『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**横断車道(92)**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月13日 | 横断車道

横断車道―92―

人類発祥から300~400万年。メソポタミア文明からも5000~7000年。対して、産業革命からは200年程度。IT革命と言われているが、多くの人がスマホを眺めるようになって、まだ10年しか経っていない。技術の進歩は加速度を増しているような気がする。一方、人類は、その進歩について行けているのだろうか?大局的に今を眺めてみる必要がある▼電車内でスマホを覗いている人は圧倒的多数だ。それは良いとしても、車や自転車を運転中も、スマホから目が離せない。歩いていても信号で止まると、ポケットからスマホを取り出す。もう病気としか評し得ない。これに違和感を覚える人は少なくないだろう。が、ここでは、そんなことを問題にしているわけではない▼古くは奴隷制度の中で、同じ人間でありながら、働く者と働かずして富をむさぼる者に分かれていた。少し社会が発展して、封建社会でも、制度の違いはあっても、市民は飲まず食わずで働いて、貴族は遊んで富を独占した。資本主義社会では、同じ対立が労働と資本の間で交わされた。現代社会では、マネーゲームという架空経済が、国民を搾り取り極端な富を独占していると考えられている。というのは、架空経済であって、制度的に保障しようとしているだけで、実態があるわけではない▼フランスで今、米国と独占資本追随のマクロン政権に対し、イエローベストの抗議行動が進展している。銀行やスターバックス等が破壊の対象となっている。フランス革命のお国柄か?それとも、2011年9月に始まった、ニューヨークのウォールストリートでの、オキュパイ運動(Occupy Wall Street! We are the 99%!)と同じように、衰退してしまうのか?いずれにしても、日本では起り得ないようではある▼平等社会では競争社会のように、急速な発展は望めないとかいう意見がある。が、一部の強者が圧倒的多数の弱者を、欲しいままに搾取するのは、明らかに正しいことではない。平等のために、多少の進展の遅れは許容されるべきなのではないか?現代社会では平均すれば、総ての人類がそこそこの余裕で暮らせるはずなのだから▼圧倒的多数の実態経済を、限られた少数の架空経済が支配している。1%が99%の富を独占する社会は、科学的に行詰るしかないのは明白ではある。あの手この手で、矛盾を無いものにしようと、四苦八苦してはいるのだが▼米国ではトランプ政権が誕生した。好きか嫌いかの単純的評価が、巷を飛び交っている。が、米国支配層、つまり世界覇者の代表が右往左往しているのではある。支配層も一枚岩ではなくなってきているのが見える。トランプでまとまれないだけのことだ▼急速なマネーゲームの進展の行く末は?  (コラムX)

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『みちしるべ』**『みちしるべ』101号の編集を終えて**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月12日 | 単独記事

『みちしるべ』101号の編集を終えて

編集長代理

まずはお詫びを

 この『みちしるべ』が100号を発行するにあたって、様々なご意見を頂きました。その100号は、中々の難産でした。そして、この101号に至っては、更なる遅延。

 本来、7月号ですが、7・9・11月号の合併です。そして、年内の印刷発送の予定が、越年。加盟団体・メンバー会費で運営ですから、大変申し訳ない次第です。

 1999年9月創刊で、2ヶ月に一度の発行。本来なら、2016年3月号で100号の計算です。それが2018年5月号となったのは、14の合併月があったということ。

 もうお終いにしては、と言うご意見もありますが、100号も発行したのだから、頑張って欲しいというお考えも。電子化というアイデアもありますが、紙媒体の発行を中止すると、つながりがなくなってしまう、という危機感はぬぐえません。

 道路全国連の歴史では、既に道路が出来てしまい、全国交流集会に参加しなくなったところもあります。しかしながら、兵庫県は全国でも大県です。各団体や全国とのつながりを考慮すれば、もう少し存続を考えたいと思います。

 様々なお考えもあろうかとは思います。忌憚のないご意見をお待ちしております。

年の瀬に振り返って

 阪神道路ネットの20数年の歴史の中で、多くの方々を見送ってまいりました。今年は、前代表世話人の大橋昭さんが、8月22日に81歳の生涯をおえられました。『みちしるべ』の原稿を支えてくださった多くの方が、お亡くなりになったり、ご高齢やご病気により、執筆が出来なくなっています。

