『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**老い ①老々介護と嗅覚**<2017.1. Vol.96>

2017年02月25日 | パリ&東京&沖縄より

老い

三橋雅子

① 老々介護と嗅覚

 90号【斑猫独語66 きなくささがただよっている】(2015.7.)で、澤山氏が「におい」の記事を書かれた時から思う事、多々のまま今に至った。

 カントは人間の感覚の中で嗅覚が最も下位の、つまり重要でない感覚だ、と言う。私は「あゝ、これがカントの人間知らずの極み」と積年の溜飲を下げた気になる。最も動物的であるが故に、動物である人間にとっても生き死に関わる重要なもの、の筈だ。根底の一動物としての基本的な感覚をないがしろにしては、高尚な「理性」や「悟性」だけで、「よく生きる」前に、「生きのびる」術はおぼつかない。沖縄戦での、情報皆無の真暗闇で、何とか生きのびる術を誘導したのは、嗅覚などの、動物的な感覚による事が多かった筈。人間の存在理由は、並の動物の能力を超越した人間の「理性」や「悟性」であるのは、その通りだが、それを支える根底の「動物としての身体感覚や能力」なしでは生物として失格であろう。近頃、健全な生きる術を見失ったような、例えば病的な「カントおたく」の主は、そこらの犬や猫達のふるまいと半日付き合ったら、「健全な動物」に立ち帰れるのでは? と思うが。きっと彼らは嗅覚も鈍っているのでは? と思うのは、私の勝手な想像の延長だが。

 老々介護に立ち戻ると、このカントが人間の感覚の中で最も蔑視した「嗅覚」が、如何に大切か、如何に頼りになる助人か、身に浸みる。フッとよぎる嗅覚の先には、家人が「ない、ない」と否定する「ブツ」の証拠が間違いなくある。嗅覚よ有難う、鼻に感謝々々の日々である。思うに、この嗅覚も、他の諸々の感覚の老いと同じく、随分と老化の一途を辿っている筈。にも拘らず、この素早さ適格さで、介護の案内役を努めているのは、老骨に鞭打っての獅子奮迅の働き、心して労わねばならない。

 嗅覚の泣き所は、自分自身の悪臭には気付きにくいことである。口臭しかり。特に老臭にいたっては、その感が深いが、従ってある程度の人まかせ人頼みである。同居人の感覚がアテにならなくなれば、「それを教えてくれる真の友人」確保が喫緊なのだ。「私の口臭を教えてね」と言えるような。

 再び「老々介護」に立ち戻ると、「嗅覚の健全」は時に厄介なもの、いっそ鈍ってくれた方が? と思わない事もないではない。が、やはり総体的には、この嗅覚の健在に支えられてこそ、健全な老々介護が成り立つ、と考えざるを得ない。生きている事の喜びは、日々の厄介な労苦と手を携えてくるように。とはいえ、一日が過ぎて、文字通り腰を伸ばしてヤレヤレ今日も何とかツトメを終えた、と安堵するのはまだ早い。これから夜中のツトメがまだまだあるのだ、と苦笑しながら。それまで貴重な熟睡をむさぼるべく、布団にもぐり込む。嗅覚よ、たゆまず頑張っておくれ! 頼むぞ、と鼻をうごめかしながら。

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『みちしるべ』**ちゅら海⑤(辺野古からの報告)**<2016.1.&3. Vol.92>

2016年03月20日 | パリ&東京&沖縄より

ちゅら海⑤(辺野古からの報告)

三橋雅子

<宜野湾市長選敗れる>

 1月25日、投票日の翌朝、私がどこへ電話を入れても無反応??? 一体どうしちゃったのだろう? 今日は後片付けに行かなくては? と覚悟していたけど……やがてぼちぼちと連絡が入る。どれもこれも、布団かぶってふて寝してた、と。呆れた。純情な沖縄おのこ達の意気地なし! と言いたいところだが、ヤマトおなごとて同じ心境。あーあ、と疲れがどっと出てしまった。

 この選挙、翁長知事を先頭に、オール沖縄としてどうしても勝たなければならない、辺野古の先行きがかかっている選挙だった。それなのに、やられてしまった。私は選挙の手伝いは初めて。それでも、猫の手も借りたい、仕事は山ほどある……と。読谷発辺野古行バスの日も、近頃空席が目立ってきて赤字が痛々しいが辺野古は先が長い、こっちはもう限られた日数しか……と、後ろ髪引かれながら宜野湾に向かった。コンコン作戦と称する戸別訪問も、路地裏演説の旗持ちで街頭に立つのも、雨の中破れかぶれのずぶぬれのポスター貼りも……初体験のノリで何とかこなした。

 それにしても相手陣営への本土中央官邸とその周辺からの、ひそやかで強力な実弾はものすごい、というのは単なる噂なのか? 否、そうではない迫力があった。何しろ相手陣営は、パリっとした揃いのシンボルカラーの紺のジャンパーで見栄えがいい。これが、ずらーっと国道のかなり長い距離を埋め尽くして勢ぞろいしているのは、敵ながら壮観だった。こちらのシンボルカラー、グリーンのジャンパーは、ほんの幹部だけのちょぼちょぼで、我々助っ人組など、自前でグリーンと思しきものを何とかまとっている位。お昼も遅くなって帰ってみると何もなかったり。コンビニ弁当は苦手だからいいものの、私は懲りて、自前でお弁当を持って行ったことも。だが通常は手作りのカレー、豚肉たっぷり、ほかほかのけんちん汁やポテトサラダ……などがつつましく並んでほほえましくも嬉しい。ほかに自家製サータアンダギーやら、おかずもろもろとか……お菓子やミカンの個人差し入れ。ここは総本部ではないけど、ほかの事務所もこんなものなのかなあ? 未経験者には分からない。が、ど忙しい最中、そんなこと訊く間もなかったが、いま終わって虚脱状態になると、そんな、しょうもないことが懐かしく思い出される。

 とにかく一番の痛手は、最大の争点である「辺野古」がぼかされた、もしくは見事にかわされた事。「基地のことは国に任せよう」にはなんて馬鹿な、裁判を争っている相手だよ、国が躍起になっているのは、とにかく辺野古建設……などと言っても、もはやここでは通じない(?)もどかしさがあった。加えて現職の強み、これと言って目立つ失政がなかった、なんでわざわざ変えなきゃならない? 給食費ゼロ……等々良いことずくめの財源は? 基地の補償金ももらわずに……。かくて辺野古建設の危機は見事にうやむやのまま、カスミの彼方へ、こんなばかなこと、と地団太を踏んでもすでに遅かった。何か打つ手はなかったのか? ○○学会と思しき宗教団体の、巧みな話術には参って、いささかへこんで帰ると、そんな戦術に引っかかって、かかずらわっていてはだめだ、と叱られた。「さっさと切りあげて次に行く!」確かに。おかげで回るはずのノルマが回り切れてない。はめられたか!!

 私の入った地区は相手候補のお膝元、というからとりわけ厳しかったのも当然か? 相手は徹底的に企業を落としていった、という。これには何といっても実弾の強み、やられたなあ、のため息のみ。相手の後押しは黒子黒子の暗躍で、進次郎をよこすくらいがギリギリ? さぞ躍起になって、実弾投入を陰に陽に効果的に放ったことだろう。この悔しさと教訓を県議選と参院選へ、のエネルギーにするしか? ああ、どっち向いても 厳しいなあ!

 加えて「翁長知事の埋め立て承認取り消しに対して国が県を訴えた代執行訴訟」の判決は「和解案」だと。何これ? 責任逃れの逃げ、に見えるけど。早速(この結果のせいかどうか?)安倍内閣の支持率が上がり、辺野古への移設賛成が半数を上回った、と。あな恐ろしや!

<ゲート前にブロックを積む>

 ここはいち早くショックから立ち直り、新しい戦術に燃えている。昨秋から毎週水曜早朝のゲート前は、議員団も含む500人ほどが結集して、ゲートに入るトラックを阻むことに成功している。この実績に加えて、もう1日「阻む日」を加えようと。300人ほどは集まるが、これでは機動隊に排除され、作業車に入られてしまう。だが7時前のゲート前動員はなかなか辛い。

 しかし、ここは選挙の敗北から何としても立ち直らなければ…の、むしろ勇み足の風が舞っている。すでに始まっていたブロック積み上げ作戦が加速、ゲート前に並び立つ県警たちの前に積み上げる。その前に座り込み。しかしこれも比較的簡単に排除されてしまった。このブロック作戦には反対の意見もある。あくまで我々人間自らの力だけで阻みたい。頼るのは我々自身だけ、と。だがブロックは、何といってもかなり強力な助っ人だ。このブロックも「威力業務妨害容疑」とかで1400個が押収された。

