『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』私の住民運動(最終回)**<2009.9. Vol.60>

2009年09月03日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(最終回)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成11年に入って市は、工事のための迂回路を造る説明会を開くといってきた。1月9日夜、上甲子園サービスセンターに於いてである。翌10日には同じ場所で、市民の会が最終決断をせまられる住民の会を開いた。この両日、欠席を余儀なくされたある会長は、事前に「ここまで来たら、今後はいかに西宮市当局に約束したことを守らせていくかが大切であり、尚一層結束が大事。」と伝えてきました。

 1月10日、およそ50名の参加のもと、意見が出された。あくまでも「常設の観測所が欲しいが、無理であれば通年の観測でも良い。同じことだから。」「この回答はこれが最終でよい」「中身についてははっきりした言葉で協定書をつくる」などの意見がでた。

 代表から、この回答が良ければ会の名称を変更した方がよいと提案。尼崎の南北線反対の会の砂場さんから挨拶がありました。西宮市におけるかつてない住民運動、ここまで来たのはみんなの頑張りがあったからなど称えてくださった。

 最後に平成10年12月28日、市から出された回答書を受け入れることを決議した。内容の細かい部分を加えた。二車線の締め切り方、今後の対応の責任部署を明確にすること。又、この道路が今後のモデルとなるような道路にして欲しい、との意見もあった。

 平成11年1月14日付けで、西宮市へ正式に、12月28日の回答を受け入れることを伝えた。会の名称も「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」と改めることを併せて伝えた。

 その日まで、本当に一致団結してこの運動に参加して下さった地域住民の皆さんには、山手幹線ニュースでお知らせしました。ここで改めてそのニュースの全文を記載しておきたいと思います

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平成11年1月

山手幹線ニュース

 長い間のご支援ありがとうございました。

 平成3年秋以来、山手幹線拡幅・架橋事業に伴う地域の環境悪化に対して、私たち沿道住民は反対する市民の会を結成し、又地元町内会のバックアップを得ながら、西宮市当局にこの事業の中止を訴え続けてきました。平成7年10月30日より強行された測量調査を阻止し、雪降る寒い日も154日に亘るテントを張っての座り込みとパトロール、平成8年5月20日早朝の武庫川河川敷での調査阻止と、その後のパトロール。夏の暑い日も行いました。

 西宮市当局は、このような私たちの抵抗に対して、平成9年3月10日、仮処分申請を行い住民を訴えたのでした。裁判所は妨害すれば、一日30万円の罰金を市民の会と甲子園口北町町内会の2団体、それぞれに課するという決定を下しました。

 私たちはそれでも戦い続けました。同時に市当局との話し合いを続ける中で、私たちは「この事業が実施された後、この沿道の環境基準を守れる道路にする。」ということを約束するならば反対のはたを降ろすことも吝かではないので、文書で約束するよう求めてきました。しかしながら、平成10年2月9日より、市当局は仮処分決定を盾に測量調査を強行して来ました。厳寒の河川敷での座り込みにも、高齢者と婦人だけでは限界があり、事故が起こる事を懸念し、無念の涙を呑んで引きました。

 その後も、市当局とは話し合いを続け、平成10年9月28日、5,000余名の署名を西宮市長に提出しました。その内容は「山手幹線は拡幅・架橋されても、環境基準を守れる道路とすることを文書で約束してもらいたい。」というものでした。

 その結果、10月2日付けにて市当局より、第一回目の回答を得ました。市当局は初めて「環境保全目標を超えた場合は、その目標を達成できるよう速やかに対策を講じていく。」と文書で約束いたしました。

 それを基に、平成10年10月25日の市との協議の場で具体的な数値などをはっきりと盛り込むことを要求しました。平成10年10月28日付けにて、当局は住民の要求の大筋を4ページにわたり回答してきました。更に11月3日、市当局と協議し、細かい表現の訂正を求め、11月26日付けにて回答を得ました。その間、当局は河川敷のなかの橋脚の工事は、どうしても11月から着手するとし、10月31日、11月7日に工事説明会を行い、11月9日より工事着手しました。

 その後も私たちは、(1.二車線で供用する件、2.中津浜線まで低騒音舗装をこの事業と同時に行う件、3.固定の測定所を設置する件)の三点について、平成10年12月13日の当局との話し合いの席上で、再度文面の訂正を申し入れましたが、その場で即答を得ることが出来なかったため、市の最高責任者に直接申し入れることとしました。

 平成10年12月28日、市庁舎にて、市側は助役、局長、部長他、住民側は市民の会代表、各町内会長他十数名が出席し、面談しました。上記1.2.については約束し、3については固定の建物を建設し、測定所を設置することは現状では難しいが、測定の方法を考えることが出来るとし、通年測定という表現としていました。この件に関して当局は常に現況値が分かる状態であれば、ほぼ住民の方々の目的は達成されるのではないかとの見解でした。私たちもこの問題は、今後も協議を重ね、本来の要望に近いものにしていきたいと考えています。

 平成11年1月10日の集会で、平成10年12月28日の回答を受け入れることを決議するとともに、会の名称を「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」いたしました。

 この最終の回答書の内容は、西宮市が発行する「山手幹線ニュース」で沿道住民にお知らせすることを、市当局は約束しています。

 7年以上の長きに亘っての、私たちの戦いを振り返って、悔しい、空しい、残念、様々な思いがあります。又、大勢の人たちの応援をほんとうに感謝します。

 これらを簡単に報告することは誠に難しく、表現にも誤解を生む危険をも危倶しながら報告させていただきました。将来、この多くの人たちの思いがあったからといえる、山手幹線の環境になることを祈ってやみません。

 まだまだ、今後も市当局が約束したことを確実に実行されるように、新しい「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」として、尚一層結束していかなければと思います。

 今後ともご支援を、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 山手幹線拡幅・架橋に反対する市民の会よりの、最後のニュースでした。ありがとうございました。

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 その後は、具体的な工事の説明会が、定期的に持たれた。工事期間中の近隣の対策など、協定書の話し合いも随時持たれた。11年には武庫川での橋脚の工事、12年3月には山手幹線北側が完成し、13年3月には南側の車線が完成。14年5月31日、いよいよ尼崎市と西宮市が繋がり、開通式を当局は開催した。

 地元会長として、当局は何とか出席して欲しいと、何度も伝えてきましたが、私は今までの経緯から、そのような場所に出席などとんでもないと断った。市も気持は分かりますが、と住民との和解の姿を示したかったようであった。再三、出席を促してきましたが断った。

 平成11年、反対の会としての本来の事業に関しての話し合いがほぼ終了し、市当局とも正式文書も交わし決着をみたので、わたしは兼ねてからこの事業のために買収した土地が道路としては僅かしか使われずに、広い土地が残る所に、出来れば地域の人が気軽に使える建物が欲しいと思っていた。しかしながら、この運動がその事のためと誤解されるようなことであっては決してならない。全てが終わってからの交渉と考えていました。

 それは、地域で高齢者への配食ボランティアグループが、個人の家庭を提供しながら、平成6年より頑張っておられたことです。地震のときも、個人の家庭を転々として、仮説住宅にスープを配ったり、地域のお一人暮らしのところへ配ったりしておられた。

 本来、行政が配慮しなければならないことである。いつまでも個人の台所ですることでないと、強く思っていた。わたしはこの事業の完成後は、直接間接に地域の住民は被害を蒙っていくことは間違いない。ならば市に出来る最小限は、そのような場所を提供することではないか。平成11年3月に入って、初めてこの話を担当部署に伝えた。

 最初の市の答えたこうであった。道路のために買収した土地は、あくまでも道路建設の為のものであり、たとえ残ったとしても、その土地は道路であるとの解釈だというのである。道路の上に建物は建てられないとのこと。たとえ、国と市との解釈が如何であれ、地域に残る土地ではないか。市民のために有効に使うことは当然である。しかし、何回話を持って行っても、色よい返事が返ってこなかった。100か0かという返事で前に進まなかった。

 11年8月、正式に部長に伝えた。返事は上記の通り代わり映えのしないものでした。そして、どうして今頃そんな事を。最終の話し合いの中で、一緒に出されたほうが難しくなかったのに、との事。即答した。「私たちはそんな性格ではない。」と。これが出来れば、運動をやめるというような姑息な考えはない。それとこれは別の話である。行政が進めなければならない福祉のことを、市民がしているのである。この事業で迷惑を掛けるのであるのだから、少しくらいは市もいいことをしたらどうだ。こんなやり取りを繰り返しながら、平成12年12月も押し迫った頃、市当局から呼び出しがあり、町内会長、副会長と三人で行った。そして、市の計画が示されました。

 ほんとうにほっとした瞬間でした。市当局も、あんなに拒んでいた常時測定所を大儀名文にして、この小さな建物を決定したのでした。「山手幹線道路維持管理倉庫」として、一部倉庫として、また調査室として、あとは会議室として仕切ってくれることになりました。本当なら全体を会議室にして欲しいくらいですが、まずは建物が実現することを喜びたいと思いました。と同時に測定所が出来たことが大変大きなことでした。

 一年間通しての測定値が、毎年報告されています。13年11月21日より現在に至るまで、高齢者の為のお弁当を作っています。又、地域の皆さんにも必要に応じて使ってもらっています。前会長も、この建物が出来て、役員会も時間を気にしないで使えることを、本当に喜んで下さいました。小さなプレハブですが、地域の拠点として大きな存在です。

 以上で、「わたしの住民運動」の報告を終わりたいとおもいます。平成14年5月31日、山手大橋が開通してより、早や7年以上も経ってしまいました。この報告も、今までのメモや書類、記憶を辿ってのものであり、前後が入れ替わっていたり、記憶が曖昧であったりで、読んで頂いている皆さんから、「ちょっと違うでしょ?」みたいなところも多々あるかと思いますが、お許しいただきたいと思います。

 最後に、お願いです。平成20年度の環境調査報告書と一緒に、来年度に入れば二見交番所から中津浜線までの二車線の箇所の四車線工事に入りたい旨、当局から話がありましたことをお知らせします。来年の秋には、現在工事中の芦屋川での工事も終了する。そこで唯一残っている、二見~中津浜間の工事に入りたいとの事。

 皆さんも、現在の交通量の増加の現実を見て分かるように、道路が広くなればなるほど、交通量は確実に増えます。今、車が混んでいるから広げれば解消すると考えるのは間違っていることを、みんなで再度確認しておきたいと思います。現実問題として、四車線拡幅を真っ向反対することには、無理があると思いますが、今まで頑張って西宮市の山手幹線は二車線としてきました。中津浜線以西も新しく工事をしたところは、全て二車線供用です。武庫川の中心からも北町まで二車線を勝ち取りました。来年度に入れば市当局は公報にて知らせ、市民の意見を聞くと言っています。まずは事業地元のみなさん、そしてみんなで頑張りましょう!!

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あとがき

 わたしがこの地域に住み始めたのは、昭和50年でした。その頃、私の家から山手幹線に出るには、坂の上の道との表現でした。山手幹線ということも知りませんでした。

 そこは広い歩道があり、冬の星座、夏の流れ星を子供たちと眺めることが出来ました。とっても環境のいい所でした。平成3年、昭和50年から17年?が経っていたでしょうか。7月末に回覧が回ってきて、都市計画の変更による拡幅、最大限33m幅の道路になることの説明会でした。

 時を同じく、北町という住宅地の中に、パチンコ店が出店するとのこと。地域住民が反対の声を上げていました。主人はパチンコ店どころではない、この道路の問題は大変なことだ。環境が悪くなる。反対しないといけない。私は意外な思いでした。反対運動など、およそ嫌いな人だと思っていましたから。私は反対と言ってもどうして良いのやら、「誰がするねん?」。簡単に、よくもそんな事言ってくれるわ、と思いました。が、取り敢えず説明会に出席したところ、たった5人。北町からはご夫婦一組ともう一人ご夫人と私でした。何もよくわからないまま、分かったことは私以外の参加者の家の上に、道路の線が引かれていたことでした。

 ずぶの素人が、行政を相手に戦った10年近く。ほんとうにたくさんの経験をさせてもらいました。訴えられて裁判所に行くなど、個人的には絶対に行きたくない所です。

 ところが、行政を相手にしたり、弁護士に相談に行ったり、色々な局面でも、不思議にいつも気持は対等でした。ビビッてはいませんでした。そこにはいつも多くの同志のみなさんが、背中を押してくださっていたからだと思います。

 忘れられないのは、訴えられて一日60万円の罰金を取るといわれた時、お金がないから運動の鉾を収めないといけないことのないようにと、札束を届けて下さった方には驚きと感謝の気持でいっぱいでした。当然、丁重にお返し致しました。当局が積極的に出てくるときには決まって、思いがけない人たちの応援があり、集まってもくれました。

 長く続いた座り込みやパトロールにも、ローテイションを組んで、毎日毎日、当番をしました。その中には、地域の方々方だけでなく、遠く川西、芦屋、尼崎のネットワークの皆さんにも、お力を頂きました。特に武庫川河川敷での早朝の大闘争? 朝の7時に芦屋からプラカードを持って、甲子園口駅に降り立って下さったことは感謝でいっぱいでした。

 私は同じことが出来るだろうかと思えば、なお更のことでした。わたしは代表から最初に、「この運動をしたからといって、うちに何かいいことがあるとは絶対に思うな。」といわれていました。純粋に環境悪化を避けるということを、目標に戦ってきました。しかし、一人ひとりの思いは微妙に違っていたのではないかとも思います。

 山本についていけば、きっといい結果になると信じて、一緒に頑張って下さった皆さんの中には、最終的な結果が不本意だと思う方がおられたのではと思うと、心苦しい気持もあります。しかし、当初はこのような運動の専門家のような人から、手伝ってあげようかとのお話もきましたが、私たちの出来ることを自分たちで精一杯やろうと決めて、みんなで頑張りました。もちろん藤井氏はじめ、ネットワークの人たちの応援があったればこそできたのですが。

 わたしは全く間違った結果でなかったと自負しています。この長い間には、町内会の問題、初代、二代、三代の会長を天国にお見送りしなくてはならないという、とても悲しい、つらい経験もしました。いまでも長老の会長、ご高齢ではありましたが、男気のある方でした。間違いをした時も責任は全部自分にあるとおっしゃって下さいました。

 染原会長のメガホンを片手に走り回ったり、当局に食い下がっていた姿が今でも目に焼きついています。黒住会長は、一度決めたことは絶対に裏切りませんと、黙々と会長の責任を果たしてくださいました。武庫川河川敷での座り込みにも、事務所の若い方を誘って下さっている姿に、申し訳ない気持だったことも覚えています。先生は争い事が嫌いな方でしたから、きっと苦痛な毎日だったのではと、命を縮められたのではと奥様にも申し訳なく思っています。

 二度と見ることの出来ない横内氏が、悠然とタバコを燻らせていた姿や、沖さんの満面の笑顔、また、色々な場面での多くの方々のお顔がなつかしく思い出されます。

 反対運動では、よくある空中分解せずに、最後まで団結し、常に代表がガラス張りでの交渉をうたい、市当局と交渉をした結果、役所の一番嫌う文書を交わすという決着をつけることが出来ました。みんなの力で勝ち取ったのです。

 本当にありがとうございました。心から感謝しています

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『みちしるべ』私の住民運動(19)**<2009.7. Vol.59>

2009年07月03日 | 私の住民運動

私の住民運動(19)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成10年8月に入ると、詳細設計図による説明をしたいと言って来た。8月28日、29日(金、土)にした。しかしその間には、ネットワークの会も毎月場所をかえて開催した。また、北町の問題(駅前の不法駐輪)の対策をと町内会として市に要望を出したりもした。企業の所有地を借り上げて駐輪所を設置するようにとのことでした。

 説明会は8月29日、30日に変更してください。市は28、29、30日の三日間開催すると返事した。なぜか瓦木公民館で開催するという。瓦木公民館周辺の地域は架橋、拡幅事業の地元から離れている地域であり、我々の意見とは少なからず違うのである。市はそう言う人たちを集めて声高に賛成の意見を取りたいという魂胆に違いない。だんだんこっちも勘ぐりが働いてくる。スムーズに説明させるわけにいかない。

 8月16日市民の会で相談会を開いた。意見はまちまちでした。流会すべき。いや流会は意味がない。真っ向反対の意見。市長から対策の保証を取って欲しい。まだまだ十分質疑応答がなされていない。等々。

 三日間の結集を促すためにビラを作り8町会の広い範囲に配布した。チラシには今までの経過説明もした。詳細設計図で説明するということは、まだ住民が納得していないのに裁判にかけてまで住民の意思を無視し、強行に調査をし、工事を着工しようとの暴挙である。すでに寿町では二車線供用を約束していた。どうしてこの地域が四車線なのか。

 当局は案の定、住民の分断を謀ってきた。8月20日である。マンションだけの要望を聞かせて欲しい。すぐに連絡が入った。私たちはまだ団結も固く分裂していなかった。部長に「何ということをするのか」と抗議した。すぐに抗議することで市当局は勝手な動きをしても無駄だとしらせる。今後同じことをさせない為である。

 8月28、29、30日の会では連日100名を越す人たちが参加した。とにかく市に嘘の説明をさせてはならないと結集して反論した。最後の日曜日の午後の会では、もうこれ以上必要なしと説明を中止させたが一部数人は残っていた。

 8月30日の説明会で市は業者との契約はしていないと局長は答弁しました。嘘なら辞めてもらいますがいいですか。首をかけて、9月の本会議で承認を得てから契約をする。入札もしていないと。ところが9月3日仮契約をしたことがわかりました。私たちの怒りは当然です。9月7日市長に抗議に行きました。助役が出てきた。