 昨今、電子化の時代。E-mailで頂く現行の編集は簡単です。が、手書きの原稿やFAXによる原稿は、打ち直しの必要があります。でも、形態は様々でも、原稿を頂ければ編集は進みますので、有難いです。

 思い違いで、過去に掲載の原稿を頂いたり……。それはマシな方で、お電話で原稿の約束をしているのに、なかなか来ない。再度のお電話では、既に送ったつもりのようです。期待はできないと、半分諦めたりしていますが……。

 若い世代は、SNSなどでの交流が中心で、まとまった文章を書くことは無いようです。軽薄短小型の思考に陥り、深く考えることがなくなってしまう懸念を感じるのですが。電車に乗っていると、スマホを覗いていないのは少数。はなから持っていないのでは、出しようもないのです。

 そもそも、阪神道路ネットに若年層の参加者はいません。が、そんな若い人たちにこそ、原稿を書いてもらいたいという気分ではありますね。

二人の障がい者と暮らす

 さて、編集長代理といたしましては、両親ともに見送っているのでが、隣に暮らすオバちゃんの介護で苦戦しています。他人なのにとの忠告はあります。包括センターに言わせれば、小生がいなければオバちゃんは、とっくの昔に死んでいるとも。

 独り暮らしであれば、極度の認知症なので、行政が入って寸時に片付く話すが。同居家族がいるから問題。IQは低くは無いのですが、社会性が欠落しています。完全にネグレクト状態でした。

 この様な例外的状況では、介護行政が行き詰まります。弁護士とも相談して、市長申し立ての後見人を付けるよう申請したのは、半年も前のこと。遅々として進まないので不審でしたが、行政としては、市費が発生することに抵抗があったようです。ようやく後見人が就くようですが。

 オバちゃんの介護で忙殺されています。ヘルパーさんのできないことをやってます。洗濯・掃除に台所の片付け。ゴミ屋敷だったところを、何とか生活できるところまで片付けました。家人がお金を出さないので、ヘルパーさんの食事の用意の為に、自腹で食材の用意をしています。

 しかしながら、古稀直前の小生には手作業はやっつけても、忙しすぎると思考能力がついてきません。各種会議の方向性の手配や、文書作成になると、手作業程は進展しません。編集長代理も悩ましいです。

世情も道路行政も

 東京オリンピックや大阪万博。これでまた、公共事業の28%と決まっている道路建設が進みます。細かな道路はほったらかしで、巨大道路建設が……。東日本も土砂災害もどこ吹く風。

 マネーゲームも矛盾が爆発しそうなのですが。何とか継ぎはぎの行政が混迷しています。政治屋もレベルはこれ以上下がりようもないところまで低迷。

 幼い子供たちがかわいいのは、年をとったせいなのか? この子たちが将来頑張ってくれるのか? この子たちの為に老骨に鞭を撃つのか? 社会は崩落するのか、立て直す革命があるのか?

 編集長代理としましては、102号に悩まされます。みなさんのご支援を!

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『みちしるべ』**大橋昭さんの追悼文集へ寄稿のお願い**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月12日 | 藤井新造

大橋昭さんの追悼文集へ寄稿のお願い

 本年(2018年)8月22日、長年の同志大橋昭さんが亡くなりました。享年81才でした。ご冥福をお祈りします。昨年12月アスベストを原因とした中皮腫が発覚し一年に満たない闘病生活で亡くなられたことは悔しい限りです。

 大橋さんは、住友金属の養成工として入社され出世コースを投げうって、労働運動に関わられます。その活動は、労働者映画協議会、阪神労働運動活動者会議、道と環境を守る会などいずれも代表あるいは事務局長を歴任し、阪神間の社会運動に大きな貢献をされてきました。

 活動分野は映画サークルなど文化運動、労働運動、政治運動、民族問題へのかかわり、また南北高速道路建設に対する戦いの中から環境問題へのかかわりと多方面に渡ります。

 この度、大橋昭さんの追悼文集の作成を企画しました。皆様方に大橋さんに関する思い出、あるいは足跡をご存知であればそれらの顛末の寄稿をお願いする次第です。また、大橋さんの写真、大橋さんが作成された文書等あればご紹介ください。

