三橋雅子
<台風12号南紀を襲う>
8月末から、かなりの量の雨が間断なく容赦なく降り続き、この前の7月の台風より、これはしぶといぞ、と警戒心を強めていた。我が家は、よそより一足早く2日夜から停電、まる1週間続く。日が短くなったとはいえ、いくらかでも明るい縁側にちゃぶ台を出して早めの夕食をとる習慣がつく。夜は長かった。昔、灯火管制もあったし、戦後は、予期せぬ散発的な停電はしょっちゅうで、明日の試験どうしよう、と諦めて床に入ると点いたりする。ほっても置けないと、渋々起き出して教科書を広げると、また消える。泣きたい思いを繰り返したものだ。思えば当時はまじめで純情だった。もっと昔の人は、ランプで本を読んだはず、と蝋燭や懐中電灯を照らしてみたが、日記を書くのが限度で、本は眼がしょぼしょぼして読む気が失せた。時間をかけて、首回しとかスクワットなど、日頃ハショリ勝ちなことを、ゆっくりやる。たまにはこんなこともありか、と、もろに災害を受けない者の、呑気な「非日常」を享受した。同居人の仙人にいたっては、「瞑想にもってこいじゃないか、修行の足りんものには」とのたまう始末。
ケーブルもだめで電話もネットもつながらない。おかげで、この地がどんな状況なのかわからないから、テレビを見ている人たちが遠くで心配してくれている状況もわからなかった。ともあれ、予想を超える心配を?と思える所に葉書を書いた。しかし、何日も郵便配達も見ないから着くかどうか分からぬまま「蝋燭を買いに(4~5キロ歩いて)行くから何か?」といってくれる隣人に投函を託したが、これも、いつ集めに来るのやら?ネットを駆使する人は、心配なら何とかして状況を把握してくれるだろうと思うことにした。案の定、息子の一人は、本宮行政局が機能不全になっているので、田辺市の防災なんとか室とやらホームページなどで、重篤な被災地域でないことだけは確認して、周辺に安心情報を送っていた。藤井編集長に至っては、グーグルの航空写真と国土交通省の被災空中写真をつき合わせて災害地域には含まれていない、と確認してくださったようで恐縮の極み。とにかく我が家の安否を気遣ってくれる人たちが、今度はよくよく住所と首っ引きで字名を確認してくれたようで、隠遁の身としては身が縮む想いである。黄泉の国に一歩近づいた所で、ひっそりと山の中で人知れず事切れたりするのも・・・、と一時はどなたにも、ろくに引越し先の通知もせず、年賀状も放置など・・・気付いたら「あら、いつの間にか、もうこの世にはいないのか」と思ってくださる消え方もありか?・・・などと散々勝手なことをしていたのに。皆さんが、世捨て人の安否をこんなに気遣って、繋がらない電話を何回もかけたり、はがきを書いたり、メールがどっさり、と心を砕いてくださっていることに平に恐縮するのみであった。
電化製品には縁の薄い我が家も、買い物にめったに出かけないだけに、冷蔵、冷凍庫にはお世話になっている。二日くらいは冷蔵庫も開けたてを気をつけて、少しでも保冷の長持ちを心がけていたが、一向に点く気配もなさそう・・・と、いたみそうなものの処理を始める。これは手早くお腹の中へ、これは火を通しながら長期戦の兵糧に備える・・・とか、この際冷蔵、冷凍庫の整理と大掃除のチャンス(我が家は冷凍庫の方が格段に大きい)と作戦変え。すると、隣の猟師から「溶けちゃう」猪肉の大きな塊、反対隣の釣キチ氏からは鮎をこれまたどっさり・・・と毎日火を通したり(猪肉は火を通すほどに柔らかくおいしくなるので絶好)、鮎は何といってもあぶりたて・・・と[おいしさ]の詰め込みに追われる始末。