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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**大橋昭さんの追悼文集へ寄稿のお願い**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月12日 | 藤井新造

大橋昭さんの追悼文集へ寄稿のお願い

 本年(2018年)8月22日、長年の同志大橋昭さんが亡くなりました。享年81才でした。ご冥福をお祈りします。昨年12月アスベストを原因とした中皮腫が発覚し一年に満たない闘病生活で亡くなられたことは悔しい限りです。

 大橋さんは、住友金属の養成工として入社され出世コースを投げうって、労働運動に関わられます。その活動は、労働者映画協議会、阪神労働運動活動者会議、道と環境を守る会などいずれも代表あるいは事務局長を歴任し、阪神間の社会運動に大きな貢献をされてきました。

 活動分野は映画サークルなど文化運動、労働運動、政治運動、民族問題へのかかわり、また南北高速道路建設に対する戦いの中から環境問題へのかかわりと多方面に渡ります。

 この度、大橋昭さんの追悼文集の作成を企画しました。皆様方に大橋さんに関する思い出、あるいは足跡をご存知であればそれらの顛末の寄稿をお願いする次第です。また、大橋さんの写真、大橋さんが作成された文書等あればご紹介ください。

 追悼文の締め切りは2019年1月末とします。追悼文の長さは問いません。どうぞ協力のほどよろしくお願いします。

呼びかけ人代表 藤井新造

  連絡先 : 〒660-0892 尼崎市東難波町3-19-17 阪神合同労組気付
          ☎  06-6482-0066  Fax 06-6481-3984
          Mail : hanshinroso★gmail.com (★印を@に変換してください)

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『みちしるべ』俳句好きの俳句知らず**<2014.1. Vol.82>

2014年01月17日 | 藤井新造

俳句好きの俳句知らず

藤井新造

浜風に一喜一憂若き日々  江夏豊

 俳句の解釈は難しい。年末から今日まで二週間余り、毎晩、寝る前に「第17回;毎日俳句大賞」の句を読んでいた。又、この夏、尼崎在住で大のタイガースファンの俳人、木割大雄さんの句集「庵」を買ったのを読んだり、「新選俳句歳時記」(多田道太郎;著)の本をぺらぺらとめくりながら、音楽を聞き寝ついている。

 しかしあまり本を読み過ぎると、ついつい寝入りが遅くなり、翌朝睡眠不足になり困るので適当にきりあげている。

 俳句は作るのも、解釈するのも私にとっては困難な作業なので、近年は短歌、特に全国紙の短歌欄に眼を通し、気に入ったものをノートに記入している。家で購入している新聞で飽き足らず、図書館で、全国紙に載っているいいと思ったものを手帳に記入して帰る。これも近年少しづつさぼり、自分では老化現象と思っていないが、意外と加齢のせいかも知れない。

 短歌なら少しは理解できるが、俳句が難しいのは、俗に言われているように言葉が短すぎるからである。

 俳句大賞のこども部門には、次のような句がある。「南からつばめが運ぶ空の色」、これなど本人が「小学4年生になって理科の授業で、つばめのことを学習した。そんなとき、校内で巣を作ったつばめの親子を見て思いつきました。」と言っている。つばめが子育てのために南の国から日本にやってくるのを、いかにも見事に言い得ているのに感心する。私が小学校4年生の時は、終戦の年で物が何にもなく、食べもの事ばかりを考えて飢えない程度に生きていた。

 つばめが運んでくる「空の色」など想像することも出来なかった。それも「南から」なんて言葉は、今の社会での学校でこそ学べたと思う。時代の違い、それも平和な社会であるからこそ勉強できたのであろうと痛切に感じている。

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 つばめに関して私には、にがい想い出がある。亡くなった母親は、つばめがくる家は、この鳥が幸せを運んでくれると――本当にそう思っている――何時も私に語っていた。そのため毎年、巣づくりのためやってくるつばめのために、玄関の戸の上部のガラス部分の一角を、切りとり入りやすくしていた。

 そうであったが、何時しか私はすいすいと飛んでくるつばめを、どうしても手で握りしめたくなった。ある日、ほうきを持って家に入ってきた一羽のつばめを追いまわした。さして広くない家であったが、奥の4畳半の部屋へ閉じ込めることに成功した。つばめは天井板にはりつき、必死にあっちこっちへと逃げ、私も懸命に追いかけたが、つばめの逃げ方が早くとらえることができなかった。つばめはそれこそ命がけで逃げていた姿が未だに忘れられない。残酷なことをしたものだった。

 して本題に戻ろう。

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 こどもの部門の俳句大賞の続きである。次の句もわかりやすい。「あさがをがとなりの花としゃべってる」(本田彩来)「ゆうだちだかみなりさまのみずあそびだ」(沼田優子)「雨蛙葉っぱの上のおにごっこ」(高尾菜央)

 それに比べると一般の部はわかるようでいて難しい。大賞が「春潮に触れむばかりに着陸す」(鹿野登美子)の句である。大分空港に着陸する直前、飛行機は国東半島の上を西に向けてゆっくりと降りて行く。私も経験があるが、地上にいて春潮すれすれに機体が触れんばかりに急降下する模様を眺め、その一瞬をとらえて成功した句であろう。しかし、地上にあっても機内でも同じ経験はあるだろう。そのことが知り得ないのだ。どちらであってもいい句なのだろうが……。

 準大賞として、「白神の雪解の水を田に満たす」(岩田秀夫)「百歳の母の声聞く夜長かな(福西礼子)、の句は言葉通りの解釈でいいと思う。だが、<一般の部優秀賞><一般の部入選>の句も各々句としては、上位の句とそん色なくいい作品ではなかろうか。甲乙つけがたいと言いたいのだが、どうであろう。

 次に、各々の入賞者には高齢者が多いことが眼につく。例えば「稲架を組む夫婦に月の上がりけり」(山賀春江・90才)「手話の指さくらさくらを合唱す」(當摩八千代・84才)「八方にある漁火や夜の秋(平田幸子・95才)「万緑の中鍬の柄で立ち上がる(茂木妃流・87才)の人である。俳句ほど年齢差なく作れる文芸作品は他になかろう。

 何回も言うが俳句を作れない人間からするとその解釈は難しい。前記の木割大雄さんは、阪神タイガースのエースであった江夏豊と、甲子園球場周辺を吟行したことがあると、彼の本の中で書いている。その江夏に「すいすいとモーツアルトにみずすまし」の句がある。多田道太郎は「即興でモーツアルトのタクトを振り、即座に名句をものにする」人として、江夏を賞めている。しかし、理解できそうで、私はそう解釈できず困ってしまう。「浜風に一喜一憂若き日々」、これなどは野球を少し知っている人であれば、誰しも理解できよう。理解、解釈のできない俳句にぶつかると、俳句は難しいと思わざるを得ない。

 木割さんの本を、本人から直接買った時、この有名な俳人は本にサインをしながら私に、「俳句を作るのか」と問いかけてきた。私はすかさず「作ろうにも作れないんです」と答えるしかなかった。その晩、彼の句集とエッセイ『俺』を読み、俳句を創りはじめると一生の仕事になりそうな気がして、私にその才能がなかったことを幸いに思った。