 追悼文の締め切りは2019年1月末とします。追悼文の長さは問いません。どうぞ協力のほどよろしくお願いします。

呼びかけ人代表 藤井新造

  連絡先 : 〒660-0892 尼崎市東難波町3-19-17 阪神合同労組気付
          ☎  06-6482-0066  Fax 06-6481-3984
          Mail : hanshinroso★gmail.com (★印を@に変換してください)

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『みちしるべ』**大橋昭さんを偲んで**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月11日 | 藤井隆幸

大橋昭さんを偲んで

藤井隆幸

 腰痛などで、阪神間道路問題ネットワーク(以後、「当ネット」と記す。)の月例会には、長らくお休みが続いていた大橋さんでした。今年(2018年)になってからだと記憶していますが、中皮腫が新たに見つかったと伝えられました。澤山世話人などと、一度見舞いにと話していた矢先でした。8月22日の訃報を聞き、心残りが重たいです。

 当ネットには、準備会の初回から参加されておられます。澤山世話人も何度か『みちしるべ』に書かれておられるのですが、1995年5月25日に、かつて尼宝線沿いにあった砂場徹さん(当ネット初代代表)宅で、砂場・大橋・澤山・三橋の4氏と私が集まったのが初めてです。

 故 砂場代表が体調不良などもあり、2004年3月27日の月例会で、大橋さんが代表世話人の任につかれました。以後、2009年4月5日の月例会まで務められましたが、やはり健康上の問題で退かれました。次の代表世話人は決めずに、事務局だけで現在も進行しています。最後に月例会に参加されたのも、2012年1月29日に甲子園口のポケットパークハウスで行われた時でした。

 当ネットの交流誌『みちしるべ』には、合計32本の寄稿をされています。当然、代表であった期間は、年頭の辞を必ず書かれており、第30号の記念出版の際などの挨拶や、時々の時事について書かれておられます。

 大橋さんは歴史について語られることが多く、「中国街道ぶらり記」などを書いておられます。しかしながら、歴史物の記事が案外少なく、その時々の社会情勢について書いておかねばと言う、任務意識が高かったものと思われます。

 また昨今、DVD時代になり、相当数のVHSテープに映画を録画しておられたのが、無駄になったと嘆いておられました。が、そんな昔の映画に想いを馳せるなど、文化人的な側面も多かったようです。

 インターネット接続可能な方は、「阪神道路ネット」「みちしるべ」で検索して頂くと、当ネットの交流誌のブログ版『みちしるべ』が出てきます。カテゴリーから「大橋昭」をクリックして頂ければ、大橋さんの総ての記事を読むことが出来ます。

 今となっては、数々の想い出が残るのみですが、その内、冥土で再会するかもしれません。その時は、ゆっくりと語り合いたいものです。

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『みちしるべ』**大橋さんの思い出**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月11日 | 澤山輝彦

大橋さんの思い出

澤山輝彦

 大橋昭さんが亡くなられた。闘病中なのは知っていたが、回復されることを願い一度もお見舞いにも行かなかったことが悔やまれる。阪神間道路問題ネットワーク立ち上げの初めが大橋さんとの出会いであり、代表世話人をしていただいたことがある大事な人であった。

 今となれば、長かったのか短かったのか分からない付き合いのなかで、砕けた打ち解けた話しの記憶は案外少なく、固い話しばかりしたのを思い出すのも大橋さんらしいのではなかろうかと思う。

 そんな数少ない打ち解けた話であったと私が思っている中に、メキシコの作曲家、アグスティン・ララのソラメンテ・ウナ・ヴェスという歌がある。トリオ・ロス・パンチョスが歌っていた。どんなはずみで、どちらが言い出したのかも思いだせないのだが、大橋さんが、あの歌好きやねんええなあ、と言われ私も好きな歌だったので、意気投合したことがある。叙情性豊かな曲であるだけ、ほろ苦い思い出でになる。