加えて雨が治まれば、水浸しの畑の泥の中から、けなげに実を付けたままがんばっていたピーマン、ししとう、おくら、茄子・・・・とせっかくの実りの処理も忙しく、さらに救援物資まで届く。とても我が家の「非常食」に手をつけるには至らなかった。それどころか、日持ちのする救援物資は「非常食のストック」に加える始末(申し訳ない)。と、我が家の食は先ず万全。食料以上の「綱」である水はそこら中に、きれいな飲める水が溢れている。燃料はプロパンが切れれば、卓上コンロもあり、七厘は真夏でも魚焼きに活躍しているから、手近に炭や備長炭と共に。調理に事欠くことはない。
下界への道の確保には少し難儀した。もともと山の中の賎が屋に、ひっそりと暮らす仙人と山姥が下界への道を気にするには及ばないのだが、数少ない近隣はそうも行かないらしい。対向車が来ると難儀する、曲がりくねった狭い道。もともと、お風呂に行く時など、行きはどうもなかったのに、大雨の帰りには車が通れず、風呂上りの素手で大石をどけたり、大枝を払ったりすることもあった。今回はちょっと大掛かり、崖崩れ三箇所を男手三人で、倒木をチェーンソーで伐り、土砂を除け、こちらはひたすら折れ枝を掃き落としたり、のいわゆる[ミチブシン]を半日。ようやく軽トラックがそろっと通れるように。行政は到底それどころでは?と早めに判断して正解だった。
行政は停電のまま機能停止。暴風警報、大雨警報・・・ありとあらゆる警報を発していたのも音沙汰なくなったが、数日してようやくアナウンス復活。おらが道は大きく割れ目が入って、自転車のタイヤがはまり込みそうな、しかも車が大きく傾く亀裂もあるが、ここらの道に手をつけるなど、当分、夢のまた夢?何しろ行政機関も商店も水浸しで壊滅の本宮中心部からは程遠く(10㌔)、「集落ごと崩落」あるいは「集落孤立」などの憂き目にも縁遠かったここは、本宮の中では天国みたいなもの。テレビが1足先に、15日にはネット、電話が繋がった。
観光地唯一のメインストリートは何日も泥との格闘。商店の屋根に、流木がのっかている風景は一瞬何の事か理解に苦しんだ。軒並みあそこまで水が来たという泥の筋の痕跡が、屋根のすぐ下、あるいは二階にまで、ということでうなづける。本宮はまだしも、もっと下流の熊野川町(新宮市)は、ダムの放流と川の合流地で、氾濫が高い歩道橋にまで及んだ。高みにあり、更に三階建ての熊野川行政局はまさか安全、と避難した住民は、三階にまで水がひたひたしてきて恐怖、救命着を着け、ゴムボートに乗って更なる避難へ、とのこと。当然、熊野川を望む川べりの喫茶店など、もはや何の痕跡もないとか。クロネコやまとの配送センターが気になるが。丁度近々着く筈だった、アマゾンから発送通知が来ていた荷物はどうなったのか、何の音沙汰もないまま。
郵便局は職員がひたすら泥かきに追われ、開いているからATMは?と、うかつにも近づいた私は「そこは深いで!」の声すでに遅く、膝下近くまで泥に埋まった。車もバイクも水に浸かって、当分機能不全だった郵便業務も、「借り物」のバイクで配達が始まって、2日付けも5日付の消印も一緒くたに、ぽつぽつと一週間遅れで着き始めた。最近、安くつくクロネコメール便に続々切り替えた定期刊行物は、2週分まとめて郵送で来る始末。途中で行方不明のものも?