 そしてこの一年間、何を思ったか『高浜虚子』(冨士正晴;著)を読みかけ、読みかけては中断している自分にあきれかえっている。まだ半分にも達していない。又、芦屋浜に建っている虚子記念館の前まで行って、何故だか入館しなかった。比較的近い所に居るのだから、今年は是非入館する予定である。そして、冨士正晴の『高浜虚子』の本を読みきりたいと思っている。

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『みちしるべ』**「水俣病」の原因を究明した原田正純氏の講演を再び聞いて**<2010.1. Vol.62>

2010年01月02日 | 藤井新造

「水俣病」の原因を究明した原田正純氏の講演を再び聞いて

藤井新造

 昨年11月29日に「水俣病とむきあった労働者――新日本窒素労組60年の軌跡」の大阪展があり、この展示に合わせて原田正純氏は水俣病発生の原因をつきとめるまでの苦心の講演が、大阪人権博物館であった。

 医学からみた水俣病について、原田氏の講演は丁度10年前1999年9月に「水俣おおさか展」があり、その時聞いていた。この時に彼の書いた『裁かれるものは誰か』を購入し読み、彼の水俣病究明にかけた並々ならぬ努力に感銘を受けた。

 勿論、彼の『水俣病』(岩波新書・1972年)、石牟礼道子さんの水俣病に関する一連の本、土本典昭監督による水俣病についてのドキュメンタリー映画により、私なりの水俣病についての知識を持っているつもりであった。しかし、今回の講演は、1時間余りであったが『裁かれるのは誰か』の要旨をわかりやすく説明してくれ、忘れっぽい私に色んなことを再認識させてくれた。

 彼は水俣病の特徴を次のように書いている。「臨床症状として四肢の感覚障害、運動失調、視野狭窄、言語障害、聴力障害などが特徴であること………それは1940年イギリスの有機水銀農薬工場でおこった有機水銀中毒例の報告があった。これがのちにその発表者の名前をとってハンダー・ラッセル症候群と呼ばれ水俣病原因の究明の糸口となったのである」。

 そして原田氏らの熊本大医学部の研究班により水俣病が「………その原因として発生率、発生地区、発生時期、家族内水俣病発生、母親の症状、他の原因が考えられないことからメチル水銀が考えられる」と結論づけた。

 時の政府は、昭和49年9月になり正式見解として「水俣病」の原因を「チッソのアセトアルデヒド酸設備内で生成されたメチル水銀化合物である」と発表した。

 水俣病が奇病として地域住民から呼ばれてから実に12年、原因がわかってから9年経過した後である。それまで熊大医学部の研究班の報告(チッソ原因説)に反論し、原因(チッソ企業)の特定を遅らせたのが東大医学部の教授など高名な学者の論文であった。

 そのためか、この本の帯には「専門家は体制の隠れミノか?」(最首悟)と書かれている。

 次に、原田氏は水俣病のなかでも特に胎児性水俣病の発生の解明について、困難を極めたと語った。何故なら「その当時の常識では母親の胎盤はたとえ母体内に毒物がはいっても胎児はまもっていると考えられた。したがって母親より子どもの方が症状がはるかに重いということは考えられないことだった。ゆえに胎盤を通じ毒物が胎児にはいることは大発見であった」と言う。

 このことにより、昭和37年11月、水俣病認定審査会では16人全員胎児性水俣病と正式に認定した。

「隣の塀が燃ゆるときは汝の物にもゆかりあり(ホラティウス・ギリシャの詩人)」のことわざとは逆に、遠い土地の出来事として水俣病患者の痛みを知ることはできなかった

 原田さんの講演の内容から離れるが、私は1960年(昭和35年)水俣病が発生していた水俣市に近い大牟田市に、約1ヶ月間居た。有名な三井三池労組の長期ストライキの支援に行っていたのだ。

 その時点では水俣病が発生していたことを知らず、そのことについて無関心であった。そのことを講演が終わり会場をあとにし、JR芦原橋駅へと歩く途中想い出し何とも忸怩たるものを感じた。「水俣病」の患者さんの痛みを知ることはなかった。後悔しきりであった。

 後年、水俣病患者に対し謝罪と慰謝料をチッソに要求し、時に過激とまで言われた行動に走り、患者の先頭にたち闘った故川本輝夫氏の講演を持つ機会を尼崎で開催したのは、私の自責のせいかも知れない。

 この本のなかでも、故川本輝夫氏による水俣病と疑いのある潜在患者の掘り起こしに奔走した行動と情念について敬意を払い記述している個所がある。

 今なお、水俣病認定患者の申請者は44人近くいて、病気に呻吟していることをみかねて環境省は水俣病患者に対し、やっと「汚染された魚介類を多食した」と認められれば救済対象とすることが報じられたという(’09年12月26日、毎日新聞)。

 このことは一歩前進した姿勢であろうが、「救済」なる文言は、この場合不適切な表現と言わねばならない。何故なら、加害者の企業チッソは、メチル水銀化合物を排出し続け会社が利益を得、被災者の患者は、水俣地方に住んでいて魚介類を食べていただけで、身体も生活も破壊された。

 私は法律に無知であるが、この場合は「救済」ではなく損害賠償(医療費を含め)支給という言葉を使うのが普通ではなかろうか。

 ともあれ、何十年にわたり放置され続けてきた水俣病患者の申請が、1歩でも2歩でも前に向いたことを心より喜びたい。

 それにしても、このような「状況」を生んだ責任は、今の「病んだ社会」を象徴しているように思えるがどうであろう。

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『みちしるべ』*「みち環」を通じ「ネットワーク」につらなっていった**<2009.9. Vol.60>

2009年09月06日 | 藤井新造

「みち環」を通じ「ネットワーク」につらなっていった

藤井新造

 『阪神間道路問題ネットワーク』(以下「ネットワーク」と略す)の会議に出席するようになった動機は、『みちと環境の会』(以下「みち環」と略す)の会員になっていたからである。「みち環」には10年余以上前から会員になっている。と言っても総会に顔をだす位のつきあいである。

 それでも会員につらなっているのは、多分この会員のメンバーの人柄の良さと真面目さにひかれたのと、在職中尼崎で反公害運動に多少ともかかわってきたので、時間のある時顔だし位との義務感にかられたからであろう。そして「みち環」を通じ、ずるずると横すべりの形で何時のまにか「ネットワーク」の会議に出席するようになった。

 これを書くため手帳をみていたら、「ネットワーク」には8年前位から顔を出したり出さなかったりしている。と言う訳で積極的に活動に参加しているとは言えまい。特に芦屋市に住みながら、芦屋の『山幹問題』について関心を持ちながらも殆んど会合に出席せずに終っていた。

 一つだけ言い訳をすると、退職して3年半、主として障害者、老人の病院への通院を送迎するボランティアー(運転手)の依頼があり手伝っていたこともある。一週間のうち半分以上の出勤(?)して、他の行事に参加する時間がとれなかったことと、自分の趣味を徹底的に優先させたからである。