 もう一つも歌のからんだ話しになるが、戦後の流行歌に岡晴夫が歌った東京の花売娘というのがあり、その歌詞の中に「粋なジャンパー アメリカ兵の」という所がある。澤山さん知ってるか、と大橋さんが教えてくれた。庶民のための流行歌にこんな歌詞が入っている、そんな時代背景が大橋さんには強く印象に残ったのだろう。

 こんな事を大橋さんは何か秘密でもあるかのように、小声で言ってくれた。顔はもちろん笑顔であった。こんな時の大橋さんを思い出にしておきたい。

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『みちしるべ』**「外に出よう」その為に足を鍛えよう!**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月10日 | 川西自然教室

「外に出よう」 その為に足を鍛えよう!

田中 廉

 「外に出よう」と書いたけれども、今回はその前の足の鍛え方。特にひざ痛の改善について、私がやって効果があったと思う方法をご紹介します。これはNHKの「ガッテン」で紹介されていた方法の変形です。変形というのは「ガッテン」の通りにやっていたと思っていたのですが、後で「ガッテン」の雑誌を買って調べたら少し違っていました。

 我流は風呂の湯船につかり、足を伸ばします。そして左右の足の膝のお皿を右足は右手というふうにそれぞれの側の片手で上下、左右、斜めに各々50回づつ押すのです。皿が固くて動きにくい時は、皿を押したときに動きやすい角度に足をすこし曲げます。だいたい数分で終わります。「ガッテン」流は、足を延ばして座り(別に入浴中とは書かれていないので、居間等でも大丈夫)、両手の親指を片方のお皿のフチにあてて、上下、左右、斜めの合計8カ所を5秒ほど押すのです。痛い場所はコリがあるので重点的に行います。

 何故、この方法で膝痛が改善されるかというと、膝関節の周囲にある「関節包」をほぐすことにより「関節包」が柔軟性を取り戻し、痛覚神経を刺激することが少なくなるからだそうです。しかし、この方法も万能ではなく、長く歩いた後や山で急な坂道を長時間歩いた時など、その後痛みます。しかし、上記のストレッチを行えば、またよくなります。

 膝痛に悩まされている人は、騙されたと思って一度試してください。効果はわりあい短期間で出ます。私の場合は1週間もたたないうちに膝の痛みがなくなりました。

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『みちしるべ』**おおまがどき・たそがれ時**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月10日 | 澤山輝彦

おおまがどき・たそがれ時

澤山輝彦

 各戸配布の兵庫県広報紙「県民だより」2018年12月号には、人も車も交通事故に遭わないために、という特集が組まれていた。特に、この時季の夕暮れ時は要注意とある。

 古くから、暮れの薄暗くなって行くころ、たそがれ時を、大禍時、大魔時、逢魔時(すべて「おおまがどき」)と言い、大きな禍の起こる時間と呼んだのである。県民だよりには日没前後1時間の「薄暮」は人影が見えにくく、帰宅時間と重なることもあって、交通事故が急増する「魔」の時間帯とある。まさに魔ものに出会う時間、街灯などでぐんと明るくなった二十一世紀にあっても、この時間は逢魔時なのである。さすれば現代の我々が、この時に出会う魔ものは水木しげる先生の画く怪しきものではなく、自動車なのではないか。そうだと言ってしまえば、優良なドライバーには申し訳ないが、人には魔がさす、ということもあるのだから。

 「県民だより」では夕暮れ時、夜間の事故を防ぐためとしてドライバー向けに、①早めにライトの点灯、②暗い道でハイビーム、③歩行者がいたら「横断するかも」が前提の三つをあげている。早めのライトの点灯、それはそれでけっこう。②のハイビームはどうだろう。私は歩車分離のない道での対向車のハイビームは好きではない。対向車のハイビームに目がくらむのだ。歩く先が一瞬だが見えなくなり、足元が不安になるのである。ここはハイビームにしなくてもよいと思う。スピードを落しさえすればいいのだ。歩道の無い住宅街の道路などでは、夜間は時速30kmぐらいで走ればいいのだ。これで制動距離も短くなり、事故防止に効果があるだろう。スピードを落として走行すれば「魔」は着かないのである。

