ちゅら海(美しい海)の辺野古
三橋雅子
とにかく美しい海。ジュゴンを追っ払い、珊瑚をガンガンぶっこわしている作業船さえなければ、どんなに心休まる、心惹かれる風景だろう。
<なぜか機動隊しりぞく?>
今日3月27日は、辺野古湾のシュワブ第2ゲート前の座り込み開始から264日。読谷村発のバスで、私が参加し始めてから2ヶ月が経つ。回を重ねるごとに緊迫感(といってもここではまだまだ、のんびりムードなのだけど)と「基地は作らせないぞ!」の声をからしての、いつにない激しいシュプレッヒコールとデモ。その後、島ぐるみ基地建設反対市民会議の山城議長が一番喜んだのは、「今日は、機動隊が前面に出てこなかった!」こと。毎回、高まってゆくデモの迫力にもかかわらず。「機動隊よ、ありがとうねー。よくぞ、今日は前に出てこなかったな。これからもその調子で頼むぞ! これからも、ずーっと、奥にひっこんでいろよ! 出てくんなよーーー」と叫んで、「やった、やった!」とみんなの爆笑と拍手にかこまれた。何だかおかしくて泣き笑いになってしまう。
翁長(オナガ)知事の工事中止命令など歯牙にもかけない中央の、いかにも「沖縄なんか……」とバカにし切った声が聞こえてくる対応にも、ここではカッカと憤る声は聞こえない。リーダーが「あくまで非暴力で……」などというまでもなく、暴力など思い浮かばないのでは? そしてスローガンは、ひたすら「あきらめないこと」。もくもくと、座り込みに参加し、時々ゲート前で「ちゅら海を返せ!」のデモをするだけ。
この前、明らかに不当に、「境界線のラインを越えた」かどで一人が中に引きずり込まれた時、ガンガンの抗議の末――仲間が不当な扱いを受けたときは、激しい怒りで、かなり熱くなる――この時は、山城議長がされたように名護署に連行されずに帰されたが。本土からの移住者が「いやー、危うく俺は飛びだして県警の胸ぐら捕まえて、不当に連れ込まれた仲間を帰せ! とゆすぶってやろうと思った。しかしフト足元のばあちゃん(毎日欠かさず座り込んでいる84歳の名物ばあちゃん)が、黙ってじっと睨みつけているのを見て思い留まった」としみじみ反省の述懐をしていた。
<私の住む村 読谷発バス>
「ヨミタンから来たー、読谷のバスが着いて応援が来ましたー」。辺野古の第2シュワブゲイトに近づくと、「読谷村職員組合」の旗を先頭に行く我々に歓迎の声と拍手。面映く思いながら、しかし……果たしてこのジジババ達、ゲート前に座り込んで何の役に立つんだろう? 60年安保の、連日国会を取り巻いた、あれだけの群集と旗の波と「アンポ粉砕!!」の激しいデモが、あれ程あえなく、むなしく終わったことを嫌でも思い出さざるを得ないのに。「この安保を通しては日本の将来はない!!」と叫び続けて、果たして、このテイタラクになった!
