街を往く(其の二十一)<室内編>
藤井新造
「老いては子に従え」とは昔の諺にあるが、今は「病」に従えというべきか。
――死にそうと嘆いた僕に母言った ほんまにやすい命やな――(2004年 東洋大学友人の一首「中学生達」より)
昔の言葉にある「生老病死」とは、うまく言ったものである。「死」の前に「病」があり、そこを通過して死に至ることになる。今回、個人的にそこらあたりを、少し経験したので書いておきたい。
2月15日夕方、2階の階段から降りる時、足を踏み外した。そろそろ2階の本を整理して、捨てる本と残す本とを選別してと思い、運んでいる最中であった。両手一杯に本を抱えていて、身体が一回転して、下から3段目の所で落ちたらしい。落ちて暫くすると、偶然にも連れ合いが帰ってきて、救急車を呼んでくれた。
救急隊員から、どこの病院を希望するのかと問われたので、即座に市民病院と答えたが、時間外で医師がいないとのことであった。仕方なく近くの外科病院に搬送してもらうことになった。そこは義母が20年も前に、終末期に入院していた病院だった。
医師の診断では、腰椎圧迫骨折(3R)で、コルセットで固定が必要といわれた。とりあえず至急注文して取り寄せるので、当面は病院にある予備のものを借用することになった。この日から1ヶ月間、コルセット着用の窮屈な生活に入ることになった。食事のとき以外には起き上がることはダメ、安静にしておくように言われた。
それでも入院中、私の記憶にはないが、院内を徘徊するようになり、廊下で転倒して頭部裂傷5針縫うことになる。それと同じくして、私は他の入院患者の私物を物色し、迷惑をかけ始めたらしい。それで何時の間にか、個室に入れられ拘禁されていた。体が不自由になり、しんどいので、何度ともなく拘禁状態から解放されるよう、看護師に訴え、文句を言っていた。
夢のまた夢の中で彷徨したような状態にいたのであろうか。この間の正確な記憶は、今も思い出せない。その記憶はあいまいではあるが、確かなものもある。夢の中で、友人と会うため待ち合わせをしたり、レクレーション(山歩きか?)の行事に参加するため、集合場所に行ったりしている。なかなかメンバーが来ないので、イライラして待たされ、しびれを切らしたことがある。
この時、私を見舞いに来てくれた友人たちは、「頭がおかしいような様子は何処にも見えなかったが」と、慰めてくれたが。友人との会話の内容は殆ど記憶にないので、私からは確かなことは何一つ言えない。恥ずかしい限りではあるが仕方ない。
約1ヶ月間入院していると、医師より「身体の歩行困難は徐々にリハビリの訓練で治しなさい。」と、やんわり退院勧告をされた。私も毎日の食事が同じものが多く、まずかったので退院に同意することにした。以降、通院2回で、この病院との縁は切れた。幸いにも、思ったより早く退院できたが、腰痛のため歩行困難で外出が出来ず、自宅で寝たきりの生活を、ほぼ2ヶ月も要した。この間、一番困ったことは入浴であった。勿論、自力では困難なため、息子どもによる交代での介助を受け、何とか切り抜けることが出来た。
6月より、やっと少しづつ歩けるようになり、半日のリハビリ訓練に行けるようになった。身体が少し動けるようになると、外部世界との接触が体力的にも可能になった。例えば、近くの歯科医へ通院できるように。
腰痛骨折に続き大腸憩室より出血
腰痛骨折により、歩行困難な日常生活から少しづつ解放されようとした矢先、7月24日早朝、急に大腸より出血(入院して憩室よりとわかる)。又も救急車で県立西宮病院へ直行。救急隊員から何処がいいかと聞かれたので、毎年、同病院で大腸へカメラを入れていると言うと、消化器内科へ入院できた。
以降3日間、夜中に出血があり、途中、輸血をしてもらうことになった。主治医は、最後の手段として開腹手術にて、大腸の一部を切除するかもしれないと言った。但し、非常に困難な手術なので、危険度は高いのを覚悟しておいてくれと宣告された。仕方ない。素人の私は、専門の医師団にお任せする以外にない。輸血されている最中、想い出したのは、60年前JR大阪駅の梅田南交差点の小さい広場で、献血車にて献血したことだ。小心者の私は、注射針が痛かったのを未だに覚えている。そして献血した後、何か飲み物を貰った記憶がある。(牛乳か?)
その当時の梅田界隈は、今と同じく人が激しく行き交う、がさつで落ち着きのない雰囲気を醸し出していた。金もなく、少し時間があればバイトとバイトの合間に、ここ(梅田)にきて、ぼんやりと為すべき事もなく、一人で梅田から桜橋間、その次は阪急東通りをよく歩いていた。そして、歩き疲れると古本屋を覗いては、心を落ち着かせていた。
話をもとに戻すと、入院5日後に奇跡的に出血は止まり、1週間の絶食状態が続き、快方に向かう。そして約20日間の入院は終わった。退院間際にDr.の1人は、「これからも大量出血があれば、何時でも救急車で来てください。」と、ご丁寧な事後対策を教えてくれた。
病床で輸血を受けている時、ちらほらと頭に浮かんできたことがある。「記憶を編みなおす」(鶴見俊輔のエッセイにあった言葉)作業と言えば大袈裟であるが、あれは何であったのかとの一瞬の出来事であった。「死」が近づいてきて怖くなり、そこから逃げ出そうとして、ベットから降りはじめようとした。実際は色んな装具が体内に挿入されているので不可能なのだが。
深夜一人でベットから降りようとしたので譫妄と思われ、詰所の数名の看護師により、強制的にベットに押し付けられ寝かされた。私が大きな呼び声をあげたのは覚えているが(異常な状況にあることがわかっていたが)、それ以上の具体的な出来事が思い出せない。「死」が怖かったのか、それとも無意識下での条件反射的な行為(?)であったのだろうか。今でもわからない。
「記憶を編み直す」作業力は、私にはなくなっているらしい。
さようなら2018年、次年度は私の亥年である。