 ザーッと寄ってくる機動隊員が人間を連れ去るのは、一人に3人がかりであっさりと「人間の檻」の中に入れられてしまう。とは言え、この、体重30キロ台の80歳を移動させるのにも3人の手はかけさせる。両脇の男性にしっかりしがみつき、片方をもぎ離されると、もう片方の男性に、渾身の力でしがみつく。これまで、こんなに必死で男性にしがみついたことはあるだろうか? と苦笑しながら。無常にももぎ離されると、今度は「おばあちゃん立って歩いて」と言うけど私は歩かない。二人、時には三人で引きずったり、手足を持ったり……、「初夜のベッドへは一人で颯爽と運ぶのよ」と今度若いお兄ちゃんに言ってやろうか? 「執行妨害にはならないはず」の悪態つきで辛うじて、やるかたない憤懣を収める。抵抗らしい抵抗はしなくても、はずみで相手のどことかに歯が当たって傷つけた、とかのかどで名護署に連れて行かれてお泊りの人も。しかし、こういう事態は極力無くそうと。仲間が勇気づけや後始末に駆けつけるのに手を取られたくないから。しかし無駄な抵抗はするつもりなくても、成り行きで「検挙」の事態になることもあるのだ。無駄な抵抗で、あられもない格好で引きずられて行くことにはプライドが許されないのか、機動隊員の手を振り払って、自らの足で「人間の檻」に向かう御仁もいる。気持ち、よく分かる。私も「毅然としたおばあ」になろうか? と迷うことも。

 今や、こうして前に座る人間たちが片付けられた後、次はブロックの上に座り込んだ人間たちを引きずり下ろし、次に、積み重ねられた、手足のついていないブロックを一つ一つ排除するまでには、かなりの時間稼ぎになる。明らかに効果はあるのだ。それでもやがては、すべてが排除され、トラックはゲートを入る。

 しかし何といっても朝一番と午前中を阻むことが勝負。昼からの仕事では効率が悪いし、一体3時からのゲート入りなんかで業者の日当は? 半日とか、夕方○時間なんて計算もあり? なんて全くおせっかいな相手の都合などを忖度するのも、いくらかの発散になる。「ブロックの追加が来たぞー」の掛け声に、休憩中の重い腰を持ち上げて、ブロックのリレー運搬。本土から、ブロックの送料、と称して5000円のカンパがあったとも。

 結局午前中は一台も入らなかった、大成功! の喜びに、昼をぬかるな、の注意にも拘らずゲートは簡単に1台入られてしまった。ここで感心するのは、「だから、ぬかるな、と言ったじゃないか!」のごとき怒声が聞こえないことだ。「しまったな」くらいで、誰をも咎めたりはしない。もっとも注意を喚起した本人も、それを実行にまで果たせなかった責任もあるのだし。

<あの手この手と縁の下の力持ち>

 あられもない格好で引きずり出され、見苦しく運ばれるのは嫌だという者も、それなりの役割はいくらでも。座り込みの隊列から離れ、機材を積載して待つトラックの周囲をウロチョロしているだけでも十分役に立つ。彼らには目障りで、いざゲートが開いてスワ、と侵入する時にいち早く排除しなければならない対象だから、陰に陽に嫌がらせをやって、一人でも二人でも大の機動隊員をひきつけておく。かくて間接的に「排除の手」を減らせる役割もある。それぞれ分に応じた「すること」はいくらでもあるのだ。

 更に、欠かせない、見えない縁の下の力持ちはいろいろ。参加増の嬉しい悲鳴は駐車場の確保と、遠い現場までの送迎の人手。また、ひっきりなしに「トイレ車あと二人」などのプラカードが行き来して「トイレ行き」の運搬車に誘導、このピストン運搬による「トイレ確保」は、年寄りの参加には必須。機動隊と取っ組み合いさながらの攻防の最中でも、このトイレプラカードは忠実に、往復して休むことがない。確かに、機動隊に揉まれている最中こそ何時になく、もよおしてしまうかも……。

 さらに現場では見えないが、資材を運ぶトラックの動向を、あちこちの通過地点で、今○○積んだトラックが通過……とか観測、通知してくる孤独な人材達も。時には、複数人で少しでも通過地点での抵抗をして、遅らせもしているらしい。

 500人の早朝動員があれば、資材搬入車、作業車の阻止は可能だが、これがなかなか難しい。今のところ、議員も出動する「総動員」の水曜日だけが阻止を成功させている。だから私も水曜はいかない。あちらも余計なエネロスは避けるのか、水曜日は来なくなった。この日は止めたのだ!! 週1回といえども。次は木曜日を止める!

 かくて、読谷勢もようやく次のステップに。

<早朝参加への組織づくり>

 これまで行ける者がうまく起きられたら、とにかく一人で突っ走る。足のない私が拾ってもらうくらいのものだった。しかし高速代まで一人、二人では勿体ない。そこでようやく、行ける者が集合地点に赴き、行ける人を効率的に乗せて一人でも多く現場に、という体制づくりに何とかこぎつけた。帰りの足もいろいろの時間帯に。行ったら最後夕方まで帰れない、という「活動家」と常に一緒では足も鈍る。永い抵抗に向けて、息の長い体制を組まなくてはならない。ここでは、いつも「戦いはここから」なのだ。これが軌道に乗って人数が増えれば、早朝バスも出せる。隣町嘉手納も巻き込んで一緒に、とか。木曜日も「完全に止める日」も近か近かのはず。

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 今私は、サラサーテのチゴイネルワイゼンを聴きながらこれを打っている。演奏者は古沢巖。別に誰でもいいのだ。昔はハイフェッツだの、シゲティだの誰でなくちゃ、とか気取ったものだが、そんなことより、ジプシーの、荒々しくも哀愁に満ちた、泣くような弦の躍動が聴ければ、もう簡単に私の涙腺は全開……。この曲に、特別の思い出があるわけではないが、何故か昔から、心が深く揺れるような時、この曲を選んで聴いたような気がする。私の「いまわの際」にはこれをかけてもらおう、と前から決めているが、そろそろちゃんと頼んでおかないと……。しかし、こんなのかけたら、せっかくの静かな最後の息……が、また吹き返してしまうのでは? との懸念も。最終の幕のとじ方は、なかなか難しいらしい、と思うこの頃である。だが、そんなことに心煩わすことこそ、余計なエネロス。眼の前の私のノルマをこなすのみ。何故かチゴイネルワイゼンは辛さ、悲しさを愛撫しつつ、いつも私を奮い立たせてくれる。

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『みちしるべ』**ちゅら海④**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年11月30日 | パリ&東京&沖縄より

ちゅら海④

三橋雅子

明け方のゲート前

 坐り込み500日を迎え、敵も本土からの「本格的」機動隊を寄こす、と刻々情報も変わってきた。こちらも、強硬な作業再開に、何より早朝の資材搬入を少しでも遅らせ、手こずらせ、あの手この手で何とか工事を先延ばしさせたい。11月18日、坐り込み開始から500日のキャンプ・シュワブゲート前は、過去最大の千人が結集。この日、機動隊の姿は見えず、資材搬入も無く、ゲート前は「止めた、止めた!」と歓声を上げ、「千人集まれば機動隊もこれない」と、喜びの声をあげた。嬉しくても涙、悔しくても涙、黙々と組んだスクラムから、一つ一つ指をはがされ連れ去られるのにも涙……、これでは涙が枯れてしまう。

 翁長知事が「埋立承認の取り消し」をした事を違法として、国は県を訴えたという。へぇっ? 国みたいに絶大な権力を持ったものが、県を訴える!? そんなこともありなのか。国がそんなことをする程、へこまされたりもありなのか。事はそう簡単に済む訳もないが、まあそんな事はエライさん達に任せておくしかない。その任せ方を左右するのは、現場の力関係だ。という切実な実感に迫られる。

 ゲート前7時の資材搬入を阻止するスクラム要員になるには、6時半過ぎに現場に着いて、何とか駐車場に車を割り込ませるため、遅くとも5時半に読谷を出なければならない。先日は「すまん、すまん、寝坊した」と、拾ってくれた車はガンガン飛ばし、高速道路をすっ飛ぶように……。途中、機動隊(?)を積んでるとおぼしき装甲車を2~3台抜き……。何とか車の空きスペースを見つけて、不恰好承知で突っ込み、ゲート前スクラムに割り込む。那覇からは2時間はかかる筈……、でもいつも那覇勢が主力。人口が多いのだから当たり前か……!