 どうしてこのような手品のような早業が出来るのか。入札もなしで仮契約ができるとは、いわゆる世間でいう談合と解釈せざるを得ない。市民を愚弄するもはなはだしい。ますます行政への不信が募るものです。

 9月25日には議会で橋脚部分の工事予算案を承認した。私たちはどうしても納得がいかないと9月5日より各自が署名用紙を持って走り回り署名を集めた。市庁舎の前でも集めた。9月27日には皆で集まって提出時の対応を相談した。9月28日県知事には書留にて要望書を送った。今までの市当局の対応、そして私たち住民の思いを重ねて訴えた。市を指導して下さいと。

 西宮市には市長面会を求めて4695名の署名とともに「拡幅、架橋されても環境を守れる道路であると市は住民に明言されている通り、市長名で文書で確約をすること。」又「事業実施後も定期的に環境調査を行う」この二点を確約するならば、具体的な協議をもやぶさかではない。というものでした。

 10月2日には回答してきた。将来予測に対して、低騒音舗装、遮音壁の設置等で環境保全目標を守れるものである。また、整備後環境調査を実施し、報告し、目標を超えていた場合は速やかに対策を講じる。そして、いままでの説明会において説明した内容については責任を持って履行する。と約束をしてきた。

 10月4日、市民の会は近隣のマンションのホールで市当局からの回答及び経過を報告した。次回説明会の開催が10月18日に決まった。住民への徹底のため、市政ニュースで知らせるよう伝えた。

 回答書については住民と良く協議するよう部長に申し入れた。18日の説明会は小学校の体育館で行われた。しかし、内容は8月の三日間に行われた説明と変わりなかった。

 10月25日、住民との協議会を開催。市が回答してきた具体的な条件について、詰めた。二見交番以西も低騒音舗装を、二車線供用を固定する。ゼブラゾーンだけではダメだ。測定所を設置し生データを開示すること。交通量を増やさないため、大型車が通行したくないような方式を考える。環境調査方法を信頼できる会社に依頼する。その他の測定の不安など。交通規制については公安局と協議する必要がある。

 市も必死である。25日の協議に対して28日住民の要求のそれぞれの項目をほぼ呑んで回答書を届けてきた。この回答書が市長名で公式に出されるとなれば、我々も考えざるを得ないもとになる。

 10月30日、住民は集会を持った。40名が集まった。平成8年からずっと座り込みやパトロールのローテーションを組んでよくぞここまで頑張って来たと思う。暑い日、寒風の中での河川敷での座り込み、テントを張っての見張り当番等々。しかし、住民側にとってはここで白旗を揚げるのかと思うと、それぞれ思いは複雑だ。でも、現実は厳しいものがあった。市が戸別訪問をしたことで、実際には活動に参加する人が目に見えて減ったのである。

  • 「もっと参加者が増えて欲しい。」
  • 「市が環境を守るというが、本当に守ってくれるのか。」
  • 「やっぱり橋は反対だ。」
  • 「止める方法はないのか。」
  • 「公害を抑えるという一筆があれば、工事に入ってもよい。」
  • 「どのように反対すればいいのか。もう力がおよばないのかなあ。」
  • 「条件に入らないと、あきらめ?」
  • 「橋がつけば後では何も出来ないのでは。」
  • 「条件をつけても後々果たして効力はあるのか。」
  • 「責任者が変わっても効力はあるのか。」
  • 「今のままであってほしい。」
  • 「条件を勝ち取ったほうがいい。真っ向反対はもう出来ない。」
  • 「反対だ。人数を200~300集めて、」
  • 「談合がわかれば……」
  • 「新井組も斜陽だ。」
  • 「橋脚はやらせてもいいが、文書に対して反論していく。」
  • 「本工事には入らせない。人数をあつめて、パワーをみせたらどうだ。」
  • 「市が出した文書は評価するが、担保がない。」
  • 「現実に工事に対して実力行使は出来ない。」
  • 「大型車の規制を具体的に。せっかくの文書を確約させる。」
  • 「町会長の立場で参加してきたが、長期の戦いに疲れて参加者が半減してきた。これ以上体を張ってやることはもう無理ではないか。」
  • 「環境を守っていくように強く言う。」
  • 「確約がとれるまで実力行使をやるべき。」
  • 「回答(2)が問題。回答(2)は『大型車の規制は現在の交通量では必要ない。公安と今後相談する。』」
  • 「橋が完成しても貫通しないと計画の全体の完成とはいえない。」
  • 「いつまで、どんなサイクルで市と協議していくかを約束することが大事。」
  • 「条件に入るから座り込みが出来ないということはない。」
  • 「常設の測定所が出来るまで実力行使する。」
  • 「回答書を詰める。」

 このようにみんなの意見は反対はしたいけれど、過去の座り込みを再び同じように出来るかといえば、もう無理だ。との気持がおおかたでした。結論は人数が少なくなっている現実のなかでの座り込みはもっと一人ひとりの負担が増える。そのことについて確認をした。出来ないという答えが多かった。心情は複雑であった。悔しい思い。もっと反対したい思い。思いは交錯した。

 10月31日、橋脚工事の説明会が持たれた。しかし担当社の新井組の考えは甘かった。資料が不備ということで一時間あまりで流会となった。後日改めてということになった。

 11月3日、市との話し合いを持った。局長は協議内容に入りたい。先日の工事説明については11月7日に再度行うと資料のみ配布した。その日、住民は10月28日に市当局より出された内容の詰めの要求を出した。

  1. 最終的な公的な文書について市政ニュースにて告知してもらいたい。5団体だけでなく、広く市民に知らせて欲しい。局長は即答は出来ないとの返事だった。
  2. 協議していくとの表現について、はっきりとした文言にして欲しい。
  3. 右岸線の対策について。
  4. 大気の対策について。
  5. 観測所の設置について。

緑地帯の設置にいついて。などであった。

 11月5日、部長より以上の質問の回答は7日には無理であることを承知して欲しいと言ってきた。

 11月7日、橋梁橋脚工事の説明会が開催された。市道路課と新井組である。設計と手順についての説明があった。説明の間にも住民からはまだ取り掛かってもらいたくないという思いが強く、今までと同じような質問も繰り返された。川の中の工事であって、まだ山手幹線道路の本工事に入った訳ではないと思いたかったのである。具体的な質問、たとえば作業の時間は? 作業日は? 休日は? などと訊けば、「今日はそんな話訊くことない」との意見が間髪いれずに出された。

 平成10年11月26日に、11月3日の質問等に対しての回答が届いた。すでに回答されている10月28日付けのものから環境調査については常時観測所の設置を検討していくとの一文が追加されると共に大気浄化について、環境保全目標が達成されていない場合は新しい技術が実用化された段階で環境保全対策の一つとして取り組んでいく旨が追加されていた。

 この回答に対して、12月6日、住民は再度検討会を開催。次に市に要求する内容が次のようなものになった。

  1. 二見交番以西の舗装について、低騒音を事業区間の工事と同時にさせること。
  2. 観測所の設置を明言する。どこに作るのか。山手幹線供用時点で観測されている状態であること。
  3. 対応部署をはっきり明示すること。

 具体的な条件が出てきたのは事実である。とはいえ、煮詰まっていく事に複雑な思いは否めなかった。例えば住民と共生出来る全国にモデルとなるような道を市と協力(したくないが)して発想の転換をしていくのがいいのかなあ、とも思ったりします。低騒音舗装の効果はあるようだ。協議、取り組んでいくなどのあいまいな文章に不安である。協定書を市と交わす。文書の表題?

 芦屋が開通するまで2車線でというのはいかがなものか。それはだめだ。芦屋が出来れば4車線でよいということになる。

 その他 橋がついて他市と繋がると、防犯の面でも警察の管轄が違うために、犯罪が増加するのは明らかである。その対策は如何してくれるのか。道路が拡大して通過道路になれば、必ずその地域の住民が今までにない被害を蒙ることになる。このような意見が間違っていない現実が、必ず近い将来望まない結果として実証されるに違いない。

 平成10年12月13日、市当局との話し合いの場を持った。まず市民の会の代表が話し合いに先立って釘をさした。市から11月3日の話し合いでの回答が、11月26日付けできている。河川敷での工事が始まっているが、全面的に住民が工事を許したわけではない。川の中に限ってのことであり、今後の回答いかんでは実力での阻止もありうる。このことを前提に今日の話し合いに入りたいと。部長より前回と今回の回答の進歩について、概略の説明があった。住民側から今回の住民の要望として、

  1. 二車線での供用、
  2. 常時測定所の設置、
  3. 二見交番より中津浜線までの舗装については事業区間同様低騒音舗装とする、
  4. 対策の窓口(責任部署)を明らかにする。これらに付随する問題については住民との協議会にてその都度協議する。

 当日の回答は常設の測定所について、現在西宮市では国道2号線・171号線・176号線があるが、常設観測しているところは限られている。市道二車線での観測所は非常に難しく、直ちにとは無理である。事業区間以外の舗装にいついては、騒音調査を行い数値が超えていれば、舗装をする。責任窓口は道路部である。と回答した。

 しかし、住民側は11月26日の回答が最終で、今後一歩も住民の要求を積み上げられないのなら、今までの話し合いはぶち壊しであるが、持ち帰って再度回答を出す気持はあるのかと迫った。局長は前回お聞きしたことは26日に回答したというのみであった。

 12月16日、市より助役が会うといってきた。12月25日午前、28日午後のいずれかと伝えてきたので、住民たちに確認を行い12月28日に決まった。

 平成10年も押し迫った12月28日午後、住民17名の代表が市役所に、2時から面談がはじまりました。市当局からは助役、土木局長、部長、課長、係長であった。まず住民の代表は12月13日の話し合いでの席上で出した三項目について解答願いたい。

  1. 固定測定所、
  2. 二車線供用を明確化する、
  3. 事業区間以外の中津浜線まで低騒音舗装、をこの事業と工事にする。

 助役の回答は、

  1. については現在西宮市では国道に5箇所あるが、山手幹線については今の時点では無理、今後の課題としたい。無視はしていない。測定方法について、皆さんの理解を得られるような方法でやりたい。供用後は調査の回数を増やす。
  2. については二車線供用といたします。
  3. については低騒音舗装を実施します。平成12年度に実施します。

 以上のように住民の要望にたいして、常設の測定所の設置以外は環境保全目標についても、市が今までに出してきた基準の数値を守る。超えたときは対策を講じるとの一文も入れた。(現実には対策は難しいが約束をしたことは意味があると思う。)

 平成11年1月に入って、1月9日、住民が集まって10年12月28日の席上で助役が約束をしたことを報告するとともに、みんなの意見、感想を出し合った。市民の会として言い続けてきたことは、環境を守れる道路にするということを文書で約束するならばということでした。

  • 市が約束をしたからと言って理想と現実はちがう。
  • 一番の原点である、環境基準を市がクリアーするという約束を、守らせていくことが大事。
  • 前のようなことをいつまでもやっていたら笑いものになる。
  • 人が減っているのが現実であり問題です。
  • 過激にやっても、答えがでているのに、無駄です。
  • 市に対して、人をだますようなことはするな。約束は守れという。

 色々な意見のおおかたである。今後は市が約束をしたことを如何に守らせていくかが大切であり、より一層結束をしていくことが大事であるということを確認しあった。

 この夜、市の工事説明会が開催された。橋脚の工事に伴い、迂回路を作る説明であった。家屋調査を行うことや、防音壁防音シートの設置などを要望。通常の工事中の対策であった。

 平成11年1月10日、【山手幹線拡幅架橋に反対する会】として、平成3年10月結成して以来、考えもしなかった住民運動を展開してきた。この日、市民の会として重大な決断をしなければならなかった。ことここに至ったのであった。各人の思いはさまざまであることは当然でしたが、50数名が集まった。

  • 測定所、常設が無理なら、通年観測でもよい。同じことだから。
  • この回答が最終でよい。
  • 中身のことをはっきりとした言葉で協定書に盛り込む。
  • この回答がこれで良いのなら、市民の会の名称を変更した方がいい。

 ここで同席して下さっていた尼崎の砂場さん(阪神間道路問題ネットワーク代表世話人=当時)が、お言葉を下さった。今日までの住民運動、闘いを外からずっと見守って下さっていた立場から、この日の心境やいかばかりかと、私たちの心を理解し、一人ひとりの思いを代弁してくださった。ここまで結束して、ながきに渡り、時には冷静に、又、激しく市との攻防を成し遂げてきた市民の会に対して、決して負けたのではないと慰めてくださいました。

 全くの住民だけで権力に立ち向かい、行政としては絶対にしたくない文書での約束を取り付けたことは天晴れであると評価してくださった。ありがたいお言葉でした。ここで12月28日の回答書を了承するかどうかの決議がなされた。そして協定書に盛り込む内容を決めた。

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『みちしるべ』私の住民運動(18)**<2009.5. Vol.58>

2009年05月05日 | 私の住民運動

私の住民運動(18)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成10年に入り1月も末になって、市当局よりまたしてもボーリング調査を開始したい旨を伝えてきた。2月2日朝、住民たちが市に抗議に行った。2時間ねばって午後1時、助役・局長に会った。にも拘らず、道路課の課長以下が、個別訪問を始めたのである。さすが北町には来なかったが、北町を孤立させようとの意図が見えた。しかし、それぞれからすぐに報告が入ったのです。もちろん抗議をした。

 2月7日、チラシを配布し、市が9日からボーリング調査に入ると通告してきました。「9日朝8時30分、河川敷に集まってください。良識あるみなさん方の数の力で、市当局の強引な行為に断固抗議していきましょう」と訴えました。

 2月8日夜、市民の会の相談会をもった。個別訪問を受けた会長からその時の様子が話された。市の態度に腹立たしい気持はみんな持っていたが、河川敷でのパトロールのーテーションがきついなどの意見もあった。裁判所の決定は気になるが、1日30万円づつ町内会と市民の会から取るというが、どうしても納得がいかん!! とにかく1日分は支払えるから、1日は徹底して抗議し、抵抗しようと言う話になった。

 明けて9日朝7時30分、コンサルタント会社の作業員が、市と共に河川敷に到着。市民の会が発見、サイレンを鳴らして召集した。聞けば8時30分より作業をすると言う。突然飛び出して来たので8時15分までに家の用事を済ませて来てください、と連絡。変な話ですが、主婦の戦いなので………。

 作業員が8時45分から、フェンスを不規則に4枚立てようとしたが出来ない。無理やり2枚を強引にパイプでつなぐ。川べりには数枚のフェンスを、トラックを盾にしておろそうとするが、住民が迫ったので運転手が逃げて行ってしまった。そんな小競り合いを繰り返していたが、11時45分になると引き上げて行った。誰が言ったのか「昼食休戦」と。2時になって長い昼休みの末、市が到着し、約30分の攻防があったが、こう着状態が5時まで続いた。サイクルロードにはみ出して、斜めに無理に立てたフェンス。「こんなの危ないじゃないか」との抗議に、致し方なく取り払って帰って行った。

 2月10日、住民の集合があまり良くない。一箇所に座ると反対側をめくりに来る。川べりにも作業員が移動する。住民も手薄になり苦労するが、とにかく市も怪我をしてはと慎重になる。10日の夜、今日の人数を考えると、ちょっと明日が不安なので、再度地域の住民のみなさんの参加をお願いする連絡をした。明日は祝日なので男性のみなさんの参加をお願いします、と。

 ところが、連絡表で順次電話をかけていたのですが、ある法律に詳しい方に言われました。法的に決定されたことは無視出来ない。すでに書類が一人歩きしています。考えれば一日だけ抵抗しようということだった。2日経っているのである。その一言に、はたと考えさせられたのです。主だった人に相談をした。明日の座り込みを如何したらよいか。事実、このままでよいのかと皆、少なからず懸念を持っていたのでした。強行にやろうと言った勢いで、やめようとは口火を切って言い出せなかったが、皆この辺が? と思っていたようでした。話が早かったです。とにかく明日の朝は静観しようと言う事になりました。悔しい気持ではありましたが、仕方なかったのです。

 2月12日には早速、市当局へ抗議と要求の文書を出そうと、朝早くに集合して市役所に出発しました。私は電話などで少し遅れてしまいました。皆に先に行ってもらったのですが、ボーリング調査は河川敷だけでなく、我が家の前の空き地にもトラックが入ってしまいました。私は出るに出られなくて。と言うのは、作業の職員と顔を合わせたくなかったのです。あまりにも悔しくて。では、どうして外に出たか。裏のO宅に電話で事情を話し、塀の向こうに脚立をお顔いし、乗り越えて出してもらいました。

 昼ごろ市役所から帰って来たときに、思った通り若い職員が「どんなもんじゃ」と言う顔をして見せた。さすが役付きの職員は、そ知らぬふりをしていたが。市への抗議は2月9日からの強引なやり方や、ガードマンを連日配置し税金の無駄遣いであり、また多人数で住民を威圧したり、法の力を借りて市民運動を弾圧するような市の行為に対して、断固抗議するものでした。

 2月15日夜、住民の集会を開いた。11日から12日の経過報告、そして今後の活動をどのようにして行くかを話し合った。平成3年から運動をやってきて、結果として無駄になったのではないかと思われるかもしれませんが、反対があったからこそ市当局も、初めて対策の案も提示してきたのである。今後、市との話し合いにも人数が問題となる。現状の結果も、だんだんと人数が減ってしまったことが原因であると思う。

 今後について、公害調停? 抗議文を県、市に出す? 環境対策の市民としての取り組み? 運動のことを市民情報誌にのせる? 勉強会を開いて人を集める? アンケートをとる? 署名を? などなどであった。とにかく今まで市が騒音・振動・交通量の予測をしているが、それらの信憑性と守ると言う確約を取りつけるため、質問状を出そうということになりました。ただいえる事は、次回の市との話会いにどれだけの人を集められるかである。