 退職する前の仕事が小さい医療機関という性格上勤務中、休みがあまりとれなかった。とれなかったということの上に休日出勤がよくあった。生来勤勉でない私なのだが、人手が不足していたので止むを得ず嫌々ながらの休日勤務をこなしていた。だから末っ子が就職したので、それを機会に仕事を定年前に自分から退職することにした。それで40年間の間に出来なかった、読書、映画鑑賞、旅行なりをしようと思っていた。

 ところが上述したように当初ボランティアー団体より少しの時間の手伝いでもいいからと言われ、活動に参加していたがやっているうちにその時間が段々と増えていった。そして、私自身の中でボランティアー活動という社会的に有意義なことをやっているとの自意識が過剰になり、家庭内より批判がでてきて、ときには家庭内で諍いが起きる原因になった。ボランティアー活動をしているとの「思いあがり」が、自分のなかに知らず知らずに芽生え、その気持が増長していることに気づき、その支援活動から手を引くことにした。

 ボランティアー活動をやめて、しばらくして「熟年者ユニオン」に加盟した。これも友人に勧められての加入である。この団体は退職した人達のグループである。1ヶ月に1回神戸の三宮の商店街でサンドイッチマンデモをしている。その時々の社会問題、(主として医療・福祉問題が多い)をビラにして配布しながらのデモである。その他、カラオケ、麻雀、ウォーキング、名所見物、ちょっと固いところで社会保障の勉強会と、多種多様な行事を開催している。

 無理をしないで、その人の体力、時間が都合つけば参加する、個人の自主性を尊重した団体なので、この仲間とは気軽につきあえそうなので入った。昨年から今年にかけて『後期高齢者医療制度』の廃止に向けてのビラ配布と、署名活動を阪神間の主要ターミナルで行なった。この時市民の反応はすごかった。ビラを受けとった人から「頑張ってくれ」、「私もビラを家の周辺にまきたいから持って帰える」、「廃止になるまで続けるよう」と、励ましの声をかけてくれた。そこで署名活動をしたが、これにも協力してくれる人が多かった。

 毎月、尼崎市内のターミナルで「市民発/九条を世界へ市民の会」のビラまきに参加しているが、このビラの受けとりはもう一つであるが、ユニオンのビラの反響は大きかった。久し振りにビラまきの楽しみを味わった。近年にない出来事であった。暫くはこのメンバーと一緒に楽しみながら社会運動につらなって行こうと思っている。

 さて、そこで「ネットワーク」との関係はどうなっているのか。私は『道路問題』について知識が不足しているので大いに勉強できる場所になっている。他の会合とダブらない限りサボらないように心がけて出席している。残念なことは、この会議で聞き役になっている場合が多いので困るが、それでも出席している。出席だけでは申し訳ないと思っていたところ、2年前に前会長の大橋さんより会計をやれと言われて引き受けた。

 会計といっても収入、支出とも少額の出入りしかないので簡単な記帳で済む。監査規定がないものかと不思議に感じ、これでは困るので、先般そのことを大橋さんに言ったので、そのうち誰かが監査してくれるであろうと呑気にかまえている。まあー、少し位はこの会に役立っているのかと、自分で慰めている。

 話はそれるが最近困っていることは、小さい(細い)字の本が読みづらくなってきたことである。「臓器移植」に反対の立場であるので他人の「眼球」を貰う訳にはいかない。もう少しすると、拡大鏡で本を読むことになるのを想像すると、ぞっとする。それまでに少しでも多くの本を読もうと心がけているが、果たしてどこまで実行できるか心もとないが仕方ない。

 そして『………だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である』(「マタイによる福音書」)の心境に今は近い。

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『みちしるべ』砂場さんの「シベリア物語」を読みかえして**<2009.2. Vol.56>

2009年02月15日 | 藤井新造

強い意志の人、信念を貫いた人、砂場さんの「シベリア物語」を読みかえして

芦屋市 藤井新造

 砂場さんの『私の「シベリア物語」』が発刊された際ある冊子に短い書評を書いた。その時不充分な書評になっていたので、ずうっと気にかかっていた。

 砂場さんの本の紹介のため、他のシベリア抑留者の手記、シベリアに関しての本を乱読しすぎ肝心の砂場さんの本については中途半端な書評になった。大変失礼なことをした訳であり、文中そのことを書きそえお詫びしていた。

 その償いというわけでないが、今回この本をじっくりと読みかえし、『私の「シベリア物語」』は今まで他の本でみられない多くのことを書き残していることを知った。

 1945年の冬から4年2ヶ月のシベリア抑留生活をある箇所では物語り風に、ある箇所では叙事詩の如く綴っている。それも「史実」にそって書かれている。

 例えばシベリアの気候風土についても、又砂場さんが接したソ連の家族の人々との交流がそれである。この本によると、抑留者の作業指揮をしていたソ連の人々の多くが「受刑者」で、この地に流刑された人であったと言う。

 両者とも置かれた状況が違えども、同じ「受難者」であった訳である。

 先ず最初に読んで感じたことは史実にそって書かれていることである。それも4年余の歳月をこのように今まで記憶としてあたためていたことに驚くばかりである。

 私は砂場さんと個人的に濃厚に接した時期が少ないが、それでも「阪神間道路問題ネットワーク」「市民発/九条を世界へ尼崎市民の会」の会合でよく顔をあわせていた。

 その時シベリアに抑留されていた生活を聞くことはなかった。今にして思えば、砂場さんにすれば軽々と短時間で語れる内容でなかったのであろう。なるほど、それがこの本を読めばわかる。

 そして抑留生活のなかでも、測量技師(補助)の職働について特殊な仕事をしていたので、ソ連の現地での家族の人々との接触もあり、他の抑留者と違い、ものごとを客観的にみえる立場にいたことも幸いしている。

 次に私の関心ごとは作業(労働)の内容と賃金との関係、続いて俗に伝わった「民主化運動」のことであった。

 その前に驚くことに、これも他の本で読んだが捕虜の収容所生活が旧軍隊の内務班の再現であったことである。実に2年間も続いている。旧軍隊の秩序に慣らされた旧兵士の習慣(服従)とは恐ろしいものである。

 さて賃金の件であるが、ソ連では8時間の労働内容でできる標準作業量を設定し、賃金が支払われていた。

 そして職種別賃金(大工、木材技術者、自動車の運転手、鍛冶屋)であり、その上に各自の身体検査による格付けで重労働、通常労働、軽労働に分類され、それに従って支給された。この後者について、砂場さんが指摘しているように、体の大小、強弱、体調に無関係に査定されたので、現実にそぐわなく不合理であった。

 賃金が仕事別でしかも標準作業量以外の作業をこなすと加給金が支給された。そこから所謂「ノルマ制」が強制されるように、抑留者からの迎合もあり、「ソ連の5ヶ年計画を超達成しよう」とのスローガンのもとで働かされていった。

 次に収容所内での民主化運動の背景についても同じことが言える。

 ソ連側の上からのおしつけ教育であったため拙速な学習会(「ソ党史『ボルシェビキ』、「唯物論」、「弁証法」について)に終始し、社会主義教育は成功せず「収容所生活が生産増強運動一色になっていった」。