 なるべくなら男性と男性の間に入ってスクラムを組みたいが、それも若い男性の……。そんな贅沢は言ってられない。片方オジンならまだマシとして、圧倒的に多いオバア達とガッチリ組む。初め、私は怖かった。どうしても60年安保時の、剣をチクチクと向けてくる機動隊の、そして仲間の激したスネイクデモに振り落されるかもしれない恐怖……が。あゝ今は何と年相応に、穏やかなこと! 仲間達とたゞ黙々と無抵抗で、しっかり組んだ筈のスクラムの腕を、脆くも剥がされてゆく切なさを、只々受け止めて、言うなりに連れ去られ、一時オリの囲いに入れられて待つ……。その屈辱に耐えるだけだ。

 だが、この屈辱を忘れまい。国とは? 国民あっての国家の筈だけど、都合の悪い国民は引き剥がし、とっ捕まえてオリに入れて一時なりとカクホする……。その脇を、道を作ってくれた警官に守られて、資材を積んだトラックがゲートを入って行く悔しさ。しかし、一人一人剥がされてゆく事に抵抗もしなければ、進入するトラックの前に立ちはだかる者もいない。云う、これが無抵抗主義なのか……、と複雑な思い。悔しさに涙にくれる風景もない。いつも鼻をすすり涙をぬぐうのは私くらいのもの……。これにまた感心しきり。いちいち、これしきの事に涙したり激怒しては、来れなかったのであろう。永い屈辱の歴史を今更ながら見る思い……。

<あの手この手>の立ちんぼアピール

 作戦会議で、現場に行かれない多数の人たちと、何とか連帯感を……と、編み出した毎週木曜日の行動。読谷と隣り町の嘉手納、その境に大きなロータリーがあり、四方からの車が順に信号待ちで止まる。そこに朝7時半から1時間、基地反対のノボリ・プラカードを振りながら立ち、ハンドマイクで安倍の不当、辺野古基地の不当性を訴える。初め、やや怪訝そうに眺めるドライバーも多かったのが、回を重ねる度、目礼したり手を振ったり、深々と頭を下げるドライバーが増えてきたことに、又もや目頭が熱くなる。勿論、プイと顔をそむけたり、一心に前の方を見るドライバーも相変わらずだが、着実に緩やかな変化が嬉しい。

 これは、中年からジジババの10人足らず。片や別曜日の夕方には、「ママぐるみ」と称するグループが、保育所から連れ帰る子供共々、この地に立つ。この方がアピール力は強い筈。「命がけで産んだ子供を殺されてたまるか!」と彼女らは叫ぶ。先日は、どっさりパンの包みが車から差し入れられたとか。着実に連帯の意識は広がっている、と感じる。

『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』の上映会

 赤字覚悟で三上智恵監督の反基地映画第2弾を上映。入場料は千円、黒字に納まった。読谷文化会館の会場。折しも降ってきた雨にもめげず、続々の来場者達。「やぁ、やぁ、ご苦労さん……」と声を掛けられながら、私はご近所さんが無償提供してくれた「自分で焼いた焼物の小物類」を、100~300円で売っていた(全売上寄附)。

 今朝、電柱に貼っていたポスターを見て、「今夜? 行こうかなぁ」「来て来て」と言葉を交わした人に、「来たわよ」と肩を叩かれる。このドシャブリに有難う!

 こうした嬉しい涙の傍らで、「……でも……、日当もらって、あの連中、辺野古に行っている」の噂に相変わらず落ち込む人も。「いいじゃん、言いたいように言わせておこうよ、言う事に事欠いている証拠……」とは言うものの、2月からの皆勤者は、10ヶ月越えで、ゆうに4万円を超える出費。僅かの見返り日当でも欲しいものだ。

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『みちしるべ』**ちゅら海③**<2015.7. Vol.90>

2015年08月03日 | パリ&東京&沖縄より

ちゅら海③

三橋雅子

<嘉手納(かでな)防衛局包囲>

 7月24日、ここを人間の鎖で取り囲み、防衛局への抗議と要請文を手渡す集会「7.24沖縄防衛局大包囲集会」。丁度、読谷発バス(辺野古行き)の出る金曜日とあって私は迷った。今までも何回か大きい集会がぶつかったが、その都度迷いながらも、地元優先を選んできたから。しかしこの日は嘉手納を取った。この隣町の馬鹿でかい基地が、どれだけひっきりなしに飛行機の騒音を轟かせていることか、いつまでも「馴れない」で日々驚かされことに沸々と憤っているし。

 沖縄防衛局は県内の防衛行政の拠点(2007年、全国8ヵ所に防衛省の地方組織、地方防衛局が新設され時、新たにスタート)。日ごろ、近くの58号線は読谷への行き帰りの通り道だが、この「立派な施設」を見るのは初めて。フーン、威風堂々なかなか立派なものだなあ。

 この日の目的は「防衛庁、工事を止めろ」の「要請文手渡し」であるが、その時間までの正面前で、次々といろんな出し物。檄演説よりも絶え間ない歌や踊りや、思いのこもったサンシン………面白いよー、中の職員諸君出てきて一緒に見ない?と呼びかけたくなる………。職員といえば、ステッカー係が、剥がれてパクパクするのを、止めるものに事欠いて難儀していた。あっちの方に行ったら何かあるかも………はカンカン日照りの遠そうな道のり………ここに入っていくのもなあ、と大のおのこ二人の思案顔………。

 「あらなぜ?ここで調達が一番早道、拒まれたら、なぜ?を聞いて来るのもいいチャンス」と思わずお尻を押した。立派な躯体の沖縄おのこ達、正面玄関に向かう足はやや鈍く、と映ったのは気のせいか?………ややあって、おふたり、修理成ったステッカー持って足取り軽くニコニコと。ホーラ、成功!

 「なにか抵抗ありました?」「少しブツブツ………迷っていたけど………でも結局はやってくれた」反防衛庁ステッカーに、しぶしぶ手を貸した職員にも、内心の葛藤に幸あれ!

 防衛庁で思い出すもう一つのお笑い。読谷発のバスが出た初日、まだどれだけ集まるかも見当がつかないからであろう、乗り物は大型のバスチャーターでなく、村職員組合のマイクロバスだった。ところが、何やら大勢で布切れを胴体に巻くのに必死の作業。それは「日本一大きな村、読谷村」と大書された垂れ幕らしい。今頃、まだ宣伝して走る?と皆怪訝に。訳は胴体に大書された「沖縄防衛庁」の文字。お古をもらったのだとか。反対運動に向かうには、これを隠して………とせめてもの礼儀?皆大笑いして、防衛庁よ、貴重な足をありがとうね、と作業を見守った。あの、座り込みの防寒を気にした2月9日の初日から早くも、もうすぐ半年。今や熱中症対策。

 集まった三百数十人で防衛局を取り囲む。そしてこの人間の鎖はうねりを立てる波に。手を繋いで立ったりしゃがんだりも、いいスクワット訓練。

 アラッアラッ?見慣れた面々が、なーんだこんなところに、皆どうしたんだろう?と心配してたよ、と、いつもの辺野古行きメンバー達がちらほら姿を。あちら早退でこっちへ駆けつけて来たハシゴの読谷勢。だって、足の確保ままならぬ身に、そんな離れ業を当てには出来ないもの………。始めから嘉手納行きの便に乗せてきてもらうしか。  

<焦る? 防衛庁と陸からの応援>

 埋め立て承認に瑕疵があったとする報告(第三者委員会から)を翁長知事が受けて、承認の取り消しを検討している間に、しかも海外出張の留守中、防衛局は「本体工事の実施設計」他を県に出した(24日)。何やかや、防衛局は多分あせりもあって、「強引な」攻勢をどんどん。これも当初、昨年11月に予定の調査完了が、遅れに遅れて、2月だの6月だの………遂に9月も危うき?とずるずる後退している工事への焦り、と見てよいのでは?とはカヌー隊現場の実感。「微々たる」やも知れぬが………小さく、弱いとは言えども、ひっくり返されても返されても巨体に喰らいついていく、若い女性を交えた老人から若者までのチクチクと間断なき攻撃と抗議に、精神的に閉口しているに違いない。物理的には、なんとも太刀打ちできないほどの相手なのだが。カヌーはひっくり返されても、拘束されても、這い上がり、フロートを越え………可能な限り、作業員達に「止めなさい、手を抜け」の声を投げかける。この間はついに、女性隊員が本船の調査機器の一部?何とか棒とかに触れてきた、という。皆どっと歓声と拍手。何より、作業員達にはいやというほど、「やめろ!やめろ!」が。

 海上保安隊員達には「この恥知らずのウミザルたち………」の抗議の声が、間断なく届いているはず。精神的に参っているらしい先方も、年度替りに新人が交代すると、闘志満々が漲(みなぎ)って、やや手ごわいとか………。陸からは、声をからしての声援と抗議しかできないもどかしさ、しかし海での、巨体相手の孤独な闘争では、遠くても陸の応援の声に励まされて闘志がよみがえる………と。

 ゴツゴツの岩を登って、少しでも高みからエールよ届け、とシュプレッヒコールをわめくことも。私は脱いだ下駄を小脇に、よじ登ったり………でなかなかのトレーニング。カヌーが帰るまでのお出迎えには、ほてった足を海に漬けたり、珊瑚のかけらを拾ったり………国会前のデモより退屈しない。

 この頃、海上保安隊は、毎回のことで面倒になったのか、以前は拿捕(だほ)の後わざわざ遠く沖まで連れて行って解放したカヌー隊員たちを、岸に運んで放す。我々は拍手で彼らを迎え、ねぎらいと感謝のエールを。きびすを返す「防衛庁」には、しっかり罵倒と非難のエール(?)を。

 この間は、荒れてカヌーも出なかった海へ、読谷といえども荒れには変わりなかったはずなのに、勇敢にもあいごを捕らえに出た御仁………それを4時起きして、から揚げにしたという荷が読谷発のバスに積み込まれた。よだれを垂らしそうになったが、これは浜辺での出迎え時の捧げもの。おこぼれが廻ってこない我ら陸族は、指をくわえて………の一幕も。「今度はバスにも持ってくるから………」と。いつか「海の闘争ビデオを観る会」に差し入れられた、この魚てん、こたえられないおいしさが忘れられない。

