『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』能勢の寒天つくり**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 川西自然教室

宮本常一を読む(2)
能勢の寒天つくり

川西自然教室 畚野 剛

今回は北摂のお話  前回、宮本常一さん(以下宮本と略記します)が大阪南部にお住まいのころに、冬の岩湧山に出掛けて、昭和初め頃の高野豆腐つくりを実地調査されたお話をしました。おなじ本(注1)のレポートに続くページで、厳冬期に野外で作業するもうひとつの厳しい作業、寒天つくりについても書かれているのを見つけたので、紹介いたします。

 調査の時期は昭和10年2月、場所は大阪府北部のチベットとも言われたいまの豊能町から能勢町の辺りでした。当時の行政区では右の地図(注2)に見られるように吉川、東谷(黒川)、東郷、歌垣の各村を南から北へ貫くコースでした。

 宮本は文のはじめに能勢妙見宮について説明しており、その紋が十字になっていることに注目されています。

 今でも、妙見宮に参詣すれば、頭を朱色の十字で染めたお供え餅が売られているのを見ることが出来ます。また、すこし前まで、能勢電車の車体に付けられていた社章は、下の図(注3)のように、この矢筈十字紋を4つの稲妻(電気鉄道のエレクトリックを意味)で囲んだものでした。

兎皮の老人  宮本は吉川(正しく妙見駅)で下車し、亀岡まで歩いたのです。まず一人の老人と出会いました。その人が兎の皮の袖なし(注4)を着ていたことが宮本さんの心をひきました。

 宮本は「この山中には毛皮を用いる風が近頃まで盛んであって、フンゴミ(注5)も鹿皮のものを多く用い、手甲の類にも鹿皮を多く見かけた。(中略)元来この山中は猪や鹿の多いところで、そういうものの皮が古くから使用されていた。」などと老人から立ち話に聞きました。寒い路上での立ち話でもこれだけ聞き取り出来るのは宮本の才能でした。

  • (注1)宮本常一著作集25「村里を行く」、p76~83、寒天小屋にて 未来社(1977)。
  • (注2)原図は20万分の1 帝国図(大正8年製版)。紙の『みちしるべ』での印刷状態が良くなくて、ここでは省略させて頂きました。
  • (注3)図は豊能町史(写9-9)から引用。省略しました。
  • (注4)袖のない仕事着(半纏)、襦袢(普段着)、羽織(外出着)の類の総称。(日本民俗大事典)
  • (注5)もんぺの一種。冬期間上体に綿入れの長着を着るため、すそ部が入るように太めに作る。(日本民俗大事典)

歩き通す老人  宮本は大土峠への坂道で2人目の老人に会いました。「摂津の尼崎へはどういくか。何里ほどあろうか。」と聞かれた。「その旅姿は藩政のころからなにほども変わっていない」と宮本も感心。「但馬から歩いて来た。」「汽車や電車があるのに何故?」「どうも乗り物は性にあわぬ。尼崎の工場にいる子(孫?)に会いに行くのだ。」と会話を交わしたが、「路上の行き違いではおちついて話もできなかった。」と、宮本は口借しげ。その夜は東郷泊まり。峠の上で逢った炭焼きの家を訪ねるのは、夜道おっくうで止めた。

寒天製造小屋で  翌朝、宿をでてすぐの道のほとりを少し下って、小屋の仕事の合間にしばらく話を聞いた。「寒天仕事を始めるのは12月初旬で、2月初旬までざっと70日間仕事をする。職人は丹波の氷上郡から来る。……」と、しばらくの間き取りといいながら、B5にして4ページ半の分量を記録している! 宮本は、とくに製造の工程について詳しく述べているが、私は「丹波では冬は始終曇っていて乾燥が効かぬので寒天は作れない。また(消費地の)京都への道は能勢から亀岡の道が便利というのも能勢の利点であり、丹波の方は出稼ぎになってしまう。」というくだりに興味をもった。

そのあと宮本は……  酒造場も見ながら進んだ。「この地の人たちは、京都への地の利(注6)を利用しながら、寒天や酒の工場を経営する資本と覇気をもち、ゆたかに暮らしている。」と述べ、「文化の光をうけた古風」という印象を得たのであった。

 「摂丹の国境には、大きい杉の木がある。それ以外にこれという特徴もない国境である。だが丹波に入ると、能勢で多く見かけた皮のフンゴミをつけた人はそこには見られなかった。」という文でレポートを締めくくっている。

北摂の寒天産業の今  たとえば、平成13年12月14日の暮らしの新聞には猪名川町下阿子谷で糸寒天を干している写真が載っています。ただし、凍結の工程は野外ではなく冷凍庫によっているとのことです。

 また、川西市内長尾でも福井寒天製造所畦野分工場がありました。昭和63年まで営業されていました。働き手はやはり丹波の氷上から来ていたと家の方から聞きました。このページの写真(省略しました)はその工場と千し場のあとの現状です(写:2005年12月18日雪の日に)。

  • (注6)宮本の歩いた摂丹を結ぶ吉川~亀岡コースは、摂丹鉄道と言う名で大正の初め頃に鉄道免許を得ていたが、地元資本の力では、実現は叶わぬ夢に終わったのであった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『みちしるべ』埋草草紙**... | トップ | 『みちしるべ』熊野より(18)... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