 歩行者向けの事故防止策として、「県民だより」では反射材を身に着ける、と書いてある。子供ならともかく、大の大人がぴかぴかする物を身につけて、家路をたどるなんてあまり格好のいいものではないが、迷信的「おまもり」より効果があるのはたしかだ。装着できる人はすればいい。また夜間は明るい服装で外出とあるが、これも一日の流れがあるから朝の出かける時から夜間を想定して明るい服装をと決めることは難しい時もあるだろう。でも、明るい服装をするということは自己防衛のためにはそうするほうがいいにちがいない。「魔」ものは明るく白っぽいのを好まないのだから。

 交通事故にあわないために、広報紙でこんな特集を組まねばならないこと、なげかわしいことではないか。

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『みちしるべ』**夏の甲子園で**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月09日 | 山川泰宏

夏の甲子園で

2018年8月 7日(火)

山川泰宏

第100回全国高校選抜大会2日目

 第100回全国高校選抜大会2日目の応援で甲子園球場に行ってきました。例年、関西北海道クラブの会員として北北海道代表、南北海道代表の試合に春、夏とアルプス席で応援をしています。

第100回全国高校選抜大会2日目(平成30年8月6日)

第3試合 北照(南北海道) 対 沖学院(南福岡)  2対4
第4試合 旭川大学高校(北北海道) 対 佐久長聖(長野) 4対5

 延長戦に入り、延長13回から今回初めて採用された、甲子園で初めてのタイブレークが採用され、惜しくも敗れてしまいました。勝てる試合と信じて手に汗をにぎるような祈りに似た心境の一塁アルプス席でしたが、選手の健闘を称え平成30年の北海道の高校の戦いが終わりました。

 全国的な猛暑の中、甲子園球場においても熱中症対策の水補給のアナウンスが多くあります。場内販売の物品販売のお嬢さんたち、笑顔が心を和ませ、又白い歯並びが目につきました。一杯700円のビールを求める交流のひと時の会話に、売り子の心遣いを感じ、財布のひもがほどけます。

どこから? 西宮市甲陽園です。
大学生ですか? いや、浪人です。
来年又武庫川女子大学を受験します。

 アルプス席でかわす交流、故郷なまりが心地よく耳朶をくすぐります。道産子同士の仲間の何気ない会話が浜風に乗り、応援の合間に聞こえてきます。

「暑くて!ゆるくないね!」「そーだね~!」

 熱戦が終わり、既に19時過ぎ、アルプス席を吹く風は爽やかな心地よい浜風に覆われていました。

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『みちしるべ』**街を往く(其の二十一)<室内編>**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月09日 | 街を往く

街を往く(其の二十一)<室内編>

藤井新造

「老いては子に従え」とは昔の諺にあるが、今は「病」に従えというべきか。

 ――死にそうと嘆いた僕に母言った ほんまにやすい命やな――(2004年 東洋大学友人の一首「中学生達」より)

 昔の言葉にある「生老病死」とは、うまく言ったものである。「死」の前に「病」があり、そこを通過して死に至ることになる。今回、個人的にそこらあたりを、少し経験したので書いておきたい。

 2月15日夕方、2階の階段から降りる時、足を踏み外した。そろそろ2階の本を整理して、捨てる本と残す本とを選別してと思い、運んでいる最中であった。両手一杯に本を抱えていて、身体が一回転して、下から3段目の所で落ちたらしい。落ちて暫くすると、偶然にも連れ合いが帰ってきて、救急車を呼んでくれた。

 救急隊員から、どこの病院を希望するのかと問われたので、即座に市民病院と答えたが、時間外で医師がいないとのことであった。仕方なく近くの外科病院に搬送してもらうことになった。そこは義母が20年も前に、終末期に入院していた病院だった。

 医師の診断では、腰椎圧迫骨折(3R)で、コルセットで固定が必要といわれた。とりあえず至急注文して取り寄せるので、当面は病院にある予備のものを借用することになった。この日から1ヶ月間、コルセット着用の窮屈な生活に入ることになった。食事のとき以外には起き上がることはダメ、安静にしておくように言われた。