とはいえ、ここ辺野古の海辺で、我々は当面、必要とされている。確実に。このシュワブ第2ゲートから運び込まれる、埋め立て資材の搬入を阻止すること。隙あれば撤去されそうになるテントを守ること。そして、夜間の手薄になった時の人員確保のために、夜間組を少しでも仮眠させる貴重な要員なのだ。週日は動けない働き手たちに替わって、留守番と座り込む抗議運動は年寄りの役目。読谷村のスローガン「できる人ができる時にできることを」を裏面に掲げた、帰りのバスに乗り損ねないための番号札を、徘徊老人の如く首にぶら下げて黙々と行く。
<最前線・カヌー隊の戦闘>
バスの中で聞くカヌー隊の活動報告。その最高齢者(73歳の読谷出身・在住者)が現場の熾烈で、不法な弾圧への戦いを語る。「海の安全を守る役目の」海上保安隊が、いかに暴力的にカヌーをひっくり返し、「身柄を確保」し、わざわざ遠い沖合いに連れて行き、解放と称して冷たく波の荒い「危険極まりないな海」に放り出す。などという許しがたい行為をしているか。カヌー隊も、あの手この手で「珊瑚礁をガンガンぶっ壊す行為を今すぐ止めろ!」「県知事の中止命令がきけないかー」と叫び続け、「お前らそれでも、沖縄の海の恩恵を受けて育った人間か?」と糾弾する。掘削隊に抗議をするために、時にはおとりカヌー2~3艇が先行する。それのだ捕に掛かっている隙に、本命が突入する……。など、あの手この手の作戦で作業船に迫り、工事を止めるよう訴える。しかし沖縄といえども海の水はまだ冷たい。ひっくり返されて、ずぶ濡れの後は73歳の身には厳しいはず。
カヌーの操作は割りと簡単というが、必須技術はひっくり返されたカヌーを表に返して再度乗り込む術。本土からの若者はすばやくこれを身につけて、頼もしく抗議活動に勤しんでくれている。
夜は夜で、くたくたの身をお風呂にでも入って暖かい布団で寝たい……。にもかかわらず、本土からの応援隊が宿泊代(一泊2,000円、ひと月なら1,000円にまけてくれる)の節約をかねて、テントで泊まってくれるのが、まことにありがたい……などという話を聞きながら、シュワブゲート前に着く。
<まだ間に合う>
海からの報告は痛ましい。着々トンブロックが投下され、ジュゴンを追い払い、サンゴ礁を、悲鳴を上げたくなるほどガンガン押し潰す……。ああ、これからは天然モズクの季節なのに(家族で潮干狩りよろしくモズク採りを楽しんだものだという)……工事の準備は粛々と着々進んでいる……確かに。もうだめか……が本音でもある。しかし、最前線で戦うカヌー隊の最高齢者は、まだ大丈夫、陸からの応援がある限り……と。①ボーリング調査はまだまだ終わらない。まだ(!)3箇所しか終わってない。後12箇所ある。これを止めるのだ。だから時間はある。②埋め立ての土はどうする? 稲峯名護市長は市の財産である土は一粒たりとも採らせない、といっている。他からも運ばせない。他にもいろいろ……どだい、当地の協力なしに、こんな馬鹿でかい施設建造が出来るものなのか? 地元で、陸で、できる阻止はまだまだ手立てがある。だから[決して諦めない]限り阻止はできるのだ、と。「仲井真にこけられた、もしくは騙された」痛い教訓は生かされるはずだ。無論今でも、所詮は翁長も同じさ、としらけている若者もいる。仮に、仮にそうだとしても、そこに逃げ道、退路を作らせない方法はある、と皆信じている。その路線をあの手、この手で造らなければならない。
<村主体の運動>
我々が乗って行く読谷発のバスとは、何と老人クラブを始め、各種村民団体が結集して、村職員組合が世話焼きをして出している。沖縄広し(?)といえども、村主体の運動はいまのところ、ここしかない。もっとも那覇からのバスは大型を、堂々10台連ねるほどの壮観だが、主体はあくまで「辺野古新基地建設反対市民会議」。このバスは、「那覇にさえ行けば辺野古に連れて行ってくれる」便利さがあり、現に県外からは、空港に降りて那覇バス停に行けば、そのまま辺野古へ、というありがたさがある。
