『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』海と島と柿本人麻呂の歌碑(2)**<2004.7. Vol.30>

2006年01月11日 | 藤井新造

海と島と柿本人麻呂の歌碑(2)

芦屋市 藤井新造

 このように絶えず私の近くに海があった。しかし、村から一番近い瀬居島や沙弥島ヘは、前者の島ヘー度渡った記憶があるのみである。確か親類一同(20余人か)で船を、今で言うチャーターした運搬船(20屯位だろうか)で船底に茣蓙(ござ)を敷いて座り船旅をした。多分祭りののぼりがはためいていたので、島の縁日だったのだろう。

 このような行事では、岡山県の金光教祭りにも見物に行ったり、玉野市の三井造船所へも行った。三井造船所では中村メイ子がまだ幼い時、勤労動員で狩り出された人々への慰安演芸であったので強く記憶に残っている。この類いの行事は親類一族による慰安会、今の会社の職員旅行に似ていた。

 百姓の仕事は当時は一年中休む日が極端に少なかった。勿論、台風の時など例外だが、雨の日も強風の日でも働きどうしであった。休みは年末年始、春祝い、盆体み、秋祭り、冠婚葬祭、何年に一回かの西本顧寺興正寺派の本山へのお詣りの時だけだった。何事も(仕事も慰安も)親類が寄って共同作業をしていた。仕事の方では、本家と分家で話し合い、手勢がいるみかんの消毒(予防)収穫時の取り込みなど、畑の順番を決めて行っていた。冠婚葬祭、法事などの時は、何家族もが寄り合い、朝早くから起きて、豆をひき、にがりを利用して豆腐、うす揚げを作る。勿論讚岐名物のうどん、押し寿司も賑やかな雰囲気のなかで上手に出来上がり、何十人もの者で会食していた。

 それはさておき、小さい時から瀬居島の左後方にある沙弥島へは一回も行けなかった。私の村からは定期船がなく、一度坂出市へ出て船に乗るのであるが、便数は少なかった。この島へは夏には坂出市とその近郊のサラリーマン家族の子女が家族揃って海水浴によく出かけていた。高校生になると夏体みがあり登校すると、多くの同級生が家族で沙弥島に泳ぎに行った話をよく聞いた。私はそれを聞く度に羨ましくてならなかった。一度行って泳ぎたいと思えども、一日中せかせかと働いている母の姿を見ると言葉に出して言いにくかった。それと私を寵愛してくれていた祖母の「百姓の子供は百姓らしく身分をわきまえ生活するように」と口癖のように言っていた文句が、私の心のなかに重荷のようにかぶさり言葉にだして言いにくかった。

 今から10年前、その沙弥島行きの願望が40年して、坂出市内の病院に入院していた母親の見舞いの際に実現した。

 しかし、もうそこには島と言える様相はどこにも痕跡を残していない。番の州を埋め立て、沙弥島、瀬居島と坂出市とを陸つなぎにし、工業地帯となったなかに、隅の方にほんのわずかの白砂を残す海水浴場に変わっていた。大企業(川崎重工、三菱化成、四国電力火力発電所、アジア石油基地)の煙突と白煙のもとに、かつての二つの島が悲鳴をあげている。私の心象にあった原風景はどこへ行ったのか。無残と言うか、あまりにも残酷な自然破壊である。

 万葉の歌人、柿本人麻呂の歌碑を見るために周辺をさがすと、彼の歌碑も心なしか悲しげに泣いて建っているように見えた。

 彼もここへ流され、悲しみの歌を作っている。「古代幻想」(梅原猛著)の梅原によれば、この沙弥島(人麻呂の歌では狭岑島となっている)で人麻呂は「流人」の、のたれ死してしる先輩たちを悲しんで詠んだ
ものと解説している。

 今の私は塩飽諸島をこのような殺風景な環境にした(本四連絡架橋もその一つ)為政者の愚策にため息をつくばかりであった。

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