 2月23日11時、市へ質問状を届けた。ABCテレビが来てくれました。その質問状について、私たちも勉強しないとだめだと、3月2日、F氏に頼んで勉強会を開きました。また3月10日には、市当局に現状の環境対策のないままに強引に推し進めないこと、行政が市民を訴えるなど恥ずべき行為を非難するとともに、今後このようなことのないように文書で確約することを要求しました

 つづいて3月12日、市議会に陳情書を提出した。市の強引な行為と、43号線訴訟で受任限度を超えて違法とされた、環境基準を大きく上回っていること。平成9年6月30日、道路審議会が出した中間答申に今後の道路環境政策の方向と題して、その基本的な考え方の転換、1.積極的に環境保全 2.地域社会や国民と連携を取った環境施策への転換、とにかく国民の道路行政に対する意見を広く聞き、行政に反映させるための恒常的仕組みを構築することが必要である。等云々。

 西宮市は住民の意見を聞くどころか、昨年5月には裁判の場にまで市民を引きずり出した。また、住民を個別訪問して反対運動に参加しないように促がしたり、河川敷に抗議に来た人たちの写真をとりまくる姿は、全く異様であり異常であります。さらに、職員による住民を威圧する暴言は許しがたいものです。平成9年3月、仮処分申請に続き、5月には間接強制の申し立てに対して、猛烈な世論の批判を浴びてか、市当局から話し合いの申し入れがあり、同9年6月8日より話し合いに入りました。しかし、またしても12月7日、一方的に打ち切りました。

 これらのことをふまえて、

  1. 民主主義の基本は話し合いである。関係住民と誠意をもって対話協議すること。
  2. 心豊かに暮らせる街づくりを市民参加で行うこと。
  3. 今後、このようなファッショ的な行為と、市民を弾圧するような行為を二度と繰り返さない。
  4. 市職員の権力などないはず。市民を侮辱したり、圧力をかけるようなことを二度としないこと。以上のような内容の陳情書を提出しました。

 3月13日夕方であろうか、河川敷の看板に市がビラを貼って行った。内容は3月20日までに看板を撤去するように。さもないとゴミとして処分すると言うものであった。市は何か行動をするのはいつも金曜日の午後遅くである。抗議をする余裕を与えないように、5時を過ぎると電話連絡も出来ない。自信があるなら堂々とすればよいものを。16日の月曜日、朝一番に部長に電話する。「角の立つようなことをするな」と。

 平成10年3月17日、建設常任委員会に陳情書がかけられた。午後3時、傍聴に行った。始まったのが午後6時38分だった。長時間待って、終わったのが7時10分。わずか30分あまりで終わった。結果は期待していなかったものの不採択であった。議長日く、最初からボタンのかけちがいから始まっているように思う。市民の会の人たちも反対ばかりではないと思う、などと勝手な解釈をして、とにかく対策にも誠意をつくしてやってもらいたい。市民とよく話し合って理解をえる努力を行政に望むと締めた。

 傍聴はいつもの事ながら、ただ聞いているだけなので歯がゆい思いを何度もする。担当局・部長は議員の質問にたいして、当然、建設ありきの回答ばかりである。市民側に立った回答などあり得ないのである。

 3月20日、監査請求を提出した。市当局は住民との決着のついていない、この事業の完成予想図を扱ったチラシを作り、配布したことの印刷費と配布費についてである。こんなことはいい結果が出るとは期待していない。あくまでも出来るだけ当局に抵抗したいというだけである。

 又、24日には河川敷の看板が勝手に取られていた。部長に抗議し、看板は我々のもの、返すようにと抗議した。すると、公園課が取ったのだろう。確認するとの返事。道路課がさせたのに違いない。

 4月3日午前10時より監査局にて陳述。こちらからは8人が出席し、それぞれの気持を述べた。質問をされたら答えられるのですが、一方的に話すのは結構難しかった。相手の意見が出されたら反論するのは易しいのだが。いやな気分で終わった。

 しばらくはネットワークの集まりなどで、日が過ぎていった。4月27日に2月23日提出の質問状の返事が遅すぎると、町内会長から抗議をしてもらった。すると28日、西宮市発行の山手幹線ニュース第2号を地域に個別配布した。5月に入って、会長宅に個別訪問して質問書の回答を配って回った。早速どうして勝手に市が配布するのか。いつもはまとめて会に持って来るのに、と抗議したところ、「団体名が質問書の最後にかかれていたから」と言い訳をした。どんな時も、常に市民の会の名前だけで公的な文書は出すことがないし、各会長に回答を出したことはない。勝手ないい訳である。

 そして、その後も市と局の行動には疑問を感じる。5月15日、局長・部長が会長を訪ね、「今後の話し合いの進め方」について相談に来たという。コレもおかしい。いつも窓口は市民の会の筈。「市民の会抜きで交渉するのは、おかしいではないか。」と抗議した。

 平成10年6月7日、市がニュースに出した内容の説明をするように要求し、説明会が開催された。交通量・騒音・大型車の混入率の予測について、住民側は納得出来ないといい、その予測の基礎となるデータを、市は平成6年のものをいつまでも使うのはおかしいではないかと詰め寄った。平成6年以降のデータが出ている筈なのに。全て市の説明は決め付けているのが、住民には納得できない。いつもの事ながら平行線である。

 続いて同年7月19日夜、市の説明会を持った。住民側はいつも通り質問を繰り返したが、回答は少しづつ具体的になってきた。

 1. 振動の被害が出たときは速やかに対応する。
 2. 低周波振動は起こりえない。
 3. 橋梁の継ぎ目はないのでジョイントによる振動は起こらない。

などであった。

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『みちしるべ』私の住民運動(17)**<2007.5. Vol.46>

2007年05月03日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(17)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成9年6月8日、当局と話し合いをすることになった。しかし当局は、この運動にたくさんの人たちが関わっているマンションに、ゆさぶりをかけてきた。対策の条件をマンション側から、申し入れをしょうかとの考えのあることを知らせて来た。代表として出てくれている人とも話し合ったのですが、と。

 わたしは今、沿道を分断するように条件を出したら、市を喜ばせるだけです。市民の会が分裂してきたと見て取るだろう。条件を出す局面は必ず来ます。一マンションだけで交渉するのは、どうかと思います。最終には、どのように対策をしてもらいたいか、研究をしておいてください。ということで、納得してくれました。市民の会として、あくまでも一枚岩として戦わなければならない。5月末、全国の運動団体に西宮で起こっている状況をファックスで送った。6月に入って、ぼつぼつ激励の電話や、また市長に抗議の電話をしてくれたことを知らせてくれました。ありがたいと思いました。

 議会の中でも市民を訴えたことに対して、当局もやりすぎという意見もあるようです。直接市民の会に会って、話を聞こうといわれたが、議長・副議長に会うかどうか、1日の集会で、みんなにはかった結果、5~6人で会うということになった。6月6日、議長室に連絡を入れた。10日2時に行きます。

 6月8日、3月に訴えられて以来、市当局との話し合いの場が持たれた。今回の話し合いは、市の要請で、一応代表が10名ほど各町から出て発言する。しかし、すべてこの10名で交渉をするものではないことを、最初に確認した。きちっと議事録も取ること。市側からは資料のもとに

  1. 車線幅を3.25mから3.0mとし、歩道幅を広げるとともに美装する。
  2. 交通量予測28,000台。大型車混入率7.5%で環境保全目標は守れると思っている。
  3. 環境面で、つめて話をしろというのであれば、ご意見を頂いて詳細設計の中で取り入れていきたい。

 市民の会からは、道路が整備された後、予測を上回ったときの対策。保全対策をしても予測を上回ったときに、市がどのような対策をするかということの説明、を求めた。部長は環境調査(年2回実施)との要望については、やる方向で具体的なことについては相談したい。また、道路管理者が対応できることは、やっていきたい。今の予測で、問題なのは騒音であるかと思われる。先の説明で、それは守られるとおもうが、新たな遮音壁1m~2 m。低騒音舗装もするが、それ以上の技術が開発されればそれを採用していきたい。その他のことも、積極的に提起したい。全てできることはやっていきたい。

 それに対して代表は、予定どおり建設されたとき、①調査 ②遮音壁を高くする ③低騒音舗装をし、新しい技術を取り入れる。それらをなされてなお基準を上回ったときは、何をするのか明確にしてください。現在でも守られていないのに、将来28,000台を予測していて、どうして守れるのですか。信用できない。

 それらを含めて説明しますと、OHPを使って説明があった。交番所から中津浜線までの、事業認可が出ていない区間も、同じように低騒音舗装でやりたい。

 万が一、住民がこの説明に納得したとして、文書で確約できますか。道路の管理者は永久に西宮市です。

 その他、中津浜線以西も、同じようにするのか。4車線を2車線に。28,000台の予測や大型車混入率の根拠は?などの質問が出た。

 代表は、今回の話し合いはムダではないと思うが、納得のいくものではない。住民を訴えるような行政を、信頼せよといっても無理だ。取り敢えず、約束を文章化してもらう。

 局長は、やはり調査は今年度中にしたい。話し合いも続けていくことは大事と思う。市としては真剣に取り組み、環境対策については、国の補助を得られないので、市の予算をつけてでもやろうとしている。誠意を認めて欲しい。

 代表、市はやってあげている、というスタンス。行政は市民のためにあるんです。過小評価している?この事業は沿道住民が、今後、生命を脅かすような大きな事業であるのに、局長の態度は傲慢すぎる。

 局長、今日来るにあたっては、努力してきたことを分かってほしい。ご指機の通り、真剣に誠意をもって対応させてもらった。と部長も言った。

 会長、作る立場でなく、被害をかぶる人の立場をよく考えてもらいたい。本気でやってほしい。

 市も腹を決めて持って来た回答であったと思うが、私たちには訴えられたという、憤懣はぬぐえるものではなかった。話し合いは終わった。

 6月10日2時、市民の会6名で、市議会議長、副議長、議会事務局長、次長との話し合いに臨んだ。まず議長からは、今まで再三陳情などを出されて、必ずしもみなさんの希望に沿った結果ではなかったと思われるが、現状の成り行きに対しては心配しています。今日は、ざっくばらんに聞かせて頂きたい、と切り出された。議員の中にも、今の行政のやりかたに対し、やりすぎと批判している人もおられる。今まで勉強不足であったことも否めない。なんとか、住民と行政との接点をもって、不信感を取り除き、議会に何が出来るのか。行政と一体ではないことを、ご理解願いたい。住民からは現場を見に来て欲しいとの意見もあった。

 今日の話し合いを、市議会各会派の幹事長会に伝えたい。今後に道をつけたいとの思いから、今日の会をもつことにした。今までに市が開発した4車線の道路で、2車線共用しているところもある。などの話が出た。住民側は、今までの当局のやり方に、憤懣やるかたない思いをぶつけた。とはいえ、すこしでも住民を心配してくれている人もいることがわかり、悪い気はしなかった。

 6月11日、Yさんより武庫川の尼崎側で、クレーン車が動いている。橋の下の工事が始まっている。と連絡があった。尼崎のSさんに電話すると、場所が離れすぎていて、抗議は無理とのこと。道路建設部長に電話で「せっかく話し合いをはじめたのに、川の向こうで神経を逆なでするようなことされている。どういうこっちゃ?」と抗議する。しかし「他市のすることを、西宮市からやめろとは言えない。」一本の路なのに、そんな筈はないだろう。

 6月13日昼ごろ、裁判所からの書類が届いた。決定通知だ。ボーリング調査の妨害をしてはならない。調査地内に立ち入ってはならない。それらに違反行為をしたら、一日30万円の金員を支払え、というものだ。

 翌14日、集会を持った。決定に対しては、弁護士に相談することにした。6月8日から、話し合いに入っているのに、決定通知をふりかざして、我々を威圧する気か?今後の話し合いの方法など意見がでた。

 6月15日、ネットワークの集まりがあった。各地域が抱えている問題が話し合われた。私たちの問題にも、尼崎市に抗議にいったらいいなど、真剣に考えてくれた。

 13日に裁判所から決定が届いたことで、16曰夕方、弁護士に電話で相談した。言われたことはこうである。

  • ◎裁判所は誰の味方か分かったはずだ。
  • ◎つけさせない力は、今の運動の大きさにはない。たとえ6ヵ月引き伸ばせたとしてもプラスになるのか。
  • ◎行政訴訟を起こしても、勝負は決まっている。
  • ◎広く世間に訴えて、不当性を暴くことが出来れば意味はあるが。
  • ◎権力の不当性を暴いて勝つ方法はない。
  • ◎次々繰り返していく中で、住民が増えていけば、今頑張る意味はある。しかしそうではないでしょ。
  • ◎皆さんでこれ以上出来ない。無理だ。
  • ◎自分から引かないといっても、事実ひかされているではないか。だんだん手足をもがれていることを考えよ。
  • ◎ボーリング調査を止めることはできない。
  • ◎させてやるからと条件を取る方が賢い。
  • ◎文書で約束させるとよい。資料を出させる。協議会をつくるとか。
  • ◎今後も仮処分でやってくるよ。

 何ということだ。とことんやり合いたいと思い、がんばっている住民側にとって、希望的なアドバイスは一つも無いではないか。結局は、自分達の納得いくように、市に対決していくしかないと思った。

 6月19日・6月8日の議事録が届いた。議事録の点検も結構大変である。テープを全部聴き直して、チェックするのである。文書が抜けていないか、市と住民の解釈の違い、ニュアンスの違いの確認も取りながら、最終的に市が作成した。次回の話し合いを、6月29日とし、代表10人との交渉としたい旨を伝えてきた。住民側は全体で話し合いをする。市は困る、何とか代表制で願いたいと。

 6月20付けで、尼崎市長宛に抗議の文書を届けた。西宮市の現状をわかって工事着工しているのか。

 二回目の話し合いが6月29日持たれた。

 代表はまず、前回は市の申し入れで代表でしましたが、今回は全体でしたい。今後、代表ですることもあるかもしれないが。そして、誤解のないようにして欲しいことは、条件の話に入っているのではない。一応、市の説明を聞いている状況であることを確認してください。

 参加者がそれぞれに、今まで繰り返してきた交通量、大気汚染、騒音などの懸念される問題を問い詰めた。前回、市から提示された対策についても、「新たな対策というのなら、今までの説明で環境は守られると言ってきたことは何だったのか、と疑いたくなる。いくら市が予測データを説明しても、住民にとっては安心できるものではない。平行線はつつく。話は尼崎市が工事に入っていることに対して止めさせよ、との意見が出た。しかし、尼崎市が契約してやっていることに、止めよとは言えない。各市がそれぞれにやっている。芦屋市もそうだ。局長は監査請求も出されている。話し合いを大前提でしたい。というが、住民側は話をまとめたくないのだから、まとまる筈はない。

 平成9年7月17日、道路問題ネットワークのメンバー10名で、尼崎市へ要望書を提出に行った。皆それぞれに、西宮市の住民が訴えている現状を踏まえて、尼崎市が一方的に事業に入るのはどうかと抗議した。しかし、行政は地元尼崎からの要望もあるなどと反論した。

 メンバーからも、道路づくりの専門家として、43号線裁判やHIV訴訟、ミドリ十字などの問題について、どう考えるかを聞きたい、とせまった。

 実際、西宮市と尼崎市は、お互いに行政マンとして、他市のことまで心を配るほど余裕と言うか、親切心というか、そんなものは無いんだと思った。むしろ、ただ張り合い、ライバルとしての競争心のほうが、強いのであろうとの感想であった。悪く言えば、西宮市が住民運動にてこずっている状況を、高みの見物しているというのが、当らずとも遠からずであろう。信じるのは我が同志のみ。負けへんで。

 7月22日、部長から連絡があり、次回の話し合いの日程についてであった。議事録の点検にも日数がいるし、地域の行事もあったりで、8月10日となった。形式は代表制で、との当局の要望。過去、三回の話し合いで、市に対して宿題があったので、聞かせてもらうことが多いと思う。市の言うように、代表制でも良いと個人的には思うが、最終的にみんなの意見をきかないと。部長も、やりかたは交互にしてもいいように思っているようであった。

 8月10日の話し合いに先立って、質問状を出そうと相談し、8月5日、最初から問題になってきた騒音・振動・大気汚染などの環境に対する対策や、今まで我々に職員が言い放ってきたことなど、事細かく34項目の質問と資料の要求をした。同時に、8月10日の話し合いへの結集を呼びかけるチラシを、山幹ニュースとして配布した。そのニュースには、代表的な質問も掲載した。

 8月10日は、代表10人が前の席に着き、市民の会の人たちは見守るように座った。ほとんど質問項目に市が回答するに留まった。前進はみられない。何とか新しい手はないものか、大気の調査を要求しよう。8月19日、文書で大気調査を要求した。市が言う対策で、環境が守れるのか、実際に有効なのか。現状の大気汚染の数値を知りたい。当局が、誠意をもって努力するということが、ポーズに終わることのないよう、この要求に応じてもらいたいと。

 8月24日、市民の会として、いままでの報告の集会を持った。30数名集まった。F氏より、43号線判決を山手幹線に適用させるとよい。基準より判決の方がきついので、それを適用させることは容易ではないが、住民の声の強さによるのではないか、と激励された。

 9月16日、市が大気調査要求に対する回答を持って来た。10月1日から、二週間の予定を立てている。これでやらしてもらいたとの事。また、次の話し合いの日程を、早く決めたい。前回の34項目以外にも、あれば事前に出してくださいと。大気調査は移動観測車によるもの。沿道にチラシを配布するという。取り敢えず出来ることは何でもしてもらおう。結果が出たら、今までの物と対比すればよいでしょう。とはいえ、交通量が倍以上になると予測されているのに、大気の調査が一ヵ所ではダメだと、市長に訴えた。