 当時のソ連の意図したものと、抑留者の気持ちはかみあわず、結果として失敗に終わったことも適格に指摘している。

 第三に、ソ連人の家族の中に入って行って感じたことである。男性が食事を分担し、料理を作ることをみてびっくりしている。又、夫婦2人が腕を組んで散歩のため外出していたのが珍しく映り、これも日本ではみかけない光景であった。

 その他シベリアの4季の移り変わり、春ともなれば空気が温み、太陽の恵みと共に訪れる灌木の芽吹きなど、長い厳寒を終えての自然の息吹など、見事に文章化している。砂場さんはこの本を書くため80年代から資料を少しづつ渉猟し整理していたという。

 その努力の成果がこの本には確かに凝縮されて表現されている。

 生硬な文章を書く私など参考になることが多い。砂場さんにあらためてお礼を言いたい

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『みちしるべ』「反貧困」――すべり台社会からの脱出――**<2009.1. Vol.55>

2009年01月04日 | 藤井新造

『反貧困』――すべり台社会からの脱出――
(湯浅誠著 岩波新書)を読み考えさせられたこと

芦屋市 藤井新造

 時々私は人にすすめられて本を読む。最近では標題の本を読み教えられることが多かった。そのなかでも、生活保護受給の件であるが、どうしても今思い出し反省していることがある。

 私は69年から99年まで、医療生協で勤務していたが、当初ケースワーカーの類の仕事をしていて、組合員、患者さんから日常生活上のことで色んな相談を受けていた。

 そのなかで、患者さんが生活保護の申請の際、本人ともども行政の窓口担当者の所に行き、支給さすことも仕事の一つになった。

 職場の近くに尼崎での唯一の母子寮があり、20世帯前後の家族が入居していたと思う。ここに入居している母子家庭は色んな事情があり、急に引っ越してくる人が多かった。そして殆ど生活保護を受けていた。又、受給できないと生活できない人たちであった。そこで行政の方は生活保護費を打ち切るために、仕事に就くようにそれとなく催促する。それでも長期の受給者になると、執拗な催促の言葉がけからかなり強制的な言い方に変わり、その言動により受給者は屈辱的な精神的苦痛を受けることが多い。何故なら行政職の人間は受給者の気持、生活実態に思いをはせる人間は少ないからである。それと受給者に仕事に就くように催促する大きい目的は、尼崎市費支出の分担金、当時の支給額の四分の一を削ることにあったと思う。(又、国の方針もそうであるが)

 ある時こんなことがあった。母子寮に入居しているAさん(生保受給者)が何か用事があり、(多分本人の就職の件であったと記憶する)堺市の親戚の家を訪ねて行った。この件で市の職員が本当に親戚へ来たのかどうか堺市までわざわざ確かめに行ったという。本人がら私に役所から私生活を絶えず監視されているようで怖くなりどうしたものかと相談があった。

 さっそく本人と一緒に支所に行き担当者とその上司(課長)と談判した。行政の職員がそこまで私生活を調査しチェックしていいのか。又、その目的を聞くためであった。支所の課長はなかなか返答せず、最後に「実は近所からたびたび投書と電話が入るのです」と申し訳なさそうに言った。そして、それとなく職員の落度があることを認めた。しかし、担当者から納得できる説明は聞けなかった。担当者が下肢麻痺障害者であったので、私はそれ以上追求する気持がなえて、今後はこういうことがないよう言い放ち注意して終わった。と言うのは、その頃私は《障害児を普通学級へ》のスローガンのもと、障害者(児)運動にかかわっていて、担当者(障害者)に強く文句を言うのをためらった。何故なら担当者の障害者が、社会的ハンディキャップを持ちながら仕事をしている彼の立場(上司との関係)を考えながら交渉していたからである。従って私は当事者(生保受給者)の意見も十分聞かずに事態を終息さしてしまった。結果として私は彼女の意見を充分斟酌せず無意識のなかで代行したことになったのを、だいぶ後になって気づいた。

 このことは双方(生保受給者と障害者)に対して人間的対等の関係を維持することなく、逆に双方を弱者扱いする差別的態度をとる側にいたのでないかと反省している。

 それにしても40年前の話だが、今も誰かがつきそって行政の担当者とかけあえば生活保護受給が可能になることが多い(生活できない条件があるから受給申請するのだから当然支給されるのがあたりまえであるが)のをこの本でもあらためてわかった。

 この世界(福祉行政)は、あの時代の行政の姿勢よりもっと悪くなり、福祉担当者の職員が「生保受給者」の切り捨てが主な仕事とは、世の中本末転倒の具体例の見本だろう。尚、蛇足であるが、生活保護以下の給料で働いている人が多いとか、色々とこの基準金額が社会的な問題になったり話題になる場合があるが、あまりこの言葉は安易に乱用しない方がいいと思う。

 政府は、この金額を少しでも削ろうとしている。又、現に削りつつある。私が仕事をしていた時に、病院には医師の診断書があればわずかではあったが栄養加給金が支給された。みての通り、この金は栄養をとり早く身体がよくなってください、との加給金であるが、母子寮ではなかなかおおっぴらに使えない。と言うのは、母子寮は共同炊事、共同トイレなので、加給金を使って肉類でも食べたいと思って買い料理すると、すぐ他の人にわかるようになっていて、当人はずいぶんと気を使うのである。何を食べているかお互い知れる状況である。そのことをよく母子寮の入居者から愚痴として聞いたが、どうしていいかわからない時があった。その事情を入居者全員に説明できないし、管理者に言って通じず困ったことがあった。

 又、話は他へ飛ぶが、行政(福祉担当者)は組関係の人に弱いとの評判が飛んでいた。入居者の女性が水商売で夜働いて稼いだ金を申告しない人が多いとの噂である。このこともたまたま一人がそうであれば他にも多くいるだろうとの風評がすぐに広がる。生活保護受給者の一人の行為をあたかも多く存在するかのような印象を与える言動はよくない。このような偏見と差別は当事者の立場に立つことができず、そしてそこから離れた(距離、場所、位置)から無神経に発せられる言動が原因で発生するそうである。

 これは、医療生協で30年余仕事をしてきた私の結論である。

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『みちしるべ』クロアチアヘの短い旅**<2008.7. Vol.53>

2008年07月04日 | 藤井新造

クロアチアヘの短い旅
戦禍の傷痕も生々しいドブログニクの街

芦屋市 藤井新造

 ある冊子に映画『サラエボの花』についての批評文を書いた。その時、旧ユーゴスラビア連邦共和国(以下「ユーゴ」と言う)についての知識は少なく、間に合わせで何冊かの本を読んだが、当然生半可な理解で終わった。

 今までのユーゴについて、私の知識と言えば、チトー大統領がスターリンのソビエト衛星国支配体制から距離をおき、1950年代後半より、第二の道として「非同盟政策」を標榜し、彼が中心となり、インドのネール首相、エジプトのナセル大統領と会合を重ね、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをまきこみ、世界平和を目指して動いていた時くらいである。