読谷村職員は、休暇こそ自前だが「一度行ってこい」と押されるようにして代わる代わる世話役に参加している。出発には、黒スーツを着た村要職たちや議員がずらり並んでの「お見送り」には驚く。それも毎回の事。村長が乗り込んできて、「ハイサイグスヨー(こんにちわー)ナンチャラカンチャラ(なんだかチンプンカンプン)……」と挨拶して(もちろん後半は標準語だが)激励を受ける。「しゅっぱーつ!」には議員や町の要職達が手を振ってのお見送り、面映い。ある時、彼等がきびすを返す頃、「しまった!」とバスを止め、積み忘れた「読谷村職員労働組合の旗」を取りに戻る「大笑い」の一幕も(これは帰りのバスに乗る時の目印、迷子にならないための必需品)。この一時しのぎの借り物を、早く本来の「読谷村新基地反対村民会議」の旗に、という声は強いが、なかなかカネ、ヒマ共に間に合わない。また、この観光シーズンに、バスの確保だけでも大変なのだ。3・21大会時には、集合時間30分前に早くも満杯、まだ続々……の積み残しを、組合の車や乗用車などで後追い……合流となった。こんな時ばかりは、「沖縄タイム」(時計はあって、なきも等しい)はどっかいっちゃうんだねえ、と笑いあった。
今日の朗報の一つ。北谷町(チャタンチョウ)が読谷に倣って、町主体の基地反対団体の結成を決議、バスを出すようになったとの事。着々、前進はしている。
<翁長(オナガ)をこけさすな>
この、県意が素直に通らない悶着は、仲井真(ナカイマ)前知事が県民への公約を反故にして、辺野古基地新設の許可を飲まされてきたことに始まる。それも「公約違反」にこうべを垂れて[申し訳ない]ではなくて、土産をもらって「いい正月ができる」と意気揚々と?('13年暮れ)。始めからの戦略にきまっとるという者も。県民の落胆と、もはや……、という失意は、これですべてお仕舞いか? と一時は……。しかし「オール沖縄」に結集して、その[オナガ圧勝]の熱気は、続く衆院選で革新全員当選と、保守全滅をもたらした。(’14年暮れ)。なのに本土の、あそこまでのテイタラクは? と私は一人で地団駄を踏んでいたが、もう「本土の理不尽」には慣れっこなのか、人の非は言わないのか……?
だから、だから、今度こそ[オナガをこけさせるな]が合言葉。しかしオナガとて所詮は自民党、という不安も……それを県民があくまで「公約」を盾にそれを遂行させる、そして、それが、本土の「信じられないアベ支持」を崩す導火線にならなくては……と私は思う。沖縄は[俺達は決して諦めない]を叫び続ける。それしかない。
<ゲート前>
ここはいつも賑やかで歌が絶えない。挨拶を請われて前に出ても、「私はしゃべれないので歌を」というのが多い。最初からギター片手に、も。そしてみんなもすぐそれに唱和する。「沖縄を帰せ」などは私にとって60年安保以来の「なつメロ」だ。「なつかしーい!」というと、ええっと振り返られるが。
ある時は、テントの人数は少なくしょんぼり???。リーダー山城議長が検挙されて連行されたので、名護署へ連れ戻しと抗議に、皆行ってしまった。(そのうち読谷勢が来て座るだろう、とあてにされてか)手薄のテントに座り込み、時たまゲート前をデモり、県警とにらみ合う。最近、彼等は顔の大半を隠す黒い大きなカバーで目から下を覆おうようになった。顔を見られるのは、同じ狭い沖縄人同士、辛いものがあるのだろう。顔隠しのないのは、本土からの応援警察らしい。
先日また、「読谷からトーチャーク」の声が聞こえず、テントも空っぽ……???。何と全員ゲート前に詰め掛けて、中に連れ込まれた仲間の奪還に声を張り上げて抗議、「早く返せーーーー!」の要求をしていた。早速これに合流して抗議に参加。年寄り達ものんびり座ってばかりとも行かず、なかなか忙しいのだ。これは、名護署に連行されず、大分経って解放されたが、声もかれ、抗議の太鼓をたたく手も痛くなった。
<村主導の運動の歴史>