 10月30日、二週間の大気調査の結果が届き、住民に報告をしたいと言って来た。11月2日、報告会が持たれた。たった二週間の調査では、数値が高いとか低いとかいうことは言えない。あくまでも常時計っている瓦本支所上でのデータを、今まで使ってきたことが妥当であるかどうかを見るために、今回調査した、と当局は説明した。結果、将来の予測値も、現在、常時計っている数値と、ほぼ変わりなしとしたが、今まで計算式で出して来た数値と、実測とでは基準値を越えなくとも、計算式の数値は低いものとなっていることが分かった。素人には、専門家がややこしい式(元の数字が果たして妥当なのかどうかもわからない)ではじきだしたものを、鵜呑みに信じよといわれても、納得出来ないと言ってきたことが正しかったと言うことだ。

 12月7日、上甲子園公民館で話し合いが持たれた。部長は最初に、今回で6回目になる。話し合いは継続していくつもりではあるが、測量調査については了解願いたいと述べた。

 住民側は、事実上、工事に着手することになる調査を実施するのであれば、出来ない。当局が9年2月に出した山手幹線ニュースNo.2の、大気の将来予測値は対策後の数値としている。大気の対策なんて出来るのか。とんでもない。

 環境を守る道路を作ろうと思っている。話し合いはあいまいなまま終わった。

 12月15日、市長宛てに要求書を出した。今までの市当局の住民を軽視したやり方、話し合いで理解を求めると言いつつ、9年2月には強行調査を実施しようとした。またその後、仮処分などという、行政が市民を訴える暴挙にまで出た。そのうえ上記の山手幹線ニュースNo.2に、対策後の数値などを載せている。対策が出来ないものを出来ると載せている。このことを追求されれば、単なるミスプリだと弁解した。その上、3月の仮処分申請では、そのニュースNo.2を証拠書類として提出している。このようなことで、最大限の努力をします、信じて下さい、と言われても住民は納得出来るはずはない。12月7日の話し合いで、当局は近くボーリング調査をすることを示唆した。強引に、そのようなことをするのであれば、当局の言う話し合いは、形式的なものであり、住民との話し合いを放棄するものと思わぎるを得ません。再び、以前のような混乱した事態を、引き起こさないためにも、行政のトップとして、十分なるご賢察の上、指導願いたい、と要求した。

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『みちしるべ』私の住民運動(16)**<2006.7. Vol.42>

2006年07月04日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(16)

山幹を守る市民の会
山本すまこ

 平成9年4月1日、仮処分決定が下りたあと、市はそれを盾に強引に測量を実施してきた。私たちはなおも座り込みを続けるので、話し合いの場を持たざるを得なくなった。4月20日、話し合いがなされたが、相変わらず前向きの回答が出されないので、決裂となった。

 市当局とのかけ引きが続く。住民もいっそう緊張が続く。5月1日、再度要求書を提出した。5月の連休も過ぎた9日夕、部長・局長が揃って回答書を届けて来た。とにかく、「最大限の努力をする。」というものだった。相変わらずだなと気にもしなかった。

 あけて5月12日夕方、部長から5月9日付けの書面の回答を待っていたが、「もう次のステップに行かざるを得ない。話し合いの糸口を見出したいと思ったが。」という。

 5月13日火曜日、二時ごろA新聞の記者から電話があり、3時30分から市がレクチュアするという。市が何か企んでいる。あわてて申し入れ書を作成し、代表のチェックを受け、4時40分、局長にファックスする。記者に頼んで市のレクチュアのコピーをもらう。

 裁判所に出した申し立て書だった。間接強制申し立て書、および、不作為義務違反物除去等申し立てである。間接強制には測量を邪魔したら、一日遅れるたびに、町内会長と市民の会代表のそれぞれに、一日30万円の罰金を取るというものでした。

 夜7時30分、K会長宅に電話があって、部長・局長が新会長に挨拶をしたいと言ってきたそうです。翌14日、会長が返事した。「会うのは迷惑です。」と。

 朝10時、弁護士さんに間接強制とは?不作為義務違反?どういうことですか。「一体、何を置いているんですか?」「執行官が来れば、ものは除去出来る。人は排除できないが、邪魔をする人を警察を頼んで排除したり、逮捕もできる。」座り込みは?「邪魔をしていると見なしたら、罰金の対象となる。」不作為義務違反とは?「測量に邪魔になるものを撤去するのに、裁判所が頼んだ運送代や保管料まで請求される。」いやはや、なんちゅうこった。こんなこと黙ってられん。

 午後1時駅集合!!25人ほど集まった。1時45分、秘書室前で市長・助役をと。職員が部屋に入ってと言うが、「市長・助役が来ないなら入らない、ここで持つ。」とねばる。部長・局長が飛んできた。「二人には用はない。」2時10分、助役現れる。部屋に入って抗議する。助役は「周辺の環境にマッチした道路を、皆さんの意見を取り入れていきたい。」などとすかされた感じがした。

 3時、仮処分裁判に対する監査請求をしていたが、補正書類をCさんと届けた。

 5月16日、神戸地裁尼崎支部に電話して、一方的に申し立てをしたほうが有利なんですか?審尋はありますか?などと尋ねる。今後、反論するんでしたら、弁護士に相談してください。

 パトロール中の河川敷にトラックが入ってきたので緊張した。マラソンがあるので整備のためにきたのだった。

 弁護士さんに電話したところ、基本的に阻止することは無理。払うのか、払わないのか、どちらかを決めること。裁判所は国が相手だから、甘く見たらダメですよ。今、裁判にかけることも意味がない。ことごとくつれない返事です。

 夕方6時ごろ、監査委員会から二人が来訪し、監査請求が受理された旨の書面を届けてきた。補正のための署名11人、再度必要とのこと。一時間で全員署名して頂いた。皆の協力を感謝です。

 翌日5月17日、監査委員の議員に訊ねる。受理されたが、予想される結果は、①住民の言い分が通れば市長に支払い命令。②全面的に却下。③60日過ぎれば合議が整わず。のいずれかになるそうだ。

 5月18日、市民の会が集会した。弁護士先生から厳しいことを言われたので、どこまで座り込みを続けるかを相談した。このまま引き下がるのもしゃくなので、せめて3日から5日は座り込みをやろう。一日60万円だから 300万円をどう工面するか?会費を積み立てる?支払日をできるだけ引き伸ばして、誰か無利子で貸してくれないかな?65人くらいが、月2000円づつ貯めればどうかな?二年で返せる?みんな色々と悩む。

 仮に市当局が6日目に測量が達成できれば、住民に請求する?しないだろうか?また、執行官が今から行くと言われれば、少し時間をくれと言って、マスコミに市当局の汚いやりかたを訴える。という案など。具体的に執行官が来た時の座り方を検討。現場の看板や敷物を整理し、シートの端に2人づつ座る。執行官がどけさせるときに、少し触っても公務執行妨害などと言われたりする。住民も一度退いたら、元の場所に戻るのはむつかしいからどう座ったらいいか?

 とにかくお金を出せといわれて、止めるというのはどうかと思う。環境を守ることが、この運動の目的の筈。裁判という言葉でさっそく引いた人もでてきた。当番の時間が3時間では長いので、考えてほしい……。強制されてする運動ではない。自分が困るからすることです。できる人がすればいい。条件を出してはという意見もあったが、ひとつしかない。「環境を守れる道路とする」これしかない。 4車線でもいいが、架橋はダメということは、言ってみることは出来るが、市は架橋が最終目的である。このように皆、真剣に、そして、活発に意見が交わされた。裁判所から知らせがくるまでバトロールは休むことにしては?

 裁判所からの書類を、弁護士に相談してから、再度集まって相談することになった。明日から、裁判所からの書類が届くまで、河川敷での見張りは休止することにした。また、尼崎市のなかでは、武庫川架橋を急ぐ必要はないという声が、少しづつ出ているそうなので、阪神間道路問題ネットワークとして、5月28日、西宮市に申し入れを行ってくれることになった。

 5月19日も20日も、みんな色々と知恵を絞ってくれた。マスコミにもっと知らせて応援を、環境庁に電話してくれる人。とにかく市当局に保障してくれる文書をもらえば、などなどであった。

 5月21日10時、監査委員会に臨んだ。委員は一人の議員を含む4名、住民側は5人参加した。一番最初に私が請求するに至った理曲、住民の気持を述べた。C氏はデータを示して説明をした。10時08分から10時45分。その後、参加者全員が陳述した。11時32分終わった。相手が色々尋れてくれて、話すのはやさしいが、一方的に聞かれているだけという場合は、話しにくいものだった。終了後、サンTVの取材を受けた。「言いたいことは言いました。

 午後3時、裁判所尼崎支部より、間接強制の申し立ての書類が届いた。

  1. 西宮市が計画している事業の、ボーリング調査などの土質調査、測量業務を妨害してはならない。
  2. 前項に関係する土地に立ち入ってはならない。
  3. 債務者らは決定以後、一日につき各自(町内会長および市民の会代表の二名)30万円の金員を支払え。

というものでした。

 5月21日朝、M弁護士さんヘファックスで書類を送る。そして、神戸地裁尼崎支部にも電話で、住民に出来ることを尋ねました。保全に関しては仮処分不服申し立て、取り消し申し立て、異議申し立てができますとのこと。意見に制限はない。などと裁判所としての事務的な手続きを説明された。

 住民にとっては、晴天の霹靂である。市民を当局が訴えるなど、前代未聞の恥ずベき行為といわざるを得まい。しかしながら、書額は一人歩きを始めたのである。「罰金を支払うのはもったいないので、河川敷においてあるものを全部とり除いたほうがいいのでは?作業が出来なければ、差し押さえをしてくる可能性もあるよ。」との助言もあった。でも自分たちの手でそれはやりたくない。訴えられたから、即そうですかと引けない。住民の意地があった。

 23日、やっと忙しい弁護士さんとお話が出来た。訴えに対して、住民側としての反論を準備しておく必要がある、と。色々話していただきましたが、要は住民としては、市当局の異例な申し立てが、住民運動を抑圧している等の非難はできても、法的には反論の機会は与えられても、その後すぐに決定が出てしまう。住民が負けるということ、だと。河川敷に妨害物を置いておく意味があるのか?自分たちで取り除きなさい。あくまでも市の行為は、警察を入れる口実を作っているのだ、とも。話し合い持つように申し入れて、協力を???お金を払うのはどぶに捨てるようなものだ。さらに、話し合いをするのであれば、力で対抗しないとの意見統一をとも言われた。なんだか、気の抜ける話ばかりである。勢いよく張り合ってきた、今までの住民の気持をすっかり萎えさえられる言葉ばかりでした。とにかく29日午後、弁護士さんに会う約束をとった。

 河川敷には相変わらず、市が写真を取りに来ている。裁判にかけられたから、罰金額が高いから、との理由で運動の腰が折れてはと、山本さんの思うように出来るようにと、多額のカンパを届けて下さった方がおられました。感激しました。そのお心に元気を頂きました。もちろんお金は戴くことは出来ませんでした。みんなで頑張らないと。

 5月29日朝一番、市の部長から電話があり、会長が出たあとなので、と。「このままの状況ではいかんと思うので、三役だけでも話し合いたい。」「なにをいまさら、5月はじめに連休明けにも話し合いのたたき台をと言っておきながら、突然法的手段をとったんではないか。」住民は皆、市民から金員を取ろうとしている西宮市に、かんかんに怒っているんだ。市がその気なら、徹底的に対抗する。金を払えというならあるという人もいます。話し合いたいというなら、条件はまず、この申し立てをとりさげてからのことです。そう市長に伝えてください。

 話し合うとしても、一方でこのような申し立ての命令を盾に脅かしながらというのではダメです。とにかく今回の市の行動には、運動に関わっていない人たちまでも、汚いやり方だと非難している。謝罪をしてもらわないと、話し合えないと伝えてください。

 「今日、部長からこんな電話をもらおうとは思ってもみなかった。我々は市に対しての対応はしていくと決めている。」そして、一時間ほどして、市議会議長からの電話が入った。部長のことは知らなかったとのこと。あまりにもタイミングがよいので、申し合わせていたのかと。議会としてもこのままでいいのかと思っている。市民を追い込むような市のやり方、司法の判断に任せていいのか。議会の中にも考え方は色々あります。とにかく一度、住民の話しを直接聞きたい。「住民に相談して返事します。」と切った。

 翌5月30日午後、局長と部長が話し合いの申し入れ書を届けてきた。また、夜にはネットワーク代表より、西宮市長との話し合いを申し入れて下さった旨の連絡をいただいた。心づよく感じた。

 31日には、全国の住民運動の団体に、市の横暴なやり方に抗議していただくよう、お願いのファックスを送った。債務者として訴えられている町内会の会長(陳述書)と、市民の会代表(意見書)の二人も、それぞれの作成におおわらわでした。とにかくまわりの住民を教唆しているとの訴えに、あくまでも地域の住環境の悪化を懸念して、また、市当局の強行なやり方に強い怒りをもって、自らの思いでこの運動にやむに止まれぬ気持で自発的に参加しているのである、と。決して煽動されて参加しているのではないこと、むしろ住民が自らの意思で参加しようとすることを無視することは、住民に対しての冒涜であると考えます、とした。また、このころ裁判ざたになって来たことで、早く条件をと思う人も、ちらほら出てきました。しかしよく話し合えば解っていただけました。

 とにかく今、市当局に対して、住民が分裂している様子を見せたくはなかった。市民の会として、ひとつで市にぶつかりあっていかなければ、いつの日か交わさなければならない文書の中身が、うすっぺらなものになるだろう。

 6月1日、5月30日に受け取った、市からの話し合いの申し入れをどうするかを、市民の会で話し合った。45人ほど集まってくれた。まず市との話し合いをどのようにもつか、代表10人が発言する場について、あとは傍聴形式はどうか。というのは市が代表とだけ話したいとの意向であり、市民の会はいついかなるときも、交渉はガラス張りがモットーであったので、双方の条件がみたされているのでは。代表の発言については事前に言ってもらいたいことは伝えておけばよいのでは。そして、議会代表との面会についても、参加可能な代表が、5~6人で行くことになった。

 現在までに、すでに市長室に抗議の電話をかけてもらった人もいます。テレビ局にも「訴えられる住民」と題して送る。他のマスコミにも意見書など送る。

 6月2日朝、部長に話し合いの内容について電話をする。ただし、仮処分の決定をもって、圧力をかけながらの話し合いならやりません。今までにない話し合いにしたい。「環境基準を守る道路に……ついて」詰めたい、と伝えた。

 2時、尼崎支部(裁判所)に会長たちの意見書を提出に行く。6月5日、朝から堺大和川線の代表の方から、電話で激励をもらった。6月6日、議長さんほかの方たちとの面会は、6月10日2時と決まった。また、市当局との話し合いも、6月8日7時、上甲子園サービスセンターでと決まった。

 市にとっても、住民にとっても、瀬戸際の鬩ぎ合いであります。いかがなりますか。

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『みちしるべ』私の住民運動(15)**<2004.11. Vol.32>

2006年01月12日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(15)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成9年4月1日、仮処分の命令が下りたことで、当局はそれを盾に強引に14日と15日の両日、測量を再開した。ところが住民との衝突が続き4月20日、市当局との話し合いが再開されることになった。まず、市局長は、これまでの経緯をふまえて、今日はみのりのある会としたいといい、住民側の地域代表は、道路事業が推進されれば、100%住民がかぶらなければならないと主張した。その住民の財産・人命に、市当局立ち入ってくるのであるから、住民の納得しないのは当然のことである、と。また、市民の会代表は、今までの市との話し合いを棚上げしておきたい、まずは市当局は住民の信頼を回復すべきである。と始めた。

 当局にたいして、環境調査の結果をふまえて、受忍限度を超えている事実を、市はどのように考えているか。現況値でないものを、それであると説明してきた。今後も守られる道路であると言い続けてきた。結果的には、住民を騙してきたことになる。間違いについては、まずきちっと謝罪してもらいたい。この点を確認してから、説明にはいってもらいたい。市の部長は、今日の開催は市の条件をのんで戴いたと理解していると述べ、環境値に関しても、4車線でも守っていく努力をするとした。数値に関しては、最新のデータが平成2年のものであったのであり、うそをついたり騙したりしたつもりはないと弁明した。適切でなかったことも事実とし、誤解を招いたことについては、部長が詫び、局長も現況値でなかったのに現況値としたことを謝罪した。

 住民側も、大気の汚染については、本当に対策ができるのであろうかと懸念する意見が多かった。予測した数値が守れなかったときは、具体的に対策の保証を書面で約束できるのかどうかと詰め寄った。市長名で住民に説明した通り、環境基準を守れる道路とすると文書にしてもらいたい。と同時に、大気汚染の調査を常時してほしい。しかし、文書で守るとは言えない。なぜ?その理由は?守るように努力します。このやりとりが繰り返された。しまいには、山幹沿道の大気汚染では死にません。とまで当局は言った。

 当局は住民の理解を得て、この事業を進めて行きたいと繰り返し言ってきたが、住民の不安をなにも理解していないと強く感じた。これで信頼せよとは無理な話である。住民は山幹の拡幅がダメだというのでなく、あくまでも環境が現状のまま守られれば問題はない。反対する必要もないのだ。これに尽きるのである。それを文書で約束せよと言っても出来ないというのなら、反対するしかないではないか。

 仮処分決定後、4月14日と15日の二日間の武庫川河川敷での攻防を経て、話し合いのテーブルについたものの、これでは解決の糸口も見いだせない。

 4月16日には、話し合いは19日と20日だけとし、21日より測量を再開するとの文書を持って来ていたので、住民も気が抜けない。さっそく、翌日より河川敷に座り込みです。

 翌4月21日、昼前に市当局が河川敷にやってきて、フェンスを3枚、サイクリングロードにはみ出した状態で立てて帰った。職員二人をのこして、午後3時すぎ部長以下ご一行様がやって来た。住民とにらみ合いをし、フェンスを持ち帰れと。夕方には危ないからと、はみ出した一枚をトラックに戻した。午後6時、残りの二枚も持って帰るように迫ったが、そのうちに、ガードマンが二人やってきたのである。どこまで無駄遣いするのかと、腹がたった。結局、30分後、住民がトラックを取り囲んで帰さないと言うと、全部持ち帰った。4月22日11時ごろ、課長以下がやって来た。4月15日、4枚立てたフェンスが倒されていた件については、再度現状にもどすことを了解した。しかし、ガードマンをつけるような、無駄なことはさせないことと、課長に署名させた。

 4月23日午後、道路課に監査がはいっていることをつかんだ。午前の当番は帰ってもらった。一部の留守番の人だけにお願いし、午後情報公開の書面を行政課に取りに行った。市の立てたフェンスに、われわれはすかさず反対の看板を吊るしていた。3時すぎにそれを市職員が取り外し、かわりに赤札で立ち入り禁上を張り付けて行った。住民は毎日、9時には河川敷に出勤です。24日朝9時に職員3名と、トーニチコンサルタントの社員7名がやってきた。私たちは仕事も無い、ただぽつねんと立たせているだけのために、若い社長を連れてくるなと抗議した。仕事の意欲をなくさせるようなことをやめよ!一時間ほどで帰って行った。午後は職員二人が見回りにきた。夕方、局長に電話し、市は何を考えているのか。「いつまでも出来ないので、皆さんのいない時、出来る時にやりたいと思っている。」「仮処分を取っているのに、早朝や夜にやる気ですか?」「仮処分を取っても、やらせてもらえないじゃないですか。」「無茶なことをして事故が起これば局長の責任ですよ。議事録の回答はどうなっているんですか?市長印の件は?」

 いよいよ、夜にも来るかもしれないので、夜を徹して見張る準備をする。近くの県の工事現場から、材木をもらう。Sさんからドラム缶も借りた。3時ごろ、土手の車から、写真を撮って走り去るのを確認した。夜11時半、担当課に電話を入れた。もちろん間違い電話として。係長がいた???