 そして当時私は、漠然とある種の期待、アメリカ、ソビエトの世界支配体制を上記の発展途上国の発言により、もしかしたら歴史は違ったいい方向に行くかもしれないとみていた。しかし「非同盟政策」の進展もナセル大統領の急死で頓挫してしまった。それ以後、1989年ベルリンの壁の崩壊をはじめとし、ソビエト体制も同じ運命をたどり亡くなり、それに連動するかの如く、ユーゴも北から1990年にスロヴエニア、クロアチア、そして1992年にボスニア・ヘルッエゴビナと独立国家を宣言し、ユーゴ連邦共和国は事実上解体した。

 その後、知られるようにコソボの独立をめぐり7年間の不幸な内戦が続き、1995年NATOが軍事力を行使し一応の平定に至っている。このこと――なぜ内戦が勃発したのかについて、新聞、雑誌の類を読んでもわからず、深く立ち入って考えることもしなかった。遠い国の出来事と思っていた。しかし映画を観て、上述したように泥縄式の読書をした。それでわずかの知識を得たが、主人公のエスマが内戦中にセルビア人にレイプされトラウマ(心的外傷後遺症)に苦しみ、何回も癒しの場《セラピー》に行く場面があったが、そのことについての理解と言うか、彼女のつらい体験に思いをはせるのが不十分なままに終わっていた。このことが、あとあとまで自分の心のなかで後味の悪さとして残っていた。

 そこで今回、ユーゴで最初に分離独立したクロアチア、スロベニア、主としてクロアチアヘ行くことにした。コソボヘ行くことが困難であれど、周辺や両国へは観光客として訪れる人が増えていると聞き、直接その国を実体験すれば、少しぐらい映画の背景の雰囲気位を味わえると想像したからである。又、何年か前にイタリアのヴェネツィアヘ行った時、僅かの距離をへだてたアドリア海の向こうにユ一ゴがあることを知り、何時か訪れてみようと考えていた。クロアチアの首都ザグレブは、この国の北部に位置している。この首都への飛行機の直行便はない。今回はトルコ航空に乗り、イスタンブール経由になった。そしていったんイスタンブールで降り、トルコ国内に入り、ここで半日観光をすることができた。

金角湾に浮かぶグラダ橋との短い再会――イスタンブールにて

 後でわかるがザグレブの空港は大阪空港位の規模であり、国際空港としては小さく見えた。多分直行便はまだまだ先のようだ。

 それはともかくとして、イスタンブールの観光は、例え半日観光と言えどもクロアチアヘの旅行の楽しみを倍加させるものであった。

 一昨年の春、トルコへの格安ツアーでここで二日間滞在し、バザールの見学、ボスポラス海峡クルーズの体験を楽しんだのを、今回も半日でありながら再現できるからである。特に海辺で育った私は、ボスポラス海峡を見ることができるのを何よりも楽しみにしていた。

 あの時、金角湾にかかる新・旧市街地を結ぶガラダ橋を人に押されるように歩いた。海峡の周辺は歩行者あり、釣をしている人、クルーズを楽しんでいる人々で、何万人とも言える人種の違った人間がうごめいていた。ガラダ橋は二階建になっており、下は歩行者専用で、何千人もの観光客、土地の人が往き来している。釣りをしている人はとれた小魚を二階の店で料理して食べさしてくれる所もあると言う。

 そして二階では、釣りをしている人、下道を往来する人、クルーズ船を眺めながら飲食して陽気な笑い声を出している群ばかりである。私は前回と同じく今回もこの橋の上を歩きたかったが、時間がなく、有名なトプカプ宮殿と旧市街の見学だけで終わった。残念ながらボスポラス海峡との短い時間の再会で終わった。ここで半日余の時間を費やし飛行機にてクロアチアの国に入る。

 クロアチアの人口は約400万人、日本の本州の広さ位と聞いていたが、ここも南の方は岩山が多く、平野の面積は少ないように見えた。しかし、北から南東にかけて長い海岸線はアドリア海に面し、北西はイタリアに近く、ロ一マ帝国の侵入、そしてベネチアに占拠された時代もあった。従ってザダールの街にはロマネスク様式では、ヨーロッパ最大の教会があり、有名なドヴロヴニクには同じくロマネスク様式の中世の回廊が残っている。

 アドリア海の穏やかな潮風と暖かそうな気温のせいで、夏には欧州、ロシアから今ではチェコ、ハンガリーからもバカンスの地として多くの外国人が訪れ宿泊するという。気をつけて見ていると、海岸線に点在する主要な都市でホテルらしき建物の建築中があっちこっちで見えた。内戦後10余年のなかEUにも加盟し、観光客を積極的に受け入れる体制を作り、なかでも日本に対しては親和的な関係を保っているらしい。

 そのせいか、安心して国内旅行ができた。一口で言えば置き引き、スリによる盗難がないことだ。私はどこのホテルに泊まっても近くのスーパーに行くことにしている。スーパーでどんな品物が揃っているのか、特に果実類に興味があるからである。ここでも果実はどれをみても、日本より大振りであるが、値段は以外と安い。時間をかけて物色することができた。

 話をもとに戻すと、先に日本について親和的と言ったのは、この国が日本の教育制度を視察に来て、日本の義務教育を参考にして内戦後に作ったからである。

 大学の入学については比較的やさしく、入学してから毎年の進級試験がきびしいと言っていた。従って留年する学生も多いそうだ。

 多くの都市で、大人の喫煙が少ないのに比し、街頭で高校生位の学生が男女を問わずタバコを吸っているのをよく見かけた。喫煙についてとかく言う資格のない私であるが、どうみても多すぎはしまいかと思える。それをガイドに聞くと、生徒の学校外の言動については親の責任であり、学校は関与しない、と言っていた。

 だから日本のように生徒が校外で何か問題を起こした時、学校の責任者(教頭、校長)が謝罪している姿(テレビの前などで)が不思議に思えるらしい。個人責任と、そうでないものの区分が徹底している感じである。

破壊された建物の銘板に心がうずく

 次に、この国の東南地方の都市は内戦により多くの家屋が破壊された。観光地で有名なドブロヴニクの街も例外なく壊されたが復興が著しく、それもスパニッシュ風のカラーの屋根と白壁の新しい建物が多いのは驚いた。このことについては、建築物だけでなく消費材全般について購入した価格の半分は個人に還元されるので、物が買いやすいという。それでか、青空マーケットの果物、野菜類は別だが、小さい店で売っているバン類など飲食物が高い。例えば、昼食にサンドイッチ類など軽食ですませようとしても高いので買う気がしなくなったこともあった。

 ドブロヴニクの旧市街地は要塞の街として中世の面影を残しているが、入口の左側の壁には、迫撃砲を撃ち込まれ破壊された家が黒い点で銘板に明示されている。内戦によりどの家が壊されたか一目でわかるようにしている。これを見ると、この小さい旧市街地でも多くの建物が被害をうけたことがわかる。その傷痕を忘れないよう、人々の記憶にとどめようとしている証しとして何時までも残るのであろうか。それとこの街のすぐ北側の裾から上に標高300m位のスルジ山を仰ぎみることができる。下から見ると、山頂ヘケーブルらしきものがあったように見える。中腹にはその支柱らしきものがあるだけで、たしかにそれとはわからない。このスルジ山へは一時間もあれば登れると聞いたので、行くことにした。すると坂道の途中に地雷で亡くなった人の十字架が道々に建っていた。又、山頂ではケーブルカーの降車場のセメントで固めた土台と、建物の立ち上げの部分を残したのみで、黒ずんだまま残っている。そして、その周辺ではきれいな黄色い花の野草が可憐に咲いていた。山頂より眼下に見えるアドリア海の紺碧の海の色とドブロヴニクの旧市街地が鮮やかに絵模様のように美しく見える。上述したように10年前に内戦により、この市街地が迫撃砲により砲弾が撃ち込まれ、多くの家屋がなくなったと想像できない程の美しい景色なのだ。

