クロアチアヘの短い旅
戦禍の傷痕も生々しいドブログニクの街
芦屋市 藤井新造
ある冊子に映画『サラエボの花』についての批評文を書いた。その時、旧ユーゴスラビア連邦共和国(以下「ユーゴ」と言う)についての知識は少なく、間に合わせで何冊かの本を読んだが、当然生半可な理解で終わった。
今までのユーゴについて、私の知識と言えば、チトー大統領がスターリンのソビエト衛星国支配体制から距離をおき、1950年代後半より、第二の道として「非同盟政策」を標榜し、彼が中心となり、インドのネール首相、エジプトのナセル大統領と会合を重ね、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをまきこみ、世界平和を目指して動いていた時くらいである。
そして当時私は、漠然とある種の期待、アメリカ、ソビエトの世界支配体制を上記の発展途上国の発言により、もしかしたら歴史は違ったいい方向に行くかもしれないとみていた。しかし「非同盟政策」の進展もナセル大統領の急死で頓挫してしまった。それ以後、1989年ベルリンの壁の崩壊をはじめとし、ソビエト体制も同じ運命をたどり亡くなり、それに連動するかの如く、ユーゴも北から1990年にスロヴエニア、クロアチア、そして1992年にボスニア・ヘルッエゴビナと独立国家を宣言し、ユーゴ連邦共和国は事実上解体した。
その後、知られるようにコソボの独立をめぐり7年間の不幸な内戦が続き、1995年NATOが軍事力を行使し一応の平定に至っている。このこと――なぜ内戦が勃発したのかについて、新聞、雑誌の類を読んでもわからず、深く立ち入って考えることもしなかった。遠い国の出来事と思っていた。しかし映画を観て、上述したように泥縄式の読書をした。それでわずかの知識を得たが、主人公のエスマが内戦中にセルビア人にレイプされトラウマ(心的外傷後遺症)に苦しみ、何回も癒しの場《セラピー》に行く場面があったが、そのことについての理解と言うか、彼女のつらい体験に思いをはせるのが不十分なままに終わっていた。このことが、あとあとまで自分の心のなかで後味の悪さとして残っていた。
そこで今回、ユーゴで最初に分離独立したクロアチア、スロベニア、主としてクロアチアヘ行くことにした。コソボヘ行くことが困難であれど、周辺や両国へは観光客として訪れる人が増えていると聞き、直接その国を実体験すれば、少しぐらい映画の背景の雰囲気位を味わえると想像したからである。又、何年か前にイタリアのヴェネツィアヘ行った時、僅かの距離をへだてたアドリア海の向こうにユ一ゴがあることを知り、何時か訪れてみようと考えていた。クロアチアの首都ザグレブは、この国の北部に位置している。この首都への飛行機の直行便はない。今回はトルコ航空に乗り、イスタンブール経由になった。そしていったんイスタンブールで降り、トルコ国内に入り、ここで半日観光をすることができた。
金角湾に浮かぶグラダ橋との短い再会――イスタンブールにて
後でわかるがザグレブの空港は大阪空港位の規模であり、国際空港としては小さく見えた。多分直行便はまだまだ先のようだ。
それはともかくとして、イスタンブールの観光は、例え半日観光と言えどもクロアチアヘの旅行の楽しみを倍加させるものであった。
一昨年の春、トルコへの格安ツアーでここで二日間滞在し、バザールの見学、ボスポラス海峡クルーズの体験を楽しんだのを、今回も半日でありながら再現できるからである。特に海辺で育った私は、ボスポラス海峡を見ることができるのを何よりも楽しみにしていた。
あの時、金角湾にかかる新・旧市街地を結ぶガラダ橋を人に押されるように歩いた。海峡の周辺は歩行者あり、釣をしている人、クルーズを楽しんでいる人々で、何万人とも言える人種の違った人間がうごめいていた。ガラダ橋は二階建になっており、下は歩行者専用で、何千人もの観光客、土地の人が往き来している。釣りをしている人はとれた小魚を二階の店で料理して食べさしてくれる所もあると言う。
そして二階では、釣りをしている人、下道を往来する人、クルーズ船を眺めながら飲食して陽気な笑い声を出している群ばかりである。私は前回と同じく今回もこの橋の上を歩きたかったが、時間がなく、有名なトプカプ宮殿と旧市街の見学だけで終わった。残念ながらボスポラス海峡との短い時間の再会で終わった。ここで半日余の時間を費やし飛行機にてクロアチアの国に入る。
クロアチアの人口は約400万人、日本の本州の広さ位と聞いていたが、ここも南の方は岩山が多く、平野の面積は少ないように見えた。しかし、北から南東にかけて長い海岸線はアドリア海に面し、北西はイタリアに近く、ロ一マ帝国の侵入、そしてベネチアに占拠された時代もあった。従ってザダールの街にはロマネスク様式では、ヨーロッパ最大の教会があり、有名なドヴロヴニクには同じくロマネスク様式の中世の回廊が残っている。
