『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』身も蓋もない(斑猫独語 60)**<2014.3. Vol.83>

2014年04月08日 | 斑猫独語

身も蓋もない(斑猫独語 60)

澤山輝彦

 朝食を終えて、書斎兼画室兼寝室へ籠るまで、しばらくパソコンをさわったり、新聞をみたりする間がある。その時、NHK・TVの朝番組を耳にすることがある。これは毎日必ず見るというものではないけれど妻が見る番組で、私は耳に栓をしない限り番組の声は聞こえるので、聞いている。(あ、今、私の机から2メートルほど離れた庭のクロガネモチの木でウグイスが盛んに鳴きだした。枝を渡る姿も見える。一寸寒いが春そのものだ。ええ飛び入りだった)NHKの番組の話に戻ると、今日はバッグの話だった。バッグ評論家が出ていろいろ言っている。バッグなんて要するに物を入れて運べたらそれでいいのであると私は思うのだが、そうはいかないのだろう。私のように言ってしまうと、「身も蓋もない」と言うことになるのだろうか。念のため国語辞典三省堂大辞林で「身も蓋もない」を調べると、「表現が露骨すぎてふくみも情緒もない。にべもない。」とある。露骨すぎるかどうかはともかく、ふくみも情緒もない、という所ははずれてはいない。

 世の中の道具(自動車なんかまさにそうだ)、小物というかそんな物のホトンドが、含み、情緒、趣味性などに立脚して作られており、機能だけにこだわって作られた、身も蓋もない物など無いのである。人間の欲望が要求した結果であるのだが。ここで思いつくのが百均の商品である。ある意味機能だけにこだわって廉価で売られていると考えられないこともない。経済学の立場からはそうでないことは分るのだが、まあ機能のみの安い物ととらえておくことにする。それなら機能的には完璧かと言えばそうではないところが百均なのであり、こう言うとここにも「身も蓋もない」という言葉を使うことも可能である。むつかしいのである。

 道具が機能以外に人の情緒に訴え、趣味に取り入る、この心がデザインというものを産んだのだ。デザインの好みによる物の選択は美的感覚に訴える分、美学という哲学に基づいており、人々は哲学をしたはずだから、これは特に非難することもない。人と物がある限りこの分野の進化は止められないのである。進化しすぎの弊害は古生物学でマンモス、アンモナイトなどがその例となるが、道具機械として自動車では往年のアメリカ製大型車のデザインに似た進化があったのだ。持つ物は十分な機能、そこそこのデザイン、そんな物で十分である。可能であれば自作の物が一番の優れものである、と言えるのだ。

 道具をめぐって[身も蓋もない]言葉で一蹴したい物に、高価であることだけで、持つことに優越感がうまれる、見栄張りの持ち物、そんな道具、物がある。その物自身に罪はないのだが、そうなってしまう運命を持った道具を私は不憫に思わない。そんな物を持って優越感を持つような人は大嫌いだ。(私がもし、君のデジタル時計と私のローレックスの時計を取り替えてあげましょう、なんて言われたらハイハイ喜んでと絶対逆らいませんが)

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 道具、物を「身も蓋もない」言葉で決めつけたところで、自分一人で納めておけば、なんの害もない。しかし、己一人の世の中ではない。それに望むと望まないにかかわらずの高齢化である。こんな時代、長生きしようと思えば「身も蓋もない」言動で問題をおこすのは避ける方が得策である。ふくみ、情緒、繊細という語も加え、これらを身に備えておくことは、対人関係において――備えあれは憂いなし――となるであろう。こういう気を持たず、「身も蓋もない」物言いで世渡りすれば、そこは渡る世間は鬼ばかり、年中豆を投げつけられかねないことになるかもしれない。俺はそうして豆を手にいれんねん、という人は別にして。

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