 さて、この国に来てはじめて私は映画『コソボの花』の背景が少し理解できた。旧ユーゴが多民族多宗教の国であること、その一つの例としてドブロヴニクからコトルの街に行く途中、海に浮かぶ小さい島(周囲200m位か)にも、カソリック教会、セルビア教会の建物、ユダヤ教のモスクがあり、宗教上に於いても複雑な国家であることがわかる。

 そしてクロアチアの国の海岸線の一部9kmにわたりボスニア・ヘルッエゴビナの領土があり、国境でパスポートの検閲があった。

 何回も書くが、内戦が終わって10年余しか経っていない現在、この国の人々の心の中で「戦争」と言う「悪」の行為にともないその残酷さが今もトラウマとして残っており、子供たちの明るい顔に比し大人たちの表情は心なしか暗いように思えた。

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『みちしるべ』旧約聖書にひかれシナイ山に登ることになった**<2008.5. Vol.52>

2008年05月04日 | 藤井新造

旧約聖書にひかれシナイ山に登ることになった

芦屋市 藤井新造

 今回のシナイ山登頂で、これほど肉体的にしんどさを体験したのは久しぶりである。20才代の時、北アルプスの雲の平のふもとにある太郎小屋で泊まり、早朝薬師岳に登り槍ヶ岳を目指して西鎌尾根づたいに歩いている時、はるかかなたに槍ヶ岳の小さい穂先を見て、今日中に着けるかなあーと不安を抱き心配しながら歩いた時があった。案の定、夕方槍ヶ岳の手前までたどり着いたが、その時身体のバランスがとれなくなり、歩くという姿勢ではなく這うようにして山小屋に転がりこんだ。その時、やっと着いたという安堵感しかなく、山登りの快感など味う余裕などなく、早く身体を横にして休みたい気持でいっぱいであった。それでも、その日に槍の穂先に登っているので、そのことができたのは若さによる所以であったろう。

 そのことの苦い経験を、今回のシナイ山に登りながら思い出し、歩き出しながら途中で何回ともなく引き返すことを考えた。ツアーの添乗員から「しんどかったら8合目まで登って、そこで日の出を見ても美しいから」と言ってくれていた。

 2,200mのシナイ山は、1,500mまでバスが行きそこから徒歩で登る。勿論、ラクダを利用して8合目まで行く人も多い。8合目からは殆どの人が徒歩である。多くの人が、次から次ぎへと後から歩いてくる。後ろから登る人に道を譲りながらこちらはゆっくりマイペースで歩く。それでも息はあがり、足は重くなり前へ進めるのが大変である。私はツアーの一行が登るのであれば、普通の人々位は歩けると軽く考えていたのだが、それが甘かった。この登山は、砂と小石、全て石段(薄い岩板)なので歩きにくい。それと登山道は、途中少し下る短い箇所が一つあるのみで、往路全てが登り道で水平に歩く所はない。悪いことに私はカジュアルに近い靴底のものを履いていた。他の人は靴底の厚い登山靴に近いもので歩いている。登山しかけてすぐこの靴で「失敗したなあー」と思いを強く持ったが、時既に遅しである。

 登山を始めたのが多分午前2時30分位であった。大勢の人が懐中電灯で足元を照らしながら登っている。まるで「蟻の行列」の如く懐中電灯のあかりが蛇行している。上述したように登り坂一方的なので、体力的にきつく仕方なく休みの時間を多くとった。30分に5分の休憩の間隔をとる予定でいたが、休憩時間をとる回数が多くなり、次から次へと登ってくる人に追い越されて行く。登頂寸前の終わりの方では5分歩いて2分休憩をする惨憺たる有り様である。情けないという他なしとはこのことである。それでもやっと登頂できたのは5時30分頃。3時間を要したということか。

 12月の初めの冬の季節、山の頂きは、気温0度前後といっていたので、多分そのあたりであろう。私は防寒用の上着と、下に厚着していたので寒さはさほど感じなかった。しかし日の出が6時20分頃と聞いていたので、それまで相当の時間がある。その間「毛布はどうか」と現地語(?)で貸してくれる誘いがあるが、体感温度は下がるようでもなく断った。登頂している人がいろんな言葉で会話を交わしている。私には英語とフランス語らしきもの、そして中国語らしき会話を交わす言語の区別ぐらいわかっても、内容は全然理解できない。会話の相手はつれあいだけなので、沈黙したまま日の出を待っていた。

 周辺が少し薄っすらと白みはじめると、山々の稜線がくっきりと浮かびあがってくる。ガイドブックによると、今私が立っているシナイ山は、モーゼが神より十戒を授かった山かどうか正確には判明していないらしい。だが、私はそのことはどうでもよく、自分勝手にここでモーゼが神の啓示を受けた所と想像した。明かりがますにつれ、周辺の山々は皆岩山であることがわかる。木も草もなく、岩ばかりの荒涼とした風景である。これらの岩山は、世のあらゆるわずらわしを削ぎおとしそそり立っている。それも日本の岩山は幾分なりと雨の影響で軟らかな感触があるが、ここは何ヵ月も降雨がなく乾いた土地にふさわしく日乾煉瓦と同じく茶褐色をしている。それも険しい山々ばかりである。この岩山は何千何万年もの大古の昔から今ある姿で屹立しているのであろうか。

 私は旧約聖書にでてくるモーゼが神に呼ばれ、シナイ山に一人で登り「十戒」の啓示を受けた場所に確かにいるはずである。しかし今頂上ではご来光を待ち、カメラのシャツターを切る用意をしている人々で溢れている。あたりまえであるが、騒々しさこそなけれども、この溢れる人の多さにびっくりして、神は立ち去って行く気がした。

 ユダヤ教の人々を除くと、ここは観光場所の一つとして見学にきている人々が大半であろう。かく言う私も異教徒の一人である。

 私はひょんなことで、約4年前から旧約聖書の輸読会に参加し「出エジプト記19章第1節~22章第3節」を読み、いつか一度はシナイ山に登ろうと思っていた。そういうことがなければ、私も多分シナイ山に登ることはなかったであろう。

 話をもとに戻すと、シナイ山に登るため観光客を乗せたバスは、前日カイロより紅海の下のトンネルを通り、世界最古の修道院、セント・カテリーナの近くに宿泊するまで、およそ一日近く走る強行軍であった。その途中、紅海の紺碧と言える海の色を見、この青さとカイロでの車の排気ガスと砂塵でどす黒くなった市街の空、そしてシナイ山に連なる荘厳な岩山の峰がどうしても私のなかで一直線上の点につながらず、同じ工ジプトに存在するのが信じられなかった