 テント前もいつも何かと食べ物が絶えない。誰かの誕生日、とかにはケーキまでも、おこぼれにあづかる。近頃は専ら、熱中症よけの黒砂糖。

<「恵みの」台風?>

 台風の到来は痛し痒し?しかしトータルでは「蒙古襲来」時に優る幸運か?とも。キャンプシュワブ前のテントの撤収、隠し場所(秘密)の調達工面、如何に現状復帰を可能にするか?(現に前回の台風後、キャンプ側の金網前テントは再建不能に)。なかなか難儀多々ではあるが、海に浮かぶ図体のでかい「敵」はカヌーの片付けどころではすまない大難儀。何事簡単には移動も避難も困難で大ごと。台風の直接被害がなくても、引っ込めたり出したり………の対策だけで、大幅な無駄。恵みの台風なのである。しかも波風で荒らされると、いろいろやられてガタもくるらしい。でもこれは海底の珊瑚その他もやられるから痛ましい限りなのだけど。何より、若者といえども疲労の溜まったカヌー隊員たちに恵みの休暇がやってくる。

 台風再来は、またもやこれで期日延期間違いなし、とほくほく。あちらはずるずるの引き延ばされに、かなり頭にきているとか。天は正しきものに味方? 前回の9号では、私の東京行きは欠航でフイになったが、まあ良しとしなければ。

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『みちしるべ』**ちゅら海②**<2015.5. Vol.89>

2015年06月08日 | パリ&東京&沖縄より

ちゅら海②

三橋雅子

 この記事は『みちしるべ』第88号に掲載の「ちゅら海(美しい海)の辺野古」の続編です。現在進行形で、沖縄では米軍基地反対の地殻変動が起こっています。その模様を、現地からの報告として、短い文章にしたものを集めています。マスゴミには載らない、とれとれニュースです。どこから読んでも良いので、読みやすいものです。阪神間でも、地殻変動を!……、と感じさせるものです。

<編集部>

<次々と集会の盛り上がり?>

 5月25日の新聞に私は不覚にも涙を流してしまった。これは沖縄の絵ではない。前日24日の、紛れもなく、国会を囲む、全国の反基地の声の代表、1万5千人の東京の話だ。現に他の各地でも辺野古基地建設反対のデモや声が……と。ついこの間まで、辺野古に冷たかったマスコミの多くもやっと……これを載せたか……。載せざるを得なくなったか? 少しは、ほんの少しでも、風向き変わってきた? アベはともかく、全国ベースの「国民の」風向きが。

 この1週間前の5月17日、沖縄那覇のセルラー球場を埋め尽くした3万5千人の熱気も本土の新聞は伝えたらしい。もっとも現地でも、テレビはチラチラっとだけとか、「ずーっとラジオの実況を聞いていた」という人も。現地に行かなくても、ラジオにしがみつき、だれかれの主張にうなづき、そうだ、そうだ、とこぶしを挙げて「オナガがんばれ、頼むぞ!」と口角泡を飛ばしていた家族も少なからず……に違いない。

 このド暑い日、「家で応援」が賢いかも。

<うちなーんちゅーうしぇーてぇないびらんと>
(沖縄人をないがしろにしてはいけませんよ)

 この県民集会での、翁長知事の結びの言葉。幸か不幸か梅雨入りが遅れて、ガンガンの日照り、加えてびっしりの席の熱気。

 この日の人出は3万5千人との発表だが、外野席はもちろん会場外の道路にも溢れていた人波はそれを遥かに超えていただろうという。本土の集会のように、「主催者発表」との2本立てでないのがいつも不思議に思っていた。なぜかいつも主催者側発表の数字のみで、それを下回る数字が挙がったことがない。

 この日の発表は、消防法による「定員」を超えるのはまずいので実際より内輪になっているのだという。また、人口1千万を超える東京での「国会を囲んだ1万5千人」と、ざっと東京の1割の人口の沖縄本土の3万5千人とは比較にならないが。ともかく大東京で、まあこれだけ集まってくれたのはルンルンの出来事。

 とにかく暑かった。あれは気候の自然温度よりも、人々の内から発する熱気が上乗せされて?

 午後1時の開始なのにどうしてこんなに早くから? と怪訝に思いながら、3台のバスに乗りそびれては、と読谷役場前には9時半過ぎから続々……。積み残しは自家用車を置いて路線バスで。

 かなり遠くで降ろされてからも、行列の密度はムンムンとすごい。しかし、この、人の波で驚くのは早い。帰りは同時に溢れ出したからニッチモサッチモとはこのこと、満員電車の如く、遅々として動かず、バスを乗り捨てた所までの遠いこと。国会議事堂からすぐに地下にもぐって……と言うわけには行かないのが身に浸みた。(もっとも1万5千の帰りは、地下鉄への通路もさぞ溢れたことだろうが)沖縄には鉄道がないのだ、辛うじてモノレールはあるけど。そういえば、わが前住地「本宮」も鉄道のない町だったなあ。

 壇上の顔ぶれで沸いたのは、もちろん期待の王子、翁長知事。滅多に大会と言えども顔を見せられないこともあるが、やはり今この人に何とかこけずに初志貫徹で乗り越えてもらわねば……との悲願がこもっている。そして必ず話題になるのは、「こけた」前知事もここに顔を出して一言詫びてくれれば許すのにね、と。

 壇上の、一人ひとり貴重な人材に群集は絶大な拍手を惜しまなかったが、中でも「本土から超多忙の、貴重な時間のやりくりをして」駆けつけてくれた佐藤優氏と鳥越俊太郎氏には、感謝の拍手が鳴り止まなかった。私は壇上のスターにではなく、この群集の熱気と期待に涙が出る。(この日は出なかったが、「辺野古基金」の共同代表に名乗りを上げた、映画監督の宮崎駿さんにも、バスの中など、折に触れ絶大な感謝と感激の拍手が沸く)本土から如何に見放されていたか、本土で燃える「9条を守る」も、「原発なくせ」も、それぞれないがしろにできない切羽詰った問題には違いないが、それと同列に繋がっているはずの「沖縄の基地問題」がいかに、ないがしろ(言い過ぎなら「軽い扱い」)にされてきたかを、私は身に浸みて思う。

遡って………

<「屈辱の日」4月28日 海に出る> 

 1952年のサンフランシスコ講和条約が発効されたこの日は、日本にとって目出度い「主権回復の日」でも、日本政府に切り捨てられた沖縄にとっては、歴史的な「屈辱の日」でしかない。

 この日、10人乗りの漁船をチャーターして海上保安庁の、ウミザルに迫る。立ち入り制限区域を示すフロートぎりぎり、海保の面々が、まじかに見えるまで接近。「海猿たちよ、恥を知れ!」「海で育でられ、海を愛して海保の仕事をするなら、まず海を守れ!」と声をからして怒鳴ってきた。彼らはひたすら「離れてください、これ以上接近すると、拿捕(ダホ)します!」

 この黄色いフロートで囲った、「臨時的制限区域」なるもの、まっとうな法的根拠に拠るものではないという。しかしカヌー隊が勇敢に、カヌーを降りてフロートをくぐり、フロート内から、カヌーを引っ張り込んで……とやるとたちまち海保のウミザルたちが寄ってたかってボカボカにカヌーをひっくり返し、胸ぐらを掴んで……と「暴力」を振るう。先日観た、この「海の戦い」のビデオでは、それはもう怪我人が続出してもおかしくない、というひどさだった。これは1月から3月までのもので、その後正当な法的根拠を問う弁護士らの抗議などで、「暴力」がやや緩和され、このビデオ程ではなくなったという。

 この日、別のところで一艘ひっくり返され、そんなこともあろうかと着替え一式は車に積んでいたが。

 まあ、無事に終わり、帰り、折角だから、もうチョイがんばって、ヘリパットの高江に足を伸ばして激励しよう、と女5人。こここそ「世界一危険な、故に辺野古への移設が必至」と言われる『圧殺の海』の大本。近頃、皆辺野古、辺野古に結集して手薄のはず。案の定、行ってみれば車輌侵入を阻止している重要なゲートに二人、本部らしきテントに一人、という心細さ。せめて、やれることは?……と皆でなけなしを叩いてのカンパ、船チャーター料に加えて、身軽になり過ぎたスカスカの帰りになった。早朝からの出動で、もうエネルギーまで切れ、ひたすら爆睡、夜の「屈辱の日・那覇集会」はパス。年取ったものだ。長道中の送迎を勤めてくれた女性元社会科教師は、私達を読谷に送ってすぐ、きびすを返しての那覇行きだったが。「やれる人が、やれる時に、やれることを」の読谷スローガンに素直に従おう。

<山城議長一時引退>

 平和運動センター議長・山城氏入院(前号の肩書き間違い)。悪性腫瘍が日に日に大きくなっているのに、みんなの懇願にも振り向かず、気持ちは分かるけど……それは無茶すぎない? これが最後……かといわんばかりの、シュプレッヒコールのマイクも人に渡さず、最後まで地を蹴って……。