 25日朝10時半ごろ、課長以下3名がやってきた。川辺りの囲いの中のものを出したり、30分ほど作業をしていた。住民は「話し合いは?」。質問するも答えずに帰ろうとしたので、皆で車の前に集まったら、3人は車を放って帰った。しばらくして、別の車から、迎えの車であろう、写真を撮りながら走り去った。みんなで笑った。なんてことだ。課長以下だよ?市は証拠写真を作るために、意図的にしているのかも知れませんが、おばさんたちのはったりの言葉に、反応が良すぎるではないか。夕方、音沙汰がないので電話をし、車をとりにこないのかと聞くと、「返してくれますか?」「えっ」「誰が車を置いていけと言ったのか?勝手に置いて行ったんじゃないか?」しばらくして、職員が取りに来た。途中、近くので二人が待っていて、乗り込んでいた。この夜は、男性4人が朝まで見張りをして下さった。

 4月26日土曜日、いつもなら土曜日は、当局はきっちり休んでいた。ところが調査開始を、土曜日も含めてするとの記者の情報があったので、いつも通り当番の人が8時から集まっていた。8時30分、偵察の電話を入れた。誰も出ない。一時間後の電話では、職員が揃って出勤している様子。だが、誰がどこに行っているのかわからないと、とぼけていた。そんな筈はない。休日出勤をしているのに、なにをしているのか分からない筈はない。昼すぎ、パトロールしていた人が、K職員らしき人がマンションの陰からビデオ撮影しているのを発見した。名前を呼んだところ、走って逃げたという。公安も二人きていた。5時、当番のかたずけをしていたら、植木屋さんが車で薪を運んで来てくださった。住民の一人に頼まれたのでと。いろんな人達が応援して下さっていることに、ほんとうに感謝です。

 27日日曜日にも、午前午後のパトロール当番が決められた。C氏と武庫地区会館でのネットワークの月例会に参加し、運動の現状を報告した。

 28日は雨、こんな天気では来ないであろう。28日以降のパトロール当番表を作る。

 朝から局長に電話をしたり、部長に電話をして、様子を伺った。9時には、再度公安と見受けられる男性が二人、車で河川敷に現れた。最後の当番は6時30分ごろまでいた。6時50分ごろ、市が来ているようですとの知らせをもらって、すぐスピーカーを持って飛び出した。信号を渡り階段を下りながら、マイクで「何をしているんですか?」と叫んだ。パーッとフラッシュが光り、河川敷にいた4~5人が、蜘蛛の子を散らすように逃げ出して車に乗った。3台の車でやって来ていた。叫びながら河川敷に下りた時、二人の職員が車に乗り遅れていた。車の前に立つと、鍵をかけて前の車に向かって逃げ出した。前の車がドアを開けて待っていて、2台の車で立ち去った。98番の車を放っていった。住民たちも徐々に集まってきた。新聞記者も来てくれた。住民たちは市の姑息なやり方に憤慨し、撤収作業をして帰った。市が放って行った車は、夜の12時ごろには、まだあったそうでしたが、15分ほどして再度行ってみると、無くなっていたそうでした。

 みんなの意識もすごいものだと思いました。29日は祝日ですが、朝も早い人は5時から河川敷に行って、見回って下さっているのですから。あちこちから情報がはいります。午後2時ごろ、課長がうろついています。例の車があります。どうやら夜中に、98番の車を場所移動だけして帰ったようでした。課長に「きのうは逃げたでしょ?」と言うと「山本さん、これはえらいことになりますよ」と脅すような発言をしながら、どこかに合図をするようなしないような態度。写真を撮って帰ると言い、数人の住民と話して帰ったようだ。話の中で、住民は敵だなという言葉もあったとか。夜は10時ころまで見回ったが、異常なしで、長い一日が終わった。

 4月30日木曜日は雨、朝8時30分、住民たちが集合した。そしてこの数日の出来事を報告した。地域外のMさん、Fさんも来てくださった。あといつもの通り当番する。夕方になって局長、部長が揃って、4月14・15日の作業が住民に阻止された件と、28日、住民がフェンスを撤去した件について、抗議の文書を届けに来た。明日も待っています。と言うと、それなりの時間に来ます、と。7時ごろ、Kさんから河川敷に来ていると、連絡が入った。すぐに50人くらい集まってきてくれた。課長も来ていた。こんな暗がりで何ができるか?説明を求めると、明日の作業の下見という。住民が資材を持ち去ったなどと考えたのだろうか。

 平成9年5月1日、昨日の市からの文書に対する回答のこともあり、8時集合です。要求書を作って、すぐに市当局の秘書課に行き、市長にと渡した。その後、道路課へ行き、局長・部長に会い抗議する。記者クラブにも立ち寄り、状況を説明した。午後から河川敷をパトロールしていると、4時すぎ、課長以下7名の職員がやって来た。何をするのかと思えば、フェンスを張った四角に杭を打ちたいとのこと。みんなダメだと打たせなからた。すると辺りの柵を補強しただけ。柵のなかにみんな入っていたので、「出さないで話し合おう」とみんなが言った。中の職員はびっくりしたようだ。一人が柵を飛び越えて出た。K係長が続いたが、川辺りにころがり落ちた。いざこざがしばらく続く。三人目が続こうとしたが、押し返されて中にひっくりかえった。なんだか滑稽に思えた。「もうやめなさい」と止めた。その夜はたき火をしながら、11時20分解散。遅くまで残業ご苦労様でした。

 5月2日(金曜日)いつも通り当番、今日は監査請求を出す書類に署名をとる。監査請求は、3月10日、市が仮処分を出した件に対するもの。これに関わる費用は市民を訴えるために、市の税金を使うことは認められないと。市長措置請求書と正式には言うそうです。

 9時すぎに部長に電話する。明日から連休に入るので、これ以上、エスカレートすると危険だから、冷却期間をおかないと、と牽制する。とくに課長を来させないように。先日、座り込みをしていた時に、外国人が通りかかり、何をしているのか尋ねられたので、Cさんと英語での看板を4枚作った。1時30分ごろ、留守番電話が入っていたので、部長に電話を入れる。「市に来てくれないか」と言う。「一人で無理なら、だれかと一緒に」「裏交渉は皆に袋だたきに会います」「回答書をもらって、皆と相談の結果代表と話すのなら、出来るかも」「それなら決裂です。4月30日の申し入れの通りやらなければ。」「それは脅迫ですか」とのやりとりで終わった。

 その夜も、7時50分芦屋から来て下さっていたMさんに、どうぞ帰って下さい、今まで来ないのは、たとえ来てもポーズだけですから、と言って引き上げようとしていた。そんなところに、またしても課長ほか一人がやってきた。住民はぴりぴりしていた。サイレンを鳴らすと、すぐに50人位集まった。市当局は写真だけ撮って帰った。今思えば、このあと起こることのための準備はを、市はしていたんだ。むしろ住民の気持をかりたてて、市の都合のいい絵になる写真を作っていたんだ。部長の電話も、部長独断かどうかわからないが、ひざ詰めの話があったのかどうか。今となっては、その真意はわかりませんが……。

 5月3日からの連体の間は、気がついた人が見回りをすることにして解散した。

 平成9年5月6日、連体の三日間変化なし。テントを設置する。午後Cさんと監査委員会へ申請する。書類の点検後、提出する。記者クラブにコピーを渡しに立ち寄る。河川敷で、先日自分で転んだ道路課の職員に出会い、Cさんが「転んだそうですね」と言うと、「引き倒されたんです」と。よく言うね、うそを。この日、9時20分解散した。家に帰って、9時30分、道路課に電話すると職員がいた。なにをやっているんだ。こんな時間まで。

 5月7日、河川敷に県の職員ら数人が来る。25日に市のマラソン大会があるので、その下見とのこと。立看板など危ないものをサイクルロードから、はみださないようにとのことでした。夜は雨がひどく当番もなかった。

 翌8日も雨がひどく、早々にパトロールを引き上げた。ところが4時すぎに、市がやって来た。課長以下5人が、それぞれにポールを持って、住民が立てた看板やシートをパチパチと写真を撮った。5月1日に出した要求書、4月20日の話し合いの席上で要求した「文書で環境基準を守る道路とすることの約束」の回答は、どうなっているのかと言った。「今稟議をまわしているところである」と言い帰って行った。

 夜10時過ぎて、隣からサイレンが鳴っているんでは?と、飛び出して行くと、何人かがやはり出てくれていた。河原には人影もなく、いつも置かせてもらっている場所にマイクがあった。どうやら消防自動車のサイレンであったようだ。みんなこれほど、ぴりぴり神経がとがっていた。

 9日(金)、久しぶりのお天気。朝から、貰った看板用の板、にペンキを塗る作業をした。午後、監査請求の訂正や追加があるのでと、委員会から二人が来られた。

 夕方、部長・局長揃って、5月1日付けの要求書に対する回答を持って来た。内容は「最大限の努力をする」にとどまる簡単な文面であった。市当局との信頼関係が出来ていない住民にとっては、信頼出来る回答とは、とうてい言えないものでした。翌土曜日も日曜日も、変わりはなかった。

 5月12日月曜日には、昼前に、また公安三人現れた。何のつもり?6時40分、部長より電話があり、「9日に持って行った文書に対する返事を待っていたのに……。次のステップに行かざるを得ない。話し合いの糸口を見つけたいと思ったが。」と言った。連休前の部長からの電話とも思いあわせ、今になって思う。行政と住民の摩擦をこれ以上避ける方法はないかと、当局の中でも心を痛めたいた人が、何人かでもいたのだろうか。などと、ふとセンチな思いもしている。

 当時は、たとえ読み取れたとしても、受け入れられる状況ではなかった。

 いよいよ、住民が想像もしていなかった方向へ、当局がなりふり構わぬ手段に出たのであった。

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『みちしるべ』私の住民運動(14)**<2004.9. Vol.30>

2006年01月11日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(14)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成9年2月18日、市当局が各町の会長宅を訪問し、会長が本当に強い反対の意志があるかどうか聞きに回っていた。頭にきた。すぐに確認をとったところ、「市は来ていない」と言ったり、署名はしぶしぶ貰えても、市がくれば「私はどっちでもいいんだ」と思わせる口ぶりで対応する会長もいた。それをどこまで、市民の会の強さで、市に利用させないかであった。とにかく河川敷のニヵ所だけ測量をしたいと、市も必死であった。2月14日に、市が出した文書の件で、局長に抗議した。局長は住民の皆さんと話し合いで決める。市が一度出した文書を、引くわけにはいかないと言う意味だろうか、住民側から再度文書を下さいとのことでした。

 その文書を出した同じ日に、職員が各会長を訪問していたのである。新聞各社も、市の動きの情報をくれた。記者は局長と部長を呼んで、測量の日程は必ず事前に知らせるとの確認をとったと、知らせてくれた。そんな張り詰めた空気のなか、27日、下水道の台帳づくりとかいって、北町のわれわれの一角を測量にやってきたのである。即抗議した。「こんなときに紛らわしい、住民の気持ちを逆なでするようなことをするな。いつでもテントを張ってまっている。」と。

 27日、すぐこのことをチランを作って配布した。みんなで不審な人には、必ず西宮市の仕事かどうかを確認しようと訴えた。チラシを見ました、どうしたらいいですか。皆、緊張していた。翌28日付け山幹ニュース、藤井さんが立派なのを作ってくれました。また、3月5日、市当局が調査、測量を強行しようとしている旨の、チラシをつくり配布した。県の土木局が河川敷で、護岸工事のための説明会を開き、測量をすると言った。そんなややこしいことを、なんで今すんの?と思った。3月6日、県土木事務所所長あてに、申し入れを提出した。西宮市と住民との現状を理解頂き、西宮市が行う調査と県の調査が、同時に行われるようなことがないよう。調整を、是非、宜しくお願いしたい。護岸工事の説明会対象とした町内、熊野町会長と北町会長代行の名前で、申し入れをした。あわただしい毎日でした。

 3月10日朝一番に、市長宛ファックスを送った。市が誠実に対応すると言いながら、守っていないことを抗議するとともに、今後も話し合いで解決するよう申し入れた。河川敷での座り込みは続いていた。ところが昼すぎの12時55分、Y課長から電話で「神戸地裁尼崎支部へ、仮処分申請の手続きを今朝しました。」と言ってきた。「なに!!」という気持でした。行政が市民を訴える?いよいよ手こずってしまったのか。卑法者が!!マスコミもどうするんですか。と聞いてきた。私は記者にこういう場合、だいたいどのように進んでいくのか訊ねた。多分、決定は3月中に出て、4月実施じゃないかな。しかし、こんなことをする市当局は、投げ出した形であり、第三者の意見をバックに、強く出ようという魂胆であろう、とのこと。ある意味では、私たちは素人で戦って、勝っていると言えるんだ???