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『みちしるべ』人は各々遠くへ行きたくなる時がある**<2008.3. Vol.51>

2008年03月03日 | 藤井新造

何故旅行をするのか
人は各々遠くへ行きたくなる時がある

芦屋市 藤井新造

子ら泳ぐ歓声のなか塩積みし艀はしげと運河を通う  山本みつえ

 何故人は遠くへ行きたくなるのか。各々理由があり旅立つのであろう。私の場合はっきりした理由が見つからないが、時々そんなことを考えてみることがある。

 勿論、人に誘われて、その時の気分により軽いノリで近くへ行く時は別にして大概はあとで考えてみると、やはり動機らしきものはある。

 それで思いあたるのは、私は小さい頃より18才位まで瀬戸内の小さい狭い村で育ったのでもっと広い所、遠くへ行きたいと言う願望を絶えず持ち続けていた。村の背後には300m~400m前後の山々が有り、一応五色連山と呼ばれ親しまれていた。東南の方向にあるこの小高い山と、西には海があり、海のなかには瀬戸大橋開通のため今は陸続きになった沙弥島をはじめ塩飽諸島が点在していた。そして、私の生まれた土地にはなくなった「塩田」があった。(このことは何回かここに書いている)小高い山々は頂上近くまでみかんの木が植えられ、我家もわずかばかりのみかん畑からの収益により生計がなりたっていた。それ故、夏など物心ついた時、みかん畑にいた。父母が早朝よりみかん畑に出かけた時、私が弟と一緒に父母がこしらえていた昼弁当を遊びながらみかん畑に届けるのが日課だった。

 みかん畑の中腹より眼下に塩田があり、そこで忙しく働いている人達が蟻の如く絶えず動いているように見えた。塩田特有の作業である。この作業ここで簡単に説明するのは難しい。たまたま私の母の従妹が記録した『浜曳きのうた』(短歌集・山本みつえ著)を少し長くなるが引用して参考にしてもらう。

 「浜人の朝は早い。男衆たちが4時頃には浜に出て、昨日沼井台に掬い入れ鹹(かん)を漉したあとの湿った砂を金鍬で掘りだしている。……冬と夏は塩田のかき入れ季であり、肉体的に最も苦しい季節でもある。11月になって霜がおりると、ひたひたと鳴る自分の草履のおとにおびえながら暗い道を朝場に行き、棒のようにかじかむ素足で、昨日仕上げに曳いた反対の方向に馬鍬を曳くことによリー日の作業が始まる。

 私の地方では「塩田で働く人のしんどさ(肉体的疲労)について、あのきつい仕事がこなせたら、どんな仕事も軽いものだ」と言われていた位の重労働であった。

 その塩田の向こうに海があり、左方から沙弥島、そして真正面に瀬居島があり、この島の人家は肉眼でも見られた。この島から右の方へ、牛島、広島、本島、高見島と続き、その端は岡山県の下津井か水島あたりに延びて見えた。太陽は何時も五色連山から昇り、この島々の間に没していた。

 みかん畑の中腹から頂上に抜け頂上つたいに30分余歩くと隣村の大越村が見え、右遠方と言ってもそれ程遠くない距離に無人島の小槌島、大槌島が海に浮かんでいる。この島の東を今は廃止になった宇高連絡船が走っていた。そしてみかん畑より左の方向をみると、讃岐山脈、晴れた日には背後の四国山脈が見えた。

 私の身体と心は、村の背後の小高い山々と塩飽諸島の間を動いていたが、何時も当然とは言え、この狭い空間を抜け出し、ふと遠くにみえる四国山脈の高い山へ行きたくなった。あの山脈の山の頂上へ行ったらどんな感じがするのだろうかと漠然と考えた。そして17才の時、石鎚山に登りたいと母親に言った。母親は「毎日みかん畑に行っているのに山へ行っても面白くないのでないか」と、私に言葉を返してきた。私は返答の仕様に困り黙っていたが、その夏単独登山を決行した。

一人で石鎚山へ登り、翌年は友人と剣山へ行く

 毎日みかん畑に行き農作業を手伝っていたので、「足」の方は自信があったが、石鎚山登山の地図がないので困った、そこで市立図書館(今は使用されていない)でおおまかな地図を探し、登山口に近い降車する駅とか、どの位の時間で1日目でどれ位登れるか、宿泊施設とか大体のことを調べて出かけた。多分最初の1日目の弁当は二食分位登山に賛成しなかった母親が作ってくれたと思う。

 当時の国鉄の西条駅を降り、近くの小さい雑貨店で登山道の入口を聞いた。年配のおばさんは丁寧に道を教えてくれ「熊が出てくるので、どこかで鈴を買って行け」と注意してくれた。しかし鈴を売っている店らしきものは見当たらず、アバウトな私は誰か登っているグループがあり、その後にくっついて行けばよいと安易に考え鈴は買わなかった。そして偶然にも広島県の教師グループに会い宿泊も同じ宿にした。(宿泊して教師であることがわかった。)その夜は、彼等の話を聞き、私が将棋はできると言うと、そのうちの一人が相手をしてくれた。一人で登っている私に寂しいだろうと同情の念を寄せてくれた結果である。しかし、私は教師一般があまり好きでなかったので、他にも登山者がおり、自然と彼等のグループと離れて登った。石鎚山の山頂付近は険しい岩場であり、鎖をたぐりながら登った記憶がある。この登山の経験から、私は一人ではやはり面白くない。がやがやと友人と話ながら山へ登るのがいいと思い、次回は誰か友人を誘って行こうと決めた。

 翌年の夏、親しい友人二人を誘い登山計画を立てた。今度は石鎚山と並ぶ高峰の剣山に登りたいと提案した。前回は小屋泊まりであったが、テントで野営することにした。しかし、そのテントが当時、55年前なので知人、友人の間で探したが持っている者がいなく、学校で運動会用に使用していた麻と綿で作られているテントを拝借することにした。担当の教師は「注意して行くように」と一言だけ声をかけ、気持ち良く貸し出しを許可してくれた。しかしこのテントが重く登由に苦役を強いた。

 最初の一日目はどの駅で降りたかを忘れたが、登山道は人が登っている形跡がない。材木を運搬する林道、トロッコの線路とか渓谷の裾野の道は、木の丸太棒2本をくくって道にしている箇所があり、小川に落ちそうになった箇所もあった。リュックのなかは、飯盒炊飯できる食料品の材料でいっばい、しかも鍋持参なので重いことこのうえもなしの感じである。一日目は疲れがそれ程でないが二日目からはテントの布が夜露を吸って、これを担ぐ人間に大変な重さでのしかかってくる。テントは二人が交代で担ぐ順番を決めていたが、その者の足どりの重いこと。テントを担ぐ者を先頭にして、後から二人で追いあげるようにして歩くのだが、先頭の足元はふらふらしている。休みを多くしたいが、予定通り進まないので、休憩を少なくしゆっくり歩くことにした。日頃山歩きをしている私にと
っても「難行苦行」とはこのことかと思えるほど、足がふらつき前へ進まない。帰路は有名な奥祖谷二重かずら橋を通った記憶があり、ゆるやかで整地された道だったので、後から考えると往路と復路を逆にすればよかったのだ。