 謎のしこりが、大分前から気掛かりのまま、癌と分かって、第一線からの退場となった。辺野古第二ゲート前で、「必ず戻って来るからな」という彼の挨拶に、「ゲートの向こう側の最前線」の機動隊長も、「必ず戻ってきてください」と見送ったという。

 もっと早く退場して治療に専念すればいいのに、と悔やまれるが、最前線で体を張ってきた彼としては、常に今が正念場…………と容易に引けなかった心情も分かって痛ましい。
これに先立ち、読谷の、辺野古行きのバスの中では「山城議長からマイクを奪って少しでも休ませるよう」と読谷勢のへたくそな歌で時間稼ぎをするべく「黄金(くがね)の歌」を練習しながら行ったのに……そんな暇は与えられず、彼はマイクを握ったまま声をからし続けた。(私達がテント前で涙しながらこの歌を披露したのは山城議長入院後。)

 「黄金の歌」とは、「黄金でその心を汚さないで 黄金の花はいつか散る……」というものである。

 そういえば、読谷村の辺野古行きのバスには、「日当が出る」という噂が立っているという報告に、「純情な」人たちは憤慨し、落ち込んだりもした。毎回バス代に充当する1000円を払い、それではまかないきれない赤字に、カンパ箱が回ってくるのに……。「敵のあせりを物語るのではないか? 言うことに事欠いて……」と私は思う。「そうだ、気にするな」と賛同者。

<ハワイにオスプレイが落ちた日>

 やっぱり落ちた。この夜ここ読谷の我が家の頭上をあたかもスレスレといった感じで、4機続けて轟音をとどろかせて通過した。いつにも増して屋根スレスレか? と本気で思うほど。今夜もまた、低く、4機続けて行った。話し中の電話に、「何も聞こえないのよ。どうしてか聞こえる?」「聞こえる、聞こえる、そんな物騒なとこ、早く帰ってきたら?」

 この騒音、思わず国道43号線被害の何とかデジベルを「懐かしく」思い出してしまった。その都度、個々に当局に抗議をしてカウントさせよう、と。基地そのものの町、お隣、嘉手納ではこの受付をしている。ここは皆我慢強いのか?

<金髪の女性・オーストラリア人>

 シュプレッヒコールの声がひときわ高い金髪の女性。「私が米軍兵のレイプにあった被害者です」と堂々と日本語で言う。直視出来ないような気がして、こっちが目を伏せてしまう。彼女の「元気」が逆に痛ましい。彼女は自費をはたいて、これまでの「米軍による市民の被害事件」の一覧ポスターを作っている。彼女のレイプは東京立川でのことだったという。「米兵による被害」の多い沖縄の方が彼女の活動の場になるのだろう。

<記憶語れぬ残酷さ・・・ある日のバス>

 バスに乗るたび、回を重ねるたび、新しい友人ができる。辛い告白を聞く羽目にも。ほとんど全滅したといわれる読谷村の「チビチリガマ」の体験者。その家族が生き残ったのは「6歳だった私が泣き出したので、家族がまわりをはばかって、一家でガマを出た」から。中に残った人たちは全滅(?)。その幸運は、「人には決して言うな」と永く、きつく口止めされ、沈黙を守る辛い数十年だった、という。彼女らの生き残りが、他の家族の死に繋がったわけでは全然ないのに。当時6歳といえば私より4つ若い、とそのいたいけさが身に沁みて、辛かったであろう、その真っ白の髪を、長年の苦渋の沈黙を強いられた年月を刻む深い皺を、せめて撫でて上げたいと思いながら、私は涙で、その皺も白髪も見えなくなった。

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『みちしるべ』**ちゅら海(美しい海)の辺野古**<2015.3. Vol.88>

2015年04月06日 | パリ&東京&沖縄より

ちゅら海(美しい海)の辺野古

三橋雅子

 とにかく美しい海。ジュゴンを追っ払い、珊瑚をガンガンぶっこわしている作業船さえなければ、どんなに心休まる、心惹かれる風景だろう。

<なぜか機動隊しりぞく?>

 今日3月27日は、辺野古湾のシュワブ第2ゲート前の座り込み開始から264日。読谷村発のバスで、私が参加し始めてから2ヶ月が経つ。回を重ねるごとに緊迫感(といってもここではまだまだ、のんびりムードなのだけど)と「基地は作らせないぞ!」の声をからしての、いつにない激しいシュプレッヒコールとデモ。その後、島ぐるみ基地建設反対市民会議の山城議長が一番喜んだのは、「今日は、機動隊が前面に出てこなかった!」こと。毎回、高まってゆくデモの迫力にもかかわらず。「機動隊よ、ありがとうねー。よくぞ、今日は前に出てこなかったな。これからもその調子で頼むぞ! これからも、ずーっと、奥にひっこんでいろよ! 出てくんなよーーー」と叫んで、「やった、やった!」とみんなの爆笑と拍手にかこまれた。何だかおかしくて泣き笑いになってしまう。

 翁長(オナガ)知事の工事中止命令など歯牙にもかけない中央の、いかにも「沖縄なんか……」とバカにし切った声が聞こえてくる対応にも、ここではカッカと憤る声は聞こえない。リーダーが「あくまで非暴力で……」などというまでもなく、暴力など思い浮かばないのでは? そしてスローガンは、ひたすら「あきらめないこと」。もくもくと、座り込みに参加し、時々ゲート前で「ちゅら海を返せ!」のデモをするだけ。

 この前、明らかに不当に、「境界線のラインを越えた」かどで一人が中に引きずり込まれた時、ガンガンの抗議の末――仲間が不当な扱いを受けたときは、激しい怒りで、かなり熱くなる――この時は、山城議長がされたように名護署に連行されずに帰されたが。本土からの移住者が「いやー、危うく俺は飛びだして県警の胸ぐら捕まえて、不当に連れ込まれた仲間を帰せ! とゆすぶってやろうと思った。しかしフト足元のばあちゃん(毎日欠かさず座り込んでいる84歳の名物ばあちゃん)が、黙ってじっと睨みつけているのを見て思い留まった」としみじみ反省の述懐をしていた。

<私の住む村 読谷発バス>

 「ヨミタンから来たー、読谷のバスが着いて応援が来ましたー」。辺野古の第2シュワブゲイトに近づくと、「読谷村職員組合」の旗を先頭に行く我々に歓迎の声と拍手。面映く思いながら、しかし……果たしてこのジジババ達、ゲート前に座り込んで何の役に立つんだろう? 60年安保の、連日国会を取り巻いた、あれだけの群集と旗の波と「アンポ粉砕!!」の激しいデモが、あれ程あえなく、むなしく終わったことを嫌でも思い出さざるを得ないのに。「この安保を通しては日本の将来はない!!」と叫び続けて、果たして、このテイタラクになった!

 とはいえ、ここ辺野古の海辺で、我々は当面、必要とされている。確実に。このシュワブ第2ゲートから運び込まれる、埋め立て資材の搬入を阻止すること。隙あれば撤去されそうになるテントを守ること。そして、夜間の手薄になった時の人員確保のために、夜間組を少しでも仮眠させる貴重な要員なのだ。週日は動けない働き手たちに替わって、留守番と座り込む抗議運動は年寄りの役目。読谷村のスローガン「できる人ができる時にできることを」を裏面に掲げた、帰りのバスに乗り損ねないための番号札を、徘徊老人の如く首にぶら下げて黙々と行く。

<最前線・カヌー隊の戦闘>

 バスの中で聞くカヌー隊の活動報告。その最高齢者(73歳の読谷出身・在住者)が現場の熾烈で、不法な弾圧への戦いを語る。「海の安全を守る役目の」海上保安隊が、いかに暴力的にカヌーをひっくり返し、「身柄を確保」し、わざわざ遠い沖合いに連れて行き、解放と称して冷たく波の荒い「危険極まりないな海」に放り出す。などという許しがたい行為をしているか。カヌー隊も、あの手この手で「珊瑚礁をガンガンぶっ壊す行為を今すぐ止めろ!」「県知事の中止命令がきけないかー」と叫び続け、「お前らそれでも、沖縄の海の恩恵を受けて育った人間か?」と糾弾する。掘削隊に抗議をするために、時にはおとりカヌー2~3艇が先行する。それのだ捕に掛かっている隙に、本命が突入する……。など、あの手この手の作戦で作業船に迫り、工事を止めるよう訴える。しかし沖縄といえども海の水はまだ冷たい。ひっくり返されて、ずぶ濡れの後は73歳の身には厳しいはず。

 カヌーの操作は割りと簡単というが、必須技術はひっくり返されたカヌーを表に返して再度乗り込む術。本土からの若者はすばやくこれを身につけて、頼もしく抗議活動に勤しんでくれている。

 夜は夜で、くたくたの身をお風呂にでも入って暖かい布団で寝たい……。にもかかわらず、本土からの応援隊が宿泊代(一泊2,000円、ひと月なら1,000円にまけてくれる)の節約をかねて、テントで泊まってくれるのが、まことにありがたい……などという話を聞きながら、シュワブゲート前に着く。