読谷村の取り組みにフーン、と私は西宮北部の高速道路反対のグループ作りに、公民館勤めの仲間をかばいながら、旧弊固陋の地元を避け、転々と場所換えして、地下組織まがいの準備をした事を思い出さざるを得ない。何事、お上に物申したい気配の集会は部屋さえ貸してもらえなかった。
ここの「直接お上」は国家権力と程遠い。国家権力に蹂躙され、その結果「守ってくれてる」とか言うアメリカさんからの直接被害を、日々さんざん受けている所なのだ。この、村ぐるみの反国家権力意識は、読谷村が村長率先の下、基地返還闘争を熾烈に戦った経緯あってこそなのだろう。その成果が辺野古行きのバスが出発する読谷村役場、広大な飛行場跡の「村の中心施設」である。この場所こそが、「反国家権力意識」と「憲法遵守の精神」で勝ち取った反権力の牙城なのだ。
<読谷村と憲法9条――飛行場返還闘争>
それにしても、この村ぐるみの反国家権力意識はどこからきたの? 怪訝に思ったが、それには、れっきとした輝かしい村史があった。
読谷村が村長率先の下、基地返還闘争を熾烈に戦った経緯に依拠していると思われる。当時、山内徳信村長(屋良朝苗沖縄県知事の下で出納長として知事を支え、後に参議院議員2013年まで)は憲法9条と99条をひたすら盾に剣にして、広大な飛行場の返還を勝ち取り、そこに今の村役場と、付随する村民施設がどーんと、晴れやかに建っている。道理で……、私は納得した。初めて私がこの村唯一の図書館、恐らく全国最小とは言わずとも、下から一桁に入る筈の実にちっぽけな図書館(元役場)を訪れた時、度肝を抜かれたのは正面、敷地に入る壁面に「憲法9条と99条」が書かれた垂れ幕が下がっていたのだ。一瞬、この憲法危うきご時勢ゆえに? と思ったが、それにしては古びている。感動して改めて真正面から、その9条と、99条を読んだ。かつて、これ(99条)をどれだけ私は居住地の首長に、対住民説明会、懇談会などで、ことあるごとに、「職員教育でこれを周知徹底されていますか?」と訊いてきたことか。たいていは「イヤーちょっと」とか何とかにごす。「まだなら一刻も早く必ずこれを周知徹底させて!『憲法は国民が守る義務を負っているのではないんですよ、国家元首をはじめ公務員にこれを遵守する義務があるんですよ 』 ということを、あなた自身始め、肝に銘じてください」と要請してきた。首長の反応は当然鈍く、次の機会の確認にも誠にあいまいなままだったが。こんな意識で、地方行政、いやもしかして中央官庁の多くも占められているのか? 東京の区役所に永年勤めてきた人に、99条って何なんですかと訊かれたもの。
<闘争のあかし?>
東京の、恐らく何十とある図書館(世田谷区立だけで16あった)のいずれにも、『平和憲法』と「憲法守るべし」「誰が率先して守る義務を負っているのか」を掲げた図書館はないのではないか? それはひたすら憲法にのっとって、あくまで憲法を盾にして、本来の権利を回復しようと戦った歴史の証だったのだ。「アメリカさん!あなた達は民主主義の国ではないのですか? 憲法を守る国なのでしょう? まだヨチヨチの私達のお手本になるような」と訴えながら……。今、私達はこの同じ言葉を声を大にして叫ぶべきではないか。
このちっぽけな村の、壮烈な戦いを村長が先頭になって体を張ってやってきたのだ。当時の職員は、村の事務作業を、野外の基地闘争の場に机を持ち出して、戦いながら処理していたという。時間外は、夜討ち朝がけを住民達と文字通り一丸になって。村ぐるみの反国家権力意識は、村長率先の下、基地返還闘争を熾烈に戦った経緯に依拠している、と納得した。
先日の県民集会に向かうバスの中で、後部席の方から静かな口調の、淡々とした発言があった。誰かが元先生のような……、と言ったが、果たして最後に山内徳信でした、と言った。この人こそ、長年高校社会科の教師を務めた後、屋良朝苗県知事の片腕として沖縄返還を補佐し、「憲法遵守」を掲げて基地返還運動の先頭に立って読谷飛行場の返還を勝ち取った元読谷町長である。
しかし、その感動的な経緯、闘争史に触れると、この紙面は際限なく……と、後日に譲って。