 それでも入院中、私の記憶にはないが、院内を徘徊するようになり、廊下で転倒して頭部裂傷5針縫うことになる。それと同じくして、私は他の入院患者の私物を物色し、迷惑をかけ始めたらしい。それで何時の間にか、個室に入れられ拘禁されていた。体が不自由になり、しんどいので、何度ともなく拘禁状態から解放されるよう、看護師に訴え、文句を言っていた。

 夢のまた夢の中で彷徨したような状態にいたのであろうか。この間の正確な記憶は、今も思い出せない。その記憶はあいまいではあるが、確かなものもある。夢の中で、友人と会うため待ち合わせをしたり、レクレーション(山歩きか?)の行事に参加するため、集合場所に行ったりしている。なかなかメンバーが来ないので、イライラして待たされ、しびれを切らしたことがある。

 この時、私を見舞いに来てくれた友人たちは、「頭がおかしいような様子は何処にも見えなかったが」と、慰めてくれたが。友人との会話の内容は殆ど記憶にないので、私からは確かなことは何一つ言えない。恥ずかしい限りではあるが仕方ない。

 約1ヶ月間入院していると、医師より「身体の歩行困難は徐々にリハビリの訓練で治しなさい。」と、やんわり退院勧告をされた。私も毎日の食事が同じものが多く、まずかったので退院に同意することにした。以降、通院2回で、この病院との縁は切れた。幸いにも、思ったより早く退院できたが、腰痛のため歩行困難で外出が出来ず、自宅で寝たきりの生活を、ほぼ2ヶ月も要した。この間、一番困ったことは入浴であった。勿論、自力では困難なため、息子どもによる交代での介助を受け、何とか切り抜けることが出来た。

 6月より、やっと少しづつ歩けるようになり、半日のリハビリ訓練に行けるようになった。身体が少し動けるようになると、外部世界との接触が体力的にも可能になった。例えば、近くの歯科医へ通院できるように。

腰痛骨折に続き大腸憩室より出血

 腰痛骨折により、歩行困難な日常生活から少しづつ解放されようとした矢先、7月24日早朝、急に大腸より出血(入院して憩室よりとわかる)。又も救急車で県立西宮病院へ直行。救急隊員から何処がいいかと聞かれたので、毎年、同病院で大腸へカメラを入れていると言うと、消化器内科へ入院できた。

 以降3日間、夜中に出血があり、途中、輸血をしてもらうことになった。主治医は、最後の手段として開腹手術にて、大腸の一部を切除するかもしれないと言った。但し、非常に困難な手術なので、危険度は高いのを覚悟しておいてくれと宣告された。仕方ない。素人の私は、専門の医師団にお任せする以外にない。輸血されている最中、想い出したのは、60年前JR大阪駅の梅田南交差点の小さい広場で、献血車にて献血したことだ。小心者の私は、注射針が痛かったのを未だに覚えている。そして献血した後、何か飲み物を貰った記憶がある。(牛乳か?)

 その当時の梅田界隈は、今と同じく人が激しく行き交う、がさつで落ち着きのない雰囲気を醸し出していた。金もなく、少し時間があればバイトとバイトの合間に、ここ(梅田)にきて、ぼんやりと為すべき事もなく、一人で梅田から桜橋間、その次は阪急東通りをよく歩いていた。そして、歩き疲れると古本屋を覗いては、心を落ち着かせていた。

 話をもとに戻すと、入院5日後に奇跡的に出血は止まり、1週間の絶食状態が続き、快方に向かう。そして約20日間の入院は終わった。退院間際にDr.の1人は、「これからも大量出血があれば、何時でも救急車で来てください。」と、ご丁寧な事後対策を教えてくれた。

 病床で輸血を受けている時、ちらほらと頭に浮かんできたことがある。「記憶を編みなおす」(鶴見俊輔のエッセイにあった言葉)作業と言えば大袈裟であるが、あれは何であったのかとの一瞬の出来事であった。「死」が近づいてきて怖くなり、そこから逃げ出そうとして、ベットから降りはじめようとした。実際は色んな装具が体内に挿入されているので不可能なのだが。