<まだ間に合う>

 海からの報告は痛ましい。着々トンブロックが投下され、ジュゴンを追い払い、サンゴ礁を、悲鳴を上げたくなるほどガンガン押し潰す……。ああ、これからは天然モズクの季節なのに(家族で潮干狩りよろしくモズク採りを楽しんだものだという)……工事の準備は粛々と着々進んでいる……確かに。もうだめか……が本音でもある。しかし、最前線で戦うカヌー隊の最高齢者は、まだ大丈夫、陸からの応援がある限り……と。①ボーリング調査はまだまだ終わらない。まだ(!)3箇所しか終わってない。後12箇所ある。これを止めるのだ。だから時間はある。②埋め立ての土はどうする? 稲峯名護市長は市の財産である土は一粒たりとも採らせない、といっている。他からも運ばせない。他にもいろいろ……どだい、当地の協力なしに、こんな馬鹿でかい施設建造が出来るものなのか? 地元で、陸で、できる阻止はまだまだ手立てがある。だから[決して諦めない]限り阻止はできるのだ、と。「仲井真にこけられた、もしくは騙された」痛い教訓は生かされるはずだ。無論今でも、所詮は翁長も同じさ、としらけている若者もいる。仮に、仮にそうだとしても、そこに逃げ道、退路を作らせない方法はある、と皆信じている。その路線をあの手、この手で造らなければならない。

<村主体の運動>

 我々が乗って行く読谷発のバスとは、何と老人クラブを始め、各種村民団体が結集して、村職員組合が世話焼きをして出している。沖縄広し(?)といえども、村主体の運動はいまのところ、ここしかない。もっとも那覇からのバスは大型を、堂々10台連ねるほどの壮観だが、主体はあくまで「辺野古新基地建設反対市民会議」。このバスは、「那覇にさえ行けば辺野古に連れて行ってくれる」便利さがあり、現に県外からは、空港に降りて那覇バス停に行けば、そのまま辺野古へ、というありがたさがある。

 読谷村職員は、休暇こそ自前だが「一度行ってこい」と押されるようにして代わる代わる世話役に参加している。出発には、黒スーツを着た村要職たちや議員がずらり並んでの「お見送り」には驚く。それも毎回の事。村長が乗り込んできて、「ハイサイグスヨー(こんにちわー)ナンチャラカンチャラ(なんだかチンプンカンプン)……」と挨拶して(もちろん後半は標準語だが)激励を受ける。「しゅっぱーつ!」には議員や町の要職達が手を振ってのお見送り、面映い。ある時、彼等がきびすを返す頃、「しまった!」とバスを止め、積み忘れた「読谷村職員労働組合の旗」を取りに戻る「大笑い」の一幕も(これは帰りのバスに乗る時の目印、迷子にならないための必需品)。この一時しのぎの借り物を、早く本来の「読谷村新基地反対村民会議」の旗に、という声は強いが、なかなかカネ、ヒマ共に間に合わない。また、この観光シーズンに、バスの確保だけでも大変なのだ。3・21大会時には、集合時間30分前に早くも満杯、まだ続々……の積み残しを、組合の車や乗用車などで後追い……合流となった。こんな時ばかりは、「沖縄タイム」(時計はあって、なきも等しい)はどっかいっちゃうんだねえ、と笑いあった。

 今日の朗報の一つ。北谷町(チャタンチョウ)が読谷に倣って、町主体の基地反対団体の結成を決議、バスを出すようになったとの事。着々、前進はしている。

<翁長(オナガ)をこけさすな>

 この、県意が素直に通らない悶着は、仲井真(ナカイマ)前知事が県民への公約を反故にして、辺野古基地新設の許可を飲まされてきたことに始まる。それも「公約違反」にこうべを垂れて[申し訳ない]ではなくて、土産をもらって「いい正月ができる」と意気揚々と?('13年暮れ)。始めからの戦略にきまっとるという者も。県民の落胆と、もはや……、という失意は、これですべてお仕舞いか? と一時は……。しかし「オール沖縄」に結集して、その[オナガ圧勝]の熱気は、続く衆院選で革新全員当選と、保守全滅をもたらした。(’14年暮れ)。なのに本土の、あそこまでのテイタラクは? と私は一人で地団駄を踏んでいたが、もう「本土の理不尽」には慣れっこなのか、人の非は言わないのか……?

 だから、だから、今度こそ[オナガをこけさせるな]が合言葉。しかしオナガとて所詮は自民党、という不安も……それを県民があくまで「公約」を盾にそれを遂行させる、そして、それが、本土の「信じられないアベ支持」を崩す導火線にならなくては……と私は思う。沖縄は[俺達は決して諦めない]を叫び続ける。それしかない。

<ゲート前>

 ここはいつも賑やかで歌が絶えない。挨拶を請われて前に出ても、「私はしゃべれないので歌を」というのが多い。最初からギター片手に、も。そしてみんなもすぐそれに唱和する。「沖縄を帰せ」などは私にとって60年安保以来の「なつメロ」だ。「なつかしーい!」というと、ええっと振り返られるが。

 ある時は、テントの人数は少なくしょんぼり???。リーダー山城議長が検挙されて連行されたので、名護署へ連れ戻しと抗議に、皆行ってしまった。(そのうち読谷勢が来て座るだろう、とあてにされてか)手薄のテントに座り込み、時たまゲート前をデモり、県警とにらみ合う。最近、彼等は顔の大半を隠す黒い大きなカバーで目から下を覆おうようになった。顔を見られるのは、同じ狭い沖縄人同士、辛いものがあるのだろう。顔隠しのないのは、本土からの応援警察らしい。

 先日また、「読谷からトーチャーク」の声が聞こえず、テントも空っぽ……???。何と全員ゲート前に詰め掛けて、中に連れ込まれた仲間の奪還に声を張り上げて抗議、「早く返せーーーー!」の要求をしていた。早速これに合流して抗議に参加。年寄り達ものんびり座ってばかりとも行かず、なかなか忙しいのだ。これは、名護署に連行されず、大分経って解放されたが、声もかれ、抗議の太鼓をたたく手も痛くなった。

<村主導の運動の歴史>

 読谷村の取り組みにフーン、と私は西宮北部の高速道路反対のグループ作りに、公民館勤めの仲間をかばいながら、旧弊固陋の地元を避け、転々と場所換えして、地下組織まがいの準備をした事を思い出さざるを得ない。何事、お上に物申したい気配の集会は部屋さえ貸してもらえなかった。

 ここの「直接お上」は国家権力と程遠い。国家権力に蹂躙され、その結果「守ってくれてる」とか言うアメリカさんからの直接被害を、日々さんざん受けている所なのだ。この、村ぐるみの反国家権力意識は、読谷村が村長率先の下、基地返還闘争を熾烈に戦った経緯あってこそなのだろう。その成果が辺野古行きのバスが出発する読谷村役場、広大な飛行場跡の「村の中心施設」である。この場所こそが、「反国家権力意識」と「憲法遵守の精神」で勝ち取った反権力の牙城なのだ。

<読谷村と憲法9条――飛行場返還闘争>

 それにしても、この村ぐるみの反国家権力意識はどこからきたの? 怪訝に思ったが、それには、れっきとした輝かしい村史があった。

 読谷村が村長率先の下、基地返還闘争を熾烈に戦った経緯に依拠していると思われる。当時、山内徳信村長(屋良朝苗沖縄県知事の下で出納長として知事を支え、後に参議院議員2013年まで)は憲法9条と99条をひたすら盾に剣にして、広大な飛行場の返還を勝ち取り、そこに今の村役場と、付随する村民施設がどーんと、晴れやかに建っている。道理で……、私は納得した。初めて私がこの村唯一の図書館、恐らく全国最小とは言わずとも、下から一桁に入る筈の実にちっぽけな図書館(元役場)を訪れた時、度肝を抜かれたのは正面、敷地に入る壁面に「憲法9条と99条」が書かれた垂れ幕が下がっていたのだ。一瞬、この憲法危うきご時勢ゆえに? と思ったが、それにしては古びている。感動して改めて真正面から、その9条と、99条を読んだ。かつて、これ(99条)をどれだけ私は居住地の首長に、対住民説明会、懇談会などで、ことあるごとに、「職員教育でこれを周知徹底されていますか?」と訊いてきたことか。たいていは「イヤーちょっと」とか何とかにごす。「まだなら一刻も早く必ずこれを周知徹底させて!『憲法は国民が守る義務を負っているのではないんですよ、国家元首をはじめ公務員にこれを遵守する義務があるんですよ 』 ということを、あなた自身始め、肝に銘じてください」と要請してきた。首長の反応は当然鈍く、次の機会の確認にも誠にあいまいなままだったが。こんな意識で、地方行政、いやもしかして中央官庁の多くも占められているのか? 東京の区役所に永年勤めてきた人に、99条って何なんですかと訊かれたもの。

<闘争のあかし?>

 東京の、恐らく何十とある図書館(世田谷区立だけで16あった)のいずれにも、『平和憲法』と「憲法守るべし」「誰が率先して守る義務を負っているのか」を掲げた図書館はないのではないか? それはひたすら憲法にのっとって、あくまで憲法を盾にして、本来の権利を回復しようと戦った歴史の証だったのだ。「アメリカさん!あなた達は民主主義の国ではないのですか? 憲法を守る国なのでしょう? まだヨチヨチの私達のお手本になるような」と訴えながら……。今、私達はこの同じ言葉を声を大にして叫ぶべきではないか。