 翌11日朝、神戸地裁尼崎支部に、西宮市から訴えられた者ですがと、住民側としてどうしたらよいのか、いろいろ質問した。これは審尋事件というらしい。担当は保全課だといい、傍聴など出来るかと訊ねると、すべて裁判官の判断とのことだった。無駄な願いかもしれないが、いい裁判官に当たるといいと思った。会長と何度も尼崎支部に足をはこんだ。さっそくネットワークの藤井さんに相談し、裁判には弁護士が要る。どなたか相談にのって頂ける先生を紹介してもらえないでしょうか。43号線の裁判に関わっておられた先生に、聞いてあげようと言っていただきました。そして忙しい中、3月14日夕方5時に、面会して頂ける予約を取り付けたのでした。

 市が出した仮処分の書面のコピーが、裁判所から送られて来た。平成9年(ヨ)第四十号土質調査等調査妨害禁止等仮処分命令申立事件について、市が提出した資料各号を送るというもの。審尋期日通知書、3月18日午前十時に出頭するようにとのものでした。また、その日までに市の申立に対する意見、申立の理由に対する認否、その他言い分を答弁書として提出するようにというのでした。もし提出しなかったり、出頭しなかったら、全く意見を聞くことなく、仮処分命令を発するというのでした。

 3月12日、市民の会を開き状況説明をし、今後どう対応して行けばよいか相談した。弁護士を頼んで、受けて立つしかない。これはこれで置いておいて、次頑張ろうということにはならないだろう、との意見がでた。とにかく受けなければ、すべて終わってしまう。口惜しすぎる。皆、同じ思いでした。

 ネットワークの砂場さんや藤井さんにも、激励していただいた。理不尽な行政のやり方には、従わないんだと頑張ってほしいと。相談の結果、将来的には許容範囲の条件を一方に置きながら、真っ向から取り組んでいくことになった。さあ大変です。14日の弁護士面会までに、今までの何年分かの闘争のいきさつを、約一時間で説明し、解って頂かないといけないのだから。書類や新聞のコピーも作らないと。14曰当日、5人で弁護士事務所に行った。

 本当に忙しい中、二人の若い弁護士さんが聞いて下さった。その帰り、頼りにしている一人は、24日から一週間ほどフランスに行くという。黒住(新)会長は3月28日、東京で表彰を受ける予定で、それまで東京に行ったり来たりの、忙しい時でした。あとから思えば市民の会にとって、大変な時期だったので、黒住先生のお祝い会も開かずに失礼なことをしたと後悔しました。ネパールの王様から勲章を頂いたり、国から表彰されたりの先生が、河川敷に座り込みを黙々として下さっていたのでした。

 3月16日午後、市民の会の主要な人達で、18日の答弁の方向の打ち合わせと確認をした。夜Sさんのマンションで、約40人が集まり経過報告をし、18日には出来るだけ多くの人が傍聴しようと、駅に朝9時集合を約束した。弁護士は頼むことに決めた。

 3月17日、前日でもあり、マスコミから電話もかかった。記者は行政として恥ずかしい行為である。また裁判所も、市民相手に判断は下したくない筈だ。当局は警察を入れるお墨付きをとるつもりかも知れないが、現実には無理だ。などと脅かしているのか、慰めているのか解らないことを話してくれた。裁判だろうと警察だろうと、何でもやってくれ!!という気になった。

 3月18日朝、神戸地方裁判所尼崎支部には、市民の会30人、市当局はI部長とK技師が、二人の弁護士を連れて来ていた。市民を訴えたことが原因なのか、裁判所という場所に緊張しているのかわからないが、市の二人の表情は強ばっていた。

 最初に裁判官は、本来は書面で意見をもらうのですが、事件の性質上、直接聞いた方がいいと思い、この審尋を開いたと言った。町内会の代表は委任状を提出し、市民の会代表が一人で、裁判官に答弁した。結論は、事前にみんなで相談した通り、事業が実施されても環境が守られるのであれば、またそれが受忍範囲を越えなければ反対運動をする必要はありません。と言い切った。裁判官は同じ内容を繰り返して確認した。傍聴をしているのですが、どうして裁判官があんなに小さい声なのか。不満だった。

 35分くらいで、傍聴者は退出と言われた。しばらくして、市側の4人も出てきた。市とは次の日程を打ち合わせただけだったそうだ。最後に残った市民の会代表に、裁判官は「妥協できるところはあるか」とたずねた。答えは「ありません」。次回の審尋は、代理人の弁護士が書面でするということでした。

 3月19日朝8時40分、いままで通リテントを出しにTさんが来て下さった。昨日のことがあった後なのに、「早速、変わらずに来て下さり感謝!」とノートに書く。みんなに守られていることを実感した。提出しなければならない陳述書につける、裏付けの書類を用意するのにおおわらわでした。と同時に、弁護士との面談の打ち合わせを、代表で夜中まで行った。

 3月21日午後、弁護士事務所を訪ねて、25日の裁判のための打ち合わせをした。その時、弁護士から個人の思いの陳述書も提出できると言われた。即、書いて提出します、と返事。10名が書いた。前日の24日5時までに、裁判所に持って行った。

 3月25日、当日は代理人同士だけで始められた。10名の陳述書は、今日、初めて出されたので、相手の弁護士に目を通すように言われた。それでも前回と同じように、時間で傍聴者23名は外に出るように言われた。最後にこの事件については、これ以上の審理はしないと通告した。外に出て弁護士は、私たちに裁判所は和解をしないかと言っている。どうするかと問かれた。裁判所はいま、この事業の測量そのものがいいのか悪いのかいえない。測量することがダメという根拠がない。と言ったそうである。仮処分というのは、急いでいるから申請される裁判なので、今日中に判断するだろう、と。

 市側は、判決を町内会と市民の会、両方に出してほしいと要求したそうな。弁護士は和解を受け入れて、条件を主張していったらどうかと助言してくれましたが???傍聴した人達でも意見は別れた。私は市の言い分を、一方的に受け入れて行われた裁判だと思った。この裁判に疑問があったし、こんなことまでした市は、裁判に勝ったかもしれないが、住民のパワーには負けているのだと思った。弁護士の助言は、受け入れられないと思った。

 今回の裁判で、市が提出した書類により、平成8年5月20日の河川敷での大騒動の時に、住民を挑発して隠しマイクで文言を録音し、写真を撮っていたことがわかった。裁判を予定して、準備していたのである。3月25日、裁判所から帰ってきて、私たちはもう一度、運動のやり方を相談した。抗議のチラシもつくることにした。もちろんテントの見張りも継続。突然、個人の土地を測量に来たときは、細かく確認をとるように対応を決め、地権者にマニュアルを配布することに決めた。また運動に新しく参加してくれる人を、どうして増やすかも相談した。

 マスコミが多く来て、カメラを向けられると抵抗を感じる人達もあるので、被り物を作ることにした。早速、生地を調達してくれる人、縫ってくれる人が決まった。すごいと思った。考えたことが、すぐに形になるのですから。みんなパワーがあります。桜梅桃梨(おうばいとうり)という言葉がありますが、まさしくそれぞれの才能を発揮してくれていました。あっという間に、思った通りの被り物ができました。声を出さなくても、アピールの文句を書いた服を着て、カメラの前に立てば十分訴えることができる、と確信できた。

 3月27日、裁判所に提出した切実な陳述書を、10冊作って、みんなで回し読みしてもらうことにした。昼すぎ、3月10日に市民の会から出した要求書について、局長より連絡があった。仮処分の決定が出てから後のことは、回答する旨次の局長に伝えておく。決定が出たら、二週間以内に実施(測量、調査)しなければいけないようです、と。局長は3月末で退職する予定の様子だった。何ともいいようがなかった。

 平成9年4月1日11時50分、M弁護士から裁判所から命令が下りた旨、連絡が入った。夕方、記者クラブ、テレビ局へ、4月1日付け声明文をファックスした。「仮処分申請は住民との話し合いを拒否し、自らの職務を放棄し、法に委ねるという遺憾極まりない行為である。強く非難するとともに、ますます運動の幅を広げながら、市民のための行政にすべく、運動を続けていく覚悟である。」と。

 翌4月2日、弁護士事務所から命令書が送られてきた。

一、西宮市が行う測量ボーリング調査の業務を妨害してはならない。
一、調査等の各土地内に立ち入ってはならない。
一、申立費用は債務者の負担とする。

簡単には、このような命令であった。裁判所が行政当局の味方であることは分かっていた。裁判官《朴木俊彦》は、4月1日付で尼崎支部からいなくなった。何をかいわんやである。

 マスコミ各社から、住民さんはどうしますか。問い合わせが相次いだ。4月2日、住民はまず、市長宛に市当局の卑劣な住民脅し、行政が市民を訴えるという前代未聞の恥ずべき行為に対して、住民不在の権力主義のなにものでもないと抗議文を送った。ある記者は、当局の記者会見での報告を教えてくれた。5月20日のこともあったからか、通常の時間帯にするとも。約1年経って、再び緊張する毎日になりそうだと、気持ちを引き締めた。弁護士さんにお願いしたので、当然、支払いをしなければならない。カンパをお願いしなければならない。ありがたいことに、気持ち良くそれぞれのグループで集めて下さった。

 市が測量に来る前に、抗議集会をして迎え撃とうとの作戦で、結集のチラシをつくり、手分けして配布した。4月8日には、市当局は1日付けの抗議文の返事もないので、再度「話し合いの場を」と申し入れを行った。一方、監査請求をしてはどうかとの意見もでてきた。大変忙しい時ですが、市が弁護士を雇って市民の税金を使って市民を訴えることは、税金の無駄遣いのなにものでもない。そうや、なんでもやろうと。元気だねえ。なんでもすぐに、これをやったら勝つような気になるんだから、我ながら前向きなのか?おめでたいのか?。ところが、言うはやすしで、一つのことをするには、その準備がたいへんなんです。なにしろ、すべて初めての経験で、素人なんですから。弁護士さんとも面識ができたので、厚かましくいろいろと教えてもらった。とにかく、これはちょっと横においといて。

 4月11日から4月14日の週明けから、測量を開始する旨、連絡してきた。いよいよである。12日、集会を開いて対策を相談した。

 平成9年4月14日午前8時、住民およそ80人が河川敷に集合して市が来るのを待った。9時丁度に、市職員、業者8~9人、そして弁護士と、行政課の職員が来た。住民がボーリング調査箇所に座り込んでいたので、Y課長が処分命令が下りたんだと、書類を見せて立ち退けと威嚇した。業者がメジヤーで、わざわざ座っている住民の足元を計りに来て、あたかも邪魔をしているかにみえる写真を撮った。住民が抵抗するも、それを繰り返して、9時35分にらみあい状態になった。10時30分ころ、市関係者全員が引き上げていった。午後もテントを残して、2~3回パトロールをする。今日は市が証拠写真を撮りに来たんだ、と反省。住民が和解を受け入れなかったことは、こういうことだと市も予測し、次の準備をしていたんだ。

 15日午前8時30分、河川敷に集合したが、9時30分になっても市がやってこないので、局長に電話をした。住民に説明に来るよう伝えた。「私は他に仕事がある。今日も実施します。」と逃げた。ちなみにこの局長は4月から代わったばかりのS局長である。部長に電話すると、課員が「部長は現場に行っています。」「どこの現場?」「山幹です。」「課長もですか。」「そうです。」

 10時5分、市と業者が到着する。弁護士は来ていない。部長に中止を求め、話し合いをと抗議する。強引に杭を打ち、フェンスを張り始める。南側に2枚立て東側に5枚、サイクリングロードまではみ出して、8枚目を立てようとしたとき、一人の男性が自分には仮処分は出ていないと言って、フェンスを押し返した。この大声での一言で、市もそれ以上立てることが出来なかった。またにらみ合いになり、抗議の舌戦、しつこく話し合いのテーブルにつくよう要求した。そんな中、Kさんがフェンスをトラックに戻し始めた。3枚返したところでCさんが止めた。私は内心、止めなくてよかったのにと思った。

 11時30分、部長が話があると伝令がきた。話し合いの場を持つ条件があるという。4枚のフェンスを固定させるという。それはいいが、こちらにも条件があると言った。「少なくとも、話し合いの日までは調査を休止すること。」「市に持ち帰って返事する。」これが認められなければ話し合う意味がない。

 こんな交渉のやり取りを見ていた若い記者が、よってきて「何の仕事をしていたんですか。「主婦です。」こんなおばさんのやりとりに、感心している青年も青いなあと、同時におばさんを相手にしている市にも苦笑した。

 4月16日、正式に返事がないので、市当局に連絡をとる。幹部は誰もいない。会議中であろうか。12時40分、局長と部長が揃って回答書を持参してきた。4月20日(日)夜7時、開催に決まった。

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『みちしるべ』私の住民運動(13)**<2004.1. Vol.27>

2006年01月10日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(13)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成8年5月20日早朝、本当に予期せぬ事態が起こり、私たちの運動の展開が一挙に加速しました。一夜明けて、昨日のことを振り返って、西宮市は“アホ”やなぁ~、あんなに早く来たら男たちがみんな集まってくるのに。それにしても、よくぞ一気に力を合わせて立ち向かえたものだと、自画自賛していました。

 21日早朝4:15、Y課長が河川敷に来ていた、との連絡が入った。朝9時には河原にみんな集合し、今後どのように市を見張るかを相談した。取り敢えず、今日は5時まで各町ごとに当番することになった。丁度みんなが集まっているところに、西宮署の署長と公安課長が河原にやってきた。はじめから署長や課長と分かっていたわけではありません。河原に合わない背広姿の二人に、私たちはしつこくつきまとって聞いた。「どうしてここに来られたんですか」「新聞みて事故があったと知り現場を見に来た」と言う。「署長はいちいち新聞の記事を見て現場にいくんですか」「いや、皆さんのことは何も、どうしようとも思っていない」と言いながら、すたすた逃げるように上のほうに速足に行ってしまった。途中までついて行ったが引き返した。

  • 12:20、市の土木局長より電話があり、今から会議に出るので、意見を聞きたいと言ってきた。私は「市が強引にやった結果、引かぎるを得なかったのは、市の負けである。4月23日、5月9日に住民から出した文書をよく理解して、上司に十分説明してもらいたい」と伝えた。
  • 2:30 業者が朝使った網を、住民のですと返しにきた。
  • 5:35 S会長より電話、局長から連絡があった旨
  • 5:47 局長より電話、測量中止の由。「機械を撤去して下さい。」「します。」「文書でください。」「わかりました。」
  • 6:35 記者クラブに電話、局長から中止を伝えてきた旨。神戸とサンタイだけがいた。
  • 7:15 局長より電話、「サンケイから聞かれたが、どことどこの社に言われましたか?」「ちょっと待ってほしい。明日、記者会見します。」「止めてもらえませんか。」ここは市が止めると言ってきたんだから良いだろうと、神戸の記者に連絡した。

5月22日

  • 9:00 関さんのマンションに集合、21日の一日の経過報告を皆さんにする。
  • 3:35 局長より留守電、「三時に記者会見した由」
  • 4:10 こちらから局長に電話、全面的に中止に決まった旨、機械も5時頃、遅くとも明日には、とのことでした。文書はいつもらえますか。いま手配しています。
  • 4:45 市職員が機械撤去に来た。業者も来た。しかし、記者が来ていなかった。私たちは、明日の記事にきっちり載せてもらいたかったので、記者に5時と言ってあるので、もう少し待ってほしいと伝え、律義?にも待ってくれた。なんかおかしくない? 5月17日に、市へ押しかけ、市長面談を申し入れた件の返事はどうなっているのか、回答は?

 5月23日、いつも通りパトロールする。昼Y課長より話し合いの日程について電話があった。文書でこちらから出しますと。しかし、一方的に5月29日、話し合いをすると決めた文書を持って来た。当然、住民に相談なしに決めたことを飲むわけにはいかない。

 5月27日月曜日朝、申し入れ書をファックスで市へ送った。3月31日、市当局が3ヵ月の話し合い期間を定めながら、5月20日早朝のような強行をしたことを非難するとともに、さらにこのような一方的な決め方は、常に市当局が高圧的で強行的と言わぎるを得ないと抗議した。市当局は5月20日の結果に、非常に慌てている様子。夕方、S会長から電話があり、局長を通して助役が会いたい旨を伝えてきたとのこと。会長はダメと返事された。

 翌28日、早速市より住民側の抗議内容についても、次回の話し合いの場でよく協議したい。話し合いの日程を早急に決めて頂きたいとの文書が来た。

 29日、局長に電話し、文書に3ヵ月の設定の解釈についての回答がないことを指摘した。すると、行政としては同じ文書にたいして、三度回答を市長に求めることは出来ないという。では、再度こちらから文書を出します。しばらくすると局長が電話で、3ヵ月は保護しますと言ってきた。しかし口頭では受け入れられない。

 30日、話し合いの日時を早く決めるように言ってきたが、3ヵ月の件が先決というと早く文書をだして欲しい。ファックスしてくれるようにと。出来るだけ早くだしますがすぐには無理です。いつものことながら、週末は看板づくりやコピーに忙しい。

 6月3日、市より第一回の話し合いから、3ヵ月をめどにするとの回答を得て、6月23日午後2時、松並市民館で話し合うことになった。住民は5月20日の騒動以来、はじめての市との対決となる。6月12日、山幹ニュースNo.7のチラシを作って配った。大結集を!!と。23日に話し合いと決まったのでちょっと小休止。

 6月16日、阪神間道路問題ネットワークの例会が北六甲台であった。甲子園口の5月20日の騒動。北六甲台では北部水源池問題連絡が県・市・公団との協議会として活発な活動を展開。などが報告され、参加者も多く、24名も集まった。それぞれに意見交換が盛り上がったものでした。その日は甲子園口から、S会長の車で、黒住先生と山本の三人で参加した。途中、昼食を一緒にとったことも、今は亡きお二人とのなつかしい思いでとなってしまった。

 6月18日、道路課に電話し、23日の話し合いには速記できる人を連れてきてくれるように頼んだ。議事録を残したいと思った。昼ころ、河川敷の土質調査地点に立てた看板が、このところ、毎日のように捨てられているとの情報が入った。看板の確認をして、男性たちにお願いをした。どうも朝早く歩いている人がとっていくようであった。

 6月20日、局長から会長の所に電話があり、23日の話し合いの進め方について相談があったそうな。市も20日のあと、初めての話し合いでもあり、相当に緊張している様子が伺えた。

 6月23日午後、松並市民館で話し合いが開催された。出席した人達から、20日の抗議が殺到した。局長は盛んに、今後の話し合いを3ヵ月に区切っているので、毎月2回づつでも開催したいと主張した。住民はそんなことより、まずは謝罪だろうと詰め寄らた。いつものことながら藤井さんは、専門的な内容でつっこんで下さった。市からデータの出所を質問される場面もあった。予測交通量や環境数値について、疑問がなげられた。市は古い資料をもとに、住民に説明を繰り返していたからである。今後の話し合いをすすめる上での、参考資料として、この地域内での調査を実施することを要求した。住民が納得出来る数値を、先ず出してから次に話し合いの日程を決めることとして、話し合いは終わった。

 7月5日、議事録が出来て届けられた。環境現況調査の日程を、7月中旬ではとのことであった。しかし、測定箇所については、決定していないので検討の必要があった。議事録をわれわれのと突き合わせをしてから、測定の場所や箇所をいくつにするかなど、調整の話し合いをすると返事した。実際、3時間ほど言いたいことを言った議事録を、一言一句点検する仕事はたいへんでした。

 また、この時期にややこしいことに、県が川の護岸工事のための調査をしたいなどと言ってきていた。川と山幹の調査をすり替えるのではと疑った。住民があれだけ暴れたのだから、県も市もこれ以上、住民の気持ちを逆なでするようなことはしないだろう。

 7月12日、口頭で測定箇所を19必要であると伝えた。

 7月17日、市は12カ所で実施したいと、地図を持参してきた。

 7月21日、私たちも初めてのことなので、幹事たちでどのようにするのが、一番住民にとって有利な結果が得られるだろうかと相談した。国道との対比も必要では?騒音の機械の取り付けの高さについても、マンションの住民のためには規定の高さでは知りたい数値がでないのでは?などの意見が出た。また藤井さんからも、どんな資料を市に出してもらうか、助言をいただいた。