 深夜一人でベットから降りようとしたので譫妄と思われ、詰所の数名の看護師により、強制的にベットに押し付けられ寝かされた。私が大きな呼び声をあげたのは覚えているが(異常な状況にあることがわかっていたが)、それ以上の具体的な出来事が思い出せない。「死」が怖かったのか、それとも無意識下での条件反射的な行為(?)であったのだろうか。今でもわからない。

 「記憶を編み直す」作業力は、私にはなくなっているらしい。

 さようなら2018年、次年度は私の亥年である。

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『みちしるべ』**武庫大橋を見に行こう(斑猫独語 75)**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月08日 | 斑猫独語

武庫大橋を見に行こう(斑猫独語 75)

澤山輝彦

 東京都中央区にあるお江戸「日本橋」の上を走る首都高速道路を地下化する概要が決まったそうだ。(毎日新聞2018年8月26日社説)  都市景観や文化継承を二の次に進んだ高度成長期が今反省されているのだ。社説ではこの計画にかかる費用を問題視しており、景観と費用のバランスをという見出しがつけてある。大阪でも中ノ島の景観をぶち壊した阪神高速があるし、JR神戸駅周辺の高速道路も景観としてはいただけないものである。まあこれらのことは以下の橋とは直接関係は無い。

 川西市立図書館の廊下においてある各種情報パンフレットの中に、「今こそ巡りたい兵庫の近代歴史遺産150」というのがあった。発行は兵庫県歴史文化遺産総合活用推進実行委員会《長いなあ》とある。ほほうこんなに歴史遺産という物があるのか、面白いよく出来た資料である。その六つに折り畳まれた一番後ろページのNO.36に武庫大橋があったのだ。武庫川を渡る国道にかかっている橋、二度通ったことがあるが、ただ道路の続きとしての橋であった。この橋が歴史遺産として値打ちがある物だとは思ったこともなかった。パンフレットにそれはこう説明してあった。

 建築年代=大正15(1926)年=阪神国道(国道2号線)の改修に伴い架橋された鉄筋コンクリート造の橋梁です。側面全体を人造擬石で装飾し、高欄には花崗岩を用いるなど街路橋としてデザイン性の高いものとなっています。張り出しテラスを設け、美しいアーチ構造の橋は日本の「名橋」の一つです。

 そしてその日もう一つこの橋が出ている資料と出合ったのである。古本屋で見つけた「道を拓いた偉人伝――道をつくり、道を愛した5人の軌跡――」永富謙著、イカロス出版2011年という本、200円だった。目次を見れば、第4章 数々の名橋を世に送り出した増田淳人、その生涯 十三橋、武庫大橋、長浜大橋ほか、とあるではないか。武庫大橋が写真入りで紹介されているのはもちろん、阪急電車の窓から見慣れた十三大橋の写真もある。

 なぜこの日これまで意識もしなかった武庫大橋に関することが一度に目前に現れたのか。こういう偶然、それを単なる偶然と見ることは出来ず、因果関係で説明は出来ないが、何か『意味のある偶然がそこにはたらいている』とユング(精神分析学者 1875~1962)は考え、これを「シンクロニシティ」と名付けた。少々オカルトチックな感があるのだが、確かに何でこのことが今日偶然重なり起こるか、ということは何度も経験している。このたびの出会い、まさしくシンクロニシティであった。こういう出会いのあった武庫大橋だ。橋を渡り、そこからの風景を眺めるだけではなく、橋をじつくり眺めに行きたいと考えている。この橋については詳しくこの本で知ることが出来た。まさしく、歴史遺産である。

 ところで、武庫大橋の上流には阪神間道路問題が大きく反対運動として取り組んだ山手幹線が通っており、武庫川を渡っている。どんな橋が架かっているのだろう。気にしたこともなかったな。新旧見比べるフィールドワークとして例会を持ってもいいなと思う。今年、湾岸線の側道を越える例会を持った。なんか橋につきまとうようだが、これも橋、橋、大橋昭さん追悼の何かがなせるところなのかもしれない。

 土木建築物はその役目を考えれば必要以上の装飾は不要であると思うが、費用との折れ合いがつけば、設計者のセンスの生かし所としての装飾というか付随した何かはあってもいいのである。そこに文化が生まれる。

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