 このちっぽけな村の、壮烈な戦いを村長が先頭になって体を張ってやってきたのだ。当時の職員は、村の事務作業を、野外の基地闘争の場に机を持ち出して、戦いながら処理していたという。時間外は、夜討ち朝がけを住民達と文字通り一丸になって。村ぐるみの反国家権力意識は、村長率先の下、基地返還闘争を熾烈に戦った経緯に依拠している、と納得した。

 先日の県民集会に向かうバスの中で、後部席の方から静かな口調の、淡々とした発言があった。誰かが元先生のような……、と言ったが、果たして最後に山内徳信でした、と言った。この人こそ、長年高校社会科の教師を務めた後、屋良朝苗県知事の片腕として沖縄返還を補佐し、「憲法遵守」を掲げて基地返還運動の先頭に立って読谷飛行場の返還を勝ち取った元読谷町長である。

 しかし、その感動的な経緯、闘争史に触れると、この紙面は際限なく……と、後日に譲って。

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『みちしるべ』ゲットウの花咲く慰霊の日**<2014.7. Vol.85>

2014年07月26日 | パリ&東京&沖縄より

ゲットウの花咲く慰霊の日

三橋雅子

 6月末の『琉球新報』を、どさりと手にして(まとめて、もらってきたのを見る。)愕然。一瞬、最近大事故が起こったのかと……。6月24日の紙面は全頁「23日、太平洋戦争末期の沖縄戦が終結してから、68年目の『慰霊の日』を迎えた」の記事一色。どのページも、各地での『慰霊の日』の映像。慰霊碑の前にぬかずき、当時を思い出して泣き崩れ、その悲しさ、悔しさを語っている。それは二度とこんな思いを子孫にさせてはならない、いう悲願に繋がっている。

 どう見ても一瞬、ごく最近の大事故の悲しみ冷めやらぬ光景と思うではないか。半世紀を優に越し、いまだに号泣が聞こえてきそうな、悔しさ悲しさがほとばしる映像の中で、安倍総理以下、神妙そうな仮面の、中央のえらいさんたち。「慰霊」の意味がチラッとでもよぎりましたか? 靖国に意地張って足を運びたいのは、こういう「慰霊」とはあまりにも遠く、そらぞらしいと実感しました? この悲しみと怒りを前に、「どう見たって戦争への道」を突っ走りたいあなた達、正直、よくもイケシャアシャアと……。この神妙を装う面持ちはどうにも場違い。沖縄の「慰霊」のどこに、軍人の霊をまつろうなどという気持などあろうか。この地の人々が辛い経験で学んだのは、「軍は決して国民を守ってくれはしない、絶対に!」という教訓の筈。

 どうにもならない、68年前の悲しさ、悔しさ、辛かった、辛かったろうとの思いが迫ってくるような、時が痛みを和らげるのでなく、逆に時が経つほどに、その思いは凝縮されて募ってくるような迫力。直接の体験者は減っていきつつあるのに、はっきりと、おじいやおばあから、また、それをじかに聞いた父母、兄弟からのナマの辛い声が……。「一歳の妹を目の前でみすみす死なしてしまった」、「動けなくなった老婆の差し出す『もう要らないからこの金もって行け』を『金など役立たねえ』と振り切って逃げた」。詫びや後悔……、子供たちに臨場感を追体験させているのが、そうやって号泣し涙をぬぐいつつ悔やんで悲しむ、身近な人々の姿、墓前の様子だということが伺える。物心のつかないうちから、墓前で泣き崩れる大人たちを見て育った環境。きっと、先祖の慰霊をことのほか大切にする、この地の賜物なのかもしれない。歴史を伝えるとはどういうことなのか? 先祖の墓参もサボりがちな、自分の墓など不要などと軽々しく口にしているわが身を振り返ってしまう。

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 ある詩人は「ゲットウの花がきれいね」と言う友人の言葉に驚いたという。「今まで一度もきれいだなんて思わなかったから」「小学生のころ、六月になると必ず、沖縄戦の悲しみや切なさを強く感じさせる『ゲットウの花』を歌ったから」だという。「きれい……と言われて見れば、素敵な、きれいな花なのだ」という文章に胸が詰まる。

 家賃を持っていくと、大家さんが「この本、東京の友達に送るんだけど、その前に見る?」と何気なく絵本を貸してくれた。『ゲットウの花咲く時』。彼女に「何も知らない内地人を啓発しよう」なんて気分はみじんもない。が、ページを繰りながら、沖縄戦時の残酷さ、おぞましさ、悲しさ、痛み……それが『ゲットウの花の咲く時』なのだ。私は滂沱(ぼうだ=涙がとめどなく流れる意)の涙で、借り物を汚さない気遣いに追われた。

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 中央に寄り添い、おたおたの仲井真弘多知事の「平和宣言」に、今年の当初、この3年間盛り込まれている「普天間の県外移設要求」の文言が削除されていた、と言う。驚くことに。与党からの「再考要求」に応じて復活させ、何とか「3年連続で」の体裁になったが、「県外移設」の文言が「普天間飛行場の機能を削減し」の部分にだけかかって、偽装、詐術の恐れも……とは『琉球新報』の「社説」の指摘である。確かに危うい。

 今年の沖縄全戦没者追悼式(糸満市摩文仁の平和祈念公園・県主催)の出席者には、安倍首相のほか防衛相と外相(この役職の出席は式典開催以来初めて)、米駐日大使の出席も18年ぶり2度目だそう(「日経新聞」)。へーっ? 時期が時期だから? 何とわざとらしい……。でも、彼らに対する反感のデモや、「帰れ帰れ……」などのコールもないらしい。そこが「沖縄」。そういえば、ケネディ大使の初来沖のときも、「ジュゴンの住むきれいな海をよごささないで!」という訴えだけで、激しいデモも「帰れ!」のコールもなかったようだ。

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 1945年、第32軍牛島満大将司令官をはじめとする司令部が自決した日をもって、組織的戦闘が終結したとして、その6月23日を慰霊の日と定めた(日付の設定については異論多々)。1962年から、この日には沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれ、沖縄戦犠牲者の遺族・子孫らが集まり、正午には黙祷が捧げられる。

 ところが10年後、1972年の本土復帰後は日本の法律が適用となり、慰霊の日は休日としての法的根拠を失った。おかしいのでは? 本土こそ、本土上陸を阻む盾となって、集中的な犠牲を払わされた沖縄を忘れないために、この日を国の祭日にすべきだったのでは? 起源あやふやな「紀元節」に基づく「建国の日」など退けて。

 更に20年後1991年に沖縄県が自治体として、休日条例で慰霊の日を休日と定めた。よって再び正式な休日となり、「国の機関以外」の役所・学校等は休みになる。地方限定の公休日だから国の機関は休みでない。これだけでも「国は知らんよ・関係ないよ」の意思表示にみえて情けない。せめて沖縄だけでも、国家公務員こそ、この日には襟を正して日本国家の、本土決戦、上陸を食い止めてくれた犠牲の重みに深く思いを致すべきではないのか? 今、曲がりなりにも、安泰のお蔭大きい日本全土の国民が、心に留めなければならないはず。しかしどれだけの国民が、この沖縄の『悔しさの日』に犠牲者の冥福を深く祈っているだろうか? 私を含めて。

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 県外での生活体験者が「慰霊の日」の本土の冷たさを書いている。昼休み、「糸満市での『戦没者追悼式典』の中継」を真剣に見ていると、「知ってる人でも出ているの?」と怪訝な顔、子どもが平和の詩を読むと、「言わされてるんじゃないの?」との声があちこちから……と。この冷たい温度差……。一人、黙って真剣に見入る先輩がいて、聞くと、高校卒業後に戦争のことを学んだからだと。われわれを取り巻く、あまりにも貧相、と言うより意図的な歴史教育の現状。

 今年の糸満市では、小3生が「空はつながっている」という自作の詩を読んだ。「空はつながっているのにどうしてかな」と世界各地の戦争を疑問に思い、「きっとせかいは手をつなぎあえる、青い空が広がってるように」と世界平和の希望を詠んだそうだ。大人は、この心に応えなければならない。必死で。

 「ひめゆりの塔」に号泣した中学生の私。60年安保に、組合結成の日に、メーデーに、「沖縄を返せ!」を叫んでいた私。70代最後の誕生日を目前にし、今、沖縄とは!「沖縄の豊かさ」と「日本で一番放射線の少ない」を「享受」しつつ複雑な思いで。

 すでに24時間を過ぎて尚ますます、すさまじい沖縄の台風8号の猛威を初体験しつつ、私はゲットウの葉をお茶に煎じている(整腸、健胃の効とか、私には無用だが、やや甘い香りがいい)。ここでは、この葉でくるんだ餅、ムーチーを食べるそう。ちまきのように。

幾年も慰霊の涙見守りしか楚々とうつむく月桃の花

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『みちしるべ』あっ パリみたい その2**<2014.5. Vol.84>

