『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』街を往く(其の二)**この街に来たことのいわれ**<2009.7. Vol.59>

2009年07月05日 | 街を往く

街を歩く(其の二) この街に来たことのいわれ

藤井新造

 前回書き忘れたが、この街に住みつくまでの経過を簡単に書いておきたい。

 若い時、私は西宮市で3年間下宿していたが隣の芦屋市に足を踏みいれた記憶はない。 芦屋市についてあまり感心を持っていず、どちらかと言えば車谷長吉の『赤見四十八瀧心中未遂』の本に書いている文言に近いものを抱いていた。少し長くなるが引用する。

 「駅は芦屋川の川の上にあった。川の両岸は閑静な、見知らぬ高級住宅街である。川沿いの道を歩いて行った。………毛のふさふさした白い犬を連れた、様子のいい奥さんとすれちがった。だしぬけにこんなところに住んでいる人の生活は最低の生活だと、思うた。しかし、会社の同僚たちはみな『中流の生活』を目指していた。あんな生活のどこがよくて。ピアノの上のシクラメンの花が飾ってあって、毛のふさふさした犬がいる贋物西洋生活。ゴルフ。テニス。洋食。音楽。自家用車。虫酸が走る。あんな最低の生活。私の中の『中流生活』への嫌悪感」。

 この車谷の書いている芦屋市民に対する嫌悪感は一面的でしかもあまりにも独断に偏する気持ちが現れている。しかし、この街の人に対し他の市民より時には羨望と怨嗟の標的になる。このことについては後日書くことにし、私がこの街にきた(転居)のは事情が違う。

 42年前に共同住宅を建て、そこに保育所を作るためであった。場所は、岩園小学校の手前(正門)から左折して市民プールの方向へ、そしてその道は芦有道路へと通じるのだが、左折してすぐ左側に宮川へ流れる小さな河川と河川の間に挟まれた土地であった。周辺は在日朝鮮人の人が多く住んでいた。

 まだ、朝日ヶ丘幼稚園、小学校もできていなく、近辺の家屋も少なく、コーポの前の道路は舗装されておらず、雨の降る日など道はぬかるみ、長靴を履いて通勤したものだ。まだ朝日ヶ丘町は開発途上の町であった。芦屋でもこんなに昔のままの道路が残っているのかと驚いたものである。コーポの建築中にここへ何回か足を運んでいたが、雨の降る日に来たことがなかったので、そんなことがわからなかった。

 そして、コーポ(朝日ヶ丘コーポと名づける)に住んでみたものの、仕事が忙しく家と駅の間の15分間往復するのみで、この街についてのことは何一つ知らなかった。何年か経ち、近くに朝日ヶ丘ゴルフ練習場ができる案が地主の中田さんより周辺へ知らせるチラシが入った。この時、騒音がひどくなるので、近隣の人約50人と設営反対運動を起こし、半年余の交渉の末、テニスコート場へと転換させた。このテニスコートが、阪神大震災の直後、学生の仮設住宅として提供されることになろうとは想像だにしなかった。

 また話が飛ぶが、芦屋に転居する前に吹田市で5年余そこで生活をしていた。この街は大阪駅に比較的近く、共稼ぎの両者の勤務地への通勤時間が同じ位であった。それより何より3ヶ月の子供を保育してくれる仏教系の保育園がみつかったからである。この保育園探しは半年近く時間を要した。当初3ヶ月の子供を預かったことはないので入園を断られた。でも6ヶ月の子供を預かった経験があると、園長の姉さんが、私たちの窮状をみかねて、入園をサポートしてくれた。0才児保育園を探して、大阪府内を歩く。

 当時1960年頃、大阪府内でも0才児を保育している保育園は少なかった。私は大阪市の福祉課の人と相談し協力方をお願いした。幸いにも協力的で、いくつかの保育園を丁寧に教えてくれた。数は少なくて一つ一つ訪ねて行った。

 最初は中津の済生会に行き、次に十三のミード教会、あと一つ東野田にあった施設であった。済生会では、「あなたのように子供を育てることが困難な親のためかわりに子供を養育します。但し、子供との面会は月1回にして下さい。」と言われた。同じようにミード教会では週1回の面会にして下さいである。また東野田の民間施設の保育所では、0才児は入園しておらずそれらしい設備もなかった。

 そこで上述したように、吹田市の仏教系の私立保育園の園長の姉(保母さん)に泣きつき入園許可を得ることができた。だから入園できる保育園が見つかったと言うより、強引に頼みこんだと言うのが正しいかも知れない。入園許可を得てさっそく吹田市に転居した。

 またまた話はもとに戻るが、吹田市に移転する前には門真市に住んでいた。結婚してすぐに住んだ街である。ここを撰んだのは、大阪駅を中心にコンパスで円を描き等距離で家賃が1番安い土地であることがわかったからである。その理由の真偽はわからないが、松下電器(現パナソニック)の大きい工場があり、市民税が安いとの噂のあったのを信じた。私が転居した当時の門真市は、蓮根畑が次から次へと宅地として造成され、文化住宅がいくつも建ちかけていた時代である。

 この街で忘れられない経験をした。台風襲来である。長男が誕生したのが1961年6月末で、台風が9月に襲来、直撃である。この時、門真市では建築中の家が倒れ、たまたまその様子を見にきていた大工さんが亡くなったと、翌日の新聞で知った。それほど大型台風なのであった。安普請のせいか文化住宅の屋根瓦は飛び住宅全体がぐらぐらと大揺れし、天上から雨がもり出し、私はこれは危険と思い一家4人が毛布を身体に巻いて外に出ようと様子をみたが、出られる状況ではなかった。台風はますます激しくなり風雨は増し、畳の上に土砂まじりの雨が降ってくる。そして文化住宅の揺れはとまらない。その時、日頃全然会話も交わしたこともない、顔をろくに会わしたこともない、隣人たちが協力し合った。廊下の壁が吹き飛ばされそうになったので、各々が部屋の畳をはがし廊下に立て、防ぐことができた。そんな忘れられない怖い想い出をこの市で経験した。

 台風と言えば、私が幼い時、小さい河といっても河口なので河幅50mはあったと思うが、氾濫しそうになった。この時、村中の者が総出で堤防の上に土のうを積み上げる作業を一生懸命にやっていたのを側でみていて、早く家に帰るように言われた。この時は土のうのすきまより水が吹き出し、今にも堤防が決壊しそうな時、男達が遑しく働き田畑に水が入るのを防いでいたのを想い出した

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