 7月28日、市との調整の話し合いが決まったので、25日朝9時半、関さんのマンション下に、みなさんに集まってもらって、市からの12カ所の調査するとの文書を示して、とりあえず代表が方向づけの打ち合わせをするとの経過報告をした。

 7月26日、Iさんより電話があり、しばらく手伝えないと言ってこられた。あんなに一生懸命にがんばって下さっていたのに?大事な時にとっても残念です。住民運動にとって、お互いの信頼関係がくずれることが一番つらいことです。

 7月28日、調査に関する協議をするため市と会った。まず、今日は協議であり、第二回の話し合いではないことを確認した。市当局は交通量7カ所、騒音振動調査5ヵ所としていたが、住民は騒音振動調査を20ヵ所するよう要求した。市は20ヵ所も、一度に出来ないと言ったが、何も一回でする必要もない。二回に分けてすればよいではないか。結局、一回目を8月6日午前8時から、翌7日午前8時までの24時間調査することになった。そして最初は9ヵ所を実施することにし、9月3日から4日に11ヵ所を実施することを了解した。この調査の結果をもって、第二回目の話し合いを開催するとした。

 調査にごまかしのないようにと、皆きびしかった。初日の8時には説明を聞いた。そして最終8時に終えた時点で、代表が調査用紙に捺印をした。市にとって、こんなに多くの個所で調査をしたくはなかったであろう。が、市がこの事業のために出した資料が、平成2年の不正確なものばかりを使っていた。住民をばかにしている、住民に嘘を説明していることだと、執拗に食って掛かったこともあったのである。実際、うしろに座っていた私たちも、唖然とした程でした。翌日「きのうご主人(代表)酔っていたのか」という人がいたくらいでした。みごとな演技であった。住民運動や交渉ごとにおいては、相手に見くびられては、上に立って交渉できない。けじめを取ることが出来れば、半分勝ちである、と思う。

 9月に入って、県から武庫川護岸工事について河川敷でボーリング調査をするための説明会をすると言ってきた。こんな時に……、県がした結果を流用するのではと疑いたくもなる。

 尼崎市側と西宮市側をするが、西宮側については、市が責任を持つと約束した。

 10月13日、8月と9月の調査結果が出たので、説明を聞くことになった。ごまかしはないだろうなと、厳しくせまった。もしあったときは、どのように責任をとってもらえますか。部長は職をかけて間違いないと言い切った。

 11月に入って、札場筋から西、分銅町、寿町の工事の説明会が開催され、一部の反対の人から一緒に聞いて欲しいとの連絡があり、会長ほか数名で参加した。つくづく地元の会長と同じ思いで闘えることに感謝した。

 11月11日朝、長年空き地であった土地の測量に、市職員が来ているとの連絡で、会長ともども駆けつけた。地主と友人が立ち会いのために来ていた。職員に抗議した。山幹は現在、市と話し合いで測量も中止になっているはず。地主にも現状を話した。「地主は住民の方々が納得出来ないならやめて下さい」と言ってくれた。市はしかたなく帰った。地主のMさんと友人を追いかけて話した。まずご迷惑かもしれませんが、住民の気持ちも理解していただきたいとお願いした。「今日来たのは、市が境界の立ち会いをしてほしいと言われて来ただけで、処分する気も積極的に市に売る気もない。周囲の住民の方が納得いくまで、売るつもりはありません。」きっぱりと言って下さった。とっても嬉しかったです。

 この日、分銅町の工事が再開したとのニュースが入った。

 11月24日、市との話し合いをした。まず議事録については、住民は市長の印を貰うことが条件とした。必ず双方代表の印を捺して交換する。最後に局長は6月に話し合いに入って以来、およそ3ヵ月をめどにしてと言ってきたが、平成8年12月まで精力的に話し合いたいと結んだ。12月はじめ、市から6月23日の話し合いの議事録を届けてきた。点検のためにテープを聞き直してチェックした。これには時間を要した。市は12月中に、もう一度話し合いをと言って来たが、当然無理であった。それどころか住民は、12月議会に陳情した。環境調査の結果をうけて、環境基準を誠意をもって守るよう指導されたい旨、そして住民を騙すような姑息な手段をとらないようにと。

 12月17日、議会の委員会にかけられ、傍穂した。結果は採択2、結論を得ず1と以前よりは違った結果とはいえ、時間をかけて議論をされても、最終、結果的には不採用であった。平成8年も押し迫った27日には、11月24日の議事録と1月早々に話し合いをしたい旨の書面が届いた。

 こんなあわただしい運動のなかでも、12月3日、北町の町内会バスツアーを開催。運動とにらみあいながらではあったが、会長はじめ、みんな楽しい一日を過ごした。

 ところが2週間後、会長の人院という予期せぬ事態が起こった。青天の霹靂である。心配と驚き、あんなにお元気で先頭を走って下さっていたのに、どうして?これからの運動は?しかし今、会長の病気のことを市に知られたくなかったし、不用意にうわさが一人歩きするのが怖かったのでした。ありがたいことに、奥様も同意して下さいました。私たちは何もなかったように、ともに戦いに戻れることを信じながらその日を待った。

 平成9年1月、松の内も明けぬ1月14日、馬場市長宛に山手幹線事業に関わる市長見解を求める書面を提出した。市民の会他5町内会会長連署でした。16名が参加。朝日テレビが取材してくれました。平成8年5月20日以降、住民と誠実に話し合うとしてきた市長と、実際に行政に携わっている職員のやっていることに、大きなギャップがある。市当局が、住民に最も新しいデータとして示された環境数値は、住民が要求して実施した調査の結果に比べて、あまりにも異なりすぎる。あたかも環境基準を守られているかの如く、故意に住民に錯覚させる説明を繰り返してきた。市の対応は住民を愚弄し、姑息であると言わぎるをえない。これらの事に関して、市長はいかが考えられるか。住民に胸襟を開いて話し合う用意はあるか。事業が完成すれば、住環境へ重大な影響があることが予想されるが、市長はこの点について、どのように考えられるか、と。回答は相変わらずのものでした。

 1月19日に話し合いをする予定を、ほぼ一方的に市は決めていたが、市長が今日回答したからには、それ以上の回答は出せないという、道路課の言い分。話し合いは自然中止となった。平成9年1月20日午後、留守番電話に尼崎の議員から「西宮市が記者会見する」と入っていた。夕方、記者クラブヘ連絡し、局長に電話を入れたが、来客中とのこと。しばらくして局長から連絡があり、訊ねた。「調査、測量を突然するつもりか?」「日程は決まっていないが、乾期にしないと、また一年遅れることになる」「5月までにしたい」「話し合いは続ける、日程の調整をしたい」「それまで一方的に測量に入ることはしない」とは言いつつ、事態は少しずつ差し迫っているかに思えた。

 翌朝、市民の会の皆に集まってもらって、年末から年始の経過説明をした。朝から35名も集まってくれた。何としても市に抵抗したい気持を、お互いに確認することが出来た。

 2月3日、会長に報告のため訪ねた。早く帰って、一緒に戦おうと固い握手をし、市を打ち負かしてと、主人によろしくと言って下さった。この住民運動を思うと、俄然元気が出るようでした。いいお顔をしておられました。

 2月14日、西宮市は突然、近日中に河川敷3ヵ所のボーリング調査を実施するとの文書を出してきた。

 翌日、平成9年2月15日朝5時57分、S会長は帰らぬ人となった。ほんとうに、ほんとうに、つらいお別れをしなければならなかった。奥様は悲しみを秘めて、ご主人のスニーカーを履いて、ご主人の弔い合戦にと、毎日、河川敷に座って下さったのでした。そのお姿に、辛いものと敬服と感謝の気持が入りまじったものでした。悲しんでいる間もなく、市との駆け引きを余儀なくされた。

 2月17日、会の代表が話し合いの件について、局長と電話で話をした。局長は今までのながれから、住民とは話し合いで測量の件も、日程を決めざるを得まいと考えていたに違いない。「申し入れをして下さい」とのこと。市長が出した文書を電話で、局長が勝手に変更出来ないという意味であろう。早速文書を作り、各会長宅に印をもらって回った。内容は、測量等の話し合いの申し入れ、および市の強引な話し合い打ち切りかのような姿勢に対しての抗議であった。

 2月18日、道路課の職員が連合町内会の各会長宅へ、2月14日付けの文書を持って回っているではないか。北町には市が秘密裏に、全戸配布しながら他の町には会長に回覧をたのんで歩き、会長の感触を確かめているのであった。こんなことをしても、こちらにはすぐに情報が、会長から入った。連絡のない会長にも皆確かめた。これらの行動は道路課が、課長が中心になって突っ走ったようであった。局長に電話で抗議したときの口調で、察っしがついた。職員は仏の局長が、いつまでも住民の言いなりになっていると、しびれをきらしてのことのように受け取れた。

 私は局長が住民に約束したことを、課長につぶされるようでは、今後、市長の代理とは言えないではないか。1月20日に局長が言ったことを、課長が蹴るとは何だ!!激しく局長を責めた。局長は測量調査の説明をする気持はあります、との返事。蚊帳の外のようだった。私は行政とはどういうところなのか?と思った。確かに、局長は人がいいと思っている。悪辣なはかりごとを出来るような人ではないと思う。しかし、今回の課長の行動も、市当局からすれば、自分一人で策を決行出来る立場ではない。とすれば課長も道具に使われただけなのか?行政には誠心誠意とか、信頼とか言う言葉は、死語といわざるを得ないのか?住民は何回となく、市職員に向かって「公僕ではないか」と言ってきた。なぜ公僕と言われるのか?ほんとうは彼らは誰の僕(しもべ)なのか。

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『みちしるべ』私の住民運動(12)**<2003.9. Vol.25>

2006年01月09日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(12)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成7年10月30日、市当局の強引な測量調査の開始。怒った住民が座り込みを始めてから、年を越えて3月に入った。3月1日、県議会に計画の凍結をと請願書を提出した。何をしても紙鉄砲を撃っているようなものかもしれなかったが、なにかを撃っていないと気が済まないし、撃たないよりはましであろうと。市の担当局からは、再三、話し合いというか説明会を早く開きたいと言ってきた。平成8年3月4日月曜日昼、突然、局長より連絡があり、今日の午後会ってほしいとのこと。皆に相談しますから、しばらく待ってほしいと返事する。こちらはそんな急な話に乗れないことは、わかりきっているので、答は選択の余地なしである。当然、断る以外にない。夕方、再度電話で話した。市は尼崎側の一ヵ所を、どうしても調査させてもらいたい。西宮の二ヵ所は話し合いをしながらするつもりであるから、今すぐはしないという。話し合いには助役が行きますから、その打ち合わせをしたい。勝手な言い分である。今、武庫川の現状を見ましたか。皆必死です。強引なことをするのなら、川に落ちても頑張ると言っていますよ。犠牲者が出るまでちゃんと話を聞いて貰えないのか。尼崎の一ヵ所をやって、図面を引くつもりでしょ。図面くらい引かせて下さい。いつも努力します、話し合いをします、といいつつ勝手に進めているじゃないですか。とにかく、今日は無理ですネ。2~3日中に返事をくれますか。

2月21日付けで、市当局より書面がきていた。

  1. 道路整備計画について、
  2. それにともなう環境への影響について、
  3. 拡幅架橋事業について、

などの話し合いをしたい旨である。その件については、いま調整中です。返事は必ずしますから。と電話を切った。ところがその夜、染原会長の奥さんから電話があり、今、局長が家に来て、「山本が来たかとか、山本から電話があったか」と、相談をしているかを確かめているのである。むかっとした。しかし、確かめたい気持ちも分からないではないと思った。敵もこちらの思惑は百も承知であろうから。会長はこの時期、入院をされていたのである。その週の終わりの8日金曜日、再度課長から催促の連絡があった。「早く日程を決めて欲しい、どこまで相談してもらっていますか。」「先日、局長と話し合った後で、会長に確かめるようなことをしているが、とんでもない失礼なことだ。こちらは町内会の役員や、市民の会の主だった人達に相談をしないといけないので調整中なのに。」課長はよろしくお願いします。と言って電話を切った。

 3月19日、やっと31日に市と協議することになり、返事をした。3月31日で、10月30日より座り込みを始めて154日となる。雪の降る日も、石油ストーブを囲みながら座った。本当にみんなよく頑張ったものだと感動すら覚える。局長も皆さんの姿をみて、生半可な気持でないことは承知しています、と言った。3月31日、当日45名程の住民が、上甲子園公民館に集まった。

 市は3ヵ月と期限を切ってきた。これは西宮市の調査を3ヵ月待つが、川辺りの一ヵ所は、どうしてもボーリング調査をするということでした。我々は応じられない、が回答でした。市は住民が具体的な要望を出すかと期待していたようだ。もっと意見が出るかと思った、との局長の感想であった。どうして!! 私たちは事業を推進するような意見を出すつもりは毛頭ない。

 テントをだしての座り込みも、31日の話し合いが決まったので、25日から31日まで休止していた。河川敷の土手にブルーシートを張っていて、そのうえに簡単に屋根を作っていた。4月2日朝、その中でホームレスの人が寝たのか、布団を持ち込んであるのを見つけた。誰かがすぐに河原に持って行き、そこに寝られないように布団を水に浸けた。ちょっと酷なような気がした。ところが3日の朝、思いもよらないことが起こった。朝早く、河川敷を歩いている市民の会の人達が見つけた、交通事故である。乗用車が道があると思ったのか、山手幹線を川に向かって飛び込んだらしく、シートの屋根は壊れて、植木をなぎ倒していた。布団を出していなかったら、きっと浮浪者はそこに寝ていて、あわや大変なことになっていたに違いない。背筋が寒くなった。事件にでもなっていたら、市よりも一般の市民を敵にまわすことになったであろう。また一つ、この運動のツキを感じた。不幸中の幸いであった。

 そんなこんなの中、4月に入って、市当局とのやりとりがめまぐるしくなった。4月12日、市当局から、3月31日の住民からの調査中止・話合要求は、あくまでも事業実施の前提でないという回答がきた。事業の白紙撤回はないし、尼崎との協定で、平成8年8月末までに調査を終える、との取り決めがある旨を知らせてきた。また、話し合いの期限を3ヵ月とすることを撤回せよとの要求にたいしても、この期間内で努力したい。次回の話し合いを4月末頃にしたい。4月22日までに回答を、といつもの住民のオハコをとって、回答の期限を切ってきた。

 尼崎市においては、武庫川架橋工事の準備が整い次第、着手すると強硬な態度をとった。4月21日、住民は集まって相談をした。あくまでも妥協は出来ない。4月23日、市長宛申し入れおよび要求書をもって、会長ともども4人で行った。内容は西宮市が土質調査をする予定を、尼崎に肩代わりさせることは容認できない。3ヵ月の期限つき話し合いは、あくまでも実施が前提ではなく、双方の努力目標としての期限であること。このことを無視して話し合いに先行して調査など強行するのであれば、今後の話し合いには応じない。またこのことによって混乱が生じても、その責任は一切市当局にあること。話し合いにおいて市は誠実に対応し、住民の理解と協力を得るために、最大限に努力し、譲歩も有り得る姿勢で臨まれるよう。また住環境悪化は免れないであろうが、その対策をどのように出来るのか、正確なデータを示しながら説明をされたい。等々の要求を出した。

 しかし、3ヵ月の期限付話し合いを、過去の強硬な態度に対する、市側の軌道修正と認めたことは、住民側にとっては大きな譲歩である。これらの申し入れ、および要求に2週間以内に回答を要求し、回答次第で話し合いについて協議したいと結んだ。行政からの書面が、土木局長名で出されていたことにも、今後は市長名で出されたいと申し入れた。

 二日後、4月25日付市長名で早々と、回答を課長と係長が届けにきた。内容に進展はなく、前回の文書と同じ繰り返しだった。市もずいぶんあせっている様子である。そして4月末までに、話し合いの日程を文書で回答をと、今までは電話で事務連絡としていたのに。文書でとは?市があわてるのは勝手であるが、私たちは少しでも先に延ばしたい。6月の雨期になると、河川敷は使えない。市は半年先に延ばせないのである。ここが住民にとってもふんばりどころであろう。国からの調査費も、先延ばしは2年であるとか?

 5月9日、市に対して4月25日付け回答は、住民が求めている回答になっていないことを指摘するとともに、再度、文書回答を要求した。内容は

  1. 局長権限がどこまであって、住民との話し合いの場で責任ある回答ができるのか否か。
  2. 話し合いをしながら、一方で尼崎が土質調査を実施するというのは、話し合いの中身を形骸化させ住民を無視した、市当局のポーズとしか言えない。
  3. もし強行するならば、今後いっさい協議に応じないことを明言しておきます。
  4. 真に住民の理解と協力を望むのであれば、ただちに尼崎市に調査の中止を指示されたい。
  5. 納得のいく回答が得られれば、3ヵ月間、精力的に協議することにはやぶさかでありません。

その日の夕刻、局長より電話があり、今日の文書で、尼崎のことをずいぶん厳しく書かれていますが、それは困ります。できません、とのこと。住民が安心して市と話し合える状況に、局長の力で何とかして下さいよ!まァ、まァ、と言って切られた。やっぱりダメか!!