2014年06月02日 | パリ&東京&沖縄より

あっ パリみたい その2

三橋雅子

 通りを歩いている人は、めったにいないので、たまぁ~に出会うと、間違いなく挨拶。「おはよう」だったり、「こんちわ~」だったり、『いつでもどこでも「ボンジュール」』のパリと違うのは、さまざまな挨拶。加えて、必ずと言っていいほど、歯を出しての豪快な笑い顔。パリじゃあ、笑い顔には出会わなかったなあ。確かに日本は「意味もなく笑う民族」なのか知らん?でも意味不明の不気味な薄笑いでなく、にっと確かに笑って顔を合わすのは、驚きつつ悪い気分ではない。慌ててこちらも一生懸命笑い返すが、歯を出すには至らず、せいぜいにっこり。もっとも、これは老人の話。若者は車を飛ばしているから分からない。

 向こうから、大きな顔のおじいさんが来る。つくりがしっかりとして、まるでシーサーのよう。各戸の門柱にのっかっている、魔よけもどき、ちょっとこわいなあ、どうしよう………。近づいてくる、一瞬小さいときの、おししに頭をかぶられるときの恐怖がよみがえった。もうそこまで、そのとたん、がばっと、音がしたかと思うほどの、おししの大口があいて、ニカ~ッと満面の笑み、まさにシーサーの「こま犬さんア」の方のあんぐり。辛うじて「お早うございます」と頭を下げて、ああ、もう、びっくりした………。シーサーもしくは、おししはニッカリしたままカッポしていく。

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この記事は「三橋雅子の沖縄体験記」とでも称しますか、「あっ パリみたい その1」は前号(第83号*2014年3月号)に掲載。「パリ体験記」の方の「パリの挨拶(いつでもどこでもボンジュール)」は、第78号*2013年5月号に載っています。ブログを見ている方はカテゴリー≪『みちしるべ』目次≫から探してください。印刷版をご覧の方で、バックナンバーをお持ちでない時は、事務局までご連絡をください。

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『みちしるべ』アッ! パリみたい**<2014.3. Vol.83>

2014年04月08日 | パリ&東京&沖縄より

アッ! パリみたい

三橋雅子

 車の切れ目があまりない県道で、横断歩道でもないところを老婆が悠々と渡っている。車は静かに止まり、ゆっくり渡り終わるのを、無論せかす気配もなく見守る。何かと車に追い立てられる気配を感じつけている身には、思わずパリの街の心地よさを思ってしまった。ここは沖縄読谷村(ヨミタンソン)。

 歩道を歩いていると、さっきからなんとなく後ろにシャカシャカいう気配を感じてはいたが、向かい側の景に気を取られていた。海まで続くのか、ぼうぼうたる空き地の壮大さ・・・・さすが元基地。ふと振り向くと自転車を押している老人が。こんなに広い道なのに、もしや追い抜けなくて? と脇へ寄ると、「すまんのう」とほんとにすまなそうに、頭を下げて追い越していった。荷台には重そうな荷物が。これが重くて押していたのか、と思いきや、サッと乗って行ってしまった。悪いことしたな、ながいこと。声をかけてくれればいいのに。東京だったら、もっと狭い歩道でも、無言で風を切ってすり抜けていく。この道幅なら両脇を二台が駆け抜けるだろう、携帯片手に。

 帰り、同じ道で、またも背後にカシャカシャの気配。今度はすぐによけたが、自転車を降りて押している若いお兄ちゃんが、恐縮して追い越し、サット乗っていく。降りなくたっていいのに。私だって、優に乗ったまま追い抜いていける道幅。これが始終なら、彼らは多分スカスカの車道を行くだろう。しかし人が歩いているということが、恐らく想定外のことで、きっと歩道は彼ら、これも極めて稀な自転車族の専用道路なのだ。

 それはパリと違うところ。パリの自転車の多いこと。しかし歩道を疾走する自転車はなかった。それも始めはどうして皆こんなに同じ型と色の自転車に乗るのだろう、と怪訝に思った。たまに超スマートで色鮮やかなのが、これはまたやけにカッコイイ。ある日、この「ドンくさいベージュの同型の自転車ばかり」のなぞが解けた。ずらり並んだ自転車置き場、そこへ次々何やらを差し込んでガチャンと引き出し、サッと乗っていく。また乗り付けた自転車をサッと降りて、ガチャコンとはめ込んではスタスタ歩いて去る。なるほど、これだったのか。バスに乗っていると、始めは建物の景観にばかり気を取られていたが、随所に、多分地下鉄の駅ごとくらいにある模様。日曜日などは、小さいカラフルな自転車が、親が引き出すのを待って、後をチョコチョコついて行く。

 東京の歩道は人ばかりごちゃごちゃだから、私の自転車は車道を行く(本来これが正しいはず)。同行者は危ない、危ないとたしなめるが、遥かに安全である。いつかは歩道を走っていたお蔭で、携帯片手に疾走する自転車と歩行者をよけようとして転んで膝を痛めた。どっちもよけなきゃ、という時の機敏な反応がもう鈍っている。

 ここ読谷では、すぐに自転車の調達を考えたが、坂が多くて、とても無理・・・と周囲にたしなめられ、いまさら立ち乗りでもないか、と諦めた。六甲山の北側で、ずいぶん坂道を征服したものだが。で、もっぱら歩きで、時には車道を悠々と。草が茂って、あるいは土砂で、とても「歩道」とは言えない所も多々。ここはまったくの車社会、車なしでは暮らせないと思い込んでいるようだ。楽しみな挑戦である。しかし車道を歩いていて、咎め立てするような眼差しを送るドライバーもいない。お蔭で郵便局までの超早足往復の50分や海岸までの散歩で、すぐに5千歩を越してしまう。

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『みちしるべ』パリの挨拶② お店では**<2014.1. Vol.82>

2014年01月18日 | パリ&東京&沖縄より

パリの挨拶② お店では

三橋雅子

 店に入るとボンジュール、客もボンジュール。迎える方も迎えられる方も同じなのはいいな、と思う。日本では「いらっしゃいませ」に、まずは客はしらんぷり。声を掛けられているのに無反応、というのは実はあまりいい気持ちではない。田舎だと、まあ大体顔見知りだから双方挨拶だが、その時は「いらっしゃいませ」ではないように思う。もっと近しい「おはようさん」だの「いいあんばいだね」とか。客の方も同じような挨拶。「いらっしゃいませ」はあくまで、よそよそしい不特定多数向けの辞令か。スーパーやコンビニなどでは当然「いらっしゃいませ」の連発と、しらんぷりの洪水。店側のヘリクダリと、客の「客たる態度」が歴然。パリびいきをするつもりはないが、パリの店に関しては、「対等」の心地よさと、双方にっこり、という温かさがある。これはあるいは、個人商店がまだまだ健在、の由縁かもしれない。もっとも「自称パリつう」によれば、客の「ボンジュール」は、「私は怪しいものではありません、品物を見に来たんですよ」という挨拶で、双方の「ボンジュール」の意味合いは違うのだそうだが。もし小説の中でこの情景を訳すとすれば、客は「こんにちわー」と言って入り、店では「いらっしゃいませ」と言って迎えることになるのかなと思う。私は、シャネルは無論のこと、グッチもジパンシーも一切高級ブランド店には入らなかったが、そういう場所では「お金ばなれのいい東洋からの大事な客」にどういう挨拶をするのだろうか?入ってみればよかった。

 折しも広げた『井上ひさしの日本語相談』の中で、「すみません」の乱発を憂える意見に対して、彼は「私たち人間は、だれでもたがいに、その行い澄ました顔の奥に相当の凶悪なホンネを隠し持っていることを知っています。別にいうと、おたがいに相手が何を考えているのか分からないので、不安なのです。そこで何を考えているか分からない相手と出会うたびに緊張します。・・・・(中略)満員電車で押しつ押されつする相手にどっちかが「どうもすみません」と挨拶を送れば、相手が悪意を持って押しているのでないとわかってホッとし、お互い満員電車に揺られて辛い目に遭っている同士なのだ、という仲間意識さえ芽生えてきます。」と「すみません」の効用を言う。

 押される、といえば満員のバスで降りしな、「パルドン、パルドン(すみません)」といいながら戸口に向かっていた時、大きく揺れて、前の人に思わず手が触れた。ほんのちょっと。慌てて“パルドン”といったが既に遅かりし、その女性はキッと振り返って「ヌ、ム、プスパ(私を押さないで)!」と鋭く言うのにびっくりした~もう。触れる前にパルドンを言わなければいけないっていうの?日本なら、こんなちっちゃな白髪の異国のおばあさんが、よろけて少しもたれかかったって、目を吊り上げるどころか、大丈夫ですか?と支えてくれるだろうに。

 個人主義の発達した社会では、自己と他者の厳しい区別が、特に「私は怪しいものではありません」という挨拶を必要とさせるのかもしれない。仲間意識旺盛な日本の社会より必要なのかもしれない。となると、昨今の極度に個人主義と過剰な混雑が発達した東京の、ぶつかっても、ほとんど口も利かない徹底した無挨拶は、過渡期の異常さなのだろうか? 過渡期というには永過ぎる、健全な市民社会への移行が出来ない歪みの一つかとも思う。

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