アドリア海の穏やかな潮風と暖かそうな気温のせいで、夏には欧州、ロシアから今ではチェコ、ハンガリーからもバカンスの地として多くの外国人が訪れ宿泊するという。気をつけて見ていると、海岸線に点在する主要な都市でホテルらしき建物の建築中があっちこっちで見えた。内戦後10余年のなかEUにも加盟し、観光客を積極的に受け入れる体制を作り、なかでも日本に対しては親和的な関係を保っているらしい。
そのせいか、安心して国内旅行ができた。一口で言えば置き引き、スリによる盗難がないことだ。私はどこのホテルに泊まっても近くのスーパーに行くことにしている。スーパーでどんな品物が揃っているのか、特に果実類に興味があるからである。ここでも果実はどれをみても、日本より大振りであるが、値段は以外と安い。時間をかけて物色することができた。
話をもとに戻すと、先に日本について親和的と言ったのは、この国が日本の教育制度を視察に来て、日本の義務教育を参考にして内戦後に作ったからである。
大学の入学については比較的やさしく、入学してから毎年の進級試験がきびしいと言っていた。従って留年する学生も多いそうだ。
多くの都市で、大人の喫煙が少ないのに比し、街頭で高校生位の学生が男女を問わずタバコを吸っているのをよく見かけた。喫煙についてとかく言う資格のない私であるが、どうみても多すぎはしまいかと思える。それをガイドに聞くと、生徒の学校外の言動については親の責任であり、学校は関与しない、と言っていた。
だから日本のように生徒が校外で何か問題を起こした時、学校の責任者(教頭、校長)が謝罪している姿(テレビの前などで)が不思議に思えるらしい。個人責任と、そうでないものの区分が徹底している感じである。
破壊された建物の銘板に心がうずく
次に、この国の東南地方の都市は内戦により多くの家屋が破壊された。観光地で有名なドブロヴニクの街も例外なく壊されたが復興が著しく、それもスパニッシュ風のカラーの屋根と白壁の新しい建物が多いのは驚いた。このことについては、建築物だけでなく消費材全般について購入した価格の半分は個人に還元されるので、物が買いやすいという。それでか、青空マーケットの果物、野菜類は別だが、小さい店で売っているバン類など飲食物が高い。例えば、昼食にサンドイッチ類など軽食ですませようとしても高いので買う気がしなくなったこともあった。
ドブロヴニクの旧市街地は要塞の街として中世の面影を残しているが、入口の左側の壁には、迫撃砲を撃ち込まれ破壊された家が黒い点で銘板に明示されている。内戦によりどの家が壊されたか一目でわかるようにしている。これを見ると、この小さい旧市街地でも多くの建物が被害をうけたことがわかる。その傷痕を忘れないよう、人々の記憶にとどめようとしている証しとして何時までも残るのであろうか。それとこの街のすぐ北側の裾から上に標高300m位のスルジ山を仰ぎみることができる。下から見ると、山頂ヘケーブルらしきものがあったように見える。中腹にはその支柱らしきものがあるだけで、たしかにそれとはわからない。このスルジ山へは一時間もあれば登れると聞いたので、行くことにした。すると坂道の途中に地雷で亡くなった人の十字架が道々に建っていた。又、山頂ではケーブルカーの降車場のセメントで固めた土台と、建物の立ち上げの部分を残したのみで、黒ずんだまま残っている。そして、その周辺ではきれいな黄色い花の野草が可憐に咲いていた。山頂より眼下に見えるアドリア海の紺碧の海の色とドブロヴニクの旧市街地が鮮やかに絵模様のように美しく見える。上述したように10年前に内戦により、この市街地が迫撃砲により砲弾が撃ち込まれ、多くの家屋がなくなったと想像できない程の美しい景色なのだ。
さて、この国に来てはじめて私は映画『コソボの花』の背景が少し理解できた。旧ユーゴが多民族多宗教の国であること、その一つの例としてドブロヴニクからコトルの街に行く途中、海に浮かぶ小さい島(周囲200m位か)にも、カソリック教会、セルビア教会の建物、ユダヤ教のモスクがあり、宗教上に於いても複雑な国家であることがわかる。
そしてクロアチアの国の海岸線の一部9kmにわたりボスニア・ヘルッエゴビナの領土があり、国境でパスポートの検閲があった。
何回も書くが、内戦が終わって10年余しか経っていない現在、この国の人々の心の中で「戦争」と言う「悪」の行為にともないその残酷さが今もトラウマとして残っており、子供たちの明るい顔に比し大人たちの表情は心なしか暗いように思えた。