 5月13日午後、新聞社各社より、会長のところに電話があり、「市は週明けに尼崎の調査をすると言っていますが、住民の皆さんはどうされますか」と。その場で法的手段も……。などという言葉まで出たとか……。その日の夜、町内会長と市民の会会長宅に、5月9日の要求に対する回答を持って来た。そこには尼崎の調査の具体的な日程は入っていなかった。記者が言っていることと違うではないか。回答はすべて抽象的な文言で、ただただご理解を??とばかりである。新聞各社も成り行きを注目し始めました。私たちも、逐一取り上げてもらえるよう、マスコミ係の人が努力してくれました。毎日、何度もファックスを送り、味方につけたいと考えました。私たちには他に味方はいませんから。

 早速、翌日9時にならないうちに局長に電話し、前日の記者会見が何のため、誰がどのように話したのか。持ってきた回答には記者に発表したようなことは、明記されていないではないか。今朝の新聞で住民から突き上げられている。どういうことか!!?激しく抗議した。調べて返事するとのこと。結局、夕方になって山幹ニュース発行の件であったと言い、回答書を少し遅くなりますが今作っているので届けます、と言った。夜、留守中に回答書を持って来た。平成8年5月20日から31日まで、尼崎の河川敷一ヵ所の調査をするとし、同時に話し合いの日程を決めるように明記されていた。5月17日10時30分、市長に抗議文を提出し、市長面談を求めた。

 西宮市庁舎前で、スピーカーで訴えながらビラを配った。ビラは三種類作った。市会議員にも河川敷に来て欲しいと訴えた。反対のハチマキにたすきをかけて、20名が参加した。この日は忙しかった。ビラを配ってから、また市長室へ「いつなら会えるか。来週ならいつ市長、助役に会えるか」返事をくれるよう言い残して帰った。4時から尼崎市長へ、尼崎の南北線の反対の会から、抗議して下さる予定だったからです。私たちも代表して4人が同席した。両市の間には、十分な意志統一ができていないようだった。お互いになすり付け合いをしているように思えた。

 行政マンとして、他市に無能ぶりをさらしたくないというのも分かるが、誰のための行政なのかと言いたい。西宮市から待って欲しいと言われれば強行はできないが、なにも聞いていない。三ヵ月間凍結とも、だから20日にはやります、と言いきった。各々が強引に進めるべきでないと、色々な角度から意見を述べてくれました。しかし尼崎市から、積極的に西宮市へ働きかけることはない。この報告はします。われわれにとっては、尼崎市の職員は、やはり他人に思えた。西宮市は決してわれわれ住民を、十分に理解して住民に耳を貸している分けでもなく、敵には変わりないのですが。変な話ですが、身内の敵と他人の敵みたいな気分になった。再度尼崎の職員に20日の是非を、積極的に西宮市に意見を言うつもりはあるか?との問いに、そっけなく「ない」と言った。

 西宮市は何をやってんのや。と同じ行政マンとして笑っているようにも思えた。今日は朝からネットワークの皆さんにも、とってもお世話になった。けれど、まだまだこれからだと、三日後に尼崎と西宮の両市が企んでいることを知る由もなかった。5月19日の日曜日に、とにかく20日に調査を強行する旨の知らせが来ているので、対策の相談をした。行政は昨年秋から強行した測量の折りも、9時から5時の勤務時間内でやって来た。20日の月曜日は9時集合と決め、早く出れる人は8時から見回りしようということに決めた。

 平成8年5月20日月曜日、個人的なことですが、この日は主人の母を伊丹空港まで送っていく予定でした。いつもより早く5時ごろ起きていました。5時15分、玄関のインターホンが鳴りました。こんなに早く誰なんだろう、新聞配達の人が何かあったのかしら?と思いました。Oさんでした。武庫川に市役所の人が来ているよ!!えっ?主人を起こすより、先にマイクを持って飛び出しました。サイレンを鳴らしながら『起きてくださ~い。西宮市が武庫川にきてま~す。武庫川に集まってくださ~い』「連絡網を回して下さ~い!」このサイレンを聞いた人達は空襲の時のサイレンを思い出したそうです。そしてすっごく緊張したとも。

 私はすぐ現場に駆けつけました。信号をわたり、階段の上に立ったとき、あっと息を飲みました。なに!!これは!!目の前に100人以上の職員とガードマンが、川辺にフェンスを張り巡らして、それを背にして腕を組み合って、まるで機動隊のように人垣を作って立っていました。一瞬どうしょう?何をしたらよいのか考えが浮かびませんでした。

 ただ責任者の所に駆け寄って、「何をしているんですか?こんな卑怯なことしていいんですか?」と噛みつきました。みんなしらん顔をして突っ立っていました。この箇所は尼崎市が調査することになっていたので、尼崎の職員も来ていた。夜中から大勢のガードマンを雇い、西宮市の職員とでバリケードを作ったのでした。行政は住民が、のこのことやって来るころには、ボーリングを始めて実績を作ってしまえるものと考えていたに違いない。ところが早起きのOさんが、いつもの通り起きていつものことをする前に、ふっと武庫川を見てこようと思ったのだそうです。そこでびっくり仰天、このありさまを見つけたのでした。

 市の思惑に反して、朝の5時6時ではどこのご主人も出勤前で家にいます。普段、座り込みに参加出来ない人たちまで駆けつけてくれました。男の人達が何人集まったでしょうか。20人いや30人、ぞくぞくと人が集まってきました。誰かがロープ、ロープというとロープが来ました。みんな西宮市のやり方を口々に非難しました。私たちは川辺のすき間からフェンスに入ろうとしました。川に落ちてもいいからと。ケガ人が出たら誰の責任か?尼崎のY部長に、どうして西宮まで来てこんなことをするのか。帰りなさい!!しかしフェンスの中から出てきませんでした。ロープをフェンスにつないで、みんなでひっぱりました。フェンスが一枚剥がれました。あっと言う間に、休戦状態になっていました。フェンスにロープを結わえて引っぱった時、業者のひとりが指を詰めて、小指に軽い怪我をして、救急車が来た。これ以上強行すれば、市民と行政の間で何が起こるかしれないということで、にらみあいが続いていました。

 そうこうしているところに、ネットワークの人達が駆けつけて下さいました。芦屋の人達はプラカードを持って、通勤客に混じって電車で駆けつけて下さいました。同志の皆さんのご恩は忘れません。反対の立場だったら、朝6時から駆けつけて行くことが出来るだろうか、とみんなと何回も感謝しました。

 平成8年5月20日、午前5時30分に始まった武庫川決戦は、6時30分には決着がついた。昼まで市職員と住民がにらみ合い、話し合いのテーブルにつくことを求めた。12時、責任者は市庁舎に相談に戻った。職員5~6人を残して解散した。フェンスをみんなでとっばらった。そしてボーリング機械を据えてある前で座り込み、機械の撤去をせまった。午後4時、機械と数人のガードマンを残して全員解散した。

 ガードマンをつかまえて聞いた。「ゆうべ何時にここに来たの?」「最終の電車で来た」とのこと。総勢、尼崎の道路課、西宮の道路課と水道局の職員、そしてガードマン100~120を雇った。機械の見張りにガードマンを徹夜で付けた。そして行政は、もし住民が機械をさわりに来たら名前を記録しておくように、ガードマンに命令した。とんだ税金の無駄使いであると抗議した。私たちの住民運動のなかで、この日は歴史的な一日となりました。一方、西宮市にとっては、なりふりかまわぬ前代未聞の行動は、行政上に大きな汚点を残した一日であった。少なくとも市当局の作戦は失敗に終わった。

 新聞各社は早朝から駆けつけて、報道しました。その日の夕刊には華々しく、大きく写真入りで取り上げられました。西宮市の無謀さを露呈したに過ぎなかった。Y紙では、5時45分の綱引きを写していました。ある紙では、市職員と住民衝突、警官出動とまで書き立てた。ちょっとオーバーすぎます。警官は出動していません。芦屋の山幹反対のプラカードも、大きく写っていました。平成8年5月20日、早朝の決戦は一時間くらいで決着したが、皆必死でした。気持の上では長~い一日が終わりました。いよいよ戦いも、正念場に入ったことを実感し、明日からの戦いに緊張が走りました。

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『みちしるべ』私の住民運動(11)**<2003.7. Vol.24>

2006年01月09日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(11)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成7年12月8日、市長面談、助役も出席した。6名で出席し、市は十分住民と話し合って推し進めたいと繰り返し、こちらも抗議やら要望やら相変わらず同じことを繰り返すに終わった。要望書は提出した。12月10日、中央公民館で阪神間道路問題ネットワークの集まりがあり、組織的な会の結成をとの話し合いが行われ、1月に正式に結成しようというだんどりを決めた。また、12月11日市議会に陳情を提出。とにかく折りあるごとに訴えつづけようということでした。

 時を同じくして、もう一つの会「いのちと〇〇〇」が議会に請願を出す準備をしつつあった。あちこちから出すのは反対を盛り上げるためにいいことだと思った。ただし、基本的なスタンスは、あくまでもこの事業の反対であるはずだと強く信じて止まなかった。ちぐはぐな運動では、市の思うつぼである。私たちは、毎回請願ではなく陳情を出してきた。請願では結局、紹介議員の都合のよい、つまり採択されるように、事業を肯定する内容を織り込まねばならないのである。それでは運動の趣旨が一変してしまうのである。条件闘争に入ってしまうからです。せっかく違う会から、それも請願を出すところまできていたのに、やはり内容の変更を紹介議員が言ってきたようであった。みんなの思いと違う方向へと、この運動が行ってしまうことを懸念し、土壇場で白紙にもどってしまった。少なからず感情のしこりも残ったことは否めない。残念な思いと同時に、運動の難しさをみんなが味わうことになった。

 沿道に住む私たちの願いは一つであるにも拘わらず、つらいものがあった。12月15日2時40分に集合し、10人で市議会へ傍聴に行った。結局、委員会が始まったのは4時45分。市も議員も、いつもと同じ繰り返し、住民もお願いはしているものの、態度としては決してお願いをしているとはとうてい言えないな、というものでした。

 12月なかばを過ぎ、私たちの一角で二回目の会費を集めた。必要な費用はここから何とかしようというのは、運動を始めてからの申し合わせであった。というのも、運動に参加してください、運動費用を出してくださいでは、運動が広がらない。続かないという考えであったし、皆さんも気持ち良く理解してくださいました。

 12月20日朝10時頃、河川敷を散歩していた人から通報が入った。背広を着た二人づれが、分厚い図面を持って武庫川に現れたと。すぐさま駆けつけて問いただした。大阪の建設会社からと言い、山手幹線とは関係ないとはいうが。それと関係あるのかないのか、午後3時半ころN局長から電話があり、このように膠着状態が続いているので、住民の皆さんに会いたいとのこと。皆、ノオーであった。この暮れのおしせまった時に、何のために会うのか。単に会いたいだけではだめだ。代表だけで会うことは出来ない。会う必要はない。書面で内容をもらってから会えばよい。来年みんなで会えばよい。パトロールしている中で、個人個人の意見が微妙に違ってきているとしたら、うっかり局長の話にひっかからないとも限らないので、事前打ち合わせが必要である。等々意見が出、こんな暮れに会う必要はない。との結論であった。

 12月22日、局長に今は会えない旨回答する。そして同じ日、建設大臣森嘉朗宛に要望書を郵送。兵庫県知事には、そのコピーと2月1日の市への抗議文(地震の最中の調査依頼に対する)暴言発言について、関連新聞記事などを送った。また、内部障害者の福祉を守る会連合会長である新明さんから請願書の提出の申出をいただいた。環境庁長官に陳情書を出してはとのことでした。どこにでも訴えて行けばいいことだ。と相談して出すことにした。来年8年1月6日に親睦会を開催しようという事になっていたので、暮のぎりぎりまで参加者の受付をしていた。もうすぐ運動が始まって五回目のお正月が目の前であった。

 平成8年1月6日、松並市民館で「市民の会」新年親睦会を開催した。46名もの参加で賑わった。年末の経過報告や今後の意見交換を行った結果、座り込みのためのテントを買おうと決まり、その場でカンパを募ることになった。翌1月7日、早速S会長ほか男性3名と、大阪までテントを買いにいってくれました。カラフルなかわいいテントを、みんなで組み立ての練習。当番それぞれで、毎日、朝一番にテントを張って、見回りを続けた。今年も忙しくなりそうです。でもみなさんはすこぶる元気で、闘う気十分です。新聞社ばかりでなく、テレビ局にも取材してもらえるようアタックし、運動の経過説明もした。市側は早く話し合いをしたいと、何度も会長に電話してきた。1月14日、阪神間道路問題ネットワークの結成です。各地の道路反対運動団体との交流と応援を得て、この運動をもっと盛り上げていければと期待して結成式に臨みました。

 1月19日、市が強引に測量を開始してきてはと、連絡網をつくりテストした。100名ちかい人達への連絡は、20分以内でまわった。26日、早速この連絡網が役にたった。道路管理課が買収予定の家のまわりを測量にきたのでした。すぐに20名あまりの人が集まり、詰め寄った。またこんなこともあった。暮れに毎日バトロールしている中で、Iさんがセカンドバックを拾い、交番に届けた。1月29日、お礼にと25,000円送ってきたと言って、カンパにして下さった。翌30日には、サンケイ新間のK記者、この方とても落ち着いた方で、じっくりと話をよく聞いて下さるかたでした。枚方に転勤とのことで、挨拶に来て下さった。記者の方は2年もすると、代わっていかれるので、淋しい思いでした。私たちにとって、マスコミのみなさんは強い味方だからです。

 1月31日、山手幹線北側の社宅前に、市の土地収用課というところから、何の意味かわからないが、溝掃除にやってきた。ゴミ袋何杯かつくって帰った。市もどこかに付け入る隙はないかと、考えているように思われました。負けへんでと、益々団結も固く。

 2月に入って、尼崎側でボーリング調査しているようなやぐらを見つける。車を出してもらって、4人で駆けつけた。若いお兄ちやんをせめて、会社名など聞き出す。五ヵ所の調査は終わったという。尼崎市のやることは放っておくしかないか、と帰ってくる。

 2月11日、地元のサービスセンターで阪神間道路問題ネットワークの交流会が開催され、情宣活動の大切さ、情報交換などを話し合いました。最後に、今後の取り組みとして、西宮市にも全員で行く。県の3月議会ヘ、ネットワークとしてこの西宮市の山手幹線問題を陳情しようと取り決めてもらって下さった。翌々日の2月13日、黒住先生の事務所で代表の方々が再度集まって、具体的な内容の打ち合わせをした。10日後の2月24日に、原案を作って再度ここで検討をということになった。ネットワークのなかの東山のマンション問題もあり、2月20日、Cさんと行政不服審査請求を出しているということで、口頭弁論を聞きに行った。色々初めての事に出会い、経験をさせてもらうのですが、すべてこんなもんなんかとがっかりすることが非常に多い。

 2月21日、もちろん全員で当番を決めてパトロール中です。午後2時すぎ、航空写真と地域地図を抱えた男性が自転車でやってきた。何処のだれなのか尋ねても名乗らない。北町を去ってのち、熊野町で再度見つけ、尋ねたところ建設省管轄の国土地理院の者だと名乗ったという。いったい何をしに来たのか。???

 夕方、ポストに局長印の、話し合い依頼書が入っていた。勝手に入れて行ったのだから放っておいた。翌日も翌々日にも、課長から何回も電話があった。話し合いは協議会か?いいえ、協議会ではありません。みんなに相談してから回答します。そう断ったあと、局長から連絡があり、12月20日に話し合いの依頼をしてから月日がかかりすぎているというのである。また、局長自身が山手幹線道路を走って、皆さんが雪の中、座り込んでいるのを見て驚いた。皆さんの反対の気持ちは半端ではないことはよくわかったとも言った。なぜ今回は局長印の書類なのか。非公式という意味なのか。ボーリング調査は尼崎市がするのか。河川敷の一カ所だけ頼んでいる。西宮市側は西宮市が行う。話し合いが終わるまで調査はしないか。市は本当に困っている。なんとか話し合いで仕切り直したい。仕切り直すということはゼロからの出発をするという意味か。ゼロには出来ない。ボーリングだけはさせてほしい。何を言ってるんですか。調査が終われば工事にはいるんじゃないんですか。この道路や橋が出来てしまえば、永久に取り壊すことはないんです。だから、今、将来の危惧や不安をどうすれば解消できるのか、真剣に考えてほしいとお願いをしているではないですか。皆に相談をしてから返事します。みんなの気持ちを考えていただいて、今しばらく待ってほしい。と訴えた。局長も一年も二年もといわれても困るが、ある程度話し合いが出来るまで……。ボーリングはしない?と解釈していいんですね。

 この局長とのやりとりの中で、沿道の買収予定の二軒についてどうなっているのかと問くと、平成7年度にすべて終わっているので、平成8年3月31日が期限と思う。このころから二軒の方の動きが忙しくなった。局長との電話のやり取りに調査を強硬されそうで、私たちも河川敷での立看板やブルーシートの張り付けに忙しかった。シー卜にはペンキで反対のスローガンを大きく書いた。大小の看板も毎日増えていった。ボーリング調査の予定地であるところにも、シートを張った。皆一生懸命でした。何人もの男性たちも、毎日のように出てきて下さったのです。ありがたいと思いました。

 平成8年3月1日、県議会にネットワークとして請願書を提出した。8人で行きました。3月7日、K県議会議員がこの事業がいかに不必要であるか、一般質問してくださいました。

 ネットワークで、尼崎市に山手幹線の事業に関して、どの程度進めているかを問い合わせて下さった。建設課の話では、すべての事業は必ず予備設計、概略設計、そして詳細設計を経て、工事着手ということになるそうです。尼崎市の現状では、概略設計の段階かも?とのことでした。またうわさでは尼崎側の橋の近くの地域から、工事推進の陳情が出ているとも。ゆさぶりのつもりであろうが。

 平成7年12月20日より、N局長から早く話し合いをといわれ続けながら、8年3月に入ったが、未だ粘り続けています。内心はどうなるのかと心配していても、口では常に「絶対負けへんで!!」と言い続けています。

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