少し落ち着いて、公衆浴場の温泉もやっと再開。手前の橋が通行不能になったので4キロくらいの迂回道路を、工事用の大型車とのすれ違いに難儀しながら。じゃんじゃん来る、頼もしげな赤い関西電力車に、わがドライバーは「栗垣内(クリガイト、我が家の小字名)の工事に?」といちいち訊いている。首をかしげるのも無理はない。大阪南だの京都からの助っ人関電車なのだ。
お風呂の常連たちと、お互い、よかったね、など、だって誰さんは、集落の出口が崩れ落ちちゃって閉じ込められてるんだもの(わが集落の隣はすでに廃村、その隣だから、いまや最も近い集落)。気の毒に、お見舞いにも行けんし、電話も通じないから、声も聞けんしなあ・・・どないしてるんやろな・・・。もっとひどい所は集落ごと流されて皆、帰る家がない。
どこも食材には困らなくても、本宮全域、簡易水道が停電であがったり。プロパンも切れそうで、道路開通まではどうしようかと心配した、という。アララ?うちより遥かに安泰で、電気の復活も早く、我が家が天国なら、極楽みたいなところなのに?解せない。我が家の水は大雨で潤沢極まりない。まあホースを繋ぎに水源まで足は運んだけれど(よくも、と思うほどいろんなものが吹っ飛んで中継タンクが行方不明やら、ホースの先を探すのに倒木の山を掻き分けたり・・・)。隣は家に据えている水のタンクが二基とも飛んで流されてしまった)、仮にホース継ぎが簡単にはいかなくても、目の前の川はきれいだし、こんなに豊富な雨水だって・・・と不審に思って思い出した。田辺市への合併の際、説明会で異議を申しておいたこと。「よく合併推進には、合併の暁には下水道完備・・・とうたうことが多く、折角山水を飲みたくてここに来たのに、引きたくもない水道敷設を強制され、負担金を強要されては困る」と言ったら、えらいさん達は何だか困惑顔でごそごそ頭をつき合わせて相談した挙句、答えて曰く「お宅は引きたくても、申し訳ないがあそこまでは到底引けないのです。」「未来永劫に?」「まあ、絶対水道はいけません。」と何に恐縮するのか分からないけど、やけに頭を下げての奇妙なやりとりに、それなら結構、安心しました、と了解した経緯がある(それで合併をよし、としたわけではないけれど)。後に親しくなった、その時の返答者曰く、あれはヒヤヒヤもので、町長が、そんなこと言ってもいいものか?と心配した、と。今回その彼が、そうだ、三橋さんのトコに水もらいに行こうか、と思ったと。
水害の被害はなくても、停電のおかげで水が絶たれ、配水車に並んだり、家中の容器をかき集めたりとの話に、阪神淡路の地震の時と同じく、ライフラインを絶たれる危惧をこんな田舎でも・・・?と奇異にすら思う。また、オール電化の家も少なからず。本宮の中でも超「原始的な暮らし」らしい我が家は、「他よりは」かなり安泰なわけ。
また、我が裏山に築かれた石積みの崖、これが、あちこちからチョロチョロ水を吐いて、頑丈な、穴の少ないコンクリートの壁が水に耐えかねて、一挙にどさーーっと崩れ落ちることから免れている。先人の知恵と緻密な計算と、労力を惜しまない気の遠くなるような労力に、感謝とともに頭が下がる思い。現にかつて、さほどでもなかった嵐の際、反対側、我が家の下の畑に、コンクリート壁が、あっという間に全面崩れ落ちた。もちろん今回、家の脇を流れる、ふだんは何もない溝は、龍が踊り狂うような滝になって恐ろしい形相だったから、ひょっとして家もろとも流されて、文字通り川の藻屑になるやも?と、覚悟しないわけではなかった。しかし、仙人と山姥、ふだん喧嘩は絶えないが、この際仲良く手をつないで、同時に水葬されるのも悪くないか?と、山姥は安らかに眠っていた。仙人は夜っぴで風と水量を推し量っていたようだが。結果、果たしてあれだけの長い大雨に、石積み崖の許容量は危なげなかった。今後はいざ知らず、少なくとも他所よりは、今の所安泰らしい。
予期せぬ大規模の自然現象とはいえ、福島原発とは比べ物にならないが、やはり人災の影を感じないわけにはいかない。橋という橋に堆積した流木の白っぽい枯れざまは、雑木に替えて、杉、檜を植えるだけ植えて、儲からぬと見切りをつければ放置した、森の疲弊の残骸でしかない。森の放置のむごたらしさを突きつけられる。里山が健在ならこんなはずでは?と。行政局の被災は、熊野川に流れ込む川が、流木にせき止められて溢れ出し、濁流が渦を巻いて高いはずの建物を直撃、ガラス窓を破って流れ込み、自家発電機までやられてしまったもの。
もう一つは上流の発電ダム。これまでも、川の合流地から下流の集落は、ダムの放流とあいまって、何回か水害の憂き目に会っている。今回はそれが予想を超える、すさまじい災害となった。大雨に加えてダムからも放流されるのだから、たまったものではない。治水ダムと違って、大雨予報の前の放流水準値の規定や義務はないそうだが、電力確保のために、もし予報と違って大雨にならず、ダムが空っぽになることを恐れて事前放流を渋るとしたら、あまりにも反人道的ではないのか?
かつて、この地の原発設立計画を果敢に粉砕した、南紀の人たちの気概が再起されなければならない。
熊野川流木逆立つ秋日差し
泥の川泥の家々彼岸花
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