争賛美の歌を彼は多くつくっている。ある茂吉歌集の解説者の一人は、昭和16~20年の間に3千首以上の歌があると記述した記憶があり、私はこのことについて彼の業績のなかでの位置付けを知りたかったが(展示館でも)それらしい解説はなかった。
私には、茂吉の生涯における陰の部分(戦争賛美の歌)に意識的に触れられていないように見えたが、記念館とはそのようなものであろうか。
どうも釈然としない気持を抱き、降りしきる外の雪景色を見ながら館をあとにした。記念館の北東の少し離れた場所に建つ、島木赤彦、伊藤左千夫、茂吉歌碑の上にこんもりと雪がかぶっていた。
記念館の展示のあり方に多少の違和感を持ったが、この次は夏の季節にここに来て「響えたまう蔵王」をじっくり眺めたくなった。
そしてこの旅から帰り、中野重治の「斎藤茂吉ノート」をかなり入念に読みかえした。
この本もまた、茂吉歌集と同じく名著でないかとあらためて思った。
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