 初めての山なのでそんなことを知る材料もなく登ったので、最初は「苦行」の連続であった。それでも自分らで苦労して運んだ食材で料理し、河原で炊飯したのは(カレーライスだったと記憶するが)今にすれば懐かしい思い出の出来事であった。と言うのは、料理らしき物を作っていないが、このことは生まれて多分初めての経験であった故である。

 この夜は、昼間のしんどさが手伝い、三人ともあまり話し合うこともなく眠りについた。二日目は前述したように、道らしき登山道はなくその上きつい上り坂の行程で、三人共々足をふらつかせながら歩いた。そんなに苦労して登頂したのだが、頂上は霧がたちこめて視界がわずか身の周辺しかきかず、長居すればやばいと判断し山を下りることにした。折角だからもう少しの時間おりたかったが、霧が晴れる様子もなく、そのような状態のなかで座っていても気持ちが落ち着かず、その上登山者が少ないので早々に退散することにした。帰りは、食材も少なくなり各々のリュツクも軽くなっていたので、比較的足取りが軽くなっていた。二日目の夜は頂上より少し下がった小さい池のほとりでテントを張った。その夜は皆でテントの外に出て、月光が冴えた満点の星の下、一人がハーモニカを吹いて仲間の気持を和ませてくれた。

 私の旅への始まりはこのようにしてスタートした。

 

この絵は、この文のカツトに使ってほしいと、藤井さんから提供されたものです。紙の『みちしるべ』では、紙面割り振り上、表紙になりました。

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『みちしるべ』初夢で想い出したこと**<2008.1. Vol.50>

2008年01月06日 | 藤井新造

初夢で想い出したこと

芦屋市 藤井新造

幼い頃の村の祭りごといろいろ

 日本人はお祭りごとが好だと言うが、その例にもれず私もお祭りが好きな一人である。田舎育ちの私は、小さい時から祭りが好きであったが村の祭事は限られていた。秋の収穫祭と、各家庭での春祝い、夜桜の花見があった位である。

 生まれ育った地名が、松山村字大薮(現坂出市大家富町)なので、多分薮を切り開いてできあがった歴史の浅いと察していい。その歴史の浅いの数少ない祭事として、二日間の秋祭りがあった。一日目と二日目の午後まで獅子舞が各家庭を廻り、二日目の夜に神社に4つの地域から集まり境内で鉦と太鼓の伴奏により競技(?)を披露していた。同時に御神輿も各家庭を廻り、獅子舞を興じる同じ神社に集まり、祭りらしい賑やかな雰囲気をかもしだしていた。

 隣接している青海は、保元・平治の乱と呼ばれる宮廷闘争で敗北した宗徳院(上皇)の御陵があり、そこへ歌人の西行、俳人の芭蕉とかが来て参拝している。そして二人の歌碑・句碑もある。その近くには、四国八十八箇所めぐりの八十一番目の札所・白峯寺があり、古くからのであったが、特別伝統的な祭事があったとは聞いていない。大薮というは、海と小高い山の間に位置し狭い面積なので貧乏な家が多く、祭事を行う程の金もなく、時間の余裕もあまりなかったのかもしれない。

 村全体は高松市と坂出市の中間に位置し、海岸にそった場所で、農耕地として格好の地は塩田によって占められていた。余談になるが、私の母親の祖先は塩田の町・赤穂から同じく塩田のある林田町に移住してきたのを、後年塩田に関する本を読んで知った。

 話をもとに戻すと、秋祭り(2日間)と、春には塩田工場で働く人の大宴会が工場内であった位で、村民は絶えず休みなく働いていた。いや、休みなく働かないと食べて行けない戦中戦後が、私の小学・中学生の時代と重なった。田舎にいても稲作の田を持っていない私の家は、米食がなく、あの食糧難の時代、毎日、いも、かばちやの日々であった。

 そして。こと塩田に関してこう言うことがあった。夏になると午後より中学3年の男子生徒が学校を早引きし塩田の作業を手伝う。今で言うアルバイトの一面もあったが、家業として手伝っている者もいた。早引きした生徒の数の多さに、都会から就任してきた若い教師はその対象の生徒がおらないのに教壇で「半年もすれば卒業し仕事をする筈である。今しか勉強できないのに何故早退するのか」と怒りの言葉を発し、私達に投げつけるように言っていた。塩田以外の田畑を持っている家の子供(私も)は授業が終わると、すぐ家に帰り家業(農作業)を手伝っていた。勿論、日曜日など休日は朝早くから日が暮れるまで終日の労働である。雨の日は草履を作っていた。それ故私など、勉強は嫌いでも学校に行っている間は働かなくていいので身体が楽で嬉しかった。この村で上層に属する人には塩田の地主、戦後まで旧地主、土建業者(戦前の翼賛衆議院)とごく限られた人々で、あとは「チョボチョボ」の生活をしている者ばかりであった。

 話はそれるが面白いことに、この村から高松中学(現高校)、丸亀中学(現高校)に進学する家の子供は決まっていた。「上層」に近い家である。私の本家は後者の「丸亀組」であった。すると本家は村で少し豊かな方に属していたのかも知れない。しかし、分家の私の家は少しばかりのみかん畑と普通の大きさの家屋であった。それと、家を建築中に祖父が死んでいるので資産の分割が不十分なまま独立しているのでみかん畑は少ない方であった。従って「チョボチョボ」の家より下の方であったかも知れない。

楽しめる共同行事はいかが

 それで話を祭事に戻すと、秋の祭事の他に我が一族郎党による、今で言う家族の慰安旅行があった。戦中では、岡山県の玉野市の三井造船に行き、中村メイ子が慰問で歌ったのを聞いた記憶がある。戦後では岡山に本部のある金光教へ遊びに行っている。近くでは今は陸続きになった瀬居島ヘの「島祭り」を見学に行っている。何れも20人前後乗れる地元の運搬船を借りてである。遠くへは一族の宗派である京都の西本願寺派・興正寺へお参りし、あのだら広い本堂で泊まっている。泊まったといってもゴザと毛布を借りて雑魚寝したので、季節は夏であったと思う。

 一体誰が計画し、主導したのかさっばり記憶にないので、私の小学生の高学年か中学1、2年の頃であろうか。この家族旅行は本家と分家、それに近い親戚が参加していた。同じく、みかん畑の共同作業(みかんの木の消毒、収穫時)を特に人手が要する時計画的に行っていた。又、春祝いも同じであった。瀬戸内の魚・鯖がとれる時になると、一族が寄って春祝いをする。この時は早朝より本家に集まり、うどん、豆腐、うすあげ、ちらし寿司、押し寿司を作り皆で食べるのである。私にとっては一年間で一番御馳走にありつける日であったが、酢の強い押し寿司をおいしいと感じたことはなかった。

 またまた話は飛躍するが、我々のネットワークも「道路」以外にイベントを伴ったものを模索し共同で楽しみも共感し運動ができないものかと思った。昔の私が経験したような共同体社会と様式を現在にあてはめることは不可能であることがわかっていても、以上が初春の感想である。

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